02/27: 雑誌『おきなわ』/比屋根安定
比屋根安定 ひやね-あんてい1892-1970 大正-昭和時代の宗教史学者。
明治25年10月3日生まれ。16歳でメソジスト派に入信。キリスト教の布教と宗教研究に生涯をささげる。青山学院神学部,東京神学大,日本ルーテル神学大などの教授をつとめた。昭和45年7月10日死去。77歳。東京出身。東京帝大卒。著作に「日本宗教史」「日本基督教史」など(コトバンク)
1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』
□著1935年12月ー比屋根安定『五餅二魚』日曜世界社「本書は随筆集である。所謂随筆は、閑文学を以って称せられるが、予は、多少のレイゾン・デエトルを具したつもりである。我国の基督教文壇に、説教あり、神学論あり、聖書講解あり、信仰談あり、時評あり、伝記もあるが、唯々随筆に至っては、殆ど見なかった。然し随筆なき基督教文壇は、前菜なき料理の如くである」/1937年3月ー比屋根安定『世界巡礼記』教文館「人生も亦、逆旅である。本朝の『朝比奈三郎廻島記』、唐土の『西遊記』、西洋の『ピルグリムス・プログレス』の如きは、紀行文的稗史を籍りて、実は人生行程を敍したるに外ならない。この『世界巡礼記』は、所謂紀行文であると共に、これも亦予が半歳に亘れる未曾有の生活記録を兼ねている」
比屋根安定の本
1945年6月沖縄戦が終って、その11月11日東京に沖縄人連盟が結成された時、比嘉春潮もその発企人の一人であった。その翌々1947年の8月15日芝労働会館で沖縄連盟総本部の部長会議が開かれたとき、言語文学部の宮良当壮氏、民族史学部の島袋源七氏、宗教部の比屋根安定氏が沖縄連盟内に沖縄文化協会なる部局を置くことを決定し、宮良氏がその会長格をつとめることになった。同時期、比嘉春潮、仲原善忠、島袋源七、島袋盛敏、金城朝永、宮良当壮(後に崎浜秀明も参加)は毎月一回、仲原君を中心におもろ研究会も開かれた。
アメリカ軍の爆撃で廃墟と化したキリスト教会(1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会)
○那覇市歴史博物館の2010年図録「本土人が見た1950年代の沖縄」に、米軍爆撃で廃墟と化した那覇久米キリスト教会の写真がある。米軍兵士はキリスト教会を目の敵にしているようで、よっぽど十字架がにくらしかったにちがいない。これは下記の原爆の事例でも分かる。
★浦上教会 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1945年8月9日、原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された(また、原爆投下時間に聖母被昇天を迎えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていた。そのため中にいた神父を始めとする信者の全員が死亡している)。
明治25年10月3日生まれ。16歳でメソジスト派に入信。キリスト教の布教と宗教研究に生涯をささげる。青山学院神学部,東京神学大,日本ルーテル神学大などの教授をつとめた。昭和45年7月10日死去。77歳。東京出身。東京帝大卒。著作に「日本宗教史」「日本基督教史」など(コトバンク)
1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』
□著1935年12月ー比屋根安定『五餅二魚』日曜世界社「本書は随筆集である。所謂随筆は、閑文学を以って称せられるが、予は、多少のレイゾン・デエトルを具したつもりである。我国の基督教文壇に、説教あり、神学論あり、聖書講解あり、信仰談あり、時評あり、伝記もあるが、唯々随筆に至っては、殆ど見なかった。然し随筆なき基督教文壇は、前菜なき料理の如くである」/1937年3月ー比屋根安定『世界巡礼記』教文館「人生も亦、逆旅である。本朝の『朝比奈三郎廻島記』、唐土の『西遊記』、西洋の『ピルグリムス・プログレス』の如きは、紀行文的稗史を籍りて、実は人生行程を敍したるに外ならない。この『世界巡礼記』は、所謂紀行文であると共に、これも亦予が半歳に亘れる未曾有の生活記録を兼ねている」
比屋根安定の本
1945年6月沖縄戦が終って、その11月11日東京に沖縄人連盟が結成された時、比嘉春潮もその発企人の一人であった。その翌々1947年の8月15日芝労働会館で沖縄連盟総本部の部長会議が開かれたとき、言語文学部の宮良当壮氏、民族史学部の島袋源七氏、宗教部の比屋根安定氏が沖縄連盟内に沖縄文化協会なる部局を置くことを決定し、宮良氏がその会長格をつとめることになった。同時期、比嘉春潮、仲原善忠、島袋源七、島袋盛敏、金城朝永、宮良当壮(後に崎浜秀明も参加)は毎月一回、仲原君を中心におもろ研究会も開かれた。
アメリカ軍の爆撃で廃墟と化したキリスト教会(1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会)
○那覇市歴史博物館の2010年図録「本土人が見た1950年代の沖縄」に、米軍爆撃で廃墟と化した那覇久米キリスト教会の写真がある。米軍兵士はキリスト教会を目の敵にしているようで、よっぽど十字架がにくらしかったにちがいない。これは下記の原爆の事例でも分かる。
★浦上教会 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1945年8月9日、原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された(また、原爆投下時間に聖母被昇天を迎えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていた。そのため中にいた神父を始めとする信者の全員が死亡している)。
02/26: 2014年2月の山田實さん
中国写真誌『文景Lens』が沖縄特集。.山田實さんも紹介される
2014年2月24日ー不二出版の小林淳子さん、山田實さん
2014年2月24日ー不二出版の小林淳子さん、山田實さん
02/26: 雑誌『おきなわ』/島袋源七
島袋源七
島袋源七 略年譜
1897年(明治30年)
6月11日、沖縄県国頭郡今帰仁間切(村)勢理客に生まれる。
1917年(大正6年)20才
3月、沖縄県立師範学校卒業
4月、北玉尋常小学校を皮切りに、辺野喜、喜如嘉、稲嶺各校を歴任する。
1921年(大正10年)24才
折口信夫が来県したさいに国頭地方を案内。このとき折口に啓発され、以後、精力的に山原(国頭地方)の民俗調査を行う。ウンジャミ・シヌグなどの祭祀習俗を詳細に記録。
1922年(大正11年)25才
柳田国男が組織し多くの民俗・民族・言語学者が参加した南島談話会が創立。創立当初からの会員となる。他に折口信夫、伊波普猷、比嘉春潮、仲原善忠、金城朝永、宮良当壮、仲宗根政善らが会員として名をつらねており、多くの会員との親交・知遇を受ける。
1925年(大正14年)28才
『山原の土俗』と題して民俗誌をまとめる。
1927年(昭和2年)30才
上京、杜松小学校に勤務するかたわら立正大学高等師範部地歴科に学ぶ。
1929年(昭和4年)32才
『山原の土俗』が炉辺叢書の1冊として郷土研究社から出版される。
1931年(昭和6年)34才
3月、立正大学高等師範部地歴科卒業
1934年(昭和9年)37才
立正中学校(旧制)に勤務。
1937年(昭和12年)40才
『今帰仁を中心とした地名の1考察』(「南島論叢)」
1947年(昭和22年)50才
立正高等学校(新制)兼任。その後、教頭として勤務する。
8月、沖縄人連盟内に沖縄文化協会成立。仲原善忠、宮良当壮、比嘉春潮、金城朝永、島袋盛敏、崎濱秀明氏らとおもろ研究会を持つ(戦前からの研究会の復活)。
12月、「阿児奈波の人々」(「沖縄文化叢説」)
1948年(昭和23年)51才
9月、沖縄文化協会が組織再編成し、新たに発足。 11月、会報「沖縄文化」創刊。
1950年(昭和25年)53才
『沖縄の民俗と信仰』(「民族学研究」15巻2号)
1952年(昭和27)55才
ウイーンの世界民俗研究学会より発表の招待を受く。
8月、『沖縄の古神道』を集大成するため、50日余沖縄本島を始め離島各地を踏査する。その折りの疲労が重なり病床に伏す。
1953年(昭和28年)55才
1月15日、昭和医大病院にて気管支喘息心臓麻痺のため逝去。
1月28日、立正大学にて学校葬 (→琉大図書館)
02/07: 木下孝則
木下孝則 きのした-たかのり
1894-1973 大正-昭和時代の洋画家。
明治27年2月24日生まれ。木下義謙(よしのり)の兄。佐伯祐三(ゆうぞう)らとまじわり,油絵をはじめる。大正10年フランスに留学し,帰国後樗牛(ちょぎゅう)賞,二科賞。一水会創立に参加。写実的な女性像を得意とし,戦後の一連のバレリーナの作品で知られた。昭和48年3月29日死去。79歳。東京出身。東京帝大中退。→コトバンク