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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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二中樹緑会

安谷屋正義
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大嶺政寛
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沖縄ニッコールクラブ
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比嘉康雄出版祝賀会
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二科撮影会 大竹省二氏


山田有度は明治末、奥武山琉歌会の世話人、山里永昌(山里永吉の父)宅や安仁屋宅などに集い流行も取り入れ琉歌を発表している。山田有度「自転車ー見ちもおもしろや与所の手もからぬあしのふむままに巡るくるま」「さかもりに咲る言葉の花や雪霜やふても匂とましゆる」「旅にをる間やしらてやりしちもつれなさや夢の夜夜に通て」「庭のしら菊も空に照る月も共にうきやかゆさけふの空や」「孫かほしゃしゅたる親のまひるうちに生まれらぬたすとももらみゆる」


□沖縄文化協会
1954年7月1日ー沖縄文化協会設立総会を那覇琉米文化会館で開き、初代会長に豊平良顕。役員には、仲宗根政善、川平朝申、南風原朝光、大嶺政寛、護得久朝章、真境名由康、城間朝教、与那国善三の諸氏が任命された。
1955年11月26日~27日ー東京日本青年館で開催された第10回文部省主催、芸術祭参加公演に沖縄芸能団(団長・豊平良顕)を組織し、総勢23名を派遣した。
1963年7月ー第1回「史跡・民芸の旅」石垣島と竹富島へ、65名が参加した。
1964年7月ー第2回「史跡・民芸の旅」沖縄島中・北部の史跡巡り。
1965年6月ー第3回「史跡・民芸の旅」沖縄島南部の史跡を巡る。
1966年7月3日ー第4回「史跡・民芸の旅」大宜味村字喜如嘉の芭蕉布等見学
1967年8月5日ー第5回「史跡・民芸の旅」久米島を訪問、このときから沖縄芸能協会、沖縄写真連盟も共催。
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表紙ー沖縄タイムスデザイン部
写真ー水島源晃、山田實
カットー大嶺政寛
1968年8月12日ー第6回「史跡・民芸の旅」奄美大島訪問。
1969年8月18日ー第7回「史跡・民芸の旅」与那国島訪問。
1970年6月3日ー第8回「史跡・民芸の旅」山陰、山陽地方と大阪万博見学。
1971年7月23日~25日ー第9回「史跡・民芸の旅」伊平屋、伊是名島を訪問。参加者100名。
1972年7月29日ー第10回「史跡・民芸の旅」奥羽地方、益子、日光、奥の細道を巡る。参加者80名。
1973年8月1日ー第11回「史跡・民芸の旅」四国訪問。70名参加。
1974年7月23日ー第12回「史跡・民芸の旅」飛騨高山地方へ。80名参加。

第12回史跡民芸の旅ー写真左上に宮里栄輝、中央上に山田實、大嶺政寛、二人置いて新垣栄三郎、2列目に島常賀、右端に大城,宗憲,、前列左に宮平初子、大城亀、南風原の織物関係の諸氏が居る。
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1975年6月 沖縄文化協会・沖縄民芸協会・沖縄芸能協会『沖縄の伝統文化』

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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写真ー鈴木勝雄氏(左)、新城栄徳

 『琉球新報』2008年12月22日ー1872年の琉球藩設置から今日までの沖縄の近現代に注目し、沖縄出身の作家と日本から沖縄に向かった作家を織り交ぜ、それぞれの想像力の軌跡をたどりながら未来の創造活動を展望する展覧会「沖縄・プリズム 1872―2008」(東京国立近代美術館)が21日に閉幕した。同展を企画した同美術館主任研究員の鈴木勝雄氏に話を聞いた。
(聞き手・小那覇安剛)
   ◇   ◇
 ―会期中の反応は。
 観客は時間をかけ、丹念に作品と資料を見てくれた。あまり紹介されることのなかった近現代の沖縄に関心を持つ人が来場しているという印象だ。
 沖縄からの反応も、近現代に真正面から向き合った試みであり、作家の表現行為を通して日本、沖縄の近現代があぶり出されたとする評価が多かった。一方、写真・映像作品の多さに対し、絵画・彫刻の点数を増やせなかったのかという声、1960年代から70年代の画家が落ちているという感想、反応がいくつかあった。
 ―展示会の企画意図とは。
 これまでの展覧会は近世以前の琉球王朝の美術工芸が中心であったのに対し、近現代の沖縄が表現をつくり出す源泉・磁場であったもかかわらず、そこに目を向けた展覧会は存在しなかった。沖縄の近現代が見えてこないことへの違和感が「沖縄・プリズム」の最初の動機となった。
 沖縄に引き寄せられ、表現を紡ぎ出した作家は多い。沖縄の作家もいる。両者が相互に影響し、刺激し合い、時には衝突するという相互性に注目することで展覧会ができるのでは、という思いを抱いた。沖縄と本土の作家を分け隔てることなく、両者のダイアローグ(対話)、影響関係、衝突、摩擦に注目して展覧会をつくっていこうとした。
 ―展覧会において、ヤマト対沖縄という構図をどうとらえたか。
 この展覧会は沖縄が日本の版図に編入されたところからスタートしている。近現代に注目すると、ヤマトと沖縄の政治的関係の中で、視覚的表現の過程にも視線が持つ権力関係がどうしても介在してくる。ともするとヤマト側の視線で沖縄を占有していく力の作用を持つことがあると思う。ヤマト対沖縄という構図は、沖縄の現実を把握するためには有効な構図だ。
 一方、過去にアプローチする場合、ヤマト対沖縄という構図を意識しながらも、作家個人の想像力に目を向けて、時代の制約・限界と可能性を確かめていくことも必要ではないか。この構図がなくなるわけではないが、それだけでは語り尽くせないニュアンスを生み出していく個人の想像力の可能性を意識し、沖縄から生み出された表現の過去と現在、あるいは未来を見ていこうというのが、この展覧会での私なりのスタンスだ。
 ヤマト対沖縄の対立構図が展示会全体を貫いているというのも一つの見方ではあるが、それを意識しながらも、この構図を超え出る個人の想像力への期待、信頼を提示したつもりだ。沖縄に向けられたまなざしを反省することを含めて、百数十年という近現代の歴史を受け止めながら、なおかつ表現行為が新しい展望を切り開いていく可能性について、観客も考えてくれたと思う。
 ―沖縄を「癒やしの島」とするヤマト側の視線に対する沖縄側の反発もある。
 沖縄に対し、癒やしのイメージしか求めないような傾向があるかもしれないが、今回の展示会で選んだ作家は、近代という時代に対峙(たいじ)しようという意思を持った人が多いと思う。沖縄の風土が持っている魅力は当然ある。が、それだけではない。
 沖縄の歴史や日本との関係、そこで出逢った人間関係の総体が沖縄に磁場を生んでいる。本土から沖縄に向かった作家は、対立構図の中で自分に何ができるかを考えざるを得ない。自分のヤマト性を考え抜いた上で作品をつくりたいと思う作家がいた。そうやって人が出会う場所だということが沖縄のポテンシャルだ。
 確かに本土からの視線のなかには、沖縄を消費しようという部分がある。しかし、この展覧会で紹介されている作品すべてが、沖縄を消費的なまなざしで見ているわけではないだろう。
 ―批判的に語られがちな「エキゾチシズム」(異国趣味)にも着目した。
 ある種の差異があるから表現は生まれてくる。「違いがある」ことが認識を狭める方向に形づくってしまうことがネガティブなエキゾチシズムだとするならば、違いがあるからこそ、作家にその場所に向かい、全身をかけていくというのは、ポジティブなエキゾチシズムの有様ではないか。
 ヤマト対沖縄という構図の中で、本土が持つネガティブな部分は批判的に検証しなければならない。しかし、ポジティブな部分もある。外来者が沖縄と摩擦を生みながら、それでも表現を紡ぎ出す可能性は確保しておきたい。展示会で、それをどういう形で言えばいいのか悩んだ。非常にきわどい論議だが、お互いの違いを認識した上で、その違いの中に新たな表現の可能性を発見していくことにかけるしかないと思った。       
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
2月7日昼前、沖縄県立図書館で垣花稔さんに出会った。那覇と題する映画フィルムを見せてもらった。映像資料は沖縄県公文書館が熱心に収集しているので垣花さんと同行した。公文書館では小野さん、久部良さんがいた。フィルムは垣花さんが公文書館に寄贈した。そして小野さんから『沖縄毎夕新聞』を見せてもらった。

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1937年11月ー大宜味朝徳『現代沖縄県人名鑑』海外研究所に宮城清が紹介されている。□泡盛商 神田区淡路町2ノ5(電話神田2357番)、島尻眞和志村與儀の産、明治28年2月14日生、大正3年県立一中を卒業、大正8年沖縄朝日新聞社に入社、主として経済方面を担任5年間勤務す、大正12年同志故瑞慶村智慧氏と計り沖縄経済新聞を創刊す、之れは沖縄県に於いて最も必要なことは沖縄と他府県との経済的関係を明らかにし商取引其他経済上の利害得失を究明し母県の政治上経済上将た社会上あらゆる方面に新生気を注入せんとする信条のもとに企画されたのであったが1年にして廃刊となる。これ沖縄に於ける純経済紙の最初のものであった。後大城彦五郎、伊仲晧の3氏共同にて沖縄毎夕新聞を創刊し社務に従事傍ら県会書記を嘱託さる。大正13年沖縄タイムス社に転す、当時村治刷新自治振興運動にも奔走す、大正14年沖縄救済運動のスタートとして沖縄経済振興会が組織されるや氏は幹事に推され庶務一切を担任して沖縄産業助成運動に参画す、同年末沖縄物産東京斡旋所が設立されるや羽田内務部長の推薦に依り同所最初の東京勤務となり、沖縄物産の東都進出、販路開拓に尽力す、昭和6年9月官を辞し独立して泡盛卸業を開始して今日に至る。(以下略)