文春オンライン2020-1ー27 カジノはシノギになる」と幹部は不敵な笑み “経済ヤクザ”高山が仕切る山口組「次の一手」(略)しかし、それでも世の中の動きの先を読んで様々なシノギを見つけ出すのが暴力団、中でも経済ヤクザと称される人物たちだ。5代目山口組時代に若頭を務め、武闘派とともに経済ヤクザとしても知られた宅見勝は、「日経新聞を読んでいれば、シノギのヒントが見つかる」と常々、周囲に語っていたという。今後の大きな経済の動きとしては、オリンピックによる景気浮揚、その先は数年後のカジノが挙げられよう。2020年1月7日には政府にカジノ管理委員会が設立され、検察OBや元警視総監らが就任した。ある山口組幹部は、「反社会的勢力を徹底的に排除するという触れ込みで数年後にはカジノが始まる。しかし、カジノにはいくらでもシノギが転がっている。カジノはシノギになる」と不敵な笑みを見せた。
 愛知ママの会1/27 アメリカの業界が、長い時間と多額の投資で日本市場をこじ開け、いよいよ果実を手にする時というのが今の構図である。北海道の過疎の村に進出を狙って「500ドットコム」がカネをばらまいたことは、カジノ狂想曲が巻き起こした末端の騒動で、副大臣になった政治家が業者からカネをかすめ取った情けない悪事にすぎないのだ。アデルソン会長は、日本で認可を得られれば100億ドル(1兆1000億円)投資する用意がある、という。100億ドルを投資しても回収できる「もうけ」が期待できるからだ。日本はマカオに次ぐカジノ市場に成長する、という。1兆円の事業ならロビー活動に億単位のカネが投じられてもおかしくない。


FB友情報/右端「しんぶん赤旗」2018年4月13日付

 1964年当時、神保町の古書街で一番安いのは週刊誌、雑誌であった。即買ってスクラップ帖(残っていない)にまとめた。雑誌、特に実話系の『週刊実話』しゅうかんじつわ)(日本ジャーナル出版から刊行されている週刊誌。1958年9月に創刊された。いわゆるグラビア・ヌードのある、男性向けゴシップ誌である。暴力団など裏社会の特集が多い事が特徴。『実話時代』、『アサヒ芸能』、『週刊大衆』などと共に「実話誌」のジャンルで括られる事もあるが、実話時代と比べるとやや内容が娯楽重視となっている。→ウィキペディア)『実話時代』などは、創刊から4半世紀の時を超え、ウラ社会をありのままに伝えるー、と半グレ日本、つまり官僚支配による国民の家畜化が進んでいる今の日本の姿を報じ続けていると胸を張る。今の自公政治を見ると妙に納得できる。

1980年のスクラップブック(主に大阪のスポーツ紙、右下は3代目旭琉会近くの古本屋で買った実話雑誌に挟まれていたもの)

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当時の合羽橋(暮らしの手帖)

 上野駅は北国(雪国)の玄関口で周辺には高村光雲作の西郷隆盛銅像や、朝倉文夫作の「生誕の像」(同じものが那覇市役所広場にある)がある。ところで、金山喜昭『日本の博物館史』を見ると、江戸後期に開かれた同好者たちによる物産会(本草会)はモノを集めて公開する、出品物を記録・刊行していく点で博物館の源流だとしている。官僚主導の日本の近代博物館と違って近江の木内石亭の「奇石会」、大坂の木村 蒹葭堂「貝類・鉱物」を例に物産会は横並びの同好のサークル活動だったとしている。

高村光雲作の西郷隆盛と犬の像


1987年10月 東京新聞出版局『上野奏楽堂物語』/旧東京音楽学校 奏楽堂(きゅうとうきょうおんがくがっこう そうがくどう)は東京都台東区上野公園8番43号にある歴史的建造物。日本で最初に建てられた本格的な西洋式音楽ホールとされる。 瀧廉太郎像→ウィキ/ルーサー・ホワイティング・メーソンは、メイン州のターナー生まれ。アメリカ各地で長年音楽の教師を勤めた。おもに独学で音楽教育を確立し、歌の収集を行い、音楽教科書と音楽の掛図を公刊し、音楽教育の革新に成功した。合衆国では主に初等音楽教育の第一人者であった。1864年から1879年のボストン滞在時代に、合衆国に留学していた文部省の伊沢修二に唱歌の指導をしたのが縁となり、1880年に明治政府に招聘され日本に渡った。メーソンは文部省音楽取調掛の担当官(御用係)となった伊沢とともに、音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行った。『小學唱歌集』にも関わった。日本にピアノとバイエルの『ピアノ奏法入門書』を持ち込んだのもメーソンである。メーソンは当時音楽取調掛に勤務していた岡倉覚三(天心)とも親しかったという。→ウィキ

 明治政府は1867年に「神仏分離令」を布告。そのために全国で廃仏毀釈が行われ古文化財の破壊を招いた。71年になって太政官は「古器旧物保存ノ布告」を出す。やがてそれが国粋主義や美術富国論の勃興へとつながる。前出の『日本の博物館史』には鈴木重雄により1924年に設立された「遠野郷土館」を、個人の趣味や愛好的な色彩ではなく、国策に従う郷土教育ではなく「日本歴史のどの頁に吾々の共鳴する点がありますか」とし、「個」の確立を目指した点を特に述べている。
 私は東京浅草で中華料理店の出前持ちをしたことがある。店は合羽橋近くにあった。自転車で浅草中走り回った。大半が「バクチ場」で入口まで持って行くと玄関で組員が受け取る。銭湯に入ると全身刺青(伝統芸術)の初老の人が大半であった。浅草から上野は近い。上野公園はもともと寛永寺の境内で1873年に宮内省管理、77年には第一回内国勧業博覧会が開かれ美術館も設けられた。82年に上野動物園、博物館。87年に美術学校・音楽学校などが開設、移築された。1924年、皇太子御成婚記念で東京市に下賜され恩賜公園として一般に開放され科学博物館、美術館などが出来て日本有数の芸術文化の森となった。→合羽橋「かっぱ橋道具街」。大阪には「千日前道具屋筋商店街(せんにちまえどうぐやすじしょうてんがい)がある。ー大阪市中央区難波千日前にあるアーケード商店街。飲食店などで用いる業務用の調理器具や什器を扱う店が密集している。

1957年12月 岩井弘融『暴力 日本のやくざ』平凡社
1963年3月 岩井弘融『病理集団の研究ー親分乾分集団研究ー』誠信書房
□第1篇 博徒・的屋集団
  第2篇 土建・港湾・炭鉱等における親分乾分関係
  第3篇 壮士・院外団・右翼
  第4篇 パースナリティと集団性格

岩井弘融ー佐賀県出身。東京帝国大学卒。東京都立大学助教授、教授、大正大学教授、東洋大学教授。1989年、定年、名誉教授。代表的な著作に『病理集団の構造』や『犯罪社会学』などがある。2013年8月4日、急性肺炎のため死去。94歳没。→ウィキ
1958年10月 磯村英一『性の社会病理ー日本の売春にみるもの』大日本雄弁会講談社
1961年12月 磯村英一・木村武夫・孝橋正一『釜ケ崎/スラムの生態』ミネルヴァ書房
磯村英一 いそむら-えいいち 1903-1997 昭和-平成時代の社会学者。
明治36年1月10日生まれ。磯村春子の子。東京市役所(のち都庁)勤務をへて,昭和28年都立大教授となる。41年東洋大教授,44年学長。アメリカ都市社会学にまなび,行政経験をいかして日本の都市社会学の確立につくす。同和対策協議会会長などもつとめた。平成9年4月5日死去。94歳。東京出身。東京帝大卒。 →コトバンク

1962年6月  大橋薫『都市の下層社会ー社会病理学的研究』誠信書房
大橋薫-福島県田島町出身で、会津中学、浦和高校を経て1942年(昭和17年)に東京帝大へ進む。翌年に学徒出陣し、石垣島で終戦を迎える。階級は陸軍少尉。 復学後東京大学文学部、同大学院で社会学を専攻し、大学院退学後大阪市立大学に講師として採用され、家政学部助教授に進む。明治学院大学の社会福祉学系大学院開設に際して招聘を受け[10]、文学部助教授、教授を経て1966年(昭和41年)に社会学部教授となる。担当は社会病理学。→ウィキ

藤田 五郎(ふじた ごろう、1931年11月2日 - 1993年12月11日)は、極道出身の小説家。任侠小説を主に書いた。自伝的要素を含む「無頼 ある暴力団幹部のドキュメント 」は後に「無頼」シリーズとして渡哲也の主演で映画化された。 1975年に映画化された「仁義の墓場」でも知られる。1993年、東京都中央区内のホテルでビニール袋をかぶり窒息自殺した。→ウィキ

1980年10月 藤田 五郎『任侠百年史』笠倉出版社/1983年8月『月刊実話ニッポン』「人物クローズアップ ”人斬り五郎〟銀座に遊ぶ」
映画ー1965年11月 那覇 沖映本館「血と掟」(安藤昇)

空手家・赤嶺嘉栄
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写真ー前列左から友寄英彦実行委員長、平良良松那覇市長、比嘉佑直保存会長。後列左から備瀬政太郎経民部長、前田武行助役、稲嶺成珍助役、赤嶺嘉栄審判長。→2001年12月 『那覇大綱挽』那覇大綱挽保存会
空手の人物事典や上地流の本を見ると赤嶺嘉栄が出てくる。沖縄人連盟史関連にも名前が出てくる。その沖縄人連盟では赤嶺が中心となりヤクザ鴻池組系井上組に抗議している。また又吉世喜(1975年)や喜舎場朝信(1977年)の葬儀に、宮城嗣吉と共に友人代表のひとりに名をつらねている。また赤嶺の葬儀のとき友人代表のひとりとして東京の万年東一の名がある。万年は横井英樹銃撃事件で知られる安藤昇の親分格である。
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写真ー赤嶺嘉栄/万年東一の名刺/安藤組組織図、上の方に万年東一の名がある。



「風葬・洗骨ー南のはて徳之島の奇習ー」/1963年9月 柴田プロダクション『写真で見る 日本残酷物語』現代芸術社(長嶋武彦)



映画「日本残酷物語」1963年6月公開の長篇記録映画で、構成はTBSのディレクター石川甫、大山勝美それに「トップ屋を殺せ」を監督した高橋典が担当、「紀州の暴れん坊(1962)」の中川信夫、「太平洋戦争と姫ゆり部隊」の小森白と高橋典の三人が監督。撮影は 「太平洋戦争と姫ゆり部隊」の吉田重業と瀬川浩・日田勇。
◇アイヌの熊祭◇トド狩◇流氷・結氷◇奥羽出羽三山の荒行◇銭洗い弁天◇心境集落◇猫から三味線まで◇交通地獄◇美容整形手術◇鶏の多量生産◇酔っぱらい保護センター◇麻薬の恐怖◇ゲテモノ食い◇わんこそば食い競争◇生き猿の脳みそ食い◇いれずみ◇馬力競争◇闘鶏◇ゲイ・バーの生態◇前衛芸術◇カラス列車◇犬のおしゃれ◇裸祭◇花嫁の奇習◇自殺の名所錦ガ浦◇キーパンチャーなど。...
1964年1月28日 那覇市・国映館「日本残酷物語」封切



 ある日、新橋駅近くの沖縄屋に行く途中で赤尾敏の演説があった。私は前のほうで聞いていた。終わると赤尾が街宣車から降りてきて一人一人にハガキ大の名刺を配り始めた。私も貰った。これが切っ掛けで右翼を調べ始める。もとより協調性が無いので団体活動は好きではない。だから左右の団体とも無縁であった。後に右翼研究卒業の意味で、このとき集めた右翼(児玉誉士夫著作)資料は那覇の前島にあった日思会(金城武夫事務局長)にあげると返礼に金城氏、会員5人が御馳走してくれた。
 1984年6月ー親戚の経営する泊サンワホールで赤尾敏の演説会を聞きに行った。この爺さん、まだ生きて居たかというのが実感であったが、さすがに老獪な人物、沖縄県民の複雑な気持ちは分かっているようで『皆さん、天皇陛下万歳をお願いします』と申し訳なさそうに云うていた。



1983年8月『琉球新報』新城栄徳「落ち穂ーオキナワの少年」
東京時代の座右の書

 左の本の表紙の「さざれ石」写真を見て京都のさざれ石を見た。→日本国歌にうたわれている「さざれ石」とは、ちいさな石という意味です。さざれ石は年とともに大きく成長し、岩になると信じられている神霊の宿る石です。 国歌の原典は「古今和歌集」にも詠まれた生き石伝説「さざれ石」です。下鴨神社の「鴨の七不思議」の中に、「泉川の浮き石」や「御手洗の神石」伝承が残っており、石に宿る神聖な力をを現しています

 1974年8月『山口組時報』「田岡家(本家)令息満氏 華麗なる華燭の典」
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□約700名の来賓、一部を紹介してみたい。政財界ー石井一、中山正暉、五島昇、松村正直、佐々木慎太郎、中井一夫、松尾国三。
会社関係ー岡田茂(東映社長)、川辺正夫(松竹副社長)、徳間康快その他。
作家・タレントー川内康範、飯干晃一、小池一雄、俊藤浩滋(東映プロデューサー)、鶴田浩二、高倉健、勝新太郎、中村玉緒、寺島純子、梅宮辰夫、ビクトリア、待田京介、伴淳三郎、清川虹子、五木ひろし、渚ゆうこ、天中軒雲月、大村崑、西郷輝彦、山口洋子、吉村道明、沢村忠。
なお、元首相岸信介氏他各界知名士多数より祝電があり、司会者より披露されたことを、最後に付記しておきます。(小田秀臣・山口組時報編集責任者・記)

私は東大阪の布施駅ちかくに住んでいた。通り道の鶴橋駅を7時ごろ散策のおり小田秀総業の2階でボヤ騒ぎがあり、パトカーが無線で「親分(小田秀)と、子分8人がいる」と喋っていた。その小田秀組長は怒号し子分をどやし続けていた。すぐ目の前だったが火はすぐ収まった。小田秀組長は『山口組時報』の編集責任であった。かつて佐野真一氏も『山口組時報』の編集に誘われていた、と本人が書いている。
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大阪・小田秀組総本部、1980年ー八興建設(瀬川清社長)が2億4、000万円で請け負う
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山本健一を中心とした3代目山口組組織図□田岡組長の写真は粟国出身者が多い大阪天六の市場にあった金田組事務所に飾っていたもの、この組事務所は窓が空きっぱなしで組員がいつも不在であった。

山本健一初代山健組組長(バックの扁額は頭山満の書)
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初代山健組組織図
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写真ー1977年6月ー徳島・勝浦会2代目襲名、左から諏訪健治、勝浦隆司、松浦一雄、図越利一、山本健一
 通勤電車の近鉄線から山本健一組長の入院している大阪市生野区の今里胃腸病院の看板がよく見えた。山本組長は1982年2月4日に肝硬変に腎不全を併発して死去。関西の夕刊紙ではいつも病状を伝えていたので病院の看板が見える毎に思い出していた。


写真ー本多仁介
神戸大嶋組の四天王の一人と言われた本多仁介が、1938年豪雨にみまわれた神戸の河川工事を行い本多組を立て1940年に大嶋組から独立、本多組を結成。本多組は倉庫業、湾岸荷役業をシノギとしており「ミナトの六人衆」と呼ばれるようになる。ダイエーの中内功会長も闇市で活動していた当時を回顧し、「本多さんは大親分だったですよ」と証言している。 二代目本多会の時代まで所属していた最後の若衆であった四国の竹形の逝去とで本多会を支えていた者達はほぼ生存しなくなった。本多仁介の関わったものは今や、倉庫会社、建設会社など、いわゆる堅気の企業としてしか残っていない。 →ウィキ

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1983年9月『スコラ』「兵庫県下主要暴力団」

 大行社ー大正13年(1924年)6月11日 清水行之助が後藤新平のほか、有力諸賢の後援を得て設立。戦後永らく休眠状態にあったが、1981年に岸悦郎が旧知の仲である清水から要請があり、暫定的に会長代行となった。結成式には稲川会初代会長の稲川角二や住吉連合代表の堀政夫が列席した。岸は公式には堅気でありながら任侠右翼であることを認めていた。→ウィキ

 「メンズサイゾー」2011-9-22 〇9月21日発売の「週刊文春」(文藝春秋)でビートたけしが「暴力団との関係」を赤裸々に語り、大きな話題となっている。暴力団との交際が原因で島田紳助が引退したことにより、芸能界と暴力団の関係がクローズアップされ、どのタレントもヤクザとの関わりが明らかになることにおびえるようになった昨今、なぜあえて暴力団との関係を自ら語ったのか。
記事では、フライデー襲撃事件後に復帰した際に「復帰が早すぎる」として右翼団体に街宣をかけられたことがあると明かしている。紳助が暴力団と関係を持ったきっかけは、同じく右翼団体に街宣をかけられ、その解決を渡辺二郎を通じて暴力団に頼んだことだった。しかし、たけしは右翼団体の関係先である住吉連合会の堀政夫会長をひとりで訪ね、土下座して謝って解決したという。この点が紳助とは違うとして、「タレントとして、そういうのを上手くやって逃げるのも本人の芸」「紳助は逃げる芸がなかった」と語っている。また、10年ほど前に、ある芸人(※文春は中田カウスだと断言)の策略によって山口組の渡辺芳則5代目組長と無理やり面会をさせられたこともあるという。さらに、稲川会からのプレッシャーにより初代会長・稲川聖城氏との面会を断れなくなり、月刊誌「新潮45」(新潮社)で対談したこともあった。(略)

『四国新聞』2002年6月3日ー右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の岸悦郎氏(76)が台湾で死去していたことが3日、警視庁の調べで分かった。警視庁などによると、岸氏は5月から、がんの治療のため台湾に滞在していたが、今月2日深夜、台北市郊外の別荘で死亡したという。大行社は日本で最大規模の右翼団体。

沖縄の右翼・総会屋

1997年ー『民族』日本民族思想普及会(儀武晋一)/1989年ー『社会時報』桜魂社護国塾(松田昌雄)

 沖縄のネット右翼については目取真俊ブログ(2014-07-08)に詳しい。 〇沖縄の軍事要塞化を下支えするものとして、沖縄県民の意識改革も策されている。沖縄戦の体験に根ざした、軍隊は住民を守らない、という認識を払拭し、米日両軍に積極的に協力していく民間体制を作り上げていくこと。それが日本政府の至上命題となっている。現代戦は総力戦であり、「南の防人」として南西領土防衛をになうものへと沖縄県民を変えていくために、沖縄戦の歴史認識や米軍・自衛隊への認識をめぐる問題が、さらに前景化していくはずだ。
 そういう中で沖縄でも、民間から米軍・自衛隊を支えようと、ネット右翼の動きが活発化している。2013年8月19日にチャンネル桜沖縄支局が開設した。その開局記念の特番に沖縄から、「龍柱問題」で翁長雄志那覇市長を訴えた金城テル氏をはじめ、恵隆之介氏、「狼魔人日記」の江崎孝氏、手登根安則氏、奥茂治氏といった面々が出演している。
 この5人に沖縄対策本部代表の仲村覚氏を加えれば、いま沖縄で活動しているネット右翼の主要メンバーがそろう。チャンネル桜の番組で、沖縄から「魑魅魍魎たち」をたたき出すためには情報戦に勝ち抜くしかない、と発言している手登根氏は、本ブログで批判した『週刊新潮』6月12日号の記事にも出ていた人物で、オスプレイファンクラブの中心メンバーとして、親米軍活動を熱心に行っている。その活動の一つを仲村氏がユーチューブに投稿している。