03/30: 雑誌『おきなわ』/石野径一郎
『ひめゆり部隊』より
1973年3月 石野径一郎『琉歌つれづれ』東邦書房
石野径一郎 いしの-けいいちろう
1909-1990 昭和時代の小説家。
明治42年3月28日生まれ。大正15年に上京し,小学校教師,編集者などをつとめる。昭和17年歴史小説「南島経営」を発表。25年沖縄戦の惨禍をえがいた「ひめゆりの塔」を刊行,のち映画化される。沖縄と戦争を生涯のテーマとした。平成2年8月3日死去。81歳。沖縄県出身。法大卒。本名は朝和。→コトバンク
03/24: 平良幸市
1994年12月 『土着の人ー平良幸市小伝』平良幸市回想録刊行委員会(代表・瑞慶覧長方)
平良幸市 たいら-こういち
1909-1982 昭和時代後期の政治家。
明治42年7月23日生まれ。戦後,生地沖縄県西原村の村長をへて,昭和25年沖縄社会大衆党結成に参加し,初代書記長,のち委員長をつとめる。また27年より琉球立法院議員。47年の沖縄の日本復帰後,県議会議長をつとめ,51年県知事となった。昭和57年3月5日死去。72歳。沖縄師範卒。→コトバンク
家族写真
1950年ごろー左から西銘順治、平良幸市、平良辰雄夫妻
1958年ごろー山田真山激励訪問、前列左から安里積千代、山田真山、平良幸市、山城善光
1959年1月『オキナワグラフ』「社大党ー中央に平良幸市」
1960年6月ーアイゼンハワー米大統領来沖、握手する平良幸市
1962年10月ーキャラウエイ高等弁務官①と
①第三代高等弁務官
ポール・W・キャラウェイ中将1961年2月-64年7月
【プロフィール】
1905年アンカーソー州ジョンスボロー生まれ。
陸軍省参謀本部、中国戦線の米軍部隊の計画部長などを務めた後、同部隊の副参謀長、軍事司令官に就任。戦後、ワシントンD・Cの陸軍本部では作戦担当の参謀次長室計画部部長、韓国在留の米第七歩兵師団の軍事司令官、東京の在日国連軍並びに米極東軍総司令部の参謀長補佐等を歴任し、58年、ワシントンD・Cに戻り米統合参謀本部と統合戦略調整委員会の陸軍側委員を務める。
【主な仕事】
最も長期に渡り在任した。キャラウェイ旋風と呼ばれるほど強烈な個性を印象づける。
この時期、日本政府の沖縄への関わりが目立ちはじめるほか、住民の自治権拡大の要求、復帰運動が高まる。しかし、弁務官は離日政策に終始したため住民から反発を招く。また、金融機関や政界に幾度となく介入し、峻厳な施策を執る。→「沖縄県公文書館」
比嘉春潮を迎えて
青島幸男②と
②青島幸男 あおしま-ゆきお
1932-2006 昭和後期-平成時代の放送作家,政治家。
昭和7年7月17日生まれ。テレビ放送の草創期に放送作家,俳優などとして活躍。昭和43年参議院全国区で2位当選(当選4回)。二院クラブに属し,庶民の視点から金権政治を批判。56年「人間万事塞翁(さいおう)が丙午(ひのえうま)」で直木賞。平成7年東京都知事となる。11年退任し,以後タレント活動を再開。平成18年12月20日死去。74歳。東京出身。早大卒。→コトバンク
瀬長亀次郎と
03/07: 2014年3月の山田實さん
壺屋やちむん通り会「壺屋の+プラス」
2014年3月『ニッコール年鑑』「山田實」
左から島袋捷子さん、仲嶺絵里奈さん、金子隆一
木村伊兵衛
山田實・撮影
山田實・撮影
きむらいへえ【木村伊兵衛】
1901‐74(明治34‐昭和49)
戦前,戦後を通じて活躍した日本の代表的な写真家。東京下谷の出身で,京華商業卒業後,1920年台湾に渡り,同地で写真技術を習得した。24年帰国後,東京日暮里で写真館を開業するとともに,アマチュア写真クラブを組織して芸術写真の制作もはじめた。30年花王石鹼広告部に入社,生活感あふれる広告写真を撮影した。このころに35ミリフィルムを使用するライカA型カメラを自分の手足のように駆使することで,日常的な光景をスナップする独自の写真スタイルを確立している。(→コトバンク)
2012年3月ー浜島書店『中学歴史資料集・学び考える歴史』
右の㌻に沖縄の写真家・山田實さん撮影の「英語で書かれた賽銭箱(金武観音寺1960年代)」が掲載されている。
03/06: 雑誌『おきなわ』/稲垣國三郎
1935年5月ー稲垣國三郎『敵艦見ゆ-沖縄五勇士』盛運堂□→1935年8月『琉球新報』稲垣國三郎「『敵艦見ゆ』の上演されるまでー曾我廼家五郎と沖縄五勇士劇」
1935年12月ー『琉球新報』「在阪沖縄県人3万の指導へ南島会の奮起!稲垣校長も激励ー在阪教育家を以って組織する南島会では去る7日午後7時から此花区宮居町ときわ亭で忘年会を兼ねて第6回総会を開いた。愛日校長稲垣國三郎氏、関西球陽会より豊川忠進、我喜屋宗信、真栄田勝朗らが招待された」
1936年1月22日、稲垣國三郎が台南丸で来沖。
先日の『琉球新報』に琉球大学図書館で沖縄芸能写真が出た記事。その中にドイツのトラウツ博士夫妻が宮古の「博愛碑建立60周年式典」で1936年に来沖したとき那覇の安慶名徳潤宅での集合写真が掲載されていた。のちに『大阪球陽新報』を創刊する真栄田勝朗も居る。ほかに下地玄信、又吉康和、島袋源一郎、新垣松含、新垣芳子らが居る。安慶名徳潤(1954年1月15日没)、又吉康和は後の那覇市長である。
ここでトラウツ博士夫妻の来沖の経緯を記す。大阪の愛日小学校校長の稲垣國三郎が1936年1月下旬、久松五勇士慰問のため宮古に赴いた。そのとき博愛記念碑を見て、博愛碑が60年になることで何かこの美談を世上に紹介しようと思いついた。期せずして沖縄の宣伝と日独親善にも寄与すると考えた。大阪に帰り、宮古出身の下地玄信に協力を求めた。下地は当時国際親善協会大阪本部の責任者でもあったので4月中旬に上京、この参事の肩書でドイツ大使館、外務省、参謀本部、陸海軍、文部の関係機関を訪ねた。大々的に挙行せよと外務省後援の承認と激励を受けて19日帰阪した。
4月22日、野村ビル有恒倶楽部に在阪沖縄県人有志、豊川忠進、我喜屋宗信、平尾、稲垣らが参加し意見交換をした結果、主催者を沖縄県、宮古教育部会とし外務省、東京、大阪の日独協会、日独文化協会、日独文化研究所などを後援者にして小委員に稲垣、下地、豊川、阿嘉、真栄田勝朗が推挙された。この日はオブザーバーとして来阪中の又吉康和琉球新報主筆、座安盛徳沖縄朝日新聞記者も参加した。5月下旬、稲垣、下地は相携えてカシワの会理事長の有沢博士、日独協会会長の佐多博士に協力を求めると即座に予算を書面で示せと好意的な対応。即日、堂ビル清交社で稲垣、下地、真栄田が記念事業9項目、壹万圓の予算を編成した。
6月中旬、下地玄信は再び上京、関係官庁並びに地方長官会議で上京中の蔵重知事、伊江男爵、仲宗根玄 らを訪問。6月19日に下地事務所で協議会、主催者を宮古郡教育部会にとどめ、沖縄県ほかは後援者と正式決定する。この後も下地は5度目の上京。東京のドイツ文化研究所から文化資料提供、また神戸のドイツ国立観光局からは観光宣伝フイルムとポスターが貸与された。安慶名宜良も寄付金集めの功労者である。10月26日夕刻に委員一同が阿倍野斎場前の石屋に行き竣工の石碑を見る。次いで阿部野橋の富士屋食堂で最後の打合せを行い特派委員、歓迎方法の決定をした。
10月31日、京都からトラウツ博士夫妻が来阪、午後12時半に堂ビル清交社で神戸のドイツ副領事シュマルツ、日独協会の佐多博士、カシワの会の有沢理事長、大阪総領事館廣江通訳官、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞記者、委員側7人が出席し午餐会。
1936年11月11日『琉球新報』「海と空から力漲らせ/日独親善の使節来県/トラウツ博士一行を迎えて飛行場に歓呼の嵐」□10日トラウツ博士夫妻を迎える「空の港」那覇飛行場は日独親善に密接な関係を持つ外務省の二見孝平、沖縄県知事代理の佐藤学務長、那覇市長代理の當間助役、横田特高課長、鈴木兵事課長、照屋前那覇市長、山城二中、粟屋水産校長、又吉康和琉球新報主筆、真栄田勝朗ら女性たちも交じって午後1時から次々と自動車で集まった。更に日の丸旗、ハーゲン・クロイツ旗を持った小禄尋常高等小学校児童も参集、飛行場は近来にない賑わいを呈した。午後2時にダグラス機が到着、トラウツ博士、続いて下地玄信、トラウツ夫人が飛行機から降りてきた。
11日、トラウツ夫妻、下地玄信、真栄田勝朗、外務省の二見事務官が同行し島袋源一郎、古川体育主事の案内で午前中は那覇市役所、沖縄県庁訪問。午後2時は首里城視察、晩は風月楼で知事、首里・那覇両市長、沖縄教育会長発起による官民合同歓迎会。12日に宮古へ出発した。
1936年11月17日『海南時報』(石垣町)□13日大濱記者宮古発ー国際愛の金字塔!日章旗とナチス旗/感激と興奮のるつぼ/隣郡宮古の盛儀・13日朝、有田外相代理外務省文化事業第3課事務官・二見幸平氏、駐日独逸大使代理トラウツ博士、ヘルダ夫人、通訳・津田松苗氏、知事代理・佐藤学務部長一行を案内して明知支庁長、在阪計理士の下地玄信氏が湖北丸で午前9時来郡した。漲水港は萬船飾の発動機船が歓迎をなし発動機競争をなしつづいている。那覇より平山裁判所長、照屋前那覇市長、山城二中・崎浜商業・脇屋水産各校長、仲里視学、照屋林顕、大舛警部、与那原那覇市収入役、比嘉大毎、豊平大朝、仲宗根沖朝、志良堂毎日、佐々木沖縄日刊、真栄田琉球各新聞記者、天野春吉諸氏の顔も見え桟橋は郡内官衛長官、各校長、有志六百余名が出迎え。
201110・10那覇大空襲の日である。近松門左衛門の墓は菩提寺、尼崎・広済寺と、妻側の菩提寺の大阪・法妙寺に建てられ、共に夫婦の戒名が刻まれた比翼墓である。法妙寺は大空襲で焼失し大東市に再建され、後に墓だけが元の場所に戻された。近松の墓を見て、西鶴の墓がある誓願寺を訪ねる。戦災で本堂も繰りも焼けたため、一時途絶えた時期もあったが、毎年9月には「西鶴忌」が行われる。西鶴の墓は1887年を前後する頃、誓願寺境内の無縁墓に押し込められていたのが発見された。境内には、大坂に於ける私立学問所「懐徳堂」を140年余にわたり経営し、江戸時代大坂の文教の発展に貢献した、中井一族の墓がある。→稲垣國三郎にも『中井竹山と草茅危言』(大正洋行1943)の著がある。
1935年12月ー『琉球新報』「在阪沖縄県人3万の指導へ南島会の奮起!稲垣校長も激励ー在阪教育家を以って組織する南島会では去る7日午後7時から此花区宮居町ときわ亭で忘年会を兼ねて第6回総会を開いた。愛日校長稲垣國三郎氏、関西球陽会より豊川忠進、我喜屋宗信、真栄田勝朗らが招待された」
1936年1月22日、稲垣國三郎が台南丸で来沖。
先日の『琉球新報』に琉球大学図書館で沖縄芸能写真が出た記事。その中にドイツのトラウツ博士夫妻が宮古の「博愛碑建立60周年式典」で1936年に来沖したとき那覇の安慶名徳潤宅での集合写真が掲載されていた。のちに『大阪球陽新報』を創刊する真栄田勝朗も居る。ほかに下地玄信、又吉康和、島袋源一郎、新垣松含、新垣芳子らが居る。安慶名徳潤(1954年1月15日没)、又吉康和は後の那覇市長である。
ここでトラウツ博士夫妻の来沖の経緯を記す。大阪の愛日小学校校長の稲垣國三郎が1936年1月下旬、久松五勇士慰問のため宮古に赴いた。そのとき博愛記念碑を見て、博愛碑が60年になることで何かこの美談を世上に紹介しようと思いついた。期せずして沖縄の宣伝と日独親善にも寄与すると考えた。大阪に帰り、宮古出身の下地玄信に協力を求めた。下地は当時国際親善協会大阪本部の責任者でもあったので4月中旬に上京、この参事の肩書でドイツ大使館、外務省、参謀本部、陸海軍、文部の関係機関を訪ねた。大々的に挙行せよと外務省後援の承認と激励を受けて19日帰阪した。
4月22日、野村ビル有恒倶楽部に在阪沖縄県人有志、豊川忠進、我喜屋宗信、平尾、稲垣らが参加し意見交換をした結果、主催者を沖縄県、宮古教育部会とし外務省、東京、大阪の日独協会、日独文化協会、日独文化研究所などを後援者にして小委員に稲垣、下地、豊川、阿嘉、真栄田勝朗が推挙された。この日はオブザーバーとして来阪中の又吉康和琉球新報主筆、座安盛徳沖縄朝日新聞記者も参加した。5月下旬、稲垣、下地は相携えてカシワの会理事長の有沢博士、日独協会会長の佐多博士に協力を求めると即座に予算を書面で示せと好意的な対応。即日、堂ビル清交社で稲垣、下地、真栄田が記念事業9項目、壹万圓の予算を編成した。
6月中旬、下地玄信は再び上京、関係官庁並びに地方長官会議で上京中の蔵重知事、伊江男爵、仲宗根玄 らを訪問。6月19日に下地事務所で協議会、主催者を宮古郡教育部会にとどめ、沖縄県ほかは後援者と正式決定する。この後も下地は5度目の上京。東京のドイツ文化研究所から文化資料提供、また神戸のドイツ国立観光局からは観光宣伝フイルムとポスターが貸与された。安慶名宜良も寄付金集めの功労者である。10月26日夕刻に委員一同が阿倍野斎場前の石屋に行き竣工の石碑を見る。次いで阿部野橋の富士屋食堂で最後の打合せを行い特派委員、歓迎方法の決定をした。
10月31日、京都からトラウツ博士夫妻が来阪、午後12時半に堂ビル清交社で神戸のドイツ副領事シュマルツ、日独協会の佐多博士、カシワの会の有沢理事長、大阪総領事館廣江通訳官、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞記者、委員側7人が出席し午餐会。
1936年11月11日『琉球新報』「海と空から力漲らせ/日独親善の使節来県/トラウツ博士一行を迎えて飛行場に歓呼の嵐」□10日トラウツ博士夫妻を迎える「空の港」那覇飛行場は日独親善に密接な関係を持つ外務省の二見孝平、沖縄県知事代理の佐藤学務長、那覇市長代理の當間助役、横田特高課長、鈴木兵事課長、照屋前那覇市長、山城二中、粟屋水産校長、又吉康和琉球新報主筆、真栄田勝朗ら女性たちも交じって午後1時から次々と自動車で集まった。更に日の丸旗、ハーゲン・クロイツ旗を持った小禄尋常高等小学校児童も参集、飛行場は近来にない賑わいを呈した。午後2時にダグラス機が到着、トラウツ博士、続いて下地玄信、トラウツ夫人が飛行機から降りてきた。
11日、トラウツ夫妻、下地玄信、真栄田勝朗、外務省の二見事務官が同行し島袋源一郎、古川体育主事の案内で午前中は那覇市役所、沖縄県庁訪問。午後2時は首里城視察、晩は風月楼で知事、首里・那覇両市長、沖縄教育会長発起による官民合同歓迎会。12日に宮古へ出発した。
1936年11月17日『海南時報』(石垣町)□13日大濱記者宮古発ー国際愛の金字塔!日章旗とナチス旗/感激と興奮のるつぼ/隣郡宮古の盛儀・13日朝、有田外相代理外務省文化事業第3課事務官・二見幸平氏、駐日独逸大使代理トラウツ博士、ヘルダ夫人、通訳・津田松苗氏、知事代理・佐藤学務部長一行を案内して明知支庁長、在阪計理士の下地玄信氏が湖北丸で午前9時来郡した。漲水港は萬船飾の発動機船が歓迎をなし発動機競争をなしつづいている。那覇より平山裁判所長、照屋前那覇市長、山城二中・崎浜商業・脇屋水産各校長、仲里視学、照屋林顕、大舛警部、与那原那覇市収入役、比嘉大毎、豊平大朝、仲宗根沖朝、志良堂毎日、佐々木沖縄日刊、真栄田琉球各新聞記者、天野春吉諸氏の顔も見え桟橋は郡内官衛長官、各校長、有志六百余名が出迎え。
201110・10那覇大空襲の日である。近松門左衛門の墓は菩提寺、尼崎・広済寺と、妻側の菩提寺の大阪・法妙寺に建てられ、共に夫婦の戒名が刻まれた比翼墓である。法妙寺は大空襲で焼失し大東市に再建され、後に墓だけが元の場所に戻された。近松の墓を見て、西鶴の墓がある誓願寺を訪ねる。戦災で本堂も繰りも焼けたため、一時途絶えた時期もあったが、毎年9月には「西鶴忌」が行われる。西鶴の墓は1887年を前後する頃、誓願寺境内の無縁墓に押し込められていたのが発見された。境内には、大坂に於ける私立学問所「懐徳堂」を140年余にわたり経営し、江戸時代大坂の文教の発展に貢献した、中井一族の墓がある。→稲垣國三郎にも『中井竹山と草茅危言』(大正洋行1943)の著がある。