1919年11月22日『沖縄時事新報』安良城盛雄「田島先生」
1919年11月23日『沖縄時事新報』安良城盛雄「田島先生」
○(17)には組踊について書かれてある。組踊は久米舞とは関係がないと断言し琉球人自身は面白かったが支那人鹿児島人には有難迷惑だったらう。役を演ずる者は大名か侍の子弟であって御芝居といった手水の縁は平敷屋朝敏の作で中城若松といふ美少年のあつかましい(田島先生の老衰)が田舎道を歩いている時に水のほとりに立っている女を見出して水を呑まして呉れとたのみ終にづうづしくも手から汲んで貰いたいと出歯式を発揮するといふ淫靡なものだが琉球の様に婦人を檻の中へ監禁している所では現実をはなれている故反って喜ばれた伝信録の著者徐葆光の来た時にも見せたもので梗概が同書にあるだらう(18)もそれにつづいて更に歌の事が書かれてある。

◎琉球のをどりの手といっては極めて簡単である全く門外漢でもその手振を説明することは難事でない、ただ同じ様な手振りを上下縦横に振廻はすだけでシナヤカもハデヤカもないこの踊はオモロから出て来たオモロ主取といって専任にその僅に残ったオモロだけを失はぬ様になってからは遠い神代のものらしい感じも光もついたものらしいがその中に三ッのヲドリの手が記されてある。即ヲギミテ、オシテ、コネリデであるこの三様で現代の踊を作っていることは明らかである(19)には琉球について書かれてある。  波の聲も止れ風の聲も止れ 首里天加那志拝がですでら ◎これは恩納ナビ作で構想の雄大な点で幾万琉歌中の一頭地を抜いている又仝人作に  首里加那志公事夜昼も仕やびら あまんよのシノグ許ちたぼり  シノグは盆踊りである。思うにナベとヨシヤの歌を琉歌から取去ったらゼロになることを自分(田島先生)は確信している。

◎最後に照屋宏氏が一高で琉球語の演説をスペイン語とごまかしたことに対して琉球語が一寸聞いて外国語の様だと先生がいっているそれから名士を批評して護得久氏を物のわかった男で碁は独習で方圓社の初段以上だといひ腰弁から田舎の書記官まで成り上った岸本氏は焼芋で酒を呻るのが能で理屈屋の大田朝敷氏は大風呂敷が身上だけに演説が上手だ。兵学校入学試験に4番卒業試験に3番になった漢那大佐が芋の蔓でもあったら未来の海軍大将だらうが琉球おなじ芋畑でも蔓がちがふているからどうなるかしら 伊波普猷屋比久孟昌金城紀光照屋宏島袋松なども皆同時代の人で違った方面で前途を開拓している」以上抜粋してお紹介する訳である。(完)

1972年9月   『琉球の文化』第2号 安良城盛雄「気張りよう沖縄人」
1973年3月   『琉球の文化』第3号 安良城盛雄「琉球で造られた刀剣」
1973年10月  『琉球の文化』第4号 安良城盛雄「東恩納寛惇の誤解」
1974年8月   安良城盛雄「忠臣護佐丸正伝」
1974年10月  安良城盛雄「琉球の貢献」


[写真説明]
左から百合子の母、盛英の妻、盛英、 親泊家から来た母、愛子の母、みつこ、父・盛能、盛起、盛雄。
  ―首里赤平町の屋敷に