2019年3月 『沖縄県史 図説編 前近代』沖縄県教育委員会

 〇図説(図・写真などを掲げて説明すること)、図録(図や写真を主とした記録)

 わたしは関西(京都・大阪)に1969年から住み付いて50年、今は息子が住みついている。古典文学は大体が関西が舞台、『国語要覧』とか『図説国語』は愛読し眺めている。教科書(文部省検定)会社が発行しているのであくまで参考である。


2003年7月26日 『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー 書の森 人の網ー図録で見えてくる琉球美術史」




琉球の絵師・慎克凞と阿嘉宗教
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左、1990年7月18日『沖縄タイムス』/右、1988年7月4日『琉球新報』
 1875年(明治8)年に来琉した河原田盛美の『琉球紀行』に「写真は既に垣田孫太郎なるもの創めたれとも之を内地に輸送せさるは亦全き利を得るに至らさるなり」とあり、垣田という鹿児島商人の手によって沖縄での写真屋は始められたが短命であったようだ。79年3月25日、琉球処分官・松田道之、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部、巡査160人余、熊本鎮台分遣隊400人来琉。島袋盛敏が「私の家は当蔵町のアダニガーお岳の下にあったが、仲宗根嶂山家も名護から引き上げてお岳の傍らに来た。私の隣人になっていたのである。そうして嶂山翁の長男真吉君と私は大の仲良しになり、毎日行ったり来たりして遊んだものだ。嶂山翁は初め沖縄県庁の役人や分遣隊の士官達の求めに応じて、絵を売り生活しておられたとのことであるがその需要がなくなったので、名護の教員になられたのであろう。しかし教員も長く続かず再びアダニガーお岳の傍らに落ちつかれたものと見える」と述べているように、当時の画家の友寄喜恒、阿嘉宗教、佐渡山安豊、麻有信・儀間親雲上、兼城昌興、比嘉華山などは沖縄県庁や分遣隊の士官達の求めに応じて首里城や沖縄風俗絵を描いていたようだ。
 笑古漫筆には琉球美術史の史料も豊富である。私は置県後の画家、阿嘉宗教を見出して子孫を訪ねた。作品の「首里那覇鳥瞰図」も沖縄県立博物館、沖縄県立図書館、那覇市史編集室に所蔵されていることを確認した。同時期の画家、友寄喜恒の逸話も豊富である。(略)琉歌人として柳月庵、漢詩人・郷土研究家としての笑古の真境名安興を、伊波普猷は1924年刊行の『琉球史料目録』で「真境名安興氏は図書館開館当時から今日に至るまで、多大な貢献をされたばかりでなく、今その目録の公刊に当たり、序文を物して史料蒐集の経緯を審にされた。特に記してその労を謝する。(真境名安興)氏の名は恐らく郷土研究の続くかぎり記憶されるであろう」と記している。


1991年5月ー『山学校』№1□新城栄徳「絵図資料と首里城」
精細を極めたる『首里城正殿実施設計報告書』という資料があって、その中に「絵図資料」があるので、巷の沈潜したる首里城正殿の色彩、いわゆる「赤黒論争」と、大龍柱の「正面向き」、「向き合う」とかの論争を横目で見ながら思いつくまま述べてみよう。
 絵図資料の頁の左側「首里那覇港図」は、19世紀に描かれたもので、正殿、南殿、北殿、奉神門の屋根が連なって簡略化されている。正殿前の画廉と向拝部分は割と丁寧に描かれ大龍柱は向き合っている。右側の「首里那覇鳥瞰図」と「琉球王府首里那覇之図」の作者は同一人物で阿嘉宗教と言って友寄喜恒と同時代の画人である。


1879年2月 渡邊重綱『琉球漫録』小笠原美治
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写真ー渡邊重綱




1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図会』東陽堂
『風俗画報』は1889年に創刊された。出版元の東陽堂は1876年、東京日本橋で吾妻健三郎によって創業された。後に吾妻と同郷(山形米澤)の縁で渡部乙羽が入社する。乙羽は後に出版社博文館の婿に入るまで『風俗画報』に健筆を揮った。1889年には沖縄県七等属の石沢兵吾が東陽堂から『琉球漆器考』を刊行した。