07/28: 2001年3月 榊莫山『莫山夢幻』世界文化社
2001年3月 榊莫山『莫山夢幻』世界文化社〇秘蔵の一冊/戦争に敗れた昭和20年(1945年)。沖縄へ行くはずで、九州の伊集院で運ばれる船を待っていた。船がなかなかこないうちに、戦争に敗れ、命ながらえて郷里・伊賀の家に帰った。世の中のすべて、価値観はひっくりかえって、しばらく呆然と暮らしていた。(略)その夏、京都の友人から一冊の本がとどいた。本といっても、ハガキほどの大きさで、和紙和とじの薄い本だった。が、それがなんと、表紙には、『雑草集 河上肇』とあるではないか。/〇芭蕉に想う、芭蕉わーるど、芭蕉の句碑
河上肇・資料ー右に1946年6月 河上肇『詩集・雑草集』大雅堂
河上肇ー経済学者・社会思想家。山口県生。東大卒。ヨーロッパに留学中法学博士号を受け、帰国後京大教授となる。またマルクス主義の研究と紹介に努め、青年層に多大の影響を及ぼした。のち大山郁夫らと実践運動に入り新労農党を結成したが、理論的誤りを認め大山らと別れた。獄中生活の後、自叙伝等の執筆に専念した。昭和21年(1946)歿、68才。
1966年1月 儀間比呂志『版画風土記 沖縄』題字/榊莫山 編集/高橋亨
私は中学時代、島袋源一郎の『伝説補遺沖縄歴史』を愛読していた。伝説だから多少神話的な要素もあった。こういった歴史書は今となっては郷愁を伴ない懐かしく私の琉球学の大半を占めている。だから昨今の客観的というか整理過剰な歴史書には郷愁を感じることはできない。だから友人たちの歴史書以外は手にすることは無い。
巻頭 琉球各王統一覧
第一章 沖縄人の祖先ー日本列島の地形より観たる沖縄/向象賢の日琉同祖論/新井白石と藤井貞幹の説/英国僧侶及ペルリ一行の観察/チャンバーレン博士の説/宜湾朝保の古語比較/亀田次郎氏の及金澤博士の言語学的考察/新屋敷教授の言語比較/久米・白鳥両博士の日本民族説/坪井・鳥井(居)・松村3博士の人種学説/北里闌氏①の言語学的観察/桐原博士②の血清学的考察/伊波文学士の考察/柳田・折口両氏の土俗学的調査/伊東・黒板両博士の調査/其他土俗の類似
第二章 天孫子王統ー開闢説/アマミキヨと東御巡禮/三地方の区分/神々出現して守護す/当時の風俗/南島と日本本土との交通/隋の煬帝琉球を招撫す/天孫氏の没落/沖縄と琉球の名称に就いて
第三章 舜天王統ー第一代舜天王/片髻伝説/鬼餅の由来/源為朝渡来に関する諸説/第二代舜馬順凞王/屋良漏池の伝説/第三代義本王/義本王の末路と南山佐久眞王子の行方
①北里闌ー国学者。熊本県生。歌道を鎌田正夫・高崎正風らに学ぶ。渡独後、もっぱら日本の古代語の研究をすすめる。昭和34年歿、90才。 →コトバンク
②桐原真一(1889〜1949)ー旧東京帝国大学医科大学を卒業。卒業生として助手を務めた後、1926(大正15)年に名大の前身、旧愛知医科大学の教授に就任した。胃鏡でがん、潰瘍、胃炎、胃下垂などの患部を直接見ようと、数百回の診断と観察を繰り返した。昭和初期、胃の中を見る検査には筒のように太く硬い、真っすぐな「胃鏡(いきょう)」が使われていた。出血や吐き気を伴うことから多くの医者に敬遠されていたが、あきらめずに研究を続け、今ののみ込みやすい胃カメラにまで発展する基礎をつくった。がんの早期発見を実現。
島袋源一郎資料
1932年
3月ー島袋源一郎『伝説補遺沖縄歴史』沖縄書籍□「中山門建つー此年国門を首里に建て、中山と榜した。旧記によれば、中山の二字は内官柴山の進めた額であったという。因みに此の中山門は俗に『下の鳥居』と称し、県立第一中学校の南角、那覇一帯を俯下する大通りに明治の末頃迄遺存していたが、今は破壊して『上の鳥居』即ち守礼門のみ残っている。蓋し其の建築は同様のものであった」
1933年
2月25日ー『沖縄日日新聞』「守禮門・外六ヶ所國寶保存物に指定、文部省から告示さるー守禮門、所在地首里市、首里城正面の大路には元二棟の坊門があった第一門たる中山門は腐朽大破したので明治四十一年に撤去し今は第二門たる守禮門のみ残っている朱禮門は明の嘉靖六(我が大永七年)の創立にかかり爾後数次の修理を経たものである古名を待賢門又は首里門と称していたが清の康煕二年(我が寛文三年)以後『守禮之邦』の扁額を其眉間に常掲するに及守禮門と称するに至った。門の概形は支那式の三間這牌楼に似たるも彼此相違せる著るしき点は下層屋根を中断せずして一端より他端に通じて一直線に造れることである又其の構造を見るに柱の脚部は総て木の枠組みと石の挟み束とを以て二重に組固め柱の上部は押肘木より成れる一種の天竺様の斗拱を組して屋根を支承し更に中央部二本の柱は下層屋根を貫いて上方に延び茲に再挿肘木の斗拱を構え以て上層屋根を受けているかかる構造法は他に多く類例を見ざる所にして琉球建築の一特色と云ふべきものである」
5月ー『島』創刊
7月ー仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』(新光社の写真の守礼門)
10月ー東京「明正塾」閉鎖
1934年
1月ー沖縄県立図書館の郷土文献以外の参考品(三線、鉢巻、陶器、漆器)は昭和会館の教育参考室に移される
3月30日ー『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ペルリ艦隊来航記念号」
沖縄日報主催「ペルリ日本来航80年記念祭」講演/神田精輝・島袋源一郎
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社
4月27日ー沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し「沖縄郷土協会」発足、太田朝敷会長
1934年4月27日 昭和会館で沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し沖縄郷土協会発足
1934年7月30日 沖縄郷土協会評議員会(昭和会館)、郷土博物館の建設とペルリ提督上陸記念碑建設のため県下から2万円の募集を協議。
関連○2015年3月 『記憶と忘却のアジア』青弓社 泉水英計「黒船来航と集合的忘却ー久里浜・下田・那覇」
1935年10月ー上原永盛『沖縄県人物風景写真大観』(首里市・守礼門)
1936年
7月ー沖縄県教育会附設郷土博物館、首里城内北殿に設置。
8月ー昭和会館で沖縄観光協会創立総会、会長に金城那覇市長□目標「真の沖縄の姿を内外に紹介して将来世界的観光地帯にしよう」
10月ー文部省より守礼門復旧工事のため森政三国宝調査室技術員が赴任。総工費六千八百圓うち国庫補助五千五百圓
現場主任に仲座久雄
1936年11月19日ー古琉球の工芸品三点 昭和会館へお興入れー左からー御徳盆、花瓶台、貝摺台附食籠
1937年
1月ー国宝「守禮門」修理打合せで大岡實(工学士)来沖
○大岡實は明治33年(1900年)09月29日に現在の東京都新宿区三栄町で大岡顯三の長男として誕生する。(二人兄妹とのこと)
下記の略歴の通り、東京帝国大学工学部で建築の道へ進み、大学卒業後、文部省嘱託となり古社寺保存に携わる。大岡實は昭和41年10月大岡實先生定年退官記念事業会発刊「日本古建築の特質と私の半生」の中で「私が師事したのは、伊東忠太先生と関野貞先生です」と述べており、大学時代及び文部省嘱託時代を通して二人の恩師の感化を受けたことを表している。→大岡實建築研究所
10月ー田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』刊
1939年
4月ー日本民芸協会『月刊民芸』第1号
巻頭 琉球各王統一覧
第一章 沖縄人の祖先ー日本列島の地形より観たる沖縄/向象賢の日琉同祖論/新井白石と藤井貞幹の説/英国僧侶及ペルリ一行の観察/チャンバーレン博士の説/宜湾朝保の古語比較/亀田次郎氏の及金澤博士の言語学的考察/新屋敷教授の言語比較/久米・白鳥両博士の日本民族説/坪井・鳥井(居)・松村3博士の人種学説/北里闌氏①の言語学的観察/桐原博士②の血清学的考察/伊波文学士の考察/柳田・折口両氏の土俗学的調査/伊東・黒板両博士の調査/其他土俗の類似
第二章 天孫子王統ー開闢説/アマミキヨと東御巡禮/三地方の区分/神々出現して守護す/当時の風俗/南島と日本本土との交通/隋の煬帝琉球を招撫す/天孫氏の没落/沖縄と琉球の名称に就いて
第三章 舜天王統ー第一代舜天王/片髻伝説/鬼餅の由来/源為朝渡来に関する諸説/第二代舜馬順凞王/屋良漏池の伝説/第三代義本王/義本王の末路と南山佐久眞王子の行方
①北里闌ー国学者。熊本県生。歌道を鎌田正夫・高崎正風らに学ぶ。渡独後、もっぱら日本の古代語の研究をすすめる。昭和34年歿、90才。 →コトバンク
②桐原真一(1889〜1949)ー旧東京帝国大学医科大学を卒業。卒業生として助手を務めた後、1926(大正15)年に名大の前身、旧愛知医科大学の教授に就任した。胃鏡でがん、潰瘍、胃炎、胃下垂などの患部を直接見ようと、数百回の診断と観察を繰り返した。昭和初期、胃の中を見る検査には筒のように太く硬い、真っすぐな「胃鏡(いきょう)」が使われていた。出血や吐き気を伴うことから多くの医者に敬遠されていたが、あきらめずに研究を続け、今ののみ込みやすい胃カメラにまで発展する基礎をつくった。がんの早期発見を実現。
島袋源一郎資料
1932年
3月ー島袋源一郎『伝説補遺沖縄歴史』沖縄書籍□「中山門建つー此年国門を首里に建て、中山と榜した。旧記によれば、中山の二字は内官柴山の進めた額であったという。因みに此の中山門は俗に『下の鳥居』と称し、県立第一中学校の南角、那覇一帯を俯下する大通りに明治の末頃迄遺存していたが、今は破壊して『上の鳥居』即ち守礼門のみ残っている。蓋し其の建築は同様のものであった」
1933年
2月25日ー『沖縄日日新聞』「守禮門・外六ヶ所國寶保存物に指定、文部省から告示さるー守禮門、所在地首里市、首里城正面の大路には元二棟の坊門があった第一門たる中山門は腐朽大破したので明治四十一年に撤去し今は第二門たる守禮門のみ残っている朱禮門は明の嘉靖六(我が大永七年)の創立にかかり爾後数次の修理を経たものである古名を待賢門又は首里門と称していたが清の康煕二年(我が寛文三年)以後『守禮之邦』の扁額を其眉間に常掲するに及守禮門と称するに至った。門の概形は支那式の三間這牌楼に似たるも彼此相違せる著るしき点は下層屋根を中断せずして一端より他端に通じて一直線に造れることである又其の構造を見るに柱の脚部は総て木の枠組みと石の挟み束とを以て二重に組固め柱の上部は押肘木より成れる一種の天竺様の斗拱を組して屋根を支承し更に中央部二本の柱は下層屋根を貫いて上方に延び茲に再挿肘木の斗拱を構え以て上層屋根を受けているかかる構造法は他に多く類例を見ざる所にして琉球建築の一特色と云ふべきものである」
5月ー『島』創刊
7月ー仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』(新光社の写真の守礼門)
10月ー東京「明正塾」閉鎖
1934年
1月ー沖縄県立図書館の郷土文献以外の参考品(三線、鉢巻、陶器、漆器)は昭和会館の教育参考室に移される
3月30日ー『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ペルリ艦隊来航記念号」
沖縄日報主催「ペルリ日本来航80年記念祭」講演/神田精輝・島袋源一郎
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社
4月27日ー沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し「沖縄郷土協会」発足、太田朝敷会長
1934年4月27日 昭和会館で沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し沖縄郷土協会発足
1934年7月30日 沖縄郷土協会評議員会(昭和会館)、郷土博物館の建設とペルリ提督上陸記念碑建設のため県下から2万円の募集を協議。
関連○2015年3月 『記憶と忘却のアジア』青弓社 泉水英計「黒船来航と集合的忘却ー久里浜・下田・那覇」
1935年10月ー上原永盛『沖縄県人物風景写真大観』(首里市・守礼門)
1936年
7月ー沖縄県教育会附設郷土博物館、首里城内北殿に設置。
8月ー昭和会館で沖縄観光協会創立総会、会長に金城那覇市長□目標「真の沖縄の姿を内外に紹介して将来世界的観光地帯にしよう」
10月ー文部省より守礼門復旧工事のため森政三国宝調査室技術員が赴任。総工費六千八百圓うち国庫補助五千五百圓
現場主任に仲座久雄
1936年11月19日ー古琉球の工芸品三点 昭和会館へお興入れー左からー御徳盆、花瓶台、貝摺台附食籠
1937年
1月ー国宝「守禮門」修理打合せで大岡實(工学士)来沖
○大岡實は明治33年(1900年)09月29日に現在の東京都新宿区三栄町で大岡顯三の長男として誕生する。(二人兄妹とのこと)
下記の略歴の通り、東京帝国大学工学部で建築の道へ進み、大学卒業後、文部省嘱託となり古社寺保存に携わる。大岡實は昭和41年10月大岡實先生定年退官記念事業会発刊「日本古建築の特質と私の半生」の中で「私が師事したのは、伊東忠太先生と関野貞先生です」と述べており、大学時代及び文部省嘱託時代を通して二人の恩師の感化を受けたことを表している。→大岡實建築研究所
10月ー田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』刊
1939年
4月ー日本民芸協会『月刊民芸』第1号
07/27: 萩原正徳と『旅と伝説』
今は亡き岡本恵徳先生は私の顔を見るたび「もっと奄美資料に注目してくれ」が口癖であった。私は伯父や伯母の連れ合いが奄美出身であったから特に奄美を意識したことがないが、琉球文化には当然に奄美も入っていると思っている。奄美の図書館には島尾敏雄氏に会ってみたいと2回ほど行ったが何時も休館日だった。島尾敏雄氏には会えなかったが、その代わりといっていいか分からないが山下欣一氏に出会った。
喜納緑村『琉球昔噺集』を発行した三元社の萩原正徳が奄美関係者らしいと前々から気になっていた。山下欣一氏に問い合わせると家系図、『道之島通信』、『定本・柳田國男集』の月報などの萩原資料をたくさん贈ってこられた。緑村は1930年に『沖縄童話集第一編ー犬と猫』(津嘉山栄興挿絵)を神山青巧堂印刷で刊行した。山下氏も萩原正徳を当然と言えば当然だが色々と紹介して居られた。それに用いた資料だが次に紹介する。
前列右端が柳田国男、左端が比嘉春潮/後列右から萩原正徳、大藤時彦、瀬川清子
1944年3月『民間伝承』柳田国男「『旅と伝説』について」□(略)改めてもう一度、初めから読み返して見たい気がする。公平に批判してどの部分、一ばん後世に役立つ仕事だったかを、考へ且つ説いて見たくもなる。
私の処にはもう主要記事の索引も出来て居るのだが、この判定は実はさう容易な業では無い。しかし先ず大まかに考へて、婚礼誕生葬祭その他の特集号を出し、又昔話を二度まで出した頃などが、全盛期だったと言へるかもしれない。こんなにまで多数の同志があったのかと、驚くほどの人々が全国の各地から、何れも好意づくだけでよい原稿を寄せ、所謂陣容を輝かしてくれたのみならず、此時を境にそれぞれの問題に対する理解常識が、目に見えて躍進したので、之を読んで居ない人の云ふことが、あれから以後は何だかたより無いもののやうに感じられるやうになった。つまりは民俗資料といふものは、集めて比較して見なければ価値が無いといふことを、実地に証明してくれたのである。
その以外に今一つ承認しなければならぬことは、萩原君は故郷の奄美大島の為に、この雑誌を通して中々よく働いて居る。それには同郷知友の共鳴支援といふことも条件ではあったが、とにかくに全十六巻を通じて、奄美大島に関する報告は多く、又清新な第一次の資料が多かったことは争へない。その一つの例として手近に私の心づいたことをあげると、第一巻のたしか二号か三号に、島の先輩の露西亜学者昇曙夢さんが、アモレヲナグ即ち天降女人の事を書いて、我々に大きな印象を与へ、又より多くを知りたがらせて居たのだが、それが約十六年を隔てて最終号の中に、今度は金久正君といふ若い同志が、それを詳しく書いて我々の渇望を医して居る。もう「旅と伝説」さへ大切に保存して置けばこの世界的興味のある一問題は、永久に学問の領分からは消えないのである。或ひはそれほどまで大きな問題だと思はぬであらう人たちの為に、出来るだけ簡単に前後二ヶ所に出て居る天降女人の事を書き伝へ、出来るならば此上にももっと豊富な資料の、集まって来る機縁を促したい。(略)
奄美大島といふところは、私の知る限りでも、内部歴史の珍しく豊かな島であった。書いた記録がといふものは僅かしか残らぬが、近い百年二百年の間にも避ければ避けたかった実に色々な経験をしてゐる。さうして全体に今は古い拘束から解き放たれて、新時代のあらゆる機会を利用し、すぐれた人物が輩出して居るのである。住民自身としては忘れた方がよいやうな、外の者からは是非参考の為に聴いて置きたいやうな、無数の思ひ出をかかへて、まだ其処理を付けずに居るといふ感じがある。此数からいふと、萩原君の如き人がもっと辛抱強く、古い埋もれたことを尋ね出さうとする知友を糾合して居てくれたらと思はずには居られぬのだが、それをもう謂って見ても仕方が無い。それよりも雑誌をその時々の慰みなどとは考へずに、いつまでも之を精読する者の、是から日本にも多くなるやうに、我々もどうかして残るやうな雑誌を作って行きたい。
1981年7月『道之島通信』83号「民俗学開拓に貢献 萩原正徳(1896~1950)」□はじめに 1928年(昭和3年)から1944年(昭和19年)まで、東京で『旅と伝説』という月刊雑誌を発行、日本民族学の発展に著しく貢献したのが萩原正徳である。正徳は、1896年(明治29年)名瀬市金久に生まれ、若くして上京、東京高等工芸学校を卒業、27歳の時夫人ウメさん(千葉県出身)を娶った。弟に利用と厚生がおり、厚生は鹿児島一中から一高、東大へ進んだ奄美の秀才として名を馳せた人である。酒と島うたが好きで、子供が喧嘩して泣いて帰ると「泣かされて帰る奴がいるか、相手を泣かして来い」と、一人息子の正道を叱るくらいの気骨の持ち主でもあった。三元社という写真製版の会社を経営する一方、柳田国男らの民俗研究グループに参加、奄美をはじめ、各地の研究報告を『旅と伝説』に掲載、記録を歴史に残した。「若い頃から頭は、はげていましたので、年の割に老けて見えましたよ」と八十歳になったウメさんは話す。耳が悪かったため、兵役を免れ、柳田国男にどなられても笑っていたという。
1998年10月『柳田國男全集 第6巻 月報13』山下欣一「『海南小記』ー奄美の旅前後」□(略)最初の伊波普猷の奄美来訪は1918年(大正7)1月であった。これは私立大島郡教育会・二部研究会(瀬戸内・宇検)による招聘である。この時の中心になったのは二部研究会長で古仁屋小学校長永井龍一と当時篠川農学校教諭竹島純(沖縄師範卒)であった。この2名は伊波普猷・比嘉春潮を出迎えのために名瀬へ出張するが、船待ちのため十数日滞在を余儀なくされ、その間、奄美の文献資料を調査したりしている。この時『奄美大島史』の著者である坂口徳太郎も鹿児島県立大島中学校に勤務していたので、その指導も受けたと考えられる。
伊波普猷は、この第1回の旅で『南島雑話』、『奄美史談』などを沖縄へ借用し、筆写させ、沖縄県立図書館へ収蔵し閲覧に供したのである。(略)伊波普猷の奄美招聘の中心にいた竹島純は伊波普猷の講演記録を伊波の「序に代へて」を付して1931年(昭和6)に大島郡教育会から『南島史考』としてまとめている。また後で永井龍一は鹿児島に居を移し、『南島雑話』、『補遺篇』、『奄美史談』などの文献資料の自費刊行を試みている。この『南島雑話』刊行に刺激された永井龍一の兄亀彦(博物学者)は『南島雑話』の編著者を薩摩藩上士名越左源太時敏と確認し、また名越家で『遠島日記』をも発見し、これらを自費刊行している。これらは、昭和初年から、終戦直後に及んだ作業であった。永井兄亀・龍一兄弟は名瀬の与人役政家の一族である。父永井長昌喜は漢学者で教育者であった。
亀彦・龍一の姉よしは萩原家に嫁し、その子息が正徳・利用・厚生の兄弟である。叔父に『奄美史談』の著者都成植義(南峰)がいる。亀彦・龍一の甥に当る萩原正徳は上京し、東京高等工業学校で学び、海軍省水路部をへて写真製版業を営み、三元社を興した。柳田国男の指導を受けて『旅と伝説』を刊行した。これには昇曙夢・岩倉市郎・金久正などの奄美の研究者が登場しているのは故なしとしないのである。
喜納緑村『琉球昔噺集』を発行した三元社の萩原正徳が奄美関係者らしいと前々から気になっていた。山下欣一氏に問い合わせると家系図、『道之島通信』、『定本・柳田國男集』の月報などの萩原資料をたくさん贈ってこられた。緑村は1930年に『沖縄童話集第一編ー犬と猫』(津嘉山栄興挿絵)を神山青巧堂印刷で刊行した。山下氏も萩原正徳を当然と言えば当然だが色々と紹介して居られた。それに用いた資料だが次に紹介する。
前列右端が柳田国男、左端が比嘉春潮/後列右から萩原正徳、大藤時彦、瀬川清子
1944年3月『民間伝承』柳田国男「『旅と伝説』について」□(略)改めてもう一度、初めから読み返して見たい気がする。公平に批判してどの部分、一ばん後世に役立つ仕事だったかを、考へ且つ説いて見たくもなる。
私の処にはもう主要記事の索引も出来て居るのだが、この判定は実はさう容易な業では無い。しかし先ず大まかに考へて、婚礼誕生葬祭その他の特集号を出し、又昔話を二度まで出した頃などが、全盛期だったと言へるかもしれない。こんなにまで多数の同志があったのかと、驚くほどの人々が全国の各地から、何れも好意づくだけでよい原稿を寄せ、所謂陣容を輝かしてくれたのみならず、此時を境にそれぞれの問題に対する理解常識が、目に見えて躍進したので、之を読んで居ない人の云ふことが、あれから以後は何だかたより無いもののやうに感じられるやうになった。つまりは民俗資料といふものは、集めて比較して見なければ価値が無いといふことを、実地に証明してくれたのである。
その以外に今一つ承認しなければならぬことは、萩原君は故郷の奄美大島の為に、この雑誌を通して中々よく働いて居る。それには同郷知友の共鳴支援といふことも条件ではあったが、とにかくに全十六巻を通じて、奄美大島に関する報告は多く、又清新な第一次の資料が多かったことは争へない。その一つの例として手近に私の心づいたことをあげると、第一巻のたしか二号か三号に、島の先輩の露西亜学者昇曙夢さんが、アモレヲナグ即ち天降女人の事を書いて、我々に大きな印象を与へ、又より多くを知りたがらせて居たのだが、それが約十六年を隔てて最終号の中に、今度は金久正君といふ若い同志が、それを詳しく書いて我々の渇望を医して居る。もう「旅と伝説」さへ大切に保存して置けばこの世界的興味のある一問題は、永久に学問の領分からは消えないのである。或ひはそれほどまで大きな問題だと思はぬであらう人たちの為に、出来るだけ簡単に前後二ヶ所に出て居る天降女人の事を書き伝へ、出来るならば此上にももっと豊富な資料の、集まって来る機縁を促したい。(略)
奄美大島といふところは、私の知る限りでも、内部歴史の珍しく豊かな島であった。書いた記録がといふものは僅かしか残らぬが、近い百年二百年の間にも避ければ避けたかった実に色々な経験をしてゐる。さうして全体に今は古い拘束から解き放たれて、新時代のあらゆる機会を利用し、すぐれた人物が輩出して居るのである。住民自身としては忘れた方がよいやうな、外の者からは是非参考の為に聴いて置きたいやうな、無数の思ひ出をかかへて、まだ其処理を付けずに居るといふ感じがある。此数からいふと、萩原君の如き人がもっと辛抱強く、古い埋もれたことを尋ね出さうとする知友を糾合して居てくれたらと思はずには居られぬのだが、それをもう謂って見ても仕方が無い。それよりも雑誌をその時々の慰みなどとは考へずに、いつまでも之を精読する者の、是から日本にも多くなるやうに、我々もどうかして残るやうな雑誌を作って行きたい。
1981年7月『道之島通信』83号「民俗学開拓に貢献 萩原正徳(1896~1950)」□はじめに 1928年(昭和3年)から1944年(昭和19年)まで、東京で『旅と伝説』という月刊雑誌を発行、日本民族学の発展に著しく貢献したのが萩原正徳である。正徳は、1896年(明治29年)名瀬市金久に生まれ、若くして上京、東京高等工芸学校を卒業、27歳の時夫人ウメさん(千葉県出身)を娶った。弟に利用と厚生がおり、厚生は鹿児島一中から一高、東大へ進んだ奄美の秀才として名を馳せた人である。酒と島うたが好きで、子供が喧嘩して泣いて帰ると「泣かされて帰る奴がいるか、相手を泣かして来い」と、一人息子の正道を叱るくらいの気骨の持ち主でもあった。三元社という写真製版の会社を経営する一方、柳田国男らの民俗研究グループに参加、奄美をはじめ、各地の研究報告を『旅と伝説』に掲載、記録を歴史に残した。「若い頃から頭は、はげていましたので、年の割に老けて見えましたよ」と八十歳になったウメさんは話す。耳が悪かったため、兵役を免れ、柳田国男にどなられても笑っていたという。
1998年10月『柳田國男全集 第6巻 月報13』山下欣一「『海南小記』ー奄美の旅前後」□(略)最初の伊波普猷の奄美来訪は1918年(大正7)1月であった。これは私立大島郡教育会・二部研究会(瀬戸内・宇検)による招聘である。この時の中心になったのは二部研究会長で古仁屋小学校長永井龍一と当時篠川農学校教諭竹島純(沖縄師範卒)であった。この2名は伊波普猷・比嘉春潮を出迎えのために名瀬へ出張するが、船待ちのため十数日滞在を余儀なくされ、その間、奄美の文献資料を調査したりしている。この時『奄美大島史』の著者である坂口徳太郎も鹿児島県立大島中学校に勤務していたので、その指導も受けたと考えられる。
伊波普猷は、この第1回の旅で『南島雑話』、『奄美史談』などを沖縄へ借用し、筆写させ、沖縄県立図書館へ収蔵し閲覧に供したのである。(略)伊波普猷の奄美招聘の中心にいた竹島純は伊波普猷の講演記録を伊波の「序に代へて」を付して1931年(昭和6)に大島郡教育会から『南島史考』としてまとめている。また後で永井龍一は鹿児島に居を移し、『南島雑話』、『補遺篇』、『奄美史談』などの文献資料の自費刊行を試みている。この『南島雑話』刊行に刺激された永井龍一の兄亀彦(博物学者)は『南島雑話』の編著者を薩摩藩上士名越左源太時敏と確認し、また名越家で『遠島日記』をも発見し、これらを自費刊行している。これらは、昭和初年から、終戦直後に及んだ作業であった。永井兄亀・龍一兄弟は名瀬の与人役政家の一族である。父永井長昌喜は漢学者で教育者であった。
亀彦・龍一の姉よしは萩原家に嫁し、その子息が正徳・利用・厚生の兄弟である。叔父に『奄美史談』の著者都成植義(南峰)がいる。亀彦・龍一の甥に当る萩原正徳は上京し、東京高等工業学校で学び、海軍省水路部をへて写真製版業を営み、三元社を興した。柳田国男の指導を受けて『旅と伝説』を刊行した。これには昇曙夢・岩倉市郎・金久正などの奄美の研究者が登場しているのは故なしとしないのである。
1978年4月 『青い海』72号 東良恒「インタビュー 沖縄県民は旅がお好きー❝沖縄の旅❞20年をツーリストの窓からみると」
2004年6月19日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網25『自治おきなわ』の年表」
1985年創刊の『あじさい』(発行人・照屋栄一、編集責任・森根良一)の流れを汲み、発行部数13部の『山学校』(91年創刊、発行人・比屋根照夫)という同人雑誌があった。大城イチノ、照屋京子、伊佐眞一、渡口善明、志堅原郁子、盛根良一、宮城剛助、沢岻悦子、又吉盛清の諸氏が執筆した。私も参加し「絵図資料と首里城」を書いた。同人の盛根良一氏から自身が関わる沖縄市町村会『自治おきなわ』に自由に何か書けと言われた。
雑誌『青い海』の中に載っている事項や人名に解説、注釈を加えてみたいと常に思っていたので年表を中心に『自治おきなわ』(1996年)に「関西におけるウチナーンチュの歩み」を書いた。まず雪舟が北京で描写した「琉球人像」を弟子が模写したというのを載せたが、同じもので鮮明なのが豊見山和行著『北の泉、南の琉球』(日本の中世5)に載っている。
年表の1899年の項に記入した岡倉覚三(天心)来沖は、大里喜誠氏(沖縄県立武道館建設推進委員会会長)が確認してくれた。大里氏の首里のご自宅で伺ったものである。氏はビッシリと記された手帳を見ながら上地一史元沖縄タイムス社長は親戚、上間正諭タイムス社長(当時)は県立二中の同期であること、弟・喜三氏が47歳で亡くなったこと、学生時代から日記は欠かさずつけている、東京で興南社を興し東恩納寛惇『童景集』を刊行したことなどを語った。
左ー新城栄徳宛の大里喜誠氏ハガキ/1991年6月3日『琉球新報』大里喜誠「岡倉天心と沖縄」
☆1916年1月22日『琉球新報』「山田画伯と語る」
○昨日朝日の寂泡、民報の尚球両君と共に山田画伯を其の寄寓せる徳田氏宅に訪ねた。山田氏は一見美術家らしい容貌を具え或る理想に憧れたような瞳を動かしつつ慇懃に語られるよう▲赤い瓦と常盤木が当地へ参った第1の印象です。上京してから支那に行く途中一度はチト寄った事がありますが七年前の事ではあるし今度始めてのような感じします、気候は随分変わりますがそれとて又冬装束も出来ますし、外套も着られます識名へ参りますと蛍が居ました、-年中育ち居ると見えます、マァ▲五月でも咲きそうな気候ですね。材料ですか実に豊富ですな私は彫刻と絵と両方やる積りです始めは彫刻の方から入りました、帝劇の鳩ですか、はい私がやったのです私は従来の日本の彫刻を甚だ貧弱に考えまして殊に洋館には不調和なることを感じましたので▲募集が有りましたから応じましたら私がやることになりました、鳩が五十羽孔雀が二羽それに花が溢れる所を彫刻したのであります。絵の方も始めは想像的でありましたが、今は進んで来て古墳を研究し西・や希臘等を参酌して描く事になって居ます例えば▲神武天皇を描きにしても今迄の神武天皇でなく希臘の古武士に見るようなものです。(略)岡倉覚三氏は沖縄は平安朝時代の▲絵巻物を見る心地がすると申して居ります、小学校の時琉球人と云うので随分恥も掻きましたが芸術家に着目されてからは歴史に於いて沖縄人たる事を誇りにして居ります。
年表も今みると粗い。1915年、大阪で琉球民謡をレコードにする、という記述もなく、ハワイでホノルル旅館を経営していた宮里貞寛が27年に帰朝し、神戸でゑびす屋旅館を開業、そこへ甥の宮里定三が来ていたこともふれられていない。定三は沖縄で初めてのホテルを造ることになる。同じくハワイでホノルル音楽団員を務めた新川嘉徳が帰沖し39年、大阪マルフクレコードで自作の「梅の香り」を吹き込む、も無い。年表の増補改訂は今後の課題だ。
私は1998年、『沖縄県図書館協会誌』に「『近代沖縄の雑誌』総目次と解説」を連載した。2000年、大阪人権博物館の仲間恵子さんが中心となって関西沖縄文庫を活用し、ウチナーンチュにとって記念すべき図録『ヤマトゥのなかの沖縄』がまとめられた。なによりも関西ではウチナーンチュの歩みを日々刻印する沖縄県人会兵庫本部(尼崎市西長洲町2-26-12)の機関紙『榕樹』が、沖縄人連盟や『青い海』の流れも汲み今も脈々と流れている。
2019年7月 図録『THE KUMIODORI 300~組踊の歴史と拡がり~』沖縄美ら島財団
琉球古典舞踊「かしかき」舞:仲嶺夕理彩、歌三線:下地彩香、箏:町田倫士
主催者あいさつ:花城良廣沖縄美ら島財団理事長
組踊上演300周年記念事業実行委員会会長あいさつ:玉城 デニー沖縄県知事/テープカット:右から花城良廣沖縄美ら島財団理事長、傍田賢治NHK沖縄放送局局長、玉城デニー組踊上演300周年記念事業実行委員会会長、眞境名正憲伝統組踊保存会会長、田名真之沖縄県立博物館・美術館館長
写真左から花城良廣氏(沖縄美ら島財団理事長)、翁長良明氏(沖縄コレクター友の会副会長)/仲嶺貞夫氏(琉球箏曲盛竹会会長)、花城良廣氏(沖縄美ら島財団理事長)、翁長良明氏(沖縄コレクター友の会副会長)
07/08: うちなー芝居・映画史④
1975年11月 国映館「大地震」/グランドオリオン「別離」(エリザベステーラー)「ガンモール」(ソフイアローレン)/沖映本館「佐久の坂哀話・涙の子別れ」「三人片端」
1976年5月 沖映本館「女よ強くあれ」「たわむれの恋」
1976年12月 沖映本館「薄情」「浜辺の嘆き」
1977年1月 沖映本館「ガンチョー小」「月城物語」「瀬底情話」/国映館「キングコング」/東宝劇場「犬神家の一族」
1977年3月 琉映本館「日本の首領」(佐分利信)/沖映本館「夏時雨王女節」「淵」
1980年9月『青い海』96号「大阪の映画興行界を風靡した沖縄人館主たちー安里太次/翁長良孝/新城伝徳/大城菊信」
1981年3月『新沖縄文学』47号「特集・沖縄芸能界の現在」
1981年4月 「親泊元清芸道45周年記念」
1982年6月『新沖縄文学』52号「特集・島うたでつづる沖縄の昭和史」
1983年2月 雑誌『青い海』120号「特集・現代沖縄舞踊の魅力」
1983年12月『新沖縄文学』58号「特集・沖縄の芸能 批判と提言」
1984年5月 雑誌『青い海』132号「特集・新注釈『組踊五番』」
1984年7月 雑誌『青い海』134号「特集・玉城朝薫の世界」
1984年11月 雑誌『青い海』138号「特集・平敷屋朝敏の『謎』と『手水の縁』」
1984年12月『新沖縄文学』62号「特集・組踊の現在を問う―玉城朝薫生誕三百年記念ー」
映画関係資料(手元にあるもの)
1986年7月 「浜元澄子 芸能生活65周年記念公演」
1988年4月ーハワイ・ホノルル「那覇の物産と観光展」に新城あけみ琉舞で参加。
1994年4月27日『琉球新報』「映画百年ー日本の映画産業」
1994年5月11日『琉球新報』「映画百年ー世界の映画産業」
1992年3月 当間一郎監修『琉球芸能事典』那覇出版社 矢野輝雄「鑑賞と研究・実演のための座右の書として」/当間一郎「琉球芸能概観」/「沖縄のまつりと民俗芸能」
勝連繁男「琉球古典音楽」/嘉手川重喜「沖縄芝居・現代まで」/比嘉悦子「沖縄の民謡」「沖縄の楽器」
1976年5月 沖映本館「女よ強くあれ」「たわむれの恋」
1976年12月 沖映本館「薄情」「浜辺の嘆き」
1977年1月 沖映本館「ガンチョー小」「月城物語」「瀬底情話」/国映館「キングコング」/東宝劇場「犬神家の一族」
1977年3月 琉映本館「日本の首領」(佐分利信)/沖映本館「夏時雨王女節」「淵」
1980年9月『青い海』96号「大阪の映画興行界を風靡した沖縄人館主たちー安里太次/翁長良孝/新城伝徳/大城菊信」
1981年3月『新沖縄文学』47号「特集・沖縄芸能界の現在」
1981年4月 「親泊元清芸道45周年記念」
1982年6月『新沖縄文学』52号「特集・島うたでつづる沖縄の昭和史」
1983年2月 雑誌『青い海』120号「特集・現代沖縄舞踊の魅力」
1983年12月『新沖縄文学』58号「特集・沖縄の芸能 批判と提言」
1984年5月 雑誌『青い海』132号「特集・新注釈『組踊五番』」
1984年7月 雑誌『青い海』134号「特集・玉城朝薫の世界」
1984年11月 雑誌『青い海』138号「特集・平敷屋朝敏の『謎』と『手水の縁』」
1984年12月『新沖縄文学』62号「特集・組踊の現在を問う―玉城朝薫生誕三百年記念ー」
映画関係資料(手元にあるもの)
1986年7月 「浜元澄子 芸能生活65周年記念公演」
1988年4月ーハワイ・ホノルル「那覇の物産と観光展」に新城あけみ琉舞で参加。
1994年4月27日『琉球新報』「映画百年ー日本の映画産業」
1994年5月11日『琉球新報』「映画百年ー世界の映画産業」
1992年3月 当間一郎監修『琉球芸能事典』那覇出版社 矢野輝雄「鑑賞と研究・実演のための座右の書として」/当間一郎「琉球芸能概観」/「沖縄のまつりと民俗芸能」
勝連繁男「琉球古典音楽」/嘉手川重喜「沖縄芝居・現代まで」/比嘉悦子「沖縄の民謡」「沖縄の楽器」
2019年7月13日~10月13日 沖縄県立博物館・美術館「沖縄美術の流れ」
〇當原昌松/略歴→沖縄県立博物館・美術館
1903年 11月2日、具志川村字山里生まれ
1923年 沖縄県師範学校卒業
1926年 東京美術学校図画師範科卒業
1926年 鹿児島県立指宿中学校教授嘱託
1927年 大分県立杵築高等女学校教授嘱託
1928年 沖縄県師範学校教諭兼訓導
1931年 横須賀市立実科高等女学校教授嘱託
1931年 東京美術学校研究科修業
1931年 横須賀市立実科高等女学校教諭
1932年 「第1回沖縄美術協会展」(神田三省堂画廊)出品
1934年 「二人展」(さいか屋/横須賀市)
1936年 「国画会(国展)」『このしろ舟』入選。12月29日、逝去(享年33歳)
沖縄県立博物館・美術館収蔵品「當原昌松作品8点」
1931年6月『沖縄県師範学校創立五十周年記念誌』當原昌松「亡師(西銘生楽先生)と亡友(竹島景明兄)と」
當原昌松と海音寺潮五郎
1937年6月28日『沖縄日報』海音寺潮五郎「當原昌松君の圭角」/當原晟麿「父 當原昌松と久米島と私」〇父の友人は皆良い人ばかりで、皆故人ですが、鹿児島の島袋盛範さん、歴史小説で有名な海音寺潮五郎さん、熊本高校校長をされた仲村昌信さん、画家の天井陸三さん、千葉の山昌里英さん等がおります。みな父を知らない私達兄弟を暖かく接して下さり、海音寺さんからは私が給料取りになってからもお小遣いを頂きました。
1968年2月3日 『沖縄タイムス』「海音寺潮五郎氏と宮里栄輝氏の歴史対話」/1969年1月15日『琉球新報』海音寺潮五郎「沖縄との縁」
かいおんじちょうごろう【海音寺潮五郎】 1901‐77(明治34‐昭和52)
歴史小説家。鹿児島生れ。本名末富東作。1926年(昭和1)国学院大学高等師範部を卒業,旧制中学の国語教師を務めながら《サンデー毎日》の懸賞小説に応募し当選,34年鎌倉に居を構えて作家生活に入る。36年,豊臣秀吉とその女性たちを描いた《天正女合戦》などで直木賞を受賞する。以後,《明治太平記》(1952),《蒙古来る》(1954),《平将門》(1955),《武将列伝》(1959‐63),上杉謙信を描いた《天と地と》(1962),《西郷隆盛》(1969)などの長編歴史小説に,その特色をあますところなくみせている。 (→コトバンク)
海音寺潮五郎/司馬遼太郎『日本歴史を点検する』講談社文庫 〇1969年ー海音寺潮五郎/アメリカの政治の悪い真似をして、それがどうにも手のつけようがないほど悪い面を出しているのは、政治献金ですよ。アイゼンハワーが軍需産業業者と軍部との悪因縁について警告を発していましたね。前大統領の警告ですからね、よくよく見るに見かねるものがあるのですよ。日本の政治献金の制度はその真似ですよ。あんなものを法律で許している。だから、合法的ではあるが、本質的には犯罪ですね。当然、汚職につらなるんですからね。合法的汚職といってよい。あんなものがあるから、政治家・官僚と企業家との腐れ縁が続き、あらゆる公害が跋扈し、政治家や官僚の腐敗がさかんになり、政治が混濁し、不潔になるのですよ。学生騒動の最も根本的なものは、学生らは現実に即して考える能力を欠いているから気がつかないかも知れないが、実はここにあるのかも知れない。現行の政治資金法は、現代日本の万悪の根元といってよい。(略)大学生諸君が、もしその点を目標にしてゲバるのなら、わたしは欣然として参加したい気持ですよ。(笑)
1、大正15年4月 世界社を創設し社主兼主幹として『世界』を経営した。『世界』は日本の「ネーション」誌を以て任じたが時代に先行しすぎて永続しなかった。→永丘智太郎 略歴 〇岩波書店の雑誌『世界』は1946年1月創刊、誌名は谷川徹三の発案。
□『世界』創刊号は新垣讓氏が熊本県立図書館に所蔵されていることを突き止めて書誌的なコピーを新城栄徳に贈られた。
大正15年11月1日 『世界』創刊号 編集発行・饒平名智太郎 発行・世界社/発刊の言葉ー『世界』が世の光を見るまでには1年かかりました。人は胎内にあること10ヶ月にして産声をあげますけれど、『世界』は、編者の頭の中で丸1年育くまれました。実に難産でありました。難産であっただけに、生れた『世界』は、雄々しく颯爽たる姿をしています。/評論雑誌界が、一般に行詰ったといふことをよく聞きます。それは今までの雑誌が、読者本位でなく、経営者たる資本家本位であるがため、無暗と厖大に編輯されるからであります。この評論雑誌界の行詰りを転向するのが、『世界』の使命であります。/『世界』は読者のインタレストにたいしては、どんな犠牲も拂ふことを辞しない、読者のための読者の雑誌であらしめたいと思っています。この點で『世界』は、十分に存在の理由をもちます。/『世界』は評論雑誌界の新しい方向を指す革命児で、読者以外に何等の背景がないといふことも断言出来ます。
目次
岡本一平「政治漫画」/安倍磯雄「公平なるべき選挙」/堀江帰一「社会問題の研究、運動と学生」/青野李吉「文芸・社会雑感」/長田新「現代の教育哲学に就て」/三輪寿壮「労農党成立後の活動」/三宅雪嶺「後藤子の最近政治運動」/馬場恒吾「普選市議選の教訓」/山川均「無産階級運動の左右両翼の対立」/長谷川如是閑「二三の断想」
創作ー佐藤春夫「白服の悲しみ」/藤森成吉「ゴッホの花」/尾崎士郎「ピストル」/片岡鉄兵「身を固める」/小川未明「生物動揺」/芥川龍之介「鴉片」
海外論断
澤田謙「『自動車王』フオード」/下田将美「堅実なる財界整理に禍する日銀の利下」/遊佐敏彦「婦人職業生活の諸相」/石川武美「経営一家言」/饒平名智太郎「英国炭鉱争議の大立物クック」/國富信一「秋の空」/三角頭巾「内務省の人事系統」/三宅大輔「六大学野球リーグ戦予想」/森光子「ある遊女の実話」
六大学通信
永丘智太郎 略歴
本籍 東京都北多摩郡武蔵野市吉祥寺2733
住所 千葉県印旛郡遠山村三里塚沖縄農場
東京のアドレス 都下田無町2729 誠和寮内永丘私室
出生地 沖縄県那覇市若狭町
出生年月日 明治24年2月3日
旧姓 饒平名を廃し祖父永丘家を復興
写真ー饒平名智太郎/1938年2月19日『琉球新報』「改姓広告」
学業
1、明治41年3月 沖縄県立中学校を卒業した。
○1908年・第20回卒業ー新垣朝光(県属)、上原章、上間長八(今帰仁今泊)、奥島憲慶(読谷山小学校長)、大嶺眞和、大湾政順(那覇市役所)、大見謝恒英(百四十七銀行那覇支店)、大湾喜福、嘉手川重輪(大阪税務監督局)、垣花恵祥(県庁)、我部政仁(東京小学教員)、嘉手川重位(那覇松山小学訓導)、川津博(早稲田文科卒)、神里常吉、金城嘉輔、嘉手納順範(在東京)、金城蒲戸(安里小学校訓導)、我謝秀輝、金城至蒲、許田重発(那覇尋常高等小訓導)、岸本幸厚(沖縄タイムス理事)、宜名眞邑挙(真和志小学校訓導)、久高将吉(工学士 京都市上市区田中町字大溝6)、城間垣貴(東京小学教員)、國吉良實(明大卒 泉崎)、小波津保光 、小橋川照顕(那覇市議)、小湾喜長(私立農業大学卒 中頭郡 技手)、佐久川恵柔(台南製糖会社嘉手納工場)、佐多忠三(台南製糖宜野湾工場)、島袋賀麻、謝花寛廉(在東京)、鹽谷亥之助、垂野光久、玉城友善(早稲田卒 本校在勤)、大工廻盛敏(沖縄県物産検査所産業主事補)、高志武盛蔚(津波小学校訓導)、照屋寛純(首里男子校訓導)、渡久地政佑(台南製糖会社高嶺工場)、東郷實(鹿児島県)、長友一郎(東京高商卒 郵船会社孟買支店)、名城嗣敏(在東京)、仲尾次政潤、名城嗣頼(南米ペルー)、今帰仁朝興(中頭郡書記)、仲吉良光(早稲田文科卒 在米)、今帰仁朝規(早稲田文科卒 糖商組合)、長嶺精一(佐敷小学校)、饒平名智太郎(在東京 改造社)、西平守由(広島高等師範卒 本校教諭)、新名栄蔵(那覇区旭町)、樋口敏彦(東京高工教員養成所卒 東京市役所建築課都市計画部)、比嘉賀秀(牧師)、弘中一郎、外間善助(国頭郡屁辺野喜小学校長)、外間誠昌(師二卒)、真境名安行(熊本医専卒 中頭郡勝連村医)、眞玉橋朝信(南風原小学校訓導)、又吉康和(名護)、松村嘉實(師二卒)、宮城普本(熊本医専卒 在大阪)、森田孟睦(高工卒 東京警視庁)、飛岡太郎(基隆台湾倉庫株式会社)、屋我宗恭(沖縄朝日新聞社)、山口房良(首里女子小学校長)、屋部憲重(泊小學訓導)、山城次郎(在南米)、吉嶺伊津(神戸山中廻送店)→1923年2月 沖縄県立第一中学校同窓会『同窓会報 第一号』
1、それから東京高等商業学校(明治42年4月)と上海の東亜同文書院(大正3年4月)に県費で入学したが、前者は家事の都合、後者は病気のため、何れも中退に終わった。大体学校よりも独学で素養をつけた。
1911年7月 饒平名智太郎、物産陳列所雇(~1912年6月)
1912年10月28日『琉球新報』
職業
1、大正5年9月 北京の共同通信に英文記者として入社3年間勤務した。
1、大正8年9月 改造社に記者として採用され、6年間の在勤中印度及びロシア問題を研究した。此間に北支、満州、シベリア(浦塩)に遊んだ。孫文、ヨツフエ、カラハン、片山潜等に知遇を得たのも此時代。浦塩に行ったのは、関東震災羅災労働者救援委員会(松岡駒吉、布施辰治其他学者グループを以て構成)の代表としての資格であった。
1922年4月 『改造』饒平名智太郎「真理の把握とガンヂーの運動」
1922年5月 『改造』饒平名智太郎「サチャグラハ運動」
1922年5月 鹿子木員信②・饒平名智太郎『ガンヂと真理の把握』改造社
②鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。大日本言論報国会の事務局長として国粋主義思想運動をリードし、戦後はA級戦犯容疑者として逮捕された。妻は教育者である鹿子木コルネリア、息子にベルリンオリンピックに出場したバスケットボール選手、鹿子木健日子がいる。「プラトン哲学の研究」で文学博士(東京帝大)。→ウィキペデイア
1922年8月 饒平名智太郎『ガンヂ審判の日』改造社
1922年10月 『改造』饒平名智太郎「松岡駒吉君」
1922年11月 『改造』饒平名智太郎「ケマール・パシャ」
1923年4月 『改造』饒平名智太郎「水平社大会特派記ー(略)水平運動は決して彼等のみの解放運動に止まってはいけない。彼等の解放運動であると同時に、全無産階級を解放するの運動でなければならない。幸ひ彼等はその方向を指して突進しつつあるのを私は見た。私は彼等の前途を祝福しながら筆を擱かう。」
1924年3月 『改造』饒平名智太郎「ルイコフの片鱗」
1961年1月11日『沖縄タイムス』永丘智太郎「遺稿・難民のころ」①~1月18日⑦
□御料牧場の開放ー昭和20年10月ごろ、久米島出身の与世盛智郎①(本願寺の海外布教師)が中支方面から引き揚げて来ていた。引き揚げ者やら復員軍人やら彼を取り巻く一族郎党は多く皆が困っていたので、いわゆる集団入植を計画して沖縄協会に何べんか私を訪ねて来た。富士山の麓か浜名湖の近くにある御料地は如何だろうかという話であった。彼は農業をやった経験はなし、入植適地か如何か、だれも下検分に行ったわけではなかったから、私も容易に動こうとはしなかった。
私は戦前、与世盛君とは一度会ったことがあり、宮城聡が私の職場に連れて来て紹介されていたので、人間的に信頼をおいていた。そこへ行くと理事長の伊江さんは、初対面の素性のわからない人には警戒的であった。幸いなことに、沖縄協会に来てくれた那覇の人で城間君(恒加翁の長男)といって、慶応大の助手をしていて、毎年夏になると実習に千葉県の三里塚御料牧場に行ったことがあり牧草地帯だから地味肥沃で絶好な入植地だと太鼓判をおしてくれた。この城間君を与世盛君に紹介することによって、初めて与世盛君のアイディアも生かされた。現地へは、同君が率先して久米島の若い人々を連れて調査に乗り込むし、山城君や儀間君など血気盛んな青年たちも視察に行って、極めて入植適地であることがわかったので、私は初めて宮内庁は御料地百町歩の開放ー「郷土を失って帰ろうにも帰れない沖縄の難民を、沖縄協会においてあっせん入植させたいから、特別の詮議で許可を乞う」旨の陳情書をしたためた。伊江男や高嶺君も宮内庁の官僚に知人があって奔走してくれた。宮内庁への運動には、伊江さんは当時まだ顔がきいた。
そこで沖縄協会としては、神奈川逗子の沼間寮、横浜金沢八景の引揚寮、および埼玉県のわらび寮に収容されていた県人から入植希望者を募集し、与世盛君を団長として18人の先遣隊を現地に送り込んだのは、昭和21年3月6日であった。この中から現在に至るまで定着している者は、11人あり、唯一人の婦人として私の家内が初めから加わっていた。この先遣隊が、いわば三里塚開拓の中核隊であり、久米島一統が5家族あった。(それから二次三次の入植補欠募集で久米島は更に数家族増えた)その後、宮内庁はマッカーサー総司令部の強要によって、全国にある大部分の御料地を放擲せねばならなかった。三里塚においては、千四百町歩の内千町歩は大蔵省へ物納(税金)として収めることになり、大蔵省はその土地をそっくり開拓財産として農林省へ回付した。農林省は、千葉県の開拓課に処分を一任した。宮内庁からは、千葉県知事に対して沖縄協会へは、優先的に土地を分譲するよう特別の指示を出してくれ、その旨沖縄協会へも通達があった。
『久米島と私』/上江洲智泰
■2002年の10月、久しく山之口貘記念会を預かっていた若夏社の山川敏江さんの案内で上江洲智一氏に会い、父君・智泰の回想録『久米島と私』を頂いた。中に南満の公主嶺に航空兵として滞在した話、上海で布教していた義父・与世盛智郎(西本願寺僧侶)と千葉県三里塚の御料牧場を永丘智太郎名(沖縄人連盟)で宮内省、千葉県との交渉、「沖縄農場」として入植した話、そこで世話になったのが与世里盛春農業学校校長だったことが記されている。
与世盛智郎1981年ー与世盛智郎『50年計画ー理想の久米島建設』/1979年3月ー与世盛智郎『沖縄仏教読本ー本願寺派』久米島本願寺布教所/真喜志康徳氏宛の与世盛智郎ハガキ
写真ー与世盛智郎①
1947年11月28日『自由沖縄』
1947年8月15日『自由沖縄』
□『世界』創刊号は新垣讓氏が熊本県立図書館に所蔵されていることを突き止めて書誌的なコピーを新城栄徳に贈られた。
大正15年11月1日 『世界』創刊号 編集発行・饒平名智太郎 発行・世界社/発刊の言葉ー『世界』が世の光を見るまでには1年かかりました。人は胎内にあること10ヶ月にして産声をあげますけれど、『世界』は、編者の頭の中で丸1年育くまれました。実に難産でありました。難産であっただけに、生れた『世界』は、雄々しく颯爽たる姿をしています。/評論雑誌界が、一般に行詰ったといふことをよく聞きます。それは今までの雑誌が、読者本位でなく、経営者たる資本家本位であるがため、無暗と厖大に編輯されるからであります。この評論雑誌界の行詰りを転向するのが、『世界』の使命であります。/『世界』は読者のインタレストにたいしては、どんな犠牲も拂ふことを辞しない、読者のための読者の雑誌であらしめたいと思っています。この點で『世界』は、十分に存在の理由をもちます。/『世界』は評論雑誌界の新しい方向を指す革命児で、読者以外に何等の背景がないといふことも断言出来ます。
目次
岡本一平「政治漫画」/安倍磯雄「公平なるべき選挙」/堀江帰一「社会問題の研究、運動と学生」/青野李吉「文芸・社会雑感」/長田新「現代の教育哲学に就て」/三輪寿壮「労農党成立後の活動」/三宅雪嶺「後藤子の最近政治運動」/馬場恒吾「普選市議選の教訓」/山川均「無産階級運動の左右両翼の対立」/長谷川如是閑「二三の断想」
創作ー佐藤春夫「白服の悲しみ」/藤森成吉「ゴッホの花」/尾崎士郎「ピストル」/片岡鉄兵「身を固める」/小川未明「生物動揺」/芥川龍之介「鴉片」
海外論断
澤田謙「『自動車王』フオード」/下田将美「堅実なる財界整理に禍する日銀の利下」/遊佐敏彦「婦人職業生活の諸相」/石川武美「経営一家言」/饒平名智太郎「英国炭鉱争議の大立物クック」/國富信一「秋の空」/三角頭巾「内務省の人事系統」/三宅大輔「六大学野球リーグ戦予想」/森光子「ある遊女の実話」
六大学通信
永丘智太郎 略歴
本籍 東京都北多摩郡武蔵野市吉祥寺2733
住所 千葉県印旛郡遠山村三里塚沖縄農場
東京のアドレス 都下田無町2729 誠和寮内永丘私室
出生地 沖縄県那覇市若狭町
出生年月日 明治24年2月3日
旧姓 饒平名を廃し祖父永丘家を復興
写真ー饒平名智太郎/1938年2月19日『琉球新報』「改姓広告」
学業
1、明治41年3月 沖縄県立中学校を卒業した。
○1908年・第20回卒業ー新垣朝光(県属)、上原章、上間長八(今帰仁今泊)、奥島憲慶(読谷山小学校長)、大嶺眞和、大湾政順(那覇市役所)、大見謝恒英(百四十七銀行那覇支店)、大湾喜福、嘉手川重輪(大阪税務監督局)、垣花恵祥(県庁)、我部政仁(東京小学教員)、嘉手川重位(那覇松山小学訓導)、川津博(早稲田文科卒)、神里常吉、金城嘉輔、嘉手納順範(在東京)、金城蒲戸(安里小学校訓導)、我謝秀輝、金城至蒲、許田重発(那覇尋常高等小訓導)、岸本幸厚(沖縄タイムス理事)、宜名眞邑挙(真和志小学校訓導)、久高将吉(工学士 京都市上市区田中町字大溝6)、城間垣貴(東京小学教員)、國吉良實(明大卒 泉崎)、小波津保光 、小橋川照顕(那覇市議)、小湾喜長(私立農業大学卒 中頭郡 技手)、佐久川恵柔(台南製糖会社嘉手納工場)、佐多忠三(台南製糖宜野湾工場)、島袋賀麻、謝花寛廉(在東京)、鹽谷亥之助、垂野光久、玉城友善(早稲田卒 本校在勤)、大工廻盛敏(沖縄県物産検査所産業主事補)、高志武盛蔚(津波小学校訓導)、照屋寛純(首里男子校訓導)、渡久地政佑(台南製糖会社高嶺工場)、東郷實(鹿児島県)、長友一郎(東京高商卒 郵船会社孟買支店)、名城嗣敏(在東京)、仲尾次政潤、名城嗣頼(南米ペルー)、今帰仁朝興(中頭郡書記)、仲吉良光(早稲田文科卒 在米)、今帰仁朝規(早稲田文科卒 糖商組合)、長嶺精一(佐敷小学校)、饒平名智太郎(在東京 改造社)、西平守由(広島高等師範卒 本校教諭)、新名栄蔵(那覇区旭町)、樋口敏彦(東京高工教員養成所卒 東京市役所建築課都市計画部)、比嘉賀秀(牧師)、弘中一郎、外間善助(国頭郡屁辺野喜小学校長)、外間誠昌(師二卒)、真境名安行(熊本医専卒 中頭郡勝連村医)、眞玉橋朝信(南風原小学校訓導)、又吉康和(名護)、松村嘉實(師二卒)、宮城普本(熊本医専卒 在大阪)、森田孟睦(高工卒 東京警視庁)、飛岡太郎(基隆台湾倉庫株式会社)、屋我宗恭(沖縄朝日新聞社)、山口房良(首里女子小学校長)、屋部憲重(泊小學訓導)、山城次郎(在南米)、吉嶺伊津(神戸山中廻送店)→1923年2月 沖縄県立第一中学校同窓会『同窓会報 第一号』
1、それから東京高等商業学校(明治42年4月)と上海の東亜同文書院(大正3年4月)に県費で入学したが、前者は家事の都合、後者は病気のため、何れも中退に終わった。大体学校よりも独学で素養をつけた。
1911年7月 饒平名智太郎、物産陳列所雇(~1912年6月)
1912年10月28日『琉球新報』
職業
1、大正5年9月 北京の共同通信に英文記者として入社3年間勤務した。
1、大正8年9月 改造社に記者として採用され、6年間の在勤中印度及びロシア問題を研究した。此間に北支、満州、シベリア(浦塩)に遊んだ。孫文、ヨツフエ、カラハン、片山潜等に知遇を得たのも此時代。浦塩に行ったのは、関東震災羅災労働者救援委員会(松岡駒吉、布施辰治其他学者グループを以て構成)の代表としての資格であった。
1922年4月 『改造』饒平名智太郎「真理の把握とガンヂーの運動」
1922年5月 『改造』饒平名智太郎「サチャグラハ運動」
1922年5月 鹿子木員信②・饒平名智太郎『ガンヂと真理の把握』改造社
②鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。大日本言論報国会の事務局長として国粋主義思想運動をリードし、戦後はA級戦犯容疑者として逮捕された。妻は教育者である鹿子木コルネリア、息子にベルリンオリンピックに出場したバスケットボール選手、鹿子木健日子がいる。「プラトン哲学の研究」で文学博士(東京帝大)。→ウィキペデイア
1922年8月 饒平名智太郎『ガンヂ審判の日』改造社
1922年10月 『改造』饒平名智太郎「松岡駒吉君」
1922年11月 『改造』饒平名智太郎「ケマール・パシャ」
1923年4月 『改造』饒平名智太郎「水平社大会特派記ー(略)水平運動は決して彼等のみの解放運動に止まってはいけない。彼等の解放運動であると同時に、全無産階級を解放するの運動でなければならない。幸ひ彼等はその方向を指して突進しつつあるのを私は見た。私は彼等の前途を祝福しながら筆を擱かう。」
1924年3月 『改造』饒平名智太郎「ルイコフの片鱗」
1961年1月11日『沖縄タイムス』永丘智太郎「遺稿・難民のころ」①~1月18日⑦
□御料牧場の開放ー昭和20年10月ごろ、久米島出身の与世盛智郎①(本願寺の海外布教師)が中支方面から引き揚げて来ていた。引き揚げ者やら復員軍人やら彼を取り巻く一族郎党は多く皆が困っていたので、いわゆる集団入植を計画して沖縄協会に何べんか私を訪ねて来た。富士山の麓か浜名湖の近くにある御料地は如何だろうかという話であった。彼は農業をやった経験はなし、入植適地か如何か、だれも下検分に行ったわけではなかったから、私も容易に動こうとはしなかった。
私は戦前、与世盛君とは一度会ったことがあり、宮城聡が私の職場に連れて来て紹介されていたので、人間的に信頼をおいていた。そこへ行くと理事長の伊江さんは、初対面の素性のわからない人には警戒的であった。幸いなことに、沖縄協会に来てくれた那覇の人で城間君(恒加翁の長男)といって、慶応大の助手をしていて、毎年夏になると実習に千葉県の三里塚御料牧場に行ったことがあり牧草地帯だから地味肥沃で絶好な入植地だと太鼓判をおしてくれた。この城間君を与世盛君に紹介することによって、初めて与世盛君のアイディアも生かされた。現地へは、同君が率先して久米島の若い人々を連れて調査に乗り込むし、山城君や儀間君など血気盛んな青年たちも視察に行って、極めて入植適地であることがわかったので、私は初めて宮内庁は御料地百町歩の開放ー「郷土を失って帰ろうにも帰れない沖縄の難民を、沖縄協会においてあっせん入植させたいから、特別の詮議で許可を乞う」旨の陳情書をしたためた。伊江男や高嶺君も宮内庁の官僚に知人があって奔走してくれた。宮内庁への運動には、伊江さんは当時まだ顔がきいた。
そこで沖縄協会としては、神奈川逗子の沼間寮、横浜金沢八景の引揚寮、および埼玉県のわらび寮に収容されていた県人から入植希望者を募集し、与世盛君を団長として18人の先遣隊を現地に送り込んだのは、昭和21年3月6日であった。この中から現在に至るまで定着している者は、11人あり、唯一人の婦人として私の家内が初めから加わっていた。この先遣隊が、いわば三里塚開拓の中核隊であり、久米島一統が5家族あった。(それから二次三次の入植補欠募集で久米島は更に数家族増えた)その後、宮内庁はマッカーサー総司令部の強要によって、全国にある大部分の御料地を放擲せねばならなかった。三里塚においては、千四百町歩の内千町歩は大蔵省へ物納(税金)として収めることになり、大蔵省はその土地をそっくり開拓財産として農林省へ回付した。農林省は、千葉県の開拓課に処分を一任した。宮内庁からは、千葉県知事に対して沖縄協会へは、優先的に土地を分譲するよう特別の指示を出してくれ、その旨沖縄協会へも通達があった。
『久米島と私』/上江洲智泰
■2002年の10月、久しく山之口貘記念会を預かっていた若夏社の山川敏江さんの案内で上江洲智一氏に会い、父君・智泰の回想録『久米島と私』を頂いた。中に南満の公主嶺に航空兵として滞在した話、上海で布教していた義父・与世盛智郎(西本願寺僧侶)と千葉県三里塚の御料牧場を永丘智太郎名(沖縄人連盟)で宮内省、千葉県との交渉、「沖縄農場」として入植した話、そこで世話になったのが与世里盛春農業学校校長だったことが記されている。
与世盛智郎1981年ー与世盛智郎『50年計画ー理想の久米島建設』/1979年3月ー与世盛智郎『沖縄仏教読本ー本願寺派』久米島本願寺布教所/真喜志康徳氏宛の与世盛智郎ハガキ
写真ー与世盛智郎①
1947年11月28日『自由沖縄』
1947年8月15日『自由沖縄』