1939年4月5日ー安里幸一郎、粟国村字東で生まれる。父・宗幸、母チヨ(イザニサ大ヤー)

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1940年10月 『國民精神文化』第六巻第十號 河村只雄「粟國・渡名喜紀行」
〇粟国・・・私が見た門中墓も相当大きなものであった。「シルヒラシ」のところには洗骨前の棺が既に6つも並べてあった。ことに極めて最近入れられたといふ棺がある為であらう。夥しい蠅がウヨウヨして居た。私はつくづく琉球に於ける洗骨廃止の急務を痛感せずには居られなかった。/洗骨の問題・・・私はかうした洗骨の風習は早急に改廃すべきものであると思ふが、何でもかんでも「琉球のもの」といふならばあこがれをもつ一部の琉球文化の研究家の中にはこの洗骨を賛美してそれの保存を主張するのもがある。



粟国の墓/内部

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字東の我が家(ニーブーヤー)の周辺、左上がブートゥー大ヤー/粟国島

我が家(ニーブーヤー)の通り
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ブートゥー大ヤー/私(新城栄徳)は4、5歳の頃、この家によく出入りし主人の安里蒲翁から蓄音機で意味不明な琉球古典音楽を聞かされたり、床の間の中国の「福神」の軸絵を描いている現場に居合わせた。また、祝い事で御馳走の「三枚肉」を腹いっぱい食べたら脂に酔ってしまった。それ以来、三枚肉は脂をのけて食べるようになった。

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安里蒲1986年2月ー安村勇祥『想い出の記』「父(安里蒲)は、若いころ那覇港のワタンジ前で燃料の薪を商っていた。商売も順調に行き、生活は粟国村では上の部に属していたといえよう。父が那覇で商売をしている関係で、村には長男の善盛兄の家族3名と祖母と私(勇祥)と妹のトシが残っていた。」


1915年6月    「不勉強屋」支那そばを琉球そばと表示(和田那覇暑長が指示)

1920年10月16日-新里有一郎「井筒屋」(琉球そば)開業

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1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業
1934年1月ー新城三郎、那覇市辻町(御願の坂)國吉料理店で板場修行。同年の粟国出身の調理士は、四つ竹の新里。みはらしの玉寄松。玉川の仲間、一味亭の新城、仲里、山城、新城。京ヤの又吉。國吉料理店は与那  風月ロの糸洲、仲里、新里。三杉ロの福本。幸楽の安里、新川幸栄。美崎の玉寄米吉、赤嶺、玉寄三郎。花咲の上原保一、新里次郎、上原健夫。木村屋の安里善徳。ならはら館の上原。宝来館の新城。山本は浦崎。川津館の新城。モリタ館の与那城。
業者ー万人ヤの仲里。朝日ヤの神里。三角ヤの吉元。みかさヤの与儀。井筒ヤの新里。一味ヤの新城。福力ヤの神里。公園入口の金城。朝日橋前の新城。松田橋前の新城。安里松竹の糸洲。
1935年8月『関西沖縄興信名鑑』ー東淀川区之部 安里善盛(大戦前に那覇に引き揚げ食堂経営、戦争で一家全滅)、仁祥、善太郎(のち安村書店主)、勇祥(のちレストランアサヒ経営)
1936年10月2日ー沖縄県知事正五位勲四等・蔵重久「粟国村字東9490番地の新城蒲(50)、8月1日午後9時に那覇市北明治橋右海岸に於いて那覇市垣花町1の88平良カメ(31)が溺死せんとするを救助したるは殊勝なりよって金1封を贈りこれを賞す」



1967年2月『沖縄タイムス』「ふるさとの顔 粟国村」
                                                                               
1986年1月『オキナワグラフ』「現代の名工 安里幸一郎さん」                                                              
2012年6月 粟国郷友会『創立50周年 記念植樹・石碑建立』






新城栄徳「ふるさと粟国の温故知新」
1983年、母の兄・玉寄貞夫が仲里秀雄元粟国村長と『粟国民謡集』を出すというので編集協力した。早速、アポなしで玉寄伯父と同行し琉球民謡協会名誉会長の川平朝申氏を訪ね、その場で序文を書いてもらった。民謡集の編集過程で郷友会関係の料理屋、琉球音楽、舞踊研究所などを訪ねた。伯父が郷友会活動に熱心だということが分かった。




1992年、粟国郷友会から『三十周年記念誌』に何か書けと言われたので「歴史の一コマ」を書き、中で1905年に粟国島に来た志賀重斯昴、06年に来た菊池幽芳の紀行文を引用し当時の粟国島にふれた。また1910年代の『琉球新報』が那覇に流入している粟国人を面白おかしく偏見を煽る記事も紹介した。

1920年代、そういった偏見にもめげず、大手の料理屋に粟国人の料理長が増え、井筒屋、三角屋、万人屋など粟国人の経営者も増えた。渡地で安里蒲(ブートゥ大ヤー)が燃料の薪などを商っていた。商売も順調で琉球古典音楽も嗜んで、粟国人としては出世頭である。その薪をヤンバルから運んだ一人に安里蒲の義兄弟の新城蒲(ニーブーヤー)が居た。蒲はヤンバル船船頭で那覇から日用品などを運び、ヤンバルで薪、材木などを那覇に運んでいた。蒲が暴風で奄美に流され不在のとき息子・三郎は1922年に三重城近くで生まれている。程なく新城一家は粟国島に引揚げた。三郎は粟国で小学校を終えると那覇辻町の國吉料理店で板場修行を始めた。34年のことである。同時期に三郎の従兄弟で安里蒲の息子・善太郎、勇祥兄弟は大阪で働いていた。

写真左上から玉寄貞夫、4人目が新城三郎/下左から3人目が安村勇祥、善太郎兄弟

2003年、東京の日外アソシエーツが発行する『沖縄を深く知る事典』に私は「沖縄の雑誌(青い海)に見る『自意識』」、「ヤマト風のスタイルへのなじみ方ー系列化」を書き、後のほうで粟国の先祖のことにふれた。
鉄の暴風と言われた沖縄戦を経て、戦後(今も続いているが)。1950年、沖縄と奄美出身者で調理師会「沖美会」を結成。玉寄博昭、新城三郎、福永平四郎、赤崎一成、又吉太郎らが参加した。この前後に大阪から安村善太郎、勇祥兄弟が引揚げてきて、今の平和通に「安村書店」「レストランアサヒ」を開業した。奄美が日本復帰すると調理師会は「沖縄調理師会」と改称する。調理師会は粟国郷友会の様相を呈していた。
1955年、安里幸一郎が伯父・玉寄松の居る料亭「松乃下」に調理師見習として住込みこんでいる。60年5月、那覇栄町豊福亭で粟国郷友会創立総会が開かれ、会長に安村勇祥が選出された。副会長は与那誠正、玉寄誠一、伊佐伝一の諸氏であった。65年の5代会長に安村善太郎が選出された。
私達のころの粟国島は電気もガスも無い静かな「離島」であった。今はクルマもテレビもあり那覇と変わらない。「離島」性は少しも変わらない。






2001年に『いにしえを偲ぶ・むんじゅる節』の編集に協力し、沖縄を代表する芸能研究家の當間一郎、宜保栄治郎、仲宗根幸市の諸氏に原稿依頼し書いてもらった。私自身エッセーを書き、粟国、那覇、大阪での琉球芸能、民謡、レコードにふれた。
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むんじゅるーを踊る新城あけみ(右)