右が仲地哲夫氏/(仲地哲夫氏提供)

 1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一は父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

尚泰侯爵
1901-8-19 尚泰侯爵、急性カタルで東京にて死去/8-23 尚泰侯爵遺骸①、午後7時に東京本邸出発、沖縄青年会が新橋駅まで代表の諸見里朝鴻が神戸まで同行/8-24 尚泰遺骸、午後5時に梅田駅通過、送迎に商業興信社の宮井悦之助、/沖縄広運会社支店長の野里朝義ら参加/同夜、遺骸は球陽丸で那覇向け神戸出帆/8-28 尚泰遺骸、午前7時半に那覇港着。午前10時に大中邸/8-29 尚泰侯爵、午後2時に出棺、玉陵に葬られた。会葬者2万人/1905-2-7 故尚泰侯、尚家邸内から円覚寺に御入廟。

①1995年3月 南風原文化センター『最後の琉球王 尚泰と尚家の人々の暮らし~ある奉公人の証言から~』カメ吉永大工廻「裸になして大きな板と言うていいか、きれいにきれいに消毒してあげて、それからお棺はどんなお棺であったかと言うたら、アルミの大きなお棺ができてね、それに二重お棺になっておったな。外側のほうは木でできて、中のほうはアルミのような軽いお棺になって、それでそれの中にはね、どういうふうにして入らせてあげるかと言うたら、お茶をこのぐらいずつまん丸いきれの袋を作ってね、それにお茶を一杯ずつ押し込んで、それを下にこうしてひいてあげてね、動かさないように言うて、下にいっぱいひいてあげて、入らしてあげてからもその間、間にみんなお茶を包んだ袋が置いてあったよ。その重たいお棺を肩に担いでいました。」