2019年5月 後田多敦(神奈川大学准教授)『救国と真世ー琉球・沖縄・海邦の史志』(株)Ryukyu企画(琉球館)☎098-943-6945 FAX:098-943-6947
上記の著に後田多氏が2013年に『うるまネシア』16号に載せた「幸地朝常(向徳宏)の『帰郷』の意味」、2012年『地域研フォーラム』29号の「全国版『人事興信録』のなかの幸地朝瑞」も収録されているので関連/新城栄徳「尚家と幸地家の関係図」/1980NENN0月 崎原貢『がじまるの集い 沖縄系ハワイ移民先達の話集』「幸地朝則」/2001年11月8日『沖縄タイムス』「脱清人の位はい ハワイに」/2005年10月『現代の理論』後田多敦「沖縄自立・独立派の源流ー十九世紀後期の『黒党』の思想と行動」/2005年1月『うるまネシア』6号 新城栄徳「『脱清人』群像」
2019年5月『月刊琉球』№66 後田多敦「百四十年を耐えた『堅忍因循の気質の土人』」/當間文信「農業の現場からー私の『ドラバタ』はホップ・ステップ・ジャンプ㊤」/しもじけいこ「宮古IN-バブル狂騒曲~住民の暮らし破壊?~」/与那嶺功「沖縄振興ー『明治維新150年』を問う 大東亜・植民政策・ナショナリズム⑩」
2016年7月 後田多敦『「海邦小国」をめざして「史軸」批評による沖縄「現在史」』出版舎Ⅿugen(〒900-0013 那覇市牧志1-4-31-2F ☎FAX:098-863-2562)
まえがき 「海邦小国」の記憶と現在
第1章 「海邦小国」をめざして
第2章 「海邦小国」思想の源流
第3章 「海邦小国」を拒むもの 批判論集
小説「テンペスト」の比喩と歴史像 歴史修正主義批判
沖縄の批評における「史軸」の重要性 ヤマトに立脚する内外の言説批判
沖縄とヤマトの歴史は「真逆」である 「冊封儀礼」再現に関する新聞投稿への批判
「ミスリード」の仕掛け 森宣雄氏の仲井眞知事擁護論批判
沖縄の歴史文化を否定する動き 二つの住民訴訟の持つ意味
問われる沖縄の主体性 沖縄の主権を簒奪するヤマトとそれに迎合する沖縄人批判
「差別」「植民地」をめぐる沖縄知識人の言説 高良倉吉氏批判
第4章 「海邦小国」をめぐる諸相
(1)沖縄「現在史」
(2)沖縄人の生きざま
2013年12月27日『琉球新報』「関係者によると、仲井真知事が(辺野古埋め立て)承認を表明する27日の記者会見の発表文や想定問答は、高良倉吉副知事を中心にまとめられている。」
2013/04/28 -アベ 政権は、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日を「主権回復の日」と位置づけ式典を開いた。県民にとって「屈辱の日」とされる4・28に「主権回復」の式典を開くことは「再び沖縄切り捨てを行うものだ」と、県民は怒っているが、仲井眞県政は、その式典に副知事を送り込んだ。○「差別」「植民地」をめぐる沖縄知識人の言説 高良倉吉氏批判)ー副知事だった高良氏は、仲井眞沖縄県知事の名代として式典に参加している。(略)この場の体験は高良氏にとって「差別」を「思い知る場面」ではなかったようだ。氏が歴史家であることを考えれば、これは衝撃的な告白である。/「ミスリード」の仕掛け 森宣雄氏の仲井眞知事擁護論批判(2016年7月 後田多敦『「海邦小国」をめざして「史軸」批評による沖縄「現在史」』出版舎Ⅿugen
2005年12月『うるまネシア』第7号□後田多敦「記憶の風景を訪ねて(1)ー鄭迵謝那親方利山顕彰碑ー」
鄭迵・謝名親方利山顕彰碑 と神坂次郎氏○鄭氏の門中(一族)によって1983年3月に建てられた顕彰碑が元の久米村に近い那覇市若狭の旭ヶ丘公園にある。
写真左から後田多敦さん、出版社社長、神坂次郎氏、新城栄徳
山之口泉さんと後田多敦氏
今はネット時代である。国家公務員などの経歴は検索すればすぐ分かる。□沖縄県警本部長の村田隆(むらた・たかし)は東大卒。1984年警察庁。警視庁第1方面本部長、警察庁国際テロリズム対策課長などを経て、2009年10月から大阪府警刑事部長。50歳。福岡県出身とある。沖縄県警本部長になったのは警察庁国際テロリズム対策課長の経歴が買われたかも知れない。□松井一郎は、競艇場の照明など電気設備の利権を一手に握っている笹川グループの一員 。競艇利権は、松井知事の父親である元府議会議長の松井良夫元府議から引き継いだもの。 父親の良夫元府議会議長は、知る人ぞ知る故笹川良一の直系の子分だった人物 。父親の良夫元府議会議長は笹川良一払い下げの超豪華なキャデラックを乗りまわしていたぞな、もし。
1979年 沖縄の雑誌『青い海』6月号 伊高浩昭「社大党ユートピアーメキシコ政党からの連想ー」
伊高浩昭ージャーナリスト。東京都出身。1967年からラテンアメリカ(ラ米)全域を取材。元共同通信記者。2005年から立教大学ラテンアメリカ研究所「現代ラ米情勢」担当講師。ラ米、スペイン、沖縄、南アなどについての著書多数。最新の著書は『ラ米取材帖』(2010年ラティーナ社)。最新の翻訳書は『フィデル・カストロ みずから語る革命家人生』(上下、2011年岩波書店)。→「伊高浩昭ブログ」
1986年10月 伊高浩昭『沖縄アイデンティティー』マルジュ社
○10、沖縄のマスメディアー新沖縄文学/雑誌は、タイムス刊行の季刊『新沖縄文学』と、青い海出版社の月刊(年10回)『青い海』が有力である。新沖縄文学は文学雑誌として発足したが、いまでは「文化と思想の総合誌」と銘打つ総合雑誌となっている。43、44両号では「八〇年代・沖縄は生き残れるか」という興味深い特集を組んだ。当時の編集者は、かつての反復帰論者として名高い新川明だった。新沖縄文学は『朝日ジャーナル』と『世界』の性格を合わせもったような思想誌である。『青い海』は「沖縄の郷土月刊誌」と形容通り、豊かな沖縄の自然、民俗、社会などのテーマをやさしい文章で綴る「市民誌」である。沖縄の文化人は、タイムス、新報両紙の文化面で主張するように、、新沖縄文学、青い海両誌を重要な活動の場にしている。両紙と両誌は「沖縄の良心」を守るため苦悩している。
○11、琉球処分 沖縄語 共通語ー沖縄国会に爆竹/1971年10月19日午後の衆議院本会議で首相佐藤栄作が所信表明演説をしていたとき、超満員の傍聴席で突然、爆竹が鳴り、煙がたちこめた。そしてビラが舞った。その場でつかまった男性二人、女性一人の三人は、いずれも沖縄出身で、「沖縄青年同盟」を名乗った。小さな、ガリ版刷りのビラには、「沖縄青年同盟行動隊」の名で、次のような文章があった。「すべての在日沖縄人よ、団結して決起せよ。沖縄は明治以来、ドレイ的な扱いをされてきた。沖縄返還協定は、沖縄を併合しようとするものである。いまこそ勇気を持って立ち上がれ。祖国への幻想を捨てよ。解放への道は、日本大和への反逆と米帝との闘いである」 爆竹事件裁判/爆竹事件の裁判は、72年2月16日、東京地裁で始まった。検察は、真久田正(22)、本村紀夫(23)、島添久子(21)の沖縄出身の三被告を、「建造物侵入」と「威力業務妨害」で起訴していた。(略)
○14、三三回忌後の人びと/浦崎康華
2001年4月 伊高浩昭『双頭の沖縄 アイデンティティーの危機』現代企画室
○「沖縄イニシアティブ」論争ー高良倉吉らの登場は以前から予感されたものだったが、日本の思想的先兵と沖縄の内側に明確な姿を現し、沖縄の一層の日本同化を促すため沖縄のアイデンティティーを壊しつくり変えていこうとしはじめたところが、以前にはなかった現象だ。(略)高良は、大城立裕らとともに沖縄海洋博の理念作りに参画したり、首里城復元に歴史家として関与したり、「琉球の風」というNHK大河ドラマの歴史考証をしたりしているが、これらの仕事を実績として強調している。大田県政時代には保守陣営の知事候補の1人だとうわさされ、稲嶺恵一が知事選に出馬するころから稲嶺のブレーンになっていた。(略)高良倉吉は、安保支持と歴史見直し主義を掲げ政府と強調する立場を明確にしたことで、自ら学者生命に見切りをつけたかに見える。
2002年11月 伊高浩昭『沖縄ー孤高への招待』海風書房
那覇市歴史博物館「那覇の市場」会期:2019-04-26(金) ~ 2019-06-24(月) 古くから琉球・沖縄の台所として栄えた那覇の市場。戦後はその場所を牧志に移し、最近では親しみをこめて「マチグァー」とも呼ばれています。今回の企画展では、現在の公設市場が取り壊されるにあたり、那覇の市場の歴史を紹介します。
2019-4
大濱 聡 2020-5-29 ■思わぬ拾い物の番組を見せてもらった。外出から帰宅したら家人がNHK「解体キングダム」なる番組を見ていた。聞いたこともない番組だった。後で調べたらBSプレミアムで不定期に放送している番組で、過去に3回くらい放送されているようだった(総合で再放送)。
■HPによると「解体現場の謎に迫る“建物解体バラエティー”。職人顔負けの知識を持ち、自身も重機の免許を持つ城島茂と大学で建築を学んだ伊野尾慧が普段見ることのできない解体現場の奥に潜入。驚きの職人技に迫る」番組とのこと。■私の帰宅を待っていたかのように、タイミングよく尾道城、浦賀ドックに続いて紹介されたのが那覇の「第一牧志公設市場」。本土復帰の1972年に建てられ、47年間「沖縄の台所」として親しまれてきたが、老朽化のため取り壊し建て替えられることになり、去年6月現地での営業を終了した。■「シートの裏にドラマあり」――たかが解体されど解体の面白い番組だった。何より、シートの裏で展開される一般の人には見られない解体作業を映像をとおして見ることができたのが嬉しい。■この貴重な解体作業、那覇市は歴史資料(映像記録)として残しているだろうか。
05/02: 錦糸町:琉球民謡
錦糸町駅
1964年夏、錦糸町で友和寮の屋上、夜空を見ながらレコードプレーヤーで琉球民謡を聞いていた。今おもうと月並みの民謡であった。以前、東京の美術史家・浦崎永錫さんを訪ねたとき、浦崎さんは「わたしは沖縄にはこだわらない」と言いながらも月並みの琉球民謡レコードを聞かしてくれながら話に応じた。私は1972年11月発行の沖青友の会機関誌『石の声』10号に「試験管の中の人生」と題し「僕は今、琉球民謡を聞きながらコレを書いているが、『琉球』というカプセルのなかに己の人生のすべてがあり、誰かがいう、『君、琉球というセマイ発想ではアカン!モノは大局的に世界的な発想で見なくチャーアカンデー』余計なお世話である。・・・しかし郷土の民謡はイイネェー。ジーンとくる。・・・自分自身が<石>という、無生物に近づきつつあるという幻想をいだかせるではないか!ヤー。チンボーラー』と記している。
☆1974年後半、私は墨田区江東橋の社員寮に住んでいた。そのころ、ゼロメートル地帯と言われていたが、今でも変わらないようだ。江東区、墨田区及び江戸川区には干潮時の海水面よりも低い地域がある。加えて、神奈川県川崎市川崎区にも海抜ゼロメートル以下の地域がある。大阪市湾岸部の港区や西淀川区、北区、浪速区、城東区、大正区、西成区を中心に海抜ゼロメートル未満の地域があり、同じく阪神工業地帯を形成する兵庫県尼崎市南部や西宮市南東部にも海抜ゼロメートルか海抜マイナスの地域がある。オランダは干拓によって国土を広げ、干拓地に農地を広げ、都市を建設してきた。アムステルダムやロッテルダムなど、同国の主要都市の多くは干拓によって広げられたゼロメートル地帯に存在している。→ウィキ
『真境名安興全集』第四巻に「組躍女物狂と謡曲隅田川」が載っている。「玉城朝薫の組躍女物狂も、亦梅若丸の叡山に居たことから、思ひついたのであらうか、人盗人が御寺に宿り込んだ為めに発覚して、捕へられ、少年は母に引渡されて肉親の温かい愛に蘇へるといふことになって居る・・・」
〇組躍女物狂ー人盗人(真境名由康)、子供(比嘉園子)
〇1987年2月 『隅田川絵図』隅田川文庫
梅若塚の由来(東京都墨田区の木母寺略誌による)「 梅若丸は、吉田少将惟房卿の子、5歳にして父を喪い、7歳の時比叡山に登り修学す。たまたま山僧の争いにあい、逃れて大津に至り信夫藤太という人買いに欺かれ東路を行き隅田川原に至る。旅の途中から病を発しついにこの地に身まかりぬ。ときに12歳、貞元元年3月15日なり。いまはの際に和歌を詠ず。 尋ね来て問はは応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと このとき天台の僧、忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、たまたま此処に来り、里人とはかりて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標となす。
あくる年の3月15日、里人あつまりて念仏なし、弔いおりしに母人、わが子の行方を尋ねあぐみ、自ら物狂わしき樣してこの川原に迷い来り、柳下に人々の群れおり称名してありしに、塚の中より吾が子の姿幻の如く見え言葉をかわすかとみれば、春の夜の明けやすく浅茅の原の露と共に消え失せぬ。夜あけて後、阿闍梨にありしことども告げてこの地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永くその霊を弔いける。 」→謡蹟めぐり 隅田川※他に舞台は埼玉県春日部「古隅田川」という説もある。
2012年7月 生田誠『墨田区・江東区今昔散歩 東京スカイツリー®の見える街』彩流社
2015年9月 江東区地域振興部文化観光課文化財係『下町文化』№271○野本賢二[【泡盛の壺】発見!~泡盛が結ぶ沖縄と江東~]
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2006年7月『40年前の東京ー春日昌昭のトウキョウ』生活情報センター/1960年11月23日『琉球新報』
★2017/12/27/ AERA編集部富岡八幡宮続報 殺害された姉宮司ホスト通いで月200万円 犯人弟の息子は都内の神社で働く
ラジオ沖縄「沖縄復帰記念 琉球芸能大百科 おきなわの詩」儀間比呂志「装画」
儀間比呂志の絵・版画が使われているレコード・CD
あけみ、ひなみ/勢理客宗玉(1838年~1900年)/勢理客宗徳(1857年~)
1915年8月30日『琉球新報』「琉歌吹込みを聞くー1昨日から石門通り森楽器店主の主催とせる琉球音楽奨励会のレコード吹込みを奥武山公園内城間氏別荘でやっているが昨日吹込みを為すべき音楽家は首里から高江洲氏那覇から城間、伊差川、我謝、池宮城喜輝の諸氏であったー」
1915年9月3日『琉球新報』広告「空前の大提供ー本県家庭の大福音/琉球歌と蓄音器」
1915年9月3日『琉球新報』「琉歌レコード仕上ー森宗次郎、仝仲太郎、山口全則主催の琉歌レコードは去る31日までに吹込みを終了し1昨日技師等は是を携え上阪せるが該レコードの仕上は多分9月下旬ならんー」
1917年1月 那覇商業銀行 監査役・山城高興、城間恒有、森亀次郎/謝花雲石・島袋石扇「琉球音楽野村流始祖先師顕彰碑」始祖・野村安趙、松村真信、桑江良真、城間恒有、伊差川世瑞、世禮國男
毛氏古堅盛珍は亀川殿内2代の支流平安名親雲上の長男、1852年生まれ。父の役をつぎ平安名の脇地頭、後読谷山古堅の脇地頭。18歳の頃、弦声の道を安室親雲上に学ぶ。次男盛保。1920年没。1915年、城間恒有別荘でコロンビアレコードに辺野喜節を吹き込む。金武良仁は述懐節を吹き込む。
ーXERAー音楽産業の歴史と発展」/→「クラシカル・ギターを止められないby Enriqueー記録メディアの分類」