09/26: 2017- 世相ジャパン④
2017年10月10日~15日 那覇市民ギャラリー「第20回 高良憲義個展 普天間、辺野古、高江、地位協定、地球惑星の花の人(土人)」
前田ちひろさん
宮里ノボル氏
左から伊波洋一氏、糸数慶子さん/伊波洋一氏、あかみね政賢、糸数慶子さん
写真左ー国吉真太郎氏(翁長雄志後援会会長)/写真右ー真喜志好一氏、前田ちひろさん
10月1日ーおもろまちの沖縄県立博物館・美術館近くでの「新基地・オスプレイ・9条改憲・消費税増税・疑惑かくしノー/赤嶺政賢事務所びらき」。大勢の人が参加。無理もない一区の新基地反対は、あかみね政賢だけだから。
2017年10月18日~19日『琉球新報』『沖縄タイムス』、テレビなどで、高江の墜落ヘリの片づけも早々に演習再開の報道で、怒りが沸き起こる中で「あかみね政賢候補 街頭演説」。米軍の占領意識は自公の都合などは目に入らないらしい。
写真右ー左から高江洲義一氏、宮里政秋氏、古堅実吉氏
写真右ー嘉陽宗儀氏
2017年10月18日-沖縄県庁県民広場「あかみね政賢候補 街頭演説」
『しんぶん赤旗』10月19日「18日、あかみね政賢候補 街頭演説/志位委員長の街頭演説」
『しんぶん赤旗』2017年10月13日「(米軍普天間飛行場所属のCH53E大型輸送ヘリコプター。オスプレイより事故率が高い)同型機 全国を飛行/事故の危険 広がる」/『しんぶん赤旗』日曜版 2017年10月15日号
『しんぶん赤旗』「米軍ヘリ墜落・炎上」10月12日/関連ビラ「米軍ヘリ墜落許せない/北部訓練場は全面撤去を」
『琉球新報』10月12日ー沖縄県東村高江で米海兵隊のCH53大型ヘリコプターが炎上した11日、防衛省の中嶋浩一郎沖縄防衛局長は現場近くに駆け付けていた東村の伊集盛久村長らに謝罪すると共に、把握している情報を伝えた。関連→『沖縄タイムス』2016年7月21日ー東村の伊集盛久村長は20日、村高江周辺のヘリパッド建設について「北部訓練場過半が確実に返還されることで基地の整理・縮小につながる」と容認する姿勢を示し、「ヘリパッド工事は安全確保した上で進めていただきたい」と述べた。東村役場を同日訪ねた県議会与党会派15人に見解を示した。
「くろねこの短語」10月 12日ー沖縄で米軍ヘリが墜落炎上。「この国を守り抜く」ってんなら、北朝鮮のミサイルなんかより、こっちの方をどうにかしやがれ。ところで、衆議院選挙の公示から2日だというのに、もう世論調査の結果が新聞・TVを賑わせている。それによれば、どの調査でも自公圧勝なんだとさ。へたすりゃ、自民単独で過半数なんてこともある勢いとか。しかしまあ、このタイミングでの世論調査ってのは、いつもそうだけどある種の世論操作だと思うけどねえ。(略)
ペテン総理の代わりに選挙運動している私人の嫁は、「このまま主人に仕事を続けさせ、この国のために働かせてほしい」と第一声をあげたそうだが、総理大臣の名代のくせして「主人」なんて言葉を口にするとはどこまで常識はずれなんでしょう。こういう場合は、「安倍に・・・」って言うものだ。我が家のバケベソだって、そのくらいの常識はわきまえとりますよ。
こんなんだから、何も考えずに籠池君に肩入れして、ドシ踏んじまったんだろうね。そのドジを言い繕うとしてペテン総理は、テレビ朝日「報道ステーション」の党首討論で、「詐欺を働く人物の作った学校で妻が名誉校長を引き受けたことはやっぱり問題があった。(籠池氏は)こういう人だから(妻は)騙されてしまったんだろう」ってぬかしたそうだ。だったら、何をどう騙されたのか、400字以内で説明してみろってんだ。こんな理屈にもならないたわ言を平気で口にする総理大臣にこの国をまかせていいのか・・・これを肝に銘じて選挙に行こう!!
2013-7 世相ジャパン
2013年07月06日『毎日JP』橋下徹大阪市長:「沖縄女性、慰安所で頑張った」 参院選遊説 /沖縄
日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は5日、県内から参院選比例代表に立候補している公認候補を支援するため来県した。橋下氏は応援演説で、米施政権下の県内で日本政府による米兵向け慰安所が設置されたとして「レイプを止めるために、沖縄県の女性が一生懸命になってやってくださった。感謝の念を表す」などと発言した。橋下氏は5月の米兵風俗利用発言を撤回し、米側に謝罪の意を示していたが「過去に女性を性の対象に利用していた、とアメリカに言いたい」と述べた。橋下氏は沖縄本島中南部の4カ所を遊説した。沖縄市の胡屋十字路では「米軍の沖縄占領時、日本の政府が真っ先に作ったのは、RAAという特殊慰安所協会だ」などと主張した。「女性の人権を蔑視していると言うが、沖縄の女性が特殊慰安所協会で一生懸命頑張ったことを全部無しにするのか」と持論を展開した。沖縄女性史研究家の宮城晴美氏によると、日本政府が米国占領下の県内で、慰安所を設置した事実は確認されていない。(琉球新報)
日頃、「しまくとぅば」について、継承、記録、保存、表現、研究、実践などさまざまな活動をしている人々に集ってもらい、それぞれの好きな「しまくとぅば」で語ってもらいます。メンバーの中心はしまくとぅばプロジェクトに2008年から関わっている人や最近からしまくとぅばを学びはじめたメンバーまで、立場や興味もそれぞれ異なる人々で意見を述べ合います。
なぜ「しまくとぅば」を話し、次世代へと引き継ごうとしているのか、どうして研究しているのかなど、はじめのきっかけ、理由、取り組みの状況、勉強法など、いろいろなことを互いに問いかけたり、一人で語ったりしながら、その想いをぶつけ合います。
また、最後のセッションでは、来場の方々とのクロストークもまじえ、今後の活動のモチベーションへとつなげていければと考えています。「しまくとぅば」について興味を抱いている方、すでに何らかの実践を行っている方、仲間で集って活動している方、若い世代へと継承運動に取り組んでいる方、など、多数の方々の来場をお待ちしております。
【コーディネーター】
仲原穣(沖縄県立芸術大学ほか 非常勤講師)
【対談者(五十音順)】
上原美智子(しまくとぅばプロジェクトメンバー)
小禄隆司(琉球大学学生)
西岡敏(奈良出身 沖縄国際大学 教授)
ハイス・ファン・デル・ルベ(オランダ出身 浦添市立仲西小学校ALT うちなーぐち習得勉強会)
比嘉豊光(写真家)
真栄里・サマンサ・明美(ハワイ出身 県系4世 琉球大学研究生)
宮里朝光(NPO法人沖縄県沖縄語普及協議会 名誉会長)
写真右ー左からハイス・ファン・デル・ルベ(オランダ出身 浦添市立仲西小学校ALT うちなーぐち習得勉強会)・西岡敏(奈良出身 沖縄国際大学 教授)仲原穣(沖縄県立芸術大学ほか 非常勤講師)
比嘉豊光(写真家)・宮里朝光(NPO法人沖縄県沖縄語普及協議会 名誉会長)
写真右ー左が上原美智子(しまくとぅばプロジェクトメンバー)・真栄里・サマンサ・明美(ハワイ出身 県系4世 琉球大学研究生)
写真左ー左が小禄隆司(琉球大学学生)・西岡敏(奈良出身 沖縄国際大学 教授)
2011年6月 新川明・儀間比呂志・知念ウシ/翻訳『りゅう子の白い旗ー沖縄いくさものがたり』 出版舎
Muɡen□新川明ーあとがき/(前略)あれから二十六年たって、さきの「集団自決」訴訟と文部科学省のあり方が象徴するように日本の国全体がますますおかしくなっていくのを見るとき、私たちはすでに絶版になっていたこの絵本を復刻再刊したい、と強く思ったのです。さいわい出版舎 Muɡenの上間常道さん(2018年8月死去)が私たちの思いを受けとめてくれて、ここに絵本「沖縄いくさものがたり」を正真の沖縄発の”非戦の思い〟をこめた絵本として再生させることができました。上間さんと英訳の知念ウシさんにあらためて感謝したいと思います。/儀間比呂志ーこの作品を描いてから二十六年の歳月が過ぎました。この間、戦争への危機はなくなるどころか、広大な米軍基地は沖縄に、相変わらず我がもの顔で居座り、戦争への構えをとり続けています。その事実を近隣諸国が黙認し、侵略者の暴挙を容認している国際事情には、何たることかと憤りはつきません。
写真左から儀間比呂志さん、新城征孝氏、新川明氏、新城栄徳、その前が舞台美術家・新城栄徳氏/チニンウシィさん、伊佐眞一氏
1999年1月 儀間比呂志『絵本 沖縄のわらべうた』沖縄タイムス社□儀間比呂志ーあとがき(前略)本書の出版にあたっては、島袋全発氏の『沖縄童謡集』ほか、数々の本を参考にさせていただいた。また、楽譜の提供をいただいた比嘉悦子さん、エッセーをよせてくださった船越義彰さん、翻訳者のR・トンプソンさん、出版元の沖縄タイムス社と編集の上間常道さんに、心から感謝の意を表したい。
1985年8月 新川明(沖縄タイムス東京支社長)・儀間比呂志『りゅう子の白い旗ー沖縄いくさものがたり』築地書館
1971年12月 『新沖縄文学』21号 「儀間比呂志版画集/詞章・新川明」
1974年10月 『新沖縄文学』26号 儀間比呂志「表紙のことばー私が最も好み、数多く描いてきたおなじみの沖縄伝統民俗芸能『七月エイサー』である。」
1975年2月 『新沖縄文学』27号 儀間比呂志「表紙のことばー沖縄民衆は、ワジワジーしている。”日本に復帰すれば、平和がよみがえり豊かな沖縄県が実現する〟ふりまかれた幻想ー。”海洋博は、沖縄経済の起爆剤〟ユクシムニーするな!原爆つきの基地はそのまま 山からは、みどりをうばい 海からは、 魚をおいはらい わったぁからは、生活をうばう。それは、だれなんだ!
1975年11月 『新沖縄文学』30号 儀間比呂志「<随筆>沖縄の女」
平良邦夫氏、不詳、山田親英氏/儀間比呂志氏、佐々木薫さん
海勢頭豊氏、徳田澰さん、/山田親英氏、儀間比呂志氏、佐々木薫さん
2003年2月 多和田真助『沖縄の海図 「復帰」30年のメッセージ』「上間常道」沖縄タイムス社□「上間常道 『沖縄大百科事典』によって、沖縄研究の沖縄研究”道しるべ”ができたことの意味は限りなく大きい。大阪生まれの『沖縄二世』である。在日朝鮮・韓国人、被差別部落出身者、沖縄人ー。複数の差別が重層する社会で誕生、出自の『沖縄人』には敏感すぎるほどの反応を強いられた。」
『沖縄大百科事典』の精神 出版舎Mugen代表 上間 常道
出版編集者とは、ある意味で、時代の組織者・工作者であるべきだ、それも黒子の、と考えていた当時の私にとって、『沖縄大百科事典』の仕事場は願ってもない闘いの場だった。編集事務局は出入りする多種多様の人たちでいつもわさわさとして、活気に満ちていたし、何か沖縄の新しい文化、新しい時代をみずからの手で創り出そうとする意欲にみなぎっていた。その熱気は間違いなく、1972年の「復帰」以降、ようしゃなく押し寄せてくる日本的なるものによって、長い時間をかけて先人たちが築き上げてきた沖縄的なるものがどんどん後景にやられ、あっという間に破壊され、浸食されていく現状への抵抗を反映していたと言える。
日本的なるものに対抗できる新しい文化を創造するための中核として、『沖縄大百科事典』は位置づけられた。そのことは次のような事情に目をやれば明らかだろう。まず、事典の記述は徹底して沖縄的なまなざしで書くことを、日本にいる執筆者を含めたすべての執筆者に求めた。ほとんどの執筆者もそれを当然のように受け入れてくれた。大百科ができるまでは、沖縄に関する知識を得ようとすれば、おおむね日本の視点から見た沖縄に関する記述をいやおうなく受け入れざるを得なかったのである。第二に、主に21分野にわたる項目委員会の委員などを媒介にして、これまで疎遠であった分野どうしが対話したり、対抗軸を形成したりして、さまざまに刺激し合って、新たな横断線を築くことができたことである。交流が密でないことによって生じる、いわれのない排除や蔑視を克服するうえで、大百科は大きな役割を果したといえよう。
第三に、「沖縄戦」を独立した一分野として設定することによって、日米両政府に対する対抗軸を設定しようとしたことである。沖縄戦を、日米とは完全に独立した沖縄的観点から記述することによって、今も続く軍事的不条理の根っこの部分を明らかにしようとした。第四に、沖縄(本)島中心主義、とくに首里・那覇中心主義を否定して、奄美―宮古―八重山を貫く「琉球弧の視点」でモノを見ることによって、日本が沖縄を見るときのやや威圧的な上目目線をも否定する方向を打ち出した。
総じて、日本とは相対的に別箇な沖縄的まなざしを築くうえで、必要不可欠の資料としての役割を担ったといえよう。沖縄のアイデンティティ形成のうえで、沖縄大百科は必要不可欠の素材なのである。1983年以降、かりに『沖縄大百科事典』が存在しなかったら、どうなっていただろうか。日本―沖縄を隔てる境界線はあいまいになり、日本の辺地となり果て、独自の歴史と文化と社会を築き上げてきた、日本とは相対的に別箇な領域としての特性すら失っていただろう――なにか、そんな気がしてならない。
09/12: 関西/沖縄県人会兵庫本部と儀間比呂志
沖縄県人会兵庫県本部 機関紙『榕樹』第431号 2017年10月「亡き先人に捧げるー大正区でエイサー祭り」「儀間比呂志版画展~沖縄への思い 立命館大学国際平和ミュージアムで11月1日から」
1970年1月 沖縄県人会兵庫本部『沖縄県人会だより』
1995年9月 『島を出た民の戦争体験集』沖縄県人会兵庫本部/2017年5月『榕樹』第426号
1982年6月 上江洲久『ここに榕樹あり 沖縄県人会兵庫県本部35年史』儀間比呂志「扉及び見返し版画」
那覇港近くのバーで写真左から新城栄徳、永峰眞名さん、当山忠氏(島尻雅彦撮影)
沖縄県人会兵庫本部機関紙『榕樹』〒660-0805 兵庫県尼崎市西長洲町2丁目26-12 中央ビル601 ☎06-6487-0535 FAX06-6482-4048
沖縄県人会兵庫県本部で機関紙『榕樹』担当の永峰眞名さん/沖縄県人会兵庫県本部の永峰眞名さん
新城栄徳日記メモー1995年1月1日ー奈良東大寺大仏初詣/1月17日午前5時過ぎに京都で大きな揺れ。東大阪の息子に電話。午後2時23分電車で京阪淀から近鉄経由で布施。/1月24日、尼崎市の兵庫沖縄県人会事務所。沖縄県からのビニールシートが届いていたので配送を手伝う。息子名義で見舞金を贈ったとき宮城幹夫氏も来所し見舞金を贈られた。挨拶をした。1月30日、西宮からバスで三宮。午後8時に帰宅。1月31日、大正区へよって、阪神青木から東灘区へ。
「阪神大震災」関連資料
1951年7月11日ー宮城久隆『球陽新報』創刊
沖縄県人会兵庫県本部の永峰眞名さんに『球陽新報』の情報を流すと、県人会機関紙『榕樹』で紹介した。次々と関係者が現れた。大阪の県人会長の諸喜田さんは印刷に関わった。久隆の子息で生駒市在住の宮城敬さんからは久隆に関する情報が寄せられた。作家の宮城聡は敬さんの祖父の弟である。1961年4月10日の『沖縄タイムス』に宮城久隆の死亡記事「沖縄タオル社長、琉球大学理事、中央教育委員。10日あさ8時、首里大名町の自宅で死去。58歳、国頭村出身」。
□→2001年3月ー『史料編集室紀要』第26号□納富香織「在本土沖縄県人紙についてー『大阪球陽新報』『球陽新報』『内報』『自由沖縄』目録ー」 ○2010-5-20記
写真ー宮城久隆・琉大理事
1952年6月 雑誌『おきなわ』 宮城久隆「関西の人々」
1960年1月『今日の琉球』弟4巻第1号
2017年 渡口萬年筆店 〒900-0015 那覇市久茂地2-21-1
2千円札発行記念撮影(首里城公園)後列左から3人目が渡口彦邦さん、湖城英知氏、稲嶺恵一氏。/2019年11月5日ー渡口万年筆店に遊びに行くと、山内弥生さんが居られた。山内さんは恩納村出身(豊見城毛氏系)、中国遼寧省大連市・大連アテンドエンプロイメントエージェンシーのゼネラルマネジャー。日本本社を渡口万年ビルに置いている。
1938年3月30日『沖縄日報』「渡口萬年筆店」
2007年8月 すなみまさみち/古山浩一『万年筆クロニクル』枻出版社
〇あとがきー近年多数のコレクター本が刊行されているが又聞き、孫引きが当たり前のネット社会にあって、できるだけ原典にあたりなおすことが大切である、という先達のご託宣を肝に銘じて、日夜、確たるエビデンスを求めつづけてきた。しかしこれがまた苦難の道をたどることになるとは。初期のパテントにはあまり興味を持たれないかもしれないが、私にとってこれは情報の宝庫だ。新聞、雑誌の広告やメーカーのカタログは次に重要な手がかりである。
2015年7月 『趣味の文房具』枻(えい)出版社 古山浩一=絵と文「沖縄 渡口萬年筆店 渡口彦邦さん」
1886年11月21日『大阪朝日』に、万年筆の広告「万年筆 おろし 小うり」「時計師 山内住智」
1895年(明治28年) WATERMAN(ウォーターマン) 丸善が、わが国で初めてウォーターマン社の万年筆を輸入販売。→万年筆の歴史
1915(大正4)年、『東京朝日』「学生向のXマスのおくり物」という記事では、文房具については、万年筆が挙げられています。当時の紙面は総ルビだったので、ちゃんと「まんねんひつ」と読みがついています。
1910(明治43)年『東京朝日』では、万年筆に「まんねんふで」という読みがながついた(11月6日付)。さらには、1908年には、「丸善新着のクラフト万年筆(まんねんふで)」という記事(11月15日付)や、「万年筆(まんねんふで)」というタイトルのコラムまであるではありませんか(いずれも東京朝日)。明治のころは「まんねんふで」という読み方が主流であったと推測させます。やはり当時は「ふで」(毛筆)という音のほうが、人々の耳にはなじみがあったということなのでしょうか→朝日新聞「ことばマガジン」
1908年(明治41年)、伊藤農夫雄が「スワン」万年筆を発売。
1912年(明治45年) 夏目漱石・北原白秋・幸田露伴・河合玉堂らが万年筆について語るエッセイと図解がのった「万年筆の印象と図解カタログ」が丸善から発行される。→万年筆の歴史
1914年(大正3年)、細沼浅四郎が「サンエス」万年筆を製造販売(サンエスとはSun Sea Starの意味)。
1919年(大正8年)、中山太一が日本文具製造株式会社(プラトン文具株式会社)を設立、「プラトン万年筆」を売り出す。
1920年9月 『沖縄朝日新聞』「山城萬年筆店」/1923年6月『沖縄朝日新聞』「安江商會」
1922年3月 『沖縄タイムス』「津堅商店(那覇市下泉町1丁目松田橋通り)筆墨文具品各種、萬年筆各種」
1922年4月 『沖縄タイムス』「勉強堂本店(那覇市大門前)十四金ペン付 萬年筆各種 各種萬年筆特約店 其の他附属品一切」
1922年10月『沖縄タイムス』「青山書店」
1924年11月『沖縄タイムス』「前中商店(那覇市石門通り)各種萬年筆修理 萬年筆 学生向き 十四金付 エボナイト軸」
『オキナワグラフ』/2018-6-27 QAB琉球朝日放送
2018-6-25 右・思うところあって来訪者名簿を見る渡口彦邦氏
万年筆にネームを入れる彫刻機/実演する渡口彦邦氏
2017年12月 『平和への道しるべⅡ』ハワイ捕虜沖縄出身戦没者慰霊祭実行委員会(渡口彦信、高山朝光)
09/09: 2005年5月ー沖縄タイムス「琉球弧の雑誌展」図録
2005年5月ー沖縄タイムス「琉球弧の雑誌展」図録
屋部憲次郎書
2005年5月ー沖縄タイムス「琉球弧の雑誌展」図録 新城栄徳「末吉麦門冬<」/b>
2005年5月ー沖縄タイムス「琉球弧の雑誌展」図録
屋部憲次郎書
2005年5月ー沖縄タイムス「琉球弧の雑誌展」図録 新城栄徳「末吉麦門冬<」/b>
2005年5月ー沖縄タイムス「琉球弧の雑誌展」図録
9月3日旧盆、朝お寺さんに行く。沖縄市プラザハウスショッピングセンター3Fにある「ライカムアンソロポロジー」の山田實展を見るため山田勉氏と同行。途次、儀間比呂志の絵がシャッターに描かれている久茂地・抱瓶店を見る。ゆいレール・那覇空港駅には儀間比呂志の「万国津梁の民」(2003年8月)がある。
〇2012年4月19日昼、沖縄大学に寄って宮城先生紹介で大学図書館に『青い海』創刊号と、沖縄関係資料室が載っている10号を寄贈する。帰途、那覇市歴史博物館に寄って、5時から久茂地・抱瓶の高橋淳子さんのお別れ会に参加。壁には淳子さんの写真が所狭しと貼られていた。アルバムには喜屋武真栄氏や西平守良さん、喜納昌吉、大田昌秀、具志堅用高、新城亘、儀間比呂志、ひさみ夫妻の諸氏らが淳子さんと収まっているのもある。私は1973年頃、高円寺・球陽書房の西平守良さんに近くの「きよ香」に連れて行かれそこで淳子さんを知る。知るといってもそれが最初で最後の出会いであった。会場の抱瓶にはひさみ夫妻らが居られた。1時間半ごろ経って大田昌秀氏、岡留安則氏や沖縄大学のO教授、S氏らが参加し故人が好きだった民謡で追悼した。しばし大田氏、岡留氏と懇談する。岡留氏に東郷健の消息を尋ねた。(4月26日の新報、タイムスに同性愛者の差別撤廃運動で知られた東郷健の死亡記事が顔写真入りで報じられていた。)
昔ープラザハウス/今ープラザハウスショッピングセンター
写真左が山田勉さん、山田實展を企画した波平雄太氏/「山田實展『Eternal lights』」2017年8月15日(火)〜9月24日(日) 11:00〜19:00 入場無料 沖縄・沖縄市「プラザハウスショッピングセンター」3階「ライカムアンソロポロジー」にて開催
山田實さん所蔵の儀間比呂志作品「伊野波節より」
2017年9月22日『沖縄タイムス』仲嶺絵里奈「展評ー山田實展」/2014年3月ー左から豊里友行氏、山田實さん、金子隆一氏、仲嶺絵里奈さん
2017年8月 同人誌『南溟』3号 『南溟』同人会 〒904-2166 沖縄市古謝津嘉山町8番9号
2017年2月 同人誌『南溟』2号 『南溟』同人会 〒904-2166 沖縄市古謝津嘉山町8番9号