1918年(大正7)
1月1日『琉球新報』伊波普猷「盛島親方とロイド・ヂヨーヂ」「長嶺華國翁談ー馬の名人(盛島親方)」「盛島親方の肖像と手跡」
1月5日 那覇西町の偕楽軒で「貝類同好会」発足□本会は会員相互の気脈を通じ貝類に関する智識の交換、研究又は利用方法を講究するを以て目的とす/本会の事務所は那覇区東町3丁目沖縄県水産組合内に置く

1月10日『琉球新報』上間草秋「琉歌かるた」連載
1月24日『琉球新報』「芝居改革論」
2月12日 東京日本橋区本町三丁目ー南方熊楠殿①、末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「拝啓 先生の御執筆の十二支伝説は古今東西に渡りて御渉猟のこととて毎年面白く拝読いたし候(略)琉球にも馬に関する伝説、少なからず候に付、茲に小生の存知の分を記録に出でたるものは原文の候、然らざるは、簡単に記述いたし候間、御採択なされ候はば幸甚に候、失礼には候へど、御ねがひいたし度きこと沢山これあり候につき御住所御知らせ下さるまじくや・・」→『球陽』『琉球国旧記』引用②「南方熊楠の『馬に関する民俗と伝説』を受けて『松屋筆記』の引用」
2月25日『琉球新報』「写真ー比律賓の麻山」(高江洲氏寄贈の写真 本社製版)
2月28日『琉球新報』「写真ーお庭拝見ー仲尾次政昆氏」
3月  那覇西本町2-31で松屋活版所開業
3月1日『琉球新報』「写真ーお庭拝見ー山城高興氏」
3月2日  浪花節雷右衛門一行「乃木将軍、水戸黄門、大石妻子別」那覇・浜崎旅館
3月2日『琉球新報』真佐雄「詩人末吉安持」連載
3月9日 和歌山県田辺町中屋敷町三十六ー南方熊楠殿③、末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「又琉球の娼妓にも往々この種のものあり、不毛の渾名を附せられ居り候者を伝聞致し候。不毛のことをカハラケ的に何と云うや、長らく其の名存せざる候。小生も純粋の琉球人なれど存ぜず候(略)首里付近の墓は前述の如く(樹木鬱蒼たれども、那覇付近の墓は樹木少し、多くは不毛なり。故に婦人のこれなきものを称し那覇墓(ナーハバーカー)となすもの・・・」→南方熊楠の『太陽』『日本及日本人』論文、『遺老説伝』の引用
3月9日『琉球新報』「写真ーお庭拝見ー饒平名紀順氏」
3月10日『琉球新報』「写真ーお庭拝見ー泉崎大湾家」
3月11日『琉球新報』「写真ーお庭拝見ー上ノ倉山里家」
3月13日 沖縄県立第一中学校 第30回卒業式 君が代唱歌、山口校長の勅語捧読、卒業証書授与、浪花節の余興□卒業生/武元朝朗、大城俊彦、名城政雄、富川盛蒲、見里朝慶、東恩納寛敷、阿波根朝松、名護朝扶(麦門冬の義弟)、松田賀哲・・・・・
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3月 那覇の帝國館で「Civilizationシビリゼーション」(和名・文明)上映
トーマス・インス監督、1916年、アメリカ。映画に分業制を導入したと評される監督。


3月20日『琉球新報』



3月29日『琉球新報』「写真ー村田小次郎の波平山戸」
4月 名護朝扶、仲喜洲尋常高等小学校代用教員
4月ー『日本及日本人』728号より、三田村鳶魚らによる「東海道中膝栗毛輪講」が連載される。
4月2日 沖縄県会議事堂で「和洋琉大音楽会」バイオリン・備瀬知範、備瀬知栄、親泊寛賢/マンドリンピアノ・山田有功、高江洲妙子
4月5日 『琉球新報』草秋「戯曲・戀染屋王子涙」
4月12日『琉球新報』「渡口精鴻氏の研究した虎列刺菌の寿命」
4月10日和歌山県田辺町中屋敷町三六ー南方熊楠殿④末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「横山健堂『薩摩と琉球』の
「(墓)小生の考ふる所に依れば、其の形が女陰に似たりとて、直ちに古琉球人が、其の本に帰すてふ思想より斯かる表象を試みたりとは思われず。これは寧ろ仏教思想にかぶれた後世の人の付会なりとせむ」。
口絵に吉田博氏の写生せし琉球の墓があり候。小生は沖縄朝日新聞にて琉球の閥族攻撃を致し居り候・・」
4月20日 大義丸で尚昌、文子を連れ帰省
4月21日 和歌山県田辺町中屋敷町三六ー南方熊楠殿⑤末吉安恭葉書「墓の絵葉書」・沖縄首里区儀保町四ノ八


1996年3月 南方熊楠邸で「麦門冬・末吉安恭ハガキ」撮影・粟国恭子

4月27日 和歌山県田辺町中屋敷町三六ー南方熊楠殿⑥末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「お尋ねの琉球に於ける男色のことをお答えいたし候」と、長年にわたり文献の上から男色について抜き書きをしていた麦門冬にとってこの質問は我が意を得たりである。無論、熊楠は実践したかも知れないが、麦門冬のそれはプラトニックラブ的なものであった。1900年頃の麦門冬は、沖縄県師範学校附属小学校で学友たち3人で小さな文藝クラブをつくり始終談論を闘わしたようだ。この頃の思い出を、明治45年の『沖縄毎日新聞』編集日誌に書いている。「昔のままの美しい少年として(略)変わり果てたる一紳士を驚きの目で見て、僕は少年の彼と、青年の彼が二人無ければ算が合わないような感じがしてならなかった」と。また前の年の編集日誌には「かすみ座は美少年揃いで同性問題の研究にはもって来い」と書いている。麦門冬は20歳まえには一つ年下の名護真松と結婚しているので性愛問題は妻だけである。麦門冬の父・安由と、真松の父・朝直は琉歌の歌会でいつも顔を合わせる。その席で二人の結婚話は進められた模様である。

5月9日 和歌山県田辺町中屋敷町三六ー南方熊楠殿⑦末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「『五雑爼』に馬の交尾を衆妾に見せる話と似寄のこと、我琉球にもこれあり候(尚灝王)。馬婚、牛婚は『古事記』にも出で居り候が、琉球の口碑にも此れあり・・」
5月15日 和歌山県田辺町中屋敷町三六ー南方熊楠殿⑧末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「小生も嘗て『古事記を読む』の題にて古代人の恋愛関係を論じヨタを飛ばし過ぎた為か、之を載せた編集人が検事局に呼び出されて叱られたことあり・・」
5月20日 和歌山県田辺町中屋敷町三六ー南方熊楠殿⑨末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「拝啓、先に沖縄の巫女(ユタ)のことを一寸申し上げましたが、猶申足らぬ点も御座いますから補足いたします。向象賢『仕置』、琉球の劇組躍『孝行の巻』は謡曲の『生贄』と同趣向のもの。→『球陽』の引用多い
5月24日 和歌山県田辺町中屋敷町三六ー南方熊楠殿⑩末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「天狗の話は、当地には全くこれなく候、福本日南氏の説話に南方熊楠が日南に云うた大英博物館秘密室の彫像への質問、芭蕉翁も男色を好みし由自ら云へりと俳人鳴雪翁の説なりしが、芭蕉がそれを文章に書き著せるもの見当たらず候が、ご承知に候はば、御示し下され度候」(安恭の数珠の絵)○安恭は1914年11月 同人誌『五人』に「芭蕉の恋」としてその男色にふれている
5月31日 和歌山県田辺町中屋敷町三六ー南方熊楠⑪末吉安恭葉書□「拝啓、この袋中上人の『琉球神道記』中のハズキのことを申上候。『胡国の女人形醜し』の『胡国』は、内地を差したるものあらず、と申すは、下に『倭国に是を伝ひ』云うとあり」

6月1日ー『日本及日本人』732号□末吉麦門冬「支那のあやつり」「琉球の鬼餅」
6月5日 和歌山県田辺町中屋敷町三六ー南方熊楠殿⑫末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「この根抜けざることは、問々聞き候が、何に因し候や、右の袋中上人には、更に『琉球往来記』と申す書これあるやに承り候が、御存知なきや、若し御存知じにて候はば、その本の所在お示し下され度候。沖縄図書館にては琉球に関する書類を集め中に候が、加州金沢の俳人堀田麦水(天明三年63歳没)の著書に『琉球属和録』『南島変』『慶長中外伝』(66巻)とあり、御存知なきや、『属和録』は、写本にて(欠本)一部沖縄図書館にあれど他はこれなく候」〇安恭の「鼓」のポンチ絵

6月6日 和歌山県田辺町中屋敷町三六ー南方熊楠殿⑬末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「『琉球由来記』の夷堂。琉球語にて四體柔弱なる者をビール、又はビーラーと申候が、右は蛭子より出でたるものにはこれなくやと存じ候。若衆形、或いは女形に扮する俳優の美色を寵するより衆道繁昌となるの傾向ありたり。文之和尚『南浦文集』。物慶親雲上忠義が兄弟分の糸満里之子盛周を悼みたる文章、和歌、この二人はソクラテースとアルキビアデスの関係も忍ばれて、小生には床しく存ぜられ候。小生は世に知られぬわが郷里のことをせめて心ある方に御知らせせばやとの愚念より事斯に及び候」□→1996年『明治古典会七夕大入札会』目録に1927年、南方熊楠が三田村鳶魚に送った「弘法大師一巻之書」がある。これは熊楠が1931年9月に岩田準一宛書簡に出てくる「むかし薩摩に伝えし『弘法大師一巻之書』という写本と、末吉安恭より送られた『琉球の浄愛の歌』を写したもの」。これを神坂次郎氏が入手、『南方熊楠の宇宙: 末吉安恭との交流』四季社として結実。


□2002年2月10日 奈良女子大学「南方熊楠に学ぶー熊楠と沖縄」
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□2014年5月12日『沖縄タイムス』崎原綾乃「唐獅子ー麦門冬書翰 R18」

6月12日 和歌山県田辺町中屋敷町三六南方熊楠殿⑭、末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「『球陽』、今なら三面記事に載るような市井の雑件まで織りこまれてあるから、随筆としては面白きものです。小生は二部所持いたして居りますから、一部進呈いたします。この本はもと県庁にあったもので、完本ではないのです。近く琉球叢書として出すような計画がありますから(略)琉球叢書にはこの外色々あります」→安恭のポンチ絵「あまみのくろうさぎ」

6月14日 和歌山県田辺町中屋敷町三六南方熊楠殿⑮、末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「吉田東伍氏の『大日本地名辞書』琉球の部の編者は東恩納寛惇と申し、文学士、我郷人にては琉球史の権威と称せられ候、今東京にあり。袋中上人。ユタのことを『南島雑話』『日本霊異記』『女官御双紙』の引用。変圧器のトランスフォマーと云うを聞いて笑う人あり、英語の辞書を引いたら、フォマーは形成者、構成者、創造者とあり、宜なる哉と存じ候。御問合の茶臼、倒澆蝋燭(さかさまろうそく)のこと、沖縄にはその名なきように候、実ありて名なきもの歟。その道の人に問い合わせて見申すべく候。平塚雷鳥女史等夫婦は、倒澆蝋燭をいたさるるや。豚(ウアー)の化物、流石に琉球は以前から豚の産地たりし丈、豚の化物の話これあり候」

6月20日 和歌山県田辺町中屋敷町三六南方熊楠殿⑯、末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「男色と武芸は、何れの国も深き関係あるもの。『球陽』は、一冊人に貸せり、取り揃えて御送り申すべく候、又漏れたる部分の重要なる記事、小生書き加え申すべく候」

6月24日 和歌山県田辺町中屋敷町三六南方熊楠殿⑰、末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「昨年の『日本及日本人』春季拡大号に『酒泉等の話』という論文の中に耳塚のことにつき柳田国男氏説を駁されたことは至極尤もに存じ奉り候。丘浅次郎『進化論講話』。豚の化物。豚と不動」□安恭の人物ポンチ絵□1920年2月1日『日本及日本人』775号に、安恭は「糞汁が解毒剤ー支那の昔には誠に糞喰うことあり」、1923年7月15日『日本及日本人』866号に「支那人と豚」を書いている。「御問合せの茶臼、倒澆蝋燭のこと、我琉球にては何と申候哉と、小生いろいろ尋ね候ひしも知る者これなく・・・・・」とある。さすがの博覧強記の麦門冬も辻通いは専ら酒だけで、そういうことには疎い。前に、真喜志康忠優に「茶臼は沖縄口で何と言われるんですか?」と問うと、「むちゃき」と言われた。最近、仲宗根幸市氏の本を見ていると、八重山六調(坐興歌)に「ー思う男が上になり 下からもちゃげよ面白さー」と出ている。

7月ー末吉麦門冬、南方熊楠に『球陽』贈る
7月10日 和歌山県田辺町中屋敷町三六南方熊楠殿⑱、末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「拝啓、波之上をナンミンと訓むこと、曩に御答え致し候が、今波之上神社の由来を『八社縁起』と申す書によりて一寸申上候。波之上もその八社の中にて『紀伊の熊野三社大権現也、本宮伊弉冊尊、相殿の左は速玉男神、右は事解男命』とあり。紀州熊野の権現を勧請したること、他の六社も同じ。貴地ともこの波之上は因縁関係これある儀と存ぜられ候」

8月15日 『日本及日本人』763号 麦門冬「焼酒(琉球泡盛)」

8月21日 和歌山県田辺町中屋敷町三六南方熊楠殿⑲、末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「湊村合併名勝大陵地売却計画に対する阻止運動は、実に国家の為め至当の事と奉存、此上の御高闘を以て似而非有志輩に鼻を明かしめらんことを奉希望候。『球陽』は、御意に召、御拝読の趣、尚ほ地名人名神名等の琉球訓、御承知なき為め困るとの事、友人真境名笑古氏の書いたものを参考と致しものに候・・」
9月1日 『日本及日本人』□末吉麦門冬「琉球三味線に就いて」

9月14日 和歌山県田辺町中屋敷町三六南方熊楠殿⑳、末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「当地一週間継続の暴風雨にて、戸外は騒がしく室内は滅入るやうに淋し(略)『中山世譜』『球陽』等は皆『中山世鑑』に依れり、世鑑は和文にて物されし歴史にて、琉球にて最古の歴史に候。琉球の水戸黄門たる羽地按司向象賢が慶安三年に編纂せしものなり。琉球には其の以前の記録すべて残らず候。『琉球神道記』、琉球のことは多く馬幸明の口より伝えたるものの如ければ、信を置くに足るべし。同郷の先輩、東恩納寛惇氏が数年前(1909年3月)『琉球新報』に出した『明史に現れたる琉球人名の二三』。往昔幸地里之子と云う美少年あり、王の妹(尚徳王とも云う)に通じ、あらはれて罪せらる。喜舎場朝汀翁の『琉球見聞録』」
  

9月15日 和歌山県田辺町中屋敷町三六南方熊楠殿(21)、末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「小生先便御答致し候『球陽』の注釈の中に誤りこれあり、右是非訂正いたし候(略)友人山内盛彬なる者あり


1925年11月『沖縄タイムス』山内盛彬「麦門冬氏遺稿/三味線渡来説に就いて」
  
9月19日ー和歌山県田辺町中屋敷町三六南方熊楠殿(22)、末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八「我が沖縄にては、羊のことを『メーナー』と称し候が、『メーナー』の輸入されたのは、ほんの五六十年前、外人が国王に献じ、それを国王の別邸にて飼養されしに過ぎず。自了は、琉球の雪舟、探幽と云はるる画人に候。『年十八無疾而逝』と球陽にはあれど、小生が調べた所によると、年31才で逝けり」□→安恭は1917年4月『沖縄新公論』に「画聖自了」を連載

11月 『沖縄教育』弟115号 島袋源一郎「本県の俚諺ー旅や道連れ※行逢れば兄弟」