琉歌百控乾柔節流ー1795年((尚薀王)に偏された百節にのせて歌うために選ばれた琉歌集。
1,嘉謝伝風節 あた果報の附す 夢やちゃうん見ぬ 嘉謝手報のつくへ 混と附さ
朝夕我願や 事々や思ぬ 命果報重幸 あらち給れ
「琉歌百控」にある「嘉謝伝風節」の歌詞「あたガフヌ・・・カジヤディスヌ・・・」の漢字表記。
『南島歌謡大成 Ⅱ』(外間守善 角川書店 1980年)
p35 「嘉謝伝風節」の掲載がある。それによると表記は、「あた嘉報の附す 夢やちやうん見ぬ 嘉謝手報のつくへ 混(へたと)と附さ」となっている。
『新日本古典文学大系 62』(岩波書店 1997年)
p392 「嘉謝伝風節」の掲載がある。それによると表記は、「あた嘉報の附す 夢やちやうん見ぬ 嘉謝手報のつくへ 混と附さ」となっている。(レファレンス協同データベース)
08/28: あぐに/蘇鉄ネットワーク④
粟国/ソテツ2014-8
粟国小中校の二宮金次郎像と蘇鉄
2013年10月 ソテツ葉で遊ぶ ひより
徳之島金見(かなみ)集落にあるソテツトンネル。 ソテツの樹齢は約300年~350年。 もともとは、金見集落の畑の境界線と北風による暴風対策のために植えられたソテツが、ゆっくりと時間をかけて成長し、自然とアーチができあがった。 約250m続くトンネルの中は、南国ムード満載。
粟国小中校の二宮金次郎像と蘇鉄
2013年10月 ソテツ葉で遊ぶ ひより
徳之島金見(かなみ)集落にあるソテツトンネル。 ソテツの樹齢は約300年~350年。 もともとは、金見集落の畑の境界線と北風による暴風対策のために植えられたソテツが、ゆっくりと時間をかけて成長し、自然とアーチができあがった。 約250m続くトンネルの中は、南国ムード満載。
08/28: あぐに/ハマからマハナへ
08/28: あぐに/洞寺
粟国名所の洞寺のことは末吉門冬も随筆で、「昔一人の僧が、この島に漂着し、件の洞中に自然に削り立った仏像のような、三箇の岩石を発見した。僧はこれを以て、弥陀・薬師・観音だと信じ供養し、自らもこの窟内に寓った」と『土俗と伝説』(1919年)に紹介している。1905年3月、粟国島に来島した菊池幽芳はその紀行文に「平常口にするところのものは即ち蘇鉄の幹より製せる粗悪の澱粉 (略)内地にては犬も食わぬ食物なり」と記し、大阪の乞食のほうが贅沢だという。しかし、島は年中暖かい。今は東京、ニューヨークといった都会の方がホームレスで溢れ、しかも凍てつく冬もある。
洞寺1967
洞寺2014-8
洞寺1997
洞寺1997
洞寺2014-8
08/28: あぐに/1957
ソテツの葉は唯一の燃料。下葉を刈り取っているところ
島の西側にある貯水池
野良帰り。頭上にはソテツ葉、芋などを載せている。
石三つのカマド。石三つのカマドにはソテツ葉の燃料が似合う
貴重な水。井戸は島内に8ヶ所しかない。左右に水タンク(屋号イムイ)
村役場横の梯梧の大木
戦後、米軍がつくった横断道路。私にとっての歴史の道とは、粟国島の字東の自宅から村役場の横のデイゴを見ながら通った小学校への道、そしてその先の浜(港)から那覇の泊港に向かう船のことである。
新城栄徳の生家,水タンクが見える。/馬小屋
2008年1月ー『字浜誌』同編集委員会
写真/字浜航空写真4、字浜くし組倶楽部、 字浜いり倶楽部、字浜前組共励会集会場、
現在の海岸のようす、ミナト・海岸のようす、
ウガンジュ4、ハマ(みなと)5、屋宜大ヤー、
旧郵便局(1950年建立)、電話開通式、
旧正月ー山内大ヤ-での祝いの舞い、
大阪粟国村人会30周年記念会員名簿
粟国港(山田實・撮影)
08/28: 粟国/②
08/28: 粟国/①
2014年7月5日~9月3日 那覇市歴史博物館「あの頃の国際通り 国際通り物語Ⅱ」
2014年7月27日 山田實さん、昭和初期の那覇市の模型を見る。
1998年1月 大濱聡『沖縄・国際通り物語ー「奇跡」と呼ばれた一マイルー』ゆい出版(松田米雄)
2014年7月27日 山田實さん、昭和初期の那覇市の模型を見る。
1998年1月 大濱聡『沖縄・国際通り物語ー「奇跡」と呼ばれた一マイルー』ゆい出版(松田米雄)
08/18: 雑誌『あんとろぽす』
雑誌『あんとろぽす』は、1946年から1948年にかけて通巻9号まで、山岡書店から出版された雑誌です。
08/16: 1966年 海洋堂PR誌『海洋』創刊号を刊行
2014年7月26日~9月7日 とまりん3階「海洋堂フィギュアミュージアム」
ホビーの歴史を変えた世界的模型メーカー・海洋堂の作品4000点が沖縄に上陸!最新のフィギュアからプラモデル、食玩・・・造形の50年史がここにある。
【会期】7月26日(土)~9月7日(日)
【会場】とまりん3階特設会場
【開館時間】午前10時~午後6時
1928年 宮脇修 高知県黒潮町に生まれる。
1943年 宮脇修 15歳の時、中国で敗戦を迎える。
1946年 宮脇修 18歳で日本引き揚げ、マグロ漁船乗組員、広告会社勤務など30余りの職を転々とする。
1957年 宮脇修一 大阪府守口市で生まれる。
1964年 大阪府守口市の京阪土居駅近くに一坪半の模型店「海洋堂」オープン
1967年4月 海洋堂『海洋』VOL1NO2
1968年12月 海洋堂『海洋』№3
1976年 宮脇修一 クジラが好きで東京水産大学に入学
1983年 海洋堂ホビー館『ARTPLA』創刊号
2014年8月14日『沖縄タイムス』「魚眼レンズー三越最後の個展に寂しさ/新城征孝さん」
2014年8月23日14:00 沖縄県立博物館・美術館コレクションギャラリー3「アーティストトーク/新城征孝」
1990年10月 『宮城与徳遺作画集』沖縄タイムス社
1991年9月 『「宮城与徳遺作展」那覇展報告集』/1997年6月15日『沖縄タイムス』「鶴谷壽神戸女子大学教授が与徳と夢二親交の裏付け写真発見」
1928年、ロサンゼルス美術館前で後列右端が宮城与徳、中央が伊波普猷
尾崎秀實 英子の墓→島袋和幸撮影
多磨霊園【ゾルゲとその同志たち】碑には以下の人名が刻む
ゾルゲ,リヒアルト 1944.11.7刑死(巣鴨) 、河村好雄 1942.12.15獄死(巣鴨) 、宮城興徳 1943.8.2獄死(巣鴨) 、尾崎秀実 1944.11.7刑死(巣鴨) 、フランコ・ヴケリッチ 1945.1.13獄死(網走) 、北林とも 1945.2.9釈放の二日後死 、船越寿雄 1945.2.27獄死 、水野 成1945.3.22獄死(仙台) 、田口右源太 1970.4.4歿 、九津見房子 1980.7.15歿 、川合貞吉 1991.7.31歿
1972年3月 フックス①/安田徳太郎②訳『風俗の歴史』角川文庫
①エドゥアルト・フックス(Eduard Fuchs 、1870年1月31日-1940年1月26日)は、ドイツのマルクス主義者・風俗研究家・収集家。南ドイツのドナウ川沿岸のゲッピンゲン市に生まれる。20歳頃から社会主義運動に参加し、1894年には『階級闘争』という詩集を出版した。1895年に「ミュンヘン・ポスト」紙の編集部が発行する『南ドイツ郵便馬車』という社会主義の政治風刺雑誌を手伝い、同じ年の5月に編集を任されている。この号はドイツ発のカラーの絵入り雑誌として発行され、通常2500部の売り上げが60000部に跳ね上がった。最初のカリカチュア研究である『カリカチュアに見られる1848年』と『フォールメルツのダンスの理想、カリカチュアにおけるローラ・モンテス』という論文をある雑誌に発表したところ、後者が皇室の名誉を毀損したとして、バイエルン政府から不敬罪により起訴され禁固10ヶ月を言い渡され服役した。その後ベルリンに出て本格的にカリカチュアの研究に取りかかり、眼病に悩まされながら膨大なコレクションを集め著述を行った。1933年にヒトラーが政権につくと、その弾圧にあい、その年の5月に国境沿いにスイスに逃亡した。この際フックスのコレクションと著作は没収され、焼却された。最終的にはパリに亡命し、その地で生涯を終えた。→ウィキペディア
②安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - 1983年4月22日)は、医者、歴史家。京都市生まれ。京都帝国大学卒。在学中から従兄の山本宣治の産児制限運動に関わる。さらに無産運動に関係し、医師としてこれを支援。1933年、共産党シンパとして検挙され、1942年、ゾルゲ事件に連座。 また、唯物論的科学思想史の研究を行い、フロイトの翻訳などをする。 戦後は『人間の歴史』や『万葉集の謎』(「日本人の歴史1」)などで歴史家として著述活動を行った。→ウィキペディア□松本三益「安田は1941年10月 宮城与徳、尾崎秀實らの一斉検挙と共に検挙され、軍事機密に関する情報を宮城与徳に提供したと自供し治安維持法、軍機保護法、国防保安法の三つの罪名で起訴されたが予審調書では治安維持法で起訴され1943年7月保釈になり1944年3月6日懲役2年執行猶予5年の判決をうけている。安田の反共デマ」記事については自由法曹団の松井繁明弁護士、坂本修弁護士、守屋典郎弁護士連名で取り消しを要求したが返事がなかった。
1959年7月『オキナワグラフ』「あなたも狂人になる」
1960年4月『オキナワグラフ』「カラー 春をよぶジュリ馬」
1962年8月『オキナワグラフ』「売り出されたオキナワストリップ」「気狂いに遭えぬ日はなし 那覇の街」
●関連資料ー1949年12月 『うるま春秋』創刊号
1949年12月 『うるま春秋』創刊号 発行人・池宮城秀意 編集人・仲村渠致良 印刷人・久高唯澤
琉球新報新聞博物館
仲村渠致良の筆跡
□1951年12月9日『琉球新報』太田良博「木枯しー仲村渠氏の思い出」(1)~(4)12月19日
●関連資料ー1949年2月 『月刊タイムス』創刊号
1949年7月 『月刊タイムス』「第一回沖展をみる」
1949年8月 『月刊タイムス』活字印刷・沖縄タイムス社
1951年7月 『月刊タイムス』□休刊の辞ー月刊タイムスは、今月(7月)號を以て一先ず休刊することになりました。顧みますと本誌の発行は1949年2月、終戦後の出版事情が最も困難を極めた時であった。今日に至る2年有半は随って本誌にとっては苦難の途であり、新聞の発行と軌を一にして終始茨の途を辿って遂いに本號迄に通算30號を数えたわけであります。それにしましても今回休刊の止むなきに至りましたことは最もわれわれの遺憾とするところであり、その點、今迄御愛讀の榮を賜った讀者の皆様に對しては何とも申譯がなく、深くお詫びするしだいであります。本誌が発足するに當ってその編集の方針は飽く迄新聞社の発行になる月刊誌としてふさわしいものにしょうと努力もし、犠牲も覚悟したことは云う迄もありません。しかも微力の致すところ諸設備の不整備、人手不足、加うるに本年初め急激に悪化した用紙事情のため我々として急速に本誌の一時休刊を計る必要に迫られたわけであります。今後は本誌の持つ文化的使命を本紙(沖縄タイムス)に生かし倍旧の力を傾けたいと思います。この點本誌の休刊を最初にして最後の「一粒の麥、地に墜ちずば」たるに外ならぬことを期したいと念ずるものであります。 沖縄タイムス社月刊タイムス編集部
1960年4月『オキナワグラフ』「カラー 春をよぶジュリ馬」
1962年8月『オキナワグラフ』「売り出されたオキナワストリップ」「気狂いに遭えぬ日はなし 那覇の街」
●関連資料ー1949年12月 『うるま春秋』創刊号
1949年12月 『うるま春秋』創刊号 発行人・池宮城秀意 編集人・仲村渠致良 印刷人・久高唯澤
琉球新報新聞博物館
仲村渠致良の筆跡
□1951年12月9日『琉球新報』太田良博「木枯しー仲村渠氏の思い出」(1)~(4)12月19日
●関連資料ー1949年2月 『月刊タイムス』創刊号
1949年7月 『月刊タイムス』「第一回沖展をみる」
1949年8月 『月刊タイムス』活字印刷・沖縄タイムス社
1951年7月 『月刊タイムス』□休刊の辞ー月刊タイムスは、今月(7月)號を以て一先ず休刊することになりました。顧みますと本誌の発行は1949年2月、終戦後の出版事情が最も困難を極めた時であった。今日に至る2年有半は随って本誌にとっては苦難の途であり、新聞の発行と軌を一にして終始茨の途を辿って遂いに本號迄に通算30號を数えたわけであります。それにしましても今回休刊の止むなきに至りましたことは最もわれわれの遺憾とするところであり、その點、今迄御愛讀の榮を賜った讀者の皆様に對しては何とも申譯がなく、深くお詫びするしだいであります。本誌が発足するに當ってその編集の方針は飽く迄新聞社の発行になる月刊誌としてふさわしいものにしょうと努力もし、犠牲も覚悟したことは云う迄もありません。しかも微力の致すところ諸設備の不整備、人手不足、加うるに本年初め急激に悪化した用紙事情のため我々として急速に本誌の一時休刊を計る必要に迫られたわけであります。今後は本誌の持つ文化的使命を本紙(沖縄タイムス)に生かし倍旧の力を傾けたいと思います。この點本誌の休刊を最初にして最後の「一粒の麥、地に墜ちずば」たるに外ならぬことを期したいと念ずるものであります。 沖縄タイムス社月刊タイムス編集部
1939年8月3日 春陽会の鳥海青児①、山川清②、前田藤四郎③、浮島丸で来沖 大嶺政寛が出迎え
①鳥海青児
1939年(昭和14)37歳
1月15日、美川きよと結婚し、新居を麹町区六番町1-5にさだめる。
3月、第17回春陽会展に《蘇州風景》《塹壕のある風景》《楊子江と漢陽の街》《支那の家》《蘇州風景》《蘇州小景》を出品。
7月、神戸から那覇、首里、糸満と沖縄旅行。山川清同行。滞在中は春陽会の大嶺政寛の世話をうける。沖縄からかえって数カ月後、二度日の中国旅行で北京、天津、張家口、熱河などへ。
この頃から日本の古美術の収集をはじめ、まづ初期肉筆浮世絵に興味をもつ。
*琉球の墓の立派な事は聞いて居たが、そのすばらしさには驚嘆した。日本のどこを歩いても、こんな堂々としたリズムカルな、しかもプラスチックな強い風景には行きあたれない。画家も随分行つて居るはずだが、どうして手をつけないのだらう。(略)内地のお化臭いしめつぽいお塞から推してはまるで想像出来ない。ローマの遺跡にでも立つて居る様な景観であつた。(「琉球風物記」)
*僕は昨年あたりから、どんな風の吹きまわしか浮世絵にこりだしました。我家の珍宝は今の所これ一つ、これからうんと集めたいと思つて居ります。(《十家十宝録》で初期肉筆寛文舞踊図について、『第十八回春陽会パンフレット』)→「三重県立美術館」
ちょうかいせいじ【鳥海青児】 1902‐72(明治35‐昭和47)
洋画家。神奈川県平塚市に生まれる。本名正夫。関西大学在学中の1923年,第2回春陽会展に初入選し,三岸好太郎,横堀角次郎らと麓人社を結成して絵画修業にはげむ。岸田劉生の感化をうけて草土社スタイルの土着的な作品を描くが,30年に渡欧し,おもにモロッコ,アルジェリアに滞在,その体験とゴヤの作品に魅了されて画風を一変する。《闘牛》をはじめ滞欧作23点を33年第11回春陽会に出品。その後,38,39年に中国旅行を試み,日本の古美術に対する関心を深め,鑑識眼の高い蒐集家としても知られる。 →コトバンク
②山川清
没年月日:1969-11-09
春陽会会員の洋画家山川清は、11月9日腸ヘイソクのため阪大病院で死去した。享年66才。明治36年6月14日大阪市に生まれた。大阪府立北野中学在学中から赤松麟作に石膏デッサンの指導を受け、同中学先輩の佐伯祐三につれられて初めて油絵の道具を買いそろえたという。
4年生2学期から兵庫県西宮市今津町に新設された私立甲陽中学に転校し、同校を卒業した。まもなく美術学校受験のため上京、川端画学校に学んだが病気になり中断し、以後滝の川に画室を建て独学した。大正12年大震災を機に東京を引き払い京都山科に住み周辺の古美術に接する。続いて同14年奈良に転居、仏教美術に親しむ。昭和3年5月渡仏し、同9年帰国後春陽会展に穏健な写実的作品を出品しつづけ昭和23年春陽会会員となった。訳著に「ゆもりすと咄(フランス小咄)」<昭和23年12月、ぴーこっく書房刊>がある。→「東京文化財研究所」
③前田藤四郎 まえだ-とうしろう
1904-1990 昭和時代の版画家。
明治37年10月18日生まれ。神戸高商(現神戸大)卒業後,松坂屋宣伝部につとめるかたわら版画を独習。昭和6年大阪で羊土社を結成するなど関西を拠点に活動。14年春陽会賞。32年大阪府芸術賞。リノリウム版,シルクスクリーン,写真製版などを併用し,木版画の領域をひろげた。平成2年5月19日死去。85歳。兵庫県出身。→コトバンク
1982年9月 前田藤四郎『版画家としてースペインで考えたことなど』共同ブレーンセンター/1994年10月 枚方市民ギャラリー「前田藤四郎展」
①鳥海青児
1939年(昭和14)37歳
1月15日、美川きよと結婚し、新居を麹町区六番町1-5にさだめる。
3月、第17回春陽会展に《蘇州風景》《塹壕のある風景》《楊子江と漢陽の街》《支那の家》《蘇州風景》《蘇州小景》を出品。
7月、神戸から那覇、首里、糸満と沖縄旅行。山川清同行。滞在中は春陽会の大嶺政寛の世話をうける。沖縄からかえって数カ月後、二度日の中国旅行で北京、天津、張家口、熱河などへ。
この頃から日本の古美術の収集をはじめ、まづ初期肉筆浮世絵に興味をもつ。
*琉球の墓の立派な事は聞いて居たが、そのすばらしさには驚嘆した。日本のどこを歩いても、こんな堂々としたリズムカルな、しかもプラスチックな強い風景には行きあたれない。画家も随分行つて居るはずだが、どうして手をつけないのだらう。(略)内地のお化臭いしめつぽいお塞から推してはまるで想像出来ない。ローマの遺跡にでも立つて居る様な景観であつた。(「琉球風物記」)
*僕は昨年あたりから、どんな風の吹きまわしか浮世絵にこりだしました。我家の珍宝は今の所これ一つ、これからうんと集めたいと思つて居ります。(《十家十宝録》で初期肉筆寛文舞踊図について、『第十八回春陽会パンフレット』)→「三重県立美術館」
ちょうかいせいじ【鳥海青児】 1902‐72(明治35‐昭和47)
洋画家。神奈川県平塚市に生まれる。本名正夫。関西大学在学中の1923年,第2回春陽会展に初入選し,三岸好太郎,横堀角次郎らと麓人社を結成して絵画修業にはげむ。岸田劉生の感化をうけて草土社スタイルの土着的な作品を描くが,30年に渡欧し,おもにモロッコ,アルジェリアに滞在,その体験とゴヤの作品に魅了されて画風を一変する。《闘牛》をはじめ滞欧作23点を33年第11回春陽会に出品。その後,38,39年に中国旅行を試み,日本の古美術に対する関心を深め,鑑識眼の高い蒐集家としても知られる。 →コトバンク
②山川清
没年月日:1969-11-09
春陽会会員の洋画家山川清は、11月9日腸ヘイソクのため阪大病院で死去した。享年66才。明治36年6月14日大阪市に生まれた。大阪府立北野中学在学中から赤松麟作に石膏デッサンの指導を受け、同中学先輩の佐伯祐三につれられて初めて油絵の道具を買いそろえたという。
4年生2学期から兵庫県西宮市今津町に新設された私立甲陽中学に転校し、同校を卒業した。まもなく美術学校受験のため上京、川端画学校に学んだが病気になり中断し、以後滝の川に画室を建て独学した。大正12年大震災を機に東京を引き払い京都山科に住み周辺の古美術に接する。続いて同14年奈良に転居、仏教美術に親しむ。昭和3年5月渡仏し、同9年帰国後春陽会展に穏健な写実的作品を出品しつづけ昭和23年春陽会会員となった。訳著に「ゆもりすと咄(フランス小咄)」<昭和23年12月、ぴーこっく書房刊>がある。→「東京文化財研究所」
③前田藤四郎 まえだ-とうしろう
1904-1990 昭和時代の版画家。
明治37年10月18日生まれ。神戸高商(現神戸大)卒業後,松坂屋宣伝部につとめるかたわら版画を独習。昭和6年大阪で羊土社を結成するなど関西を拠点に活動。14年春陽会賞。32年大阪府芸術賞。リノリウム版,シルクスクリーン,写真製版などを併用し,木版画の領域をひろげた。平成2年5月19日死去。85歳。兵庫県出身。→コトバンク
1982年9月 前田藤四郎『版画家としてースペインで考えたことなど』共同ブレーンセンター/1994年10月 枚方市民ギャラリー「前田藤四郎展」