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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

3月5日の新聞に「七高教授の日野光次さんは琉球鼠の悪臭は異性を呼ぶ為」記事を見て麥門冬は「ビーチャー」を書いた。
○琉球鼠と呼ぶなら下に必ずビーチャーと添名しなければならぬ。琉球にはビーチャーの外に普通の鼠もいるからである。単に琉球鼠と云ったのでは琉球にはこの悪臭を発する眼の小さい鼠しかいないようで変だ。どこまでも琉球は違っていると人に思わすのも面白くないからである。


ビーチャー

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1982-10  鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』岩波書店(新城栄徳所蔵/鎌倉さんの署名入り)   
             

○1990年5月『新生美術』8/9合併号に私(新城栄徳)は「琉球美術史家たち」を書いた□鎌倉芳太郎の琉球美術史研究については、ことさら紹介するまでもないが、その研究は啓明会から『琉球芸術大観』の発刊計画、戦後は琉球大学から『琉球芸術論』の発刊の話があったが、いずれも流れ、1982年、外間守善らの協力もあって『沖縄文化の遺宝』として結実された。鎌倉芳太郎は1975年、八重山に遊び、麦門冬の長女である石垣氏庭園の石垣初枝さんに会った。翌年元旦に麦門冬を偲び歌を書いて初枝さんに贈っている。「天さかる/南の海に/寄る波や/星形の砂/初日晃りつつ」。


鎌倉芳太郎資料の整理研究を展開している沖縄県立芸術大学附属研究所の紀要『沖縄芸術の科学』
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 新作「柿を食らう岩獅子」を紹介いたします。税込 ¥9000
この柿を食らうシーサーの姿態に、可笑しみを覚え、下手ながら四首作ってみました。

柿食らう 猛暑にイラつく 岩獅子か

炎天下 柿丸かじり 岩獅子や

 猛暑日に 柿かじりたき 気分かな

 驚破事ぞ 獅子が柿を食っている


年々地球が暑くなっているのか、「今年はとっても暑いですねー」との会話をよく耳にします。その暑さにワジワジした岩獅子が柿にかぶりつく奇想天外なイメージですが、途中、柿の季語は?と調べてみましたら、秋とあり、「ありゃ、しまった」。それもこれも暑さのせいにして「まっ、いいか」。自由律俳句ということにしてスルーします。
   
   末吉陶器工房  098-887-6217
   携帯電話    080-3966-0445
   メールアドレス qqxd9ey9k@theia.ocn.ne.jp

 




 

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琉球の古典音楽が、仏教音楽を母体としたものならば仏教史も研究しなければならない。前述の南方熊楠と文通で親交があった琉球の麦門冬・末吉安恭は「琉球画人伝」で、先ず最初に仏教の起源と芸術の揺藍として英祖王朝に建立された極楽寺から説き起こしている。次いで琉球文化の最初の興隆期とし察度王朝及び第一尚氏時代(尚思紹王統)を詳しく記している。

末吉麦門冬(麦生)「不羈脱心に就いて」□不羈と脱心が異名同人ならん歟と私の書いたのに対し、過日糸満の蓮華院の住持岱嶺和尚より高教を賜ったことを私は深く感謝する。岱嶺和尚も愚説に賛成され、間違い無かろうと云われ更に脱心に就いて語りて曰く「脱心は古波津家から出られた。この古波津が沖縄で算数の名人として有名であった古波津大主を出した家で、脱心は即ち大主の伯父に当たるのである。脱心は其の家の総領であったが、、夙に俗を厭ひ仏道を慕ふて遂に万松院の二世松屋和尚の得度を受けて剃髪したと伝えられている。尚貞王から賜ったという黄色浮織五色の袈裟同色の掛落があって掛落だけは今も私が寺宝として保存している。詩稿その他記録と云っては何も無い。廃藩前までは掛物や巻物などもあって箱一杯色々のものがあったが、悉く虫や鼠に食い散らされて、今日一つも残っていない(略)」と、麦門冬は岱嶺和尚の話を紹介し、矢袋喜一『琉球古代数学』の益氏古波津と諸寺重修記並造改諸僧縁由記の喬氏古波津と合わないのは何故かと疑問を呈している。喬氏だと名乗りは宣であるから、また喬氏は屋宣家だけである。したがって前者が合っている。


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お盆前、BOOKS じのんで渡久山朝章『周遊快々 片雲有情』を買う。

2013年9月14日『琉球新報』(ジュンク堂那覇店は新聞に書評が出ると、書評本のところに並べるはずだが在庫が無いので並べてない。)

 タイミングよく本ブログで平良リヱ子さんをアップしたばかりでこの評伝の登場である。神様の引き合わせというべきか、ちなみに著者は神主さんでもある。先ず評伝の基礎資料というべき写真が豊富である。これだけでも本書の価値は十分だが何より著者と平良りヱ子さんとの交流が昭和28年12月以来だから驚く。評伝を書くのに平良さん本人以外にこれ以上の適任者は居ないであろう。欠点をいうと、写真のキャプションの誤植が少々あるのと、リヱ子評伝だから当然ではあるがトラブル問題の殆どが平良さん側の肩を持っていることだろうか。ジュンク堂那覇店をのぞくとこの本が無いのでここで紹介する(2013年9月7日現在ー1冊。じのん□TEL:(098)897-7241 )には在庫がある。この本で岡本太郎、本田安次、鎌倉芳太郎など東京での学者・文化人とリヱ子さんとの交流が活写される。


2013年7月ー宮﨑義敬『繚乱の人』展望社(東京都文京区小石川3-1-7 エコービル202 ☎03-3814-1997)



同書よりーサントリー美術館で中央に平良リヱ子、左に森政三①、右に岡本太郎、鎌倉芳太郎,金井喜久子、矢野克子が並ぶ
□①森氏の娘・美和子さん来信「父は結婚が遅く 私は孫といっていい程 年の離れた子ですから中年の頃の父も知りませんが ご指摘下さった人物は父のようでございます。人間国宝の鎌倉芳太郎先生のお話を母にしていました。」



2013年9月22日『琉球新報』宜保榮治郎(元国立劇場常務理事)「綾乱の人ー琉舞の才能 東京で花開く」

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□先ず歌によって彼の性格を想像すると面白い熱烈奔刹那的心熱主義の若い美しい女で彼はあったらしい。気の荒い大胆な粗大朴茂の元始的美人を想像すればやがて彼であらう。恩納の山間に育って山姫の如く天真にして露骨なざっくばらんな豪放な女であったらしく彼は思われる。人為的束縛習慣的桎桔に身を煩はれない自由なる自然児として鳥の如く歌い獣の如く眺ぬ廻る境界に彼は仲間と共にあった。そして其仲間中の代表者として彼は随分権力を振るったであろう。彼は仲間の男女間に尊信と畏怖とを有たれていたであろう。それは紫式部や清少納言が平安時代の宮廷の男女間に尊信と畏怖を維持していた彼らの勢力と同じ勢力であったらう、女じゃと軽蔑されるような世界にあんな偉い女は育たない。

□波の聲もとまれ風の聲もとまれ首里天加那志美御機拝ま ナミヌ クィン トゥマリ カジヌ クィン トゥマリ シュユイティンガナシ ミウンチ ヲゥガマ
の作のあるのも偶然ではない。波の聲も友達の聲の如く彼の耳には響く。それ程彼は自然と親しい、そのかわり又彼は首里天加那を尊崇することの深き忠誠の念に富んだやさしい無邪気な女性でもあったけでども彼の勝気な性質は時に反抗的精神を注溢せしめて
□恩納松下に禁止の牌の建ちゅす戀ひ忍ぶまでの禁止やないさめ ウンナ マツィシタニ チジヌ フェヌ タチュスィ クイシヌブ マディヌ チジヤ ネサミ
などと云って時の内務省を嘲奔したりした。丁度与謝野晶子が文藝取締に就いて今の内務省の処置に不平して妙な歌を作ったのと同じ格である。

□僕は岩野泡鳴氏①の「半獣主義」の中に紹介してあるエマーソン②の自然論を瞥見して或る暗示を与えられた其れにこんな事が云ってある「天才が一たび高尚な情操を潜って叫び出せば山河も鳴動する草木も感泣するこういう力を得てから初めて人心を制服することも出来るまた慰籍することも出来る」云々と僕は恩納なべの名を以て伝誦さるる歌の一々にこの天才の高尚な情操より来る叫びを聞きこれらの歌に山河も鳴動せしめ本草も感泣せしめる底の力を感することが出来る

①岩野泡鳴 【いわの・ほうめい】
生年: 明治6.1.20 (1873) 没年: 大正9.5.9 (1920)
明治大正時代の詩人,作家。本名美衛。他の筆名に白滴子,阿波寺鳴門左衛門など。父直夫は阿波藩蜂須賀家の江戸詰めの直参岩野家の婿養子。母はサト。淡路島の洲本生まれ。洲本小学校,私塾を経て,明治20(1887)年大阪の泰西学館に入学。伝道師にならんとして洗礼を受けるが,21年に父と共に上京し,明治学院に入学。22年専修学校(専修大学)入学,24年には押川方義を頼って仙台神学校(東北学院)に赴き,同校教師になろうとしたが,試験の結果1年に編入させられ,26年まで在籍。27年に帰京,「魂迷月中刃」を発表するがあまり反響はなく,28年竹腰こうと結婚。31年肺結核にかかり,療養をかねて32年に滋賀県大津市に移る。英語教師をしつつ,34年詩集『露じも』を自費出版。35年東京に戻り『明星』に参加して創作活動を展開,36年には『明星』を出て相馬御風らと東京純文社を興して『白百合』を創刊。詩人として活躍するが,39年から小説に主力を注ぎ,「耽溺」(1909)で自然主義作家としての地歩を確立。しかし40年の父の没後,下宿屋を継いでから私生活に問題がおこり,42年樺太で蟹缶詰事業を始め失敗。その後,青踏社の遠藤清子との同棲,再婚,さらに青踏社の蒲原英枝との同棲,2度目の再婚などで世間の注目をあびる。<著作>『復刻版泡鳴全集』全18巻<参考文献>舟橋聖一『岩野泡鳴伝』,伴悦『岩野泡鳴―「五部作」の世界』 (コトバンク)

②ラルフ・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson、1803年5月25日 - 1882年4月27日)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。無教会主義の先導者。ラルフ・ウォルド・エマーソン、ラルフ・ウォルドー・エマーソン、ラルフ・ワルド・エマソン、とも呼ばれる。 英語では、エマーソンのエにアクセントがあり、エマソン、またはエマスンに近くなる。アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。 18歳でハーバード大学を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。 その後ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、牧師になる。 自由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個人主義を唱え、アメリカの文化の独自性を主張した。(ウィキペディア)





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ジュンク堂那覇店

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2013年10月29日~11月4日 「第2回 京都展」リウボウ6階

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1926年9月 『琉球年刊歌集』琉球狩社
□山城正忠「序に代へて」/琉球文学会ー山城正忠、世禮国男、松根星舟、狩社同人「琉球年刊歌集発刊之辞」
□當間黙牛/北村白楊/島袋九峯/伊豆味山人/伊竹哀灯/宮里潮洋/國吉瓦百/名嘉元浪村/照屋一男/上里堅蒲/比嘉泣汀/池宮城寂泡/新田矢巣雄/間國三郎/川島涙夢/島袋哀子/漢那浪笛/山里端月/又吉光市路/美津島敏雄/江島寂潮/西平銀鳴/山城正斉/大山潮流/池宮城美登子/星野しげる/小栗美津樹/禿野兵太/新島政之助/小林寂鳥/梅茂薫村/水野蓮子/松根星舟


□国吉真哲翁は1924年4月、山城正忠を会長に、上里春生、伊波普哲、山口三路(貘)らで琉球歌人連盟を発足させた。国吉翁はこのころ、貘と一緒に歌人連盟顧問の麦門冬を訪ねた。同年暮れに麦門冬は急死した。連盟の団結は後に『琉球年刊歌集』として結実した。25年9月の『沖縄教育』(又吉康和編集)は山城正忠が表紙題字、カット(獅子)は山口重三郎である。同年11月、真境名安興が沖縄県立沖縄図書館長に就任したころ、国吉翁は又吉康和の後任の『沖縄教育』編集人となる。又吉は沖縄県海外協会に転じた。海外協会の機関誌『南鵬』には国吉翁の詩歌が載っている。琉球新報連載「むかし沖縄」285回に国吉翁撮影の写真がある。真栄田一郎の墓前で池宮城秀意、瀬長亀次郎、城間得栄、上原美津子が写っている。真哲翁は真栄田一郎が死んだ時、姉の冬子から「弟の死顔でも良いから写真に撮って送ってほしい」との依頼を受け、棺を開け写真を撮った。戦後、瀬長はうるま新報の社長、池宮城はうるま新報専務となる。瀬長と池宮城は沖縄人民党結成に参加する。その人民党誕生の瞬間を国吉翁が記録することになる。

□1897年、今帰仁村に生まれました。本名は小那覇全孝といい、彼の本業は歯科医で、県立二中の第一期卒業生にして日本歯科医大学を卒業した秀才です。愛称を「ブーテン」で呼ばれます。第二次世界大戦の戦後復興の時代に、弟子の照屋林助と村々を回って、「命の御祝事さびら」(生きていることを祝いましょう)と呼びかけ、戦禍の傷が癒えない人々に生きる力と勇気を与えました。沖縄の漫談の祖です。三味線に乗せて世相を風刺する抱腹絶倒の漫談は天歳的です。代表作には「石川小唄」「スーヤーヌパァパァ」「盗ドゥ万才」「百歳の花風」があります。1969年に亡くなりました。享年72歳でした。 →(小那覇舞天 おなはぶーてん / ラジカル・ビスケット)

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宮平敏子



(翁長良明コレクション)


1955年12月11日『沖縄タイムス』佐藤春夫「沖縄舞踊団についてーみやらびは常若」/11月27日『沖縄タイムス』「芸能祭」

12月15日『沖縄タイムス』「文部省主催の芸術祭ー沖縄舞踊が団体入賞」

1933年1月 佐藤春夫作「世はさまざまの記」


森 桂一モリ ケイイチ
昭和期の洋画家 千葉大学名誉教授;明徳短期大学名誉学長。
生年明治37(1904)年8月10日没年昭和63(1988)年3月16日
出身地岐阜県恵那市 別名号=林人子
学歴〔年〕東京美術学校〔昭和3年〕卒
主な受賞名〔年〕勲三等旭日中綬章〔昭和49年〕
経歴昭和3年帝展初入選。27年から45年まで千葉大教授。50年から56年まで明徳短大学長。美術教育を研究するかたわら、日展委嘱洋画家としても活躍。著書に「美術教育概説」など。→コトバンク


小糸源太郎 こいと-げんたろう
1887-1978 大正-昭和時代の洋画家。
明治20年7月13日生まれ。東京美術学校(現東京芸大)在学中に文展入選,昭和5年,6年に帝展で連続特選となる。官展の審査員,光風会会員として活躍し,29年「春雪」などで芸術院賞。40年文化勲章。昭和53年2月6日死去。90歳。東京出身。作品はほかに「山粧ふ」「繚乱(りょうらん)」など。 →コトバンク

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2007年 沖縄県立博物館・美術館『沖縄文化の軌跡1872-2007』
新城栄徳「麦門冬の果たした役割」
□安恭の琉球風俗にふれた随筆は1915年の『琉球新報』「薫風を浴びて」が最初であるが、美術評論を試みたのは1912年である。第6回文展に入選した山口瑞雨作「琉球藩王」を見た安恭は『沖縄毎日新聞』で「王の顔に見えた表情は無意味であり無意義である。冠がどうのといっては故実家の後塵を拝するに過ぎない。作者が琉球と目ざす以上はもっと深く強く琉球人の歴史、民情、個性を研究してから筆を執らねばならなかった」と酷評。しかし長嶺華国に対しては「翁の存在は私に希望と自信と栄誉とを載せしむるに充分である」と理屈抜きで讃美している。
□1983年1月、鎌倉の畢生の著『沖縄文化の遺宝』(岩波書店)が第10回伊波普猷賞を受賞したとき、鎌倉は談話として「沖縄美術や沖縄文化の手解きを私にしてくれた偉大な文化人、末吉安恭氏にふれたい。末吉氏に出会わなかったら、この本は世に出なかったかもしれません」と述べている。

□金城美奈子(沖縄文化の杜共同企業体・企画事業部)
東京生まれ。復帰後帰沖。高校卒業まで、国頭村で過ごした。永山信春①の画塾に通う。東京で画廊を営む叔父の影響などもあって、別府大学美術史学科に進む。同校卒業し愛媛県の私立美術館「高畠華宵大正ロマン館」の学芸員。95年秋、田河水泡「のらくろ四国上陸」企画展で出版社から未整理状態の段ボール5箱の原画が届いた。借りた全作品を資料として整理するのに半年かかった。展示したのは150点余だが好評であった。その後も漫画展や宝塚展など、大正から昭和にかけての大衆文化にかかわる展示会に参画してきた。調査や研究ばかりでなく、ミュージアム・ショップの商品や喫茶室のメニューも考えた。

□①永山信春(1939年、南大東村生まれ。琉球大学美術工芸科卒。すわ絵画道場主宰)1959年1月 那覇琉米文化会館「琉大美術クラブ絵画展」(永山信春、神山泰治、宮城孝也、平良晃、喜久村徳男、比嘉良仁、山城見信、大城宏捷、安元賢治ほか)


1981年 沖縄の雑誌『青い海』秋季号 永山信春「青い海ギャラリー/没落感覚」

帰沖し、高校の美術教諭をへて、沖縄文化の杜共同企業体に入社。2008年に沖縄県立博物館・美術館初の個展として話題になった「哀愁と血の造形 嘉手川繁夫の世界」展を担当。2009年「豊潤の美を求めて 金城安太郎と高畠華宵」、2009年「琉球絵画展~琉球王朝から近代までの絵画」、2010年「沖縄マンガ展」、2011年「生誕100年記念展 岡本太郎と沖縄ーここが世界の中心だー」、2012年「本土復帰40周年記念 田中一村展ー琉球弧で開花した美の世界」などを担当した。高畠華宵大正ロマン館の「大正イマジュリイ学会」会員。



写真ー沖縄県立博物館・美術館指定管理者 文化の杜共同企業体・金城美奈子さん


2009年7月『琉球絵画展』金城美奈子□「琉球絵画」の今日的意義ー(略)戦前、琉球の美術史研究の先駆けtなった長嶺宗恭(華国)、末吉安恭(麦門冬)、比嘉朝健、鎌倉芳太郎、伊東忠太、真境名安興、比嘉景常らが残した論考や調査研究資料は、現在でも貴重な基礎文献となっている。戦後、見識ある一部の研究者らがこれらの成果をふまえ、埋もれた絵師たちに光を当て、その発掘に尽力したことは、沖縄の美術史研究の大きな成果である。(略)1929年、平凡社から発行された『世界美術全集』には、鎌倉芳太郎、伊東忠太によって世界の絵画と同等に琉球の絵画や工芸、建築などが紹介されている。(略)戦前、伊東や鎌倉は琉球の芸術を世界の中に位置づけようと努めた。このことは現代に持ち越された沖縄の美術史の大きな課題である。

□麦門冬や鎌倉芳太郎の琉球美術史を、金城美奈子は大胆といおうか強引にも「琉球絵画展」として提示して見せた。後は琉球の芸術を世界の中にどう位置づけようとするかは若い世代に譲るべき課題かも知れない。