那覇市歴史博物館□川平家は、尚王家と縁の深い伊江家と血縁関係があり、首里王府で三司官を勤める士族でした。また朝申の祖父川平親雲上朝彬は欽定工工四を編纂して現在にも伝来しています。このように、川平家は首里王府の政治家であると同時に、芸能に造詣の深い家柄でもありました。川平朝申(1909~1998年)は、戦前県立二中在学中に、家族と台湾に移住しました。戦後台湾で「新沖縄建設のお願い」を沖縄民政府に提出し、「演劇、舞踊、音楽、その他芸能、演劇場の建設を促進し、健全娯楽の提供をすること」を主張しました。沖縄に引き揚げた後に沖縄民政府文化部芸術課長に就任し、アーニーパイル国際劇場の建設などに尽力しました。その後、琉球放送局長・結核予防会沖縄支部長を歴任し、その間那覇市町界町名整理審議会会長などに就任しました。
□知念積高 チニン セキコウ
あても喜ぶなうしなても泣くな人のよしあしや後ど知ゆる アティン ユルクブナ ウシナティン ナクナ フィトゥヌ ユシアシヤ アトゥドゥ シュル
08/17: 島袋百恵 画「末吉麦門冬」
島袋さん(左)、萌子さん
島袋百恵
1986年 沖縄県沖縄市生まれ。室川小、安慶田中
2002年 沖縄県立コザ高校入学 美術部在籍
2005年 同校卒業
2009年 沖縄県立芸術大学美術工芸学部絵画専攻卒業
専門は日本画と版画
2009年 グループ展「ユメテン」(沖縄市)
2010年グループ「tetra works Ⅴo1」(那覇市)
□蔵書票
08/16: 2013年8月の山田實さん
□写真の町東川賞受賞作家フォーラムには2012年に沖縄県立博物館・美術館の「山田實展」を担当した大城仁美さんが参加する。
写真左から前原基男氏、戸澤裕司 氏、大城仁美さん
大城仁美
1975年、沖縄県生まれ。沖縄県立芸術大学美術工芸学部デザイン工芸学科デザイン専攻卒業。真和志高等学校教諭を経て、2007年4月より沖縄県立博物館・美術館勤務。美術館開館記念展「沖縄文化の軌跡1872-2007」、美術館開館1周年記念展「移動と表現」(2009年)、「母たちの神 比嘉康雄展」(2010年)などの企画に関わる。
写真の町東川賞受賞式に山田實さん代理で勉氏が参加。
1983年11月 野町和嘉『アフリカ最後の秘境 バハル!』
野町 和嘉(のまち かずよし、1946年10月15日 - )は、日本のドキュメンタリー写真家。高知県三原村出身。高知県立高知工業高等学校卒業後、写真家・杵島隆に師事。1971年よりフリーの写真家となる。1972年よりサハラ砂漠をはじめとした乾燥地帯の撮影を行う。1980年代後半より中近東・アジア、2002年以降はアンデスを主な撮影地域としている。1990年、写真集「ナイル」等により芸術選奨新人賞美術部門受賞。2009年、紫綬褒章受章。(ウィキペディア)
08/16: 琉球舞踊家・宮平敏子
左が宮平敏子
1995年8月 沖縄テレビ放送編『よみがえる戦前の沖縄』沖縄出版□宮平敏子
宮平敏子ー1955年11月 沖縄文化協会「琉球の舞踊」日本青年館、学習院、早稲田大学
1966年2月16日、山田写真機店2階で山田實撮影。東郷青児を前に後右から宮平敏子、吉井淳二、平良進、大城皓也。
08/15: 翁長良明コレクション「1950年代 マッチラベル」
1974年1月 雑誌『青い海』第29号 伊良波晃「父・伊良波尹吉のこと」
2000年7月9日『琉球新報』新城栄徳(書評)ー新里堅進『奥山の牡丹』与那原町教育委員会/私と芝居との付き合いは粟国島で生まれた時からで、私の実家の近隣は首里士族の末裔だと称し集まり実家の隣に「首里福原」という集会所を造った。そこでは毎年旧正月に村芝居が上演され、私の父(新城三郎)も一度だけ「金細工」のモーサー役と二才踊りで出演、母方の伯父(玉寄貞夫)は「伊江島ハンドーグヮー」のカナーヒー役で二度も出演したと当時の記録にある。私の9歳のときには伯父が照屋林助、嘉手苅林昌を粟国に連れてきて民謡ショーを開いたという。
私は家族と11歳のとき、那覇に移り住んだ。那覇劇場、テレビの郷土劇場、沖映演劇と沖縄芝居や舞踊、特に歌劇をよく見るようになった。その間には伊良波冴子の歌劇「泊阿嘉」での思鶴役の美声は歌劇の世界を十分に楽しませてもらった。その兄の伊良波晃は一度だけ沖映近くの銭湯で一緒になった。本書の主人公の伊良波尹吉の息子と娘である。1979年3月、私たち親子は大阪御堂会館で青い海出版社主催の歌劇「伊江島ハンドーグヮー」を見た。ハンドーグヮー役は兼城道子、マチグヮーに伊良波冴子、カナーヒーに伊良波晃、船頭主に真喜志康忠、村頭が大宜見小太郎であった。
資料・兼城道子
伊良波尹吉の夫人、娘・冴子さん、孫娘
前出の歌劇と我如古弥栄作「泊阿嘉」と、尹吉作「奥山の牡丹」「薬師堂」は沖縄の四大歌劇として燦然と輝いている。人生には光があれば影もある。特に芸能はさまざまなヒダがある情念の世界で倫理だけでは捕えにくい文学・芸術と共通するものがある。本書は尹吉の沖縄に生まれたがゆえに歩んだ光と影の人生を鬼才・新里堅進を得て見事に描ききっており、中でも日本帝国の超国家主義への歩みから沖縄戦へのさりげない描写は新里でなくては描けぬものである。
本書は文字通りに与那原が生んだ「沖縄歌劇の巨星・伊良波尹吉物語」で、尹吉の足跡と沖縄演劇界の動きを網羅した詳細な年表、変遷図、関係者の証言とともに21世紀沖縄への贈り物である。私は「むんじゅる節歌碑建立期成会」で碑文検討委員、記念誌編集委員を担当した。沖縄芸能研究家の宜保栄治郎氏、當間一郎氏、仲宗根幸市氏に原稿を依頼、記念誌に華を添えてもらった。無論、私もコラムを書いた。
1984年8月28日ー新里堅進「水筒」出版祝賀会
08/04: 芸能/与世山澄子
与世山澄子
ジャズシンガー、1940年生まれ、沖縄県八重山郡の小浜島出身
ビリー・ホリデイをほうふつとさせる歌声で知られるジャズ・シンガー、マル・ウォルドロンとの共演作もあり、20年ぶりの新作「インタリュード」では菊池成孔、南博、安カ川大樹がバックをつとめ、パードン木村がプロデューサーとしてZAKがエンジニアとして参加した。→はてなキーワード
(翁長良明コレクション)
「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
(財)わびあいの里『伊江島通信』第8号 〒905-0502 伊江村東江前2300-4 ☎0980-49-3047
「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)氏が全国の烽火跡などを訪ねた折に出会った蘇鉄。
秋田県潟上市羽白目<烽・とぶひ>遺跡ー古代の烽火場として唯一とも言われる遺跡
上の遺跡は現在 大沢さんの持ち山で、奥さんの右手前には蘇鉄が鎮座している。
2013年6月 『沖縄の軌跡』第102号 「関東大震災虐殺事件 大正12年9月1日 秋田県人・三重県人・沖縄三県人殺害の<検見川事件>の真相」/2013年7月17日『秋田魁新報』■北斗星ーこの連休中、沖縄県生まれで東京都在住の島袋和幸さん(65)は横手市内を歩き回った。関東大震災の混乱の中で命を落とした『旧横手町の藤井さん』の手掛かりを探すためだこの連休中、沖縄県生まれで東京都在住の島袋(しまぶくろ)和幸さん(65)は横手市内を歩き回った。関東大震災の混乱の中で命を落とした「旧横手町の藤井さん」の手掛かりを探すためだ。当時26歳の藤井さんは地震4日後の1923年9月5日、現在の千葉市で自警団に捕らえられて殺され、川に捨てられた。手を下した数人は有罪となり、事件は一部新聞で報道されたが、遺体は海に消えたと思われる震災後、「朝鮮人暴動」の流言が広まり、不安に駆られた住民らの手で多くの朝鮮人が殺されたことは広く知られている。だが、言葉になまりのある地方出身者が朝鮮人と誤認され、犠牲になる事件が続発したことは、あまり知られていない藤井さんと一緒に沖縄県人と三重県人も犠牲になっている。仕事を持ちながら歴史の発掘に取り組んでいる島袋さんは、当時の新聞にある3人の出身地と名前を頼りに親類捜しを続ける。だが沖縄と三重では手繰った糸が途切れ、遺族にたどり着けなかった藤井さんは横手から稼ぎに出た東京で地震に遭い、避難途中に居合わせた2人と共に犠牲になった、というのが島袋さんの見立てだ。郷里の縁者たちは、藤井さんがなぜ亡くなったか、知ることができただろうか島袋さんは「朝鮮人も日本人も、犠牲者の多くは名前さえ分かっていません。そのうちの一人の遺族でも突き止めて供養ができれば、亡くなった人も浮かばれるはずです」と話す。今年は震災から90年である。
(財)わびあいの里『伊江島通信』第8号 〒905-0502 伊江村東江前2300-4 ☎0980-49-3047
「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)氏が全国の烽火跡などを訪ねた折に出会った蘇鉄。
秋田県潟上市羽白目<烽・とぶひ>遺跡ー古代の烽火場として唯一とも言われる遺跡
上の遺跡は現在 大沢さんの持ち山で、奥さんの右手前には蘇鉄が鎮座している。
2013年6月 『沖縄の軌跡』第102号 「関東大震災虐殺事件 大正12年9月1日 秋田県人・三重県人・沖縄三県人殺害の<検見川事件>の真相」/2013年7月17日『秋田魁新報』■北斗星ーこの連休中、沖縄県生まれで東京都在住の島袋和幸さん(65)は横手市内を歩き回った。関東大震災の混乱の中で命を落とした『旧横手町の藤井さん』の手掛かりを探すためだこの連休中、沖縄県生まれで東京都在住の島袋(しまぶくろ)和幸さん(65)は横手市内を歩き回った。関東大震災の混乱の中で命を落とした「旧横手町の藤井さん」の手掛かりを探すためだ。当時26歳の藤井さんは地震4日後の1923年9月5日、現在の千葉市で自警団に捕らえられて殺され、川に捨てられた。手を下した数人は有罪となり、事件は一部新聞で報道されたが、遺体は海に消えたと思われる震災後、「朝鮮人暴動」の流言が広まり、不安に駆られた住民らの手で多くの朝鮮人が殺されたことは広く知られている。だが、言葉になまりのある地方出身者が朝鮮人と誤認され、犠牲になる事件が続発したことは、あまり知られていない藤井さんと一緒に沖縄県人と三重県人も犠牲になっている。仕事を持ちながら歴史の発掘に取り組んでいる島袋さんは、当時の新聞にある3人の出身地と名前を頼りに親類捜しを続ける。だが沖縄と三重では手繰った糸が途切れ、遺族にたどり着けなかった藤井さんは横手から稼ぎに出た東京で地震に遭い、避難途中に居合わせた2人と共に犠牲になった、というのが島袋さんの見立てだ。郷里の縁者たちは、藤井さんがなぜ亡くなったか、知ることができただろうか島袋さんは「朝鮮人も日本人も、犠牲者の多くは名前さえ分かっていません。そのうちの一人の遺族でも突き止めて供養ができれば、亡くなった人も浮かばれるはずです」と話す。今年は震災から90年である。