Category: 01-人物名鑑
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今ほど政治経済が東京を中心に劣化している時代は無い。そこで東京の過去を散策してみよう

 1940年の東京沖縄県人会『会員名簿』の東京沖縄県人会の沿革によればその歩みはつぎのようになる。京浜沖縄県学生会の会報で補足する□b>
1886年ー在京沖縄出身の青年間に勇進社を組織す
1888年ー沖縄学生会と改称
1890年ー沖縄青年会と改称す
1899年ー照屋宏により学生の寄宿舎設立計画さる
1899年ー沖縄青年会仮事務所を麹町区富士見町2ノ7、尚侯爵邸家構内に置く
1909年ー創立20周年記念会を上野精養軒に開き朝野の名士を招待す。来会者3百余名空前の盛事なり 当時会長は護得久朝惟
1910年ー仮事務所廃止
1910年ー護得久朝惟会長提案による沖縄青年会会友会発会式を風月において挙行す
1910年ー護得久朝惟会長辞任、後任会長に漢那憲和
1911年ー寄宿舎設置補助交付の件が沖縄県会を通過、翌年より2ヵ年に亘り金壹萬円也下付せらる。当時日比重明知事、高嶺朝教県会議長、岸本賀昌学務課長
1912年ー沖縄青年会会友会を社団法人とし沖縄育英会と改称す
1913年ー寄宿舎落成式挙行。沖縄県明正塾と命名す 東恩納寛惇舎監に推薦さる
       その後1923年に東恩納寛惇、舎監を辞任、神山政良が常任管理委員に推挙さる
       1928年、神山政良、舎監を辞任、比嘉良篤、後任に推挙さる
       東京沖縄県人会と改称す、役員を理事制度に改め漢那憲和理事長に推薦さる
       □1925年5月ー京浜沖縄県学生会結成
1927年ー役員を会長制に改め、新城朝功が会長に当選し神山政良、奥島憲仁が副会長に当選す 神山副会長辞任
1928年
11月11日ー京浜沖縄県秋季総会、会長に尚謙(慶応大学)、副会長に赤嶺康成(高等師範)
□1929年
5月ー京浜沖縄県学生会秋季総会を新宿白十字堂に開く。伊波普猷「方言に現れたる土俗」講演。役員改選で会長に小嶺幸雄(早稲田大学)、副会長に福地唯義(慶応大学)。
6月2日ー京浜沖縄県学生会春期総会を新宿白十字堂ホールに開く、佐藤惣之助の「琉球旅行」の話
1929年ー役員改選さる 会長に渡口精鴻、副会長に比嘉春潮、翁長良保
□1930年
7月ー小川町の多賀羅で在ハワイ同胞母国観光団歓迎会、主賓の金城珍栄以下10余名、県人出席者30余名。
11月9日ー京浜沖縄県学生会秋季総会を神田駿河台下白井喫茶部2階で開く、渡口精鴻、比嘉春潮の談話、女子部の会長に豊川とみ
□1931年
3月19日ー漢那憲和代議士、移民会館建設の準備成功し帰国
4月29日ー大蔵省参事の神山政良、名古屋専売局長に栄転さる。
5月17日ー神楽坂福寿倶楽部で東京沖縄県人会春季総会、役員改選 会長に渡口精鴻留任、副会長に奥島憲仁、恩河朝健
1932年ー明正塾廃止
1936年ー5月、本会沿革及び名簿を謄写す
1936年ー役員改選さる 会長に神山政良、副会長に大濱信泉、八幡一郎
1937年ー東京沖縄県人会(芝区虎ノ門会館 久高特許事務所内)『会員名簿』作成頒布  
1938年ー役員改選さる 会長に神山政良、副会長に大濱信泉、八幡一郎
1940年ー東京沖縄県人会『会員名簿』     

大宜味朝徳は海外研究所を設立し『我が統治南洋群島案内』『最近のペルー事情』『最近の布哇事情』などを発刊した。1933年1月に南島社(東京市本郷区蓬莱町5)から郷友版『南島』紙を発行する。3号(1933年3月)に「東京琉球泡盛商一覧」が載っているのを始め平敷本舗主人の平敷安用の「「東京に於ける琉球泡盛の今昔」、東京での泡盛委託販売30年の入江藤五郎の「泡盛の黄金時代」、「泡盛界に躍進する三島本舗主・川村禎二君」が載っている。また泡盛商広告に崎山商店(崎山喜昌),うるま本店(金城時男)、琉球古代焼・花瓶置物・琉球漆器・琉球玩具も扱う仲本商店(仲本宗厚)がある。

『南島』4号に「知念松一君、沖縄写真帖計画」が出ている。知念松一は8号の個人消息で「大阪市港区八雲町4で関西沖縄新聞創刊」とある。また空手講習会、南島談話会、泡盛組合、東京沖縄県人会の集会も紹介されている。1934年2月『南島』10号の集会欄に「名古屋県人会(比嘉康進)が神山政良顧問で万歳三唱、舞踊、空手あり」と報じられ、8月の『南島』13号には稲垣国三郎氏の義挙として「大阪稲垣愛日小学校長は6ヵ年間沖縄師範主事として勤務したことがあるが久松五勇士の快挙につき種々尽力、公にし且つ映画化して南島男子の意気を顕揚せしめた。この義挙に対し在阪県人有志の我喜屋宗信、山城興善、下地玄信、平尾喜代松、真栄田勝朗、幸地長堅らが大いに協力した」が載っている。ほかに『南島』の個人消息欄には上原美津子(中央電話局教師)、伊波普猷長男國男君目出度本年度二中に入学、また久志芙沙子の随筆がある。


1936年10月27日午後5時から、神田区小川町の多賀羅亭で東京沖縄県人会臨時総会が開かれた。定刻までに90人が集まった。先ず神山政良会長が開会を宣した後、会則改正の必要を説明。そして新会則案を提出し、副会長の八幡一郎がこれを朗読し審議に入った。神山政良が会長に再選。あと会食。その後に漢那憲和、渡口精鴻の旧会長、幹部の労を謝し、大城兼義がパンフ「沖縄県回生の要訣」を手に憂郷の熱弁を振う。午後10時、大城兼義の音頭とりで「東京沖縄県人会万歳」を三唱して和気藹々のうちに散会した。

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シベリア


黒田清のサイン

黒田清 くろだ-きよし
1931-2000 昭和後期-平成時代のジャーナリスト。
昭和6年2月15日生まれ。昭和27年読売新聞大阪本社に入社。社会部長をへて編集局次長。コラム「窓」を執筆,大型連載「戦争」を手がけたほか,黒田軍団とよばれる社会部をひきいておおくのスクープをものにした。61年退社して黒田ジャーナルを設立し,「窓友新聞」を発行。平成12年7月23日死去。69歳。大阪出身。京大卒。著作に「警官汚職」(共著),「新聞記者の現場」など。(→コトバンク)


1980年8月7日『新聞記者が語りつぐ戦争 戦争記念館』読売新聞大阪社会部




1999年1月10日『赤旗』黒田清「半共ジャーナルーインターネット社会の恐ろしさ」
〇・・・しかもインターネットの発達は、ますますこのような人たち、現実社会からは逃避して、インターネットを主なる舞台として生きる人たちが増えることを意味する。この人たちは社会をよくするために、政治や選挙や平和や人権といったことを真剣に考えるだろか。いやその前に、世の中をよくしようと思うだろうか。それが恐ろしいのである。

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1916年11月 『沖縄県人事録』「比嘉盛昇」同編纂所(楢原友満)

1912年4月21日『沖縄毎日新聞』「本県辞令ー与勝尋常高等小学校訓導・比嘉盛昇、玉城尋常高等小学校訓導に任じ8級俸給與」

1913年 『沖縄教育』沖の島人(親泊朝擢)「人物月旦ー文部検定に合格せる比嘉盛昇君」
1913年2月 『沖縄毎日新聞』比嘉盛昇「理想的教育者の内容」連載

1913年8月25日『沖縄毎日新聞』比嘉盛昇「意思本位主義の教育説に就いて」

1913年10月 『沖縄教育』弟90号□比嘉盛昇「児童心理研究の必要」(島尻郡教育部会に於ける演説)
1915年7月 『沖縄教育』弟102号□島尻小学校長会に於ける諮問答案ー摩文仁尋常小学校長 比嘉盛昇君「教授の諸原則/心理的、論理的、経済的、徹底的  言語練習が必要=言論の豊富は思想の豊富  進級標準を規定せり」



1921年8月~1925年7月 比嘉盛昇・一級首里市会議員
1921年10月19日 首里市助役に比嘉盛章就任

1930年   比嘉盛章、『日刊沖縄毎日』創刊し社長

1932年3月  『沖縄朝日新聞』八巻太一「昭和女学校設立に就いて」(連載)

■琉球音楽一夕話を筆写した喜舎場晧史氏の附記
この琉球音楽一夕話なるものは、比嘉盛章(掬水)先生が昭和7年7月1日沖縄日日新聞紙上に寄せられた貴重な論文である。海を越えた遠くの八重山で、父(永珣)が琉球に関する古記録を大切に保持されたものの中から出張中の宮里春行氏の委嘱により、一週間に亘り私が筆写したものである。→ブログ「唄三線練習帳」

1933年2月23日 『琉球新報』比嘉盛昇「古琉球の國都は首里か浦添か? おもろ文献より見たる浦添國都説の史學的價値」(連載)

1935年9月30日  第12代目与那国小学校校長ー 比嘉盛章
1938年12月    『南方土俗』比嘉盛章「琉球の音楽舞踊に就いてー琉球音楽に就いては10年来、安冨祖流金武良仁、石嶺朝功に師事・・・」□比嘉盛章は安冨祖流の道統図に名前を連ねている。


1940年5月19日 『琉球新報』「母カメ御会葬御礼ー男比嘉盛章/男 在東京 比嘉盛芳、男 八重山 比嘉盛球、孫 在熊本 比嘉盛健」
1940年9月、台湾で比嘉盛章を中心に「おもろ研究会」

1943年~1944年  私立沖縄昭和女学校教諭

1947年1月15日 『沖縄新民報』「(略)比嘉盛章氏逝くー遺族は孫 昇さん3歳と節子夫人の二人であり、最近(比嘉盛章)大分県在住沖縄県人会長に就任したばかりであり氏の訃報は県人に惜しまれている。」「祖父比嘉盛章儀去る12月16日急逝致候間生前の御厚誼を拝謝し此段謹告仕候 12月20日 孫 比嘉昇/妻 節子 親戚友人一同 大分県在住沖縄県人会一同」

1955年9月15日『琉球新報』須藤利一「比嘉盛章氏のことども(上)」
1955年9月16日『琉球新報』須藤利一「比嘉盛章氏のことども(下)」

1971年11月 『比嘉春潮全集』③517/④76、117、118、350~352、371
1984年3月 『那覇市史だより』川平朝申「宮里栄輝氏の思い出ー宮里栄輝さんとは、私が台湾で須藤利一教授と南島研究に情熱を燃やしていた頃、比嘉盛章先生に紹介していただいてからのことす。・・・」

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 私は1984年4月発行の『琉文手帖』1号の金城安太郎特集で東恩納を紹介した。うるま市にある石川歴史民俗資料館は戦後沖縄行政の出発点、沖縄諮詢会、沖縄県立博物館の前身の東恩納博物館、戦後初の小学校、終戦直後の松竹梅劇団、米軍服、HBTの更生衣料、2×4の材木でつくった規格住宅、カンカラ三線などを資料、写真で展示している。

 1972年11月発行の『青い海』に園山精助(日本郵趣協会理事)が「琉球切手は語りつづける」と題し「沖縄切手のアルバムをひろげてみると、動物、魚、植物、風景、民俗、古文化財とよくもこれだけそろえられたものだと思う。こうしてみると、沖縄の歴史、文化の、ミニ百科事典ではないか」と記している。切手、古銭はコレクターの定番である。2000年の10月、切手のコレクターとしても著名な真栄城勇氏の「勇のがらくた展」が佐敷町のちゃんくすばガーデンで開かれた。


1989年10月 中島紀久雄『マイクで見たこと逢った人ー沖縄放送走馬燈』アドバイザー(西江弘孝)

左から神村孝栄、真栄城勇、稲福健蔵、中島紀久雄、石垣正夫

眞栄城勇(琉球郵趣理事)ー南城市佐敷字伊原162-2 ℡946-6101



2001年8月ー眞栄城勇『がらくた文化ー品々が伝える、あの時、その頃』沖縄マリン出版/この本が切っ掛けで沖縄コレクター友の会が発足した。

 2001年4月、前回と同じ場所で真栄城氏は「真栄城勇コレクション新聞号外展」を開いた。8月には沖縄マリン出版から真栄城勇著『沖縄がらくた文化ー品々が伝える、あの時、その頃』が出版された。私は、『沖縄タイムス』にその書評を書いたのが切っ掛けで2001年11月の佐敷町ちゃんくすばでのコレクター友の会発足に何となく参加した。

新城栄徳(左)、真栄城勇氏


新城栄徳、真栄城勇氏、鳥山やよいさん




2001年11月ー「沖縄コレクター友の会発足」佐敷町ちゃんくすば中央が真栄城勇会長

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07/19: 國吉眞哲

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1932年11月29日『琉球新報』島田貞彦「琉球崎樋川貝塚」

國吉眞哲/琉球放送1958年
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写真上ー國吉眞哲報道部長/写真下ー中央・國吉報道部長、左・眞栄城勇調査課長


1959年元旦

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1961年6月4日 郷土の文化を守る会主催 中部史跡巡り・勝連城跡ニテ 國吉眞哲、真栄城勇


1961年6月4日ー中部史跡巡り、右から比嘉寿助、又吉真三、國吉眞哲


1962年6月4日ー浦添ゆうどれ参道を行く、左から松島朝永、國吉眞哲(荻堂盛進・撮影)





眞哲翁手製の書斎扁額「木鶏亭」/愛用のシャツ/沖縄タイムス芸術奨励賞楯(新城栄徳所蔵)


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1916(大正5)年10月16日『琉球新報』文展出品『琉球の女』尚昌令夫人の作ー殿様芸術家の名をほしいままにしている小笠原長幹伯の令妹。今年3月学習を卒業する迄は学校の方で洋画家の岡野榮氏③を師として主として生物(ママ)の写生をやっておられた、卒業後は専ら満谷國四郎氏について研究していた・・・」


満谷国四郎「榕樹ノ下」1919年ー帝国美術院第1回美術展覧会出品

1939年11月ー『歴程』山之口貘「満谷氏の『榕樹の蔭』と藤田氏の『琉球美人』」


満谷国四郎 墓(多磨墓地)島袋和幸撮影

満谷国四郎-洋画家。岡山県生。はじめ二世五姓田芳柳に、のち小山正太郎に師事。吉田博らと大平洋画会を創立、海外の博覧会や文展に活躍する。のち大原孫三郎の後援を得てパリへ留学、褐色系を基調とした初期の画風から後期印象派の影響を受けた画風へと一変する。晩年は対象の平面的処理と豊かな色彩により装飾性の強い画風を確立した。帝国美術院会員。昭和11年(1936)歿、63才。 →コトバンク
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長谷川朝風【はせがわ ちょうふう】
日本画家。俳人。岐阜県生。名は慎一。京都絵専卒。画を安田靫彦に、俳句は飯田蛇笏に師事した。美術院賞・大観賞受賞。院展特待。句集『木偶微笑』がある。昭和60年(1977)歿、75才。(→コトバンク)



須田珙中 すだ-きょうちゅう

1908-1964 昭和時代の日本画家。
明治41年1月21日生まれ。松岡映丘(えいきゅう),前田青邨(せいそん)に師事。昭和18年新文展で「琉球」が特選。27年からは院展を中心に活躍,「篝火(かがりび)」「正倉院」が日本美術院賞。34年東京芸大助教授。35年日本美術院同人。昭和39年7月10日死去。56歳。福島県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は善二。(→コトバンク)
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1934年8月ー大阪商船「沖縄航路案内」(大野麦風「守礼門」)



大野麦風 おおの ばくふう
洋画家。東京生。名は要蔵。白馬会・太平洋画会に学ぶ。兵庫県に住した。昭和51年(1976)歿、87才。 (美術人名辞典)

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北野以悦 昭和5年 「琉歌」 帝国美術院第11回美術展覧会出品(①耕三寺博物館に現存)
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北野 恒富  明治13/5/28-昭和22/5/20  1880-1947  石川県出身
 師 稲野年恒
 日本画家、北野以悦は子息。明治34年大阪新報社に入社、新聞小説の挿絵を担当。
 43年文展で「すだく虫」が初入選、翌年も「日照雨」で三等賞を受賞。
 画壇の悪魔派と呼ばれ、退廃的画風の美人画家として注目を浴びる。
 大正3年からは院展に出品・入選をかさね、6年日本美術院同人。
 また大正美術会、大阪美術会を結成して地元大阪画壇の振興にも尽力し、画塾白耀社では
 木谷千種、島成園など個性的な後進を育成。後年親交を結んだ谷崎潤一郎の小説挿絵でも
 知られる。大阪を拠点に、浪速情緒にあふれた艶麗な美人画を描いた。
 代表作に「願ひの糸」「星」「阿波踊」など。本名は富太郎。別号に夜雨庵。→西村美術人名辞典

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1893-1981 大正-昭和時代の洋画家。
明治26年12月5日生まれ。関西美術院で沢部清五郎に師事。大正11年渡仏,シャルル=ゲランにまなぶ。14年帰国後は春陽会展に出品,昭和12年会員となる。戦後,京都市立美大,嵯峨美術短大教授。昭和56年12月9日死去。88歳。京都出身。慶応義塾卒。作品に「エッフェル塔」など。(→コトバンク参照)

1940年8月ー大阪商船株式会社『海』川端彌之助「沖縄禮讃」


「琉球平良」(1940)
1984年1月ー『川端彌之助遺作展図録』京都市美術館