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Category: 04-書の森
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2016年1月1日 沖縄県立博物館・美術館 「元旦寄席 動物ものまねー江戸家まねき猫① 落語ー春雨や雷太②」

①えどや まねきねこ芸人
江戸家 まねき猫は、東京都中央区出身の寄席芸人・歌手・俳優。父は三代目江戸家猫八、兄は四代目江戸家猫八。 ウィキペディア

②春雨や雷太(はるさめや らいた)
春雨や 雷太は、東京の落語家。本名は宮尾 卓。千葉県習志野市出身。公益社団法人落語芸術協会に所属。 2006年に四代目春雨や雷蔵に入門。前座となる。2010年二つ目に昇進。出囃子は乗合船であり、2011年にはTVドラマ『デカワンコ』に出演した。 →ウィキペディア

1919年8月15日 『日本及日本人』763号 麦生(末吉安恭)「猫をかぶる」
○仁勢物語①に「いにしへは有もやしけん今はなし鼠のねこをかぶるものとは」とあり、かぶるは被るにあらず齧る意なるが如し。猫をかぶると、今云う言葉もそれよりや変じけん。
①仁勢物語にせものがたり
仮名草子。作者未詳。烏丸光広の作とも伝えられるが疑わしい。2巻。寛永年間 (1624~44) 刊。書名は『伊勢物語』のもじりで,にせ (偽) の意をも含んでいる。「むかし男」を「をかし男」に変えるなど『伊勢物語』の本文をもじり,当代化した戯文。 →コトバンク

1919年8月15日 『日本及日本人』763号 麦生(末吉安恭)「猫の額」
○猫の額のような所という猫の額が、昔は別の意味に用いられしこと、長門本平家物語②に「猫のひたいにある物を鼠のねらうに似たり」とあるにて知らる。不可能の事をなさんとするに譬えられたり。
②平家物語へいけものがたり
鎌倉時代の軍記物語。作者は諸説あるが,『徒然草』に記す信濃前司行長説が有力。成立年未詳。原作は鎌倉時代前期の承久の乱 (1221) 以前の成立で3巻と推定される。南北朝時代頃までに増補改修が行われ,6巻 (延慶本) ,12巻 (八坂本) ,20巻 (長門本) などがあり,『源平盛衰記』 48巻も一異本と認められる。→コトバンク
2015年12月15日 『琉球新報』友寄貞丸「かちゃい ほーちゃいー週刊誌時評」

○(略)目くらましで普天間の4ヘクタール(0.8%)返還を言い出したが、九州場所で横綱白鵬が繰り出した〝猫だまし‶の方がまだまし?まやーさってーならんどー!


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青年・謝花雲石

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雲石・謝花寛剛(1883年4月1日~1975年2月21日)
1911(明治44)年朝鮮に渡り、朝鮮総督府臨時土地調査局に務めるかたわら、海岡・金圭鎮に師事し王義之の書法を学ぶ。22年沖縄県庁に書記として務める。この頃「大本瑞祥会」に入会し「人は神意を実行する機関としてつくられたものであり、神の理想たる天国のすがたを地上に実現することが人生の目的であり使命である」ことを人生観にする。35年昭和神聖会沖縄支部相談役、戦後には大本琉球主会の会長を務めた。「日本に書き方はあっても書道はない」と言いきる。(1997年1月『近代日本社会運動史人物大事典』新城栄徳「謝花寛剛」)


謝花雲石・大本沖縄支部長


1972年 うりずん若夏社『LOGOS


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2009年6月9日『沖縄タイムス』「謝花雲石 戦前の書ー写真家山田實さんの兄保管」




昭和19年4月28日 雲石道人書「営州刺史・高使君・懿候碑」

泰山のはがきエッセイ
次第に寒くなってきました。今年もあとわずかです。
風邪などひかぬようお過ごしください。

 沖縄県庁の表札 
 来年は沖縄返還から四十年。新生沖縄県の発足に際しそのシンボルとして現在の輝石安山岩の沖縄県庁の表札が設置された。その表札の文字を揮毫したのは、今は亡き謝花雲石翁である。尚順、山城正忠とともに沖縄昭和の三筆と言われ、その正忠をして日本の五指に入ると畏敬させた雲石翁は、無欲一徹、九十三歳の生涯をひたすら書道研鑚に邁進した沖縄の誇る書道家である。
 揮毫を依頼した琉球政府最後の文書課長の故照屋栄一氏は、門札に雲石翁の雅号記載を進言所望した。ところが雲石翁は「沖縄県庁の表札は沖縄県民の合作だ」と言って聞き入れなかったと語っている。沖縄県復活は米軍の圧政にひるまず闘った県民みんなの努力の成果だからというのがその理由だ。そして、翁自らの思いを「葉和凄雨」の言葉に託したという。「葉は凄雨に和す―沖縄の木のように暴風雨は吹くにまかせよ。ひどい雨もやがて止み、雨に洗われた緑葉はまた輝く。復帰によってまた違った豪雨になろうが、その試練を沖縄の成長の糧にしよう」との意である。斎戒沐浴して一気に書いたという雲石翁の文字を、照屋課長は「石に彫ってみると、荒々しいというか、沖縄がこれからの荒波を乗り切る若さが表現されている」と評している。
 昨今の日本政府の問答無用とばかりの沖縄への対応を見るにつけ、沖縄県庁の表札にまつわるこうした事などをあらためて思い起こすのである。
(沖縄タイムス 茶飲み話 2011.12.10 掲載)



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末吉發 略歴 1928年ー伊是名村生まれ 沖展写真部会員 俳句会天籟通信同人
 総理来て椅子きしませて帰る夏 総理一行の約1時間の摩文仁滞在にかかる費用は3千万円という。毎年同じようなセリフを読み上げるのに巨額の費用をかけてやってくる。歴代の総理はアメリカへ顔を向けるばかりで沖縄へは基地の負担を強いて来た。慰霊祭の会場には総理の弔辞が虚ろに響く。

 蝉や弔辞は一行あれば足る 六月二十三日、毎年沖縄慰霊の日には総理をはじめ多くの方々が祭壇の前で弔辞を読み上げる。多くの人を戦場へ送り、死ねばやって来て慰霊の辞を滔々と述べる。マッチポンプの感じがしないでもない。決まりきった虚しい言葉の羅列より「辺野古に基地は造りません」とひとこと言えばそれがなによりの慰霊の言葉になるのだが。

2016年1月14日『沖縄タイムス』「俳句と写真で反戦記ー元鉄血勤皇隊 忘れぬ思い 末吉發さん(87)」
2016年1月27日『沖縄タイムス』大城立裕「書評/末吉發 著『俳句と写真集 どこにも仏桑華』」
2016年1月31日『琉球新報』「亡き友悼み戦跡写真集 元鉄血勤皇隊 南城の末吉發さん 俳句も添える」

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2012年3月―第64回沖展出品 末吉發「日々是好日」(山田實さん)


2012年7月3日~8日 那覇市民ギャラリー「末吉發 俳句と写真展」

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2012年8月 末吉發『俳句と写真展』「あとがきー去る7月3日より7月8日の間、那覇市民ギャラリーで発表致しました「末吉發 俳句と写真展」を一冊にまとめました。」期間中、本にしてみたらというご意見など頂きましたが本にするには作品の内容、数が充分でないと思い手作りのの冊子にしました。句の解説も加えましたがご鑑賞の一助になれば大変有難いと思います。なお、ギャラリーにおける展示会から小冊子を作るに至るまで写友の前原基男さん、山田勉さんには大変お世話になりました。心からお礼申し上げます。

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12月17日ー「龍神」工事を見学、はるか上空にはアメリカ戦闘機が「思いやり予算」で爆音を轟かしトンでいた。この日の地元紙にシュワブ前の市民の批判がある、「日本が思いやり予算を出し、新基地を差し出すから米軍はここにとどまっている。国民が困っているのに何をしているのか。わじわじーする。」、山城博治沖縄平和運動センター議長は「日本が光熱水道費や施設建設費を負担し、米兵にとって沖縄はパラダイスになっている。本来は米国が負担すべきで、(アベ政治の)属国の極み。歯ぎしりする思いだ」。

 
2015年12月12日ー龍神(台風、地震対策で首里城のものよりは太目)2体の前でひより

b>東洋では、中国の竜は神獣・霊獣であり、『史記』における劉邦出生伝説をはじめとして、中国では皇帝のシンボルとして扱われた。水中か地中に棲むとされることが多い。その啼き声によって雷雲や嵐を呼び、また竜巻となって天空に昇り自在に飛翔すると言われ、また口辺に長髯をたくわえ、喉下には一尺四方の逆鱗があり、顎下に宝珠を持っていると言われる。秋になると淵の中に潜み、春には天に昇るとも言う。
→ウィキペディア
 西洋のドラゴン(龍)「ヨハネの黙示録」第12章3-9
また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。4その尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。〔……〕7さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、8勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。9この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。→ウィキペディア



1918年7月10日 南方熊楠宛 ←末吉安恭書簡
○拝啓。波之上をナンミンと訓むこと、曩に御答へ致し候が、今波之上神社の由来を『八社縁起』と申す書によりて一寸申上候。波之上もその八社の中にて「紀伊之国熊野三社大権現也。本宮伊弉冊尊。相殿の左は速玉男神、右は事解男神」とあり。紀州熊野の権現を勧誘したること、他の六社も同じ。貴地(和歌山)ともこの波之上は因縁関係これある儀と存ぜられ候。(以下略)

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2021年5月11日 沖縄県立博物館・美術館、川平恵造氏と豊見山愛さん


2015年12月8日~13日 那覇市民ギャラリ―『沖縄新象展』川平恵造「夏シリーズⅠ」

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写真右が新城征孝氏、翁長直樹氏


写真右が新城征孝氏、翁長良明氏

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 この「龍柱」は那覇市と中国福州市が、昭和56年(1981年)の友好都市締結から平成23年(2011年)で30周年を迎え、今後の両市の友好・交流を記念して建設されたものであるので、正式には「那覇・福州友好都市交流シンボル像」と云う味も素っ気もない名称だ。だから私は下記のようなことも踏まえて若狭「龍柱」を若狭「龍神」とした。
 
2014/首里城写真
最近、首里城にちなむ映像写真が話題となっている。4月21日の新報、タイムスの「焼失前の首里城カラー映像」や、5月4日の新報、タイムスの東京在住の写真収集家の「明治の沖縄29枚」である。来る5月20日~6月22日、沖縄県立博物館・美術館で「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した美」が始まる。首里城関係写真も多い。

首里城北殿の階段
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今の所、写真で古いと思われるものは伊藤勝一コレクションの「首里城」である。龍柱が本来の高さで正面向きだ。


今回東京で見つかった明治の沖縄写真は、沖縄写真史の基礎資料とも云うべき『青い目が見た「大琉球」』(1987年8月ニライ社)を見ると1893年3月に来沖したバジル・ホール・チェンバレンの「琉球紀行」で使われた写真にあるから、殆どがチェンバレンが関わっていると思われる。

バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850年10月18日 - 1935年2月15日)は、イギリスの日本研究家。東京帝国大学文学部名誉教師。アーネスト・サトウやウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston)とともに、19世紀後半~20世紀初頭の最も有名な日本研究家の一人。彼は俳句を英訳した最初の人物の一人であり、日本についての事典"Things Japanese"や『口語日本語ハンドブック』などといった著作、『古事記』などの英訳、アイヌ[1]や琉球[2]の研究で知られる。→ウィキペディア


1997年11月 川平朝申『終戦後の沖縄文化行政史』月刊沖縄社
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□現在の大龍柱は沖縄神社拝殿の名残を留めて向き合っている。本来は正面向きである。みーぬしんは下方に付いていて、うなーを見下ろすようになっている。真ん中の写真は現在は沖縄県立博物館・美術館にある龍柱で、暑がりの息子が立っている。


2015年12月6日

 8日の産経ニュースは「姿を現した2体の龍柱 那覇で設置工事完了 「翁長市政」で推進 中国向け?事業に批判も」と、右派らしく判で押したように報じていた。
若狭
□1979年6月ー邦光史郎・日竎貞夫『丹後若狭路』(カラーブック467)保育社□邦光史郎「若狭・丹後の旅ー敦賀湾の美しさを手放しで礼讃できないのは、この半島に建設された原子力発電所があるからで、福井県は世界でも例を見ない、原子力発電所のメッカで、ずらりと各種タイプの原子炉や、高速増殖炉が並んでいて、不気味である。原子力発電の安全性は保証つきだと政府や電力会社が囃し立て、一基について十億円を超える金が地元に落ちるというので、市町村は原子力発電所の誘致に熱心だが、もし万一事故が起こったら、死の灰に汚染されないとも限らないのである。(略)美しい北陸の海岸は、原子炉の墓標の立ち並ぶ死の海と化しかねない。目先の欲に釣られて、郷土の美を売るようなことはしたくないものである。」



2015年11月22日ー若狭に完成間近の龍柱
 那覇市の若狭緑地で市が建設を進めている「龍柱」事業は本体の石材設置作業が22日までに完了し、2体のうちの1体は、覆っていたブルーシートの上半分が外された。前足を掲げた龍の顔面などを見ることができる。1体は海に向かって右側の柱。 現在、周辺整備などの外構工事を進めており、12月25日までに終了する予定。中国福州市との友好都市締結30周年を記念し、計画された。 同事業は当初、一括交付金2億6700万円を使って進めていたが、工事が遅れるなどして活用を断念。市の単独予算を持ち出し工事を再開していた。6月に会計検査院の実施検査を受けたが、「不適切」などの指摘はなかった。→11月23日沖縄タイムス

日本共産党の志位和夫委員長は3日、国会内で記者会見し、
 戦後の米軍による土地の強奪、「銃剣とブルドーザー」を用いた無法な基地拡張が沖縄の基地問題の原点であり、「海上の銃剣とブルドーザー」による辺野古新基地を許すのか、この間の一連の選挙で示された新基地建設は許さないという民意を無視することが許されるのかと、知事が問題提起したことの重要性を強調しました。
(略)知事の問題提起に対し、国側代理人が「政治的議論をする場ではない」と言い放ったことについて、志位氏は「沖縄の基地問題について聞く耳を持たない、議論もしないという態度は許し難い。まさにごう慢、強権を象徴するような発言です。いまの安倍政権の姿勢が表れている」と批判。

 上記の志位和夫委員長の発言の通りアベ政治はアメリカ黒人大統領オバマ軍の協力も得て下記の通り「まさにごう慢、強権を象徴」粛々と沖縄県民の怒りをかっている。次の選挙で自公は壊滅させねば沖縄の未来は無い。

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1982年11月 沖縄の雑誌『青い海』117号<特集・「墓」・祖先との語らい>
沖縄人にとって「墓」とは何か!?・・・・・・・・・・・・・・・・・名嘉真宜勝・関根賢司
死後の世界ー魂のゆくえ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・崎原恒新
平安座島の石棺ー石棺文化の神様・・・・・・・・・・・・・・・太田良博
<ヤドリ人と門中>ーよその土地に住みつくとはー・・・多和田真助
沖縄の墓ーその分類と推移・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金城睦弘
石工達の遺産ー「墓」を通しての琉球弧のイメージ・・・・太田守雄
「墓」・「葬制」についての文献一覧(年表)・・・・・・・・・・・・長嶺操

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1940年8月25日『沖縄朝日新聞』


2015年12月 「『月刊文化沖縄』解説・総目次・索引」不二出版
目次 カラ―口絵 表紙総覧
『月刊 文化沖縄』原本と復刻版の対照表
Ⅰ 解題 1940年代前半の沖縄の雑誌『月刊 文化沖縄』について・・・・・・・粟国恭子
   解説 1940年代前半の沖縄の雑誌『月刊 文化沖縄』と『沖縄教育』・・近藤健一郎
   解説 映画・演劇から見る『月刊 文化沖縄』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・世良利和
   解説 画人・安太郎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新城栄徳
Ⅱ  総目次
   総目次・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・作成・新城栄徳
Ⅲ  索引
不二出版株式会社 東京本社 郵便番号 :113-0023. 住所 :東京都文京区向丘1-2-12
電話番号 :03-3812-4433 .FAX :03-3812-4464

 私は1996年7月発行の『自治おきなわ』に「関西におけるウチナーンチュの歩み」を書き、その末尾に「最後にー私は大阪で創刊された雑誌『青い海』を全冊、合本し愛蔵していて、その中に載っている事項や人名に解説、注釈を加えてみたいと常に思っていた。『関西沖縄年表』はその過程の副産物でもある。最近またぞろ、自分は安全な所(戦争最高責任者の追及は棚に上げる)に身を置いてウチナーンチュの戰爭責任だの、加害者だのと騒ぎ立てる、クサレヤマトーのインテリ(インチキとハッタリ)文化人が目立ちはじめた。」と書いたが、亡くなられた牧港篤三さんなんかは沖縄戦に新聞人として加担したと自虐的に自分を責めておられた。山里永吉もその意味では戦争協力に加担していたことは否めない。友人の伊佐眞一氏などは伊波普猷や山之口貘の戦争責任も追及している。だが、こういったことはウチナーンチュ自身が追及し反省することで、やまとぅーはやまとぅーで自分の住んでいるところのハエでも追えば良い問題である。しかし現実のニホンはアメリカ属国である。ニホン国民は戦争の出来る核大好きアベ政治(それを支える日米利権官僚)、大阪ではアベ政治の別働隊・日の丸大好き維新を誕生させたので戦争の反省や戦争責任問題が出るような環境にはない。

戦時体制下の沖縄/1941年3月 『月刊文化沖縄』「口絵写真」





□新たなる闡明ー地方文化の振興急務が叫ばれる。新体制政治下の翼賛運動に重要な役割を帯ぶるからである。わが沖縄の文化を再検討し、強調・是正するに絶好の機会は到来したのである。殊に吾が沖縄は古来特種の文化國であり、他県の追随を許さぬものが多い。是を昴揚してわが地方性を振興、新國民文化の建設発展に、合流せしめねばならぬ。而して此の目的遂行のためには県民各自の職域奉公による協力を必要とする。

県民生活の水準を文化的に高めしめる。之れ特にわが県下に於いて緊急要項たる事は、識者の誰しもが痛感する所であらう。『月刊文化沖縄』微力たりと雖も、此の重大使命を擔って邁進せんを誓ひ、茲に態度を闡明して新たなる声明を送る。単なる文藝運動なりと誤解してはならぬ。県民の文化生活への啓蒙運動をも兼ねるは勿論、併せて新國民たる堅実思想の培養、指導の実を擧げんとするものである。

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