「東京琉球泡盛商一覧」(1933年3月5日ー大宜味朝徳『南島』第三号)

本所区
松井町2の1-平敷安用□東京に於ける琉球泡盛の今昔ー私は大正14年6月に東京に於いて泡盛の卸業を始めたのであるが、当時と今日と比較してすべての方面に隔世の感が致すのである。当時吾々が泡盛を販売するのに苦心したのは全く想像以上である。第一に泡盛の名称さへ知らない、酒類業者や飲食店業者の間にも泡盛の何であるかを知らぬ人々が多かった位だから、一般の人々の知らぬのも無理のない話である。只僅かに九段を御得意とする極少数の間に知られているのみであった。斯様な有様であったので私は先ず泡盛の特質及び其の名称の宣伝に初めは全力を注いだので其時は酒販売業者は勿論あらゆる縁故をたどって宣伝に之努めたものであった。之を取引の状態から見ても全く御得意の信用状態が不明なので貸倒れになったり非常に苦痛を感じたものであった。泡盛卸の創始時代はすべてがお先まっくらで、泡盛取引を中心にして暴力団も横行すると云ふ有様で、一時は死線を越えて事業を為すと云ふ危険な状態も現出した位である。斯様な有様であったから商売道徳と云ふものはなくまぜ物割り物が熾に横行し、今日では誰も本気にするものなく一笑に附することであるが一例を申せば吾々が泡盛は無色透明が純粋なものだと云っても本気にしない。濁ったものが眞の泡盛だと信じた人も多かった位である。

今日の如く同業者も多くなり取引も合理化され組織化され泡盛の眞面目が発揮されるまでには、我が琉球泡盛は東京市場に於いて幾多の受難を得て今日の地位を築き上げたのである。当時一ヶ月三十本を売り捌くにはなかなか容易でなかったそれが今日東京に於いて我が琉球泡盛は三千石以上の需要をなしている、この点より見ても隔世の感で、殊に一昨年より急激に需要が増加して来たのであるが一面慥に琉球泡盛の真価が認識されて来た結果であると信ずる。克く酒類業者或は飲食店主の間に泡盛は度が強いため多量に売れぬから商売にならぬとか、或は商標が無いから信用が出来ぬとか、言ふ人があるが、私は之等の人々に対して沖縄に於ける取引の状態、産業状態を説明しているが私は左の点はいつも力強く主張しているのである。  /酒類の中で泡盛程完成した酒はない。又泡盛販売業程堅実な商売は他の酒類業にはない /と云ふことである。外の酒は日時がたてば腐敗する、従って販売上にも思惑が生じ投機が行はるるのであるが、泡盛は決してそんなことはない。第一品が完成品であるためいつまでも経っても品がわるくなると云ふことがない従って思惑も入らねば投機も入らぬのである。泡盛業の堅実なる所以も実に茲に存するのである。

尚私は事業と云ふものは信念を持って実質本位で行く時は必ず永久性のあると云ふ事を信じている、私は泡盛は酒類の王座であると云ふ事を科学的に立派に説明し得る自負心を持っているので、堂々と初一念を貫徹して来たのであるが、今後もこの業界に邁進し、琉球泡盛の聲価発揚に尽力するの覚悟である。之が亦琉球泡盛業者の生命線を確保する所以である。(写真は平敷氏)

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1936年11月 嘆願書○泡盛専売実地セラルルニ当リ東京府、近県、東北各県並北海道ニ至ル地方ヘノ配給ヲ円滑ニ遂行シ萬遺漏ナキヲ期スル上ニ於テハ是非配給機関ヲ当東京市ニ設置スル必要之有ト存セラレ候   右ニ関シ沖縄県酒造組合聨合会並ニ沖縄酒造組合ニ対シ別紙ノ通リ開陳仕リ候ニ付泡盛元売捌東京支所設置方ノ御指定ハ左記八名ニ御下命仰キ度茲ニ謹テ連署此段奉請願候也 
                          東京市本所区千歳町三丁目三番地ノ十九 平敷安用 他七名 
大蔵省専売局長官 荒井誠一郎殿                                     


氏集□金氏平敷里之子ー元祖金國鼎具志頭親方能安四世金朝榮津嘉山親雲上安春支流次男諱榜第津嘉山里之子親雲上安齊□平敷安常さまー金氏平敷家の家譜の写本とかは残っていませんでしょうか。何かあれば那覇市歴史博物館(〒900-0015那覇市久茂地1-1-1パレットくもじ4階 ℡098-869-5266 FAⅩ098-869-5267)に連絡をください。那覇市歴史博物館は沖縄中の家譜を収集中です。


11月18日ー平敷安常□初めまして。琉文21;東京の泡盛②に記載されている本所区の泡盛商である平敷安用の孫で、平敷安常と申します。祖父安用が書いた小文が引用されております。祖父安用一家は東京の空襲で焼け出されたあと、熊本に疎開、戦後は、駄菓子の卸商等をしておりました。長男安彦は、戦後すぐに、若く病死しましたが、孫たち4名は健在です。小生は米国ABCニュースのカメラマンとして2006年まで勤め、現在米国ニュージャージー州に住み、2008年に回想録『キャパになれなかったカメラマン」を出版しました。貴紙のブログで祖父の文章の一部と広告の写真を見つけ、懐かしく、全文を読みたいとメイルでお願いする次第です。「琉文21」のような、地味でも優れた企画を続けられるご苦労に深く敬意を表します。

11月20日ー沖縄県立図書館で「平敷安常」を検索、すべて講談社発行で『アイウィットネス時代を目撃したカメラマン』(2013年6月)、『キャパになれなかったカメラマン ベトナム戦争の語り部たち』上下(2008年9月)の3冊があった。『アイウィットネス時代を目撃したカメラマン』は借りて、後の方は文庫に入っているのでジュンク堂で買った。前の著で、著者の母親である良子さんの実家が馬氏小禄家であること、同時多発テロで瓦解したツインタワーを設計したミノル・ヤマサキ(山崎實)の妻・輝子が、著者の祖父安用の従兄弟・安興の長女で、その長男のタロー・ヤマサキは報道写真家で1981年、フィーチャー部門でビュリッツアー賞を受賞していることがわかる。

平敷安興
□1981年11月 北米沖縄クラブ『北米沖縄人史』若夏社□ロサンゼルス近郊における沖縄系の事業ー平敷安興(首里出身)・太田蒲戸(与那城出身)1914年、平敷安興はロサンゼルス第六街市場で「スタープロデゥース」という農産商会を始む。1916年、平敷は白人仲買商マイヤーダ―リングの日本人主任として勤めていた太田蒲戸を共同者として迎えた。その後、奥武朝道、比嘉常知、松田勇吉らも共同者に加わる。平敷が正直者で、世人の人望の高かったことをある人はウタで「仲買ひを盗人と呼ぶ世の中の 闇夜に光る暗(アン)光の君」。その後1918年、共同者の奥武、比嘉、松田の3名は、共同者の権限を太田、平敷にゆずる。全盛期には約20名ほどの雇用人がいて、遠くはインペリアル・バーリー、サンディエーゴ、ランポーク、近くはロサンゼルス郊外の日本人農家を対象に、果物ならびに野菜の委託販売を始めた。1941年12月7日、日本のパ-ルハーバー空襲で日米戦となり、店を閉鎖。明けて42年、西部沿岸の日系人と共に収容所へ立ち退き、この時点で平敷、太田両氏の事業は終止。その後両氏は相次いで他界。/北米沖縄系人のプロフィールー平敷安興は1876(明治9)年4月10日に沖縄県首里で出生、中学校を卒業するや留学生として1903年渡米する。サンフランシスコに上陸、その地でしばらくセント・フランシス・ホテルでベイカーとして働く。クックとしての腕も上々で、沖縄県人として彼の右に出る者がなかった。(略)彼には2男2女がある。長女テル子は南加大学の音楽科を優秀な成績で卒業し、ニューヨークでピアノを教授していたが、その時、ヤマサキ・ミノル氏と知り合い結婚し、3名の子供の親となった。次女アキはロサンゼルス加州大学(UCLA)在学中に立ち退きにあい、ニューヨークに移り、コロンビヤ大学に学ぶ。彼女は小児科専門の山崎ゼイムス医師と1949年に結婚、家庭には3名の子供がある。長男ジョージは1923年に生まれたが不幸にして1924年に他界した。次男ゼイムスはサンタ・アナに本店を持ってプラスチック・ドレイプリーのビジネスをして繁盛している。/平敷俊子(旧姓トミナガ)ー首里で出生、沖縄県立第一高等女学校を卒業。平敷安興と結婚。


11月22日ー平敷安常□琉文21編集者様;
早速のお手配で、祖父平敷安用が書いた泡盛商としての感想文、全文を読むことが出来ました。若き頃の写真も添えつけていただき、そのお心遣いに感謝いたします。生れて初めて祖父の文章を読む機会があり、こんな形で祖父の一面を知ることが出来感動しております。まずは方々に散らばっている平敷の親戚たちにこのことを知らせます。


2017年10月31日ー渡部(新井)祥穂と申します.
「琉文21」で取り上げていただいた,平敷の家の出身の者です.平敷安用氏の,弟の曾孫です. コメントを寄せた平敷安常とは,安常の父と私の祖母が いとこどうし,ということになります.親戚筋でも断片的にしか知らなかった情報をまとめていただき,ありがとうございます.