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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
輸送力が限界に達していた東海道本線の混雑を解消するため、根本的対策としての別線増設という形で1959年(昭和34年)4月20日に十河信二国鉄総裁と技師長の島秀雄の下、高速化が図れる標準軌新線(在来線は狭軌)として着工され、東京オリンピック開会直前の1964年(昭和39年)10月1日に開業した(開業時の総裁は石田禮助)。建設開始時は「新幹線」という呼び名はなく、第二の東海道線ということで「東海道新線」と呼んでいた。新幹線の名前は、戦前に東京駅 - 下関駅間で計画された「弾丸列車計画」の内部関係者による呼称にちなむといわれている。〔ウィキペディア〕




□→2008年3月 角一典『整備新幹線問題年表 1907-2007』法政大学社会学部科研費プロジェクト「公共圏と規範理論」


11/26: 崇元寺

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1933年の泊方面の写真ー左奥の橋が中之橋(この橋の中央が現在の我が家がある場所)、手前が崇元寺橋で、右の杜が崇元寺

我が家の住所は今は泊2丁目だが、かつて崇元寺町と称していた。その崇元寺だが石門だけが往時を偲ぶものとなっている。これも国の責任で復元してもらいたいものだ。写真は表の写真は割と残っているが、内部は少ない。

崇元寺内部写真
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崇元寺本殿内部/崇元寺前堂内部

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1964年11月ー平凡社『世界大百科事典』明石染人「沖縄ー工芸」(左上ー尚順)

明石国助 あかし-くにすけ

1887-1959 明治-昭和時代の染織工芸研究家。
明治20年5月6日生まれ。明石博高(ひろあきら)の3男。母校京都高等工芸(現京都工芸繊維大)の助教授をへて鐘淵(かねがふち)紡績にはいる。戦後,母校や京都市立美大の講師,文化財保護委員会専門委員などをつとめた。昭和34年1月27日死去。71歳。京都出身。号は染人。著作に「日本染織史」など。(→コトバンク)

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2004年8月15日、カトリック安里教会でケセン語訳聖書の著者・山浦玄嗣氏と、屋部憲次郎氏が対談。
2010年1月、首里の石川和男(みどり印刷)さんは、山浦玄嗣『ふるさとのイエス』『人の子イエス』を読み、感想を『琉球語賛美歌』とともに岩手県の山浦氏におくる。山浦氏からは、氏の講演記録のDVDが贈られてきた。

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東京人の伊高浩昭が著『双頭の沖縄』の中で、本書の著者の安里英子をウタキ研究者として「おきなわの戦後の終了はいつなのかと訊かれるが、米軍基地がたくさんあって恒常的な戦争状態にあるため、ポスト戦後という実感はない」とその発言を紹介している。また、伊高は沖縄人の未来への鍵は「心と自然の固有の豊かさを再現させるべく努力することではなかろうか」とも述べ安里と同じ結論に達している。

安里が1977年、「まちづくり・むらづくりとは何かを考える」として雑誌『地域の眼』を創刊し、沖縄のシマを訪ね歩いて得た土地勘も本書のバックボーンのひとつであり、副題の「沖縄のたましい」は沖縄のこころと同義であろう。本書はその具現者のひとり、歌人・桃原邑子を所々に登場させている。評者が戦前の新聞掲載の桃原夫妻作品を送ったことに対して、桃原邑子は礼状で「どっさりと届きました。どれも、どれも私の記憶にないものばかり、活字になったものは永久に消えないんだー言葉は消えてしまうけれど、活字になったら日本が亡びない限り消えないもの」と記し少女のように喜んでいた。 

昨今は「沖縄のこころ」などに根拠を示せと難癖をつける手合いも出てきて異臭を放っている。特に「イチャリバチョーデー」であるが、これは1909年8月、沖縄毎日新聞に笑古・真境名安興が集めた沖縄俚諺の中に「行逢我兄弟(いちぇーわちょうだい)」とあるから古い、むろん「兄弟は他人のはじまり」というのもある。

本書の後半で「軍隊、米兵によるレイプ事件」を扱っている。そのペン先が乾かないうちに今回の北谷町美浜のレイプ事件、著者の行動は素早く女性グループと共に抗議しているのがテレビに写っていた。同事件で小泉・田中内閣のハッタリ性も暴露された。

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2011年10月『いのちの籠』第19号ー戦争と平和を考える詩の会〒143-0016東京都大田区大森北1-23-11
甲田方

「一億総懺悔」の国に生きてー堀場清子 null

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1984年7月『いしゅたる』第五号□編集発行人・堀場清子
□堀場清子「『君らは語る』のことー占領軍による原爆文学発禁の一例」


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Posted by: ryubun02
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

1912-1983 昭和時代の日本画家。
大正元年9月26日生まれ。児玉希望に師事。昭和16年新文展で「珊瑚礁(さんごしょう)の渚」が初入選。戦後は日展に出品,24年「浮嶋の朝」,26年「快晴」がともに特選となる。昭和58年10月13日死去。71歳。愛知県出身。日本美術学校卒。(→コトバンク)


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Category: 03-所感
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1968年12月ー『真鍋博の鳥の眼』毎日新聞社/この年、福岡の金平団地の土建屋でアルバイトをして旅費をためて鹿児島へ向かう。鹿児島の日本調理師会の事務所の紹介で温泉ホテル「中原別荘」(赤線の場所)で調理師見習。鹿児島は古本屋が少ないが、ビルの間から見え隠れする噴煙の桜島は幻想的だ。

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1968年4月6日ーデパート山形屋・丸屋での「日本の開眼・鹿児島百年」展パンフにあった未来の鹿児島。

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1926年7月8日『沖縄朝日新聞』太田潮東「布哇の其の後」
□ヒロの滞在は悠々保養のつもりであったがヒロ市在留の県人もなを 席の宗教談でも聞きたいという希望があり、ホノムの佛教婦人会からも今一回講演して貰いたいと云う頼みが来たので、これも何かの因縁と思うて快く引き受け、この二席の講演は愈々お名残の講演であるから、多少趣きを加え金儲けと宗教を結びつけて話した。

ハワイに来て居る人々の多くは何れも金儲けを目的として来たに相違ないが、さて佛教に於いてもキリスト教に於いても、その他の宗教に於いても、教壇から金儲けの話しをすることは余りしないようだ。ところが金と云う奴は実に重宝なもので、誰でもこれが嫌いなものは居ない。佛教の或る開教師がしこたま金をためて帰ったそうだが或る人がそれを難したら、その坊さん平然として曰く「佛と云う字は人偏に弗と云う字じゃないか」この坊さんの如きは寧ろ正直の方で、金に執着がないような顔をして居る宗教家中にも、その実内ふくのものが可なり居るようだ。

要するに金を得たいというのは万人が万人共通の欲望だ。吾々の前に開けられている広い広い道は、只この欲望を満足する活動の為に開かれたかのように思わるる位いだ。ところがこの広い道には人の目に見えぬ陥穽もあれば深淵もあり所によっては毒蛇も居れば猛獣も居る。世の中には金儲けの上手と言わるる人が随分多いが、これらの人々は畢竟この危険極まる道の案内をよく知って居るのだ。

陥穽や深淵をよけて通り、毒蛇や猛獣を避け、然も相当に欲望を充たし得るのがマア世渡り上手と言ってよかろう。世渡り上手と云へば一種狡猾なわるがしこい人間のように考えるものが多いようだがこの種の人間はうまく世を渡ろうが、儲け口にありつこうが、それは外面だけのことで内面に於いては常に四苦八苦で少しも満足を得て居ない。

佛教に自利々他の覚行 云うことがあるが、ここに利と云うのは坊さん達に言わすと物質から離脱した精神的の利に局限されて居るが私はそうは見て居ない。詰まり二方に渉った自利々他である。自らも利し他も利する自利共利の道を求むる所に宗教もあり道徳もあるのだ。宗教家はややもすれば消極的にこの危険を避けようとする。殊に佛教徒中には禁欲を根本本義と考えて居るものが多いが、それは佛教の根本義を知らないからだ。

これは私独創の見ではない、佛も一切法は観を根本と為すと説かれてある。欲を殺してしまったら活動はないのだ。既に活動がなければこの世界に生命と称すべきもののある筈はない、即ち世界の死滅だ。然もこの欲を充たす道は自らも利し他も利し自他共に利する所に佛教の眞精神は存するのである。危険を避けて安全に通られる世渡りの自道も此の処に開かれているのである。私の信ずる所の佛教はこれであるから私はこの根本義を宣伝したのだ。

ハワイ各島の中でハワイ島は近来非常に宗教熱が盛んで我が県人を中心とする「真宗深信協会」と称する団体もありその例会の時には三四十哩から出席するのもある。私はかかる状態を見て私が佛教を味わって居たことを多幸と思うた。若し私に佛教の思想がなかったならばハワイ各島の巡講中県人に対するのは兎や角お茶を滑し得たとしても所謂一般講演の場合には聊か困ったらうと思った。

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1934年4月27日ー沖縄郷土研究会(1931年1月発足。真境名安興発起)と沖縄県文化協会(1933年8月発足。太田朝敷会長)が合同、沖縄郷土協会が発足し初代会長に太田朝敷が就任。

東恩納寛惇宛・太田朝敷書簡
□その後はご無沙汰致して居ります。琉球紙の25周年の記念号には広告を通しての社会観を深き興味を以って拝見しましたが今又「離れて観たるその後の沖縄」今朝は只一回しか見ないが物質生活の方面より思想の方面より政治の方面より道徳の方面より種々の形をとって現れた所謂蘇鉄地獄の種々相をえがかれた所一読直ちに「さすがは」と独り叫びました。(略)適者生存の理法は遂にこの士魂を駆逐してしまい物質主義に対しては何らこれを裁制する法則もなく、今日では全く物質的享楽という唯一残された、この思想を最も鮮明に最も適切に見ようとするなら我が沖縄が即ち帝国の縮図です。この縮図の中に一年も生活して居ると夫子自らも矢張り画中の人となり当初の感じは漸次薄らいでくるのです。環境の力の恐ろしさを今更ながら適切に感じます。
□東恩納寛惇宛・太田朝敷書簡
私は近頃本県を見るについて以前とは少しく違った見地から見ています。即ち日本帝国の一地方と云うより寧ろ民族的団体と云う見地です。(日本)国民の頭から民族的差別観念を消してしまうことは吾々に取っては頗る重要な問題だと考えて居ります。


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Category: 04-書の森
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11月11日の『琉球新報』を見ると、福島県から沖縄へ避難してきた人は月平均50人になるという。沖縄にエイサーを伝えたとされる袋中上人は1603年に来琉しているが、現在の福島県いわき市出身である。著に『琉球神道記』がある。沖縄学の父・伊波普猷は袋中の琉球神道記を引いて「君真物」を書いている。

□あらゆる行事の時、祭を受ける神の火の神であることを見、聞得大君以下の神職の斎き持つ神の火の神であることを知った読者は、これに対して国つ神の影の薄いのを変に思うに違いないが、その理由は週期的に訪れる遠来神の事を述べた後に説明することにしよう。既に述べた如く、ニライ・カナイは不断は火の神を通じて祭っているが、そこからはまた時を定めて神がやって来ると考えられていた。そしてその神は「かないの君真物」(俗に「にらいの大ぬし」)といって、馬琴の弓張月にも取入れられたほど、人口に膾炙するものである。
Category: 01-人物名鑑
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1914年8月27日『琉球新報』山城正綱「(西銘生楽)個人展覧会を見る」

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1918年ー西銘生楽・丹青協会会長と丹青協会会員たち
写真ー前列左から嘉数能愛、その上が野津久保、浦崎永錫、親泊英繁、渡嘉敷唯選、比嘉崋山、一人おいて西銘生楽、その右上が金城唯貞、山里永吉

この写真は東京の島袋和幸氏が浦崎永錫アルバムから見つけたもので、写真中央の女性の右から西銘生楽、金城南海、その後に山里永吉がいる。女性の左へ比嘉華山、渡嘉敷唯選、親泊英繁、浦崎永錫と続く。先日、島袋和幸氏の案内で西銘生楽の孫娘(幸子)が来宅され、祖父・生楽が東京美術学校図画師範科を卒業し最初に赴任した第一神戸中学校の資料、父である生一の写真も提供された。また沖縄文化の杜にも同行し美術史研究の國吉貴奈さん、仲里なぎささんらとも話をした。

西銘生楽
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西銘生一



大城道子さんから『赤ん坊たちの<記憶>ー1943年~1945年に生まれて』発行・牧歌舎(兵庫県)を恵まれたが、中に西銘生一家族の消息が触れられている。
Category: 04-書の森
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1927年10月ー宮里貞寛(1890年1月26日~1948年2月14日/国頭郡羽地村字真喜屋に生まれる。1906年ー国頭農学校卒業、ハワイに渡航、米屋旅館に就職。後に独立してホノルル旅館経営。)、神戸市神戸区北長狭通り4丁目に「ゑびす屋旅館」開業。兵庫御影で死去。

1988年ー中内功、神戸流通科学大学(中内功記念館)を創設。

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大城盛和 (大和印刷 〒101-0032 東京都千代田区岩本町2-5-2 ☏3863-3236 FAX3863-3247

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中村文雄 (渡嘉敷村字前島・前島復興住民の会会長ー渡嘉敷村字前島76番地 携帯090-8290-6361)右は島袋和幸氏

沖縄・烽火ネットワーク連絡会では、沖縄祖国復帰40周年(2012年5月15日)を契機に与論島で烽火を上げるべく地元の各団体に呼びかけを行っている。今年中には具体化していく模様。
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1,3、4は与論遠見台/2は与論城遺跡脇の烽火上げ地。沖縄復帰運動時に辺戸と呼応して烽火を上げた場所


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11/09: 千代金丸

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Category: 01-人物名鑑
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1935年11月 写真館の見習いであった土門拳は『アサヒカメラ』掲載の求人広告に応募して日本工房の門をたたく。□→2006
年2月 毎日新聞社『名取洋之助と日本工房[1931-45]-報道写真とグラフィック・デザインの青春時代』

柳宗悦・第三回訪沖
12月31日ー日本民藝協会主催の「琉球観光団」の団長として、三たび琉球に向け、神戸より湖北丸で出帆。団員26名。<民藝協会同人>柳宗悦、式場隆三郎、浅野長量、浜田庄司、船木道忠、佐久間藤太郎、棟方志功、鈴木繁男、田中俊雄 <販売事務>鈴木訓治、佐々倉健三 <写真>坂本万七、土門拳、越寿雄 <映画>細谷辰雄、猪飼助太郎 <観光事業>水沢澄夫、井上昇三 <その他>遊佐敏彦、同夫人、保田与重郎、浜徳太郎、相馬貞三、宮田武義、鈴木宗平、福井右近。船中で、毎夜、琉球に関する講話を行う。

1940年
1月3日ー正午那覇着。自動車7台で波上宮へ参拝。糸満町へ赴き、白銀堂参拝。魚市場を見る。辻原の墓に参り、6時半より辻の三杉楼で那覇・首里両市、商船会社主催の歓迎会に出席。琉球料理、四つ竹踊、絣掛踊などを観賞。川津、宝来両館に分宿する。
1月4日ー工業指導所及紅房で、織物と漆器など陳列品を見学。壺屋、郷土博物館、円覚寺、泡盛工場、尚順男爵邸の桃原農園、夜は真楽座を観る。
1月5日ー尚家霊廟玉御殿拝観、ヨードレの墓に詣で、普天間宮、鍾乳洞から車で万座毛、残波岬へ。7時より珊瑚座で「柳先生御一同歓迎特別興行」を観る。

□那覇市歴史資料室収集写真に坂本万七「与那原の瓦窯」がある。それには山里永吉と土門拳が話しこんでいたり、柳宗悦が瓦を見ている、左上の方には𤘩宮城昇が撮影の坂本を見ている光景が確認できる。

1月6日ー師範学校講堂で空手術を見学。正午で観光日程を終了。
1月7日ー正午、支那料理屋別天閣で一同昼食、民謡を聞く。3時より那覇市役所における座談会に出席。言語問題にふれ一時警察部長と論戦となる。
1月8日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報紙上に、前日の論戦が大きく報道される。
1月11日ー沖縄県学務部、三新聞紙上に「敢えて県民に訴ふ 民藝運動に迷ふな」を発表する。以後、連日賛否両論が報道される。
1月12日ー団体一行は帰り、浜田、外村、坂本、鈴木らと残留する。
1月14日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報に「沖縄県学務部に答ふるの書」を発表。言語問題論争いよいよ沸騰する。
1月18日ー民藝同人に対する地元有志らの感謝会が、午後6時半より三杉楼で催され、浜田、外村、坂本、鈴木らと出席。五、六十人の人々の真情あふれる感謝のもてなしに感銘する。
1月21日ー尚家より借りた「神猫図」を持ち、飛行機で帰京する。この旅行中、坂本、土門と各地を撮影、二千枚にも達する。また文化映画「琉球の民藝」「琉球の風物」の製作の指導を行う。

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