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以下は『映画春秋』創刊号。1946(昭和21)年8月発刊よりの抄録(抜書き)である。
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 最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前も混じってるということ聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれは本当に君の意見かときくようになった。

 そこでこの機会に、この問題に対する私の本当の意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとって、近頃この問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。

 多くの人が、今度の戦争で騙されたという。みながみな口を揃えて騙されたという。私の知っている範囲では俺が騙したのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人は騙したものと騙されたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官に騙されたと思っているが、軍や官の中へ入ればみな上の方をさして、上から騙されたというだろう。上の方へ行けば、さらにもっと上の方から騙されたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人か二人の智慧で一億の人間が騙せる訳のものではない。

 すなわち、騙していた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。しかもそれは、「騙し」の専門家と「騙され」の専門家とに画然(ぴったりと)と分かれていたわけではなく、いま、一人の人間が誰かに騙されると、次の瞬間には、もうその男が別の誰かを捕まえて、騙すというようなことを際限なく繰り返していたので、つまり日本人全体が夢中になって互いに騙したり騙されたりしていたのだろうと思う。

 このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさやさては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織いかに熱心にかつ自発的に騙す側に協力していたかを思い出してみれば直ぐわかることである。

少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫し続けたか、苦しめ続けたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり。あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければらない、あらゆる身近な人々であったということは、いったい何を意味するのであろうか。

 いうまでもなく、これは無計画なテン狂戦争(キチガイジミタセンソウの意、テン=やまいだれに旧漢の真に頁)の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまったためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかった事実をも、等しく承認されるに違いないと思う。

騙されるという事は勿論知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意思の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持っている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならな。つまり、騙されることも一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。

 騙すものだけでは戦争は起こらない。騙すものと騙されるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 そして騙されたものの罪は、ただ単に騙されたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なく騙されるほど批判力を失い、思考力を失い、家畜的な盲従に自己の一切を委ねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無責任などが悪の本体なのである。

このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することが出来なかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実と全くその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配者階級全体に対する不忠である。

 我々は、はからずも、いま政治的には一応開放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分達の罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「騙されていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から開放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるをえない。
「騙されていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも騙される、いや、現在も既に別の嘘によって騙されはじめているにちがいないのである。

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今日は7月12日(日)今週、自民の安保法制の強行採決あるやも・・・という時期、
  取り置きの〈伊丹万作〉をだしてきてみた。なにかせずにはいられない!そんな午後だった。
新国立競技場問題、TPP,原発再稼動・福島避難民・中間貯蔵施設等の問題にも、『伊丹万作の言葉』は今に甦る(よみがえる)。