1914年11月には嘉手川重利、山城正忠、仲吉良光、末吉麦門冬と『五人』を創刊。写真左からー仲吉良光、末吉麦門冬、嘉手川重利、山城正忠、山田有幹

1924年12月21日『沖縄タイムス』山田有幹「末吉安恭君を悼む(8)」
○雑文の大家ー麦門冬君を始めて知ったのは、僕が「沖縄新聞」と云う今は廃刊してなくなっている新聞の、記者を勤めていた頃だから、彼是20年も前のことであろう。ある夜今の青山書店で新着雑誌か何かを素見しての帰途、そこの角で、是も故人となった高江洲三念君かそれとも山城翠香君かに偶然に遭遇したと記憶する。その三念君か翠香君かであった人は、一人の無骨な色の黒い青年と一緒であった。その時、その三念君か、翠香君かに紹介されて知ったのが、麦門冬君を知った初めである。こんな小さな些細な事をどうして20年もたった今日迄、僕は記憶しているのか。考えてもわからない。当時既に麦門冬君が、学者として一部青年間に尊敬されていた為めか、それとも、当時の文学青年間に、憧憬の的となっていた「明星」といふ雑誌の同人として尊敬されていた弟の詩華君の令兄としての尊敬からか、何れにしても、僕は麦門冬君に紹介されたのを、一種の光栄と云ふ様な或る喜びを感じたからではなかろうかと、考えてみる。その前後の頃のこと「辞林」の編者として有名な、あの金澤博士が来県して各所で講演会を開いて博士を招聘した。各新聞には、博士の講演筆記が出ると云ふ騒ぎの最中、麦門冬君は「金澤博士に質す」といふ意味の原稿を「沖縄新聞」に投書して「辞林」のうちにある誤謬を指摘してあった。その原稿は佐々木といふ主筆のために、没書されて発表されなかったが、同君の好事家(といふ言葉は少しく妥当を失するが)的性格が、君をして歴史家たらしむると同時に、俳人たらしめ、歌人たらしめた。その性格は、又同時に、あれ丈けの精力を持ち合わせながら、歴史家としても詩歌人としても大成せしめず、遂に雑文家として大成せしめた一因ではなかろうかと考える。此の性格を脱出して、開発していったら、君の事業は更に一段の光輝を増したであろうが。


山田有幹(1888年1月20日~1975年10月11日)
那覇東町に生まれる。沖縄県立中学校卒業後、代用教員を経て、1912年6月に嘉手川重利、山城正忠と同人雑誌『アソビ』創刊。1914年11月には嘉手川重利、山城正忠、仲吉良光、末吉麦門冬と『五人』を創刊。1920年、『沖縄日日新聞』主筆。1921年、那覇市第一回市会議員選挙で当選。1926年3月、沖縄青年同盟を結成しその責任者となる。
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那覇市中央図書館にある「山田有幹文庫」