写真ー渡嘉敷唯信
渡嘉敷唯信(1910年~2002年1月17日逝去 二中14期・1928年卒 )「牛と雀」→那覇市『明治・大正生まれの作家たち』
沖縄県立二中(同期に当山堅一、山田有昴)を経て明治学院大学を卒業。独立美術研究所にて修業、小島善太郎に師事。1945年に独立美術会友、49年に自由美術会員、64年に自由美術退会し、70年より80年までの間に3回にわたって海外取材旅行をなす。
1985年3月 米城律・伊藝滋『石川正通追想集』石川澄子□渡ケ敷唯信(石川澄子は姉)「嘉納治五郎を救った話」
新川唯盛
「石垣」
「勝山の港」
04/28: 2014年4月27日/粟国郷友会ー第51回定期総会
郷友会会長を離任した上原小一氏と前会長の上江洲裕寿氏
新城粟国村長の挨拶
ムンジュルー
写真左からオキジム会長の新里有四郎氏、糸数信一32代郷友会長、新会長の与那城昭広氏
写真左が粟国村教育長の伊良皆賢哲氏、粟国幼小中学校校長の島史生氏
写真左が新里有四郎氏、レストラン宝楽の新城栄豊氏
写真右が新里有四郎氏、郷友会副会長の玉寄貞一郎→「沖縄県 ウォーキング協会 応援団の紹介|健康おきなわ21」」
04/22: 2014年4月/金城宏次
2004年2月14日ー『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑯」(追記)
□(略)先月は舅・金城宏次の85歳(申年)生年祝が読谷であった。楚辺公民館で合同、自宅では孫20人に囲まれ盛会に終わった。舅の祖父英三は旧藩時代、福建省を往来したことがあり、その父は読谷山間切最後の地頭代としてつとめた。舅の父・金城三平は沖縄県国頭郡各間切島組合立農学校(後の県立農林学校)の2期卒業、同期生に前川亀助、宮城久保、宮里貞寛、中村権五郎らが居た。1期にカキ王と云われた宮城新昌が居る。卒業生が海外雄飛でアメリカやハワイに渡航するなか、三平は読谷で教員をつとめた。地元で信望があったが早逝した。
舅は尋常高等小学校卒業後、上阪。福田自動車の製造工、昭和15年、自動車運転免許を取得。同年に西淀川区で徴兵検査で甲種合格。昭和16年1月10日、熊本西部二十四部隊(輜重兵第六聯隊)自動車隊に入隊し、半年間の教育修了後、東シナ海を経て上海に到着。独立自動車部隊・独立輜重自動車隊、更に輜重兵第二十二聯隊(原第七九三八部隊)に転じた。杭州の西湖近くに駐屯した。尾崎秀樹『西湖のほとり』に「西湖の孤山には乾隆帝の『四庫全書』を納めた文瀾閣があった(略)西湖の地はマルコポーロも足をとめているし、日本の空海もはるばるこの地を訪れている」とある。舅がかの地で戦死していたら20人の孫たちは存在しなかった。
西湖
西湖の紹介
西湖(せいこ)は、中国浙江省杭州市にある湖。 西湖の自然の島である孤山、西湖を分ける堤の苏堤、白堤、杨公堤、人口の島である小瀛洲、湖心亭、阮公墩、分けられた湖の外湖、西里湖、北里湖、南湖、岳湖、これらをまとめて形状を「一山、三堤、三島、五湖」と称される。2006年に、中国の国家AAAAA級旅行景区に指定される。2004年発行の第五版人民元1元札裏面の図案として、西湖の三潭印月が採用されている。 名称からして都市や山の西にある湖ということで、中国に数ある西湖であるが、単に「西湖」と言えば、この杭州の西湖を指す。その美しさは、古くから多くの詩にうたわれ、絵にも描かれ、詩人?蘇東坡が春秋時代の美女?西施にたとえたほどで、それが西湖の名の由来ともなった。 (→樂遊中国)
前列右から2人目が金城宏次
戦友たちから金城宏次宛のハガキ
1982年10月11日『琉球新報』「金城宏次さん/わたしの秘蔵品ーラジオ電蓄」
軍歌「戦友」を「支那事変」に従軍した新城慶喜小父(画家の新城兄弟の父)から聴かされたことがある。京都丹後学会のホームページに「歌の作者は真下飛泉、発表は1905年。前年には与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』が出ていた。真下には戦争体験はない。知人から奉天大会戦の悲惨な経験をつぶさに聴いて感動し、この歌を作った」とある。
軍歌が似合う時世になった。森繁久弥の歌う「戦友」を聴きながら記す。亡き戦友への鎮魂」の歌である。満州の「赤い夕日に照らされて/友は野末の石の下」。
2004年3月27日ー『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑲」
□前に舅の戦時中のことを書いたら当時の戦友から、電話があり体験を20分も話してくれた。その翌日2月16日の本紙社会面に「戦争今昔伝えたい」として平良真六氏と宮良作氏の記事があった。そして真六氏の二女・次子さんから「先日、タイムスで新城さんが”軍歌”に触れていた」からと記事にあった真六氏の「回帰」と題する軍歌が送られた。
舅は終戦を経て昭和昭和21年9月、バンコクを出航し浦賀上陸、復員した。帰郷、米駐留軍施設の輸送部隊勤務を経て沖縄バスに勤務。
戦前の嘉手納比謝橋下方
□(略)先月は舅・金城宏次の85歳(申年)生年祝が読谷であった。楚辺公民館で合同、自宅では孫20人に囲まれ盛会に終わった。舅の祖父英三は旧藩時代、福建省を往来したことがあり、その父は読谷山間切最後の地頭代としてつとめた。舅の父・金城三平は沖縄県国頭郡各間切島組合立農学校(後の県立農林学校)の2期卒業、同期生に前川亀助、宮城久保、宮里貞寛、中村権五郎らが居た。1期にカキ王と云われた宮城新昌が居る。卒業生が海外雄飛でアメリカやハワイに渡航するなか、三平は読谷で教員をつとめた。地元で信望があったが早逝した。
舅は尋常高等小学校卒業後、上阪。福田自動車の製造工、昭和15年、自動車運転免許を取得。同年に西淀川区で徴兵検査で甲種合格。昭和16年1月10日、熊本西部二十四部隊(輜重兵第六聯隊)自動車隊に入隊し、半年間の教育修了後、東シナ海を経て上海に到着。独立自動車部隊・独立輜重自動車隊、更に輜重兵第二十二聯隊(原第七九三八部隊)に転じた。杭州の西湖近くに駐屯した。尾崎秀樹『西湖のほとり』に「西湖の孤山には乾隆帝の『四庫全書』を納めた文瀾閣があった(略)西湖の地はマルコポーロも足をとめているし、日本の空海もはるばるこの地を訪れている」とある。舅がかの地で戦死していたら20人の孫たちは存在しなかった。
西湖
西湖の紹介
西湖(せいこ)は、中国浙江省杭州市にある湖。 西湖の自然の島である孤山、西湖を分ける堤の苏堤、白堤、杨公堤、人口の島である小瀛洲、湖心亭、阮公墩、分けられた湖の外湖、西里湖、北里湖、南湖、岳湖、これらをまとめて形状を「一山、三堤、三島、五湖」と称される。2006年に、中国の国家AAAAA級旅行景区に指定される。2004年発行の第五版人民元1元札裏面の図案として、西湖の三潭印月が採用されている。 名称からして都市や山の西にある湖ということで、中国に数ある西湖であるが、単に「西湖」と言えば、この杭州の西湖を指す。その美しさは、古くから多くの詩にうたわれ、絵にも描かれ、詩人?蘇東坡が春秋時代の美女?西施にたとえたほどで、それが西湖の名の由来ともなった。 (→樂遊中国)
前列右から2人目が金城宏次
戦友たちから金城宏次宛のハガキ
1982年10月11日『琉球新報』「金城宏次さん/わたしの秘蔵品ーラジオ電蓄」
軍歌「戦友」を「支那事変」に従軍した新城慶喜小父(画家の新城兄弟の父)から聴かされたことがある。京都丹後学会のホームページに「歌の作者は真下飛泉、発表は1905年。前年には与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』が出ていた。真下には戦争体験はない。知人から奉天大会戦の悲惨な経験をつぶさに聴いて感動し、この歌を作った」とある。
軍歌が似合う時世になった。森繁久弥の歌う「戦友」を聴きながら記す。亡き戦友への鎮魂」の歌である。満州の「赤い夕日に照らされて/友は野末の石の下」。
2004年3月27日ー『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑲」
□前に舅の戦時中のことを書いたら当時の戦友から、電話があり体験を20分も話してくれた。その翌日2月16日の本紙社会面に「戦争今昔伝えたい」として平良真六氏と宮良作氏の記事があった。そして真六氏の二女・次子さんから「先日、タイムスで新城さんが”軍歌”に触れていた」からと記事にあった真六氏の「回帰」と題する軍歌が送られた。
舅は終戦を経て昭和昭和21年9月、バンコクを出航し浦賀上陸、復員した。帰郷、米駐留軍施設の輸送部隊勤務を経て沖縄バスに勤務。
戦前の嘉手納比謝橋下方
04/16: 新城栄徳「莫夢曼荼羅ー⑨知念大工型三線」
2014年4月16日ー写真左から新城栄徳、麦門冬孫の石垣長敏氏と石垣米子さん
今回、石垣市立八重山博物館所蔵で、八重山白保(真謝)の与人(真仁屋与一)の家・石垣家が所有した知念大工型三線を見に来館したもの。真仁屋は、西表島古見を舞台にした古典音楽「古見の浦節」の作者・大宜見長稔の実家で、同三線は長稔愛用と伝わる。
04/15: 沖縄コレクター友の会②
2007年10月、第4回沖縄コレクター友の会合同展示会が9月25日から10月7日まで西原町立図書館で開かれた。会員の照屋重雄コレクションの英字検閲印ハガキが『沖縄タイムス』の9月29日に報道され新たに宮川スミ子さんの集団自決証言も報道された。10月4日の衆院本会議で照屋寛徳議員が宮川証言を紹介していた。重雄氏は前にも琉球処分官の書簡で新聞で話題になったことがある。
照屋重雄さん
合同展の最終日は読谷の義父の米寿祝いがあった。途次、息子の運転で母も連れ合同展を見た。上原会長、翁長副会長、宮城図書館長に息子を紹介した。米寿祝いは読谷「体験王国むら咲むらククルホール」であった。友の会副会長の翁長良明氏は36年間「芸大」近くで、なるみ弁当を営んできたが2007年に車道拡張で立ち退きを迫られ廃業に至った。本人は至って意気軒昂で古美術商の免許も取り第二の人生スタートと張り切っている。10月放送の「なんでも鑑定団」に出演したが10月3日の『沖縄タイムス』ダーヴァにテレビ出演の予告と「戦中のお宝ざっくざっく」と題してコレクションの一部が紹介された。10月5日の『琉球新報』に翁長氏は「戦後の象徴『石川』(東恩納博物館)」を書いた。
ここで沖縄コレクター友の会の歩みを示す。
1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。
同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスパの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。
2002年2月、会員の真喜志康徳氏が南風原文化センターで「真喜志康徳の世界展」を開いた。5月には会員の上原実氏が糸満中央図書館で復帰30周年特別記念展として「上原実コレクションに見る沖縄の人々と祖国復帰」を開いた。同月、リュウボウ沖縄広告協会創立20周年記念事業「沖縄の広告展」には会員5名がコレクションを出品した。2003年に会員の伊禮吉信氏が運営する諸見民芸館で「懐かしのガラスビン展」が開かれた。
2004年8月、会員の翁長良明氏が宜野湾市立博物館で「世界のお金展」、沖縄県立博物館で友の会の第一回合同展「沖縄歴史を綴る秘宝展」、壷屋焼物博物館で翁長氏出品の「沖縄の酒器・沖縄の古陶コレクション」が相前後して開かれた。2005年5月、新城栄徳、上原実出品「琉球弧の雑誌展」が沖縄タイムスロビーで開かれた。6月、諸見民芸館で「あの時、あのころ、なつかしのレコード展」、8月には西原町立図書館で第二回の合同展「コレクター収集資料展」、10月に琉球新報本社で真栄城勇、上原実出品「号外に見る沖縄戦後60年」が開かれた。
2006年2月、宜野湾市立博物館で伊禮吉信出品「パッチーの世界」、8月の宜野湾市立博物館の「あわもり展」には会員5名が出品した。9月には沖縄市立郷土博物館で第三回の合同展「私のコレクション」を開催した。12月、名護市立中央公民館で翁長氏の講演「私のコレクション」があった。
沖縄コレクター友の会の新城栄徳は、1988年の緑林堂書店発行『琉球弧文献目録』No.6に「沖縄出版文化史ノート」を書き諸見里朝鴻、佐々木笑受郎、宮田倉太の顔写真も入れた。緑林堂店主の武石和実さんの紹介で新城は、古書店の業界誌『彷書月刊』(1990年2月)に「沖縄に来た画家たち」、「全国古書店案内65沖縄那覇・宜野湾」を2006年5月に書いた。後の古書店紹介では、古美術・観宝堂(TEL:098-863-0583)と諸見民芸館(TEL:098-932-0028)も取り上げた。諸見民芸館館長の伊禮吉信さんは沖縄コレクター友の会のメンバーである。
2007年のコレクター友の会の例会に県立芸大の粟国恭子さん、浦添市美術館の岡本亜紀さんが参加し「沖縄の金細工展実行委員会」にコレクター友の会も参加を要請された。8月、浦添市美術館での「沖縄の金細工ー失われようとするわざ・その輝き」に会員有志が出品した。
沖縄コレクター友の会副会長の翁長良明氏は、2008年9月13日~23日まで沖縄市・沖縄こども未来ゾーンのワンダーミュージアムでふるさと園ちゃーがんZOOまつりの一環として「沖縄のお金、世界のお金展」の開催に協力した。翁長氏は首里の雨乞森にあったテレビ塔を持っている。無論、鉄骨全部の保存となると部屋いっぱいになる。肝要な部分と、写真、内部文書を所蔵している。それらのモノは生きた沖縄放送史の証言者ともなっている。翁長氏は戦時中の伝単(宣伝謀略ビラ)や、『ウルマ新報』創刊号を始めとして、新聞人の手書きの原稿(伊江朝助、池宮城秀意)、内部文書などを所蔵している。
那覇市の平和通りから壷屋焼物通りに抜ける界隈は古美術なるみ堂や、成美堂(TEL:098-862-0041)、琉球文化屋(TEl:090-9656-6155)などが集まっている。旧グランドオリオン通りに沖縄コレクター友の会の仲里康秀さんが「しんあいでんき」(TEL:090-3322-9908)を開いた・古いラジオ、カメラ、時計や戦前の沖縄風景写真が並んでいる。仲里さんに関して新城栄徳が2004年3月の『沖縄タイムス』・「うちなー書の森 人の網」に書いた。「先月、沖縄コレクター友の会ドゥシ真喜志康徳氏と共に南風原町の仲里康秀氏宅へ遊びに行った。古いジュークボックスなどに囲まれた部屋で1968年の『知念高校卒業アルバム』を見た。恩師の当間一郎、山内昌尚、饒平名浩太郎、津留健二。卒業生の物理・放送・無線クラブの仲里康秀、社会クラブ大城和喜、上江洲安昌、宮平実、高嶺朝誠らの諸氏の顔が並ぶ」。
照屋重雄さん
合同展の最終日は読谷の義父の米寿祝いがあった。途次、息子の運転で母も連れ合同展を見た。上原会長、翁長副会長、宮城図書館長に息子を紹介した。米寿祝いは読谷「体験王国むら咲むらククルホール」であった。友の会副会長の翁長良明氏は36年間「芸大」近くで、なるみ弁当を営んできたが2007年に車道拡張で立ち退きを迫られ廃業に至った。本人は至って意気軒昂で古美術商の免許も取り第二の人生スタートと張り切っている。10月放送の「なんでも鑑定団」に出演したが10月3日の『沖縄タイムス』ダーヴァにテレビ出演の予告と「戦中のお宝ざっくざっく」と題してコレクションの一部が紹介された。10月5日の『琉球新報』に翁長氏は「戦後の象徴『石川』(東恩納博物館)」を書いた。
ここで沖縄コレクター友の会の歩みを示す。
1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。
同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスパの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。
2002年2月、会員の真喜志康徳氏が南風原文化センターで「真喜志康徳の世界展」を開いた。5月には会員の上原実氏が糸満中央図書館で復帰30周年特別記念展として「上原実コレクションに見る沖縄の人々と祖国復帰」を開いた。同月、リュウボウ沖縄広告協会創立20周年記念事業「沖縄の広告展」には会員5名がコレクションを出品した。2003年に会員の伊禮吉信氏が運営する諸見民芸館で「懐かしのガラスビン展」が開かれた。
2004年8月、会員の翁長良明氏が宜野湾市立博物館で「世界のお金展」、沖縄県立博物館で友の会の第一回合同展「沖縄歴史を綴る秘宝展」、壷屋焼物博物館で翁長氏出品の「沖縄の酒器・沖縄の古陶コレクション」が相前後して開かれた。2005年5月、新城栄徳、上原実出品「琉球弧の雑誌展」が沖縄タイムスロビーで開かれた。6月、諸見民芸館で「あの時、あのころ、なつかしのレコード展」、8月には西原町立図書館で第二回の合同展「コレクター収集資料展」、10月に琉球新報本社で真栄城勇、上原実出品「号外に見る沖縄戦後60年」が開かれた。
2006年2月、宜野湾市立博物館で伊禮吉信出品「パッチーの世界」、8月の宜野湾市立博物館の「あわもり展」には会員5名が出品した。9月には沖縄市立郷土博物館で第三回の合同展「私のコレクション」を開催した。12月、名護市立中央公民館で翁長氏の講演「私のコレクション」があった。
沖縄コレクター友の会の新城栄徳は、1988年の緑林堂書店発行『琉球弧文献目録』No.6に「沖縄出版文化史ノート」を書き諸見里朝鴻、佐々木笑受郎、宮田倉太の顔写真も入れた。緑林堂店主の武石和実さんの紹介で新城は、古書店の業界誌『彷書月刊』(1990年2月)に「沖縄に来た画家たち」、「全国古書店案内65沖縄那覇・宜野湾」を2006年5月に書いた。後の古書店紹介では、古美術・観宝堂(TEL:098-863-0583)と諸見民芸館(TEL:098-932-0028)も取り上げた。諸見民芸館館長の伊禮吉信さんは沖縄コレクター友の会のメンバーである。
2007年のコレクター友の会の例会に県立芸大の粟国恭子さん、浦添市美術館の岡本亜紀さんが参加し「沖縄の金細工展実行委員会」にコレクター友の会も参加を要請された。8月、浦添市美術館での「沖縄の金細工ー失われようとするわざ・その輝き」に会員有志が出品した。
沖縄コレクター友の会副会長の翁長良明氏は、2008年9月13日~23日まで沖縄市・沖縄こども未来ゾーンのワンダーミュージアムでふるさと園ちゃーがんZOOまつりの一環として「沖縄のお金、世界のお金展」の開催に協力した。翁長氏は首里の雨乞森にあったテレビ塔を持っている。無論、鉄骨全部の保存となると部屋いっぱいになる。肝要な部分と、写真、内部文書を所蔵している。それらのモノは生きた沖縄放送史の証言者ともなっている。翁長氏は戦時中の伝単(宣伝謀略ビラ)や、『ウルマ新報』創刊号を始めとして、新聞人の手書きの原稿(伊江朝助、池宮城秀意)、内部文書などを所蔵している。
那覇市の平和通りから壷屋焼物通りに抜ける界隈は古美術なるみ堂や、成美堂(TEL:098-862-0041)、琉球文化屋(TEl:090-9656-6155)などが集まっている。旧グランドオリオン通りに沖縄コレクター友の会の仲里康秀さんが「しんあいでんき」(TEL:090-3322-9908)を開いた・古いラジオ、カメラ、時計や戦前の沖縄風景写真が並んでいる。仲里さんに関して新城栄徳が2004年3月の『沖縄タイムス』・「うちなー書の森 人の網」に書いた。「先月、沖縄コレクター友の会ドゥシ真喜志康徳氏と共に南風原町の仲里康秀氏宅へ遊びに行った。古いジュークボックスなどに囲まれた部屋で1968年の『知念高校卒業アルバム』を見た。恩師の当間一郎、山内昌尚、饒平名浩太郎、津留健二。卒業生の物理・放送・無線クラブの仲里康秀、社会クラブ大城和喜、上江洲安昌、宮平実、高嶺朝誠らの諸氏の顔が並ぶ」。
沖縄コレクター友の会
南風原レストラン「沖縄コレクター友の会例会」
眞喜志康徳(郷土歴史研究会眞玉会)ー南風原町字与那覇79 ℡889-4261
『オキナワグラフ』2009年8月号
会長兼事務局
上原実ー糸満市西崎1-33-6 ℡090-1941-5268
『オキナワグラフ』2008年9月号
会員
伊禮吉信(諸見民芸館館長)ー沖縄市諸見里3-11-10 ℡090-9789-9289
与儀達憲(壺屋焼物博物館友の会会長)ー那覇市古島1-5-6 ℡090-4470-3738
和田正義(古文書収集家)ー那覇市上間344-1-804 ℡831-6257
□2009年12月8日『琉球新報』高良由加利「松田道之の書簡発見/那覇市の和田正義さん、1872年『滋賀新聞』も」
2010年8月25日『琉球新報』高良由加利「はと笛ー『人とモノの物語 沖縄コレクター友の会会員コレクション展』が24日、那覇市立壺屋焼物博物館で始まった。-」
著者の三十年間にわたる博物学の巨人と称われた南方熊楠への取材と資料渉猟のなかで明らかにされた、沖縄の民俗学の異才、末吉安恭の存在。南方熊楠が強い興味を示し、また海の彼方から反骨の熊楠に熱い眼差しを向けていた末吉安恭その人の、知られざる人生に光をあてる。
神坂次郎の本(文庫本)
神坂次郎
2005年2月13日『琉球新報』新城栄徳(書評)ー神坂次郎『南方熊楠の宇宙』(四季社)/今や、世界遺産「熊野」の顔ともなった和歌山在住の作家・神坂次郎さんから特急便で本書が送られてきた。そして「啓、ずいぶん長い時間がかかりましたが、ようやく、ほんとうにようやく『安恭さんの本』が出来ました。まず最初の一冊を新城さんに献じます」の文もそえられ、かつ、感極まられたのか「待ち待ちし麦門冬の花咲きにけり/次郎(印)」と揮ごう社主催の講演で麦門冬・末吉安恭を紹介された。
出版した『南方熊楠の宇宙: 末吉安恭との交流』四季社と、熊楠直筆の手紙を持つ神坂さん
2010年7月 神坂次郎・福富太郎・河田明久・丹尾安典『画家たちの「戦争」』新潮社〇神坂次郎ー昭和元年(1926年)というのは七日間で終わっているから、昭和二年三月生まれの私などは、六十四年間の”昭和〟という日本史始まって以来の激動の地獄と、飽食の世をたっぷり味わってきたことになる。もともと昭和の年号は、中国最古の経典で、天下泰平を絵に描いたような尭・舜の治世を記した『書経』の尭典<百姓昭明・協和万邦>からきたのだというが、「何が万国協和か」と破顔(わら)ってしまう。
神坂次郎の本(文庫本)
神坂次郎
2005年2月13日『琉球新報』新城栄徳(書評)ー神坂次郎『南方熊楠の宇宙』(四季社)/今や、世界遺産「熊野」の顔ともなった和歌山在住の作家・神坂次郎さんから特急便で本書が送られてきた。そして「啓、ずいぶん長い時間がかかりましたが、ようやく、ほんとうにようやく『安恭さんの本』が出来ました。まず最初の一冊を新城さんに献じます」の文もそえられ、かつ、感極まられたのか「待ち待ちし麦門冬の花咲きにけり/次郎(印)」と揮ごう社主催の講演で麦門冬・末吉安恭を紹介された。
出版した『南方熊楠の宇宙: 末吉安恭との交流』四季社と、熊楠直筆の手紙を持つ神坂さん
2010年7月 神坂次郎・福富太郎・河田明久・丹尾安典『画家たちの「戦争」』新潮社〇神坂次郎ー昭和元年(1926年)というのは七日間で終わっているから、昭和二年三月生まれの私などは、六十四年間の”昭和〟という日本史始まって以来の激動の地獄と、飽食の世をたっぷり味わってきたことになる。もともと昭和の年号は、中国最古の経典で、天下泰平を絵に描いたような尭・舜の治世を記した『書経』の尭典<百姓昭明・協和万邦>からきたのだというが、「何が万国協和か」と破顔(わら)ってしまう。
04/13: 龍脈/七福神
1914年正月『琉球新報』広告
福禄寿は中国では南極老人という。いつも杖を手に持ち、腰には瓢箪、しばしば白い鶴、ときには亀を従えて、道教での理想の姿となっている。滝沢馬琴『椿説弓張月』の北斎挿絵には「球陽福禄寿」が登場する。寿老人も中国では同じく南極老人と言われた。序に京都に「都七福神」、神戸に「西国七福神」巡りがあるが七メンバーに定着したのは江戸後期と言われている。七福神のうち恵比須だけが日本固有の神だが、これとて夷、戎、蛭子とも書くように、海の向こうからやってきた荒神だ。大黒天は室町の頃から恵比須と一対になり、家を守る神として祀られた。大黒は円満温厚な福相とはうらはらに出自はインド・ヒンドゥ教の破壊を司る大変恐ろしい神マハーカーラである。毘沙門天もヒンドゥ教の神でヴァイシュラヴァナという軍神だ。布袋尊は宇治萬福寺天王殿に鎮座する布袋が有名だが、中国の後梁時代に実在した僧と考えられ、且つ弥勒菩薩の化身とも言われている。弁財天は奈良時代に8本の腕を持って伝来、本来はヒンドゥ教の水(河)の神、サラスヴァティであった。
1994年3月 松本三益『自叙』□戦争に反対した人ー(略)1941年(昭和16年)あの真珠湾攻撃で太平洋戦争がはじまる直前の10月、久場マカト(68歳)、宮城ツラ(77歳)、新垣カマ(68歳)の3人の女性が御先神という宗教結社をつくって、お先神が真の神で、天皇は御先神の子孫であって下民の資格しかない、と古事記の天孫降臨の建国神話を否定しています。これは国体を否定し、皇室の尊厳をきずつけたということで、治安維持法違反で検挙されています。(略)ここでは、こんな事も弾圧の対象にされたという意味で理解していただきたいと思います。
久場カマド(1972年12月19日死去、99歳)「御先神教」
久場カマド
1925年8月8日ー久場カマド「御先神教」(伊計島に降臨した神)を那覇久米町で開教、若狭は久米に隣接する。
1927年1月1日ー出口王仁三郎、波上神社に参拝。2日は首里城見物、那覇市公会堂で講演、会場で御先神教の久場カマドが神がかりとなり大声を発す。
久場カマド(1873年~1972年12月19日)
久場を教祖とする那覇市在の宗教結社「御先神(うさちがみ)」の教義内容が、「真の神は御先神で、天皇はその子孫であって下民の資格しかない」と唱えたことから久場は国体を否定し、皇室の尊厳を冒涜するものとして、1941(昭和16)年10月2日、治安維持法違反により検挙された(1942年 那覇地方裁判所で治安維持法第八條違反により懲役2年、4年間執行猶予)
儀間比呂志「ソテツ」
1980年6月 大田政作『歴史の証言ー米占領統治下における沖縄の歩み』力富書房
04/10: 沖縄県立博物館・美術館屋外展示場「民家」
名城政次郎氏ー2013年1月17日・自宅近くの沖縄県立博物館・美術館入口の民家前
東氏の人々
津波古政正(東国興 1816年8月21日~1877年)
2010年8月5日、昼、ジュンク堂那覇店に名城政次郎氏が居られた。那覇市歴史博物館で名城氏の曽祖父(名城政快)の死亡広告を偶々目にしてその話をしたらコピーを依頼された。早速、那覇市歴史博物館でコピーしFAXで送った。
私は2003年11月22日『沖縄タイムス』「うちなー書の森 人の網⑪」に名城政快の息子・政成について、名城政成は1893年9月15日午前9時30分、那覇港からの球陽丸で沖縄県尋常師範学校の九州修学旅行に大城彦五郎、名嘉元貞一、親泊朝擢と共に政成も参加している。政成は那覇尋常高等小学校で教鞭を執ったあと台湾に渡り10数年、教育界で奔走。その後に那覇の甲辰小学校校長に就任。政成の長男・政雄は1918年に沖縄県立一中を卒業、同窓に大城俊彦(大城彦五郎長男、医師)、武元朝朗、富川盛蒲(医師)、当間重民らがいる。名城政雄は政成の影響もあって台湾で教師を勤め戦後、那覇区教育委員、那覇尚学塾長の傍ら週刊『新琉球』を発行した。2男の政次郎氏は台湾で生まれた。甲子園で優勝した沖縄尚学高等学校の校長として著名である。
1984年ごろ沖縄の図書館史を調べていた。その過程で那覇市安里の具志堅政冶氏(沖縄タイムス相談役)を知ることになる。具志堅氏は大正9年4月、当山正堅の紹介で沖縄図書館に助手として採用された。この図書館勤務は大正14年の春まで続いた。伊波普猷館長が退職し上京するとき伊波の紹介で当真嗣合の沖縄朝日新聞に入社。具志堅氏には『紙ハブ小のたわ言』(1982年1月)の著書がある。その中の「東姓もんちゅう物語」で尚泰王の国師だった東国興・津波古政正を紹介、また「東姓小宗名城一門系図」に書かれた序文も収録している。2冊目の『続・紙ハブ小のたわ言』(1985年10月)では「東姓の始祖」と題し漢那憲和(海軍少将)も東姓と紹介している。
2014年4月5日 平良次子さん
新城栄徳(平良次子さん・撮影)
2014年4月10日 武石和実氏
04/09: 1960年4月20日『琉球新報』「宗谷と子どもたち」
右が金城あけみ
山川岩美氏(右)と新城栄徳
1971年 沖縄の雑誌『青い海』8月号 山川岩美「共同体意識」
1975年5月 『眞』№1 発行人・比嘉康助
1975年5月 『眞』№1 発行人・比嘉康助
□山川岩美「序文」/レス・ウィズナー/水島源光/石井春雄/平井順光/比嘉康助
1977年7月 『眞』№7 発行人・比嘉康助
□山川岩美「随想・光の中の動き」/岩宮武二「風蝕岩」/清岡惣一「亜熱帯の植物」/水島源晃「慶良間カツオ」/平井順光「HERLL GIRL!(PACIFIC MIDDLE SCHOOL)」/名渡山愛誠「人ばなれの島」/比嘉康助「島のハーリー」/国吉和夫「在沖米軍(2)」/津野力男「マチ小漫歩」/岩尾克治「沖縄角力にふるさとをみる」レス・ウイズナー「帰路」
□’77年のドキュメンタリーフォト
比嘉康雄「33年の時間」/国吉和夫「マリン隊の実弾演習」/比嘉康助「公用地法期限切れ」/岩尾克治「カデナ米軍基地」/山川元亮「やんばる」/伊元源治「組踊・執心鐘入り」/久高将和「無題」/奥平かずお「断層”宮古島”」/親川澄子「隣りのおばあちゃん」/嘉数繁光「休日」/島袋良雄「ウンジャミ」/上原謙次「夏の港」
□フォト眞掲示板
「第29回沖展ー3-29~4-3首里高校」「立木義浩写真展ー4-7~4-11 デパートリウボウ」「松村久美写真展ー沖縄タイムス第二ホール」「第一回コマーシャルフォート展ー沖縄物産センター画廊」「久高将和・親川スミ子二人展」「ヘビ類写真コンテスト」「第22回写真連盟展ー山形屋」「沖縄大学写真クラブ習作展ー沖縄タイムス第二ホール」「写真ひろば・あーまん写真展」「平良孝七写真集・パイヌカジー木村伊兵衛賞受賞祝賀会ーゆうな荘」「第76回 九州写真師大会」「3-25 篠山紀信 潮の琉球料理取材で来沖ー3-26安木屋ホールで講演」「沖縄写真師連合会定期総会」「レンズでさぐるカメラマンツアーかりゆしの島大撮影会」「全6-19日本写真連盟沖縄支部結成!ー西武オリオン」「ペンタックスファミリー沖縄支部結成記念」「」
1978年6月『フォト眞』№8 発行人・比嘉康助
1979年2月 『フォト真』第10号 発行人・比嘉康助
□特集・イザイホウ
久保田博二「久高島・イザイホウにて」/比嘉康雄「ナンチュ」
東松照明+比嘉康雄「祭を記録することの意味」
川平幸雄/平井順光/大嶺信雄/比嘉康助
文・世禮茂彦+写真・比嘉康助「古琉球における祭祀の名残り」
□比嘉清真「那覇にて・サバニ」/金城ありさ「御願・このあと大騒ぎ」/仲栄真孝昭「裸馬競争」
真喜志康高「沖縄・退屈な風景」/糸数昌松「琉装の女」/与座一夫「兵士」/島袋清志「屋根」
□作久田繁「この一枚ー私の人生を変えた川平先生との出会い」
□水島源光「裏街点描」/名渡山愛誠「御願所」/津野力男「GHOST TOWN(ニューコザ)」
国吉和夫「OKINAWA MARINE」
□山川岩美「季節の窓・変質する沖縄の社会」/「サークル短信ーふうちばあ党/フォートクラブカデナ」
□写真クラブ名簿/写真関係者名簿
04/08: 曹姓①平敷慶秀
中央ー平敷慶秀氏
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2012年9月25日~10月7日 青砂工芸館「琉球藍染工房展」
2015年10月20日~10月26日 リウボウ7階 美術サロン「平敷慶秀 染展」
2012年6月26日「平敷慶秀 染 展」リウボウ7階美術サロン
右ー平敷慶秀氏
〇福田村事件(ふくだむらじけん)は、1923年9月6日、関東大震災後の混乱および流言蜚語が生み出した社会不安[2]の中で、香川県からの薬の行商団15名が千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)三ツ堀で地元の自警団に暴行され、9名が殺害された事件である。→ウィキ
□2009年9月ー島袋和幸「沖縄の軌跡№65ー<検見川事件>秋田県人・藤井金蔵、三重県人・真弓二郎、沖縄・儀間次助3県人の殺害事件の真相」
『沖縄の軌跡』発行人・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
04/06: 2014年4月6日ー曹氏平敷家の清明(シーミー)
父が作成した系図メモ/新城良一氏作成/クミーオジー和服に丸に日の紋。平敷慶久さんに聞いた家判にもあった。
1968年10月 琉球大学民俗研究クラブ『沖縄民俗』第15号「報告 粟国村西部落 上本部村具志堅部落」
墓前で先祖を供養する清明(シーミー)
クワディーサーとは和名ではコバテイシやモモタマナという樹木。うるま市屋慶名には「屋慶名クワディーサー」という有名な民謡があるのでそれをマンホールのモチーフにしたのではないかと思われる。→「DEEokinawa」
1953年4月5日に慶福翁が門中総代として神御清明祭で次のように祭文を読み上げている。「曹氏第11代 島袋慶福 謹んで墓前に於いて呈します。(略)平敷慶隆様が検地のため粟国島に御出張になり同地御滞在中(約半ケ年)に粟国にも御子供が出来て現在でも大へん子孫繁昌してをるように聞きます。・・・」
平敷慶隆
1972年11月 外間守善『おもろ語辞書』角川書店
1982年9月 池宮正治『近世沖縄の肖像 上 文学者・芸能者列伝』「平敷慶隆」
1983年5月 『沖縄大百科事典』池宮正治「平敷慶隆ー実務的官僚としてもすぐれ、本土文芸の教養もあり、書も達者だったことがわかる。1702年には内裏言葉并女官糺中取に任ぜられ、『混効験集』や『女官御双紙』の編集に関与した。」
1993年2月 『真境名安興全集 第三巻』「備忘録(昭和6年)/28、曹氏の墓の副葬品ー曹氏浦添筑登之慶白の墓の副葬品に短刀と『カミサシ』とあったようであるが、『カミサシ』は『イチュビガ』金にて茎は銀であったと、その裔孫(島袋慶福)の人の話である。家譜によると此人は尚清王時代に唐船改奉行となって唐に渡られたことがあるけれども年代は伝わらない。36才で死んだようである。又この人の子孫に内裏言葉の編纂にたずさわった人がある。」
島袋源一郎の弟子にあたる林清国(郷土史研究家)は源一郎の指示で「按司系図」を参考に郷土史研究を進めてきた。島袋慶福翁は仲田朝好所蔵の「按司系図」を見て曹姓家譜には無い神世時代の先祖の研究を進めていた。もちろん「必要の分だけ写し取る、疑義の点数多くあれど之により研究を進めて見る」としている。□天帝子ー阿摩彌久・志仁礼久ー天孫氏王ー後裔大里思金松兼王命天孫氏ー4男 西原王子ー恵祖世主ー英祖王ー湧川王子ー湧川按司ー長男 今帰仁按司ー長男 今帰仁城主ー今帰仁城主ー仲宗根若按司ー長男 今帰仁子ー8男 伊覇按司ー3男 玉城世主(先玉城按司の跡をつぐ)ー。家譜ら伝承では以下の通りである。
曹氏・浦添筑登之慶白ー 古波倉筑登之親雲上慶京ー 瀬底親雲上慶均ー平敷親雲上慶隆ー粟国島・島袋ー糸洲三良ーカンジャーヤーー○ー糸洲ー新城樽ー蒲ー三郎-栄徳ー江
粟国島ー糸洲(イシンチジ)のトートーメー/新城家(ニーブー)のトートーメー
□同門の島袋慶輔氏と同行し、港川人を発見した大山盛保氏の事務所を訪ねたことがある。→2007年11月ー沖縄県立博物館新館開館記念展「人類の旅ー港川人の来た道」
母方の玉寄は
粟国島ー母方のトートーメー
護佐丸・・・・・粟国・ヤッチー大ヤー玉寄ー玉寄ー玉寄蒲ー玉寄加那ー玉寄松ー敏子ー新城栄徳
1940年10月 『國民精神文化』第六巻第十號 河村只雄「粟國・渡名喜紀行」
〇粟国・・・私が見た門中墓も相当大きなものであった。「シルヒラシ」のところには洗骨前の棺が既に6つも並べてあった。ことに極めて最近入れられたといふ棺がある為であらう。夥しい蠅がウヨウヨして居た。私はつくづく琉球に於ける洗骨廃止の急務を痛感せずには居られなかった。/洗骨の問題・・・私はかうした洗骨の風習は早急に改廃すべきものであると思ふが、何でもかんでも「琉球のもの」といふならばあこがれをもつ一部の琉球文化の研究家の中にはこの洗骨を賛美してそれの保存を主張するのもがある。
粟国の墓/内部
→(おきぐる)
2007年11月ー沖縄県立博物館新館開館記念展「人類の旅ー港川人の来た道」
かつて同門の島袋慶輔氏と同行し我が家からすぐの、港川人を発見した大山盛保氏経営OK給油所内の事務所を訪ねたことがある。入口には「翁姓門中会」の看板があった。大山氏は翁姓で、最近亡くなられたジーミー創業者の稲嶺盛保氏も同じ翁姓門中である。ちなみに翁姓門中の現在の代表者は稲嶺恵一氏。大山盛保氏は沖縄の歴史と文化に大きな関心を寄せる市民研究者でもあった。購入した粟石の中に動物化石を見つけ、「動物がいたならば人間もいたはずだ」と考えた大山氏は港川で発掘調査を始めた。約2ヶ月半後、地表から約12mの部分で人骨を発見、その後も多くの動物化石や人骨を発見した。
2010年8月27日『琉球新報』
慶応大学の学生たちのブログに□最初の生命は約40億年前、地球誕生から6億年たった頃の海の中で誕生したと考えられている。材料となった基本的物質は原始大気中の成分:メタン、アンモニア、二酸化炭素などの無機物であった。これらにエネルギーを加えることによって、生命の素材は作られたのである。エネルギーは太陽光、雷の放電、放射線や熱、紫外線などによってもたらされたものである。
こうして生命を構成する基本的な物質、生命物質を合成した。アミノ酸、核酸塩基、糖や炭水化物などの有機物である。反応が起った場所としては、エネルギーが十分に与えられたと考えられる海底熱水噴出孔や隕石の落下地点などが注目されている。こうしてできた生命物質は雨によって原始の海に溶け込み、原始スープを形成した。原始スープにごちゃごちゃになって海の中を漂っていた。その中でこれらの物質が反応することによって、初めての生物は生まれたのである
1950年6月 雑誌『おきなわ』高嶺明達「南島風土記に奇すー東恩納先生は又『自分は最後の沖縄人を以て自ら任ずる者である』と云われた。私も亦沖縄人、而も善かれ悪しかれ最も日本化した沖縄人を秘かに任ずる者である。先生に云わせれば、そんなのは沖縄人でないと云われるかも知れないが。自分のことを申し上げ過ぎて恐縮だが、私は那覇の久米村で生まれた・・・」
1952年11月 高嶺明達『太平洋の孤児 米国統治下の琉球』沖縄通商
高嶺明達
高嶺明達 (たかみね・めいたつ)
1898~1966(明治31.8.22~昭和41.11.8) 官吏。旧姓・楚南。那覇市久米生まれ。東京帝大卒後、商工省入り。軍需省総務局長など歴任。戦後、B級戦犯で公職追放。復帰前の沖縄と政府のパイプ役を果たす。→沖縄コンパクト事典
妻・芳子は岸本賀昌の娘
1950年9月 雑誌『おきなわ』第1巻第5号 高里良恭「敗残者わが祖父」
1966年『現代沖縄人物三千人』沖縄タイムス社「高里良恭」
1951年1月 雑誌『おきなわ』第2巻第1号 新垣淑明「学園回顧/一中篇ー起て中山の健男児」
1966年『現代沖縄人物三千人』沖縄タイムス社
1993年5月1日 『おきなわの声』第161号 新垣淑明「散歩道/虎頭山周辺①」
1993年6月15日 『おきなわの声』第162号 新垣淑明「散歩道/虎頭山周辺②」
1952年11月 高嶺明達『太平洋の孤児 米国統治下の琉球』沖縄通商
高嶺明達
高嶺明達 (たかみね・めいたつ)
1898~1966(明治31.8.22~昭和41.11.8) 官吏。旧姓・楚南。那覇市久米生まれ。東京帝大卒後、商工省入り。軍需省総務局長など歴任。戦後、B級戦犯で公職追放。復帰前の沖縄と政府のパイプ役を果たす。→沖縄コンパクト事典
妻・芳子は岸本賀昌の娘
1950年9月 雑誌『おきなわ』第1巻第5号 高里良恭「敗残者わが祖父」
1966年『現代沖縄人物三千人』沖縄タイムス社「高里良恭」
1951年1月 雑誌『おきなわ』第2巻第1号 新垣淑明「学園回顧/一中篇ー起て中山の健男児」
1966年『現代沖縄人物三千人』沖縄タイムス社
1993年5月1日 『おきなわの声』第161号 新垣淑明「散歩道/虎頭山周辺①」
1993年6月15日 『おきなわの声』第162号 新垣淑明「散歩道/虎頭山周辺②」
04/05: 「八重山」資料
04/05: 「宮古島」資料
1987年3月 『新沖縄文学』第71号「特集ー島尾敏雄と沖縄」
1989年9月 『新沖縄文学』第81号「特集ー奄美から見た沖縄」
04/03: 沖縄県人会
04/02: 1951年4月 雑誌『おきなわ』高里良薫「故里に使して」
1959年5月 『オキナワグラフ』
1966年『現代沖縄人物三千人』沖縄タイムス社
1974年5月 沖縄の雑誌『青い海』6月号 通巻33号 「津波敏雄ー伝統工芸村に賭ける執念」