1910年11月7日 午後11時半ごろ佐敷尋常高等小学校(本山萬吉校長)に於いて火災。校長は校舎と棟続きの自宅に病気の妻と子どもが居たが真っ先に学校に飛び込み書類を持ち出したが御眞影は焼失した。妻と子どもは村民に助けられた。御眞影焼失で懲戒免職となり久米島へ左遷。以後、座間味小校長を務める。



1915年7月 親泊朝擢『沖縄教育』第百二号 「編輯だより 4月26日 久米島の本山萬吉君より『夜学教科書久米島』の寄贈あり、謄写版摺3枚にて、編輯室便、時事、国語、算術、農業、文苑、雑報に分ち、趣味あり且つ廻覧雑誌として有効なるものなり。」

1931年初夏 本山裕児、欧州からの帰途、シンガポールに立ち寄る。→1942年2『月刊文化沖縄』本山裕児「シンガポール=旅の独白・回想=」・・・23

1938年5月26日『琉球新報』「金口木舌」
○馬天居士本山萬吉翁は昨日突然郷里佐賀に引き上げた▼豊見城村の有志は前日之れを聞き別れを惜しみ▼宜保成晴氏瀬長清氏等有志村長区長送別の宴を張った▼席上翁は沖縄県は去りたくないが長男裕児が応召される時手足纏いひになっては国家の為めに相済まぬと赤誠を披瀝した・・・▼翁は本県初等教育の功労者にして退職後豊見城に隠棲▼悠悠自適馬天居士のペンネームで本紙文芸欄に健筆を揮ひ、其の辛辣なる皮肉と特種の味は読者に魅力を投じた▼然して翁の足跡を見ると佐賀魂即ちハガクレ精神が躍如として其の言行に現はれた▼佐賀士族には昔から特種の精神が横溢し▼孟子の「富貴も淫すること能はず、貧賎移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ふ精神を孕んでいる。・・・


1938年5月『月刊琉球』馬天居士「長命語彙(1)」

1938年6月『月刊琉球』馬天居士「長命語彙(2)」写真ー本山萬吉(馬天居士)

1940年12月『月刊文化沖縄』第一巻第五号 馬天居士「神崇(神罪)」・・・12  「琉球人物史伝 勇敢・奥浜船頭ーバルチック艦隊最初の発見者」・・・14


本山萬吉『馬天居士集』

本山萬吉-1939年5月3日(70歳)没 長男・裕児、二男・常男(ブラジル在)、三男・政比古(鹿児島在)。