ブログ「石垣島の石碑・説明看板(市街地)」に「八重山キリシタン事件殉教の地」の碑がある。説明文に□一六二四年に石垣島冨崎の沖に漂着した宣教師ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父によって八重山にキリスト教がもたらされ嘉善姓一門を中心にひろまったが国禁であるキリスト教を信仰したとして「八重山キリシタン事件」と呼ばれるキリシタン弾圧事件がおこった。一六二四年、宮良親雲上永将は首謀者として当地(オンナー)において焚刑に処せられ、財産は没収。子孫は波照間島や与那国島、宮古島に流された。ルエダ神父は、琉球王国に連行されたのち粟国島へ流刑となり、そこで殺害された。
 
一六二九年にはトマス・デ・サン・ハシン西六左衛門神父が日本への密航の途中に石垣島に立ち寄り、永将の弟宮良頭の永弘や大城与人安師と接触したとして翌年ふたりは琉球王国へ連行された。永弘は渡名喜島へ流刑となり、一六三五年に焚刑に処せられるが、安師は慶良間島へ流刑となった後に赦されて帰島する(一六四二年)。さらに、一六三八年には宗門改めの踏み絵により永将の弟の宮良与人永定がキリシタンとして永将同様当地(オンナー)で焚刑に処せられた。この一連の事件は薩摩侵入(一六〇九年)後の琉球唯一のキリシタン弾圧による殉教事件である。

                                     二〇〇四(平成一六)年十月二二日(旧九月九日)  嘉善姓一門会
                                       □この碑は桃林寺の西方(79線沿い(新川54番地)にあります。

ルエダ神父の殺害場所については異説もあるが、其れはさて置き「ルエダ神父殉教碑」というのは沖縄には無い。粟国教育委員会が事実関係や、神父の故郷を調査して粟国の海岸、渡名喜島が見える場所に殉教碑を建立すべきと思う。石垣永将については、『沖縄大百科事典』に高良倉吉氏が書いている。それによると永将の屋敷跡はのちに蔵元となり、現在は沖縄県八重山支庁・石垣市立八重山博物館が建っているという。1997年2月、カトリック神言修道会司祭の青山玄氏が『石垣永将の殉教ー琉球最初のキリシタン』(聖母文庫)を出され、ルエダ神父について詳しく紹介されている。

□フアン・デ・ロス・アンヘレス(天使たちのヨハネの意)・ルエダ神父は1578年頃スペイン北部のブルゴス県ヴィリャサンディノ村に生まれる。両親の名前は不詳。1590年9月にはドミニコ会のカエタノ学院生徒。1603年、ドミニコ会司祭となってヴィリャドリドのサン・バブロ修道院にいた時「ロザリオの聖母管区」のための宣教師募集でメキシコのサント・ドミンゴ修道院に落ち着いた。メキシコに5カ月滞在した後、1604年、マニラに到着。同地で開催された管区会議で日本に任命され、7月に甑島の長浜村に着く。1606年2月、川内町の京泊村に移る。1607年、肥前国浜町の教会に任命された。そして迫害下の潜伏活動を経て、1620年12月に長崎を出発、マニラのサント・ドミンゴ修道院病室に落ち着く。

ルエダ神父がいつ処刑されたのかは不明だが、前述した西神父の追記には、粟国島でmuchos meses(多くの月)滞在していたように書かれており、この漠然としたスペイン語の表現は、日本語の「数か月」と「二、三年」乃至「数年」との間の期間を差すと受け止めて良いと思われるから、少なくとも1624にではなく、その翌年か翌々年頃と考えてよいであろう。