編輯発行兼印刷人・馬上太郎
月刊文化沖縄社 那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社 東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局 パラオ島コロール町 大宜味朝徳
首里城正殿の鐘を迎へて・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉康和・・・・11
○国難が愈々具体化し、学徒出陣の強い羽搏ちは洵に歴史的壮観であり、全国民の覚悟を新たにした。此の時、此の島に於いて由緒深い首里城正殿の巨鐘を元の御城に迎へ郷土博物館に安置することが出来たのは戦勝の前兆であり、大東亜共存共栄圏建設の暗示であらねばならない。
荒井警察部長が仲吉市長と鐘銘に三嘆したと云ふ晩、偶々或る会場で一緒になり、部長は余程感激したと見へ重ねて大鐘の由来を諮かれたから、親泊政博君と二人で交々その経緯までもお話し、尚ほ国民精神の昂揚に資すべく眞教寺から首里城内に還元するやう御尽力を願ったところ、数日の後親泊壮年団長の案内で実物実見に及び一入感銘を深くし、早速非公式に交渉したら、田原住職を始め信徒総代も快諾された。(略)東恩納先生が喜ぶであらう。源一郎君が生きて居たらと全発君等と話し合って法悦に浸た。回顧すれば昭和8年東恩納教授は英独佛に調査研究を命じられたが、希望して支那及び南洋諸国に変更されたことは一大見識であらねばならない。その鹿島立に際し「私は之から祖先の偉大なる魄を迎へにまなんばんへ参ります」と郷土の人々にメッセーヂーを送られた、其の偉大なる魂は此の鐘銘にも躍動している。
追記 伊江男と東恩納教授から左記の如き祝辞と感謝の御芳書を戴いた。
鐘を無事に元の御城に美御迎へしたことは近来の大快亊ですから尽力せられし各位に衷心より感謝と敬意を表します。(伊江朝助)
豫々念願の大鐘漸く旧棲に戻り候趣落花流水其根源に帰し候段本懐至極偏に御尽力の責と感謝に不耐第一回の御書面は17日落手その為に祝意間に不合遺憾に存居候何卒諸君へもよろしく御伝声被下度願上候(東恩納寛惇)
梵鐘を送る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田原惟信・・・・・26
月刊文化沖縄社 那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社 東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局 パラオ島コロール町 大宜味朝徳
首里城正殿の鐘を迎へて・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉康和・・・・11
○国難が愈々具体化し、学徒出陣の強い羽搏ちは洵に歴史的壮観であり、全国民の覚悟を新たにした。此の時、此の島に於いて由緒深い首里城正殿の巨鐘を元の御城に迎へ郷土博物館に安置することが出来たのは戦勝の前兆であり、大東亜共存共栄圏建設の暗示であらねばならない。
荒井警察部長が仲吉市長と鐘銘に三嘆したと云ふ晩、偶々或る会場で一緒になり、部長は余程感激したと見へ重ねて大鐘の由来を諮かれたから、親泊政博君と二人で交々その経緯までもお話し、尚ほ国民精神の昂揚に資すべく眞教寺から首里城内に還元するやう御尽力を願ったところ、数日の後親泊壮年団長の案内で実物実見に及び一入感銘を深くし、早速非公式に交渉したら、田原住職を始め信徒総代も快諾された。(略)東恩納先生が喜ぶであらう。源一郎君が生きて居たらと全発君等と話し合って法悦に浸た。回顧すれば昭和8年東恩納教授は英独佛に調査研究を命じられたが、希望して支那及び南洋諸国に変更されたことは一大見識であらねばならない。その鹿島立に際し「私は之から祖先の偉大なる魄を迎へにまなんばんへ参ります」と郷土の人々にメッセーヂーを送られた、其の偉大なる魂は此の鐘銘にも躍動している。
追記 伊江男と東恩納教授から左記の如き祝辞と感謝の御芳書を戴いた。
鐘を無事に元の御城に美御迎へしたことは近来の大快亊ですから尽力せられし各位に衷心より感謝と敬意を表します。(伊江朝助)
豫々念願の大鐘漸く旧棲に戻り候趣落花流水其根源に帰し候段本懐至極偏に御尽力の責と感謝に不耐第一回の御書面は17日落手その為に祝意間に不合遺憾に存居候何卒諸君へもよろしく御伝声被下度願上候(東恩納寛惇)
梵鐘を送る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田原惟信・・・・・26
編輯発行兼印刷人・馬上太郎
月刊文化沖縄社 那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社 東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局 パラオ島コロール町 大宜味朝徳
表紙ー崇元寺本堂
巻頭言 ”舟楫を以て萬國の津梁と為し、異産至寶十方に充満せり云々”の雄渾無比なる快文字の銘せられたる梵鐘が、その昔掛着せられたと云ふ首里城内に此の程安置された。古の我が琉球國は、唇歯輔車の仲に在る日本、支那は固より、北は三韓より、南は遠く安南、暹羅、満刺加、爪哇蘇門答刺等の諸域を比隣の如くに往来して、その異産至寶を将来し、その諸種の文化を鍾聚することに力めた。此の雄偉勁抜なる気魄を有したればこそ、洋中の蕞爾(さいじ)たる一小王国たるに拘わらず、清新溌剌たる気分の充満し、闊達にして高雅なる趣致の横溢せる藝術乃至文化を産出することも出来たのであった。
高遠なる大東亜共栄の理想郷建設を豫示するが如き銘文の刻せられたる梵鐘が還元したるを機として、歪曲せられざりし我が民族の本来の面目に立ち帰り、皇国の新進路に向かって活溌溌地の大活動をなさねばならぬ。それに付けても吾人は、郷土史家を糾合して完全なる一大郷土史の編成を期せんことを敢えて提言し度い。従来幾多の郷土史はあれども、或物は忠実なる史料の羅列に過ぎず、或物は簡明なるが如きも粗雑に失するの嫌がある。されば衆智に依って整然たる、学問的な信憑すべき歴史を大成することは今日の急務ではなかろうか。
大舛大尉に就いて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤野憲夫・・・・2
大舛大尉を偲ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・糸洲朝松・・・・3
秋夜想出せる詩歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鷺泉・・・・・・・・6
首里城正殿の鐘を迎へて・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉康和・・・・11
寒露漫筆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊野波石逕・・・・15
病暦・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・18
新発足したる商工経済会に就て・・・・・・・・・・護得久朝章・・・・・20
勤労奉仕(○○造船所にて)・・・・・・・・・・・・・・徳田安俊・・・・・・21
佛領印度支那旅行記(4)・・・・・・・・・・・・・・・・・與儀喜宣・・・・・23
梵鐘を送る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田原惟信・・・・・26
無縁墓を訪ねて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐渡山安治①・・28
僕の周囲・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・徳村静農・・・30
四美具はる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新崎盛珍・・・34
伊豆味・瀬底・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・泉國夕照・・37
編輯後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新崎盛珍
舟楫を萬國の津梁と為す 本来の面目に帰り 大舛大尉に続かん
1942年1月ー月刊『文化沖縄』第3巻第1号 編輯発行兼印刷人・本山豊
月刊文化沖縄社ー那覇市久米町1ノ32 東京支社ー東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局ーパラオ島コロール町 印刷所・向春商会印刷部ー那覇市通堂町2ノ1
巻頭歌「進め一億 火の玉だ!!」
戦捷の感激を生かせ!!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
佐藤惣之助①「決意」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
まこと、戦ふべき時、遂に来る/満を持して、進もう、戦をう/この光輝ある歴史のまへに/この穢れなき皇土のうへに/死すべき命のいかに幸ひなるかな/歓べよ、われら、死し徹して/今ぞ、あらゆる理念を超克し/暴戻なる米英に宣戦しつつ/血と血はたぎり、歯と歯はふるふ/この攻防に於て、究局に進んで/ただ肉を斬らして骨を斬れ/骨を劈いて隋を踏みにじれ/悠然、爆死は桜のちるが如く/笑ってみ國に殉ずることなり/死なんかな、いざ、あくまでも/われらが持場の巨弾にゆらぐまで/必勝の決意に全我の生活を緊め/敢然と進もう、戦をう/つばさは天に、戦艦は海に/見よ、鉄壁の堅陣を有す/われらその奥底の魂に位置し/その凄まじき実相をつかんで/いかなる困苦も来らば来れ/血と血をつなぎ、骨と骨を組み/激しい一億の心臓を堵して/輝く日本の新歴史を作ろう!(宣戦布告の日)
①佐藤惣之助
さとうそうのすけ
[生]1890.12.3. 川崎[没]1942.5.15. 東京
詩人。正規の学業につかず少年の頃から佐藤紅緑の門に入って俳句を学び,18~19歳頃から千家元麿,福士幸次郎らと交友。『白樺』派の影響を受けた詩集『正義の兜』 (1916) ,『狂へる歌』 (17) では人道主義的詩風を示した。→コトバンク
蔵原伸二郎②「大詔を拝し奉りて」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
大詔を拝し奉りて/雀躍勇途にのぼる/一億の草莾/みたみわれら/今ぞ/一天に雲なき/磐空を仰ぎて征かん/ああ 早くも/天涯に敵なく/七つの海に敵なきが如し/見よ わが海鷲潜艦のゆくところ/身命を祖国に捧げ/心を天に奉るもの/歴史の光栄に生きるもの/開戦劈頭たちまち/敵の慴伏を見たり/南海におどれるわれらが血よ/大海原に羽搏くわれらが魂よ/熱河熱山を征くわれらが志よ/神武天皇の向ふところ/烏合百万の敵何するものぞ/敵国よ/更に大軍を擁して来れかし/敵いよいよ多くして/同胞殉国の志いよいよ固く/われらただ/大みことのりを奉じ/最後の一人といへども/闘ひ抜かんのみ
②蔵原伸二郎 くらはら-しんじろう
1899-1965 昭和時代の詩人。
明治32年9月4日生まれ。蔵原惟人の従兄(いとこ)。萩原朔太郎の「青猫」の影響をうけて詩作をはじめ,昭和14年第1詩集「東洋の満月」を出版。16年「四季」同人。昭和40年3月16日死去。65歳。熊本県出身。慶大卒。本名は惟賢(これかた)。詩集に「乾いた道」「岩魚(いわな)」など,詩論集に「東洋の詩魂」。コトバンク
地方文化と生活文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北川鉄夫・・4
戦争手帳「戦争と通信基地」「ボルネオに日本人島」「戦略と天気象」4ー8
「布哇の邦人」「ビール罎」「屠れ!米英 われ等の敵だ!」
本県女教師に望む(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・米國三郎・・・6
1人1語・戦争と文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤田徳太郎・・・9
戦捷 笑唄話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9-10
新体制は遊女より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡口精鴻・・・10
「この一戦 何がなんでもやり抜くぞ!!」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
島尻郡教育会修養部「教育振興座談会」於 昭和会館・・・・・・・・・・・・・・11
見たか戦果 知ったか底力 進め! 一億火の玉だ!」・・・・・・・・・・・・・・13
連載 琉球記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・須藤利一・・・14
情報局で壁新聞「空襲に血走るな」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
偉大なる一人の詩人(伊東静雄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新垣淑明・・・16
豆戦艦ABCD陣「比律賓群島」「ミンダナオ島ダヴアオ」「香港」・・・・・・・・・・・16-23
「ウエーキ島」「ペナン島」「グアム島」「ミツドウエイ島」「米の航空機生産高」
ブラジル風景=サン・パウロ=・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤清太郎・・・18
敵性撃滅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・土岐善麿③・・・19
ルーズヴエルト一チャーチルのことにあらず世界の敵性を一挙に屠れ
ルーズヴエルトよ汝が頼みし戦艦は一瞬にして「顛覆」をせり
チャーチルよ頼みがたなきアメリカを頼みしことを国民に謝せ
世界戦争の煽動者たる「光栄」をアメリカ大統領よ墓に持ちてゆけ
忍び難きを忍びしはただ大東亜の平和のためと思ひ知るべし
③土岐善麿
歌人・国文学者。東京生。哀果と号する。早大卒。中学時代金子薫園の「白菊会」に参加し、大学時代は窪田空穂・若山牧水の影響を受けた。のち石川啄木と知り合い、二人で生活派短歌の基礎を作った功績は大きい。学士院賞受賞。文学博士。芸術院会員。昭和55年(1980)歿、94才。→コトバンク
琉球の古来工芸品(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沖縄県工業指導所・・・20
子供の文化を覗く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・亀谷長輝・・・・22
雷火・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・太田水<穏ママ>・・・・・24
天つちの神もおどろけ巌ゆるぐ大き憤りのおほみことのり
しのびきて今ぞ宣らすと仰せ給ふ畏こさに沁みてわれは泣かるる
電撃機雷火を吐くとみる否やとどろきをあげて艦くつがへる
ふきあがる焔のなかに蒼白の照らし出されたる顔おもひ見む
馬来半島クワンタン沖のたたかひに覆へりたるは艦ばかりは
「尽せ総力 護れよ東亜」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
戦時体制下の沖縄/1942年1月ー月刊『文化沖縄』第3巻第1号
和光同塵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本山裕児・・・26
短篇小説「馬」金城安太郎・絵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新垣庸一・・・27
祝 皇軍之大勝 祝 御武運長久 輝やかし大東亜戦勝利の朝謹壽
一億進軍の春 皇紀二千六百二年正月・・・・・月刊 文化沖縄社社員一同
大東亜戦戦果日誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31
月刊文化沖縄社 那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社 東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局 パラオ島コロール町 大宜味朝徳
表紙ー崇元寺本堂
巻頭言 ”舟楫を以て萬國の津梁と為し、異産至寶十方に充満せり云々”の雄渾無比なる快文字の銘せられたる梵鐘が、その昔掛着せられたと云ふ首里城内に此の程安置された。古の我が琉球國は、唇歯輔車の仲に在る日本、支那は固より、北は三韓より、南は遠く安南、暹羅、満刺加、爪哇蘇門答刺等の諸域を比隣の如くに往来して、その異産至寶を将来し、その諸種の文化を鍾聚することに力めた。此の雄偉勁抜なる気魄を有したればこそ、洋中の蕞爾(さいじ)たる一小王国たるに拘わらず、清新溌剌たる気分の充満し、闊達にして高雅なる趣致の横溢せる藝術乃至文化を産出することも出来たのであった。
高遠なる大東亜共栄の理想郷建設を豫示するが如き銘文の刻せられたる梵鐘が還元したるを機として、歪曲せられざりし我が民族の本来の面目に立ち帰り、皇国の新進路に向かって活溌溌地の大活動をなさねばならぬ。それに付けても吾人は、郷土史家を糾合して完全なる一大郷土史の編成を期せんことを敢えて提言し度い。従来幾多の郷土史はあれども、或物は忠実なる史料の羅列に過ぎず、或物は簡明なるが如きも粗雑に失するの嫌がある。されば衆智に依って整然たる、学問的な信憑すべき歴史を大成することは今日の急務ではなかろうか。
大舛大尉に就いて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤野憲夫・・・・2
大舛大尉を偲ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・糸洲朝松・・・・3
秋夜想出せる詩歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鷺泉・・・・・・・・6
首里城正殿の鐘を迎へて・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉康和・・・・11
寒露漫筆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊野波石逕・・・・15
病暦・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・18
新発足したる商工経済会に就て・・・・・・・・・・護得久朝章・・・・・20
勤労奉仕(○○造船所にて)・・・・・・・・・・・・・・徳田安俊・・・・・・21
佛領印度支那旅行記(4)・・・・・・・・・・・・・・・・・與儀喜宣・・・・・23
梵鐘を送る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田原惟信・・・・・26
無縁墓を訪ねて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐渡山安治①・・28
僕の周囲・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・徳村静農・・・30
四美具はる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新崎盛珍・・・34
伊豆味・瀬底・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・泉國夕照・・37
編輯後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新崎盛珍
舟楫を萬國の津梁と為す 本来の面目に帰り 大舛大尉に続かん
1942年1月ー月刊『文化沖縄』第3巻第1号 編輯発行兼印刷人・本山豊
月刊文化沖縄社ー那覇市久米町1ノ32 東京支社ー東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局ーパラオ島コロール町 印刷所・向春商会印刷部ー那覇市通堂町2ノ1
巻頭歌「進め一億 火の玉だ!!」
戦捷の感激を生かせ!!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
佐藤惣之助①「決意」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
まこと、戦ふべき時、遂に来る/満を持して、進もう、戦をう/この光輝ある歴史のまへに/この穢れなき皇土のうへに/死すべき命のいかに幸ひなるかな/歓べよ、われら、死し徹して/今ぞ、あらゆる理念を超克し/暴戻なる米英に宣戦しつつ/血と血はたぎり、歯と歯はふるふ/この攻防に於て、究局に進んで/ただ肉を斬らして骨を斬れ/骨を劈いて隋を踏みにじれ/悠然、爆死は桜のちるが如く/笑ってみ國に殉ずることなり/死なんかな、いざ、あくまでも/われらが持場の巨弾にゆらぐまで/必勝の決意に全我の生活を緊め/敢然と進もう、戦をう/つばさは天に、戦艦は海に/見よ、鉄壁の堅陣を有す/われらその奥底の魂に位置し/その凄まじき実相をつかんで/いかなる困苦も来らば来れ/血と血をつなぎ、骨と骨を組み/激しい一億の心臓を堵して/輝く日本の新歴史を作ろう!(宣戦布告の日)
①佐藤惣之助
さとうそうのすけ
[生]1890.12.3. 川崎[没]1942.5.15. 東京
詩人。正規の学業につかず少年の頃から佐藤紅緑の門に入って俳句を学び,18~19歳頃から千家元麿,福士幸次郎らと交友。『白樺』派の影響を受けた詩集『正義の兜』 (1916) ,『狂へる歌』 (17) では人道主義的詩風を示した。→コトバンク
蔵原伸二郎②「大詔を拝し奉りて」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
大詔を拝し奉りて/雀躍勇途にのぼる/一億の草莾/みたみわれら/今ぞ/一天に雲なき/磐空を仰ぎて征かん/ああ 早くも/天涯に敵なく/七つの海に敵なきが如し/見よ わが海鷲潜艦のゆくところ/身命を祖国に捧げ/心を天に奉るもの/歴史の光栄に生きるもの/開戦劈頭たちまち/敵の慴伏を見たり/南海におどれるわれらが血よ/大海原に羽搏くわれらが魂よ/熱河熱山を征くわれらが志よ/神武天皇の向ふところ/烏合百万の敵何するものぞ/敵国よ/更に大軍を擁して来れかし/敵いよいよ多くして/同胞殉国の志いよいよ固く/われらただ/大みことのりを奉じ/最後の一人といへども/闘ひ抜かんのみ
②蔵原伸二郎 くらはら-しんじろう
1899-1965 昭和時代の詩人。
明治32年9月4日生まれ。蔵原惟人の従兄(いとこ)。萩原朔太郎の「青猫」の影響をうけて詩作をはじめ,昭和14年第1詩集「東洋の満月」を出版。16年「四季」同人。昭和40年3月16日死去。65歳。熊本県出身。慶大卒。本名は惟賢(これかた)。詩集に「乾いた道」「岩魚(いわな)」など,詩論集に「東洋の詩魂」。コトバンク
地方文化と生活文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北川鉄夫・・4
戦争手帳「戦争と通信基地」「ボルネオに日本人島」「戦略と天気象」4ー8
「布哇の邦人」「ビール罎」「屠れ!米英 われ等の敵だ!」
本県女教師に望む(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・米國三郎・・・6
1人1語・戦争と文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤田徳太郎・・・9
戦捷 笑唄話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9-10
新体制は遊女より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡口精鴻・・・10
「この一戦 何がなんでもやり抜くぞ!!」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
島尻郡教育会修養部「教育振興座談会」於 昭和会館・・・・・・・・・・・・・・11
見たか戦果 知ったか底力 進め! 一億火の玉だ!」・・・・・・・・・・・・・・13
連載 琉球記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・須藤利一・・・14
情報局で壁新聞「空襲に血走るな」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
偉大なる一人の詩人(伊東静雄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新垣淑明・・・16
豆戦艦ABCD陣「比律賓群島」「ミンダナオ島ダヴアオ」「香港」・・・・・・・・・・・16-23
「ウエーキ島」「ペナン島」「グアム島」「ミツドウエイ島」「米の航空機生産高」
ブラジル風景=サン・パウロ=・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤清太郎・・・18
敵性撃滅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・土岐善麿③・・・19
ルーズヴエルト一チャーチルのことにあらず世界の敵性を一挙に屠れ
ルーズヴエルトよ汝が頼みし戦艦は一瞬にして「顛覆」をせり
チャーチルよ頼みがたなきアメリカを頼みしことを国民に謝せ
世界戦争の煽動者たる「光栄」をアメリカ大統領よ墓に持ちてゆけ
忍び難きを忍びしはただ大東亜の平和のためと思ひ知るべし
③土岐善麿
歌人・国文学者。東京生。哀果と号する。早大卒。中学時代金子薫園の「白菊会」に参加し、大学時代は窪田空穂・若山牧水の影響を受けた。のち石川啄木と知り合い、二人で生活派短歌の基礎を作った功績は大きい。学士院賞受賞。文学博士。芸術院会員。昭和55年(1980)歿、94才。→コトバンク
琉球の古来工芸品(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沖縄県工業指導所・・・20
子供の文化を覗く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・亀谷長輝・・・・22
雷火・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・太田水<穏ママ>・・・・・24
天つちの神もおどろけ巌ゆるぐ大き憤りのおほみことのり
しのびきて今ぞ宣らすと仰せ給ふ畏こさに沁みてわれは泣かるる
電撃機雷火を吐くとみる否やとどろきをあげて艦くつがへる
ふきあがる焔のなかに蒼白の照らし出されたる顔おもひ見む
馬来半島クワンタン沖のたたかひに覆へりたるは艦ばかりは
「尽せ総力 護れよ東亜」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
戦時体制下の沖縄/1942年1月ー月刊『文化沖縄』第3巻第1号
和光同塵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本山裕児・・・26
短篇小説「馬」金城安太郎・絵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新垣庸一・・・27
祝 皇軍之大勝 祝 御武運長久 輝やかし大東亜戦勝利の朝謹壽
一億進軍の春 皇紀二千六百二年正月・・・・・月刊 文化沖縄社社員一同
大東亜戦戦果日誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31
2015年6月『月刊琉球』 <500円+消費税> Ryukyu企画〒901-2226 宜野湾市嘉数4-17-16 ☎098-943-6945 FAX098-943-6947
①1940年8月 『月刊文化沖縄』創刊号
1940年10月号の表紙絵も創刊号と同じ金城安太郎「琉球の姫」
沖縄朝日新聞社前でー左が金城安太郎、本山裕児
=祝 創 刊=・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・①上山草人をめぐる会(東京市淀橋区東大久保2ノ278) 三村伸太郎・川崎 弘子・山本礼三郎・沼波功雄・前沢末弥・上山草人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 表紙裏
特輯グラビヤ「デイゴ樹の花」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・撮影/今井小四郎・・・・・・・・・・・・(1)
特輯グラビヤ・琉球の夏「蘇鉄ー首里王城内の孔子廟にて」「美女ー蛇皮線の根締」「壷屋所見」「島尻、奥武島にて」「鮮魚を頭へ乗せた糸満の女」「琉球美人」・・・・撮影/今井小四郎、曲田益雄・・・(2)(3)(4)
目次・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(5)
郷土の映画・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北川鉄夫・全日本映画人連盟書記長 6ー8
琉球研究資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・N・O・N 8
沖縄語彙(絶筆)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬天居士 9ー11
初夏の故郷へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊波南哲 11-12
蛙鳴蝉噪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本山裕児 13
東北方言の調査を終りて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮良當壮 14-15
日劇の『八重山群島』を見る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・内田岐三雄 15
あの頃の話・琉球の佐倉宗五郎(城間正安)・・・・・・・・・・・・・大城朝貞 16-19
文化沖縄抄/映画鑑賞会生る・ロードショウ・石井みどり・沖縄の姿・土と兵隊・海洋飛躍史・標準語問題 18
1940年5月11日『琉球新報』
1940年6月20日『琉球新報』
琉球歴史読本・大章 天孫子時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川文一 20-21
琉球王国『御法條』より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
読切時代小説・復習・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川文一/挿絵・金城安太郎 22-32
編輯の弁
上山草人 かみやま-そうじん
1884-1954 大正-昭和時代の映画俳優。
明治17年1月30日生まれ。45年近代劇協会設立に参加。新劇俳優として活躍後,大正8年渡米し,ハリウッドで「バグダッドの盗賊」などおおくの映画に出演。昭和4年帰国後,「赤西蠣太(かきた)」「七人の侍」などに脇役で出演。昭和29年7月28日死去。70歳。宮城県出身。東京美術学校(現東京芸大)中退。本名は三田貞(ただし)。→コトバンク
1939 昭和14年4.5. 映画法公布。全日本映画人連盟に統合される。→日本映画監督協会
○6月22日 石川和男ー今、思い出したのですが、父、石川逢正は首里第二高等小学校を卒業して勤めた向春商会印刷部に居た頃、当時(多分昭和8~10年頃)、垣花にお住まいの金城安太郎氏のお宅に、東町から自転車に乗ってイラスト原稿を貰いに行った、と言っていました。だから僕は以前から金城氏の名前だけは知っていました。又、沖縄向学の先代校長名城政治郎氏の父君がよく、教材の印刷の依頼に来ていたとも言っていました。沖縄で最も古い予備校なのだと思います。
●は未確認
●北川 鉄夫(きたがわ てつお、1907年(明治40年) - 1992年)は、日本の映画評論家。本名は西村龍三。北川鉄夫とは、京都宇治の花やしきの北側を宇治川が流れているところから「北川」、山本宣治追悼歌の歌詞「鉄をも砕く」から「鉄」をとった筆名で、山本宣治の同志の田村敬男が命名した。→ウィキペディア
●内田岐三雄
映画評論家。(1901-45)府立第四中学校、第一高等学校、『キネマ旬報』創刊翌年に同人。東京帝国大学法学部卒。大学で飯島正と知り、『キネマ旬報』同人に誘う。1930年からパリに学ぶ。戦時下、疎開中の平塚の妻の実家で被災死。著書 「映画学入門」前衛書房 1928「欧米映画論」書林絢天洞 1935「モダン都市文学 9.モンタアジュ巴里 平凡社,1991.2→はてなキーワード
06/27: 戦時下の沖縄/1940年12月 『月刊文化沖縄』12月号
1940年12月 『月刊文化沖縄』12月号
表紙 金城安太郎「農村の乙女」
大日本良書推薦会代理部「特許印判付万年筆」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 表紙裏
特輯口絵写真「壺屋」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・カメラ/本社写真部・・・・・・・・・・・(1)
特輯口絵写真・南島余情「守礼門」「デパートの南国娘」「漆喰の屋根」・・・・・・カメラ/太田安敏・本社写真部・・(2)(3)(4)
神祟(神罪)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬天居士 12-13
琉球人物史伝ー勇敢・奥濱船頭 バルチック艦隊最初の発見者・・・・・・…・・・・14-15
識名園・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮里浩司 15
地名考二つ三つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉城貫 16-17
本山萬吉(馬天居士/馬齒山人)
1910年11月7日 午後11時半ごろ佐敷尋常高等小学校(本山萬吉校長)に於いて火災。校長は校舎と棟続きの自宅に病気の妻と子どもが居たが真っ先に学校に飛び込み書類を持ち出したが御眞影は焼失した。妻と子どもは村民に助けられた。御眞影焼失で懲戒免職となり久米島へ左遷。以後、座間味小校長を務める。
1915年7月 親泊朝擢『沖縄教育』第百二号 「編輯だより 4月26日 久米島の本山萬吉君より『夜学教科書久米島』の寄贈あり、謄写版摺3枚にて、編輯室便、時事、国語、算術、農業、文苑、雑報に分ち、趣味あり且つ廻覧雑誌として有効なるものなり。」
1931年初夏 本山裕児、欧州からの帰途、シンガポールに立ち寄る。→1942年2『月刊文化沖縄』本山裕児「シンガポール=旅の独白・回想=」・・・23
1938年5月26日『琉球新報』「金口木舌」
○馬天居士本山萬吉翁は昨日突然郷里佐賀に引き上げた▼豊見城村の有志は前日之れを聞き別れを惜しみ▼宜保成晴氏瀬長清氏等有志村長区長送別の宴を張った▼席上翁は沖縄県は去りたくないが長男裕児が応召される時手足纏いひになっては国家の為めに相済まぬと赤誠を披瀝した・・・▼翁は本県初等教育の功労者にして退職後豊見城に隠棲▼悠悠自適馬天居士のペンネームで本紙文芸欄に健筆を揮ひ、其の辛辣なる皮肉と特種の味は読者に魅力を投じた▼然して翁の足跡を見ると佐賀魂即ちハガクレ精神が躍如として其の言行に現はれた▼佐賀士族には昔から特種の精神が横溢し▼孟子の「富貴も淫すること能はず、貧賎移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ふ精神を孕んでいる。・・・
1938年5月『月刊琉球』馬天居士「長命語彙(1)」
1938年6月『月刊琉球』馬天居士「長命語彙(2)」写真ー本山萬吉(馬天居士)
1940年12月『月刊文化沖縄』第一巻第五号 馬天居士「神崇(神罪)」・・・12 「琉球人物史伝 勇敢・奥浜船頭ーバルチック艦隊最初の発見者」・・・14
本山萬吉『馬天居士集』
本山萬吉-1939年5月3日(70歳)没 長男・裕児、二男・常男(ブラジル在)、三男・政比古(鹿児島在)。
表紙 金城安太郎「農村の乙女」
大日本良書推薦会代理部「特許印判付万年筆」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 表紙裏
特輯口絵写真「壺屋」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・カメラ/本社写真部・・・・・・・・・・・(1)
特輯口絵写真・南島余情「守礼門」「デパートの南国娘」「漆喰の屋根」・・・・・・カメラ/太田安敏・本社写真部・・(2)(3)(4)
神祟(神罪)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬天居士 12-13
琉球人物史伝ー勇敢・奥濱船頭 バルチック艦隊最初の発見者・・・・・・…・・・・14-15
識名園・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮里浩司 15
地名考二つ三つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉城貫 16-17
本山萬吉(馬天居士/馬齒山人)
1910年11月7日 午後11時半ごろ佐敷尋常高等小学校(本山萬吉校長)に於いて火災。校長は校舎と棟続きの自宅に病気の妻と子どもが居たが真っ先に学校に飛び込み書類を持ち出したが御眞影は焼失した。妻と子どもは村民に助けられた。御眞影焼失で懲戒免職となり久米島へ左遷。以後、座間味小校長を務める。
1915年7月 親泊朝擢『沖縄教育』第百二号 「編輯だより 4月26日 久米島の本山萬吉君より『夜学教科書久米島』の寄贈あり、謄写版摺3枚にて、編輯室便、時事、国語、算術、農業、文苑、雑報に分ち、趣味あり且つ廻覧雑誌として有効なるものなり。」
1931年初夏 本山裕児、欧州からの帰途、シンガポールに立ち寄る。→1942年2『月刊文化沖縄』本山裕児「シンガポール=旅の独白・回想=」・・・23
1938年5月26日『琉球新報』「金口木舌」
○馬天居士本山萬吉翁は昨日突然郷里佐賀に引き上げた▼豊見城村の有志は前日之れを聞き別れを惜しみ▼宜保成晴氏瀬長清氏等有志村長区長送別の宴を張った▼席上翁は沖縄県は去りたくないが長男裕児が応召される時手足纏いひになっては国家の為めに相済まぬと赤誠を披瀝した・・・▼翁は本県初等教育の功労者にして退職後豊見城に隠棲▼悠悠自適馬天居士のペンネームで本紙文芸欄に健筆を揮ひ、其の辛辣なる皮肉と特種の味は読者に魅力を投じた▼然して翁の足跡を見ると佐賀魂即ちハガクレ精神が躍如として其の言行に現はれた▼佐賀士族には昔から特種の精神が横溢し▼孟子の「富貴も淫すること能はず、貧賎移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ふ精神を孕んでいる。・・・
1938年5月『月刊琉球』馬天居士「長命語彙(1)」
1938年6月『月刊琉球』馬天居士「長命語彙(2)」写真ー本山萬吉(馬天居士)
1940年12月『月刊文化沖縄』第一巻第五号 馬天居士「神崇(神罪)」・・・12 「琉球人物史伝 勇敢・奥浜船頭ーバルチック艦隊最初の発見者」・・・14
本山萬吉『馬天居士集』
本山萬吉-1939年5月3日(70歳)没 長男・裕児、二男・常男(ブラジル在)、三男・政比古(鹿児島在)。
06/24: 翁長助静(歌人・原神青醉/翁長沖縄県知事の父)の沖縄戦
慰霊の日で翁長沖縄県知事が「平和宣言」
(略)それは、私たち沖縄県民が、その目や耳、肌に戦のもたらす悲惨さを鮮明に記憶しているからであり、戦争の犠牲になられた方々の安らかであることを心から願い、恒久平和を切望しているからです。戦後、私たちは、この思いを忘れることなく、復興と発展の道を力強く歩んでまいりました。しかしながら、国土面積の0・6%にすぎない本県に、日米安全保障体制を担う米軍専用施設の73・8%が集中し、依然として過重な基地負担が県民生活や本県の振興開発に様々な影響を与え続けています。米軍再編に基づく普天間飛行場の辺野古への移設をはじめ、嘉手納飛行場より南の米軍基地の整理縮小がなされても、専用施設面積の全国に占める割合はわずか0・7%しか縮小されず、返還時期も含め、基地負担の軽減とはほど遠いものであります。
沖縄の米軍基地問題は、我が国の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべき重要な課題であります。特に、普天間飛行場の辺野古移設については、昨年の選挙で反対の民意が示されており、辺野古に新基地を建設することは困難であります。そもそも、私たち県民の思いとは全く別に、強制接収された世界一危険といわれる普天間飛行場の固定化は許されず、「その危険性除去のため辺野古に移設する」「嫌なら沖縄が代替案を出しなさい」との考えは、到底県民には許容できるものではありません。国民の自由、平等、人権、民主主義が等しく保障されずして、平和の礎を築くことはできないのであります。政府においては、固定観念に縛られず、普天間基地を辺野古へ移設する作業の中止を決断され、沖縄の基地負担を軽減する政策を再度見直されることを強く求めます。翁長沖縄県知事の宣言に会場からひときわ大きな拍手が沸き起こったが、安倍首相が登壇すると空気が一変。「帰れ」「戦争屋は出て行け」とブーイング。
知事の父・翁長助静が沖縄戦にふれている文章がある。
1944年4月 南風原青年学校長としての転勤命令が来た。若手教員抜てきの美名の下、大山朝常氏、長嶺秋夫氏ら多数も青年学校長に回された。着任当時はまだ週3回、教練だけでなく学科も教えていた。しかし戦局の悪化につれて毎日授業に広げられ、次第に陣地構築、壕堀りの作業が日課に。まさに”壕堀り隊長〝だ。同校では約1年の在任。8月、今や戦場必至の情勢と見た私は妻子4人を台湾に疎開させ、単身で学校長を続けた。翌年4月になると生徒も登校できない状態となり自然解散の状態。3月、田端一村先生が訪ねてこられ「沖縄翼賛会に来て加勢してくれ給え」。師範学校で編成した鉄血勤皇隊千早隊の十数人を部下とする情報宣伝部長が私の役目。翼賛会での私は国民服に戦闘帽、日本刀のいでたち。(略)途中、当時那覇署長をしておられた具志堅宗精氏、山川泰邦署僚などが、兼城の墓の中で署員の指揮をとっており、いまのひめゆりの塔近くでは金城増太郎三和村長が墓地に避難している。こうした人たちに「ここは戦場になるから早く避難して方がいい」と指示したが、行政も警察ももはや指揮系統はめちゃくちゃの状態。そんな所に妹の夫、国吉真政君と出会ったところ「負け戦にになっているのに親を放ったらかして何をしている」という。早速付近をうろうろしている父を見つけ、その日はヤギ小屋で一泊。翌日夕方摩文仁に移動しながら喜屋武岬近くで簡単な壕をつくって小休止。このとき突然米軍の砲撃を受け、目前で父助信が戦死した。同じ壕にいた十数人の避難民のなかで、父だけに破片が命中したのだから悲運としか言いようがない。日本の勝利を信じ命をかけて行動した私にも敗戦思想が強まってきた。敗残兵が住民を壕から追い出し、食糧を奪い取る光景も何度も見てきている。→沖縄タイムス社『私の戦後史 第5集』「翁長助静」
翁長助静(1907年8月25日、真和志村真嘉比生まれ~1983年2月6日)
1925年、沖縄県立第一中学校卒業。一中在学中、高江洲朝和(石野径一郎)、平良良松(那覇市長)らとガリ版の同人誌『はるがん』を発行。1926年、沖縄県師範学校本科二部卒業。第一豊見城、安里、本部、瀬底、の各尋常高等小学校訓導、南風原青年学校長を経て、戦後は大道小学校長、真和志村長、真和志市長、移民金庫専務理事、倉庫公社専務理事、立法院議員などを歴任。のち沖縄都市建設株式会社取締役社長となる。妻・和子(1914年生)、長男・助裕(1936年生)、二男・健二(1947年生)、三男・雄志(1950年生)。
歌人・原神青醉
1930年6月6日『沖縄朝日新聞』原神青醉「『新しさ』の否定ー旧概念で腐食した/生活から/生れ出た型!/そンにほんとうの/新しさがあらうか×トップを切る!/尖端を行く!要するに/旧生活からのつながりはないか ×明日への新しさは/先づ地球の引力から/すばらしい跳躍をしなければ/ならない/先づ旧生活を根本から/破壊しつくさねばならない×やがてそこから/生れて来る/何らかの型!/それこそほんとうの/新しさである 5・31 」
1931年1月26日『琉球新報』原神青醉「みちしほ短歌会」
1931年4月12日『琉球新報』原神青醉「さびしい反逆」
1933年9月『沖縄教育』
原神青醉「文苑ー車中行抄」
夜汽車
ふかぶかといねしづもれる大牟田のまちを/つらぬき汽車はゆくなり/をとこ二人何やら動きゐたりけりいねしづもれる街並みの一つ家に/ふなごやの駅にて乗りし男のめ つめたそうにもわれ見てありき/くらやみの果てのひかげのよびさます 旅愁にひたりて汽車窓にあり/汽車窓ごし見しは一つの燈なりけりくらやみの果てにともりてありき/呼びなれし久留米ときけば親しかりしまどをひらきて夜の街をみる/午前四時うすむらさきの空のもと久留米の街はただありけるも/漸くに暁けになりたるうれしさに座りなほりて煙草を吸ひける/朝あけのみどりうつるガラス戸に煙草のけむりふきかけて居り/博多駅近くの踏切番の四人まで姙婦にてありしは忘れ得られず/ささやかなみづき駅かもみづみづしき早稲のみのりのゆたかなるあたり/刑事ならむ 肩つつきざま職間ふなり/教員といへば笑ひて去りぬ
1933年5月14日『琉球新報』原神青醉「みちしほ短歌会」
1936年2月 『琉球新報』翁長助静「話方教育の一部分ー島尻郡第一区域童話会印象記」連載
沖縄県立博物館・美術館横にある翁長助静、真栄城守行/真和志村立安里尋常高等小学校(現在の安謝小学校)跡の碑
立法院
真喜志好一氏らと「立法院棟保存」を自民党の翁長雄志県議会議員に要望する。
沖縄県公文書館入口に保存されている立法院棟柱
仲村顕さんの調べによると、1932年の「婦人公論」に「滅びゆく琉球女の手記」を書いた作家の久志芙沙子(1903―86年)の父は久志助保(?―1915年)、祖父は久志助法(1835―1900年)でいずれも漢詩人。助法は「顧国柱(ここくちゅう)詩稿」などを書き、漢詩人の森槐南(もりかいなん)とも交流があった。また、琉球王国の評定所で中国や日本への文書を作成する「筆者主取」を廃藩置県(1879年)まで務めた最後の人。那覇市歴史博物館収蔵の尚家関係資料に助法直筆文書が残る。氏集によると、顧氏は大宗顧保安比嘉筑登之親雲上助輝。その四世が久志親方助豊支流二子顧天祐久志里之子助眞が翁長家の祖となっている。他に普天間、名嘉山、津波古などがある。
(略)それは、私たち沖縄県民が、その目や耳、肌に戦のもたらす悲惨さを鮮明に記憶しているからであり、戦争の犠牲になられた方々の安らかであることを心から願い、恒久平和を切望しているからです。戦後、私たちは、この思いを忘れることなく、復興と発展の道を力強く歩んでまいりました。しかしながら、国土面積の0・6%にすぎない本県に、日米安全保障体制を担う米軍専用施設の73・8%が集中し、依然として過重な基地負担が県民生活や本県の振興開発に様々な影響を与え続けています。米軍再編に基づく普天間飛行場の辺野古への移設をはじめ、嘉手納飛行場より南の米軍基地の整理縮小がなされても、専用施設面積の全国に占める割合はわずか0・7%しか縮小されず、返還時期も含め、基地負担の軽減とはほど遠いものであります。
沖縄の米軍基地問題は、我が国の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべき重要な課題であります。特に、普天間飛行場の辺野古移設については、昨年の選挙で反対の民意が示されており、辺野古に新基地を建設することは困難であります。そもそも、私たち県民の思いとは全く別に、強制接収された世界一危険といわれる普天間飛行場の固定化は許されず、「その危険性除去のため辺野古に移設する」「嫌なら沖縄が代替案を出しなさい」との考えは、到底県民には許容できるものではありません。国民の自由、平等、人権、民主主義が等しく保障されずして、平和の礎を築くことはできないのであります。政府においては、固定観念に縛られず、普天間基地を辺野古へ移設する作業の中止を決断され、沖縄の基地負担を軽減する政策を再度見直されることを強く求めます。翁長沖縄県知事の宣言に会場からひときわ大きな拍手が沸き起こったが、安倍首相が登壇すると空気が一変。「帰れ」「戦争屋は出て行け」とブーイング。
知事の父・翁長助静が沖縄戦にふれている文章がある。
1944年4月 南風原青年学校長としての転勤命令が来た。若手教員抜てきの美名の下、大山朝常氏、長嶺秋夫氏ら多数も青年学校長に回された。着任当時はまだ週3回、教練だけでなく学科も教えていた。しかし戦局の悪化につれて毎日授業に広げられ、次第に陣地構築、壕堀りの作業が日課に。まさに”壕堀り隊長〝だ。同校では約1年の在任。8月、今や戦場必至の情勢と見た私は妻子4人を台湾に疎開させ、単身で学校長を続けた。翌年4月になると生徒も登校できない状態となり自然解散の状態。3月、田端一村先生が訪ねてこられ「沖縄翼賛会に来て加勢してくれ給え」。師範学校で編成した鉄血勤皇隊千早隊の十数人を部下とする情報宣伝部長が私の役目。翼賛会での私は国民服に戦闘帽、日本刀のいでたち。(略)途中、当時那覇署長をしておられた具志堅宗精氏、山川泰邦署僚などが、兼城の墓の中で署員の指揮をとっており、いまのひめゆりの塔近くでは金城増太郎三和村長が墓地に避難している。こうした人たちに「ここは戦場になるから早く避難して方がいい」と指示したが、行政も警察ももはや指揮系統はめちゃくちゃの状態。そんな所に妹の夫、国吉真政君と出会ったところ「負け戦にになっているのに親を放ったらかして何をしている」という。早速付近をうろうろしている父を見つけ、その日はヤギ小屋で一泊。翌日夕方摩文仁に移動しながら喜屋武岬近くで簡単な壕をつくって小休止。このとき突然米軍の砲撃を受け、目前で父助信が戦死した。同じ壕にいた十数人の避難民のなかで、父だけに破片が命中したのだから悲運としか言いようがない。日本の勝利を信じ命をかけて行動した私にも敗戦思想が強まってきた。敗残兵が住民を壕から追い出し、食糧を奪い取る光景も何度も見てきている。→沖縄タイムス社『私の戦後史 第5集』「翁長助静」
翁長助静(1907年8月25日、真和志村真嘉比生まれ~1983年2月6日)
1925年、沖縄県立第一中学校卒業。一中在学中、高江洲朝和(石野径一郎)、平良良松(那覇市長)らとガリ版の同人誌『はるがん』を発行。1926年、沖縄県師範学校本科二部卒業。第一豊見城、安里、本部、瀬底、の各尋常高等小学校訓導、南風原青年学校長を経て、戦後は大道小学校長、真和志村長、真和志市長、移民金庫専務理事、倉庫公社専務理事、立法院議員などを歴任。のち沖縄都市建設株式会社取締役社長となる。妻・和子(1914年生)、長男・助裕(1936年生)、二男・健二(1947年生)、三男・雄志(1950年生)。
歌人・原神青醉
1930年6月6日『沖縄朝日新聞』原神青醉「『新しさ』の否定ー旧概念で腐食した/生活から/生れ出た型!/そンにほんとうの/新しさがあらうか×トップを切る!/尖端を行く!要するに/旧生活からのつながりはないか ×明日への新しさは/先づ地球の引力から/すばらしい跳躍をしなければ/ならない/先づ旧生活を根本から/破壊しつくさねばならない×やがてそこから/生れて来る/何らかの型!/それこそほんとうの/新しさである 5・31 」
1931年1月26日『琉球新報』原神青醉「みちしほ短歌会」
1931年4月12日『琉球新報』原神青醉「さびしい反逆」
1933年9月『沖縄教育』
原神青醉「文苑ー車中行抄」
夜汽車
ふかぶかといねしづもれる大牟田のまちを/つらぬき汽車はゆくなり/をとこ二人何やら動きゐたりけりいねしづもれる街並みの一つ家に/ふなごやの駅にて乗りし男のめ つめたそうにもわれ見てありき/くらやみの果てのひかげのよびさます 旅愁にひたりて汽車窓にあり/汽車窓ごし見しは一つの燈なりけりくらやみの果てにともりてありき/呼びなれし久留米ときけば親しかりしまどをひらきて夜の街をみる/午前四時うすむらさきの空のもと久留米の街はただありけるも/漸くに暁けになりたるうれしさに座りなほりて煙草を吸ひける/朝あけのみどりうつるガラス戸に煙草のけむりふきかけて居り/博多駅近くの踏切番の四人まで姙婦にてありしは忘れ得られず/ささやかなみづき駅かもみづみづしき早稲のみのりのゆたかなるあたり/刑事ならむ 肩つつきざま職間ふなり/教員といへば笑ひて去りぬ
1933年5月14日『琉球新報』原神青醉「みちしほ短歌会」
1936年2月 『琉球新報』翁長助静「話方教育の一部分ー島尻郡第一区域童話会印象記」連載
沖縄県立博物館・美術館横にある翁長助静、真栄城守行/真和志村立安里尋常高等小学校(現在の安謝小学校)跡の碑
立法院
真喜志好一氏らと「立法院棟保存」を自民党の翁長雄志県議会議員に要望する。
沖縄県公文書館入口に保存されている立法院棟柱
仲村顕さんの調べによると、1932年の「婦人公論」に「滅びゆく琉球女の手記」を書いた作家の久志芙沙子(1903―86年)の父は久志助保(?―1915年)、祖父は久志助法(1835―1900年)でいずれも漢詩人。助法は「顧国柱(ここくちゅう)詩稿」などを書き、漢詩人の森槐南(もりかいなん)とも交流があった。また、琉球王国の評定所で中国や日本への文書を作成する「筆者主取」を廃藩置県(1879年)まで務めた最後の人。那覇市歴史博物館収蔵の尚家関係資料に助法直筆文書が残る。氏集によると、顧氏は大宗顧保安比嘉筑登之親雲上助輝。その四世が久志親方助豊支流二子顧天祐久志里之子助眞が翁長家の祖となっている。他に普天間、名嘉山、津波古などがある。
1943年7月ー月刊『文化沖縄』第4巻第7号 編輯発行兼印刷人・馬上太郎
月刊文化沖縄社ー那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社ー東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局ーパラオ島コロール町 印刷所・向春商会印刷部ー那覇市通堂町2ノ1
表紙ー円覚寺の鬼瓦
近世日本と外国語・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城間盛善・・・2
アメリカン・シンプルトン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・野崎眞一・・・8
琉球漆器に就て・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・國吉瑞泉・・10
山本元帥国葬の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川田順①・・・・・12
①川田 順(かわだ じゅん、1882年(明治15年)1月15日 - 1966年(昭和41年)1月22日)は、歌人、実業家。住友総本社常務理事。漢学者川田甕江の三男。女優・歌手の佐良直美は従曾孫娘。→ウィキペディア
神の金細射(かなままき)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・牧港策夫・・・13
沖縄文学韻律考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小野重朗②・・・14
②小野重朗1911年2月 広島県生まれ、1995年7月9日逝去。広島高等師範学校卒。ペンネーム花城具志、俳号・十露。おもな著書『琉球文学』(弘文堂)、『南九州の柴祭・打植祭の研究』(第三回柳田国男賞)、『農耕儀礼の研究』(弘文堂)、『十五夜綱引の研究』(慶友社)、『南島歌謡』(日本放送出版協会)、『南日本の民俗文化 小野重朗著作集』(第一書房)。
海難記ー南洋伝道の思出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・照屋寛範・・20
儒良・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩崎命吉(放送局長)・・・26
近事雑感・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木愿三(教学課長)・・・29
病暦(7月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・30
或る書簡ー宗教に就て(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仲里誠吉③・・・33
③万人スバ屋の息子・仲里誠吉(誠桔・1916年10月2日~2002年9月20日)
1937年 旧制和歌山商業高校卒
1938年 那覇市立商業高校教諭
1945年 古知屋市助役
1945年4月 沖縄臨時政府貿易長、翻訳官兼通訳官
1946年4月 沖縄臨時政府翻訳課長
1949年 6月3日ー■『人民文化』創刊号□発行人・仲里誠吉/編集人・岡村哲秀、太田良博
1949年11月10日ー『うるま新報』「立候補の挨拶ー仲里誠吉」「沖縄人民党中央委員会ー仲里誠吉君を立候補させました」
1950年 人民党沖縄群島議会議員
1951年9月12日ー『琉球新報』「仲里誠吉人民党脱党」
1959年~1970年 『生長の家』地方講師
1969年 翻訳書ーベアード・Т・スポールティング『ヒマラヤ聖者の生活探求』霞ヶ関書房
1985年 沖縄伝導瞑想主宰
□1月ー国吉真哲宛・ハガキ
1994年 □1月ー新城栄徳宛・書簡
2003年5月ー『とんぱ』第5号<仲里誠桔追悼>出帆新社
薬草を求めて(6)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久場仙眼・・・38
編輯後記(新崎盛珍)
○先月来文化聯盟並びに翼賛会の尽力によって我が沖縄の美術乃至工芸の優秀品を各般に亘りゆつくりと展覧鑑賞することが出来たのは近来にない喜びでなけでばならぬ。我等は此の際各部門の専門家に薀蓄を傾けて戴き、以って各位が展覧会場に於いて得られた印象を深め置かんことを期して御寄稿をお願いしてあった処、國吉氏の漆器に関する物しか載せることが出来なかった。(略)今迄頑張って居たが本誌も頁数を減ずるの余儀なきに至ったことは読者各位の御諒恕を乞はねばならぬが、価値多く興味津々たる玉篇を充実し得たことを秘かに喜んで居る次第を敢えて申し上げ度い。
1943年8月ー月刊『文化沖縄』第4巻第8号 編輯発行兼印刷人・馬上太郎
月刊文化沖縄社ー那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社ー東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局ーパラオ島コロール町 印刷所・向春商会印刷部ー那覇市通堂町2ノ1
表紙ー崇元寺総門
佛領印度支那旅行記(1)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・與儀喜宣・・・2
琉球藝術と伊東博士・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・豊見川素堂・・・5
藝能展の聲なき囁き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安谷屋正量・・・・9
書画・彫刻の陳列を終へて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・屋部憲・・・・・・・11
沖縄の陶器・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・原田貞吉・・・・16
山の香ひ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・兼村寛俊・・・・・21
標準語を尋ねて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松田精太郎・・・24
病暦(8月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉栄眞・・・・・28
或る書簡ー宗教に就て(下)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仲里誠吉・・・30
楓橋夜泊断片・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湧川浩・・・・・33
薬草を求めて(7)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久場仙眼・・・35
荒鷲の雛敞ちゃん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・龍一枝・・・37
編輯後記(新崎盛珍)
○大東亜戦争を契機として、それまであられもない方面に向けられて居た眼を自らの伝統、自らの文化に向けるやうになったことは嘉すべき趨勢だ。かと云って、思ひ上がって排他的にとなったり、自己陶酔に陥ったりしないやうに戒むべきは言ふまでもないことだが、嘗て自己の有しりし誇るべき文化、尊き伝統を再研校して将来への向上、精進に資することは緊要である。此の意味に於いて曩者郷土の誇芸能展が開催されたことは、意義深い快挙であった。そこで本誌は、郷土芸術の各部門に亘り、それぞれ専門家に乞ふて、その薀蓄を披瀝して戴いたことは欣幸の至りだ。
月刊文化沖縄社ー那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社ー東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局ーパラオ島コロール町 印刷所・向春商会印刷部ー那覇市通堂町2ノ1
表紙ー円覚寺の鬼瓦
近世日本と外国語・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城間盛善・・・2
アメリカン・シンプルトン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・野崎眞一・・・8
琉球漆器に就て・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・國吉瑞泉・・10
山本元帥国葬の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川田順①・・・・・12
①川田 順(かわだ じゅん、1882年(明治15年)1月15日 - 1966年(昭和41年)1月22日)は、歌人、実業家。住友総本社常務理事。漢学者川田甕江の三男。女優・歌手の佐良直美は従曾孫娘。→ウィキペディア
神の金細射(かなままき)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・牧港策夫・・・13
沖縄文学韻律考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小野重朗②・・・14
②小野重朗1911年2月 広島県生まれ、1995年7月9日逝去。広島高等師範学校卒。ペンネーム花城具志、俳号・十露。おもな著書『琉球文学』(弘文堂)、『南九州の柴祭・打植祭の研究』(第三回柳田国男賞)、『農耕儀礼の研究』(弘文堂)、『十五夜綱引の研究』(慶友社)、『南島歌謡』(日本放送出版協会)、『南日本の民俗文化 小野重朗著作集』(第一書房)。
海難記ー南洋伝道の思出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・照屋寛範・・20
儒良・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩崎命吉(放送局長)・・・26
近事雑感・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木愿三(教学課長)・・・29
病暦(7月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・30
或る書簡ー宗教に就て(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仲里誠吉③・・・33
③万人スバ屋の息子・仲里誠吉(誠桔・1916年10月2日~2002年9月20日)
1937年 旧制和歌山商業高校卒
1938年 那覇市立商業高校教諭
1945年 古知屋市助役
1945年4月 沖縄臨時政府貿易長、翻訳官兼通訳官
1946年4月 沖縄臨時政府翻訳課長
1949年 6月3日ー■『人民文化』創刊号□発行人・仲里誠吉/編集人・岡村哲秀、太田良博
1949年11月10日ー『うるま新報』「立候補の挨拶ー仲里誠吉」「沖縄人民党中央委員会ー仲里誠吉君を立候補させました」
1950年 人民党沖縄群島議会議員
1951年9月12日ー『琉球新報』「仲里誠吉人民党脱党」
1959年~1970年 『生長の家』地方講師
1969年 翻訳書ーベアード・Т・スポールティング『ヒマラヤ聖者の生活探求』霞ヶ関書房
1985年 沖縄伝導瞑想主宰
□1月ー国吉真哲宛・ハガキ
1994年 □1月ー新城栄徳宛・書簡
2003年5月ー『とんぱ』第5号<仲里誠桔追悼>出帆新社
薬草を求めて(6)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久場仙眼・・・38
編輯後記(新崎盛珍)
○先月来文化聯盟並びに翼賛会の尽力によって我が沖縄の美術乃至工芸の優秀品を各般に亘りゆつくりと展覧鑑賞することが出来たのは近来にない喜びでなけでばならぬ。我等は此の際各部門の専門家に薀蓄を傾けて戴き、以って各位が展覧会場に於いて得られた印象を深め置かんことを期して御寄稿をお願いしてあった処、國吉氏の漆器に関する物しか載せることが出来なかった。(略)今迄頑張って居たが本誌も頁数を減ずるの余儀なきに至ったことは読者各位の御諒恕を乞はねばならぬが、価値多く興味津々たる玉篇を充実し得たことを秘かに喜んで居る次第を敢えて申し上げ度い。
1943年8月ー月刊『文化沖縄』第4巻第8号 編輯発行兼印刷人・馬上太郎
月刊文化沖縄社ー那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社ー東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局ーパラオ島コロール町 印刷所・向春商会印刷部ー那覇市通堂町2ノ1
表紙ー崇元寺総門
佛領印度支那旅行記(1)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・與儀喜宣・・・2
琉球藝術と伊東博士・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・豊見川素堂・・・5
藝能展の聲なき囁き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安谷屋正量・・・・9
書画・彫刻の陳列を終へて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・屋部憲・・・・・・・11
沖縄の陶器・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・原田貞吉・・・・16
山の香ひ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・兼村寛俊・・・・・21
標準語を尋ねて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松田精太郎・・・24
病暦(8月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉栄眞・・・・・28
或る書簡ー宗教に就て(下)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仲里誠吉・・・30
楓橋夜泊断片・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湧川浩・・・・・33
薬草を求めて(7)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久場仙眼・・・35
荒鷲の雛敞ちゃん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・龍一枝・・・37
編輯後記(新崎盛珍)
○大東亜戦争を契機として、それまであられもない方面に向けられて居た眼を自らの伝統、自らの文化に向けるやうになったことは嘉すべき趨勢だ。かと云って、思ひ上がって排他的にとなったり、自己陶酔に陥ったりしないやうに戒むべきは言ふまでもないことだが、嘗て自己の有しりし誇るべき文化、尊き伝統を再研校して将来への向上、精進に資することは緊要である。此の意味に於いて曩者郷土の誇芸能展が開催されたことは、意義深い快挙であった。そこで本誌は、郷土芸術の各部門に亘り、それぞれ専門家に乞ふて、その薀蓄を披瀝して戴いたことは欣幸の至りだ。
2015年6月20日、山田實さんのところに遊びにいくと、豊里友行氏が持ってきたという下記の本があった。
〔DAYS JAPAN〕◆ 6月号 : 島袋文子さん(85歳)「国を守るだなんて言う人は、血の泥水をすすってから言ってごらん。自衛隊を戦場に行かせて、格好いいのか、面白いのか。その目で見てから辺野古に基地を造ると言ってごらん」(写真は豊里友行)
DAYSから視る日々
「人々の意志が戦争を止める日が必ず来る」「一枚の写真が国家を動かすこともある」
「DAYS JAPAN」とは世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌です。
ブログでは雑誌だけでは伝え切れない想い、ご紹介したいイベントを綴っていきます。
2015年7月 新藤健一・編『沖縄「辺野古の海」は、いま』七つ森書館
○52頁「カヌーの男性を引き上げ、首を押さえつける海上保安官」は豊里友行撮影
2015年9月11日
新垣辰雄ー1950年沖縄県中城村に生まれる。
2006年一念発起して写真をはじめる。はてるまこう写真塾にて撮影の基本を学ぶ。
2008年勇崎哲史氏のゼミで写真の基礎を学ぶ。同年、ニッコール
[公募展等]
2007年九州二科会・写真部公募展入選。
2008年第29回よみうり写真大賞公募展入選。
2010年第58回ニッコールフォトコンテスト入選。
2012年第60回ニッコールフォトコンテスト入選。沖展、県展入選各1回→「タイフーンFM」
写真左が写遊人の小谷武彦氏、山田勉氏
小谷武彦ー1991年5月 個展「バリ島」リウボウ7階ホール
1996年8月 個展「カトマンドゥ(ネパール)」那覇市民ギャラリー
2005年5月 個展「高みに生きる(ネパール)・女の市場(ベトナム)」那覇市民ギャラリー
2011年4月 個展「マチグヮーからユンタクが聞える」那覇市民ギャラリー
小谷氏の伯父に小谷昌毅がいる。昌毅は沖縄県立第二中学校を1930年に卒業、同期に亀島入徳、具志堅以徳、山城善光らがいる。上京し早稲田大学に入学。東京日日新聞(毎日新聞の前身)記者、1935年発行の校友誌『みどり』に「感謝の辞」を東日記者の肩書で書いている。昌毅は佐敷出身で喜友名門中(喜友名、津波、徳本)。ちなみに山田實さんは沖縄県立第二中学校の1936年卒業である。
2016年1月23日 市民ギャラリーで写真左から世良利和氏、小谷武彦氏
〔DAYS JAPAN〕◆ 6月号 : 島袋文子さん(85歳)「国を守るだなんて言う人は、血の泥水をすすってから言ってごらん。自衛隊を戦場に行かせて、格好いいのか、面白いのか。その目で見てから辺野古に基地を造ると言ってごらん」(写真は豊里友行)
DAYSから視る日々
「人々の意志が戦争を止める日が必ず来る」「一枚の写真が国家を動かすこともある」
「DAYS JAPAN」とは世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌です。
ブログでは雑誌だけでは伝え切れない想い、ご紹介したいイベントを綴っていきます。
2015年7月 新藤健一・編『沖縄「辺野古の海」は、いま』七つ森書館
○52頁「カヌーの男性を引き上げ、首を押さえつける海上保安官」は豊里友行撮影
2015年9月11日
新垣辰雄ー1950年沖縄県中城村に生まれる。
2006年一念発起して写真をはじめる。はてるまこう写真塾にて撮影の基本を学ぶ。
2008年勇崎哲史氏のゼミで写真の基礎を学ぶ。同年、ニッコール
[公募展等]
2007年九州二科会・写真部公募展入選。
2008年第29回よみうり写真大賞公募展入選。
2010年第58回ニッコールフォトコンテスト入選。
2012年第60回ニッコールフォトコンテスト入選。沖展、県展入選各1回→「タイフーンFM」
写真左が写遊人の小谷武彦氏、山田勉氏
小谷武彦ー1991年5月 個展「バリ島」リウボウ7階ホール
1996年8月 個展「カトマンドゥ(ネパール)」那覇市民ギャラリー
2005年5月 個展「高みに生きる(ネパール)・女の市場(ベトナム)」那覇市民ギャラリー
2011年4月 個展「マチグヮーからユンタクが聞える」那覇市民ギャラリー
小谷氏の伯父に小谷昌毅がいる。昌毅は沖縄県立第二中学校を1930年に卒業、同期に亀島入徳、具志堅以徳、山城善光らがいる。上京し早稲田大学に入学。東京日日新聞(毎日新聞の前身)記者、1935年発行の校友誌『みどり』に「感謝の辞」を東日記者の肩書で書いている。昌毅は佐敷出身で喜友名門中(喜友名、津波、徳本)。ちなみに山田實さんは沖縄県立第二中学校の1936年卒業である。
2016年1月23日 市民ギャラリーで写真左から世良利和氏、小谷武彦氏
06/15: 武藤長平
1915年7月『沖縄教育』第百二号 武藤長平○学説教務 斉彬公考ー(略)此為朝問題を以って琉球が日本に属すべきものだと断案を下すのはちと當を得て居ない。又た先年畏友伊波文学士は其大著『古琉球』の中に『琉球人の祖先に就きて』を載せて居る、それは成程同君の御説通日琉は同祖であらう、けれども徳川時代に於いては最早琉球は日本ののものではない、確かに支那のものである、早い話が時の支那政府は『琉球は我が属国なり』と言明して居るに関わらず、時の日本政府は左様な言明をなし得なかったのではないか、(略)公が安政四年に琉球の摂政三司官に向かって密用として公の近侍市来四郎、山田壮右衛門等が伝へたる条件は左の如し、第一、琉球大島及び山川港に於いて和蘭或は佛蘭西と貿易開始の計画 第二、蒸気船御買入の儀 第三、英米佛三国へ薩摩書生を琉人と称して派遣すること 第四、台湾島の内便利の地に渡唐船碇泊場を設くること 第五、福州琉球館取弘め商法盛大にすること 第六、渡唐商人どもへ内諭大小砲を清国へ売込ましむること・・・
1926年6月ー武藤長平『西南文運史論』岡書院(東京市麹町区)
琉球三司官(天明2年~享和2年)伊江朝睦(向天迪)筆「島津日新高いろは歌」/ 程順則印譜
那覇港に於ける進貢船帰来図(浦添朝顕所蔵)
首里那覇図古屏風(那覇市役所所蔵)
長崎の聖廟
多久の聖廟
1926年6月ー武藤長平『西南文運史論』岡書院(東京市麹町区)
琉球三司官(天明2年~享和2年)伊江朝睦(向天迪)筆「島津日新高いろは歌」/ 程順則印譜
那覇港に於ける進貢船帰来図(浦添朝顕所蔵)
首里那覇図古屏風(那覇市役所所蔵)
長崎の聖廟
多久の聖廟
一ヶ月余の重荷であった書画、彫刻の陳列を終へてホットとしているところへ文化沖縄の新崎盛珍氏が見へて何か感想を書けと云はれる。ところが書画、彫刻となると範囲が頗る広汎に亘り、私などには不適任なので遠慮したが、是非とのことで、茲では感想といふよりは寧ろ委員として陳列品の蒐集等に走り使ひをした関係上、その経過をありのままに報告し、併せて卑見を述べて見度いと思ふ。
実を云ふと、今度の芸能展の除幕の噂さとして書画、彫刻は一番淋しいだらうとの風評があったが、愈々「紅型展」を皮切りに蓋開けしてからも、会場たる山形屋の階上には絶へず各部門の委員が陣取り色々の話しが出たが、その大方の口から諸語、彫刻は数が僅いと云ふが、陳列品は集るかなどと気を揉んで下さる方もあり、同情と激励の言葉を受けて頗る恐縮した次第である。しかも今度の催しは「郷土のほこり」と銘打ってあるだけに極めて慎重な態度をとることが肝腎で、それには先ず第一に確りした腹案を作らねばならない。
(略)
殊に感謝に堪へぬのは博物館や尚家が、所蔵品を見せて戴き尚ほ選り抜いた現品を会場まで届けて下さるし、県立図書館や豊平良顕氏が書幅を表装まで仕替へて出陳され、一中が海邦養秀の扁額と國学訓飭士予諭の大幅を那覇まで届けて下さった思ひやりに対して御礼のの言葉がない。又首里第一国民学校では児童十数名を動員して黒石彫刻物観蓮橋欄羽目2面と透彫大扉2枚を博物館から歡会門前めで持ち出して下さる等全く涙ぐましい光景であった。亦又吉康和氏や原田貞吉氏は各方面と亘りをつけて、各種の出品物や、会場設備に必要なる品物を借りて下さるし、湖城恵寛氏は凡てに対して、わが事のやうに一々面倒を見て下さると云ふ始末で、其の都度に興る感激は、奔走の労苦を吹っ飛ばして余りがあり、今度の藝能展は「郷土のほこり」といふ旗印の下に全部門総動員の形で、実になごやかな雰囲気を醸した。斯かる援助がるため直接擔當の吾々も力を倍加し、同僚糸数昌運氏はわざわざ島尻眞壁村に金城増太郎氏を訪れ、毛世輝の書幅と蔡温の巻物を携へて帰る有様で、全くこの一ヶ月間は、自分の仕事など振り向く暇もなかった。陳列品としては成る可く古い時代に遡って蒐集し、一番近いもので廃藩時代を限度として陳列することにした。
書道は和様、唐様の両様を取り混ぜ和様文字としては、伏見帝の皇子青蓮院尊圓法親王の流れを掬む者の代表と云はれる尊圓城間即ち城間親方盛久(天文11年生まれ、後 三司官)の巻物や又優れたる仮名文字の碑として有名な真珠港碑の手拓、尚清王時代に建立された崇元寺下馬碑の手拓、萬暦年間に首里王府から、のろに賜った辞令、尚敬王御筆の巻物、所謂渡嘉敷親雲上として知られている葉緝烈(寛保3年に生まれ90余歳の寿を保てり)の書幅等に、一番時代の近いもので、琉球藩末路の政治家で歌人である宜湾朝保の書幅を掲げ、又漢字では國学訓飭士予諭の大幅を始めとして沖縄の最高学府たる國学に掲げし尚温王御筆「海邦養秀」の扁額、尚純公(黙笑と号す)後筆で篆、隷、楷、行、草各体の習字帖尚育王御筆、尚育王の御師匠たりし馬執宏豊平良全(容斉又は竹西と号す)馬執宏と同時代の官生毛世輝我謝盛保(筆山と号す)、薩州斉興公に召されて書道の師となりし鄭嘉訓古波蔵親方、其の子で父同様薩公の知遇を受けて大宰府に徳高しの扁額を書きし鄭元偉、琉球の大政治家蔡温と其の父蔡鐸の書幅も陳列したのであるが、尚ほ古代物として尚徳王御筆(原本は災火のため消失し写真版を出す)等は珍品として衆目を集めたが其の他に県内にある名筆で持出し不可能の為め出陳出来なかったものに萬古長史(天正7年支那留学生となり恪橋と号す)がある。この人の書として現在遺っているものに天孫廟内の龍王殿、県立図書館に保存されてある迎恩、首里城正殿階上にある天界寺(以前天界寺に掲げしもの)がある。
其他県外にあって沖縄書道のために気を吐いているものに、鄭嘉訓父子の外に尚穆王御筆がる。これは藩州の聖廟に掲げられているが、聖廟の額と云へば何処でも大抵その時代の一流の書家に書かしたものであって、沖縄の書が他藩の聖廟で偉彩を放っていると云ふことは、沖縄の書道が如何に勝れていたかを物語るものである。又尚寧王御筆の袋中上人像の入れる書幅(現在京都袋中寺本山にあり)の如きは古調豊かにして流麗を極め、古琉球に於ける書としては最高峰を行っていると評されるが、これ等の傑作が控へている事を思へば、更に心強い感じがする。(以下略)
実を云ふと、今度の芸能展の除幕の噂さとして書画、彫刻は一番淋しいだらうとの風評があったが、愈々「紅型展」を皮切りに蓋開けしてからも、会場たる山形屋の階上には絶へず各部門の委員が陣取り色々の話しが出たが、その大方の口から諸語、彫刻は数が僅いと云ふが、陳列品は集るかなどと気を揉んで下さる方もあり、同情と激励の言葉を受けて頗る恐縮した次第である。しかも今度の催しは「郷土のほこり」と銘打ってあるだけに極めて慎重な態度をとることが肝腎で、それには先ず第一に確りした腹案を作らねばならない。
(略)
殊に感謝に堪へぬのは博物館や尚家が、所蔵品を見せて戴き尚ほ選り抜いた現品を会場まで届けて下さるし、県立図書館や豊平良顕氏が書幅を表装まで仕替へて出陳され、一中が海邦養秀の扁額と國学訓飭士予諭の大幅を那覇まで届けて下さった思ひやりに対して御礼のの言葉がない。又首里第一国民学校では児童十数名を動員して黒石彫刻物観蓮橋欄羽目2面と透彫大扉2枚を博物館から歡会門前めで持ち出して下さる等全く涙ぐましい光景であった。亦又吉康和氏や原田貞吉氏は各方面と亘りをつけて、各種の出品物や、会場設備に必要なる品物を借りて下さるし、湖城恵寛氏は凡てに対して、わが事のやうに一々面倒を見て下さると云ふ始末で、其の都度に興る感激は、奔走の労苦を吹っ飛ばして余りがあり、今度の藝能展は「郷土のほこり」といふ旗印の下に全部門総動員の形で、実になごやかな雰囲気を醸した。斯かる援助がるため直接擔當の吾々も力を倍加し、同僚糸数昌運氏はわざわざ島尻眞壁村に金城増太郎氏を訪れ、毛世輝の書幅と蔡温の巻物を携へて帰る有様で、全くこの一ヶ月間は、自分の仕事など振り向く暇もなかった。陳列品としては成る可く古い時代に遡って蒐集し、一番近いもので廃藩時代を限度として陳列することにした。
書道は和様、唐様の両様を取り混ぜ和様文字としては、伏見帝の皇子青蓮院尊圓法親王の流れを掬む者の代表と云はれる尊圓城間即ち城間親方盛久(天文11年生まれ、後 三司官)の巻物や又優れたる仮名文字の碑として有名な真珠港碑の手拓、尚清王時代に建立された崇元寺下馬碑の手拓、萬暦年間に首里王府から、のろに賜った辞令、尚敬王御筆の巻物、所謂渡嘉敷親雲上として知られている葉緝烈(寛保3年に生まれ90余歳の寿を保てり)の書幅等に、一番時代の近いもので、琉球藩末路の政治家で歌人である宜湾朝保の書幅を掲げ、又漢字では國学訓飭士予諭の大幅を始めとして沖縄の最高学府たる國学に掲げし尚温王御筆「海邦養秀」の扁額、尚純公(黙笑と号す)後筆で篆、隷、楷、行、草各体の習字帖尚育王御筆、尚育王の御師匠たりし馬執宏豊平良全(容斉又は竹西と号す)馬執宏と同時代の官生毛世輝我謝盛保(筆山と号す)、薩州斉興公に召されて書道の師となりし鄭嘉訓古波蔵親方、其の子で父同様薩公の知遇を受けて大宰府に徳高しの扁額を書きし鄭元偉、琉球の大政治家蔡温と其の父蔡鐸の書幅も陳列したのであるが、尚ほ古代物として尚徳王御筆(原本は災火のため消失し写真版を出す)等は珍品として衆目を集めたが其の他に県内にある名筆で持出し不可能の為め出陳出来なかったものに萬古長史(天正7年支那留学生となり恪橋と号す)がある。この人の書として現在遺っているものに天孫廟内の龍王殿、県立図書館に保存されてある迎恩、首里城正殿階上にある天界寺(以前天界寺に掲げしもの)がある。
其他県外にあって沖縄書道のために気を吐いているものに、鄭嘉訓父子の外に尚穆王御筆がる。これは藩州の聖廟に掲げられているが、聖廟の額と云へば何処でも大抵その時代の一流の書家に書かしたものであって、沖縄の書が他藩の聖廟で偉彩を放っていると云ふことは、沖縄の書道が如何に勝れていたかを物語るものである。又尚寧王御筆の袋中上人像の入れる書幅(現在京都袋中寺本山にあり)の如きは古調豊かにして流麗を極め、古琉球に於ける書としては最高峰を行っていると評されるが、これ等の傑作が控へている事を思へば、更に心強い感じがする。(以下略)
1941年1月25日 池宮城秀意『沖縄県中央図書館報』創刊号
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「諸見里朝清」
沖縄県中央図書館長 諸見里朝清○館報発刊に臨みてー帝国は今や単なる「非常時局」から「新体制の確立」へと邁進せねばならぬ情勢下にあって、大政翼賛運動を強力に拡し進めねばならぬ時機に際会しているのである。而して眞個の翼賛体制は単なる命令によって成就され得可きものでなく、一億国民が一心となって自ら発するところにこそ成就され、確立されるものである即ち物事は作らるるに非ず、生れ出るのである。
1941年9月25日 池宮城秀意『沖縄県中央図書館報』第9号
沖縄県中央図書館長 諸見里朝清○沖縄文化聯盟の結成と町村図書館事業の振興ー沖縄文化聯盟は8月9日「帝国の歴史的使命に立脚し民族的自覚に基づき総合的国民文化の昴揚並びに浸透を期す」との目的を掲げて雄々しく新発足をした。この目的を達成するために大政翼賛会沖縄支部と表裏一体の関係を緊密にし各加盟団体の聯絡統制を図り、また教育、産業其の他各系統団体の協力の下に各般の施設を企画実地して本県文化の再建設に一新紀元を画することが期待されている。
1942年1月25日 池宮城秀意『沖縄県中央図書館報』第13号
沖縄県中央図書館長 諸見里朝清○決戦下の文化翼賛を強化し南方開発の使命完遂せよー米英に対する宣戦の大詔を拝したときわれら一億国民は粛然、緊張胸を躍らし晴れやかな陽光を仰ぐの気持ちで恐懼感激した。大東亜戦争勃発するや、 大稜威の下無敵皇軍の寄襲電撃的神速果敢なる力戦奮闘により、瞬く間に米国太平洋艦隊、英国東洋艦隊を覆滅し、次々に要衛を占拠し開戦二旬にして米英東亜侵略の牙城たる香港、マニラ」は既に陥落し、星港、蘭印の攻略も目捷の間に迫り大東亜共栄圏の建設が急速に進捗しつつあり、感謝と感激を胸に湛えて戦捷の新春を迎へた歓喜は筆紙に尽し能はざるところである。
支那事変は大東亜戦争に飛躍的発展して、八紘一宇の大理想を顕現すべき聖戦の目的が一層明確になった。過去数百年欧米人の爪牙毒手の桎こく下にあった東亜民族を解放して東亜の新秩序を建設すべき長期戦であり、長期建設であって帝国の隆替、東亜の興廃は実にこの一戦にある。不敗必勝は神州日本の伝続的信念であって一億一心火の玉となって殉忠殉国の誠を捧げこの戦を勝ち抜かねばならない。
06/09: 戦時体制下の沖縄/月刊『文化沖縄』 比嘉榮眞「病歴」
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「比嘉榮眞」
1943年1月 月刊『文化沖縄』第4巻第1号
病歴・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・・・・44
○此の稿は勿論未完成の儘である。嘗て医師会事業として提唱した問題である。而して今度は私が3,4年間に集めた分だけを書いたものである。只手付けの一端を披瀝しておけば、会員各位の記憶を呼び起こして以って応援も多からんことを希望して止まない次第である。
1、正月 自粛の年、国民生活を出来るだけ切り下げて行く決戦下に於いて、物の不足は漸く馴れて、お正月といへども昔みたい様に暴飲暴食するといふ事はないと思ふ。が未だ所謂お正月気分といふものがあって多少とも弛みが出る。その隙に色々の病気に犯さるるものである。
1943年2月 月刊『文化沖縄』第4巻第2号
愛国百人一首評釈・・・・・歌壇諸大家・・・・・・・2
琉球使節を歌へる歌・・・・林 秀雄・・・・・・・・・6
護国の神々に仕ふ・・・・・・仲村渠政権・・・・・・7
身邊小話・・・・・・・・・・・・・・長田紀秀・・・・・・・・9
随筆三題・・・・・・・・・・・・・・喜久川鼎・・・・・・・11
歴史と命魂・・・・・・・・・・・・・高良忠一・・・・・・15
琉球とおもろ双紙(和歌)・・山口由幾子・・・・16
病歴(二月)・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・22
比律賓群島の糸満漁民・・・比嘉 榮・・・・・・・27
名士の演説振・・・・・・・・・・・伊地 啓・・・・・・・30
南洋通信・・・・・・・・・・・・・・・大宜味朝徳・・・・32
労務雑記・・・・・・・・・・・・・・・山城興純・・・・・・33
くすりを求めて(1)・・・・・・・・久場仙眼・・・・・・36
方圓録・・・・・・・・・・・・・・・・・・新崎盛珍・・・・・・40
療園四年・・・・・・・・・・・・・・・・松田並子・・・・・・44
1943年3月 月刊『文化沖縄』第4巻第3号
病歴(3月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・37
○2月からの余勢は流れて先月からの流行は引き続き依然として顕はれてくる。陽気がポカポカと暖かくなり出して街路の黄塵が吹きまくって、相変わらずノド、鼻カゼが多く安魏那が多い。
1943年4月 月刊『文化沖縄』第4巻第4号
病歴(4月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・36
○気温と脳ー梯梧の花盛りー 陽春4月ー誰れかれの別なく自然と共に心が浮き浮きしてくるものである。而してこの春になると脳の変調が来て脳神経系統の病気が多くなる。其の理由は気温が上昇する関係である。気温が上がると人体皮膚の下の血管がフクランで来る。それと同時に頭蓋の内の血が降りてそれに因る刺激症状を起こすもので「フルチ」「ハンゲーイモノ」(微毒)等が続発してくるのもこの期節で、又神経痛、ロイマチス等もよく再発してくるものである。
1943年5月 月刊『文化沖縄』第4巻第5号
病歴(5月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・24
○昭和14年、15、16年は麻疹が続々と流行して、今月は正に猖獗を極めている時期であった。而して其当時死亡率も多かった様に感ぜられた。昔から疱瘡は器量定め、麻疹は命定めといわr、これから暑気に向かって行くと特に本県では死亡率が多くなる様である。風疹、暑さに向ふてチョイチョイ流行るものにハシカとまぎわらしい風疹といふものがある。俗に「三日ハシカ」とも称へられ、方言で「台湾イリガサ」ともいわれて親御サン達をして、よくまごつかしめるものである。又大人にも罹ることがあって、よく辻町の女子連中に見うけられる場合が多い。
1943年6月 月刊『文化沖縄』第4巻第6号
病歴(六月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・27
○これから愈々南島は本格的な夏に入るのである。私の友人県の農林技師をしていた方の話によると、本県は気候と土地の関係上6,7,8の三ヶ月間はどうしても青野菜類は発育し難いとの事である。これによって此季節にはややもすると青物不足の所謂「ヴィタミンC」欠乏症とか又は野菜物に含有する「ヒスタミン」が無い為に脚気の様な胃腸障碍を見る事が多い。
1943年7月 月刊『文化沖縄』第4巻第7号
病歴(七月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・30
○盛夏・・・・・これから愈々茹る様な暑気が続いて来る。これから吾々は喝を覚えることが甚だしく、水を、特に冷水を要求する事が多くなる。これに因って自然に口からの病気が急に増えてくる。されば最初に先ず「真夏の衛生と」しての三か条を挙げて見たい。(1)蝿の駆除 (2)水特に飲料水の選択 (3)指尖の清潔
1943年8月 月刊『文化沖縄』第4巻第8号
病歴(八月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・28
○相変わらず感冒が多い炎暑の最中で而かも一番暑い月である。東京其他ではめったにこういふ事はない筈である。本県では如何なる月でも風邪は多い。一つは気候の不順なることも原因となるだろうが、今一ツは県人一般に咽頭が悪い関係もある。先天的に即ち遺伝的(素質)に咽頭が悪く且つ之を保護する含嗽といふことを等閑視している全て風邪といふものは其の名前の如く「ノド」「ハナ」から入るものだといふことを注意すれば含嗽は何よりも真っ先に実行すべき事柄である。
1943年9月 月刊『文化沖縄』第4巻第8号
病歴(九月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・30
○残暑の候より「新西ミーニシ」といふ季節風が吹く。即ち気候変わりに移るのである。気候変わりには必ず風邪は伴ふものであるが、而し只水っぱなをたらすだ丈に止る。此季節に「ユジナ」(疫)即ち鷹渡来にちなむ「タカバナシチ」が流行する。俗に鷹の小便といふてチラチラと小雨が降って来る。子供等がそれに濡れて知らず知らずに罹る「カゼ」である。
1943年10月 月刊『文化沖縄』第4巻第10号
病歴(十月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・15
○九月と殆ど同じ気候で、又同じ様な病気が引き続き多く見られる。朝夕は多少涼しくなるが相変わらず「ミヅツパナ」と「ノドカゼ」が多い、又「シブリ腹」も多い。
1943年11月 月刊『文化沖縄』第4巻第11号
病歴(十一月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・18
○此月から12月にかけて、生理的に実に良好なる月である。十月の末頃から十一月一ぱいと尚十二月にひいて俗に「アチハテ十月」といはれて、社会一般に閑散期である。医業も割り方隙になる時である。何しろ気候はよくなるし、人全てが食欲が増進して健康の秋は近づいてくるのである。大根は出る。菠薐草其他青野菜の出盛る月である。大抵の慢性疾患も一様に良好に趣いて自然に病者も少なくなる天高く馬肥ゆるの候である。
06/04: 琉米誌/ハワイ①
ハワイ州は、太平洋に位置するハワイ諸島にあるアメリカ合衆国の州である。漢字では「布哇」と書く。州都はオアフ島のホノルル市である。アメリカ合衆国50州の中で最後に加盟した州である。 ウィキペディア
1878年 孫文ーハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り、オアフ島ホノルルに移住、後に同地のイオラニ・スクールを卒業。→ウィキペディア
1909年 大城剛(白銀)がホノルルで雑誌『沖縄同胞』創刊。1年で廃刊。その後、ヒロ市で『雷新聞』を発刊(1918年廃刊)。
1910年9月ー与儀喜照、山城徳助、渡名喜守章、屋部憲伝の発起で「球陽倶楽部」設立。
1911年6月2日ーハワイ「望月」で「尚侯爵令嗣尚昌歓迎会」。
1912年7月ー遠山哲夫(当山亀)は雑誌『実業之布哇』発刊。
1912年7月28日ー仲嶺真助(麻氏)、ハワイのオアフ島ワイアナエで生まれる。父三良、母マツ
1915年8月ー前暁鐘社長野里朝淳はマウイ島カフルイ港にて写真屋開業。
1917年2月ーハワイ沖縄県人同志会結成、当山善真(常務理事)、田島朝明、平良牛助、仲間銀造、上里由明、上里良温、上江洲智倫、野里朝淳、小那覇三郎、山里勇善、山城徳助、山城秀正、山入端松正、小波津幸秀、宮里貞寛(会計)。/11月ー上里由明、朝鮮人旅館を譲り受けキング街リバー街近くに上里旅館開業。
1919年3月ー小那覇三郎の「沖縄観光団」、30日の天津丸で出帆。/9月ー宮城源永法学士来布。
1920年12月ー玉代勢法雲(東本願寺)、上原束善(東本願寺開教使)来布。
1921年7月ー比嘉賀秀牧師来布。
1922年1月ー常盤園で「布哇沖縄県人会発会式」。司会・宮里貞寛、経過報告・上里良光、議長・田島朝明、会則説明・当山善真、理事に当山哲夫、宮里貞寛、田島朝明、平良牛助、当山善真、比嘉賀秀、宮城源永、田島朝明、新城銀次郎、大城朝政、嘉数佐市、宮城高光、比嘉保徳、上里良光、与那原良吉、豊平良金。既存のーハワイ沖縄県人同志会は解散せず、趣味団体として存続。/3月ー旭劇場で布哇沖縄県人会主催の基金募集代演芸会、琉球踊・・・鶴亀踊、乙女手踊「スーリーアガリー」、唐手、四季口説、天川、上り口説、交遊、万歳、笠踊、亀甲節、蝶舞、坂原と前浜、薙刀、滑稽踊、唐手と棒・・・。/10月ー天長節奉祝のため新開一座が南キング街のパワー劇場で開演、上り口節、亀甲節、獅子舞、安来節、劇「鬼界島武勇伝」、八重司の万歳、前ヌ浜、与那原節、赤山節、交遊節、仲作田節、四季口節、大切「千本桜」。
1923年3月 嘉数南星『赤光』地響詩社
1924年1月ー布哇沖縄県人会が石井ガーデンにて総会親睦会、宮里貞寛司会、比嘉賀秀理事長、田島朝明書記、宮里貞寛会計の報告ありて後小波津ドクトル、平良牛助、玉代勢法雲、当山哲夫、田島朝明らの所感演説あり、かくし芸などがあった。新理事・比嘉賀秀、当山哲夫、佐渡山安忠、仲間銀造、比嘉保徳、平良牛助、田島朝明、当山善真、豊平良金、宮城源永、山城徳助、上原東善、津波章孝、金城善助、新垣良輝、永山盛珍、古波津幸、玉代勢法雲、内間三郎、稲嶺盛武、内間盛瑾、新川栄光、金城珍栄、池原萬助、宮里貞寛。
1924年2月 比嘉靜観『赤い戀』實業之布哇社
1924年6月 潮音詩社(布哇ホノルル市)『カマニ』第二輯
1925年3月ー布哇沖縄県人会総会で満場一致で布哇沖縄海外協会の設立を議決。理事長・古波津幸秀、副理事長・田島朝明、会計・安里貞雄、書記・宮里貞寛、監査・平良牛/当山哲夫、理事・比嘉賀秀/玉代勢法雲/山城徳助/比嘉保徳、幹事・当山善真。/10月ー宮里貞寛、ホノルル市ヌアヌ街総領事館下にホノルル旅館開業。
ハワイの太田朝敷
左から二人目が太田朝敷
1925年7月21日ー布哇沖縄海外協会に招聘された前琉球新報社長太田朝敷氏は春洋丸で来布す。→船客名簿には一等船客沖縄朝日新聞社顧問太田朝敷とある。4月21日ー太田朝敷、太洋丸で帰国。
1926年3月26日ーハワイ海外協会設置
布哇沖縄海外協会創立・・・沖縄海外協会支部の代議員会はホノルル支部宮里貞寛氏の司会で、同幹事当山善真氏の代議員点呼、同理事長小波津幸秀氏の開会挨拶、代議員の紹介、当山幹事の設立運動報告、議長、副議長の選定、太田朝敷氏のスピーチ、会則の審判議定などがあった。/10月ー渡口政之助、宮里仁王発起で琉球芸術クラブ組織。/11月ー仏教研究のため帰朝中であった元上江洲病院薬局生、与世盛智郎が本派本願寺教士として来布。
1927年2月ーホノルル旅館を経営していた宮里貞寛は家族同伴帰国。
1927年3月ー屋部憲通、9年前に渡米、加州帝国平原に在住していたが帰国の途にホノルルに寄港し当山哲夫、比嘉静観らの世話で一ヶ月滞在す。
1927年5月 宮城聡、ハワイに改造社『日本文学全集』宣伝のため横浜出帆のサイベリア丸に乗る。ホノルルに11日目に着。(1936年にも来布)→1972年6月『新沖縄文学』22号 宮城聡「文学と私<14>」
1927年11月 比嘉靜観『自顔』洋園時報社
1928年3月 玉代勢法雲『眞教法難史』布哇佛教會
1928年6月ー又吉康和(沖縄朝日新聞記者)来布。
1930年
日布映画社制作『執念の毒蛇』(1931)は、大正、昭和期に活躍した俳優であり、映画監督の吉野二郎(1881-1964)が、那覇市とハワイを舞台に撮影したもの
1934年1月、ハワイ・オハフの比嘉太郎(18)は昨年9月ごろから廃物を利用し水力発電設備に着手、正月に電灯を付ける。(比嘉太郎は北中城の祖父母の所で9歳まで過ごし、大阪岸和田で幼年時代を過ごした)/2月、新城朝功(前東京日々新聞経済部長、南洋振興日報社長)ハワイ移民研究でハワイ訪問
1936年10月 永らくワイパフ本願寺に在職中であった与世盛開教使は過般故国訪問から帰布、新学期から布哇中学校に教鞭を執る一方、ベニヤード街バックルレーンに本派本願寺口羽総長許可で慈光園を開設。
1878年 孫文ーハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り、オアフ島ホノルルに移住、後に同地のイオラニ・スクールを卒業。→ウィキペディア
1909年 大城剛(白銀)がホノルルで雑誌『沖縄同胞』創刊。1年で廃刊。その後、ヒロ市で『雷新聞』を発刊(1918年廃刊)。
1910年9月ー与儀喜照、山城徳助、渡名喜守章、屋部憲伝の発起で「球陽倶楽部」設立。
1911年6月2日ーハワイ「望月」で「尚侯爵令嗣尚昌歓迎会」。
1912年7月ー遠山哲夫(当山亀)は雑誌『実業之布哇』発刊。
1912年7月28日ー仲嶺真助(麻氏)、ハワイのオアフ島ワイアナエで生まれる。父三良、母マツ
1915年8月ー前暁鐘社長野里朝淳はマウイ島カフルイ港にて写真屋開業。
1917年2月ーハワイ沖縄県人同志会結成、当山善真(常務理事)、田島朝明、平良牛助、仲間銀造、上里由明、上里良温、上江洲智倫、野里朝淳、小那覇三郎、山里勇善、山城徳助、山城秀正、山入端松正、小波津幸秀、宮里貞寛(会計)。/11月ー上里由明、朝鮮人旅館を譲り受けキング街リバー街近くに上里旅館開業。
1919年3月ー小那覇三郎の「沖縄観光団」、30日の天津丸で出帆。/9月ー宮城源永法学士来布。
1920年12月ー玉代勢法雲(東本願寺)、上原束善(東本願寺開教使)来布。
1921年7月ー比嘉賀秀牧師来布。
1922年1月ー常盤園で「布哇沖縄県人会発会式」。司会・宮里貞寛、経過報告・上里良光、議長・田島朝明、会則説明・当山善真、理事に当山哲夫、宮里貞寛、田島朝明、平良牛助、当山善真、比嘉賀秀、宮城源永、田島朝明、新城銀次郎、大城朝政、嘉数佐市、宮城高光、比嘉保徳、上里良光、与那原良吉、豊平良金。既存のーハワイ沖縄県人同志会は解散せず、趣味団体として存続。/3月ー旭劇場で布哇沖縄県人会主催の基金募集代演芸会、琉球踊・・・鶴亀踊、乙女手踊「スーリーアガリー」、唐手、四季口説、天川、上り口説、交遊、万歳、笠踊、亀甲節、蝶舞、坂原と前浜、薙刀、滑稽踊、唐手と棒・・・。/10月ー天長節奉祝のため新開一座が南キング街のパワー劇場で開演、上り口節、亀甲節、獅子舞、安来節、劇「鬼界島武勇伝」、八重司の万歳、前ヌ浜、与那原節、赤山節、交遊節、仲作田節、四季口節、大切「千本桜」。
1923年3月 嘉数南星『赤光』地響詩社
1924年1月ー布哇沖縄県人会が石井ガーデンにて総会親睦会、宮里貞寛司会、比嘉賀秀理事長、田島朝明書記、宮里貞寛会計の報告ありて後小波津ドクトル、平良牛助、玉代勢法雲、当山哲夫、田島朝明らの所感演説あり、かくし芸などがあった。新理事・比嘉賀秀、当山哲夫、佐渡山安忠、仲間銀造、比嘉保徳、平良牛助、田島朝明、当山善真、豊平良金、宮城源永、山城徳助、上原東善、津波章孝、金城善助、新垣良輝、永山盛珍、古波津幸、玉代勢法雲、内間三郎、稲嶺盛武、内間盛瑾、新川栄光、金城珍栄、池原萬助、宮里貞寛。
1924年2月 比嘉靜観『赤い戀』實業之布哇社
1924年6月 潮音詩社(布哇ホノルル市)『カマニ』第二輯
1925年3月ー布哇沖縄県人会総会で満場一致で布哇沖縄海外協会の設立を議決。理事長・古波津幸秀、副理事長・田島朝明、会計・安里貞雄、書記・宮里貞寛、監査・平良牛/当山哲夫、理事・比嘉賀秀/玉代勢法雲/山城徳助/比嘉保徳、幹事・当山善真。/10月ー宮里貞寛、ホノルル市ヌアヌ街総領事館下にホノルル旅館開業。
ハワイの太田朝敷
左から二人目が太田朝敷
1925年7月21日ー布哇沖縄海外協会に招聘された前琉球新報社長太田朝敷氏は春洋丸で来布す。→船客名簿には一等船客沖縄朝日新聞社顧問太田朝敷とある。4月21日ー太田朝敷、太洋丸で帰国。
1926年3月26日ーハワイ海外協会設置
布哇沖縄海外協会創立・・・沖縄海外協会支部の代議員会はホノルル支部宮里貞寛氏の司会で、同幹事当山善真氏の代議員点呼、同理事長小波津幸秀氏の開会挨拶、代議員の紹介、当山幹事の設立運動報告、議長、副議長の選定、太田朝敷氏のスピーチ、会則の審判議定などがあった。/10月ー渡口政之助、宮里仁王発起で琉球芸術クラブ組織。/11月ー仏教研究のため帰朝中であった元上江洲病院薬局生、与世盛智郎が本派本願寺教士として来布。
1927年2月ーホノルル旅館を経営していた宮里貞寛は家族同伴帰国。
1927年3月ー屋部憲通、9年前に渡米、加州帝国平原に在住していたが帰国の途にホノルルに寄港し当山哲夫、比嘉静観らの世話で一ヶ月滞在す。
1927年5月 宮城聡、ハワイに改造社『日本文学全集』宣伝のため横浜出帆のサイベリア丸に乗る。ホノルルに11日目に着。(1936年にも来布)→1972年6月『新沖縄文学』22号 宮城聡「文学と私<14>」
1927年11月 比嘉靜観『自顔』洋園時報社
1928年3月 玉代勢法雲『眞教法難史』布哇佛教會
1928年6月ー又吉康和(沖縄朝日新聞記者)来布。
1930年
日布映画社制作『執念の毒蛇』(1931)は、大正、昭和期に活躍した俳優であり、映画監督の吉野二郎(1881-1964)が、那覇市とハワイを舞台に撮影したもの
1934年1月、ハワイ・オハフの比嘉太郎(18)は昨年9月ごろから廃物を利用し水力発電設備に着手、正月に電灯を付ける。(比嘉太郎は北中城の祖父母の所で9歳まで過ごし、大阪岸和田で幼年時代を過ごした)/2月、新城朝功(前東京日々新聞経済部長、南洋振興日報社長)ハワイ移民研究でハワイ訪問
1936年10月 永らくワイパフ本願寺に在職中であった与世盛開教使は過般故国訪問から帰布、新学期から布哇中学校に教鞭を執る一方、ベニヤード街バックルレーンに本派本願寺口羽総長許可で慈光園を開設。