1935年11月 写真館の見習いであった土門拳は『アサヒカメラ』掲載の求人広告に応募して日本工房の門をたたく。□→2006
年2月 毎日新聞社『名取洋之助と日本工房[1931-45]-報道写真とグラフィック・デザインの青春時代』

柳宗悦・第三回訪沖
12月31日ー日本民藝協会主催の「琉球観光団」の団長として、三たび琉球に向け、神戸より湖北丸で出帆。団員26名。<民藝協会同人>柳宗悦、式場隆三郎、浅野長量、浜田庄司、船木道忠、佐久間藤太郎、棟方志功、鈴木繁男、田中俊雄 <販売事務>鈴木訓治、佐々倉健三 <写真>坂本万七、土門拳、越寿雄 <映画>細谷辰雄、猪飼助太郎 <観光事業>水沢澄夫、井上昇三 <その他>遊佐敏彦、同夫人、保田与重郎、浜徳太郎、相馬貞三、宮田武義、鈴木宗平、福井右近。船中で、毎夜、琉球に関する講話を行う。

1940年
1月3日ー正午那覇着。自動車7台で波上宮へ参拝。糸満町へ赴き、白銀堂参拝。魚市場を見る。辻原の墓に参り、6時半より辻の三杉楼で那覇・首里両市、商船会社主催の歓迎会に出席。琉球料理、四つ竹踊、絣掛踊などを観賞。川津、宝来両館に分宿する。
1月4日ー工業指導所及紅房で、織物と漆器など陳列品を見学。壺屋、郷土博物館、円覚寺、泡盛工場、尚順男爵邸の桃原農園、夜は真楽座を観る。
1月5日ー尚家霊廟玉御殿拝観、ヨードレの墓に詣で、普天間宮、鍾乳洞から車で万座毛、残波岬へ。7時より珊瑚座で「柳先生御一同歓迎特別興行」を観る。

□那覇市歴史資料室収集写真に坂本万七「与那原の瓦窯」がある。それには山里永吉と土門拳が話しこんでいたり、柳宗悦が瓦を見ている、左上の方には????宮城昇が撮影の坂本を見ている光景が確認できる。

1月6日ー師範学校講堂で空手術を見学。正午で観光日程を終了。
1月7日ー正午、支那料理屋別天閣で一同昼食、民謡を聞く。3時より那覇市役所における座談会に出席。言語問題にふれ一時警察部長と論戦となる。
1月8日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報紙上に、前日の論戦が大きく報道される。
1月11日ー沖縄県学務部、三新聞紙上に「敢えて県民に訴ふ 民藝運動に迷ふな」を発表する。以後、連日賛否両論が報道される。
1月12日ー団体一行は帰り、浜田、外村、坂本、鈴木らと残留する。
1月14日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報に「沖縄県学務部に答ふるの書」を発表。言語問題論争いよいよ沸騰する。
1月18日ー民藝同人に対する地元有志らの感謝会が、午後6時半より三杉楼で催され、浜田、外村、坂本、鈴木らと出席。五、六十人の人々の真情あふれる感謝のもてなしに感銘する。
1月21日ー尚家より借りた「神猫図」を持ち、飛行機で帰京する。この旅行中、坂本、土門と各地を撮影、二千枚にも達する。また文化映画「琉球の民藝」「琉球の風物」の製作の指導を行う。

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