06/23: 2017-8 世相ジャパン⑤
2000年6月 新川明『沖縄・統合と反逆』筑摩書房〇「記憶の暗殺者」ー平和資料館問題の周辺ー大田敗北によって稲嶺県政が誕生し、同陣営のブレーンと目されていた『自己検証』の共著者人のうち、牧野浩隆は直ちに沖縄県副知事に迎えられ、高良倉吉はやがて日本国総理大臣・小渕恵三を囲む有識者懇談会「21世紀日本の構想」に、沖縄からただ一人の委員に加えられた。この状況の中で打ち出されてきたのが」、米軍普天間基地の「県内移設」容認の政策発表と推進であり、平和資料館の展示内容改竄問題の浮上であった。(略)この問題の陰にかくれてほとんど世の注目をあつめることのない問題もあった。すでに完成している「平和の礎」、進行中だった新平和祈念資料館建設とあわせて、大田県政がすすめる平和行政の事業計画には、「沖縄国際平和研究所」(仮称)の設立と「平和の森」構想があった。平和研究所設立は、大田知事の諮問を受けた設置検討委員会から基本計画検討委員会の討議を経て」、98年6月、答申に至っていたが、稲嶺沖縄県政はこの計画を葬り去った。
沖縄県立国際平和研究所
目的①沖縄県に現実に存在する平和に関わる諸問題の実践的な解決のあり方を探究する。②沖縄県におけるローカルな平和に関わる諸問題の探究を通じて、アジアや世界における関連諸問題に対する知的貢献を目指す。-とし、「平和創造・発信のためのセンター機能を持つ研究所」にするなど八つの基本理念を掲げていた。研究活動の方向性は、沖縄戦を中心とする「アジア・太平洋戦争」の研究を、日本の一員として侵略行為に加担した歴史も踏まえながら、近接するアジア諸国と双方方向的に共同ですすめることなど五つの目標が設定された。
12日午後2時那覇市/奥武山陸上競技場「翁長知事を支え、辺野古に新基地を造らせない県民大会」
「くろねこの短語」8月 12日-(前略)そうならないために外交ってのがあるんじゃないのか。アメリカと北朝鮮の間に立って「まあまあ、そんなにいきり立ってないで、ここは冷静になって話し合おうじゃないの」って手を差し伸べるのが日本の役割だろう。それでこそ、国際社会において日本の株も上がろうというものだ。ああそれなのに、「存立危機なら迎撃可能」なんてことを国会で答弁しちゃうような軽率な男が防衛大臣なんだから、この国の行く末は、やっぱりアメリカの特別自治区ってところがオチなんじゃないだろうか。トホホだね。
2017-11-9『しんぶん赤旗』「辺野古過剰警備で税金を浪費」「『パラダイス文書』世界に衝撃」
2017年11月24日、当時サンフランシスコ市長のエドウィン・リーが同市への慰安婦像などの寄贈の受け入れを承認したことを受け、大阪市長の吉村洋文は同年12月13日に姉妹都市解消を正式決定。ただし、直前にリーが急逝したことから、ロンドン・ブリードが次期市長に就任するまで、解消通告を延期した。その後、2018年7月に吉村はブリードに公共物化を撤回する書簡を送付し、同年9月末までに回答を求めたが、回答がなく、姉妹都市解消を決定した。なお、解消通告の書簡を受け取ったブリードは受け入れを撤回しないことを表明している。→ウィキ
2016年1月14日 『日刊ゲンダイ』ー2年前に宜野湾市民会館で開催された「沖縄県祖国復帰42周年記念大会」の動画がネット上で流れており、これに佐喜真市長も出席しているのだが、「まるで北朝鮮みたい」と突っ込まれるほどヒドイ内容なのだ。オープニングでは地元保育園の園児が日の丸のワッペンをつけた体操着姿で登場。猿回しの猿というか、北のマスゲームように「逆立ち歩き」「跳び箱」をさせられ、それが終わると、全員で〈立派な日本人となるように、心から念願するものであります!〉と「教育勅語」を一斉唱和させられるのだ。
それが終わると日本最大の右翼組織「日本会議」の中地昌平・沖縄県本部会長が開会宣言し、宮崎政久衆院議員といった面々が「日本人の誇り」について熱弁を奮う。この異様な大会の“トリ”を務めたのが佐喜真市長であり、やはり「日本人としての誇りを多くの人に伝えていきたい」と締めくくった。佐喜真市長が日本会議のメンバーかどうかは知らないが、善悪の判断がつかない園児に教育勅語を暗唱させ、一斉唱和させるなんて戦前そのものではないか。
6月30日 フォトスペース「Reago」粟国恭子「占領と沈黙の肌触りー<写真>の時代を読み解く・文化史の視点から」
*期 日:2018年6月30日(土)PM6:00~7:30
*タイトル:「占領と沈黙の肌触りー<写真>の時代を読み解く・文化史の視点から」
*話 者:粟国恭子(沖縄文化・工芸研究所主宰、沖縄国際大学・沖縄県立芸術大学非常勤講師)
*内容:
近代に広く普及した写真機は、近代から現在に至るまで多くの「沖縄」を写し出してきた。写真家や学術研究者、記者一般の人と様々な位相で撮られた「沖縄」写真が無数に存在する。その写真自体は、いずれも無音で語りの言葉を持たない。
撮る側と撮られたもの、そして観る者の「眼差し」と「語り」の関係は、互いに揺れ動き続けて変化し時を刻む。
今回は、沖縄戦時中終戦直後に撮影された「沖縄」の写真を中心に、1945年から1950年代の「沖縄写真史」を考える。
米軍・米国の占領期に圧倒的な「強き眼差し」で撮られ残された写真の中にある「沈黙の肌触り」を感じとること。そして写り込まれた時間の意味や沈黙の向こう側に聞こえる人々の声を拾うことーー70年以上の時を超えた今、撮られた沖縄と時代を「語る」視座を問う。
*会 場:フォトスペース「Reago」(ラーゴ)
那覇市牧志2-7-18 3F モノレール牧志駅1分
6月22日ー 2012年の選挙で初当選し、現在2期目を務める自民党の安倍チルドレン・豊田真由子衆院議員(神道政治連盟国会議員懇談会)が秘書に罵声を浴びせた上に暴行を加える、前代未聞の振る舞いをして、自民党を離党。/『毎日新聞』22日ー自民党は22日、豊田真由子衆院議員(埼玉4区)による元政策秘書への暴行が週刊誌で報じられると、その日のうちに離党届を提出させて幕引きを急いだ。豊田氏は当選2回で党や政府の要職にはついていないが、学校法人「加計学園」の問題などで批判が高まる中、安倍政権はさらなる痛手を負った。23日告示の東京都議選を前に「逆風が暴風雨に変わった」(都選出衆院議員)と嘆く声も出ている。
アヘペテン゙首相と豊田真由子/稲田朋美(神道政治連盟国会議員懇談会事務局長)、豊田真由子/豊田真由子、ケネディ駐日大使
沖縄県立国際平和研究所
目的①沖縄県に現実に存在する平和に関わる諸問題の実践的な解決のあり方を探究する。②沖縄県におけるローカルな平和に関わる諸問題の探究を通じて、アジアや世界における関連諸問題に対する知的貢献を目指す。-とし、「平和創造・発信のためのセンター機能を持つ研究所」にするなど八つの基本理念を掲げていた。研究活動の方向性は、沖縄戦を中心とする「アジア・太平洋戦争」の研究を、日本の一員として侵略行為に加担した歴史も踏まえながら、近接するアジア諸国と双方方向的に共同ですすめることなど五つの目標が設定された。
12日午後2時那覇市/奥武山陸上競技場「翁長知事を支え、辺野古に新基地を造らせない県民大会」
「くろねこの短語」8月 12日-(前略)そうならないために外交ってのがあるんじゃないのか。アメリカと北朝鮮の間に立って「まあまあ、そんなにいきり立ってないで、ここは冷静になって話し合おうじゃないの」って手を差し伸べるのが日本の役割だろう。それでこそ、国際社会において日本の株も上がろうというものだ。ああそれなのに、「存立危機なら迎撃可能」なんてことを国会で答弁しちゃうような軽率な男が防衛大臣なんだから、この国の行く末は、やっぱりアメリカの特別自治区ってところがオチなんじゃないだろうか。トホホだね。
2017-11-9『しんぶん赤旗』「辺野古過剰警備で税金を浪費」「『パラダイス文書』世界に衝撃」
2017年11月24日、当時サンフランシスコ市長のエドウィン・リーが同市への慰安婦像などの寄贈の受け入れを承認したことを受け、大阪市長の吉村洋文は同年12月13日に姉妹都市解消を正式決定。ただし、直前にリーが急逝したことから、ロンドン・ブリードが次期市長に就任するまで、解消通告を延期した。その後、2018年7月に吉村はブリードに公共物化を撤回する書簡を送付し、同年9月末までに回答を求めたが、回答がなく、姉妹都市解消を決定した。なお、解消通告の書簡を受け取ったブリードは受け入れを撤回しないことを表明している。→ウィキ
2016年1月14日 『日刊ゲンダイ』ー2年前に宜野湾市民会館で開催された「沖縄県祖国復帰42周年記念大会」の動画がネット上で流れており、これに佐喜真市長も出席しているのだが、「まるで北朝鮮みたい」と突っ込まれるほどヒドイ内容なのだ。オープニングでは地元保育園の園児が日の丸のワッペンをつけた体操着姿で登場。猿回しの猿というか、北のマスゲームように「逆立ち歩き」「跳び箱」をさせられ、それが終わると、全員で〈立派な日本人となるように、心から念願するものであります!〉と「教育勅語」を一斉唱和させられるのだ。
それが終わると日本最大の右翼組織「日本会議」の中地昌平・沖縄県本部会長が開会宣言し、宮崎政久衆院議員といった面々が「日本人の誇り」について熱弁を奮う。この異様な大会の“トリ”を務めたのが佐喜真市長であり、やはり「日本人としての誇りを多くの人に伝えていきたい」と締めくくった。佐喜真市長が日本会議のメンバーかどうかは知らないが、善悪の判断がつかない園児に教育勅語を暗唱させ、一斉唱和させるなんて戦前そのものではないか。
6月30日 フォトスペース「Reago」粟国恭子「占領と沈黙の肌触りー<写真>の時代を読み解く・文化史の視点から」
*期 日:2018年6月30日(土)PM6:00~7:30
*タイトル:「占領と沈黙の肌触りー<写真>の時代を読み解く・文化史の視点から」
*話 者:粟国恭子(沖縄文化・工芸研究所主宰、沖縄国際大学・沖縄県立芸術大学非常勤講師)
*内容:
近代に広く普及した写真機は、近代から現在に至るまで多くの「沖縄」を写し出してきた。写真家や学術研究者、記者一般の人と様々な位相で撮られた「沖縄」写真が無数に存在する。その写真自体は、いずれも無音で語りの言葉を持たない。
撮る側と撮られたもの、そして観る者の「眼差し」と「語り」の関係は、互いに揺れ動き続けて変化し時を刻む。
今回は、沖縄戦時中終戦直後に撮影された「沖縄」の写真を中心に、1945年から1950年代の「沖縄写真史」を考える。
米軍・米国の占領期に圧倒的な「強き眼差し」で撮られ残された写真の中にある「沈黙の肌触り」を感じとること。そして写り込まれた時間の意味や沈黙の向こう側に聞こえる人々の声を拾うことーー70年以上の時を超えた今、撮られた沖縄と時代を「語る」視座を問う。
*会 場:フォトスペース「Reago」(ラーゴ)
那覇市牧志2-7-18 3F モノレール牧志駅1分
6月22日ー 2012年の選挙で初当選し、現在2期目を務める自民党の安倍チルドレン・豊田真由子衆院議員(神道政治連盟国会議員懇談会)が秘書に罵声を浴びせた上に暴行を加える、前代未聞の振る舞いをして、自民党を離党。/『毎日新聞』22日ー自民党は22日、豊田真由子衆院議員(埼玉4区)による元政策秘書への暴行が週刊誌で報じられると、その日のうちに離党届を提出させて幕引きを急いだ。豊田氏は当選2回で党や政府の要職にはついていないが、学校法人「加計学園」の問題などで批判が高まる中、安倍政権はさらなる痛手を負った。23日告示の東京都議選を前に「逆風が暴風雨に変わった」(都選出衆院議員)と嘆く声も出ている。
アヘペテン゙首相と豊田真由子/稲田朋美(神道政治連盟国会議員懇談会事務局長)、豊田真由子/豊田真由子、ケネディ駐日大使
06/16: 「私設文学資料室」主宰・新城良一
2024-4-17 さゆりさん
右、久部良和子さん、新城良一氏
1993年11月『一誠堂書店九十周年記念 古典籍善本展示即売会目録』
1790年 デフォー『ロビンソンクルーソー漂流記』ロンドン刊
1986年9月 出口保夫『イギリス文芸出版史』研究社出版/2006年5月 内間直仁・野原三義『沖縄語辞典』研究社
〇1768年から1826年ー最初の時代(初版から第6版まで)ブリタニカはコリン・マックファーカー、アンドリュー・ベル、アーチボルド・コンスタブルら創始者によって出版された。ブリタニカは当初 Encyclopædia Britannica, or, A Dictionary of Arts and Sciences, compiled upon a New Plan として、1768年から1771年にかけてエディンバラで出版された。 チェンバーズのサイクロペディア(1728年初版)に影響を受けたドゥニ・ディドロとジャン・ル・ロン・ダランベールの百科全書(1751年から1772年発刊)に触発された面もあった。ブリタニカの出版は主にスコットランドを基盤としており、スコットランド啓蒙主義(英語版)の不朽の遺産である。この時代にブリタニカはある若い編集者、ウィリアム・スメリによって初版の3巻から、大勢の権威によって書き綴られた20巻へと変わった。→ウィキ
ロンドンにあるジェフリーの家でシドニー・スミス(Sydney Smith)、ヘンリー・ブルーアム(Henry Brougham), フランシス・ホーナー(Francis Horner)らが集まった際にスミスが新しい文芸雑誌の発案をし、それがきっかけで1802年10月10日の『エディンバラ・レビュー』(Edinburgh Review )創刊に至った。 当初『エディンバラ・レビュー』には編集者がおらず、最初の3号はスミスの手によって編集がなされたが、彼がロンドンに発つ際に業務はジェフリーの手に委ねられ、1803年から1829年の間、上院での弁護士業務の傍らで当雑誌の編集者を一人で務めた(33号と34号、及び1813年から1814年のアメリカ滞在期間を除く。→ウィキ
1818年ー『エディンバラ・レビュー』フランシス・ジェフリー「書評『ホール艦長の琉球航海記』」
パーシー・ビッシュ・シェリー Percy Bysshe Shelley (1792-1822) はイギリス・ロマンティシズムを代表する詩人である。シェリーはロマンティシズムの詩人たちはもとよりイギリス文学全体の伝統から見ても、社会的な関心を強く打ち出した異才であったといえる。
映画「ローマの休日」真実の口の前で新城良一氏/同じくスペイン階段→現在はスペイン広場付近の地下鉄入り口付近に階段を上らずに上にいけるエレベーターが設置されている。また、保護のため広場での飲食は禁じられており、ローマの休日のシーンのようにジェラートを食べる事はできない。/スペイン階段のすぐ脇に、イギリスの詩人「キーツ」が暮らしたアパートがあります。バイロンも一時期居候していたという、その小さなアパートは、現在ではキーツ&バイロン記念館として公開されています。→上野真弓
キーツの横顔(ジョセフ・セヴァン画)/キーツ・シェリー・メモリアル・アソシエーションは、ローマ観光の中心的場所のひとつ「スペイン広場」の大階段の脇にある。キーツは、イギリス人の詩人、この場所で亡くなられたので彼の遺品などを展示。
リアルト橋 は、ヴェネツィアのカナル・グランデに架かる4つの橋の一つ。「白い巨象」とも呼ばれる。 この橋の周辺は海抜が比較的高く洪水の被害も少ないため、ヴェネツィアでは最も早くこの周りに集落ができ商業の中心地となった。最初は木製の跳ね橋で、銀行や商品取引所で賑わっていたため「富の橋」と呼ばれた。→ ウィキ
400を超えるイタリアの国立美術館の中でも入館者数3位を誇るウフィツィ美術館。ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」や「春」、レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの三大巨匠の作品が展示されたルネサンスの栄光の歴史を物語る.。
レオナルド「最後の晩餐」
サン・マルコ広場はヴェネツィアの中心的な広場で、回廊のある建物に囲まれ、ドゥカーレ宮殿やサン・マルコ寺院などがある。ヴェネツィアの広場は方言でカンポと呼ばれるが、サン・マルコ広場は別格であり、ピアッツァと呼ばれる。世界で最も美しい広場とも言われており、観光名所のほか、海からの玄関口でもある。→ ウィキ
セザンヌ街道・セザンヌの記念碑ーサント・ビクトワール山を描くために、たまに昼食をとりにこの街に立ち寄ったセザンヌ。彼がなくなってから100年後に、この街はセザンヌへのお礼としてこの碑を作った。
エクス=アン=プロヴァンスまたはエクサンプロヴァンスは、フランスのブーシュ=デュ=ローヌ県の古都。略称はエクス。プロヴァンス伯爵領の首都として古くから繁栄し、現在は学術・芸術都市としてプロヴァンス地方の観光の拠点となっている。ウィキペディア
2016年 オペラ座/シテ島に聳える壮大なノートル・ダム大聖堂
1973年8月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第三十八巻「江見水陰/バジル・ホール・チェンバレン/坪内逍遥」昭和女子大学
芦屋市に谷崎潤一郎記念館があるという。未だ行ったことがない。ネットで見ると、谷崎潤一郎記念館は、開館より30年以上が経過し、施設の老朽化が進んでいることから、施設の保全・長寿命化を図るため、空調換気設備改修・トイレ改修・消防設備改修等の改修工事を実施◇令和4年7月25日~令和5年3月末(予定)
『昭和6年 初版本 ◆ 谷崎潤一郎 ◆ 卍 ◆ 中川修造 装幀 ◆改造社』/谷崎潤一郎「都わすれの記」昭和23年 限定品 総木版手摺 挿絵 和田三造 創元社/谷崎潤一郎直筆サイン入『少将滋幹の母』/谷崎潤一郎 「春琴抄 自筆原稿複製」中央公論社 、昭45 限定五百部 帙 函 谷崎松子添え書き(印刷)付
樋口富麻呂描く「春琴」
☆1934年1月1日『南島』弟9号 石川正通「比嘉俊成を語る 琉友素描・その1」(略)潤一郎対春夫の諸相は不思議にも俊成対正通のそれに似通って居る。幸田露伴の如き老大家はさておき、今の文壇の中堅大家のうちで最も漢学の素養の深いのは志賀直哉、谷崎潤一郎、佐藤春夫の3人である。死んだ芥川龍之介も死んだ末吉麦門冬のやうによく漢文が読めた。沖縄には真境名図書館長や京都の崎山先生のやうな漢学の大家が居られる。
1947年9月 谷崎潤一郎『磯田多佳子のこと』全國書房〇磯田又一郎氏による「川沿いの家」義母、多佳の住まいを描いた日本画この図は、後年改装後の絵だという。小庭には、多佳の愛した花”紫陽花”が咲いている。すぐ下に白川がさらさらとながれ、吉井勇の有名な歌”かにかくに祇園はこひし寐(ぬ)るときも枕のしたを水のながるる”を実感出来る風景である
1991年12月 長谷川敬『旅情の文学碑』毎日新聞社 「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を 隔てて 男女哉 漱石」
1951年5月『うるま新報』/1951年12月
〇谷崎潤一郎☆大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、探偵小説の分野に新境地を見出したり、映画に深い関心を示したりもし、自身の表現において新しい試みに積極的な意欲を見せた。関東大震災の後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。続けて『卍』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けていく。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』と『陰翳禮讚』の評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や2度目の結婚・離婚を経て、1935年(昭和10年)に、元人妻の森田松子と3度目の結婚をして私生活も充実する。太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞、朝日文化賞受賞)→ウィキ
1958年10月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第10巻 「E・F・フェノロサ」「L・L・ジェーンズ」「依田學海」
依田學海[生]天保4(1833).11.24. 江戸[没]1909.11.27. 東京
漢学者,演劇評論家,劇作家。名は朝宗,字は百川,通称七郎,学海は号。演劇改良の局外指導者の先駆をなした。幼時,佐倉藩の学校で漢学を修め,長じて経史を藤森弘庵の塾に学んだ。儒官となり,権大参事,修史局編輯官,文部書記官などを歴任,1885年退官。以後,小説,戯曲の執筆に従事。書記官時代,松田道之らと 12世守田勘弥や9世市川団十郎に演劇改良の趣旨を吹込み,新富座開場公演『松栄千代田神徳』に参与,団十郎の求古会にも関係した。退官後は演劇改良会創立に参加,改良脚本『吉野拾遺名歌誉』を発表。その後日本演芸矯風会,日本演芸協会にも参加したが,急進的,非妥協的改良論により疎外され,その実現を伊井蓉峰の済美館に託したが,『政党美談淑女之操』上演だけで終った。戯曲に『拾遺後日連枝楠』,評論に『新評戯曲十種』などがある。
06/06: 儀間比呂志の世界②
儀間比呂志 1923年3月5日 - 2017年4月11日
ぼくは大正12年に、沖縄の那覇の久米村でうまれた。(妹に山田和子、湖城智子、弟に達、進)久米村は、中国の三十六姓の子孫です。琉球王朝が、中国から、技術者とかを招聘した。今でいう技術導入ですね。そして久米村に集めて住まわせたわけです。このことを考えてみると、中国人は世界中にちらばっていて、華僑になっていますが、なかなかその国々の中へ同化してしまうことがない。ところが沖縄では、そういう中国人の根強い意識さえ、沖縄化してしまった。沖縄には華僑はない。みんな沖縄人になって、ずっときた。そうした子孫です、ぼくは。小さい頃の記憶だと、村ではよく中国風の祭りをやったり、清明祭という」祖先をまつる祭りを、一族一門集まってやったことがあった。→1973年1月『やぽねしあ』儀間比呂志「民衆の絵を彫り続けて」
1940年5月7日 儀間比呂志、家を出て那覇港(母が見送り)から神戸、横浜と船を乗り継ぎ読谷村の呼び寄せ移民とともに15日目にテニアン島で下船した。→儀間比呂志「私の原風景」(1989年11月 『沖縄美術全集4』付録)。
テニアン島には、1万人以上の県人が住んでいる。”沖縄県人の行くところ、歌、三味線あり〟で、そこに常設の郷土劇場があっても、不思議ではなかった。その球陽座という定員3百名ぐらいの小さな劇場は、異郷に「ふるさと」を求める人びとで膨れあがっていた。人びとは、役者がウチナーグチで演ずる一挙手投足に泣き、笑い、喝采し、フィフィと指笛を鳴らす。私の目頭も熱くなりっぱなしだった。なかでも座長・渡嘉敷守良の舞う「諸屯」は圧巻。長身に、色鮮やかな紅型衣裳をまとい、華麗に空間を切る名優の絶妙な古典女踊りは、妖しいまでに美しく、私たちを陶然とさせた。以来、昭和17年末、座が閉鎖されるまでの2年余を私は、道具方をし、太鼓をたたき、芝居絵を描きながら、沖縄芸能の世界に、どっぷりと漬かった。私のテニアンの青春の、もう一つのエポックは、わずか5か月ではあったが、彫刻家杉浦佐助先生に師事して、本格的に造形の基礎と理論を学んだことだろう。満二十歳にになった私は、郷里から徴兵検査の令状を受け取った。テニアンに残れば徴兵猶予もできたが杉浦先生は「帰りなさい。生きて、良い絵を描くんだ」その言葉を胸に、昭和18年5月12日、テニアンの青春に別れを告げた。→1983年8月29日『読売新聞』儀間比呂志「青春紀行124 南洋の果て・・・沖縄の心」
2008年5月 儀間比呂志『南洋いくさ物語 テニアンの瞳』海風社
沖縄で徴兵検査に合格して、横須賀の海軍に入り工作兵にされた。一応の訓練期間が終わると南方方面へ行く軍艦に乗るために待機。防空壕を掘ったり、軍需工場の警備をしたりしていた。1年ぐらいで終戦。沖縄は玉砕して、親兄弟はみんな死んでしまっているという。沖縄へは帰れない。兵舎から出ないといけない。敗戦袋一つかついで復員列車にのった。その列車の終点が大阪。焼野原をうろうろして、阿倍野の寺田町、あの当たりはまだ家が残っていて、そこである家の2階に下宿した。→1973年1月『やぽねしあ』儀間比呂志「民衆の絵を彫り続けて」
1946年春ー大阪市立美術館に新設された美術研究所洋画部で、赤松麟作、須田国太郎、小磯良平の先生たちから油絵の指導を受けた(儀間比呂志「若い日の私」)。
1950年4月、大阪市立美術館附設美術研究所で一緒に学んでいた村上夫美恵(1927年生。京都丹波)と結婚
儀間比呂志が1951年に沖縄の家族や末弟・進に宛てた手紙。この手紙が届いて、6月に長男が誕生/1968年9月ー上野の行動展で儀間比呂志と末弟・進氏夫妻。このころ上京の度に進氏宅に泊まる。
1955年ー高橋亨「自費出版にはげんだ初期から」〇大阪の心斎橋筋で似顔絵かきをしていた儀間比呂志に合ったときのことを、ぼんやりとだが、覚えている。新聞記者として美術を担当しはじめてまもない1955年頃だったと思う。そのころ似顔絵かきのアルバイトをする画家たちのことが話題になっていたのであろう。それで取材に訪れた私に、かれは新聞記者には話をしないことにしているが、あんたならええといいながら近くの喫茶店にさそってくれた。1人百円で1日5百円くらの稼ぎになればさっさと引き揚げることにしていたと『儀間比呂志が沖縄について彫って語る本』(1982年3月・みやざき書店刊ー本文は1980年の朝日新聞連載対談再録)で語っているが、そのときも確かそんなことをいいながら似顔絵かきの道具を片付けていたような記憶がある。→1994年5月 『版画集 儀間比呂志の沖縄』海風社
〇高橋 亨 Takahashi Toru
1927年神戸市生まれ。美術評論家、大阪芸術大学名誉教授。
東京大学文学部を卒業後、1952年に産経新聞大阪本社に入り、文化部記者として主に展覧会評など美術関係を担当して11年後に退社。具体美術協会の活動は結成直後から実見し、数多くの批評を発表。美術評論活動を続けながら1971年より26年間、大阪芸術大学教授を務める。兼務として大阪府民ギャラリー館長(1976―79)、大阪府立現代美術センター館長(1979―87)。大阪府民ギャラリーでは、具体解散後初の本格的な回顧展「具体美術の18年」(1976)開催と、詳細な記録集『具体美術の18年』の発行に尽力。その他、徳島県文化の森建設顧問として徳島県立近代美術館設立に参画し同館館長(1990―91)、滋賀県立近代美術館館長(2003―06)を歴任。
1956年5月12日~14日 第一相互銀行(3階)「儀間比呂志 個人展」〇私は現代の沖縄に生きる人間像への創造を続けています。現代人の苦悩不安あらゆる困難なる時代にたくましく生きるオキナワのすがたは私に大きな感動をあたへます。出品作『生きる』『待つ』『あんまー』等はその一連のこころみですが造形的な処理に未だ難点を残して居りますし思想と造形を如何に立体的に構式するかが今後の私の課題なのです。
1956年5月16日『沖縄タイムス』新川明「沖縄画壇の収穫ー(儀間比呂志個展評)」
1957年3月 儀間比呂志・野口昭二『詩と版画 琉球』ユマニテ書店(大阪市南区櫓町14)。→1957年5月『図書新聞』火野葦平「『ちぎれた縄』という芝居を書いていて、自分も沖縄の苦しみのなかに入ってみようと試みたばかりの私には、この、詩と版画とで彩られた『琉球』という美しい本を、異様な息苦しさなしでは、最後のページまで見終わることができなかった・・・」
1957年5月『新日本文学』儀間比呂志(表紙絵)/1957年11月『新日本文学』山之口貘「沖縄島の霜多正次」
1957年6月9日『琉球新報』石野朝季「関西の沖縄地帯ー郷里の体臭ただよう ミナト神戸に沖縄通いの船」/1957年10月27日「商都に生きる(2)儀間比呂志ー商都のボヘミアン 画面に”生きるうた〟を」〇『何んやて”商都に生きる〟?そらきみ、オレの場合はちがうな。そらたしかに、ここでメシ食って、ここの空気を吸って・・・つまりここで生きてるにはちがいないが、ほんとのいみで”生きる〟となると”沖縄に生きる〟とでも云いたいな。』のっけからこうである。うるさい男だ。が、かれのいうのももっともなはなし。かれくらい商都に似つかわしくない風体の人間も少ない。
儀間比呂志「母と子」1972年
1957年3月『第9回沖展』/1958年3月『第10回沖展』儀間比呂志「那覇の市場」/1959年3月『第11回沖展』儀間比呂志「荒地」「働く女」
右1958年12月『琉大文学』/『琉球風物版画集』
1960年1月『オキナワグラフ』「僕は特派員ー石野朝季(琉球新報東京総局記者)、植木清直(琉球放送東京支社)、宮城直温(沖縄テレビ放送東京支社編成部)、遠山一平(琉球新報関西支局記者)、新川明(沖縄タイムス関西支社記者)、島袋俊一(沖縄タイムス鹿児島支局記者)、新田卓磨(琉球新報福岡支局記者)
1961年4月30日『琉球新報』「小学生のころからわたしは絵が好きでした。これは、担任の先生が今も沖縄で活躍しておられる画家の大嶺政寛さんで、つねに絵の話を聞かされていたせいもあったようです。・・・」/写真ー儀間比呂志の父・昌(次男、兄に盛)、母・初子(蔡氏神山家)
1963年6月11日~13日 沖縄タイムスホール「第4回 儀間比呂志作品展」
1966年『現代沖縄人物三千人ー人事録ー』沖縄タイムス社
1966年7月 沖縄タイムスホール「第5回 儀間比呂志個展」
宮本常一 1907(明治40)年〜1981(昭和56)年
1907(明治40)年、大島郡家室西方村(現 周防大島町)で生まれました。大阪府天王寺師範学校を卒業後、小学校の教員となったころから民俗学への関心を深め、民俗学者・柳田國男の指導を受けました。1939(昭和14)年、渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアム(現神奈川大学日本常民文化研究所)の研究員となります。以後、全国の離島や農山漁村などを訪ね、特に「歩く・見る・聞く」ことを大事にしながら地域の人々と語らい、記録し、生活の移り変わりを明らかにしました。
常一は「暮らしの中の工夫こそが文化」と考え、周防大島では、常一の呼び掛けで生活文化の継承を目的に、失われ始めていた民具が集められ、それらは「久賀の諸職用具」「周防大島東部の生産用具」として国の重要有形民俗文化財に指定されました。また、周防猿まわしの復活を支えたほか、離島振興法の成立に力を尽くし、離島でも水道や電気が使えるようになりました。日本観光文化研究所所長、武蔵野美術大学教授などを務め、満73歳で亡くなりました。→山口県の先人たち
儀間比呂志ー1967年11月『新沖縄文学』7号「理知的な人<追悼・安谷屋正義>『作家は死んでからが勝負だよ、儀間くん』といつか彼がもらした言葉がいまあらためて私の胸を打つ。」/1971年12月『新沖縄文学』21号「儀間比呂志版画集」/1974年10月『新沖縄文学』26号「表紙絵」/1975年2月『新沖縄文学』27号「表紙絵」/1975年11月『新沖縄文学』30号「土地に根ざした『心』
1968年8月『今日の琉球』「好評を博した儀間比呂志個展」
1969年7月 『儀間比呂志版画集 沖縄』題字/榊莫山〇高橋亨「儀間比呂志の具象画と沖縄」
1970年4月 霜多正次『虜囚の哭』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)
1970年9月 瀬長亀次郎『沖縄人民党ー闘いの二十五年』新日本出版社(装幀・儀間比呂志)/8月7日 『人民』儀間比呂志「沖縄を描くー絵画を語る」
1970年 前川清治・横山広『白い波濤 夜明けをひらく看護婦たち』 労働旬報社 (儀間進氏提供)
1970年11月 川平朝申 再話/儀間比呂志 版画『ねむりむし じらぁ』福音館書店
1971年1月 霜多正次『明けもどろ』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)
ぼくは大正12年に、沖縄の那覇の久米村でうまれた。(妹に山田和子、湖城智子、弟に達、進)久米村は、中国の三十六姓の子孫です。琉球王朝が、中国から、技術者とかを招聘した。今でいう技術導入ですね。そして久米村に集めて住まわせたわけです。このことを考えてみると、中国人は世界中にちらばっていて、華僑になっていますが、なかなかその国々の中へ同化してしまうことがない。ところが沖縄では、そういう中国人の根強い意識さえ、沖縄化してしまった。沖縄には華僑はない。みんな沖縄人になって、ずっときた。そうした子孫です、ぼくは。小さい頃の記憶だと、村ではよく中国風の祭りをやったり、清明祭という」祖先をまつる祭りを、一族一門集まってやったことがあった。→1973年1月『やぽねしあ』儀間比呂志「民衆の絵を彫り続けて」
1940年5月7日 儀間比呂志、家を出て那覇港(母が見送り)から神戸、横浜と船を乗り継ぎ読谷村の呼び寄せ移民とともに15日目にテニアン島で下船した。→儀間比呂志「私の原風景」(1989年11月 『沖縄美術全集4』付録)。
テニアン島には、1万人以上の県人が住んでいる。”沖縄県人の行くところ、歌、三味線あり〟で、そこに常設の郷土劇場があっても、不思議ではなかった。その球陽座という定員3百名ぐらいの小さな劇場は、異郷に「ふるさと」を求める人びとで膨れあがっていた。人びとは、役者がウチナーグチで演ずる一挙手投足に泣き、笑い、喝采し、フィフィと指笛を鳴らす。私の目頭も熱くなりっぱなしだった。なかでも座長・渡嘉敷守良の舞う「諸屯」は圧巻。長身に、色鮮やかな紅型衣裳をまとい、華麗に空間を切る名優の絶妙な古典女踊りは、妖しいまでに美しく、私たちを陶然とさせた。以来、昭和17年末、座が閉鎖されるまでの2年余を私は、道具方をし、太鼓をたたき、芝居絵を描きながら、沖縄芸能の世界に、どっぷりと漬かった。私のテニアンの青春の、もう一つのエポックは、わずか5か月ではあったが、彫刻家杉浦佐助先生に師事して、本格的に造形の基礎と理論を学んだことだろう。満二十歳にになった私は、郷里から徴兵検査の令状を受け取った。テニアンに残れば徴兵猶予もできたが杉浦先生は「帰りなさい。生きて、良い絵を描くんだ」その言葉を胸に、昭和18年5月12日、テニアンの青春に別れを告げた。→1983年8月29日『読売新聞』儀間比呂志「青春紀行124 南洋の果て・・・沖縄の心」
2008年5月 儀間比呂志『南洋いくさ物語 テニアンの瞳』海風社
沖縄で徴兵検査に合格して、横須賀の海軍に入り工作兵にされた。一応の訓練期間が終わると南方方面へ行く軍艦に乗るために待機。防空壕を掘ったり、軍需工場の警備をしたりしていた。1年ぐらいで終戦。沖縄は玉砕して、親兄弟はみんな死んでしまっているという。沖縄へは帰れない。兵舎から出ないといけない。敗戦袋一つかついで復員列車にのった。その列車の終点が大阪。焼野原をうろうろして、阿倍野の寺田町、あの当たりはまだ家が残っていて、そこである家の2階に下宿した。→1973年1月『やぽねしあ』儀間比呂志「民衆の絵を彫り続けて」
1946年春ー大阪市立美術館に新設された美術研究所洋画部で、赤松麟作、須田国太郎、小磯良平の先生たちから油絵の指導を受けた(儀間比呂志「若い日の私」)。
1950年4月、大阪市立美術館附設美術研究所で一緒に学んでいた村上夫美恵(1927年生。京都丹波)と結婚
儀間比呂志が1951年に沖縄の家族や末弟・進に宛てた手紙。この手紙が届いて、6月に長男が誕生/1968年9月ー上野の行動展で儀間比呂志と末弟・進氏夫妻。このころ上京の度に進氏宅に泊まる。
1955年ー高橋亨「自費出版にはげんだ初期から」〇大阪の心斎橋筋で似顔絵かきをしていた儀間比呂志に合ったときのことを、ぼんやりとだが、覚えている。新聞記者として美術を担当しはじめてまもない1955年頃だったと思う。そのころ似顔絵かきのアルバイトをする画家たちのことが話題になっていたのであろう。それで取材に訪れた私に、かれは新聞記者には話をしないことにしているが、あんたならええといいながら近くの喫茶店にさそってくれた。1人百円で1日5百円くらの稼ぎになればさっさと引き揚げることにしていたと『儀間比呂志が沖縄について彫って語る本』(1982年3月・みやざき書店刊ー本文は1980年の朝日新聞連載対談再録)で語っているが、そのときも確かそんなことをいいながら似顔絵かきの道具を片付けていたような記憶がある。→1994年5月 『版画集 儀間比呂志の沖縄』海風社
〇高橋 亨 Takahashi Toru
1927年神戸市生まれ。美術評論家、大阪芸術大学名誉教授。
東京大学文学部を卒業後、1952年に産経新聞大阪本社に入り、文化部記者として主に展覧会評など美術関係を担当して11年後に退社。具体美術協会の活動は結成直後から実見し、数多くの批評を発表。美術評論活動を続けながら1971年より26年間、大阪芸術大学教授を務める。兼務として大阪府民ギャラリー館長(1976―79)、大阪府立現代美術センター館長(1979―87)。大阪府民ギャラリーでは、具体解散後初の本格的な回顧展「具体美術の18年」(1976)開催と、詳細な記録集『具体美術の18年』の発行に尽力。その他、徳島県文化の森建設顧問として徳島県立近代美術館設立に参画し同館館長(1990―91)、滋賀県立近代美術館館長(2003―06)を歴任。
1956年5月12日~14日 第一相互銀行(3階)「儀間比呂志 個人展」〇私は現代の沖縄に生きる人間像への創造を続けています。現代人の苦悩不安あらゆる困難なる時代にたくましく生きるオキナワのすがたは私に大きな感動をあたへます。出品作『生きる』『待つ』『あんまー』等はその一連のこころみですが造形的な処理に未だ難点を残して居りますし思想と造形を如何に立体的に構式するかが今後の私の課題なのです。
1956年5月16日『沖縄タイムス』新川明「沖縄画壇の収穫ー(儀間比呂志個展評)」
1957年3月 儀間比呂志・野口昭二『詩と版画 琉球』ユマニテ書店(大阪市南区櫓町14)。→1957年5月『図書新聞』火野葦平「『ちぎれた縄』という芝居を書いていて、自分も沖縄の苦しみのなかに入ってみようと試みたばかりの私には、この、詩と版画とで彩られた『琉球』という美しい本を、異様な息苦しさなしでは、最後のページまで見終わることができなかった・・・」
1957年5月『新日本文学』儀間比呂志(表紙絵)/1957年11月『新日本文学』山之口貘「沖縄島の霜多正次」
1957年6月9日『琉球新報』石野朝季「関西の沖縄地帯ー郷里の体臭ただよう ミナト神戸に沖縄通いの船」/1957年10月27日「商都に生きる(2)儀間比呂志ー商都のボヘミアン 画面に”生きるうた〟を」〇『何んやて”商都に生きる〟?そらきみ、オレの場合はちがうな。そらたしかに、ここでメシ食って、ここの空気を吸って・・・つまりここで生きてるにはちがいないが、ほんとのいみで”生きる〟となると”沖縄に生きる〟とでも云いたいな。』のっけからこうである。うるさい男だ。が、かれのいうのももっともなはなし。かれくらい商都に似つかわしくない風体の人間も少ない。
儀間比呂志「母と子」1972年
1957年3月『第9回沖展』/1958年3月『第10回沖展』儀間比呂志「那覇の市場」/1959年3月『第11回沖展』儀間比呂志「荒地」「働く女」
右1958年12月『琉大文学』/『琉球風物版画集』
1960年1月『オキナワグラフ』「僕は特派員ー石野朝季(琉球新報東京総局記者)、植木清直(琉球放送東京支社)、宮城直温(沖縄テレビ放送東京支社編成部)、遠山一平(琉球新報関西支局記者)、新川明(沖縄タイムス関西支社記者)、島袋俊一(沖縄タイムス鹿児島支局記者)、新田卓磨(琉球新報福岡支局記者)
1961年4月30日『琉球新報』「小学生のころからわたしは絵が好きでした。これは、担任の先生が今も沖縄で活躍しておられる画家の大嶺政寛さんで、つねに絵の話を聞かされていたせいもあったようです。・・・」/写真ー儀間比呂志の父・昌(次男、兄に盛)、母・初子(蔡氏神山家)
1963年6月11日~13日 沖縄タイムスホール「第4回 儀間比呂志作品展」
1966年『現代沖縄人物三千人ー人事録ー』沖縄タイムス社
1966年7月 沖縄タイムスホール「第5回 儀間比呂志個展」
宮本常一 1907(明治40)年〜1981(昭和56)年
1907(明治40)年、大島郡家室西方村(現 周防大島町)で生まれました。大阪府天王寺師範学校を卒業後、小学校の教員となったころから民俗学への関心を深め、民俗学者・柳田國男の指導を受けました。1939(昭和14)年、渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアム(現神奈川大学日本常民文化研究所)の研究員となります。以後、全国の離島や農山漁村などを訪ね、特に「歩く・見る・聞く」ことを大事にしながら地域の人々と語らい、記録し、生活の移り変わりを明らかにしました。
常一は「暮らしの中の工夫こそが文化」と考え、周防大島では、常一の呼び掛けで生活文化の継承を目的に、失われ始めていた民具が集められ、それらは「久賀の諸職用具」「周防大島東部の生産用具」として国の重要有形民俗文化財に指定されました。また、周防猿まわしの復活を支えたほか、離島振興法の成立に力を尽くし、離島でも水道や電気が使えるようになりました。日本観光文化研究所所長、武蔵野美術大学教授などを務め、満73歳で亡くなりました。→山口県の先人たち
儀間比呂志ー1967年11月『新沖縄文学』7号「理知的な人<追悼・安谷屋正義>『作家は死んでからが勝負だよ、儀間くん』といつか彼がもらした言葉がいまあらためて私の胸を打つ。」/1971年12月『新沖縄文学』21号「儀間比呂志版画集」/1974年10月『新沖縄文学』26号「表紙絵」/1975年2月『新沖縄文学』27号「表紙絵」/1975年11月『新沖縄文学』30号「土地に根ざした『心』
1968年8月『今日の琉球』「好評を博した儀間比呂志個展」
1969年7月 『儀間比呂志版画集 沖縄』題字/榊莫山〇高橋亨「儀間比呂志の具象画と沖縄」
1970年4月 霜多正次『虜囚の哭』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)
1970年9月 瀬長亀次郎『沖縄人民党ー闘いの二十五年』新日本出版社(装幀・儀間比呂志)/8月7日 『人民』儀間比呂志「沖縄を描くー絵画を語る」
1970年 前川清治・横山広『白い波濤 夜明けをひらく看護婦たち』 労働旬報社 (儀間進氏提供)
1970年11月 川平朝申 再話/儀間比呂志 版画『ねむりむし じらぁ』福音館書店
1971年1月 霜多正次『明けもどろ』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)
1978年6月 雑誌『青い海』№74「青い海ギャラリー 稲嶺成祚『母と子』」
2017年10月『稲嶺成祚 画集』/稲嶺成祚「新城栄徳」
左が岸本徹也氏、稲嶺成祚氏
2014年5月6日~12日 リウボウ7階・美術サロン「稲嶺成祚 絵画展」
左が新城栄徳、稲嶺成祚氏
1982年 雑誌『青い海』10月号 「座談会・”沖縄”を描くということ」(喜久村徳男・金城規克・宮城明/司会・稲嶺成祚)
06/03: 1994年5月 『版画集 儀間比呂志の沖縄』海風社
1994年5月 『版画集 儀間比呂志の沖縄』海風社
〇大江健三郎「真に沖縄的な画家ー儀間比呂志の仕事は、あえてこの言葉をもちいれば、いまやわれわれの南島の絵画の代表ということができるだろう。(略)いま本土日本からおしよせる沖縄の自然破壊、また人間のうちなる自然破壊について、もっとも暗くもっとも激しい怒りをあらわしているのを、僕は知らぬということはできない。」
〇高橋亨「自費出版にはげんだ初期から」
1995年8月 儀間比呂志『沖縄戦 朝鮮人軍夫と従軍慰安婦』清風堂書店ー□船越義彰「喜屋武岬海岸」、□儀間比呂志ー私の沖縄戦版画〇実際、戦争の本当の犠牲者は、子どもたちではないだろうか。私たちは、あの状況のなかで、戦争に反対することはできなかった。その結果、ずるずると、破滅にのめりこんだ。そして、多くの子どもたちを不幸な目に逢わせた。言うなれば、当時の大人一般は、等しく戦犯であろう。「あの時は・・・・・・」の言いわけはすまい。しかし黙するわけにはいかない。やることは、再びあの愚をくりかえさない努力をすることではないだろうか。沖縄県民が体験した「いくさは、ならんどォ」の執念には、人間にとって根源的な人類の「共存」という命題がこめられている。あとがき〇作家の船越義彰氏が寄せられた自らの体験記は、沖縄戦について、私の言いたらない面を補って余りあるものがある。感謝の意を」表したい。なお、取材の面では、山内栄氏に大変お世話になった。あわせて、本書の刊行を心よく引き受けて下さった清風堂の面屋龍延社長にも心からお礼を申しのべたい。
儀間比呂志「むんじゅる笠」
1997年4月 儀間比呂志『マジムンのうた』ルック(東京都豊島区巣鴨1-20-9)
2004年5月 儀間比呂志『沖縄戦版画シリーズ 戦争と平和』増川白陽「タイトル文字」画廊サエラ(松岡勇)/画廊サエラの松岡勇氏(左)、儀間比呂志
2005年10月3日『しんぶん赤旗』「日曜インタビュー/儀間比呂志さんーハンセン病差別なくしたい」
2006年6月 琉球大学文芸部『伝言』創刊号(表紙・儀間比呂志)
2009年9月『詩画集 琉球愛歌』右の儀間作品は1981年4月 野ざらし延男『沖縄俳句総集』にも使われている。
2009年9月 儀間比呂志×MONGORU800『詩画集 琉球愛歌』ハイウェーブ〇新川明(沖縄タイムス社社長)(前略)儀間版画には土俗的な祭りや風物を描く風土記的な世界と米軍基地や沖縄戦を告発する社会派的世界があるが、一貫しているのは沖縄=琉球に向ける深い愛のまなざしであり、権力の不条理に対する怒りと抵抗の意志である。それはつまるところ人間性の追求に立脚するものだが、こうした儀間版画の世界に<MON8>が発する詩句のエッセンスが対置されるとき、両者の魂のメッセージは共鳴し、増幅されて新しい世界が創り出されることに驚嘆せざるを得ないのである。まさに世代を超えて響き合う、沖縄発の人間賛歌がここに誕生していることを確認できるからである。〇儀間崇ー僕が先生を知ったのは5年前。「百々」の制作にあたって、たくさんの作品を見せて頂きました。(略)戦前に十代で家出!、南洋での暮らし、戦後の大阪、現在の沖縄・・・。「ボクは動いてないと死んでしまいますよ。ハッハッハ・・・」とシャレにならないジョークを飛ばされる程、先生は常に動き続け、先の先まで見据え、今も日々作品を創り続けています。その姿を見ると、もの凄いエネルギーをもらえて、自分もガンガン行かないと!という気になります。僕は先生と同じ儀間というのですが、儀間家には昔から「亀は食べちゃダメだ」という言い伝えがあって、その事を詩にした曲があるのですが、先生にも同じ言い伝えがあり、ルーツは一緒だと分ったり・・・
4月10日ー平良次子さん、豊見山愛さん/ひより
2018年3月17日~4月10日 南風原文化センター「儀間比呂志1周忌追悼特別展 絵本『ツルとタケシ』原画展」
2018年5月18日 写真左から、前列ー佐喜眞道夫氏、新川明氏。後列ー池原盛浩氏、豊見山愛さん、新城栄徳、喜友名ひとみさん(渡邊愛依さん撮影)
2018年6月 『版画芸術』№180 豊見山愛「儀間比呂志ー木版に刻んだ沖縄の記憶」
06/03: 南方同胞援護会/沖縄協会
□1926年、渋沢栄一の孫・渋沢敬三が石黒忠篤と台湾から来沖。沖縄県沖縄図書館で仲吉朝助の『琉球産業資料』を複写、これは後に小野武夫によって『近世地方経済史料』に収録される。渋沢は案内役をつとめた沖縄県殖産課長・田村浩の著『琉球共産村落之研究』を岡書院から出版させた。同行した石黒は石黒忠悳の息子、妻は穂積重陳の娘で渋沢栄一の孫娘。渋沢敬三は南方同胞援護会(現・沖縄協会)の初代会長で、また東洋大学名誉学位第1号でもある。
右端が吉田嗣延
1968年11月
『沖縄問題基本資料集』南方同胞援護会
編集スタッフ本会編集委員/責任者=吉田嗣延 委員=城間得栄、宮良長欣、河野忍、久保田芳郎、比嘉正詔 沖縄資料センター編集委員/新崎盛暉、屋宜宣仁、我部政男、比屋根照夫
1972年7月
『追補版 沖縄問題基本資料集』南方同胞援護会
財団法人・沖縄協会(東京都千代田区霞が関3-6-15グローリアビル内)
吉田嗣延『小さな闘いの日々ー沖縄復帰のうらばなしー』文教商事/吉田嗣義『老人ホームはいまー現場からの報告』ミネルヴァ書房
沖縄大学の吉田嗣延文庫/1930年3月『日本地理風俗大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社
山田實さんは二中樹緑会の会員であった。その樹緑会の古い写真には大嶺政寛・政敏兄弟も写っている。最近、大嶺隆氏が沖縄本や雑誌に沖縄にこだわって発言しているのが目につく。私は画家・大嶺政寛さんには色々と可愛がってもらっていた。政寛さんの弟が画家・政敏、その子が隆氏である。1984年ー国会図書館に寄って帰り沖縄協会に行き、吉田嗣延氏に挨拶すると河野忍さんを紹介された。河野さんは部下の隆氏に私を紹介した。隆氏は私の話を聞き機関紙『沖縄』で紹介してくれた。
河野忍さんハガキ→新城栄徳宛/河野さんが紹介されている沖縄の新聞1985年1月17日
グローリアビル入口で右・河野忍さん、新城栄徳
〇谷町4丁目界隈を散歩する。道路のあちこちでフイリヤブラン(斑入りヤブラン)が花を咲かせている。紫色の小さいもので穂状に咲いている。このヤブランの仲間を末吉麦門冬が号にしているので、あちこちで麦門冬に見つめられているようだ。大村益次郎(適塾に学ぶ)殉職難碑があった。大阪歴史博物館売店をのぞき、庁舎としては全国でも最も古い(設計・平林金吾、岡本馨/1926年竣工)大阪府庁舎を見る。玄関両脇にソテツがあった。次に大阪府警庁舎(設計・黒川紀章、2007年竣工、建設費617億円)を見る。70年代、青年運動に参加していたので、よくここ大阪府警の売店で警察資料を買った。その一つに霞が関警備研究会『警察用語辞典』(令文社1977年)が今でもある。
『警察用語辞典』は沖縄関係の団体について詳細に記している。索引で「お」を見ると、「沖共闘」「沖青委」「沖青同」「沖縄・小笠原返還同盟」「沖縄青年委員会」「沖縄青年同盟」で、何か懐かしい名前が並んでいる。沖青同は沖縄青年同盟の略で、昭和46年10月沖青委(海邦派)を発展的に解消し、結成した。昭和46年10月18日、活動家3名が衆議院本会議場に傍聴人として入った上、爆竹を鳴らしたり、「沖縄返還協定粉砕」のビラをまくという事案を起こした、などと記されている。今思うには「密約」復帰の事実がありながら、爆竹を鳴らしたぐらいで前科が付くのは如何なものか。前科にすべきは日米両政府ではなかろうか。「密約」は今も続いている。
下記の一泊学習会で配布された資料
1974年ー奈良で日本各地の沖縄出身の団体が集まり一泊学習会をした。私(新城栄徳)は彫刻家の金城実氏と徳田球一の弟・正次氏と同じ部屋であった。真夜中まで寝ながら正次氏と語り明かした。そのとき正次氏から徳田球一写真集を企画しているとの話が出た。
右端が吉田嗣延
1968年11月
『沖縄問題基本資料集』南方同胞援護会
編集スタッフ本会編集委員/責任者=吉田嗣延 委員=城間得栄、宮良長欣、河野忍、久保田芳郎、比嘉正詔 沖縄資料センター編集委員/新崎盛暉、屋宜宣仁、我部政男、比屋根照夫
1972年7月
『追補版 沖縄問題基本資料集』南方同胞援護会
財団法人・沖縄協会(東京都千代田区霞が関3-6-15グローリアビル内)
吉田嗣延『小さな闘いの日々ー沖縄復帰のうらばなしー』文教商事/吉田嗣義『老人ホームはいまー現場からの報告』ミネルヴァ書房
沖縄大学の吉田嗣延文庫/1930年3月『日本地理風俗大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社
山田實さんは二中樹緑会の会員であった。その樹緑会の古い写真には大嶺政寛・政敏兄弟も写っている。最近、大嶺隆氏が沖縄本や雑誌に沖縄にこだわって発言しているのが目につく。私は画家・大嶺政寛さんには色々と可愛がってもらっていた。政寛さんの弟が画家・政敏、その子が隆氏である。1984年ー国会図書館に寄って帰り沖縄協会に行き、吉田嗣延氏に挨拶すると河野忍さんを紹介された。河野さんは部下の隆氏に私を紹介した。隆氏は私の話を聞き機関紙『沖縄』で紹介してくれた。
河野忍さんハガキ→新城栄徳宛/河野さんが紹介されている沖縄の新聞1985年1月17日
グローリアビル入口で右・河野忍さん、新城栄徳
〇谷町4丁目界隈を散歩する。道路のあちこちでフイリヤブラン(斑入りヤブラン)が花を咲かせている。紫色の小さいもので穂状に咲いている。このヤブランの仲間を末吉麦門冬が号にしているので、あちこちで麦門冬に見つめられているようだ。大村益次郎(適塾に学ぶ)殉職難碑があった。大阪歴史博物館売店をのぞき、庁舎としては全国でも最も古い(設計・平林金吾、岡本馨/1926年竣工)大阪府庁舎を見る。玄関両脇にソテツがあった。次に大阪府警庁舎(設計・黒川紀章、2007年竣工、建設費617億円)を見る。70年代、青年運動に参加していたので、よくここ大阪府警の売店で警察資料を買った。その一つに霞が関警備研究会『警察用語辞典』(令文社1977年)が今でもある。
『警察用語辞典』は沖縄関係の団体について詳細に記している。索引で「お」を見ると、「沖共闘」「沖青委」「沖青同」「沖縄・小笠原返還同盟」「沖縄青年委員会」「沖縄青年同盟」で、何か懐かしい名前が並んでいる。沖青同は沖縄青年同盟の略で、昭和46年10月沖青委(海邦派)を発展的に解消し、結成した。昭和46年10月18日、活動家3名が衆議院本会議場に傍聴人として入った上、爆竹を鳴らしたり、「沖縄返還協定粉砕」のビラをまくという事案を起こした、などと記されている。今思うには「密約」復帰の事実がありながら、爆竹を鳴らしたぐらいで前科が付くのは如何なものか。前科にすべきは日米両政府ではなかろうか。「密約」は今も続いている。
下記の一泊学習会で配布された資料
1974年ー奈良で日本各地の沖縄出身の団体が集まり一泊学習会をした。私(新城栄徳)は彫刻家の金城実氏と徳田球一の弟・正次氏と同じ部屋であった。真夜中まで寝ながら正次氏と語り明かした。そのとき正次氏から徳田球一写真集を企画しているとの話が出た。
06/03: 那覇市史編集室(那覇市歴史博物館)
鎌倉芳太郎撮影「王冠」正面
佐野本に、「琉米歴史研究会」の喜捨場静夫インタビューで「(真栄平房敬によると)首里の尚家には那覇市歴史博物館に飾ってあるものより、ずっと立派な王冠があったそうです。(略)」と首里の尚家にあった王冠について述べている。鎌倉芳太郎の『沖縄文化の違宝』にはその首里にあった王冠の後面、横面の写真がある。幸いなことに鎌倉芳太郎は写真撮影メモを残してくれていてそれに王冠の寸法が記されていて王冠高さが18,9cm、ヘリは20、7cm、簪は31,8cmとなっている。上の前面と合わせてほぼイメージが出来ることになる。
那覇市立歴史博物館所蔵は高さが18,4cm、長径21,8cm、簪31,8cm、重さ605グラムとなっている。
□→1938年4月21日ー『大阪毎日新聞』「紙上琉球展覧会①」にも同様な記事がある。
王冠と皮弁服
2011年8月21日、那覇市歴史博物館に遊びに行くと、志村絵里奈学芸員が鎌倉芳太郎の『沖縄文化の遺宝』を前に王冠や衣裳の話をしてくれた。先ず、遺宝にある王冠の写真は正面と説明されているがこれは後面だという。正面は上左の新聞に載っているもの。また尚真王御後絵に「方心曲領」は明冊封使の記録には無いが清にはある。皮弁服は尚貞王から石帯をしなくなる。清からは反物でしか領賜されなかったので紋様がある。
2011年5月1・11日『新美術新聞』光田ゆり「新美術時評・震災後の美術」に「美術は非常時に無力ではないか、という言葉は、阪神大震災のときにも発されていた。しかし被災地のがれきのなかに人々が一心に探したのが、家族の写真や記念の品だったことをテレビで知ったとき、人が生きた歴史と記憶を証するものがどれほど大切かを改めて教えてもらえた。(略)個人の記憶は地域の記憶と相互に織り込みあい、時代や歴史をつくる。そこから人は引き剥がせない。人が考え求めたことを証する物品や情報を失うことは、人の存在を損ないかねない欠落をもたらしてしまうことなのだと思える。(略)今こそ大型展覧会中心主義を見直し、美術作品と資料・情報の蓄積の場としての美術館像を提示する時ではないだろうか。地域の文化の記憶を共有し新しい活動につなげていくー」と、人が考え求めたことを証する物品や情報を失うことは、人の存在を損ないかねないと強調している。
人は今、現在起こっていることは余り気にしないものである。無くなって初めて気づくものが多い。そこで記憶が薄れないうちに那覇市史編集室について回想してみる。
1945年4月ー『沖縄新報』『琉球週報』
1961年5月20日ー那覇・首里市制施行40周年を記念して市史編集を企画。担当は企画部企画室広報係(嘱託1人)
9月29日ー那覇市史編集委員会発足(委員15人)
1966年10月30日ー初の『那覇市史』刊行。『資料編第2巻上(近代新聞集成)』。
1967年7月15日ー那覇市史の編集、課相当の総務部市史編集室で本格的にスタート
1968年4月12日ー那覇市史編集室、家譜のマイクロ撮影を始める
1970年3月ー那覇市史編集室「市立那覇史料館」構想/史料館は、歴史博物館と文書館の両方の性格をかねた綜合資料館とし、設立時期は「那覇市制施行50周年を記念して市史編集室内に設立し、72年の復帰の時点で独立した建物をつくり移転」とある。建設経費として20万ドルを見込んでいた。主要事業に機関誌(市販)の発行をあげている。
1970年7月ー『那覇市史ニュース』第一号/第二号
1970年ー『那覇市史ニュース』第五号
1971年5月28日ー那覇市制50年記念「歴史民俗資料展」を那覇市民会館、琉球政府立博物館で開催
1974年3月4日ー新城栄徳、那覇市役所内の那覇市史編集室を初めて訪ね大阪で戦前に出された雑誌『新沖縄』を見る
1977年3月
1977年5月ー『那覇の民俗編集ニュース』№17