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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
1966年度 第一回 琉球古典音楽コンクール
歌三味線最高賞ー上地源照、照喜名朝一 他10人
       新人奨励賞ー西江喜春、他9人 

太鼓優秀選賞ー玉城節子(国場徳八太鼓研究所)、宮里敏子、金城美枝子、他6人

琉球古典舞踊最高賞ー谷田嘉子、平田行正、石川節子、松村典子、宮里敏子、他5人

1989年11月ー「第24回 琉球古典芸能祭プログラム」
琉舞優秀部門ー新城あけみ、他62人

1994年11月ー「第29回 琉球古典芸能祭プログラム」
琉舞最高賞ー新城あけみ、他42人

08/16: 糸満和美

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

1985年3月 『琉舞 華の会 糸満和美の会』

1985年10月 琉舞 華の会『会誌 華』創刊号(表紙題字・新崎白玄)

1998年11月 琉舞かなの会『踊い愛がなと』
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オリオンビールポスター(糸満和美)/写真手前左から糸満和美さん、、金城安太郎さん、山城光重沖縄県立図書館副館長、後方左が宮城保氏、新城栄徳


ウィラード・A・ハンナ(1911年8月3日~1993年10月5日)
1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスパの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。

□ハンナ博士プロフィール
学歴ー1932年 ウースターカレッジで文学士修得/1937年 オハイオ州立大学で文学修士修得/1940年 ミシガン大学で英文学博士号修得/コロラド大学U.S.海軍日本語学校/コロンビア大学U.S.海軍学校/ワシントンD.C.国家軍事大学1953年卒業生

職歴ー1932-36年 中国 上海 杭州で英語教諭 ミシガン大学で英文学教諭/1940-41年 ミシガン州立ノーマルカレッジ(現サザーンミシガン大学)で英文学教諭/1942-46年 U.S.海軍/1945-46年 海軍教育部長(沖縄民政官として赴任)/1946-54年 U.S.国務省 マニラ文化担当調整官 /1947-52年 ジャカルタ広報部部長/1953-54年 東京広報部部長/1954-76年 (American Universitie’s Fields Staff)東南アジア専門委員会 ジャカルタ、シンガポール、マレーシア、ホンコンを基地に時事問題についての報告書を作成。また3年ごとに会員の大学で講義をおこなう。 1976年退職。その後数年間、AUFSの特別な仕事を続ける。結婚は1953年である。

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金城安太郎氏とハンナ博士御夫妻

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右から新城栄徳、金城安太郎氏、ハンナ博士



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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
写真家の山田實さんの所で『沖縄県高校野球五十年史』(沖縄県高校学校野球連盟1972年5月)を見た。沖縄に「野球が伝わったのは」のところに1894年に沖縄中学の学生たちが京都に就学旅行したおり、京都三高の学生から野球の遊び方の説明」を受け、野球用具も土産にもちかえった話がある。また山田有登氏(山田實さんの父)がアメリカの水兵たちと野球をしたこと、昭和3年の二中の山田有勝(山田實さんの兄)左翼、国場幸輝三塁の名前も出て来る。→1995年6月ー『沖縄野球100年』琉球新報社
□1964年、沖縄で山田有登追悼会(日本基督教会・比嘉盛仁牧師)の香奠返しを、沖縄タイムス運動部長・国場幸輝を通じて沖縄社会人野球会に毎年打撃優秀賞に5万円贈った。10年間続いた。香奠は愛楽園にも贈られた。

nullnull写真左ー米水兵と対戦した沖縄中学チーム。右端のバットを持っているのが山田有登選手/写真右ー石垣長夫氏(初枝夫人は末吉麦門冬の娘である)と新城栄徳

石垣 長夫(八重山野球の父)
本郡野球の父である石垣長夫氏は大正2年8月8日、石垣市新川287番地で産声を上げる。学生時代は大阪の浪速商業高校で野球部に籍を置き青春の全てを野球に注ぎ込んだ。その後社会人時代は台湾へと渡り昭和6年、台湾高雄州屏東税務署に就職、野球部で活躍し東京六大学の明治大学との対戦等を通して近代野球の基礎を八重山に持ち帰り、昭和8年八重山体育協会創立に参画。以来昭和63年享年76才で没するまで八重山野球界の普及、発展に務めた。昭和60年全日本軟式野球連盟より軟式野球の普及で表彰されるなど表彰歴は多数。没後、遺族が故人の遺志を継ぎ八重山野球連盟に大優勝旗を寄贈。野球競技の更なる発展と後継者育成を目的に石垣長夫旗争奪なる大会が催されている。


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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

真境名本流/島袋本流


宮城流