麦門冬の書き込みが見える(岸秋正文庫所蔵)

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1901年6月ー末吉安扶没
1912年2月ー柳田国男、伊波普猷より『古琉球』3冊寄贈される。
1913年4月ー沖縄県庁でこの程、筆耕に令し『中山世譜』の筆写をなさしめつつある。
1913年7月ー『沖縄教育』(親泊朝擢)桑村生「中山世譜」(1)

1913年8月ー『沖縄教育』(親泊朝擢)桑村生「中山世譜」(2)

1914年7月ー沖縄県知事より、伊波普猷、真境名安興ら沖縄県史編纂委員拝命

1915年1月ー沖縄県史編纂事務所が沖縄県庁より沖縄県立沖縄図書館に写される(真境名安興主任)


1917年7月15日ー『日本及日本人』709号□末吉麦門冬「十三七つに就いて」「雲助」「劫の虫より経水」(南方熊楠と関連)

1918年2月12日ー東京日本橋区本町三丁目博文館・南方熊楠殿、末吉安恭書簡「拝啓 先生の御執筆の十二支伝説は古今東西に渡りて御渉猟のこととて毎年面白く拝読いたし候(略)琉球にも馬に関する伝説、少なからず候み付、茲に小生の存知の分を記録に出でたるものは原文の侭、然らざるは、簡単に記述いたし候間、御採択なされ候はば幸甚に候。失礼には候へど、御ねがひいたし度きこと沢山これあり候につき御住所御知らせ下さるまじくや(略)」(『球陽』『琉球国旧記』引用)

1917年9月1日ー『日本及日本人』712号□末吉麦門冬「楽屋の泥亀汁」
1918年4月ー『日本及日本人』728号より、三田村鳶魚らによる「東海道中膝栗毛輪講」が連載される。
1818年6月1日ー『日本及日本人』732号□末吉麦門冬「支那のあやつり」「琉球の鬼餅」
1918年7月ー末吉麦門冬、南方熊楠に『球陽』贈る




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