10/31: 世相ジャパン
2023-11-1 伊佐眞一 昨日、中国から帰ってきました。北京に4泊、上海に2泊しただけですが、現地に立った感覚は文献や映像では代え難い体験です。琉球の文化がいかに中国に大きく負っているか、わずかなりともわかりましたね。
2022年11月2日、首里から伊佐眞一さんが泊まで歩いて(健康のため)きて『「時の眼ー沖縄」批評誌N27』第10号を恵まれた。
2022年10月 『「時の眼ー沖縄」批評誌N27』第10号 伊佐眞一「『復帰』思考を葬る」/安里英子・ 聞き手「新川明が語る『反復帰』論・自立の思想」
伊佐眞一「『世替』とぅ ウチナーンチュぬ 実」/又吉盛清「新垣弓太郎と辛亥革命」/大田静男「南西諸島の最前線基地化を断て!」
後田多敦「大龍柱向き改ざんを止められるか!」/永津禎三「首里城正殿大龍柱問題」/比嘉慂「じっと見る・私の怨念 日本復帰50年」
2007年2月 比嘉慂『美童物語』講談社
大濱 聡 11-2 ■本日(11.2)の『琉球新報』朝刊が伝えた普久原恒勇さん(沖縄市在/作曲家・音楽プロデューサー)の訃報に驚いた。昨夜、ある宴席で同席した琉球新報社のYさんが同紙に普久原さんが連載した「ぼくの目ざわり耳ざわり」の担当だったことから、普久原さんのことを話題にしたばかりだったからである。
2022-10-30 第7回世界のウチナーンチュ大会
10/08: 世相ジャパン
コメントはメールにお願いします→shinjo8109@yahoo.co.jp
☆天網てんもう恢恢かいかい疎そにして漏もらさず《「老子」七三章から》天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。『大辞泉』
10-20 なはーと、左が仲嶺絵里奈さん/10-21 泊の自宅前で隣はパン屋さんが開店準備中/那覇空港
『沖縄タイムス』10-24 立候補を表明した当初は、相手候補に比べて知名度が劣ることに選対の焦りもあったが、告示直前の城間幹子市長の後継指名によって市民に広く浸透し、無党派層への支持拡大にもつながった。翁長雄志県政で副知事として「オール沖縄」側に身を置いた浦崎唯昭、安慶田光男両氏、城間市政で副市長を務めた久高将光氏らの支援を取り付けたことも大きかった。経済界も一枚岩となり、かつて自公と対立した金秀グループの呉屋守将会長、かりゆしグループの平良朝敬会長も支援に回った。さらには市議会で是々非々だった中立市議らも水面下で知念氏を応援した。
革新地盤とされる首里地域でも、首里出身の知念氏の同級生らが積極支援する動きが見られた。保守一本化戦略も奏功。一時は候補者擁立に動いた新興勢力「参政党」と政策協定を結び、辞退するよう申し出た。下地幹郎前衆院議員の支援も取り付け「オール保守」(選対関係者)を構築した。
M・T 10-20 参議院選挙・知事選挙で敗北した日本政府が、去る1月7日の日米の「2プラス2」で推進を確認した台湾有事の「日米共同作戦計画」を実行するためには、沖縄自体がこの戦争政策を許容推進する側につかねば、推進できないとして、必死に沖縄の世論を分断にかかってきました。これほどまでに数種類のビラをしかも金をかけた色刷りのビラを短期間に全家庭にまくなんて、歴史上の選挙でなかったことです。このことだけでも、相手候補の背後がいかなるものか想像がつきますし、その狙いの凄まじさが分かります。
RBC 10-15 那覇市の市立図書館8館が所有する67万冊の蔵書や、19万人にのぼる利用者の個人情報を管理するシステムが外部からのサイバー攻撃を受け、使用できない状態となっています。システムの復旧は見通しがつかない事から、那覇市内全ての市立図書館で13日から本の貸し出しを停止していて再開のメドは立っていません。システムのサーバーには「身代金を払わないと再び攻撃する」という英文が残されていて、那覇市立中央図書館は警察へ被害届を出す方針です。
10-13 泰山さんがメールで知らしてくれたのでリブロで入手。『世界』11月 第963号 渡辺豪「沖縄・半世紀の群像(最終回)ー金城馨」
山城 明 10-12 キラキラ輝いてます。
10月11日、おもろまちの電気屋によって帰途、真栄里泰山さんのご自宅に初めて伺う。泰山さんの長男は家の息子と泊小学校の同期生。1981年12月 沖縄の郷土月刊誌『青い海』109号 真栄里泰山(那覇市史編集室)「浅見オトー藪の中のカナリア」
◇真栄里 泰山(まえざと たいざん)1944年生 那覇市史編さん室、那覇市企画部長、経済部長などを経て、沖大客員教授、同常務理事を歴任。主な著作:「沖縄の慟哭(那覇市民の戦時戦後体験記)」編集担当 那覇市(沖縄タイムス出版文化賞)/「歴史ドキュメント・写真集・那覇百年の歩み」 編集担当 那覇市/「日本の空襲9沖縄」 編集担当 三省堂 (毎日出版文化賞)/「那覇大綱挽30年記念誌」那覇大綱挽保存会 編集副委員長
「TOKYOうちなーねっと」沖縄県の学生寮「沖英寮」が東京都世田谷区の豪徳寺にあることから始まった沖縄祭り。今年は4年ぶりの開催となり、寮の皆さまも気合が入っている様子でした。
第52回那覇大綱挽まつり 国際通り10月9日 旗頭行列(ウフンナスネーイ)
株式会社 三人社 京都市左京区岡崎徳成町29−3 岡崎ミントビル 電話番号 075-762-0368 FAX 075-762-0369『青い海』復刻版カタログ
〇新城栄徳『青い海』の思い出」1971年2月、京都駅近鉄名店街にある職場から大阪都島の「沖縄関係資料室」に行くと、来客があったようでテーブルに「沖縄をつくる若い広場 青い海趣意書」が置かれていた。夕方、仕事から帰宅した西平守晴が「同郷(八重山)で元琉球新報記者の津野創一君が沖縄の若い人向けの雑誌を出すというので、新城君もひとつ協力してくれ」という。翌日、大阪北区太融寺の阪急東ビルのオキナワ通信に居候の『青い海』編集室を訪ねた。津野編集長の早口で語るビジョンに意気投合した。大阪の編集は儀間比呂志の紹介で万木恵美子がいた。津野編集長は「編集デスクがほしい」と漏らしていた。
1971年4月に『青い海』創刊された。表紙絵「舞姫」は儀間比呂志、儀間は「この作品で云いたいのは、沖縄がどんな状況にあろうと、民族の誇りと、文化を守ろうとする若人のけがれのない瞳の美しさなのです。」と強調している。以後『青い海』表紙の儀間作品は2号、3号と続き、以後も3回、口絵も多数。その当時は渚ゆう子の歌「京都の恋」がテレビなどで流れて、歌詞の「わたしの心に鐘が鳴る 白い京都に 雨が降る」は寒い京都と相まって今でも覚えている。渚は『青い海』創刊の趣意書に「気にいった『青い海』」として、安仁屋宗八、琉王、堀江謙一とともに推薦文を寄せ、創刊号の青い海芸能に「渚ゆう子の人と歌とふるさとと」と登場して「ウミナイビ姿」の写真も載っている。『青い海』創刊当時と違って今はネットの時代なので検索すれば直ちに渚ゆう子画像・動画は過去から現在までなんぼでも出てくる。
1971年5月、沖縄の雑誌『青い海』2号に私らのグループ「沖青友の会(大阪)」が紹介されている。末尾に、大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。おそらく10余のグループがあるのではないか、という。嘉陽君らは、思想、信条の違いはあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。と結んでいる。当時、関西には、京都の都沖青、港区の沖青友の会、大正区のサークル南風、枚方市の守礼の会、尼埼の三和同郷青友会があった。それらと連絡雑誌を作ろうと沖青友の会が動きはじめた最中であったから、『青い海』創刊は渡りに船であった。私より沖青友の会の嘉陽宗博会長の方が積極的で機関誌『石の声』で宣伝にこれ努めた。
西平を紹介してほしいと、京都長岡天神でミニコミ紙「琉球弧」を出していた高良重一が沖縄から来た友人・小渡照生を同行してきた。大阪港区の池島保育園(西平夫人が園長。近鉄の野茂英雄投手も同園出身)の管理人室で西平を交えて話を聞いた。小渡は、大阪で図書館関係の仕事をしたいということだった。私は早速、沖縄の雑誌『青い海』が編集者を募集しているが、それをしながら図書館の仕事を見つけたらどうかと提案した。いつの間にか小渡氏も『青い海』の編集デスクに納まり、高良も『青い海』に協力し、東京支社長もつとめた。私も仕事(調理師)の合間に週に2回は『青い海』編集室でゴロゴロするようになった。
1972年2月号『青い海』10号 「若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」大阪都島の「沖縄関係資料室」が私の企画で紹介された。「沖縄のいぶき、臭いのあるもの、すべてを(沖縄の)集収する。この小さな部屋に沖縄を凝集させる」新城栄徳の抱負であるとする。だが、すべてのウチナー資料を資料室に集めるということはスペースもだが、限界がある。そこで関西にある公共機関(図書館・博物館)の沖縄関係所蔵資料の目録をヒマがあるとつくっていった。大阪府立中之島図書館には、伊波普猷の著書は『古琉球』をはじめ、戦前のものだけでも18冊、大城立裕の著書は14冊ある。新聞は琉球新報、沖縄タイムスの両支社に10年分はある。沖縄県大阪事務所は前田朝助所長、次長の協力を得て主要な資料のリストはつくった。物産展のポスターなどの資料は豊富である。青い海大阪支社には県人会、郷友会発行の会誌、名簿資料がある。宝塚歌劇団にも沖縄芸能の録音、8ミリの所蔵300点がある。民博、日本工芸館にも沖縄民芸が豊富にある。2022年今、私は沖青友の会、沖縄関係資料室、『青い海』で得た情報を増補改訂しながらブログ「琉文21」で紹介している。
1971年5月22日『サンデーおきなわ』
□カメラルポー西平久子さんが大阪で保育園長にー関西沖縄関係資料室など、社会奉仕活動家として知られる西平守晴氏(大阪市都島区都島本通り5ノ23)の夫人、久子さんが、大阪にできた公設民営の保育園長に就任した。
4月19日、開園式をすませ現在百人の幼児を収容しているこの池島保育園は大阪保育事業団が施設を作り久子さんが園長として運営していく公設民営という新しいケースのもので各方面から注目をあびている。
久子さんは首里の出身で、満州育ち。昭和23年引揚げてから大阪に永住。この間関西主婦連比嘉正子会長の都島保育園で保母を続けてきた幼児教育のベテランで、関係者からその手腕が大いに期待されている。
開園式には大阪政界人、教育関係者など多数が列席、新しいケースに挑む久子園長を激励したが、東京からかけつけた西銘順治衆議院議員も「沖縄の幼児教育は本土より遅れているが、沖縄出身の西平久子さんが、大勢の中から選ばれて園長に就任したことは、沖縄の保育事業に一灯をともすことにもなり心強い」とお祝いの言葉を述べた。
写真ー左・息子と西平久子さん、佳央さん
1989年12月6日『琉球新報』
□西平守晴(大阪・沖縄関係資料室主宰)ー落ち穂・秘めた可能性ー日ごろプロ野球にはあまり関心も興味ももっていない私でしたが、さる26日のプロ野球のドラフト会議には熱い思いでその成り行きをみていたものです。と言うのは新日鉄堺の野茂英雄投手の指名があると聞いたからでした。高校野球の大阪府予選で完全試合を記録したり、卒業後新日鉄堺の社会人野球でメキメキと腕をあげ、昨年7月のソウル五輪では日本代表チームのエースとして活躍した野茂英雄君の成長ぶりをわがことの様に見守ってきたものです。
ソウル五輪から帰国したある日「英雄です」と言って訪ねてきてくれ、オリンピックの銀メダルを私達老夫婦に喜んでもらおうという彼の優しい心遣いがうれしく感動したものでした。その彼が今や身長185㌢、体重85㌔の偉丈夫に成長し150㌔の剛速球投手の実力はついにドラフト会議で史上初の八球団が競い合って一位指名をしたと言うことをみて涙が出る程うれしく思ったものです。しかし、そのことよりも彼の記者会見であの謙虚な態度と素直な発言をみて、よくここまで成長してくれたものと保育者冥利にひたりながらうれしく思ったものです。
そもそも野茂英雄君とは池島保育園(園長西平久子)の第四期(昭和50年)の卒園児で彼の幼児期の保育にかかわってきたのですが、特別に目立つような児でもなく、ただ素直で気のやさしい児であったことが印象にあるのみです。この児のどこにこのようなすばらしい可能性が秘められていたのか今でも思いあたる節もないのですが、ただ何事も辛抱づよく最後までやりとげる根性が野球選手として彼を成長させたものだと思うのみです。
今日も保育園の園庭では黄声でしゃぎまわる園児たちの姿をみていると、この児たちもみんな素晴らしい可能性を秘めながら一日一日を成長していくのだと思うと、これからもこの児らの可能性を信じ、そして大切に「心づくりと体づくり」にはげんでいかねばと思う日々です。
☆天網てんもう恢恢かいかい疎そにして漏もらさず《「老子」七三章から》天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。『大辞泉』
10-20 なはーと、左が仲嶺絵里奈さん/10-21 泊の自宅前で隣はパン屋さんが開店準備中/那覇空港
『沖縄タイムス』10-24 立候補を表明した当初は、相手候補に比べて知名度が劣ることに選対の焦りもあったが、告示直前の城間幹子市長の後継指名によって市民に広く浸透し、無党派層への支持拡大にもつながった。翁長雄志県政で副知事として「オール沖縄」側に身を置いた浦崎唯昭、安慶田光男両氏、城間市政で副市長を務めた久高将光氏らの支援を取り付けたことも大きかった。経済界も一枚岩となり、かつて自公と対立した金秀グループの呉屋守将会長、かりゆしグループの平良朝敬会長も支援に回った。さらには市議会で是々非々だった中立市議らも水面下で知念氏を応援した。
革新地盤とされる首里地域でも、首里出身の知念氏の同級生らが積極支援する動きが見られた。保守一本化戦略も奏功。一時は候補者擁立に動いた新興勢力「参政党」と政策協定を結び、辞退するよう申し出た。下地幹郎前衆院議員の支援も取り付け「オール保守」(選対関係者)を構築した。
M・T 10-20 参議院選挙・知事選挙で敗北した日本政府が、去る1月7日の日米の「2プラス2」で推進を確認した台湾有事の「日米共同作戦計画」を実行するためには、沖縄自体がこの戦争政策を許容推進する側につかねば、推進できないとして、必死に沖縄の世論を分断にかかってきました。これほどまでに数種類のビラをしかも金をかけた色刷りのビラを短期間に全家庭にまくなんて、歴史上の選挙でなかったことです。このことだけでも、相手候補の背後がいかなるものか想像がつきますし、その狙いの凄まじさが分かります。
RBC 10-15 那覇市の市立図書館8館が所有する67万冊の蔵書や、19万人にのぼる利用者の個人情報を管理するシステムが外部からのサイバー攻撃を受け、使用できない状態となっています。システムの復旧は見通しがつかない事から、那覇市内全ての市立図書館で13日から本の貸し出しを停止していて再開のメドは立っていません。システムのサーバーには「身代金を払わないと再び攻撃する」という英文が残されていて、那覇市立中央図書館は警察へ被害届を出す方針です。
10-13 泰山さんがメールで知らしてくれたのでリブロで入手。『世界』11月 第963号 渡辺豪「沖縄・半世紀の群像(最終回)ー金城馨」
山城 明 10-12 キラキラ輝いてます。
10月11日、おもろまちの電気屋によって帰途、真栄里泰山さんのご自宅に初めて伺う。泰山さんの長男は家の息子と泊小学校の同期生。1981年12月 沖縄の郷土月刊誌『青い海』109号 真栄里泰山(那覇市史編集室)「浅見オトー藪の中のカナリア」
◇真栄里 泰山(まえざと たいざん)1944年生 那覇市史編さん室、那覇市企画部長、経済部長などを経て、沖大客員教授、同常務理事を歴任。主な著作:「沖縄の慟哭(那覇市民の戦時戦後体験記)」編集担当 那覇市(沖縄タイムス出版文化賞)/「歴史ドキュメント・写真集・那覇百年の歩み」 編集担当 那覇市/「日本の空襲9沖縄」 編集担当 三省堂 (毎日出版文化賞)/「那覇大綱挽30年記念誌」那覇大綱挽保存会 編集副委員長
「TOKYOうちなーねっと」沖縄県の学生寮「沖英寮」が東京都世田谷区の豪徳寺にあることから始まった沖縄祭り。今年は4年ぶりの開催となり、寮の皆さまも気合が入っている様子でした。
第52回那覇大綱挽まつり 国際通り10月9日 旗頭行列(ウフンナスネーイ)
株式会社 三人社 京都市左京区岡崎徳成町29−3 岡崎ミントビル 電話番号 075-762-0368 FAX 075-762-0369『青い海』復刻版カタログ
〇新城栄徳『青い海』の思い出」1971年2月、京都駅近鉄名店街にある職場から大阪都島の「沖縄関係資料室」に行くと、来客があったようでテーブルに「沖縄をつくる若い広場 青い海趣意書」が置かれていた。夕方、仕事から帰宅した西平守晴が「同郷(八重山)で元琉球新報記者の津野創一君が沖縄の若い人向けの雑誌を出すというので、新城君もひとつ協力してくれ」という。翌日、大阪北区太融寺の阪急東ビルのオキナワ通信に居候の『青い海』編集室を訪ねた。津野編集長の早口で語るビジョンに意気投合した。大阪の編集は儀間比呂志の紹介で万木恵美子がいた。津野編集長は「編集デスクがほしい」と漏らしていた。
1971年4月に『青い海』創刊された。表紙絵「舞姫」は儀間比呂志、儀間は「この作品で云いたいのは、沖縄がどんな状況にあろうと、民族の誇りと、文化を守ろうとする若人のけがれのない瞳の美しさなのです。」と強調している。以後『青い海』表紙の儀間作品は2号、3号と続き、以後も3回、口絵も多数。その当時は渚ゆう子の歌「京都の恋」がテレビなどで流れて、歌詞の「わたしの心に鐘が鳴る 白い京都に 雨が降る」は寒い京都と相まって今でも覚えている。渚は『青い海』創刊の趣意書に「気にいった『青い海』」として、安仁屋宗八、琉王、堀江謙一とともに推薦文を寄せ、創刊号の青い海芸能に「渚ゆう子の人と歌とふるさとと」と登場して「ウミナイビ姿」の写真も載っている。『青い海』創刊当時と違って今はネットの時代なので検索すれば直ちに渚ゆう子画像・動画は過去から現在までなんぼでも出てくる。
1971年5月、沖縄の雑誌『青い海』2号に私らのグループ「沖青友の会(大阪)」が紹介されている。末尾に、大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。おそらく10余のグループがあるのではないか、という。嘉陽君らは、思想、信条の違いはあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。と結んでいる。当時、関西には、京都の都沖青、港区の沖青友の会、大正区のサークル南風、枚方市の守礼の会、尼埼の三和同郷青友会があった。それらと連絡雑誌を作ろうと沖青友の会が動きはじめた最中であったから、『青い海』創刊は渡りに船であった。私より沖青友の会の嘉陽宗博会長の方が積極的で機関誌『石の声』で宣伝にこれ努めた。
西平を紹介してほしいと、京都長岡天神でミニコミ紙「琉球弧」を出していた高良重一が沖縄から来た友人・小渡照生を同行してきた。大阪港区の池島保育園(西平夫人が園長。近鉄の野茂英雄投手も同園出身)の管理人室で西平を交えて話を聞いた。小渡は、大阪で図書館関係の仕事をしたいということだった。私は早速、沖縄の雑誌『青い海』が編集者を募集しているが、それをしながら図書館の仕事を見つけたらどうかと提案した。いつの間にか小渡氏も『青い海』の編集デスクに納まり、高良も『青い海』に協力し、東京支社長もつとめた。私も仕事(調理師)の合間に週に2回は『青い海』編集室でゴロゴロするようになった。
1972年2月号『青い海』10号 「若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」大阪都島の「沖縄関係資料室」が私の企画で紹介された。「沖縄のいぶき、臭いのあるもの、すべてを(沖縄の)集収する。この小さな部屋に沖縄を凝集させる」新城栄徳の抱負であるとする。だが、すべてのウチナー資料を資料室に集めるということはスペースもだが、限界がある。そこで関西にある公共機関(図書館・博物館)の沖縄関係所蔵資料の目録をヒマがあるとつくっていった。大阪府立中之島図書館には、伊波普猷の著書は『古琉球』をはじめ、戦前のものだけでも18冊、大城立裕の著書は14冊ある。新聞は琉球新報、沖縄タイムスの両支社に10年分はある。沖縄県大阪事務所は前田朝助所長、次長の協力を得て主要な資料のリストはつくった。物産展のポスターなどの資料は豊富である。青い海大阪支社には県人会、郷友会発行の会誌、名簿資料がある。宝塚歌劇団にも沖縄芸能の録音、8ミリの所蔵300点がある。民博、日本工芸館にも沖縄民芸が豊富にある。2022年今、私は沖青友の会、沖縄関係資料室、『青い海』で得た情報を増補改訂しながらブログ「琉文21」で紹介している。
1971年5月22日『サンデーおきなわ』
□カメラルポー西平久子さんが大阪で保育園長にー関西沖縄関係資料室など、社会奉仕活動家として知られる西平守晴氏(大阪市都島区都島本通り5ノ23)の夫人、久子さんが、大阪にできた公設民営の保育園長に就任した。
4月19日、開園式をすませ現在百人の幼児を収容しているこの池島保育園は大阪保育事業団が施設を作り久子さんが園長として運営していく公設民営という新しいケースのもので各方面から注目をあびている。
久子さんは首里の出身で、満州育ち。昭和23年引揚げてから大阪に永住。この間関西主婦連比嘉正子会長の都島保育園で保母を続けてきた幼児教育のベテランで、関係者からその手腕が大いに期待されている。
開園式には大阪政界人、教育関係者など多数が列席、新しいケースに挑む久子園長を激励したが、東京からかけつけた西銘順治衆議院議員も「沖縄の幼児教育は本土より遅れているが、沖縄出身の西平久子さんが、大勢の中から選ばれて園長に就任したことは、沖縄の保育事業に一灯をともすことにもなり心強い」とお祝いの言葉を述べた。
写真ー左・息子と西平久子さん、佳央さん
1989年12月6日『琉球新報』
□西平守晴(大阪・沖縄関係資料室主宰)ー落ち穂・秘めた可能性ー日ごろプロ野球にはあまり関心も興味ももっていない私でしたが、さる26日のプロ野球のドラフト会議には熱い思いでその成り行きをみていたものです。と言うのは新日鉄堺の野茂英雄投手の指名があると聞いたからでした。高校野球の大阪府予選で完全試合を記録したり、卒業後新日鉄堺の社会人野球でメキメキと腕をあげ、昨年7月のソウル五輪では日本代表チームのエースとして活躍した野茂英雄君の成長ぶりをわがことの様に見守ってきたものです。
ソウル五輪から帰国したある日「英雄です」と言って訪ねてきてくれ、オリンピックの銀メダルを私達老夫婦に喜んでもらおうという彼の優しい心遣いがうれしく感動したものでした。その彼が今や身長185㌢、体重85㌔の偉丈夫に成長し150㌔の剛速球投手の実力はついにドラフト会議で史上初の八球団が競い合って一位指名をしたと言うことをみて涙が出る程うれしく思ったものです。しかし、そのことよりも彼の記者会見であの謙虚な態度と素直な発言をみて、よくここまで成長してくれたものと保育者冥利にひたりながらうれしく思ったものです。
そもそも野茂英雄君とは池島保育園(園長西平久子)の第四期(昭和50年)の卒園児で彼の幼児期の保育にかかわってきたのですが、特別に目立つような児でもなく、ただ素直で気のやさしい児であったことが印象にあるのみです。この児のどこにこのようなすばらしい可能性が秘められていたのか今でも思いあたる節もないのですが、ただ何事も辛抱づよく最後までやりとげる根性が野球選手として彼を成長させたものだと思うのみです。
今日も保育園の園庭では黄声でしゃぎまわる園児たちの姿をみていると、この児たちもみんな素晴らしい可能性を秘めながら一日一日を成長していくのだと思うと、これからもこの児らの可能性を信じ、そして大切に「心づくりと体づくり」にはげんでいかねばと思う日々です。