03/29: 作家・川端康成 ①
□笹川良一の父・鶴吉はかねてよりの碁敵川端三八郎(天保12<1841>年4月10日生まれ)を招き、碁盤を挟んで睨み合っていた。三八郎の孫が康成である。(略)ときに川端康成は、第四代日本ペンクラブ会長として国際ペンクラブ大会の招聘などに奔走し、資金調達に大いに腐心していた。そんな折、竹馬の友は進んで資金援助を申し出ている。(2010年10月 工藤美代子『悪名の棺 笹川良一伝』幻冬舎)
1938年2月」19日『沖縄日報』「懐しの歌手 藤山一郎君きのふ思出の那覇へ/川端康成氏来月来訪」
1938年3月『琉球新報』□東京の比嘉春潮から國吉眞哲に「川端康成が沖縄に行く予定で、折口信夫からは『辻の今昔』、比嘉春潮から『遺老説傳』を寄贈された。川端氏は沖縄を見てから読みたい、との話を知らせてきた。が、何らかの事情で来沖は実現しなかった。
1938年4月2日『琉球新報』南風原リリ「東京の印象」(2)
1938年4月5日『琉球新報』南風原リリ「東京の印象」(4)
1938年4月13日『琉球新報』當間光男「川端康成氏の琉球旅行」(3)
1938年4月14日『琉球新報』當間光男「川端康成氏の琉球旅行」(4)
1938年4月26日『琉球新報』「簪献納運動に悲鳴の金細工達」
石川正通□「ふりむん随筆」
「雪国」の作者川端康成は、その姉妹篇として沖縄に取材した南国物を書こうと意図して、在京の沖縄知名人に集まってもらって一夕の会談で沖縄に関する予備知識を得ようと会合を催した。何に怖気づいたのか、新感覚派で売り出した「伊豆の踊り子」のこの作家は沖縄行を思い止まって、現地における「沖縄の踊り子」を見る機会を自ら捨てた。
1958年6月3日『琉球新報』「川端康成氏きのう来島」
1958年6月3日『沖縄タイムス』「川端康成氏きのう来島ー誕生日は沖縄で」
1958年6月4日『沖縄タイムス』「二人の作家は沖縄を見るー川端康成氏、内村直也氏」
1958年6月5日『琉球新報』「川端康成氏ー民芸はすばらしい 身をもって沖縄を吸収」
1958年6月8日『沖縄タイムス』「座談会・川端康成氏を囲んでー川端康成、豊平良顕、宮城」聡、南風原朝光、牧港篤三、大城立裕、池田和、太田良博」(上)
1958年6月9日『沖縄タイムス』「々々」(下)
1958年6月9日 「川端康成氏を囲んで(座談会)川端康成、仲宗根政善、中今信、亀川正東、池宮城秀意、上原記者」→6月20日『琉球新報』
1958年6月10日『沖縄タイムス』「琉舞の粋に感慨 川端、鳥海氏ら迎え鑑賞会」
1958年6月11日『沖縄タイムス』「川端、鳥海、沢田、横山4氏の講演会」
昭和53年9月 千原繁子『随想集 カルテの余白』□1958年6月11日ー前列左から豊平良顕、山里永吉、川端康成、千原繁子、新垣美登子。中列左から具志頭得助、仲本政基、太田良博、牧港篤三。後列左から亀川正東、当真荘平、宮城聡、池宮城秀意、嘉陽安男、船越義彰/写真ー山里永吉案内で糸満の門中墓を見学する川端康成(右)
2004年9月 『新生美術』13号「写真前列左よりー南風原朝光、宮城聰、川端康成、豊平良顕/後列左よりー池田和、太田良博、大城立裕」
1958年6月12日『琉球新報』「鳩笛ー川端康成氏は今日のノース・ウェスト機で帰京ーきのうはたまたま川端氏の59回目の誕生日で波上”新鶴”(我那覇文・佐久本嗣子)で、沖縄ペンクラブ主催の別パーティを兼ねた誕生祝」
1958年6月13日『沖縄タイムス』「すばらしい沖縄の踊り 川端氏帰る」/『琉球新報』「川端氏"沖縄独自の美しさ"」
1958年8月『オキナワグラフ』「ペンをかついだお客様ー川端康成氏 来島」
○篤之介のペンネームと感覚的な詩で知られる文学頭取、沖相銀具志頭得助氏の数次にわたる交渉の熱意が実を結び、国際ペンクラブ副会長、日本ペンクラブ会長の川端康成氏が6月2日ひる3時40分、那覇空港着のノースウエスト機で来島した。今回の来島は沖縄ペンクラブの招きによるものであったが、「伊豆の踊子」「雪国」などの作者として文壇でも特異な存在にある同氏の来島は今まで期待されながら不可能視されていただけに、沖縄文化人の喜びは大きく、ペンクラブ会員多数が出迎えた。滞在中はペンクラブの山里、亀川氏や具志頭氏に案内されて、沖縄視察を続けられたが、6月11日、はからずも沖縄で誕生日を迎えたペンの賓客は、ペンクラブ会員、具志頭氏、沖相銀、紅房、那覇薬品、沖縄火災の関係者多数に囲まれ、「私はこんなに誕生日を祝ってもらったのは初めてでしてねエ」と島人達の温かい心づくしにその喜びを語っていた。・・・・
1938年2月」19日『沖縄日報』「懐しの歌手 藤山一郎君きのふ思出の那覇へ/川端康成氏来月来訪」
1938年3月『琉球新報』□東京の比嘉春潮から國吉眞哲に「川端康成が沖縄に行く予定で、折口信夫からは『辻の今昔』、比嘉春潮から『遺老説傳』を寄贈された。川端氏は沖縄を見てから読みたい、との話を知らせてきた。が、何らかの事情で来沖は実現しなかった。
1938年4月2日『琉球新報』南風原リリ「東京の印象」(2)
1938年4月5日『琉球新報』南風原リリ「東京の印象」(4)
1938年4月13日『琉球新報』當間光男「川端康成氏の琉球旅行」(3)
1938年4月14日『琉球新報』當間光男「川端康成氏の琉球旅行」(4)
1938年4月26日『琉球新報』「簪献納運動に悲鳴の金細工達」
石川正通□「ふりむん随筆」
「雪国」の作者川端康成は、その姉妹篇として沖縄に取材した南国物を書こうと意図して、在京の沖縄知名人に集まってもらって一夕の会談で沖縄に関する予備知識を得ようと会合を催した。何に怖気づいたのか、新感覚派で売り出した「伊豆の踊り子」のこの作家は沖縄行を思い止まって、現地における「沖縄の踊り子」を見る機会を自ら捨てた。
1958年6月3日『琉球新報』「川端康成氏きのう来島」
1958年6月3日『沖縄タイムス』「川端康成氏きのう来島ー誕生日は沖縄で」
1958年6月4日『沖縄タイムス』「二人の作家は沖縄を見るー川端康成氏、内村直也氏」
1958年6月5日『琉球新報』「川端康成氏ー民芸はすばらしい 身をもって沖縄を吸収」
1958年6月8日『沖縄タイムス』「座談会・川端康成氏を囲んでー川端康成、豊平良顕、宮城」聡、南風原朝光、牧港篤三、大城立裕、池田和、太田良博」(上)
1958年6月9日『沖縄タイムス』「々々」(下)
1958年6月9日 「川端康成氏を囲んで(座談会)川端康成、仲宗根政善、中今信、亀川正東、池宮城秀意、上原記者」→6月20日『琉球新報』
1958年6月10日『沖縄タイムス』「琉舞の粋に感慨 川端、鳥海氏ら迎え鑑賞会」
1958年6月11日『沖縄タイムス』「川端、鳥海、沢田、横山4氏の講演会」
昭和53年9月 千原繁子『随想集 カルテの余白』□1958年6月11日ー前列左から豊平良顕、山里永吉、川端康成、千原繁子、新垣美登子。中列左から具志頭得助、仲本政基、太田良博、牧港篤三。後列左から亀川正東、当真荘平、宮城聡、池宮城秀意、嘉陽安男、船越義彰/写真ー山里永吉案内で糸満の門中墓を見学する川端康成(右)
2004年9月 『新生美術』13号「写真前列左よりー南風原朝光、宮城聰、川端康成、豊平良顕/後列左よりー池田和、太田良博、大城立裕」
1958年6月12日『琉球新報』「鳩笛ー川端康成氏は今日のノース・ウェスト機で帰京ーきのうはたまたま川端氏の59回目の誕生日で波上”新鶴”(我那覇文・佐久本嗣子)で、沖縄ペンクラブ主催の別パーティを兼ねた誕生祝」
1958年6月13日『沖縄タイムス』「すばらしい沖縄の踊り 川端氏帰る」/『琉球新報』「川端氏"沖縄独自の美しさ"」
1958年8月『オキナワグラフ』「ペンをかついだお客様ー川端康成氏 来島」
○篤之介のペンネームと感覚的な詩で知られる文学頭取、沖相銀具志頭得助氏の数次にわたる交渉の熱意が実を結び、国際ペンクラブ副会長、日本ペンクラブ会長の川端康成氏が6月2日ひる3時40分、那覇空港着のノースウエスト機で来島した。今回の来島は沖縄ペンクラブの招きによるものであったが、「伊豆の踊子」「雪国」などの作者として文壇でも特異な存在にある同氏の来島は今まで期待されながら不可能視されていただけに、沖縄文化人の喜びは大きく、ペンクラブ会員多数が出迎えた。滞在中はペンクラブの山里、亀川氏や具志頭氏に案内されて、沖縄視察を続けられたが、6月11日、はからずも沖縄で誕生日を迎えたペンの賓客は、ペンクラブ会員、具志頭氏、沖相銀、紅房、那覇薬品、沖縄火災の関係者多数に囲まれ、「私はこんなに誕生日を祝ってもらったのは初めてでしてねエ」と島人達の温かい心づくしにその喜びを語っていた。・・・・
03/26: 那覇っ子 石川正通(1897年~1982年)②
1946年 極東国際軍事裁判(東京裁判)翻訳官、通訳官、調査官(キーナン検事と同居)、G・H・Q第八軍教育顧問(教育課長と学校視察)
石川正通□伊波先生は、戦後よく私の家に来れれた。ちょうど先生の東大の同期生の橋本進吉教授が私のすぐ隣で、同じ番地なんです。そして私の家のすぐ真ン前が児玉誉志夫なんだ。これは笹川良一と二人一緒でね。私の家からヤーナラビ(家並び)で、少ししか離れていない。あれがまだ世田谷の等々力に行く前ですね。で、児玉誉志夫と私は一緒に焼け出された。それから児玉の乾分やなんかが新橋駅の角の銀座通りで、テーブルなんか家具を売っていましてね。私は占領軍からいろいろ物が入るもんだから、何も貰わないで融通しておりましたがね。よく私の家に来たものだ。児玉君も、それから乾分たちも。(新城ーこの頃、浦崎永錫のところに、笹川良一が皇族が持っている美術品をバラバラにし売ろうと持ちかけてきた。断ったという)
石川正通□勝てる国敗れし国を裁くてふ/旗十一のたたずまいかな
アイフルバーガー第八軍司令官が日本刀をすべて鋳つぶして廃棄せよに、私は「日本の刀剣は世界に例を見ない美術品である」と身を賭して守り抜く。
1948年 順天堂医科大学教授(予科英語主任)
1949年 千葉商科大学講師
1954年 10月19日 『琉球新報』石川正通「ふりむん随筆(一)」~12月27日
1958年
1959年 2月10日 石川正通〇望遠郷ー神様よ!あなたは開店休業ですか あなたの1人子キリストの言葉 「カイザルの物はカイザルに返せ」 あれは公約ではなかったのですか 沖縄人のものは沖縄人に返して下さい 子供の時に歌った讃美歌 「神は愛なり」の余韻の美しさよ 愛の神を信じ神の愛を疑わない 心の清い沖縄人の祈りを御聞き下さい。(I God! Your words of Christ, the Son one of you I leave open "things Caesar returns to Caesar" what human Okinawa hymn was sung at the time of the child should be returned to the people of Okinawa do I was not a pledge is that "God is love," Please listen to us the prayer of Okinawan the pure in heart that does not doubt the love of God I believe in the love of God of the resonating beauty.)
1960年 1月『オキナワグラフ』「新春特話 正通の望遠郷ー東京裁判物語ー」
1960年 ラジオ沖縄で「正通放談」 石川正通〇私と沖縄ー大宅壮一君が琉球大学を八ミリ大学と、せいいっぱい高く評価したそうだが、人間というものは、自分の高さでしか物を計れないものだという生理的実存の自己暴露的放言として誠に興味深いものがある。八ミリ評論家に八ミリ大学と言われたのは、むしろ名誉である。気にすることはない。
1962年12月26日晩ー「石川正通氏歓迎短歌会」国際通り宮里医院ー前列右より伊波冬子、金城芳子、石川正通・夫人、上里堅蒲、宮里栄輝、松田賀哲/中列右より國吉有慶、比嘉俊成/後右より宮里浩司・夫人、國吉景祉、比嘉晴二郎、泉國夕照、國吉灰雨、石川正秋
石川正通□伊波先生は、戦後よく私の家に来れれた。ちょうど先生の東大の同期生の橋本進吉教授が私のすぐ隣で、同じ番地なんです。そして私の家のすぐ真ン前が児玉誉志夫なんだ。これは笹川良一と二人一緒でね。私の家からヤーナラビ(家並び)で、少ししか離れていない。あれがまだ世田谷の等々力に行く前ですね。で、児玉誉志夫と私は一緒に焼け出された。それから児玉の乾分やなんかが新橋駅の角の銀座通りで、テーブルなんか家具を売っていましてね。私は占領軍からいろいろ物が入るもんだから、何も貰わないで融通しておりましたがね。よく私の家に来たものだ。児玉君も、それから乾分たちも。(新城ーこの頃、浦崎永錫のところに、笹川良一が皇族が持っている美術品をバラバラにし売ろうと持ちかけてきた。断ったという)
石川正通□勝てる国敗れし国を裁くてふ/旗十一のたたずまいかな
アイフルバーガー第八軍司令官が日本刀をすべて鋳つぶして廃棄せよに、私は「日本の刀剣は世界に例を見ない美術品である」と身を賭して守り抜く。
1948年 順天堂医科大学教授(予科英語主任)
1949年 千葉商科大学講師
1954年 10月19日 『琉球新報』石川正通「ふりむん随筆(一)」~12月27日
1958年
1959年 2月10日 石川正通〇望遠郷ー神様よ!あなたは開店休業ですか あなたの1人子キリストの言葉 「カイザルの物はカイザルに返せ」 あれは公約ではなかったのですか 沖縄人のものは沖縄人に返して下さい 子供の時に歌った讃美歌 「神は愛なり」の余韻の美しさよ 愛の神を信じ神の愛を疑わない 心の清い沖縄人の祈りを御聞き下さい。(I God! Your words of Christ, the Son one of you I leave open "things Caesar returns to Caesar" what human Okinawa hymn was sung at the time of the child should be returned to the people of Okinawa do I was not a pledge is that "God is love," Please listen to us the prayer of Okinawan the pure in heart that does not doubt the love of God I believe in the love of God of the resonating beauty.)
1960年 1月『オキナワグラフ』「新春特話 正通の望遠郷ー東京裁判物語ー」
1960年 ラジオ沖縄で「正通放談」 石川正通〇私と沖縄ー大宅壮一君が琉球大学を八ミリ大学と、せいいっぱい高く評価したそうだが、人間というものは、自分の高さでしか物を計れないものだという生理的実存の自己暴露的放言として誠に興味深いものがある。八ミリ評論家に八ミリ大学と言われたのは、むしろ名誉である。気にすることはない。
1962年12月26日晩ー「石川正通氏歓迎短歌会」国際通り宮里医院ー前列右より伊波冬子、金城芳子、石川正通・夫人、上里堅蒲、宮里栄輝、松田賀哲/中列右より國吉有慶、比嘉俊成/後右より宮里浩司・夫人、國吉景祉、比嘉晴二郎、泉國夕照、國吉灰雨、石川正秋
沖縄芸能史研究家・崎間麗進(1921年~2013年3月19日)
2010年4月29日 書斎探訪ー崎間麗進氏
崎間麗進氏は琉球新報社の『沖縄人国記』(1999年3月)によれば「崎間麗進(76)は、那覇の庶民生活の伝承者。子供と大人の関係が切り離されている現代を憂える。始祖は、琉球に陶芸の技術を伝えて帰化した朝鮮の陶工・張献功(?~1638)。名前の『麗』の一字がその名残り。芸能にも詳しく、沖縄芸能史研究会会長を務める。沖縄県立博物館長・當間一郎(59)も創立当時からの会員。初代会長で琉大名誉教授・照屋寛善(78)は医業の傍ら古典芸能に新しい解釈を加えた」と沖縄芸能史研究会と共に紹介されている。
2015年4月15日午後2時ー那覇市・識名園で「崎間麗進先生を偲ぶ会」□実行委員長・當間一郎/実行副委員長・安次嶺律子
2010年4月29日 書斎探訪ー崎間麗進氏
崎間麗進氏は琉球新報社の『沖縄人国記』(1999年3月)によれば「崎間麗進(76)は、那覇の庶民生活の伝承者。子供と大人の関係が切り離されている現代を憂える。始祖は、琉球に陶芸の技術を伝えて帰化した朝鮮の陶工・張献功(?~1638)。名前の『麗』の一字がその名残り。芸能にも詳しく、沖縄芸能史研究会会長を務める。沖縄県立博物館長・當間一郎(59)も創立当時からの会員。初代会長で琉大名誉教授・照屋寛善(78)は医業の傍ら古典芸能に新しい解釈を加えた」と沖縄芸能史研究会と共に紹介されている。
2015年4月15日午後2時ー那覇市・識名園で「崎間麗進先生を偲ぶ会」□実行委員長・當間一郎/実行副委員長・安次嶺律子