1994年2月22日『琉球新報』「沖縄そば 明治40年ごろ独自の味定着 新城栄徳さん(44)が調査」



『日清食品社史』「めんの系譜図」
台湾出身の安藤百福(あんどう・ももふく、1910-2007)は繊維業に携わり大阪へ進出。第二次大戦後の復興にはまず食事が大事と考え、食品加工・製塩などの事業を経て1948年(昭23)加工食品の輸出入・販売業の中交総社を設立。翌年サンシー殖産に改称、1958年(昭33)瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(チキンラーメン)を開発し、「日々清らかに豊かな味をつくる」との願いから日清食品に商号変更する。1971年(昭46)カップめんを発売開始、事業を多角化し海外へも発展する。当該社史は7章の本文と資料からなり、創業前史で安藤の生い立ちと即席めん開発を記述。口絵にめん食の文化史や製品・工場写真を多数掲載。[2008年(平20)持株会社日清食品ホールディングス設立、新たに即席めん事業の日清食品(株)が誕生]


1975年5月 渡口初美『実用琉球料理』月刊沖縄社

沖縄県立博物館・美術館Facebook2013 
明日10月17日は沖縄そばの日!
沖縄そばはいつごろ誕生したのか。この疑問を解明した人物がいる。「琉文21」を主宰する新城栄徳さんである。今から19年前(平成6年)の新聞紙上で沖縄そばのルーツを見事に解き明かしている。新城さんは、明治31年から大正11年までの新聞・雑誌の広告を丹念に調べあげ、明治35年4月9日付けの琉球新報に「支那そばや」の開店広告を発見する。但し、同そば屋は清国より料理人を招いて「支那そば」を売り出しているので、まだ沖縄そばと呼べる代物ではない。
では、支那そばから沖縄そばに進化するのはいつごろか。新城さんは、明治40年に那覇の前之毛で福州の料理人を雇う「観海楼」と地元の「比嘉店」が客の争奪戦をして、比嘉店が勝利をおさめたという記事に着目する。つまり、この頃には沖縄そばとしての味が一般に定着していたのではないかというのである。さらに、「不勉強屋」の広告でも分かるように、和田那覇署長が「琉球そば」と呼ぶように指示。かくて明治末から大正期にかけて、我が愛すべき県民食は誕生したのだ。
同記事は「(沖縄そばの)由緒を正確にする必要がある」という新城さんの言葉で結んでいる。嗚呼、沖縄そばよ! 汝はかくもナゾ多き食い物であったか・・・。まーさいびたん!(M.K:M.K)

5月8日『琉球新報』「戦後50年きょうから明日へ 沖縄そば」


1879年5月4日         『西京新聞』「那覇に料理店、茶店の向は一ヶ所もなし」
1889年              那覇の料理屋ー海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤など。
1890年              料理屋・飲食店ー那覇39軒、首里6軒
1891年              料理屋・飲食店ー那覇63軒、首里9軒、名護2軒、渡久地1軒
1892年              沖縄県の料理屋・飲食店ー開業48軒、廃業15軒
1893年              寺内某が来県、料理屋「東家」の協力をえて琉球芝居の俳優、囃子方らを雇い関西興行をなす。
1894年3月9日         『国民新聞』「沖縄農民は4食にして唐芋と云う甘藷、豆腐、味噌汁および豚肉らはその常食にして魚                     類、米、粟、豚脂に揚げ たる麦粉らこれに次ぐ。そのほか蘇鉄、椰子あり。料理には大概豚脂を用ゆ」
                   料理屋・飲食店ー那覇144軒、首里47軒、宮古10軒、八重山6軒
1895年              料理屋・飲食店ー那覇171軒、首里62軒、宮古14軒、八重山8軒。
1896年              台湾領有で那覇の主な料理屋、台湾に移る(いろは亭、玉川屋などは残る)
1899年              名護に料理屋5軒、仕出屋2軒。那覇南洋堂「食パン」販売。宮里松、大門前通りで蕎麦屋を開業(日本そば)
1900年              那覇「りん寿司」改良すしを始める。楢原鶴吉「東家」を譲り受け、大阪より料理人を雇いいれる。那覇                     「鶴屋」練羊羹・カステラ・メリケン粉販売。
                   那覇「住吉屋」牛すき焼き8銭、鳥すき焼き12銭、すし7銭。那覇「紅屋」茶碗蒸し、すし、かまぼこ、牛肉、鳥肉販売。
1901年12月          高等女学校及師範学校女子講習科が料理科を新設し和洋の料理法を実習、費用は自弁。
1902年4月9日      福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑下りに「支那そばや」開業。 
1915年6月           「不勉強屋」支那そばを琉球そばと表示(和田那覇暑長が指示)

1920年10月16日-新里有一郎「井筒屋」(琉球そば)開業
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1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業


 1975年 季刊『創造の世界』№20 藤原邦達「食品汚染の現況と問題点」
藤原 邦達(ふじわら くにさと) プロフィール
1927年長崎県生まれ。旧制大阪高等学校卒、大阪大学工学部卒。京都大学医学部衛生学教室助手、京都市衛生研究所主幹、大阪大学工学部講師を兼務。食生活の安全委員会代表幹事、コープこうべ商品検査センター技術顧問などを歴任。現在、大阪PALコープ、大分、なら生協顧問、生協総合研究所評議員、光華女子短期大学講師、山形大学農学部講師(公衆衛生学)(1997年11月現在)


1989年9月 外間ゆき・松本嘉代子『食品と料理 おきなわの味』ニライ社



1986年12月ー新島正子さん、新城三郎に厚生大臣表彰


1995年11月『本コミニケート』105号〇ゴミ問題 絶望の中の希望


1998年6月23日『琉球新報』「注目集める『環境ホルモン』」


1999年2月28日『沖縄タイムス』「沖縄ごみ事情<8>有害物質ー投棄で民間地域汚染 沖縄県調査の空白域 基地内」〇沖縄大学の宇井純教授(環境科学)は訴える「消費型ではなく、循環型の社会をつくることが、21世紀に希望をつなぐ」。


2002年1月1日『沖縄タイムス』「ひと目で分かる 世界の環境」

2004年6月10日『沖縄タイムス』亀山統一「基地と放射能」


 2010年7月『自然と人間』「辺野古逆戻りに沖縄県民の怒り沸騰」自然と人間社 ー人間を取り巻く自然と社会状況の総合誌。世界の出来事から環境問題、食文化や子供たちの情報まで、豊富な写真とエッセイやコラムでタイムリーな社会状況をわかりやすく掲載。


1983年8月31日ー『琉球新報』新城栄徳「落ち穂『未病を治す』」
東洋医学を実践している病院で、調理師を8年やっていたので『素問』①とか『傷寒論』②という古典はある程度知っているつもりである。『素問』(もとのものを引き出すという意味)のなかに、黄帝が天師(岐伯)に「今時の人は50歳になると、よぼよぼしてくるのは何故か」と。
これに対し岐伯は「昔の人で道(宇宙自然の法則)を知っている人は、陰陽(自然環境としての変化)によく対応し術数(次々に連なり、おこってくる変化の順序法則)によく調和するように自分の行動を規制している。ところが今時の人は酒はガブガブ飲むし、生活のリズムも失っている。色欲にかられて自制もなく欲望のままに精根を使いはたしている。健康に生きてゆくためには一定の緊張が必要であり、節度が大切であるのに、こうしたことを知らないまま、その時その時の欲望のままに生活しているために、人生の本当の楽しみ、生きてゆく喜びを求めようとしない。これでは50そこそこで衰えるのは当たり前である」と答える。
病院の医師らが中心となって山紫水明の土地、名張市赤目に「赤目健康学園」を計画したのが1977年であった。しばらくして私も長男・江と「山の家」づくりに参加するようになった。東洋医学のなかに「身土不二」(その人の生活する土地でとれる食物を主に食べる)と、「一物全体」(生物である食物を丸ごと全部、不必要なアクぬき、皮むきをしない)という二つの原則があるが、赤目では農作業を通じて実践している。農業を行うことによって食物についての知識と考えを深めることができる。
増大する一方の医療費の抑制は一部の連中の主張するように自個負担を増やすという安易なケチな方法は考えるべきではない。予防と軽症のうちに生活・習慣を見直して治療するという古くて新しい方法をとるべきだ。しかも根本的にはこれしかない。

①『黄帝内経』(こうていだいけい、こうていだいきょう、こうていないけい、黄帝内剄)は、現存する中国最古の医学書と呼ばれている。古くは『鍼経』(しんきょう)9巻と『素問』(そもん)9巻があったとされているが、これら9巻本は散逸して現存せず、現在は王冰(おうひょう)の編纂した『素問』と『霊枢』(れいすう)が元になったものが伝えられている。黄帝が岐伯(きはく)を始め幾人かの学者に日常の疑問を問うたところから『素問』と呼ばれ、問答形式で記述されている。『霊枢』は『鍼経』の別名とされ、『素問』が基礎理論とすると、『霊枢』は実践的、技術的に記述されている。 →ウィキ

②3世紀の初めに長沙(湖南省)の太守(知事)であった張仲景が記したとされている『傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)』は、古来より散逸と発見を繰り返し、現在では、2部に分かれ、傷寒(急性熱性病)については『傷寒論(しょうかんろん)』、雑病(慢性病)については『金匱要略(きんきようりゃく)』として伝わった。『傷寒論』では、傷寒の病態を三陰三陽(六病位)と呼ばれる6つのステージに分け、それぞれの病期の病態と、適応処方を記している。『金匱要略』では慢性病の治法を論じ、その中には循環器障害、呼吸器障害、泌尿器障害、消化器障害、皮膚科疾患、婦人科疾患から精神疾患までの疾病が含まれている。なお、現在、中医学では『傷寒論』の六病論を経絡と結びつけ、六経説としてとらえている。 『神農本草経』、『黄帝内経』とともに中国医学における三大古典の1つに数えられる。(2007.10.11 掲載) →日本薬学会

1997年5月ー三谷和合『続保険歳時記』木津川厚生会
□念仏踊は、夏季、お盆を中心に災厄退散、また亡魂鎮送のため、太鼓、鉦を打ちならしながら、踊躍歓喜する踊りの総称です。念仏を口中に唱えながら踊ることから、この名があります。
平安時代、空也上人が念仏の功徳を庶民に知らせる方便として始められたのが起源といわれています。しかし、踊りの形態に仏教的な雰囲気は全くなく、基本的には在来からあった原始宗教的な行動を示したものといえます。つまり、古くから行われていた村々の祭の行動に、念仏信仰が加わったものです。

□私が勤めていた病院の三谷和合院長は「漢方の正しい健康保険の適用をすすめる準備会」の丸山博会長、相沢秀一副会長らと親しく一緒に運動していた。丸山会長は桜沢如一を師と仰ぎ衛生学を専攻。相沢副会長は京大で河上肇に学んだ最後の学生で、大阪市大、立命館大、大阪経済法科大の教授を歴任。

○WHO憲章では、その前文の中で「健康」について、次のように定義しています。
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. 健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが 満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)

より健康な生活を
石塚左玄、桜澤如一、丸山博、三谷和合らに共通するのは「未病を治す」ということで、現実を把握し予防医学の重要性を説いている。丸山は「現在の社会体制の中において、いわゆる西洋医学が一体どういう生き方をしておるかという事を、私たちは日常知っているわけです。そして医療の形態が、大変お金がかかるようになっております。そして、お金は私たちの不健康、不幸の上におとされているわけです。何故それを防ぐ事の方に使われないのだろうか。病気になってしまうまで、病人たちを作りだす原因を放っておいて、病気になった人たちだけを問題にする医療、ここに問題がある」と1978年2月の民族医学講演会で述べている。
○知人の名護宏英氏(劇作家)、仲宗根幸市氏(民謡・民俗研究家)が相次いで交通事故で亡くなった。□交通事故の死者数は、昭和27年に4,000人台となってから、以降年々増加し、昭和45年には16,765人と過去最多を記録しました。それ以降減少し、昭和51年には1万人を下回りましたが、昭和63年には再び1万人を上回りましたしかし平成8年には9年振りに1万人を下回り、平成14年には過去最多であった昭和45年の死者数の半減を達成しました。その後、平成15年には7,000人台に、平成19年には5,000人台になり、平成21年以降4,000人台となっています。【平成26年中の交通事故死者数の特徴】1日平均の死者数は11.27人で、2時間08分に1人が交通事故で死亡しています。死者数の多い都道府県は、愛知県の204人、神奈川の185人、千葉県及び兵庫県の182人、埼玉県の173人などでした。反対に死者数が最も少ない都道府県は、島根県の26人、徳島県の31人、鳥取県の34人、沖縄県の36人、秋田県の37人などでした。→全日本交通安全協会
CNN2016-2-10○ 米国人の平均寿命が他の先進国の国民よりも低いことが、このほど調査結果から明らかになった。早死にする原因として薬物や銃の使用、頻発する自動車事故などが挙げられている。→日本人の主な死因の死亡数は、第1位悪性新生物 37 万人、第2位心疾患 19 万 9000 人、 第3位肺炎 12 万 3000 人、第4位脳血管疾患 11 万 3000 人と推計される(厚生労働省2016-1)。日本の自殺率は、世界的に見ても高い水準にあります。OECD諸国の中では第2位、G8の中では日本の自殺率はロシアに続き第2位 となっています。これは、アメリカの2倍、イタリアやイギリスの3倍という数値です。WHOの発表でも、日本の自殺率は先進国の中で トップクラスだという報告があります。→自殺者統計|自殺対策支援センターライフリンク


□私は『近代社会運動人物大事典』に銘苅正太郎について「1904年に医師免許を得て福島県や山梨県の病院勤務をへて、16年に東京市麻布に耳鼻咽喉科「長生医院」を開業、医院名は親交があった後藤新平が付けた。医院経営が安定すると「ソテツ地獄」で苦しむ故郷伊是名島や沖縄のために援助活動をつづけた。正太郎は「沖縄の貧困は地理的条件に左右されている」といい、長男の進は「社会が変われば沖縄も変わる」といった。進は戦後、全国最初の民主診療所である東京自由病院の初代院長をつとめた」と記した。

三谷和合

1977年11月 此花区四貫島・此花区民ホール「第三回おんど~れ祭り」。新城栄徳は安藤昌益①を演ずる。
 ①安藤昌益の思想は、42歳頃から約15年間を過ごした八戸で誕生したといわれ、主著『自然真営道』101巻93冊も八戸で書かれたことが分かっています。そのきっかけとして考えられるのが、飢饉の頻発です。この地方特有の冷たい東風(やませ)により、当時の八戸では凶作と飢饉が猛威をふるっていました。中でも大豆生産のため焼き畑を繰り返したことで猪の大発生を招き、多くの餓死者を出した通称「猪飢渇」いのししけがじ(「けがじ」=八戸弁で「飢饉」の意味)は、昌益に大きな衝撃を与えたと思われます。
 刊本『自然真営道』「大序」には、「非命にして死せる者のためにこれを記す」、つまり、不幸にして天寿をまっとうできなかった人たちのためにこの書物を書くのだ、と書かれています。食物を生産する農民たちの多くが命を落とし、支配階級である武士たちには大きな被害がないという現実。この社会の矛盾を目の当たりにしたとき、昌益は、町人の身体を診る町医者から、社会全体を診る思想家へと変貌を遂げたのではないでしょうか。八戸で書き上げたとされる主著『自然真営道』には、昌益の思想が体系的に記述され、「大序」巻、24巻「法世物語」、25巻「良演哲論」では、厳しい社会批判が展開されています。
 昌益は、武士が支配する封建社会を「法の世(ほうのよ)」として批判し、貧富の差も支配関係もない平等な社会を「自然の世(しぜんのよ)」と名付け、理想の社会として掲げています。自ら生産労働をせず搾取することを、「不耕貪食(ふこうどんしょく)」と称して批判し、その対極にある、自然の循環の中で自ら正しく農耕を行う生活を「直耕」と名付け、このような労働の中にこそ、人の人たるゆえんがあるという主張をこめました。江戸時代に幕藩体制や身分制度を明確に否定したのは唯一昌益思想のみであり、しかも、江戸から遠く離れた八戸でこの著作が誕生したことに、大きな意義があります。→「安藤昌益資料館」所在地: 〒031-0086 青森県八戸市八日町3 時間: 本日営業 · 11時00分~16時00分
電話: 0178-20-8109



1987年3月 たばこ総合研究センター『談№37』「<農>学知の射程」

2010年6月 吉田徳寿『安藤昌益 直耕思想いま再び』東奥日報社

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三谷和合の本