1991年1月 伊佐眞一 編著『アール・ブール : 人と時代』伊佐牧子
写真・ブール師(the Rev. Earl Rankin Bull,1876~1974)/ブール文庫
伊佐眞一[アール・ブールと伊波普猷]
伊波普猷は,アール・R・プール宛て1926年1月30日付の手紙で, その末尾を次の言葉で閉じている。 「琉球は昨今非常な窮境に陥って国家の手で救済されなければ ならないやうになってゐますが何だかもう助からないやうな気がします。 この不幸なる民族の為に尚一層御奮闘下さることをお願ひします。」 この書翰は,その年,大正15年5月に, プールが中心になって準備をすすめていた ベッテルハイム渡琉80周年記念事業にちなむ2つのモニュメント, つまり石材記念碑の建立と一対をなす, ブールのベッテルハイム伝への序文を求められたことに対する返信であった。 「一月十一日附の御手紙は,方々まわりまわって, 今朝やっと手許に届きました」というのは,たぶんにブールが, 前年の伊波の上京を知らないで, 沖縄の住所に向けて出したためであろう。 かくて30日の朝になってやっと手紙を読んだ伊波は, その日のうちにペンをとったのであるが,この最後の一節には, 当時の沖縄経済の疲弊状態と, かくなるまでに至った真因についての伊波の認識が 端的にあらわれていると同時に, ブールを媒介にしたキリスト教とのかかわり, さらには沖縄「救済」についての思考のパターンが, くっきりと浮き出ているように思える。 ・・・
2016年2月26日 沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハ「第33回 東恩納寛惇賞 贈呈式」祝賀会写真右から嵩元政秀氏(第32回東恩納寛惇賞)、新城栄徳、①照屋善彦氏(第24回東恩納寛惇賞)
①照屋善彦[資料収集の鬼:ブール師]
ブール師(the Rev. Earl Rankin Bull,1876~1974)は, 米国のメソジスト監督教会から,1911年, 九州・沖縄地区へ派遣され延べ15年間日本で伝道をした宣教師である。 師は沖縄での本務であるキリスト教の布教のほかに, 中学校での英語を教え, また幕末に来琉した英宣教医ベッテルハイムの記念碑を建立 (大正15年)したりして,大正時代の沖縄で顕著な活動をした。 また師は戦後, 琉球大学附属図書館に「ブール文庫」を寄贈した人としても知られている。 当文庫が設置された1958年頃の琉球大学附属図書館には 蔵書数が著しく少なく, 大学の使命である教育と研究にも支障をきたす状態であった。 特に,洋書の蔵書に至っては寥々たるものであったので, ブール文庫が琉球大学に寄贈された意義は大きい。 筆者や同僚で沖縄の対外関係史を研究していた者にとって, 当文庫はまさに干天に慈雨の如く有り難い贈り物であった。
ブール師は,沖縄への派遣が決定した1911年以後, 終生異常なほどの情熱と執念をもって, 「沖縄」と沖縄における プロテスタント宣教の開拓者ベッテルハイム研究に打ち込んだ。 19世紀中葉,ベッテルハイムが派遣(1846 ~54)された沖縄こそ, 日本キリスト教史における最初のプロテスタント伝道が 開始された場所であったからであろう。 アヘン戦争(1840 ~42) 後のアジアにおける国際情勢の大変化をうけて, カトリック・プロテスタントの中国をはじめ東アジアでの伝道活動が活発になった。 幕末の激動する琉球で, ベッテルハイムが フランスのカトリック宣教師と伝道活動を展開した史的意義は大きい。
師は,ベッテルハイムの研究に着手するや, 精力的に関係資料の大部分を収集し, その研究の成果を英文や邦文で次々と雑誌や新聞紙上で発表した。 特にベッテルハイムの日記・書簡や,彼を派遣した琉球海軍伝道会 (Loo Choo Naval Mission,本部はロンドン在)の報告書等の マイクロフィルム・コピーを師が自費で取り寄せたことは, ベッテルハイム研究史上での最大の功績である。 永い歴史があり公共機関でもない宗教団体から外国人や部外者が, 個人の研究に必要な関係資料を入手することが 如何に至難の技であるかということを, 筆者自身イギリスやフランスで身をもって体験したからである。 恐らくブール師は,欲しい資料に対する鋭い臭覚と 持ち前の粘り強さを発揮して入手したに違いない。 このような彼の精力的な資料収集活動については, 伊佐眞一氏の好著『アール・ブール - 人と時代』 (1991年)で詳しく述べられている。
ベッテルハイム研究は,琉球が置かれた当時の複雑な国際情勢の下で, 基本資料も多彩である。 (1)ベッテルハイムの日記・書簡と琉球海軍伝道会の報告書等, (2)ベッテルハイムが滞在中に接触した欧米人関係の関連資料。 例えばイギリス政府関係(本国・香港政庁・英国東洋艦隊等), 米国のペリー提督の合衆国艦隊,フランスの宣教師や同国艦隊, 欧米の民間船,ロシアのプチャーチン提督の関係資料等である。 さらに, (3)伝道地である琉球の王府(評定所文書等)と薩摩藩や幕府の関連資料, (4)琉球王国の宗主国である清国に関連した資料などがある。 これらの多岐にわたる膨大な資料群の中で, ブール師は(1)と(2)の関係資料の大半を収集している。 その他に琉球海軍伝道会の創立者のクリフォードは, 1816年に沖縄島を訪れたバジル・ホール一行に随行したので, バジル・ホールやマクラウドの航海記も参考にする必要がある。 その他ホールの前後に多数沖縄に来航した英国船関係の資料や, 当時の琉球を中心にした東アジア関係の欧文資料も研究に必要だが, ブール師はこれらの関係資料を戦前・戦後とも精力的に収集している。 年々充実していく本附属図書館で, ブール文庫は依然として貴重な資料の宝庫である.
(琉球大学人文学科教授)
2021-11-24 『琉球新報』伊佐眞一「主体性を問うー首里城復興基金と大龍柱」
2012年4月11日スマトラ島沖地震は、現地時間15時38分(UTC午前8時38分)にインドネシア西部、スマトラ島北西沖のインド洋で発生。
PAC3配備のニュースを見ていると、正に日本軍=自衛隊の戦争突入・戦争挑発の観がして、激しい怒りと、屈辱感を覚えています。これが、日本復帰40年の象徴だと思います。沖縄の全住民が総決起して抗議したいものです。
◆4月11日(水) 午後6時から 那覇市・県民広場
2012年4月11日5時半に傘をさして家を出る。途中元県会議員の宮里氏に出会い会場まで同行する。県民広場は屋根があって雨天に丁度良い。会場には真栄里、詩人の高良、小説家の目取真、琉大の新城、彫刻家の金城、県会議員の前田、元国会議員の古堅、与那原町会議員らの諸氏が居た。政党は当然とは云え日本共産党、社大党、社民党だけであった。最近タイムスも新報も通信社垂れ流しの北朝鮮情報が多い。またタイムス、新報連載の「新日本の幸福」という通信社のヨタ記事は、明らかにガレキ受入反対を訴える母親の切実な感情が如何にも悪いというイメージを定着させようと企んでいる。2チャンネルの方ががマトモに見えてくる。□横道に逸れたが翌日の集会デモの記事は新報は4行で済まし、タイムスは写真付きで目立っていた。これで記者の感覚が分かる。
北朝鮮のミサイル騒ぎでまた例のごとくPAC3の出番である。尖閣もそうであるがアメリカの軍事基地が中国や北朝鮮に対して何ら抑止(ゆくし)力にもなっていない証左である。選挙前。原発が古くなっても特別に延長、国営放送が一応反対の意見も紹介はするが、しっかり原発賛成の小母ちゃんも登場させ「原発で仕事を得ている人も大事」と言わす。東電側も悪びれもせず前の民主党の指示で動いたんだという。とかく世論調査もアベに有利な状況を醸し出す。あまりにも幼児でもわかる国営、読売、産経のヤラセの横行。そのPAC3だが時事ドットコムニュースによれば、運用しているのは防空を担当する航空自衛隊で、08、09年に米国の試験場で模擬ミサイルの迎撃訓練を行なっている。なお、PAC3のミサイル本体の価格は、導入当初1基当たり約8億円、とある。
会場の入り口ではアベ政治が潰したい『沖縄タイムス』『琉球新報』の特集が配布されていた。
中央が赤嶺政賢1947年12月18日(68歳)沖縄県那覇市の農家に生まれる。那覇市立高良小学校、那覇市立小禄中学校、沖縄県立那覇高等学校、東京教育大学(現筑波大学)文学部卒業。東京教育大学在学中の1967年、日本共産党に入党。1971年、東京教育大学を卒業。沖縄県石垣市の沖縄県立八重山高等学校、沖縄県立八重山商工高等学校で教師を務める。1985年、那覇市議会議員選挙に出馬し、初当選。那覇市議会議員を3期務めた後、2000年の第42回衆議院議員総選挙に日本共産党公認で沖縄1区から出馬。沖縄1区では公明党前職の白保台一に敗れたが、重複立候補していた比例九州ブロックで復活。ウィキペディア 公式サイト「日本共産党衆議院議員 赤嶺政賢のホームページ」
糸数慶子参議院議員、沖縄社会大衆党委員長。○1947年沖縄県中頭郡読谷村生まれ。米軍統治下で育ち、米軍基地・読谷補助飛行場で実施されたパラシュート演習で投下されたトレーラーに小学生の少女が圧殺された事件(1965年6月11日)をきっかけにはじまった米軍抗議集会に初参加。1966年に読谷高等学校卒業後、琉球放送の番組「土曜ワイド」アシスタントや、沖縄バス・東陽バス等のバスガイドに勤務。沖縄県の歴史や現状を県外、国外の人に伝えるバスガイド経験は20年におよぶ。1989年に沖縄大学短期大学部非常勤講師、1990年にYMCAホテル専門学校非常勤講師を経て、1992年には沖縄社会大衆党の要請と、「私が家事・育児、みんなやるから出なさい」と言う夫・隆(当時沖縄タイムス記者)の言葉で、沖縄県議会選挙(那覇選挙区)に出馬、得票数第2位で初当選した。以後3期連続当選。 ウィキペディア
玉城 デニー(1959年10月13日/ 56歳)
は、日本の政治家、元タレント。生活の党と山本太郎となかまたち所属の衆議院議員、生活の党と山本太郎となかまたち幹事長兼国会対策委員長。元沖縄市議会議員。本名は玉城 康裕。□静かで荘厳な雰囲気の中で悲しみと抗議を示す歴史に残る県民大会となった。日米両政府は目に見える形で解決策を実行しなければならない。(20日『沖縄タイムス』)
本日(20日)の『沖縄タイムス』『琉球新報』は当然ながら沖縄県民大会記事で溢れかえっていた。
菅義偉官房長官(秋田県出身/1973年法政大学法学部卒業)は20日午前の記者会見で、元米兵による女性殺害容疑事件に抗議した沖縄県民大会に自民、公明両党が参加しなかったことに関連し、「よく県全体(の大会)という話がされるが、それはまったくあたらない。沖縄にある11市のうち9人の市長が出席していない。自民、公明、さらに維新も出席しなかった。(だから辺野古が唯一)」とコピペ発言。まぁ、云うだけヤボと思うけど少しは気の利いたこと喋れねーのか。
PAC3配備のニュースを見ていると、正に日本軍=自衛隊の戦争突入・戦争挑発の観がして、激しい怒りと、屈辱感を覚えています。これが、日本復帰40年の象徴だと思います。沖縄の全住民が総決起して抗議したいものです。
◆4月11日(水) 午後6時から 那覇市・県民広場
2012年4月11日5時半に傘をさして家を出る。途中元県会議員の宮里氏に出会い会場まで同行する。県民広場は屋根があって雨天に丁度良い。会場には真栄里、詩人の高良、小説家の目取真、琉大の新城、彫刻家の金城、県会議員の前田、元国会議員の古堅、与那原町会議員らの諸氏が居た。政党は当然とは云え日本共産党、社大党、社民党だけであった。最近タイムスも新報も通信社垂れ流しの北朝鮮情報が多い。またタイムス、新報連載の「新日本の幸福」という通信社のヨタ記事は、明らかにガレキ受入反対を訴える母親の切実な感情が如何にも悪いというイメージを定着させようと企んでいる。2チャンネルの方ががマトモに見えてくる。□横道に逸れたが翌日の集会デモの記事は新報は4行で済まし、タイムスは写真付きで目立っていた。これで記者の感覚が分かる。
北朝鮮のミサイル騒ぎでまた例のごとくPAC3の出番である。尖閣もそうであるがアメリカの軍事基地が中国や北朝鮮に対して何ら抑止(ゆくし)力にもなっていない証左である。選挙前。原発が古くなっても特別に延長、国営放送が一応反対の意見も紹介はするが、しっかり原発賛成の小母ちゃんも登場させ「原発で仕事を得ている人も大事」と言わす。東電側も悪びれもせず前の民主党の指示で動いたんだという。とかく世論調査もアベに有利な状況を醸し出す。あまりにも幼児でもわかる国営、読売、産経のヤラセの横行。そのPAC3だが時事ドットコムニュースによれば、運用しているのは防空を担当する航空自衛隊で、08、09年に米国の試験場で模擬ミサイルの迎撃訓練を行なっている。なお、PAC3のミサイル本体の価格は、導入当初1基当たり約8億円、とある。
会場の入り口ではアベ政治が潰したい『沖縄タイムス』『琉球新報』の特集が配布されていた。
中央が赤嶺政賢1947年12月18日(68歳)沖縄県那覇市の農家に生まれる。那覇市立高良小学校、那覇市立小禄中学校、沖縄県立那覇高等学校、東京教育大学(現筑波大学)文学部卒業。東京教育大学在学中の1967年、日本共産党に入党。1971年、東京教育大学を卒業。沖縄県石垣市の沖縄県立八重山高等学校、沖縄県立八重山商工高等学校で教師を務める。1985年、那覇市議会議員選挙に出馬し、初当選。那覇市議会議員を3期務めた後、2000年の第42回衆議院議員総選挙に日本共産党公認で沖縄1区から出馬。沖縄1区では公明党前職の白保台一に敗れたが、重複立候補していた比例九州ブロックで復活。ウィキペディア 公式サイト「日本共産党衆議院議員 赤嶺政賢のホームページ」
糸数慶子参議院議員、沖縄社会大衆党委員長。○1947年沖縄県中頭郡読谷村生まれ。米軍統治下で育ち、米軍基地・読谷補助飛行場で実施されたパラシュート演習で投下されたトレーラーに小学生の少女が圧殺された事件(1965年6月11日)をきっかけにはじまった米軍抗議集会に初参加。1966年に読谷高等学校卒業後、琉球放送の番組「土曜ワイド」アシスタントや、沖縄バス・東陽バス等のバスガイドに勤務。沖縄県の歴史や現状を県外、国外の人に伝えるバスガイド経験は20年におよぶ。1989年に沖縄大学短期大学部非常勤講師、1990年にYMCAホテル専門学校非常勤講師を経て、1992年には沖縄社会大衆党の要請と、「私が家事・育児、みんなやるから出なさい」と言う夫・隆(当時沖縄タイムス記者)の言葉で、沖縄県議会選挙(那覇選挙区)に出馬、得票数第2位で初当選した。以後3期連続当選。 ウィキペディア
玉城 デニー(1959年10月13日/ 56歳)
は、日本の政治家、元タレント。生活の党と山本太郎となかまたち所属の衆議院議員、生活の党と山本太郎となかまたち幹事長兼国会対策委員長。元沖縄市議会議員。本名は玉城 康裕。□静かで荘厳な雰囲気の中で悲しみと抗議を示す歴史に残る県民大会となった。日米両政府は目に見える形で解決策を実行しなければならない。(20日『沖縄タイムス』)
本日(20日)の『沖縄タイムス』『琉球新報』は当然ながら沖縄県民大会記事で溢れかえっていた。
菅義偉官房長官(秋田県出身/1973年法政大学法学部卒業)は20日午前の記者会見で、元米兵による女性殺害容疑事件に抗議した沖縄県民大会に自民、公明両党が参加しなかったことに関連し、「よく県全体(の大会)という話がされるが、それはまったくあたらない。沖縄にある11市のうち9人の市長が出席していない。自民、公明、さらに維新も出席しなかった。(だから辺野古が唯一)」とコピペ発言。まぁ、云うだけヤボと思うけど少しは気の利いたこと喋れねーのか。
本日(6月19日)朝のYahoo!ニュースで3番目に「沖縄 きょう大規模な県民大会 」「県民大会の政治利用に懸念の声も」とあるが、後の方はアベに応えての記事だろうが、ソ連や共産中国はとっくに消滅し独裁体制の北朝鮮を根拠に相変わらず一昔前の「反共宣伝」。この大会も今までのようにガス抜きで終わることなしに次の選挙でアベ勢力をガス抜きにしないといけない。基地オキナワの実質上アメリカ統治のためのアベ政治を変えて行くのは革命でなく選挙だということは小学生でも分かる。断っておきたいが翁長知事(1975年法政大学法学部法律学科卒業)は安保容認。矛盾を抱えて「在沖米海兵隊の撤退」(この文句があるからアベ勢力は不参加)の大会に参加しているのだ。今のように露骨に新基地を押し付けるアベ手法はオキナワの「海兵隊の撤退」から「嘉手納基地撤去」に替わるのは目に見えている。
県民大会の途次、県議会前で昼食時間で聞く人が極端に少なく何やら選挙演説をしていた公明党、たしか参院選比例区に沖縄は自民党公認は歌手の今井エリカ(32)のはずだが。
モノレール旭橋駅周辺地区再開発事業の那覇バスターミナル部分。奥の左に那覇のヘソとも云うべき仲島の大石(沖縄県指定史跡・天然記念物)が見える。
『沖縄タイムス』「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾!被害者を追悼し海兵隊の撤退を求める県民大会」(主催・オール沖縄会議)が19日午後2時から、那覇市の奥武山公園陸上競技場をメーン会場に開かれ、主催者発表で6万5千人が参加した。米軍関係の事件や事故を根絶するため在沖米海兵隊の撤退などを求める決議を採択。会場は被害者への鎮魂の思いと静かな怒りに包まれ、二度と事件を繰り返させない決意を日米両政府に突き付けた。
会場の入り口では様々な団体がチラシを配布、『聖教新聞』(公明党)のライバル『顕正新聞』(日蓮正宗から破門、独立した新宗教団体冨士大石寺顕正会が発行する言論機関紙で顕正新聞社の名前で発行されるWiki)、『長周新聞』(地元選出の内閣総理大臣・安倍晋三に対しては市政批判の材料として用いたりする事例もある一方で、安倍個人への批判はさほど大きくないWiki)、『解放』(解放社(かいほうしゃ)は日本の出版社。新左翼組織・「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」(革マル派)の公然拠点になっており、公安警察による監視対象の一つになっているWiki)など。
上左が中根氏、右はその友人で京都から参加、アベ政治が最も嫌う日本共産党シンパの方々(左から本庄孝夫氏、原田完氏、池田哲也氏)
大阪からも参加
詩人・芝憲子さん
啄木研究家・宮城義弘氏
左が詩人の高良勉氏□2016年6月ー高良勉『山之口貘詩集』岩波文庫/中央が画家の新垣安雄氏□2016年7月2日~10日 南風原文化センター(☎098-889-7399)「「第2回・遊子の風展ー千葉柏・沖縄交流展」/右端が写真家の大城弘明氏□2016年6月~8月29日ー不屈館(☎098-943-8374)「大城弘明写真展ー地図にない村」
どこの国か聞きそびれたが外人も取材で参加(そのうちの一人はDennis J.Frost,Ph.D.)
○琉大への留学経験もあるデニス・フロスト教授(39/ミシガン州カラマズー大学)は「温厚で優しい沖縄県民の湧き上がる怒りを見た」と述べ、日本本土による断続的な沖縄差別の撤廃と、日米地位協定の抜本的見直しが急務であると指摘。(『琉球新報』20日)
写真・呉屋守将金秀グループ会長ー在日米国大使館が、米軍属女性暴行殺人事件を受けて19日に那覇市で開催される県民大会について「平和的であるように意図したデモであっても、対立的になり、暴力に発展する可能性がある」と表現し、米国人に対し会場周辺に近づかないよう呼び掛けている。同大使館が17日に、在日米国人向けにウェブサイトで発表した。この広報文は17日から大使館ウェブサイトに英文で掲載されている。大会を主催するオール沖縄会議共同代表の呉屋守将金秀グループ会長は「事件の被害者を追悼するという趣旨で開催する県民大会は、暴力的な行動とは真逆だ。米側は事態の重さを理解していない。現場を見に来てほしい」と話す。
会場の外でも大型テレビで放映され黙とう。
今晩(19日)のニュースでは、アベチャンネル(国営放送の全国ニュースの別名)は全国ニュースでは報じてなく、九州・沖縄のニュースでサラッと報じていた。読売と産経は相変わらずアベ新聞で「政治色のない追悼の場を求めていた自民、公明両党などは参加を見送り、超党派での開催にはならなかった」などと嫌味を並べる。アベチャンネルが少し前に報じた世論調査と似た数字がアベに追従・読売新聞社にも出ていた。読売は17~19日全国世論調査を実施。それによると、参院比例選での投票先は、自民党が35%、民進党は12%、公明党、おおさか維新の会は各7%、共産党の4%などが続いた、と。相変わらず共産党の支持は公明党より少ないと嘯く。20日の産経新聞は県民大会の報道で例のごとく嫌味を加えて報じていた「辺野古では米軍基地前の歩道を基地反対派のテントが占拠。関係ない「原発反対」の旗を掲げたり、「お前らのためにやっている」と押しつけがましく言われたりすることもある。「地域住民の多くが反対派は自分たちの都合しか考えないイメージを持っている。今回も選挙前だから(県民大会を)開いたのではと勘ぐってしまう」だと。今晩(20日)のアベチャンネル(国営放送の全国ニュースの別名)は全国ニュースでまた全国世論調査で前と似たり寄ったりのアベ追従の数字を垂れ流していた。
県民大会の途次、県議会前で昼食時間で聞く人が極端に少なく何やら選挙演説をしていた公明党、たしか参院選比例区に沖縄は自民党公認は歌手の今井エリカ(32)のはずだが。
モノレール旭橋駅周辺地区再開発事業の那覇バスターミナル部分。奥の左に那覇のヘソとも云うべき仲島の大石(沖縄県指定史跡・天然記念物)が見える。
『沖縄タイムス』「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾!被害者を追悼し海兵隊の撤退を求める県民大会」(主催・オール沖縄会議)が19日午後2時から、那覇市の奥武山公園陸上競技場をメーン会場に開かれ、主催者発表で6万5千人が参加した。米軍関係の事件や事故を根絶するため在沖米海兵隊の撤退などを求める決議を採択。会場は被害者への鎮魂の思いと静かな怒りに包まれ、二度と事件を繰り返させない決意を日米両政府に突き付けた。
会場の入り口では様々な団体がチラシを配布、『聖教新聞』(公明党)のライバル『顕正新聞』(日蓮正宗から破門、独立した新宗教団体冨士大石寺顕正会が発行する言論機関紙で顕正新聞社の名前で発行されるWiki)、『長周新聞』(地元選出の内閣総理大臣・安倍晋三に対しては市政批判の材料として用いたりする事例もある一方で、安倍個人への批判はさほど大きくないWiki)、『解放』(解放社(かいほうしゃ)は日本の出版社。新左翼組織・「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」(革マル派)の公然拠点になっており、公安警察による監視対象の一つになっているWiki)など。
上左が中根氏、右はその友人で京都から参加、アベ政治が最も嫌う日本共産党シンパの方々(左から本庄孝夫氏、原田完氏、池田哲也氏)
大阪からも参加
詩人・芝憲子さん
啄木研究家・宮城義弘氏
左が詩人の高良勉氏□2016年6月ー高良勉『山之口貘詩集』岩波文庫/中央が画家の新垣安雄氏□2016年7月2日~10日 南風原文化センター(☎098-889-7399)「「第2回・遊子の風展ー千葉柏・沖縄交流展」/右端が写真家の大城弘明氏□2016年6月~8月29日ー不屈館(☎098-943-8374)「大城弘明写真展ー地図にない村」
どこの国か聞きそびれたが外人も取材で参加(そのうちの一人はDennis J.Frost,Ph.D.)
○琉大への留学経験もあるデニス・フロスト教授(39/ミシガン州カラマズー大学)は「温厚で優しい沖縄県民の湧き上がる怒りを見た」と述べ、日本本土による断続的な沖縄差別の撤廃と、日米地位協定の抜本的見直しが急務であると指摘。(『琉球新報』20日)
写真・呉屋守将金秀グループ会長ー在日米国大使館が、米軍属女性暴行殺人事件を受けて19日に那覇市で開催される県民大会について「平和的であるように意図したデモであっても、対立的になり、暴力に発展する可能性がある」と表現し、米国人に対し会場周辺に近づかないよう呼び掛けている。同大使館が17日に、在日米国人向けにウェブサイトで発表した。この広報文は17日から大使館ウェブサイトに英文で掲載されている。大会を主催するオール沖縄会議共同代表の呉屋守将金秀グループ会長は「事件の被害者を追悼するという趣旨で開催する県民大会は、暴力的な行動とは真逆だ。米側は事態の重さを理解していない。現場を見に来てほしい」と話す。
会場の外でも大型テレビで放映され黙とう。
今晩(19日)のニュースでは、アベチャンネル(国営放送の全国ニュースの別名)は全国ニュースでは報じてなく、九州・沖縄のニュースでサラッと報じていた。読売と産経は相変わらずアベ新聞で「政治色のない追悼の場を求めていた自民、公明両党などは参加を見送り、超党派での開催にはならなかった」などと嫌味を並べる。アベチャンネルが少し前に報じた世論調査と似た数字がアベに追従・読売新聞社にも出ていた。読売は17~19日全国世論調査を実施。それによると、参院比例選での投票先は、自民党が35%、民進党は12%、公明党、おおさか維新の会は各7%、共産党の4%などが続いた、と。相変わらず共産党の支持は公明党より少ないと嘯く。20日の産経新聞は県民大会の報道で例のごとく嫌味を加えて報じていた「辺野古では米軍基地前の歩道を基地反対派のテントが占拠。関係ない「原発反対」の旗を掲げたり、「お前らのためにやっている」と押しつけがましく言われたりすることもある。「地域住民の多くが反対派は自分たちの都合しか考えないイメージを持っている。今回も選挙前だから(県民大会を)開いたのではと勘ぐってしまう」だと。今晩(20日)のアベチャンネル(国営放送の全国ニュースの別名)は全国ニュースでまた全国世論調査で前と似たり寄ったりのアベ追従の数字を垂れ流していた。
06/17: 「『幣原家』の足跡を訪ねて」
粟国島の実家隣りの與那太郎さんの遺族を門真市に訪ねた。子息も故人になったようである。門真市立歴史資料館を見学すると、常設展に「『幣原家』の足跡を訪ねて」があった。幣原喜重郎は第44代内閣総理大臣で「日本国憲法改正草案要綱」を発表し現代日本の礎を築いた。兄の坦は1899年に『南島沿革史論』という沖縄通史を発表。28年、台北帝国大学総長。晩年は門真で過ごした。東恩納寛惇とも親交があった。駅近くに松下電器歴史館も見学。先日、東成区大成を歩いていたら「松下幸之助起業の地」の表示があったので見学した。福島区大開には松下電器創業の家跡がある。守口市にはSANYO MUSEUMがある。
幣原坦(1870年9月18日~1953年6月29日)
明治・昭和期の文部官僚。教育者。東大卒。東京教育大教授、文部省視学官、広島高師校長、文部省図書局長歴任。台北帝大総長・名誉教授。敗戦後枢密顧問官。幣原喜重郎は弟。昭和28年(1953)歿、84才。 →コトバンク
古在由重は農芸化学者・古在由直と、作家・清水紫琴の次男として東京府(現・東京都)に生まれる。兄・由正は東洋史学者・幣原坦の次女・澄江と結婚している。農芸化学者・古在豊樹は由重の息子であり、天文学者・古在由秀は由重の甥(由正・澄江夫妻の長男)にあたる。東京帝国大学卒。1932年、戸坂潤らと唯物論研究会を設立し、1933年および1938年の二度、治安維持法違反で検挙される。出獄後は上智大学でカトリック文献の翻訳や、四王天延孝の回教協会に勤務して、戦時下を過ごした。
1984年、原水爆禁止運動において原水協と日本共産党の意に反する行動を取った吉田嘉清が除名された事件があった。古在由重は吉田を擁護し、翻意を促す党の使者との面会を拒否したため、反党行動を正当化して居直ったとして、党から除籍された。そのため、死去時に日本共産党中央機関紙『赤旗』には古在の死亡記事が掲載されず、また党員に古在の葬儀への参列を禁じた。(→ウィキ)
1972年12月第21刷 古在由重『哲学史』青木書店/1968年7月 『現代の眼』<特集・沖縄ー奪還の思想的拠点> 古在由重「”働くもの〟から”見るもの〟へ?」
19世紀フランスの巨匠画家ドラクロワの作「民衆を導く自由の女神」
2017年10月[ワシントン 2日 ロイター] - 米ラスベガスで1日に起きた銃乱射事件では死者が少なくとも59人に上り、米国史上最悪となったが、政治家の反応はこれまでの銃撃事件と変わっていない。民主党が銃規制の強化を訴える一方、共和党に規制強化を支持する動きは見られない。
2005年5月 勝谷誠彦・藤波俊彦『世界がもし全部アメリカになったら』アスコム
○地球上には約17万発の核弾頭、これなら70回この世は破滅できる/アメリカのように世界で殺人が起きたなら1日949人が殺される/もし世界がアメリカのように犯罪王国になったら1年に2億5276万件の犯罪/もし世界すべてがアメリカのような銃社会になったら46億丁の銃が出回る/もし世界すべてがアメリカのように電気をじゃんじゃん使ったら全世界の電力消費量は現在の5.6倍になる/世界がアメリカになると石油は7年で掘り尽くす/もし世界すべてがアメリカのように二酸化炭素をどんどん出したなら、東京の江東区、江戸川区、墨田区、葛飾区は海面下に。上海は3分の1が水没/アメリカは弁護士さんの国。日本は6326人に1人、アメリカは267人に1人いる。だから世界の訴訟費用は557兆7455億円になる。それに携わる弁護士も2356万人/世界中の人々がアメリカのように乗用車を持ったなら29億2863万台もの乗用車が出現する/世界がアメリカになったらジョージ・w・ブッシュが地球上に191人
2010年9月『図解!在日米軍基地完全ガイド』洋泉社
2010年10月 ドルー・ギルピン・ファウスト著/黒沢眞里子 訳『戦死とアメリカー南北戦争62万人の死の意味』彩流社
□本書によると戦死者62万という。南北戦争の約40年後に起き、プレ世界大戦とまで呼ばれた日露戦争の戦死者は、両軍合わせて約10万。二つの大戦での米軍の戦死者の累計は約50万。南北戦争に及ばない。南北戦争は国家間戦争ではない。内戦だ。ゆえに世界史での扱いも軽くなりがち。だが死者数では20世紀の戦争を先取りした。
2010年12月 クリス・マクナブ著/増井志津代 監訳/角敦子 訳『アメリカ先住民戦いの歴史』原書房
□ヨーロッパ人の新大陸開拓から19世紀末までの入植者とアメリカ先住民の戦闘を、さまざまな視点から多角的にとらえ、詳細に分析し解説する。布陣図や地図など、200点を超える写真と図版を収める。
2011年6月 明石紀雄/飯野正子『エスニック・アメリカ第3版』有斐閣
渡口彦邦(渡口萬年筆店)さんの見た「世界のウチナーンチュ大会」
2011年10月12日「前夜祭パレード」
2012年7月20日、米コロラド州オーロラ(Aurora)の映画館で、映画「バットマン(Batman)」シリーズ最新作(当時)の上映中に男が銃を乱射。12人が死亡、70人以上が負傷した。服役中のジェームズ・ホームズ(James Holmes)受刑者には、仮釈放なしの終身刑が言い渡された。。【翻訳編集】 AFPBB News
2012年12月14日、米コネティカット(Connecticut)州ニュータウン(Newtown)のサンディフック小学校(Sandy Hook Elementary School)で、若い男が銃を乱射。児童20人を含む26人が死亡。容疑者は自殺。同容疑者は事件直前に自身の母親を銃で殺害している。【翻訳編集】 AFPBB News
2013年5月3日 ポール氏夫妻
ヨーロッパからの移民は1855年に建てられたキャッスル・クリントンを通った後自由の女神②(1886年フランスより贈呈)に見守られ1892年に始まったエリス島の入国審査を通る形となった。②アメリカ合衆国,ニューヨークのマンハッタンの沖合い,ニューヨーク湾に浮かぶリバティ島に立つ巨大な女神像。アメリカ合衆国の誕生 100年およびアメリカとフランス両国の変わらぬ友好を記念し,1886年フランスから寄贈された。→コトバンク
自由の女神。ベタな観光も良いものです。私が行った日にはリバティー島に上陸することができなかったので(6月28日)、船上から。以前のハリケーンの影響でまだ工事をしていました。この日から約1週間後の7月4日「独立記念日」から開放されました。遠目だったので、「あぁ、大きいね!」といった感じで終わりました。船から見るマンハッタン島の眺めが面白かったです。。→沖縄女性ー2013.07.11
ニューヨーク市地下鉄は現在MTAが一括管理しているが当時はインターボロー・ラピッド・トランジット、ブルックリン・マンハッタン・トランジットに分割管理されていた。インディペンデント・サブウェイ・システムの始まりにより1904年に統一され、5区に人口が一気に広がることとなる。1903年のウィリアムズバーグ橋、1909年のマンハッタン橋の完成はマンハッタンとの交通をより活性化させブルックリンのベッドタウンが発達した。1923年2月1日には世界最大の鉄道ターミナルとなるグランド・セントラル駅が開業(以前から同じ場所にターミナル自体は存在した)。ペンシルベニア駅は1910年に完成している。
グランドセントラル駅。最近、東京駅と姉妹駅の締結をしたそうです。レトロな駅です。シャンデリアや天井に星座の装飾が施されていて、アーチ状の窓などとても雰囲気のある駅。駅中央の案内所(写真)の時計も良かったです。NYに行く飛行機で知り合ったおじいさんと滞在最終日にここで待ち合わせをして食事に行きました。良い出会いもあるものです。→沖縄女性ー2013.07.11
上下ー1975年9月『自由の女神ー新天地アメリカへのいざない』(ランドマーク世界史15)講談社
じゆうのめがみぞう【自由の女神像】
1984年に登録されたアメリカの世界遺産(文化遺産)で、ニューヨーク港内のリバティー島にある。正式名称は「世界を照らす自由」(Liberty Enlightening the World)。アメリカの独立100周年を祝い、アメリカとフランス両国の友好のために贈呈された女神像は、フランス民衆の募金をもとにして、フランスの彫刻家のフレデリック・オーギュスト・バルトルディ(1834~1904年)が像を設計し、橋梁技師のギュスターヴ・エッフェル(1832~1923年)が構造を設計、1886年に完成した。像は奴隷制と専制政治を意味する鎖を踏みつけて立ち、右手にはトーチ、左手には「1776年7月4日」と記した独立宣言書を抱えている。300枚以上の銅板をつなぎ合わせて造られ、台座の中には「自由の女神博物館」がある。宝冠には7つの突起があり、それは「7つの大陸と7つの海に広がる自由」を象徴している。台座部分を含めた高さが93mの像はアメリカが誇る自由と民主主義のシンボルで、歴史的にはまだ浅いアメリカの重要な文化遺産の一つであることから、世界遺産に登録された。◇英名はStatue of Liberty (コトバンク)
一世一代の旅行。
機会のある人なら、何度でもこのような機会があると思いますが、私には貴重な旅行のひとつとなりました。まさか、自分がNYに行くとは思いませんでしたが、いつもどこかに遠出するときはなんらかの衝動で行きます。今回は、無性に現代美術が見たくなり、NYを選択しました。まだ記憶が鮮明なうちにいろいろとまとめたいと思います。
自由の女神。ベタな観光も良いものです。私が行った日にはリバティー島に上陸することができなかったので(6月28日)、船上から。以前のハリケーンの影響でまだ工事をしていました。この日から約1週間後の7月4日「独立記念日」から開放されました。遠目だったので、「あぁ、大きいね!」といった感じで終わりました。船から見るマンハッタン島の眺めが面白かったです。
文化人類学者・西村眞次
1909年10月21日ー眞次長男・朝日太郎、牛込区新小川町にて生まれる。
1931年4月ー西村眞次『人類性文化史』武侠社
1935年9月 西村眞次『史的素描』章華社
1942年4月ー西村眞次『萬葉集の文化史的研究』東京堂
1942年8月ー西村眞次『大東亜共栄圏』博文館出版
1946年5月ー西村朝日太郎、国立国会図書館創立事務を担当。
1957年11月ー西村朝日太郎、バンコクの第9回太平洋学術会議に出席。帰途タイ沿岸の漁労文化を調査。沖縄八重山の漁労文化も調査。
1966年2月ー西村朝日太郎、早稲田大学より米国セントルイス市のワシントン大学へ客員教授として赴任。
1988年5月ー西村朝日太郎、新城栄徳宛手紙「岸畑久吉氏早大文学部の主事を永らく勤めていた方で小生にとっても懐かしい方です」
1909年10月21日ー眞次長男・朝日太郎、牛込区新小川町にて生まれる。
1931年4月ー西村眞次『人類性文化史』武侠社
1935年9月 西村眞次『史的素描』章華社
1942年4月ー西村眞次『萬葉集の文化史的研究』東京堂
1942年8月ー西村眞次『大東亜共栄圏』博文館出版
1946年5月ー西村朝日太郎、国立国会図書館創立事務を担当。
1957年11月ー西村朝日太郎、バンコクの第9回太平洋学術会議に出席。帰途タイ沿岸の漁労文化を調査。沖縄八重山の漁労文化も調査。
1966年2月ー西村朝日太郎、早稲田大学より米国セントルイス市のワシントン大学へ客員教授として赴任。
1988年5月ー西村朝日太郎、新城栄徳宛手紙「岸畑久吉氏早大文学部の主事を永らく勤めていた方で小生にとっても懐かしい方です」
06/09: 鳥越憲三郎
1942年6月19日 博物館嘱託鳥越憲三郎、昭和会館来館
鳥越憲三郎資料
1955年1月10日ー『沖縄タイムス』鳥越憲三郎「志喜屋の復活神事ー牛を殺す濱御願」
鳥越憲三郎資料
1955年1月10日ー『沖縄タイムス』鳥越憲三郎「志喜屋の復活神事ー牛を殺す濱御願」
2014年10月19日(日)<旗頭行列・那覇大綱挽 >国際通り、国道58号久茂地交差点
2015年4月17日『沖縄タイムス』「ジョン・ダワーさんー転換期を語る⑥『愛国』とは戦争責任を認めること」
2015年10月11日 那覇大綱挽
2015年12月3日『朝日新聞』カリフォルニア州サンバーナディノの福祉施設で2日午前11時ごろ(日本時間3日午前4時ごろ)、銃乱射事件が発生した。地元警察によると、容疑者は最大で3人おり、死者が14人確認されたほか、負傷者も14人以上出ているという。容疑者が逃走した可能性があるが、身元や動機につながる情報はなく、テロ事件かどうかは分からないという。事件が起きたのは発達障害がある人たちのケアなどをするNPOの施設の中という。CNNなどによると、施設は他の団体にも貸し出しており、事件が発生した時には何らかの行事が開かれていたらしい。警察によると、容疑者たちはライフルのような銃を使用し、防護服などを着ていたという。容疑者たちが事件後にRVで逃走した可能性もあり、警察は広範囲で警戒を強めながら捜査をしている。サンバーナディノはロサンゼルスから東に約100キロにある、人口が約20万人の都市。
写真左からダニエル・パック・スティーブンス氏(インディアナ州ホウバート在住)、夫人。新城栄徳
2016年1月13日 農連市場近くの喫茶店
2016年1月 高江洲 歳満 『誤国: “辺野古”に至る琉球・沖縄の事件史』 東海教育研究所
2016年1月6日『朝日新聞』オバマ米大統領は5日、ホワイトハウスで演説し、大統領令による新たな銃規制強化策を正式に発表した。演説では銃乱射事件で犠牲になった子どもたちに触れ、涙を流しながら「みんなで立ち上がり、国民を守らなければならない」などと訴えた。
2016年2月21日『朝日新聞』米ミシガン州カラマズー周辺で20日夜(日本時間21日午前)、複数の無差別発砲事件が起き、AP通信によると少なくとも6人が死亡、複数がけがを負った。警察は21日未明に容疑者とみられる男を逮捕し、捜査を進めている。地元テレビ局によると、発砲事件の現場は少なくとも3カ所ある。最初の事件が発生したのは午後6時ごろで、市内のアパートの駐車場で女性が複数回撃たれて重傷を負った。その後、近くの車の販売店で2人が死亡し1人がけがを負い、さらに約3キロ離れたレストランの駐車場で4人が死亡した。被害者の中には子供も含まれているという。警察は当初、死者を7人と発表した。被害者の間につながりはなく、警察はいずれの事件も同じ容疑者が無差別に起こしたとみて捜査。車で逃げた白人の男の行方を追っていたところ、市中心部で近くに住むジェイソン・ダルトン容疑者(45)を逮捕したという。カラマズーはミシガン州の南西部にある、人口約7万5千人の都市。
2016年6月13日『朝日新聞』米フロリダ州オーランドのナイトクラブで男が銃を乱射して50人が死亡した事件で、オバマ米大統領は12日午後、ホワイトハウスで記者会見し、「テロ行為であり、ヘイト行為である」と非難した。オバマ氏は「米国史上最悪の銃撃事件だ」とし、事件を「ひどい虐殺」とも表現した。6日『読売新聞』オーランドはマイアミなどと並ぶフロリダの主要都市の一つで、ディズニー・ワールドなどのテーマパークも多く、訪れる日本人観光客が多い。銃撃が起きたナイトクラブは、地元では同性愛者らが集うダンスクラブとして知られており、発生は日曜の未明だったことから、ほぼ満員の状態だったという。
アメリカの上院議会は6月20日、銃の購入時に身辺調査などを義務付ける与野党提出の銃規制強化案を提出したが、採決に進むための動議は否決された。フロリダ州オーランドで12日に発生した、近代アメリカ史上最も悲惨な銃乱射事件を受けて銃規制への動きが高まる中、それでもアメリカ上院は行動に至らなかった。(ハフィントンポスト-2016/06/22)暴言王ではなおさら銃規制は銃緩和になるだろう。
日米両政府は1日、在沖縄米海兵隊グアム移転協定に基づき、海兵隊がグアム島フィネガヤン地区に建設する単身下士官用隊舎の建設費として、日本が1億1316万ドル(約115億円)を拠出することで合意し、交換公文に署名した。2009年に締結したグアム移転協定は沖縄の負担軽減のため、日本が移転費用を最大28億ドル負担すると定めている。今回決まったのはその一部で、これまでに拠出した分を合わせた総額は12億7500万ドル。時事通信2016/08/01
沖縄県の翁長雄志知事が、米軍普天間飛行場(宜野湾市)所属機の訓練移転先としておおさか維新の会が提案している鹿児島県西之表市の馬毛まげ島を視察したことに対し、西之表市議会は2日、視察に抗議し、移転を断固拒否するとの決議案を全会一致で可決した。決議は「沖縄県に米軍専用施設が集中していることは深く思慮すべき」としながらも、馬毛島への訓練移転について「種子島、屋久島、鹿児島県本土などの周辺自治体への悪影響(不安)は必至。断固拒否する」としている。(読売8月2日)沖縄は現在、日米も辺野古以外無いと云って日本国が総掛りで強引に新基地工事を強行している。加えて本土移転となると、「移転を断固拒否するとの決議案」が次々連発されて、反基地運動やアンポ闘争が勃発しアベ内閣が倒れる恐れがある。隣県でありながら沖縄が日米に新基地が強行されている現実(沖縄の怒り)を無視し、そういうワザとらしいパーフォマンスより地道に住民生活に影響のある目の前にある原発や自衛隊鹿児島地方協力本部種子島駐在員事務所 陸上自衛隊佐多射撃場・鹿児島県肝属郡南大隅町佐多辺塚 の心配でもしたらいかがか。
公約で不信任案可決を踏まえた「都議会冒頭解散」を打ち上げ、選挙戦では「東京大改革」「たった一人の戦い」を強調していたが例の国営放送は早々と当選確実を打った。こういう事態を想定し、石原慎太郎は26日、自民党本部で開かれた元総務相の増田寛也(64)の総決起集会で、「大年増の厚化粧。あの人はウソつきだ」などと小池氏をこき下ろした。またアベ晋三首相(61)は結局、自公都連推薦の増田寛也元岩手県知事の応援に来なかった。民進党の岡田克也代表も責任を取って30日、党本部で会見し、党代表選(9月2日告示、15日投開票)に立候補はしないと言明している。小池劇場から都民が覚めた時には・・・。(ヽ゚ロ゚)(ヽ゚ロ゚)(ヽ゚ロ゚)
しんぶん赤旗 2016年7月30日
東京都知事選(31日投票)で“初の女性都知事に”と売り込む小池百合子氏ですが、自身の公式サイトで、家庭教育支援議員連盟(通称=「親学」推進議連)の勉強会に参加していたこと(現在は削除)を明らかにしており、その子育て観を危ぶむ声が広がっています。「親学」とは、今回の都知事選で小池候補を支持し、日本の過去の侵略戦争を美化する改憲勢力の「新しい歴史教科書をつくる会」の元副会長の高橋史朗明星大学教授が提唱してきたもので、親の育て方と子どもの発達障害を結びつける特異な議論を展開。同議連は2012年4月に安倍晋三会長(現首相)、下村博文事務局長(元文科相)という体制で発足し、「親学」にもとづいた子育て観を推進するための法律をつくろうと活動。同年5月には、大阪維新の会がこの考えを「家庭教育支援条例案」に盛り込み、大阪市議会に提案しようとして、「発達障害は親のせいだというのか」との批判が上がり、撤回せざるをえなくなりました。
06/02: 雑誌/『思想の科学』
2022年11月4日、名古屋の渡久地政司さんから自身が関わった「1968年・沖縄闘争 東京・羽田空港と晴海埠頭 沖縄出入国管理撤廃闘争ー資料と解説」が贈られてきた。友人の高良勉氏、渡名喜明氏も登場している。この事件は、1982年『沖縄県人会兵庫県本部35年史』や1987年東京沖縄県人会『三十周年記念誌』の年表にも記されている。
雑誌/『思想の科学』1946年5月,武谷三男,武田清子,都留重人,鶴見和子,鶴見俊輔,丸山真男,南博,宮城音弥,渡辺慧らによって先駆社より刊行された思想雑誌。その趣旨は,思索と実践の分野に論理実験的方法を用いること,英米思想の紹介には批評的態度を維持し,日本社会の分析,批判に使用可能かどうかを考えることにあった。当初は季刊,後に月刊,再び季刊となった。哲学・思想史研究,言語論,コミュニケーション論とともに大衆の思想に着目し,大衆文学,流行歌,映画,芸能など広く大衆文化の研究にもすぐれた先駆的業績を示した。→コトバンク
渡久地政司 2020-12-23 思想の科学の1963年11月号と1968年10月号でした。63年は「自治体(対トヨタ)闘争宣言」みたいなものでてした。
『思想の科学』
第一次思想の科学(先駆社版) - 1946年5月 - 1951年4月
第二次思想の科学(建民社版) - 1953年1月 - 1954年5月
第三次思想の科学(講談社版) - 1954年5月 - 1956年2月
第四次思想の科学(中央公論社版) - 1959年1月 - 1961年12月
第五次思想の科学(思想の科学社版) - 1962年3月 - 1972年3月
第六次思想の科学(同上) - 1972年4月 - 1981年3月
第七次思想の科学(同上) - 1981年4月 - 1993年2月
第八次思想の科学(同上) - 1993年3月 - 1996年5月(ウィキ)
雑誌/『まんだらけZENBU』 『月刊プレイボーイ』
『月刊プレイボーイ』(げっかんプレイボーイ)は米国の成年誌『PLAYBOY』を日本向けに翻訳・再編集した雑誌。PLAYBOY日本版とも呼ばれる。集英社が1975年7月21日に創刊。2008年11月25日発売の2009年1月号をもって休刊→ウィキ
1977年1月『プレイボーイ』集英社
雑誌/『思想の科学』1946年5月,武谷三男,武田清子,都留重人,鶴見和子,鶴見俊輔,丸山真男,南博,宮城音弥,渡辺慧らによって先駆社より刊行された思想雑誌。その趣旨は,思索と実践の分野に論理実験的方法を用いること,英米思想の紹介には批評的態度を維持し,日本社会の分析,批判に使用可能かどうかを考えることにあった。当初は季刊,後に月刊,再び季刊となった。哲学・思想史研究,言語論,コミュニケーション論とともに大衆の思想に着目し,大衆文学,流行歌,映画,芸能など広く大衆文化の研究にもすぐれた先駆的業績を示した。→コトバンク
渡久地政司 2020-12-23 思想の科学の1963年11月号と1968年10月号でした。63年は「自治体(対トヨタ)闘争宣言」みたいなものでてした。
『思想の科学』
第一次思想の科学(先駆社版) - 1946年5月 - 1951年4月
第二次思想の科学(建民社版) - 1953年1月 - 1954年5月
第三次思想の科学(講談社版) - 1954年5月 - 1956年2月
第四次思想の科学(中央公論社版) - 1959年1月 - 1961年12月
第五次思想の科学(思想の科学社版) - 1962年3月 - 1972年3月
第六次思想の科学(同上) - 1972年4月 - 1981年3月
第七次思想の科学(同上) - 1981年4月 - 1993年2月
第八次思想の科学(同上) - 1993年3月 - 1996年5月(ウィキ)
雑誌/『まんだらけZENBU』 『月刊プレイボーイ』
『月刊プレイボーイ』(げっかんプレイボーイ)は米国の成年誌『PLAYBOY』を日本向けに翻訳・再編集した雑誌。PLAYBOY日本版とも呼ばれる。集英社が1975年7月21日に創刊。2008年11月25日発売の2009年1月号をもって休刊→ウィキ
1977年1月『プレイボーイ』集英社
06/01: 2016.05.31 みどり風通信『琉球語讃美歌附箴言』
「みどり印刷」は創設者である石川逢正が昭和31年(1955年)に創設し、首里の地で産声を上げました。 以来、約半世紀に亘って首里の街の印刷会社として、チラシ・名刺・パンフレット・ポスター・自分史・製本などの各種印刷物を取り扱っております。 私共のような「小さき者」には「企業理念」や「資本金」などを並べ立てても仕方がないものと考え、「みどり風通信」のページを定期的に更新して身の回りに起こったことを中心に写真をご紹介したり、所感を述べたりと知人、友人、お客様との出会いの交差点(あじまぁー)のようなホームページになればと思っています。 また、首里の丘からの「定点観測」のような役割を担うことができれば望外の幸せです。
代表 石川 和男
〒903-0823
沖縄県那覇市首里大中町1-36-2
TEL:098-884-3702
「みどり印刷」ここをクリック
『琉球語讃美歌概説』より抜粋
(キリスト教の日曜)礼拝は祈祷・讃美・聖書朗読で始まるが、その頃は日本語の聖書及び讃美歌が使用され、琉球語の通訳を付けたり講話や説教が琉球語でおこなわれたりした。明治20年西原間切末吉村(現那覇市首里末吉町)で出生した新垣信一は1907(明治40年)沖縄県師範学校を卒業し(同期に宮良長包)1909(明治42年)12月に中部農村の津覇尋常小学校(現中城村津覇小)の訓導となった。首里メソジスト教会員として旧約聖書箴言(しんげん)の要句を琉球語に訳し生徒等の教導に尽くしていたが、讃美歌も琉球語に訳し、自ら「琉球語の聖句並びに讃美歌帳」を編纂した。
1914(大正3)年4月に津覇日本基督伝道所(教会)を設立、その教本として「琉球語讃美歌及箴言」を出版、1930(昭和5)年2月に改訂して『琉球語讃美歌附箴言』を編纂し、これが戦後も数多く復刻、抄録され、琉球の人々に親しまれてきたものである。琉球語讃美歌60篇琉球語箴言140条である。今日では信徒それぞれの信仰の思いを琉球民謡の節にのせて歌う民謡讃美歌にも展開されている。
琉球語讃美歌は、H.B.シュワルツ宣教師のもと、伊波普猷、伊波普成(普猷の弟、新聞記者)、浦添朝長氏らにより15篇が訳され、全体で75篇(実数65篇)である。沖縄におけるキリスト教信徒は当初「本土出身者層〈寄留商人・公務員そして、その子弟〉」から「首里や那覇の旧士族層」(明治末)そして「地元の婦女子層〈地方の農村〉」と拡がりを見せるなかで『琉球語讃美歌附箴言』は広い階層と地域で愛唱・愛読され沖縄におけるキリスト教伝道に大いに貢献した。
「琉球語讃美歌」の特徴
先ず、この讃美歌にはシザという語が(1番・6番・7番・8番・69頁)と6箇所に出て来る。 現代一般に琉球語(ウチナーグチ)を生活の中で使用している人たちにも、このシザは意味不明であろう。日常の会話には使用されていないので解説する。尚、シージャ(兄、姉、年長者)の意とは異なる。シザとは、神に対する生身の人間という意味で仏教で云う衆生(シュジョウ)生命ある全てのものに近い意味であろうと思う。その他、ぬんじゅ(うんじゆ〈貴方の最高形〉が同じく6箇所、しでぃる(拝受する、受け賜る)が5箇所、生(あむ)りみしょちゃる(お生まれになった)等の御殿言葉(うどぅんくとぅば)が随所に使用されていて、讃美歌の持つ荘厳な雰囲気や、文語体の持つ凜とした趣をよく伝えている。また一般の会話には使用されず、琉歌でのみしか使われない「言い回し」を使用することで詩歌としての品格も同時にそなえている。
一方、「箴言(教訓の意をもつ短い句)」は逆に解りやすい一般会話調に終始していて、キリスト教の枠を超えて新時代に適合する近代合理主義を提唱しているようにも読める。僕が笑っちゃったのは60番「朝ん ゆさん 隣ぬ家んかい 立ち入りすな 後ーにりらりゆん」用も無くむやみに隣家に出入りするな、あきれ果てられるぞ!という意だが実に実践的である。そのような人も多かった(近代人としてのマナーに欠けた人が多くいた)のだろう。
御殿言葉(うどぅんことば)
琉球語のうち、首里言葉(すいくとぅば)は士族言葉として有名だが実は士族言葉の上に御殿言葉(うどぅんくとぅば)があった。御殿言葉は主に王子・按司およびその家族内で話されていた。例えば、「おじいさん」は士族言葉では「たんめー」。平民言葉では「うすめー」というが、御殿言葉では{ウフジュンジャンシーメー」と云った。中城御殿には王世子の母君「アットーガナシーメー」が暮しておられた。敬語表複雑な御殿言葉は知名茂子著・尚 弘子監修の『松山御殿の日々』に詳しい。戦後、身分制度が無くなると供に〈言葉〉自体も雲散霧消し、昭和30年代頃には、ほぼ完全に使用されなくなったという。
「ぬんじゅ」にまつわる面白い話
親父は、出生前後の両親の離婚により母方の祖母とその連れ合い(血縁は無かったがとても可愛がってくれた)三人で首里当蔵で暮していた。(僕の)曾祖母は初め中城御殿でのちに美里御殿(ンジャトゥウドゥン)でアガマー(女中頭)として奉公し、(父の)義理の祖父は人力車夫として那覇の街に出ていた。ある日、曾祖母は勤め先から3~4歳の女児を家に連れて来ていたが緊張のせいかオモラシをしてしまったそうである。すると曾祖母はその女の子に「ヌンジョー シーバイ シーブサラーヌーンチ シーバイ シーブサン ディ イミソーランガ!」(あなた様はオシッコがしたかったのならなぜオシッコがしたいとおっしゃって下さらないのですか!)と言うなりお尻をまくってペチペチペチと叩いたそうである。当時小学校低学年の親父はそれを見て言葉と行動のギャップに可笑しいやらビックリするやらであったと語っていた。
首里北方(ニシカタ)に集中する御殿・殿内(ウドゥン・トゥンチ)では厳格な身分制度や複雑な敬語表現がありながらも(奉公人は下男下女ではなく)同時に「長幼の序」も並存するという、現代の沖縄県民には理解のしにくい世界があったんだろうと想像する。
此処からは、勝手な僕の想像ではある。沖縄県民は凄惨な沖縄戦を体験し、戦後の苦難の歴史を生き抜いてきた。そして日本国の中でも民主主義(デモクラシー)に敏感な地域を創ってきた。そのベースには「ぬんじゅのエピソード」に見られるように、「本音」と「建前」を使い分けたり「本音だけ」「建前だけ」で生きてきたのではなく、異なる価値を融合・調和させて生きてきたのではないだろうか?沖縄県民のメンタリティーの基底にそんなセンスが宿っていなければ現在の「オール沖縄」は説明がつかない。
保守と革新の対立構図のみでの政治観では未来の沖縄を描くことは不可能だからである。 誠(マクトゥ) ソーケー ナンクル ナイサという言葉もある。※長幼の序=子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむという在り方。→五倫(孟子)
代表 石川 和男
〒903-0823
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『琉球語讃美歌概説』より抜粋
(キリスト教の日曜)礼拝は祈祷・讃美・聖書朗読で始まるが、その頃は日本語の聖書及び讃美歌が使用され、琉球語の通訳を付けたり講話や説教が琉球語でおこなわれたりした。明治20年西原間切末吉村(現那覇市首里末吉町)で出生した新垣信一は1907(明治40年)沖縄県師範学校を卒業し(同期に宮良長包)1909(明治42年)12月に中部農村の津覇尋常小学校(現中城村津覇小)の訓導となった。首里メソジスト教会員として旧約聖書箴言(しんげん)の要句を琉球語に訳し生徒等の教導に尽くしていたが、讃美歌も琉球語に訳し、自ら「琉球語の聖句並びに讃美歌帳」を編纂した。
1914(大正3)年4月に津覇日本基督伝道所(教会)を設立、その教本として「琉球語讃美歌及箴言」を出版、1930(昭和5)年2月に改訂して『琉球語讃美歌附箴言』を編纂し、これが戦後も数多く復刻、抄録され、琉球の人々に親しまれてきたものである。琉球語讃美歌60篇琉球語箴言140条である。今日では信徒それぞれの信仰の思いを琉球民謡の節にのせて歌う民謡讃美歌にも展開されている。
琉球語讃美歌は、H.B.シュワルツ宣教師のもと、伊波普猷、伊波普成(普猷の弟、新聞記者)、浦添朝長氏らにより15篇が訳され、全体で75篇(実数65篇)である。沖縄におけるキリスト教信徒は当初「本土出身者層〈寄留商人・公務員そして、その子弟〉」から「首里や那覇の旧士族層」(明治末)そして「地元の婦女子層〈地方の農村〉」と拡がりを見せるなかで『琉球語讃美歌附箴言』は広い階層と地域で愛唱・愛読され沖縄におけるキリスト教伝道に大いに貢献した。
「琉球語讃美歌」の特徴
先ず、この讃美歌にはシザという語が(1番・6番・7番・8番・69頁)と6箇所に出て来る。 現代一般に琉球語(ウチナーグチ)を生活の中で使用している人たちにも、このシザは意味不明であろう。日常の会話には使用されていないので解説する。尚、シージャ(兄、姉、年長者)の意とは異なる。シザとは、神に対する生身の人間という意味で仏教で云う衆生(シュジョウ)生命ある全てのものに近い意味であろうと思う。その他、ぬんじゅ(うんじゆ〈貴方の最高形〉が同じく6箇所、しでぃる(拝受する、受け賜る)が5箇所、生(あむ)りみしょちゃる(お生まれになった)等の御殿言葉(うどぅんくとぅば)が随所に使用されていて、讃美歌の持つ荘厳な雰囲気や、文語体の持つ凜とした趣をよく伝えている。また一般の会話には使用されず、琉歌でのみしか使われない「言い回し」を使用することで詩歌としての品格も同時にそなえている。
一方、「箴言(教訓の意をもつ短い句)」は逆に解りやすい一般会話調に終始していて、キリスト教の枠を超えて新時代に適合する近代合理主義を提唱しているようにも読める。僕が笑っちゃったのは60番「朝ん ゆさん 隣ぬ家んかい 立ち入りすな 後ーにりらりゆん」用も無くむやみに隣家に出入りするな、あきれ果てられるぞ!という意だが実に実践的である。そのような人も多かった(近代人としてのマナーに欠けた人が多くいた)のだろう。
御殿言葉(うどぅんことば)
琉球語のうち、首里言葉(すいくとぅば)は士族言葉として有名だが実は士族言葉の上に御殿言葉(うどぅんくとぅば)があった。御殿言葉は主に王子・按司およびその家族内で話されていた。例えば、「おじいさん」は士族言葉では「たんめー」。平民言葉では「うすめー」というが、御殿言葉では{ウフジュンジャンシーメー」と云った。中城御殿には王世子の母君「アットーガナシーメー」が暮しておられた。敬語表複雑な御殿言葉は知名茂子著・尚 弘子監修の『松山御殿の日々』に詳しい。戦後、身分制度が無くなると供に〈言葉〉自体も雲散霧消し、昭和30年代頃には、ほぼ完全に使用されなくなったという。
「ぬんじゅ」にまつわる面白い話
親父は、出生前後の両親の離婚により母方の祖母とその連れ合い(血縁は無かったがとても可愛がってくれた)三人で首里当蔵で暮していた。(僕の)曾祖母は初め中城御殿でのちに美里御殿(ンジャトゥウドゥン)でアガマー(女中頭)として奉公し、(父の)義理の祖父は人力車夫として那覇の街に出ていた。ある日、曾祖母は勤め先から3~4歳の女児を家に連れて来ていたが緊張のせいかオモラシをしてしまったそうである。すると曾祖母はその女の子に「ヌンジョー シーバイ シーブサラーヌーンチ シーバイ シーブサン ディ イミソーランガ!」(あなた様はオシッコがしたかったのならなぜオシッコがしたいとおっしゃって下さらないのですか!)と言うなりお尻をまくってペチペチペチと叩いたそうである。当時小学校低学年の親父はそれを見て言葉と行動のギャップに可笑しいやらビックリするやらであったと語っていた。
首里北方(ニシカタ)に集中する御殿・殿内(ウドゥン・トゥンチ)では厳格な身分制度や複雑な敬語表現がありながらも(奉公人は下男下女ではなく)同時に「長幼の序」も並存するという、現代の沖縄県民には理解のしにくい世界があったんだろうと想像する。
此処からは、勝手な僕の想像ではある。沖縄県民は凄惨な沖縄戦を体験し、戦後の苦難の歴史を生き抜いてきた。そして日本国の中でも民主主義(デモクラシー)に敏感な地域を創ってきた。そのベースには「ぬんじゅのエピソード」に見られるように、「本音」と「建前」を使い分けたり「本音だけ」「建前だけ」で生きてきたのではなく、異なる価値を融合・調和させて生きてきたのではないだろうか?沖縄県民のメンタリティーの基底にそんなセンスが宿っていなければ現在の「オール沖縄」は説明がつかない。
保守と革新の対立構図のみでの政治観では未来の沖縄を描くことは不可能だからである。 誠(マクトゥ) ソーケー ナンクル ナイサという言葉もある。※長幼の序=子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむという在り方。→五倫(孟子)