1905年11月23日ー志賀重昴、粟国島来着→著1909年『大役小志』
1906年3月5日ー菊池幽芳、粟国島に来着/10月ー『地学雑誌』第18年第214号□脇水鉄五郎「沖縄視察談・粟国」

粟国に来島した志賀重昂
1905年11月23日ー午前3時、運輸丸、久米島発▼6時、珊瑚礁の激浪を琉球形小船にて乗り切り、渡名喜島上陸(略)10時半、粟国島著、上陸、粟国は渡名喜島を距る15浬、面積半方里、磽确たる一珊瑚島、而かも戸数8百余、人口5千余、食糧に欠乏するを以て蘇鉄を食ひ、婦女は那覇、首里に下女奉公をなし、男子は琉球本島及び布哇等に移住する者多く、鱶ノ鰭、烏賊、鰹を輸出す▼夕、那覇港着、上陸。→近代デジタルライブラリー - 大役小志

 志賀重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年12月25日) - 昭和2年(1927年)4月6日)は、日本の地理学者、評論家、教育者、衆議院議員。誕生日は9月15日(1863年10月27日)ともいう。矧川(しんせん)・矧川漁長を号した。明治38年(1905年)、東京地学協会主幹・大日本水産会幹事の資格で、樺太を視察した。また、海防艦「松江」で沖縄列島を巡回した。翌年、南樺太領有に関しアレクサンドロフスク・サハリンスキーで開かれた日露委員会に出席し、約半年、同島の測量・伐採・撮影をした。→ウィキペディア

 
 
志賀重昂関係資料

1905年11月13日『琉球新報』「志賀重昂氏と本県」
1905年11月15日『琉球新報』「尚家の晩餐会」「講演会」
1905年11月19日『琉球新報』「松江丸乗込員の歓迎会」
1905年11月25日『琉球新報』笑古(眞境名安興)「久米島通信ー志賀矧川氏の來島」 
1905年11月29日『琉球新報』「志賀・中川氏講演会」
1906年2月11日『琉球新報』「県外名士の沖縄観(大阪毎日新聞「大東島」転載)」
1908年9月15日『琉球新報』「志賀重昂氏の書簡」
1909年4月13日『琉球新報』「沖縄青年会二十年記念会ー志賀講演「琉球の発達」」
1911年2月28日『沖縄毎日新聞』志賀 川「琉球建築及史料保存の必要」
1925年4月14日『琉球新報』「志賀重昂氏宅に『中山門』の扁額」
1926年5月20日『沖縄朝日新聞』「除幕式を終えて」

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1926年5月2日ーベッテルハイム記念碑(ベッテルハイム師が歴訪した10カ国の石をちりばめた記念碑)除幕式。右端上が島袋源一郎□ベッテルハイム記念碑除幕式は午後3時より波上護国寺境内に於いて挙行。来賓は亀井知事、佐伯裁判所長、志賀重昴、羽田内務部長、岸本那覇市長、知花朝章、里見学務部長、金城那覇市会議長ら。司会者は伊東平次、聖書朗読は佐久原好伝、祈祷が芹澤浩、除幕が知花朝章、建碑之辞、決算報告がイー・アール・ブル、讃美歌は合唱隊、祝祷が神山本淳。記念写真は久志写真館。

1898年、那覇区泉崎の豊盛書林と、西の三笑書店には沖縄県尋常小学校読本も販売しているが、一般書も扱っている。世界年鑑、中等東洋史、中等日本歴史、算術新教科書、新撰算術、新式速記術、新撰日本外史、通俗世界歴史、世界文明史、詠歌自在、詠歌辞典などがある。
同時期の『琉球新報』には一般書や印刷物の広告が載っている。今でいう通信販売である。大阪の芳文館写真部「奇形嬌態裸体美人写真」、大阪の明文社の「画入男女たのしみ草紙」などである。学生向けの通信教育に東京学館の「自宅独習生徒募集」や帝国中学協会「諸学講義録」があるが、どちらも英学、国語学、心理学、論理学、教育学、算術、詩文学、幾何学、三角法、簿記学、代数学、化学、速記学などで内容は共通している。相前後して「ライオンはみがき」、「鳥井合名会社」の広告も目立つ。

1900年、村田弥三郎が、那覇警察署前で東京各新聞の取次ぎを始めている。博愛堂(小沢朝蔵)も新聞広告に近事画報社の「戦時画報臨時増刊号・日本海大海戦紀念帖」を載せ売り出しを図っている。近事画報社は1901年の『琉球新報』に広告「通俗小説文庫ー毎月1冊刊行」を載せている。並んで、東京日本橋の三越呉服店や「中将湯」の広告もある。

1902年の『琉球新報』の広告に京都の島津製作所の「博物地理歴史標本」がある。04年の広告には太田胃散、浅田飴、今治水なども出てくる。07年には十合呉服店(大阪・神戸・京都)、アサヒ、サッポロ、エビスビールの広告も目立つようになる。08年の広告に「実業之日本」、1911年の広告には博文館の常用日記や、「女学世界」、冨山房の「新日本」がある。那覇の円山勉強店の「キリンビール」売り出し広告もある。

1915年6月    「不勉強屋」支那そばを琉球そばと表示(和田那覇暑長が指示)

1920年10月16日-新里有一郎「井筒屋」(琉球そば)開業

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1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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写真ー新城三郎の父・蒲と母カマ(抱いているのは新城栄徳、二人にとって初孫である。)

1927年11月

1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業

1934年1月ー新城三郎、那覇市辻町(御願の坂)國吉料理店で板場修行。同年の粟国出身の調理士は、四つ竹の新里。みはらしの玉寄松。玉川の仲間、一味亭の新城、仲里、山城、新城。京ヤの又吉。國吉料理店は与那  風月ロの糸洲、仲里、新里。三杉ロの福本。幸楽の安里、新川幸栄。美崎の玉寄米吉、赤嶺、玉寄三郎。花咲の上原保一、新里次郎、上原健夫。木村屋の安里善徳。ならはら館の上原。宝来館の新城。山本は浦崎。川津館の新城。モリタ館の与那城。
業者ー万人ヤの仲里。朝日ヤの神里。三角ヤの吉元。みかさヤの与儀。井筒ヤの新里。一味ヤの新城。福力ヤの神里。公園入口の金城。朝日橋前の新城。松田橋前の新城。安里松竹の糸洲。

宝来館の新城

1935年8月『関西沖縄興信名鑑』ー東淀川区之部 安里善盛(大戦前に那覇に引き揚げ食堂経営、戦争で一家全滅)、仁祥、善太郎(のち安村書店主)、勇祥(のちレストランアサヒ経営)
1936年10月2日ー沖縄県知事正五位勲四等・蔵重久「粟国村字東9490番地の新城蒲(50)、8月1日午後9時に那覇市北明治橋右海岸に於いて那覇市垣花町1の88平良カメ(31)が溺死せんとするを救助したるは殊勝なりよって金1封を贈りこれを賞す」
1939年4月5日ー安里幸一郎、粟国村字東で生まれる。父・宗幸、母チヨ(イザニサ大ヤー)

1946年から47年まで戦地や他府県からシマンチュが引き揚げてきて粟国島の我が家の周囲は賑やかになった。しかし生活は貧しく心を癒すものを求めた。その一つが村芝居であった。やがて我が家の隣に茅葺のクラブが建てられ伊江島ハンドーグァーや大新城親方などの芝居が旧正月に演じられた。伯父・玉寄貞夫は初期のころからの中心的に芝居活動をやってきた。1956年、玉寄貞夫の従兄弟・安村善太郎、勇祥兄弟の多額の寄付でクラブを鉄筋コンクリート建てにする(写真・左)。
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1948年ーガーブ橋前に「大洋食堂」(勢理客(町田)定正)

1949年
安里大通りに「丸屋食堂」そば・すし・めし(久場景善)。7月ーホテル新風荘(崎原マサ)民政府構内に開業。8月ー料亭「喜仙」(仲本盛智)。9月ー料亭「幸楽」、安里に「丸久食堂」(久高将金)。11月ー真和志に食堂「ゆたかや」(西銘政弘)、那覇市場前に「木村屋食堂」

1950年
国際劇場前に「みなと屋」(豊見山義康)、2月ー元国際食堂跡に「井筒屋」、7月ー那覇料理屋組合が毎月第二日曜を公休とする、「一富士」みつ豆・冷し西瓜(当真嗣正)、9月ー那覇区に井筒屋新装開店、神里原に大衆食堂「三角屋」そば・すし(渡口トミ)

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写真・沖縄調理師会ー前列右から安里信祐(現・伊勢海老料理「味の店三郎」店主)、新城三郎、左端に玉寄米吉
1950年ー沖縄と奄美出身者で調理師会「沖美会」結成。中村喜代治、新城三郎、玉寄博昭、福永平四郎、赤崎一成、又吉太郎らが参加□奄美が日本復帰する1953年に「沖縄調理師会」と改称。

1951年
1月ー那覇料理組合・花咲、喜仙、花園、南海、清風荘、清風、松屋、美園、那覇、香那恵、皆美亭、若梅、幸楽、田鶴、三原、新栄亭、新風荘、オール倶楽部、ほがらか亭、やよい、よつ竹、若杉、玉家、八千代、有楽、松竹、だるま亭、よかろう、左馬、若藤、春芳、一心亭、一廣、ときわ、松の家、美杉、一楽、やすらか、栄亭、よし乃、新月亭、大楽。糸満町にみなとや飲食店(新城野枝)。安村勇祥(新城三郎従兄弟)、平和通りで「かき氷屋」開店。□→「レストランアサヒ」/1986年2月ー安村勇祥『想いでの記』。
7月ー那覇市10区に琉球料理「玉川屋」うなぎ蒲焼。10月ー料亭那覇がうなぎ料理、12月ー神里原に食堂「美松」手打そば。
1951年             『球陽新報』「沖縄そばの味自慢ー宮里政栄(大阪西成区鶴見橋)」

1952年
5月ー神里原に「龍凰閣」「台北楼」、「レストランアサヒ」

1955年5月ー安里幸一郎、オジ玉寄松のいる料亭松乃下に見習いとして住み込む。

1956年2月ー粟国島で「親子ラジオ」譲渡式/4月ー末吉保朝(粟国中学校教諭)、文部省派遣で大阪市文の里中学校へ/1959年2月ー『オキナワグラフ』「発足した沖縄唯一の事務機のデーパト合資会社・沖縄事務機社(新里有四郎社長)」/5月ー宜野湾市大山で雑貨商「ジミーグロセリー」開業□→2006年8月『Jimmy’s 50th Anniversary 1956~2006』株式会社ジミー/6月8日ー『琉球新報』「粟国村のソテツは村の守り神」。



1959年2月ー新城三郎、[食堂]経営をイトマンのノリーおばさんから譲られる。
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1960年              川崎お大師様の近所で伊礼松子が「沖縄ソバ」「三月菓子」を自家製造販売
5月8日ー粟国郷友会創立総会(那覇市栄町豊福亭)初代会長に安村勇祥、副会長・與那誠正、玉寄誠一、伊佐傳一
6月ー安里幸一郎、東京新宿の割烹旅館白鷹で調理修行。                    

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字東の我が家(ニーブーヤー)の周辺、左上がブートゥー大ヤー/粟国島

我が家(ニーブーヤー)の通り
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ブートゥー大ヤー/私(新城栄徳)は4、5歳の頃、この家によく出入りし主人の安里蒲翁から蓄音機で意味不明な琉球古典音楽を聞かされたり、床の間の中国の「福神」の軸絵を描いている現場に居合わせた。また、祝い事で御馳走の「三枚肉」を腹いっぱい食べたら脂に酔ってしまった。それ以来、三枚肉は脂をのけて食べるようになった。

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安里蒲1986年2月ー安村勇祥『想い出の記』「父(安里蒲)は、若いころ那覇港のワタンジ前で燃料の薪を商っていた。商売も順調に行き、生活は粟国村では上の部に属していたといえよう。父が那覇で商売をしている関係で、村には長男の善盛兄の家族3名と祖母と私(勇祥)と妹のトシが残っていた。」



1967年2月『沖縄タイムス』「ふるさとの顔 粟国村」
                                                                               
1986年1月『オキナワグラフ』「現代の名工 安里幸一郎さん」                                                              
2012年6月 粟国郷友会『創立50周年 記念植樹・石碑建立』






新城栄徳「ふるさと粟国の温故知新」
1983年、母の兄・玉寄貞夫が仲里秀雄元粟国村長と『粟国民謡集』を出すというので編集協力した。早速、アポなしで玉寄伯父と同行し琉球民謡協会名誉会長の川平朝申氏を訪ね、その場で序文を書いてもらった。民謡集の編集過程で郷友会関係の料理屋、琉球音楽、舞踊研究所などを訪ねた。伯父が郷友会活動に熱心だということが分かった。




1992年、粟国郷友会から『三十周年記念誌』に何か書けと言われたので「歴史の一コマ」を書き、中で1905年に粟国島に来た志賀重斯昴、06年に来た菊池幽芳の紀行文を引用し当時の粟国島にふれた。また1910年代の『琉球新報』が那覇に流入している粟国人を面白おかしく偏見を煽る記事も紹介した。

1920年代、そういった偏見にもめげず、大手の料理屋に粟国人の料理長が増え、井筒屋、三角屋、万人屋など粟国人の経営者も増えた。渡地で安里蒲(ブートゥ大ヤー)が燃料の薪などを商っていた。商売も順調で琉球古典音楽も嗜んで、粟国人としては出世頭である。その薪をヤンバルから運んだ一人に安里蒲の義兄弟の新城蒲(ニーブーヤー)が居た。蒲はヤンバル船船頭で那覇から日用品などを運び、ヤンバルで薪、材木などを那覇に運んでいた。蒲が暴風で奄美に流され不在のとき息子・三郎は1922年に三重城近くで生まれている。程なく新城一家は粟国島に引揚げた。三郎は粟国で小学校を終えると那覇辻町の國吉料理店で板場修行を始めた。34年のことである。同時期に三郎の従兄弟で安里蒲の息子・善太郎、勇祥兄弟は大阪で働いていた。

写真左上から玉寄貞夫、4人目が新城三郎/下左から3人目が安村勇祥、善太郎兄弟

2003年、東京の日外アソシエーツが発行する『沖縄を深く知る事典』に私は「沖縄の雑誌(青い海)に見る『自意識』」、「ヤマト風のスタイルへのなじみ方ー系列化」を書き、後のほうで粟国の先祖のことにふれた。
鉄の暴風と言われた沖縄戦を経て、戦後(今も続いているが)。1950年、沖縄と奄美出身者で調理師会「沖美会」を結成。玉寄博昭、新城三郎、福永平四郎、赤崎一成、又吉太郎らが参加した。この前後に大阪から安村善太郎、勇祥兄弟が引揚げてきて、今の平和通に「安村書店」「レストランアサヒ」を開業した。奄美が日本復帰すると調理師会は「沖縄調理師会」と改称する。調理師会は粟国郷友会の様相を呈していた。
1955年、安里幸一郎が伯父・玉寄松の居る料亭「松乃下」に調理師見習として住込みこんでいる。60年5月、那覇栄町豊福亭で粟国郷友会創立総会が開かれ、会長に安村勇祥が選出された。副会長は与那誠正、玉寄誠一、伊佐伝一の諸氏であった。65年の5代会長に安村善太郎が選出された。
私達のころの粟国島は電気もガスも無い静かな「離島」であった。今はクルマもテレビもあり那覇と変わらない。「離島」性は少しも変わらない。






2001年に『いにしえを偲ぶ・むんじゅる節』の編集に協力し、沖縄を代表する芸能研究家の當間一郎、宜保栄治郎、仲宗根幸市の諸氏に原稿依頼し書いてもらった。私自身エッセーを書き、粟国、那覇、大阪での琉球芸能、民謡、レコードにふれた。
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むんじゅるーを踊る新城あけみ(右)

 島袋源一郎の弟子にあたる林清国(郷土史研究家)は源一郎の指示で「按司系図」を参考に郷土史研究を進めてきた。島袋慶福翁は仲田朝好所蔵の「按司系図」を見て曹姓家譜には無い神世時代の先祖の研究を進めていた。もちろん「必要の分だけ写し取る、疑義の点数多くあれど之により研究を進めて見る」としている。□天帝子ー阿摩彌久・志仁礼久ー天孫氏王ー後裔大里思金松兼王命天孫氏ー4男 西原王子ー恵祖世主ー英祖王ー湧川王子ー湧川按司ー長男 今帰仁按司ー長男 今帰仁城主ー今帰仁城主ー仲宗根若按司ー長男 今帰仁子ー8男 伊覇按司ー3男 玉城世主(先玉城按司の跡をつぐ)ー。家譜ら伝承では以下の通りである。

曹氏・浦添筑登之慶白ー 古波倉筑登之親雲上慶京ー 瀬底親雲上慶均ー平敷親雲上慶隆ー粟国島・島袋ー糸洲三良ーカンジャーヤーー○ー糸洲ー新城樽ー蒲ー三郎-栄徳ー江

粟国島ー糸洲(イシンチジ)のトートーメー/新城家(ニーブー)のトートーメー
□同門の島袋慶輔氏と同行し、港川人を発見した大山盛保氏の事務所を訪ねたことがある。→2007年11月ー沖縄県立博物館新館開館記念展「人類の旅ー港川人の来た道」

母方の玉寄は

粟国島ー母方のトートーメー
護佐丸・・・・・粟国・ヤッチー大ヤー玉寄ー玉寄ー玉寄蒲ー玉寄加那ー玉寄松ー敏子ー新城栄徳

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1940年10月 『國民精神文化』第六巻第十號 河村只雄「粟國・渡名喜紀行」
〇粟国・・・私が見た門中墓も相当大きなものであった。「シルヒラシ」のところには洗骨前の棺が既に6つも並べてあった。ことに極めて最近入れられたといふ棺がある為であらう。夥しい蠅がウヨウヨして居た。私はつくづく琉球に於ける洗骨廃止の急務を痛感せずには居られなかった。/洗骨の問題・・・私はかうした洗骨の風習は早急に改廃すべきものであると思ふが、何でもかんでも「琉球のもの」といふならばあこがれをもつ一部の琉球文化の研究家の中にはこの洗骨を賛美してそれの保存を主張するのもがある。



粟国の墓/内部

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→(おきぐる)


イトマンのノリーおばさんの仏壇