2月10日は、1963年(S.38)年、アジアアフリカ連帯会義で4・28沖縄デーが決議された記念日。27度線での海上大会もスタート。以来、57年。変わらぬ軍事基地の島。戦後70年を経て、そのリニューアル再編整備が強行され永久基地化が図られている。その4・28を日本独立の日として祝ったのが歴史オンチのアベだった。
しかし、世界は忘れてはないし、見ている。アメリカンファーストのトランプ、日米安保第一のアベ立憲主義、人権を知らない、金権第一の最悪コンビ会談次第で、日本は世界の笑いものになる。(T)


1944年10月10日「十・十空襲ー那覇の崩壊」アメリカ軍は、南西諸島全域に大空襲を敢行した。10・10空襲と呼ばれるこの空襲によって那覇市は一挙に炎上し壊滅した。空襲は10日の午前7時の第一次から午後3時45分までの第五次まで延べ9百機におよぶ大規模なものであった。第二次の那覇港攻撃に続いて正午をはさんでの第三次攻撃で垣花町が炎上し、第四次攻撃は那覇市街地に集中し、第五次は全機をあげて那覇攻撃に終始した。低空銃爆撃とともに、多数の焼夷弾を投下したため、市内各所に火災が生じ、それが翌朝まで燃えつづけ、全市域の90%が消失した。

罹災戸数は、15、648戸中11、440戸に及んだ。とくに西本町592戸、貸座敷689戸で、上之蔵町602戸、東町552戸、旭町275戸、久茂地町903戸で全焼、西新町は1、146戸のうち1,130戸が焼失、天妃町は371戸のうち370戸が焼失した。また軍民あわせて150隻の船舶が沈み、また交通機関の破壊をはじめ軍需物資、民需物資の被害は大きかった。住民の死傷者は、死者330、負傷者455であった。この空襲によって那覇市庁舎は焼失し、重要書類もことごとく灰となった。→『写真集・那覇百年のあゆみ』

2014年9月6日~10月29日 那覇市歴史博物館「那覇のまつりと10・10空襲」

「10・10空襲罹災地図」 赤色が被災した範囲

null







大濱 聡2019年12月11日ー■(記録用に)1944年12月11日、南風原村神里で弾薬を輸送中の列車が爆発、兵士や通学中の生徒ら200余人が死傷。
40年前、事故の真相を追う川端光善氏(地方公務員)を知り、目撃者や列車の運転士、乗車していた女生徒(一般人は乗車できなくなっていたが、生徒は黙認されていた)、遺体処理に当たった初年衛生兵などを探し当て番組を制作、スクープとして放送した。
■事故は、南部防衛に当たっていた武部隊が台湾防衛にまわされたため、中部から山部隊が移動中に起こった。当時は秘密裡に処理され、戦後も沖縄の戦史や本などにはほとんど書かれてなかった。事故を記録した唯一のものとして防衛庁史料を探し当てたが、それにはこう記されていた。
■「山兵団は列車輸送中、兵器、爆弾を爆発せしめ、莫大なる消耗をきたせり。10・10空襲により受ける被害に比較にならざる膨大なる被害にして、国軍創設以来初めての不祥事なり。これにより当軍の戦力が半減せりというも過言ならず」米軍の沖縄攻撃近しの情勢の中で、軍の焦りが見てとれる。


2019年11月17日『琉球新報』「石川和男さん」〇首里城炎上の当日は午前3時頃から7時頃まで、ウチの屋上から見ていました。直線距離約500メートルで崩れ落ちる「むむんだしーうどぅん」を眺めていましたが沖縄戦を連想しました。



1945年3月26日 アメリカ軍、慶良間諸島に上陸開始(~28)/島民の「集団自決」あいつぐ
1945年4月1日 アメリカ軍、北谷村嘉手納の渡具知浜に上陸
1945年4月2日 読谷村チビチリガマで住民の「集団自決」おこる。村内数ヶ所でもあいつぐ
1945年4月5日 アメリカ海軍、読谷山村比謝に軍政府樹立。布告代号を発令
1945年4月13日 『台湾新報』「敵米の陣営に蠢くB29の元凶カーチス・ルメー」
1945年4月16日 アメリカ軍、伊江島に上陸。ついで本部半島制圧(~18)
1945年4月22日 『週刊朝日』大仏次郎「沖縄決戦を直視して」

 「座談会ー今だから話そう/逃げようとした牛島中将」□宮城嗣吉(琉球映画協会会長)ー沖縄戦だが、私はみんなが見る沖縄戦とは見方がちがう。とにかく真相はヤミだ。というのは、沖縄の進駐当時まず慰安所の経営から手をかけた。軍規が乱れていた証拠だねあれは。日本人は我々が小さなとき、武士道とは”死ぬ事と見つけたり″と教え、兵隊では”忠君愛国"などをたたきこみ、組織的に訓練された軍隊だった。ところがどうだ。首里を中心として玉砕すべきだったものが、新垣、安謝から安里へ逃げたうえに陥落寸前に、撃てる銃を破壊したんだったな。陸軍は卑怯だったな。海軍はあんた、7,800名から一割しか生きていない。つかえる銃があるならば、最後まで闘うべきではなかったか、と思うね(略)何はともあれ、牛島中将、長参謀も卑怯だよ。住民が逃げかくれて安全だと思っている壕を占領しようとして、住民を壕から追い出したのだからね。→1963年8月『月刊沖縄』

○屋嘉捕虜収容所。日本人、沖縄人、朝鮮人、将校の4部隊に分けられる。沖縄人部隊の本部付になる。スヤーサブローとよばれ後に沖映社長となった宮城嗣吉と同室になる。日本人部隊のやくざ崩れが沖縄人部隊をいじめたので、そのボスを宮城が組み伏せた。捕虜収容所長は旧日本軍の上等兵。米軍上陸後、いち早く捕虜になった米兵気に入りの兵隊たち。→2006年 外間守善著『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』

null
null
null
null
1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
 参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店


1990年6月 浜松昭『沖縄戦こぼれ話』月刊沖縄社○歴史に『もしも』は禁句ですが、沖縄戦の始まる前年の昭和19年11月に、二個師団に匹敵する第三二軍の最精鋭だった第九師団(武部隊)が台湾に移動しなけば、沖縄戦の様相はずいぶん変わったものになっていただろう、とはよくいわれる話です。虎の子の師団を引き抜かれた第三二軍は、海岸地帯での決戦方針から、米軍を内陸に引きずり込んでの持久戦に作戦を変更したからです。第三二軍司令部が南部に撤退せず首里で全滅していたら、住民にあれほどの犠牲を強いずにすんだはずだ、という反省から考えると、武部隊がもし沖縄戦に参加していたら、戦闘は一カ月は延び、県民はもっと悲惨な結果に遭遇していただろうと、今では考えられるようになりました。○朝鮮から徴用されて来た女性たちの『花代』ー十・十空襲の前、三二軍は各部隊に慰安所をつくる手配をした。そこに連れられて来たのは、当時『朝鮮ピー』と呼ばれた独身の60名であった。佐久田繁ー沖縄戦の写真、あなたでも買えます/琉球文化社の大城精徳君によると、『金さえ出せば、ペンタゴンでは誰でも買えるんだ』というのである。そして大城君が注文した写真が二か月後に、ペンタゴンから郵送されてきた。その写真をもとに私は、1977年8月『日本最後の戦い・沖縄戦記録写真集』を出版、沖縄三越で写真展もやった。

1995年6月 金城重明『「集団自決」を心に刻んで』高文研○沖縄戦の悲劇の象徴というべき「集団自決」は、明治以来の国家がほどこした皇民化教育を抜きにしては、その真相を把握することはできません。
金城重明(きんじょう・しげあき) 1929年、沖縄県渡嘉敷島に生まれる。55年、青山学院大学文学部キリスト教学科卒業。60年、ユニオン神学大学(ニューヨーク)修士課程卒業(M.DIV.)。日本キリスト教団糸満教会(1955~58)並びに同首里教会牧師(1960~75)。沖縄キリスト教短期大学創設(1957)以来、94年3月定年まで、講師・教授として教鞭をとる。キリスト教学を担当。その間に理事・副理事長・宗教部長・学長1期(1975~79)を務める。 《論文》「パウル・ティリッヒの存在論的神学の方法論に関する研究」1984『沖縄キリスト教短期大学紀要』第13号、「沖縄キリスト教短期大学の草創期の歴史と建学の精神」1988『沖縄キリスト教短期大学紀要』第17号、「沖縄戦の本質と課題としての平和」1991北星学園大学宗教部編『現代に生きる信仰』山本書店


2010年12月 七尾和晃『沖縄戦と民間人収容所 : 失われる記憶のルポルタージュ』原書房〇この本には、著者の『堤義明闇の帝国 : 西武グループの総帥はいかにして失墜したか』光文社/ 『闇市の帝王 : 王長徳と封印された「戦後」』草思社 は興味深く読んだことがある。著者をウィキで見ると、亡くなっていた。私の息子と同い年なのに。(1974年(昭和49年) - 2015年(平成27年)12月27日ニューヨーク市クィーンズ区生まれ、石川県金沢市出身。英字新聞記者や業界紙記者、週刊新潮記者などを経て、2004年に独立してフリーとなる。記者時代には産業政策担当として経済産業省をはじめ、国土交通省、厚生労働省、総務省、外務省、環境省、内閣府などを取材する。特に、第二次臨時行政調査会や橋本行革での中央省庁再編に伴う、政策決定過程における官僚の心理的動態の変化に着目。忘れられゆく近代史の現場に赴き、「訊くのではなく聞こえる瞬間を待つ」姿勢で踏査ノンフィクションにまとめる手法で、海外と日本を往来しながら学際的なフィールドワークを行った。

nullnullnull
2016年3月 浅井春夫『沖縄戦と孤児院 戦場の子どもたち』吉川弘文館→七尾和晃『沖縄戦と民間人収容所』原書房2010年