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09/29: 大佛

Category: 04-書の森
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奈良の大佛(盧舎那仏)の手のレプリカと新城あけみ


神戸・能福寺の大佛
初代の大仏は今時大戦中の昭和19年(1944年)5月に解体、金属回収供出され、また、翌年3月には神戸大空襲により伽藍は全焼したとのこと。現在の大仏は平成3年5月に関係者の努力により再建されたもの。ところでこの大仏の寄進者の中に映画解説者の故淀川長治氏や画家の故東山魁夷氏の名前が見えます。淀川長治氏についてはこの近くで生まれ、少年時代、よくこの能福寺の境内で上映されていた活動写真を見に行っていたという経緯があったそうです。なお、東山魁夷氏についても、横浜生まれながらも、3歳から18歳までの15年間を神戸で過ごしたということ故の寄進だそうな。→「たんぶーらの戯言」


岐阜大仏(ぎふだいぶつ)は、岐阜県岐阜市の黄檗宗金凰山正法寺にある大仏です。 日本三大大仏の一つと称されることもあります。岐阜県重要文化財指定。
特徴
釈迦如来の大仏。像高13.7m、顔の長さ3.63m、目の長さ0.66m、耳の長さ2.12m、口幅1.31m、鼻の高さ0.36m。
最大の特徴は、日本最大の乾漆仏である事です。周囲1.8mのイチョウを真柱として、木材で骨格を組み、 竹材を編んで仏像の形を形成しています。この竹材の上に粘土をぬり、一切経、阿弥陀経、法華経、観音経等の経典が書かれた 美濃和紙を張り付けて漆を施し、さらに金箔を施してつくられています。 経典は当時の住職が読み一枚一枚貼られています。この事から、別名を「籠大仏(かごだいぶつ)」といいます。 全身が金箔で覆われ、穏やかな顔とあいまって独特の雰囲気があります。奈良の大仏や鎌倉の大仏と異なり乾漆仏の為、 損傷に対して脆いといいます。 この大仏の製作に大仏製作では一般的な銅ではなく竹を使用しているのは、岐阜提灯や岐阜和傘など岐阜の文化が 関係してると云われています。 →「岐阜観光、com」


別府大仏
コンクリート製の大仏の草分けとして昭和2年に完成した愛知県の聚楽園大仏(18.8メートル)と並ぶ貴重な大仏だ。国際観光地別府の象徴として人々に愛されてきた、かどうかは知らないが長い間別府に君臨し続けたのは間違いないこの大仏は大変残念な事に老朽化により平成元年取り壊されてしまった。 昭和をきっちり生き抜いたコンクリ大仏の大先輩に敬意を表しつつ、現在は姿を消してしまった別府大仏のかつての姿(特に内部)に迫ってみようと思う。→「珍寺大道場」
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宮里榮弘芸能館(みやざとえいこうげいのうかん)
沖縄民謡居酒屋 沖縄料理 | 那覇 > 中心部その他 | 国道58号線・泊ふ頭入口交差点から港向けに進み、信号を左折。ローソン前島三丁目店斜め向かい ☎098-862-7198


伊佐傳一さん
開南中学校を経て台南師範入学(同期生に漫画家の冨永一朗)。敗戦のため学校閉鎖。帰沖し粟国小学校、豊見城小学校などで教鞭。開南小学校校長で教員生活を終える。粟国郷友会生みの親でもある。



①末吉優羅くん
毎日jp2013年9月4日【豊見城】豊見城市文化協会が夏休み期間中に開催した「第9回豊見城市しまくとぅば子ども教室」(市教育委員会共催)の発表会・閉講式が、8月31日同市立中央公民館で開かれた。受講生10人のうち9人が学んだ成果をはつらつと発表した。最優秀賞には①末吉優羅10+件(ゆら)君(上田小2年)、優秀賞には外間巴琉(はる)君(同)が選ばれた。









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1982年3月 『安次嶺金正・画集』/図録『緑の抒情 安次嶺金正展』



1996年3月 『新生美術』11号<特集・安次嶺金正の画業を偲ぶ>


1996年3月 『新生美術』11号 星雅彦「安次嶺金正試論」


2014年2月5日 星雅彦氏

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第29回写真の町東川賞が2013年5月10日発表された。飛彈野数右衛門賞を受賞した山田實は、沖縄の写真界の草分け的存在。庶民の日常や街並みなどを丹念に記録、撮影してきた。一方では、本土と沖縄を繋ぐ重要な役割も担った。米軍統治下には、来沖した木村伊兵衛、林忠彦、東松照明などの身元引受人も勤めている。「山田實展 人と時の往来」展(沖縄県立博物館・美術館、12年)。『山田實写真集 故郷は戦場だった』(未来社、12年)及び、郷土沖縄を長年にわたり撮影し続けてきた活動に対し賞が贈られた。

その「東川町国際写真フェスティバル」や「写真甲子園」を企画、運営ぢたのが札幌出身の写真家・勇崎哲史氏である。私は1992年11月16日の『琉球新報』に初めて書評なるものを書いたのが勇崎哲史写真集『大神島記憶の家族』平凡社であった。


□神島というのは大城立裕氏の小説にもあるが、現実には三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台になった三重県の神島、南方熊楠の保存運動で知られる和歌山県の神島、あと無人島で四つの神島があるが、その神島に大を冠するのは全国でも宮古の大神島だけで、そのことだけでもミスティックな名前の島である。
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09/24: 長虹堤②

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【中山伝信録】中国、清の徐葆光(じよほうこう)の撰。六巻。1721年成立。冊封副使として琉球に派遣された際に見聞した、琉球国の地理・制度・風俗・中国との外交関係などを記す。

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美栄橋駅周辺の史跡・旧跡

 美栄橋駅周辺の歴史は、琉球王国時代の「長虹堤」の築造に始まる。
 長虹堤は、1451年に築造させた安里橋(現祟元寺橋)からイベガマ(俗に「久茂地のチンマーサー」)に至るまでの約1kmに及ぶ海中道路で、美栄橋はこの道のほぼ中央に架けられた石橋である。長虹堤築造以来、昭和戦前期に至るまで首里・那覇の往来には主にこの道が利用された。また築造により、安里川から流入する土砂が河口に堆積して干潟が形成され、ここで製塩業が営まれた。
 近代に入ると、安里橋付近には漆喰屋、瓦葺職人が集まり、美栄橋からチンマーサーにかけては鍛冶屋が軒を並べ、線香屋も数多くあった。
 1945年の沖縄戦の後、美栄橋から西側の地域は米軍の物資集積所となり、その後の区画整理により、往時の様子はすっかり変わってしまった。製塩が行われた地域も埋立により宅地化された。ただ美栄橋から祟元寺橋にかけて(牧志2丁目部分)、長虹堤跡の道が残っている。
 現在、美栄橋駅周辺には、長虹堤のほか「新修美栄橋碑」、「十貫岩」の話、幽霊伝説の「七つ墓」、天女伝説の「天日井」、沖縄陶芸史上に名を残す「渡嘉敷三良」・「張献功」の墓などの史跡・旧跡が残っている。

The history of the area where the Miebashi monorail station is today began with the construction of the Chokotei causeway in the days of the Kingdom of the Ryukyus.
Chokotei was a kilometer long inter island causeway built in 1451. The Miebashi was a stone bridge in the center of the causeway. When completed, Chokotei became the primary thoroughfare between Shuri and Naha. Construction of the Chokotei gave rise to silt build-up which in turn developed into tidal flats providing beds for a prosperous salt manufacturing industry. In the late feudal period, the area was a concentration of commerce and industry, including plaster craftsmen, blacksmiths and incense manufactures.
After the Battle of Okinawa in 1945, the area just west of Miebashi became a U.S.military depot. Although the look of the area was completely altered later by land redistricting parts of the Chokotei still remain.
Today, the Miebashi Station area has several historical sites besides the Chokotei: the Miebashi Bridge improvement Monument: the legendary Jikkanji rock: Nanatsu-baka the site of a ghost story: Tiraga spring known for the legend of a celestial maiden: and tombs of the famous artisans Tokashiki Sanra and Cho Kenko.

1長虹堤跡
 長虹堤は、1451年に築造された那覇と安里を結ぶ1kmの海中道路である。
 長虹堤築造以前、那覇は海に浮かぶ「浮島」であったため、首里と那覇の往来には船を利用し、中国からの使者冊封使の来琉の際には、那覇から安里まで船を並べて橋にしたという。1451年国王尚金福は、国相懐機に命じて、首里・那覇を結ぶ道を造らせた。懐機は、この工事は海が深く波が高いので、とても人間の力では出来ない、神の御加護が必要だと、祭壇を設け二夜三昼祈願した。翌日水が引き海底が見えたので、身分を問わず人民を動員し、安里橋(元祟元寺橋)から、①イベガマ(俗に「久茂地のチンマーサー」)に至るまで、石橋七座を設け海中道路を完成させたという。1633年来琉の冊封使杜三策の従客胡靖は、この海中道路を「遠望すれば長虹のごとし」とうたい、それ以降「長虹堤」と称された。
 「長虹堤」は1451年以降、明治期まで首里・那覇を結ぶ主要道であった。しかし、1911年首里・那覇間に泊高橋を経由する電車の開業(1933年廃止)や、1934年新県道(現国際通り)の開通により、主要道としての「長虹堤」の地位は低下した。現在、沖縄戦や戦後の都市開発により、「長虹堤」の風情は失われてしまったが、久茂地川沿いの道路に平行に走る道(牧志二丁目部分)が、わずかに「長虹堤」の様子をとどめている。

A kilometer long inter-island causeway called Chokotei linked Naha to Asato. Then, Naha was built across a few islands, and people used small boats to travel from Shuri to Naha. In 1451, King Sho Kinpuku directed Minister Kaiki to construct seven stone bridges from Asato (today's Sogenji Brige area) to Ibegama (known as Kumoji Chinmasa) to establish an inter-island causeway. Kosei, a member of the Chinese investiture delegation which came to the Ryukyus in 1633, noted in his poetry that the road looked like a rainbow (choko) in the distance. Thus, the causeway got its name.
Although Chokotei was the primary access linking Shuri and Naha, traffic volume dropped with the start of train service between Shuri and Naha via Tomari Takahashi in 1911 (discontinued in 1933), and the opening of a new Prefectural road (today's Kokusai Street) in 1934. Much of the Chokotei was lost in the Battle of Okinawa and to later development, but parts of the causeway still remain along the Kumoji River.
「那覇市歴史博物館」

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①現在のイベガマ(俗に「久茂地のチンマーサー」)付近


新城喜一「長虹堤」

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09/23: 長虹堤①

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 琉球最古の石橋を持つ長虹堤も、近代になると、泊高橋を経由して首里-那覇間をむすぶ電車の開業(1911年)や、1934(昭和9)年の新県道(現在の国際通り)開通などにより、次第に華やかさを失った裏通りとなり、現在は通りの一部が「十貫瀬(じっかんじ)」の道として残るだけになっている。 →「道の歴史」


2003年6月 原田禹雄訳注・周煌『琉球國志略』榕樹書林

○ネット上で画像「長虹堤」を見ると、ローゼル川田「琉球風画夢うつつー長虹堤」、琉球ニライ大学の「長虹堤跡を訪ねて」、或いは個人などの画像が豊富である。2010年11月・那覇市歴史博物館発行の『那覇の名橋と知られざる橋』には当然ながら「長虹堤」が載っている。null
大正期の長虹堤跡(現・十貫瀬通り)

○2013年9月23日ー美栄橋駅周辺の歴史は、琉球王国時代の「長虹堤」の築造に始まる、といってよい。15時からジュンク堂那覇店で、ゆたかはじめ×ローゼル川田「沖縄の鉄道と旅する」トークイベントがあった。冒頭ゆたか氏が周煌『琉球國志略』の那覇風景を見せていたのは偶然か。会場入口でローゼル川田絵ハガキ「長虹堤」を買った。
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石川和男 みどり印刷2013-9-24□これは仮説ですが。長虹堤も龍潭も懐機①の作とされています。おそらく、現在の龍潭の場所は葦などが茂る湿地帯であったとおもいます。土地がクチャ(不透水)である事から掘り下げて周囲に積み上げハンンタン山などの小山や半島をつくり、現在の中城御殿の左端から城西小前までに長虹堤と同じ手法で堤を東西に築き城西小正門前坂道の前までL字型の堤、同じ手法で世持橋のオーバー フロー・・・建築手法が長虹堤と同じなのです。壊機とその技術スタッフで作られたのが この二つの土木遺構だとおもいます。周辺にはその他にも数箇所の暗渠が今では知る人 も少なくアスファルトの下に眠っています。(機能は果たしています。)

①懐機 【かい・き】
尚巴志王代の琉球王国の国相。中国からの渡来人か。初代尚思紹から5代尚金福に至る第一尚氏歴代の王に仕えた。2代尚巴志代に国相となり,三山統一や中国への進貢貿易に尽力した。尚巴志6(1427)年建立の琉球最古の金石文である「安国山樹華木之記碑」に,北京に派遣されたこと,王城外に池(竜潭)を掘ったことがみえている。また旧港(パレンバン)の宣撫使や中国竜虎山の天師大人(道教教主)に文書や礼物を送っており(『歴代宝案』),その権威の高さがうかがわれる。尚金福王代(1450~53)には那覇と泊を結ぶ長虹堤を創建している。古琉球王国草創期の注目の人物である。 (田名真之)→コトバンク

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沖縄県公文書館玄関にある安国山樹華木之記□首里王城の威容を増し、合わせて遊息の地とするため、王城の外の安国山に池(龍潭)を掘り、台を築き、松柏・花木を植え、太平の世のシンボルとして永遠の記念とする。

2005年11月 与並岳生『新 琉球王統史③思紹王、尚巴志王・尚泰久王』「尚金福王と長虹堤建設」新星出版

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Posted by: ryubun02

浦添市美術館連続講座「近代沖縄の美術・工芸」

沖縄県物産販売斡旋所と沖縄県工業指導所
1926(大正15)年
10月1日ー沖縄県大阪物産斡旋所・東京物産斡旋所設置

1930年3月7日ー沖縄県大阪物産斡旋所で「漆器宣伝会」

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沖縄県物産販売東京斡旋所(西村所長)東京駅前丸の内ビルディング内

1934年3月20日ー沖縄県大阪物産斡旋所が神戸大丸百貨店で「沖縄県漆器見本展示会」
1937年9月1日ー『大阪球陽新報』安慶名宜良「本県物産斡旋所の沿革と事業に就いて」
1938年11月1日ー『大阪球陽新報』「沖縄県漆工藝組合が11月1日より阪急百貨店6階で琉球漆器陳列会」
1939年
4月1日ー『大阪球陽新報』「大阪物産斡旋所主任、安慶名宜良氏が本県糖業主事として栄転」
11月1日ー『大阪球陽新報』奥里将建「美術館の創設と沖縄の工藝政策」連載
1940年
3月1日ー『大阪球陽新報』「漆の配給は見込みが薄いー屋嘉那覇市勧業課長談」
6月20-『大阪球陽新報』「6月25日から三越大阪支店で山田真山画伯陶作即売会」
8月15日ー『大阪球陽新報』「去る14日から南海高島屋7階で沖縄民芸品と物産即売会並びに古芸品展」


沖縄県工業指導所
1926年8月14日ー『琉球新報』「商工省助成費の看板は工業指導所/計画の試験場は取止め、大蔵省は無事通過か」
1927年8月ー沖縄県工業指導所、島尻郡真和志村に設置。組織は所長事務取扱の井田憲次、窯業部の金沢武雄、染色部の光安源次郎、漆器部の生駒弘、機織部の4部門で構成。

1928年
11月ー昭和天皇御大典献上の螺鈿大衝立の原画(那覇港図・中山門)は比嘉華山、製作は友寄英茂とその弟子たち、衝立の木地製作は宮大工の玉城サンルー(その息子政康は戦後の守礼門復元に関わった)。沖縄県工業指導所で製作した。□1988年6月29日『琉球新報』に「黎明館の『漆絵螺鈿衝立』」が報じられ製作年代は不明とあった。新城栄徳はすぐ比嘉華山の作品と解釈、その旨を岡田新報記者に連絡。1988年7月5日の記事「製作は昭和3年ー鹿児島の琉球『螺鈿大衝立』」となり、序でに比嘉華山の顔写真も紹介した。


1929年
赤間文三所長□(1899年5月31日生まれ。福岡県出身。1925年、東京帝国大学独法科卒業、岡山、山梨、愛知大阪各府県勤務。徳島県経済部長、商工省、大臣官房から燃料局醸造工業部長を経て1947年4月から3期12年にわたって大阪府知事を皆勤12年。1951年2月15日の北恩加島小学校で開かれた沖縄諸島日本復帰要望大会(豊川忠進会長)では熱弁を振う。

8月10日ー『琉球新報』「所員間の醜き暗闘をー赤間所長戒む/明るく正しくあれと工業指導所刷新に着手」
9月3日ー『沖縄朝日新聞』「芭蕉布団地ー県外に販路拡張」


沖縄県工業指導所門前。戦前、工業指導所に居られた具志堅以徳氏、牧港篤三氏によれば、門から入って本館があってそこには陳列室があり左側には所長室があった。それを通って行くと、右には宿直室、その隣には漆器の模様入れの作業場、向かいの左側に漆器部がある。その裏側に紅房が出来る。さらに奥のほうの左側に染織部、図案部があり、その右側に窯業部があり煙突がついていた。
1930年
8月6日ー『沖縄朝日新聞』生駒弘「琉球塗の特質」


1930年2月18日『大阪朝日新聞附録九州朝日』「琉球紹介の沖縄県物産館生る」
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守礼門
小峯和明立教大学教授の『今昔物語集の世界』に「ある人は個人の屋敷の門やお寺の三門を想像するでしょうし、ある人はパリの凱旋門や都市の有名な門を連想するかもしれません」と門の話から始まり羅城門(羅生門)で話がはじまっている。ここに出てくる「守礼の門」は扁額が「守礼之邦」となっているところからそう呼ぶのであるが、中には「守礼門」と書いて「しゅれいのもん」と呼ぶのもいる。

大阪「沖縄関係資料室」(西平守晴主宰)には守礼門の扁額の拓本が軸装である。これは1972年に「豊川忠進先生の長寿を祝う会」のため那覇市の又吉真三氏から借用し寄贈されたものである。拓本の先駆者は久場政用。久場には『琉球金石総覧』『琉球列島之文化史料と植物史料』がある。また1926年の『沖縄タイムス』には「久場政用事業広告ー琉球植物園、科学知識普及ノ講話」がある。

新川明氏は『沖縄・統合と反逆』の中で「『守礼門』新札をどう読むか」と題し「扁額の『守禮之邦』という語句は、琉球王国が対外的に礼節を重んずる国であることを内外に宣言した意味を持つ。おのずからその国民は『守礼の民』であるという自己規定が生じる。『守礼門』は、そのような自己規定を媒介する『記号』として共有されてきたのである」とし、続けて「このような伝統は直ちに統治者によって逆手に取られ、支配目的を遂行するために利用されるのが常である。たとえば米軍統治下の沖縄に『守礼の光』と題する雑誌があった」としその側面にも触れている。
守礼門は、首里城が復元されるまでは「沖縄のシンボル」であった。最近は無用の長物の扱いを受け、沖縄教育委員会発行の『概説・沖縄の歴史と文化』の索引にも独立した項目としては無い。首里城に一括りされ冷たい扱いとなっている。1853年6月6日にペリー提督一行が首里城を訪れた。その遠征記には守礼門の版画が掲載されている。扁額の字は「中山府」としか見えないがとにかくもアメリカ史に守礼門が登場した最初のものであろう。

1952年発行の琉球郵便切手に「正殿唐破風」「琉大開学記念」(正殿が描かれている)、53年発行の「ぺルリ来琉百年記念」がある。58年には守礼門復元記念切手が発行された。62年には「国際マラリア防遏事業記念」切手に守礼門が図案化され、65年の「オリンピック東京大会沖縄聖火リレー記念」切手にも守礼門が使われた。復帰のときは守礼門が紅型模様とともに記念切手に使われ、時代の節目には必ず守礼門が使われた。合計6枚もある。スタンプにも数種がある。

丹羽文雄の小説集に『守禮の門』(1948年)がある。ちなみに手元の沖縄の旅行ガイドブックを見ると、1963刊の実業之日本社『沖縄』は口絵カラー写真に「守礼の門」がある。68年の主婦と生活社『カラ―旅・沖縄』はカバーと中扉に守礼門の写真がある。70年の日本旅行研究所『沖縄』には「守礼の門」のカラー写真、72年の山と渓谷社『沖縄と南西の島々』は「夕日の守礼門(しゅれいのもん)」の写真がある。

『おきなわキーワードコラムブック』に小野まさこさんが守礼門を「琉球王国時代には中国使節を迎え、現代においては観光客を迎えている首里王城の一門。観光客も必ず立ち寄る沖縄観光の記念写真の撮影場所となっている。夕日の中の『守礼之門』等、堂々たるシルエットの絵葉書も何枚かある。(略)東急ホテル前のイミテーション守礼門を本物だとカンチガイする人がけっこういるので、ご注意を」と簡潔に説明している。

東恩納寛惇は「首里王府の第一号坊としては中山門があり、王城の門としては、歓会門がある。第二坊が守礼門」と守礼門考に記している。寛惇は続けて「守礼門は尚清王時代の創建で、其頃は待賢門と言うて居たが、中頃になって首里と言う扁額を掲げ、これを首里門と称えて居た」とあるから呼び方も時代によって変遷している。




2010年7月3日から那覇市歴史博物館で「守礼門」展が開かれる。『球陽』の尚巴志7年(1428年)に「国門を創建す。曰く中山」とあるのは中山門で、尚貞13年(1681年)に板葺きが瓦葺に改められた。ちなみに正門の歓会門は尚眞代の建立。守礼門は尚清代の創建とされ、はじめ「待賢門」、のち「首里」の2字の額を掲げていた。尚永代に「守礼之邦」の額を冊封使来流のときにだけ掲げたが、1663年からは常に掲げられるようになった。

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2013年9月 沖縄県立博物館・美術館 県民ギャラリー「本部町・もとぶ記念病院利用者の造形作品展ー水のいのち/海の不思議」



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1973年3月ー『琉球の文化』第三号<特集・琉球の伝統玩具/琉球の塗物>□琉球文化社〒902那覇市安里425丸清ビル2階/コザ支社(城間喜宏)/関西支局(沖縄関係資料室・新城栄徳)/神奈川出張所(平良秀夫)

特集Ⅱ・琉球の漆器
  琉球漆器考(再録)ー石沢兵吾
  文献にみる琉球漆器の古さー山里永吉
  漆に魅せられてー前田孝允
  琉球独得の漆芸「堆錦」についてー編集部
  沖縄漆工芸の現状と将来を考えるー伊差川新
  沖縄の漆器素材と漆料の問題ー多和田眞淳
  琉球の漆工芸・郷土玩具に関する文献ー新城安善
  
  現代沖縄の工芸家ー漆芸家・前田孝允さん




1894年3月20日ー『國民新聞』流虬浪人(佐々木笑受郎)「八重の潮風ー沖縄の現況(工業)工業とては全く織物と漆器の二種のみ世に謂う薩摩飛白とは元と此地の産にして曾て島津公の配下となりし時貢物として奉呈せしを各地に散布するに至りて終に呼で薩摩飛白と云ふ(略)那覇在住の内地人の手にて作らるるものと監獄囚人の作るものとあれども漆器は共に珍らしきまでに光沢あり朱尤も美なり之に要する木材青貝は当地に産すれども漆は内地に之を仰ぐなり遠く昔より製造さるるものと見えて旧家には珍らしき意匠のもの美しき青貝巻絵のものを蔵するあり近年内地の注文倍々加はり便船毎に内地に向うもの実に尠からず」

山城正忠

1932年5月ー『琉球新報』「山城正忠氏の思出ばなしー学校へ出るのも嫌でたまらず鬱々として楽しまずツてな具合でサボっていた矢先、親父が漆器業で失敗したので家計は頓に貧困を来して私の通学は程なく覚則なく退校問題が両親間に話かけられていたー」

山城正忠は与謝野鉄幹・晶子の弟子であった。上は山城正忠に贈られた色紙ー左は与謝野晶子、右は与謝野鉄幹


1924年3月24日ー去る2月15日から4週間の会期を以って那覇市公会堂に於いて漆器講習会を開催。昨日終了証書授与ー金城南海、阿波蓮本英、知念積喜、亀島汝翼、根路銘恵仁、大城朝怒、友寄英顕、普天間真栄、嵩安安銓、饒平名光輝、真栄平房冨、稲福盛助、他11名

浅田漆器店カタログ





米次漆器店カタログ


下は『琉球の文化』第4号(1973年10月)所収


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大城精徳・表紙絵 1964年2月『今日の琉球』76号「赤えんどうの花」/1961年10月『今日の琉球』48号「真昼の屋良ムルチー」



1972年3月 『琉球の文化』創刊号<特集・琉球の焼物>琉球文化社
□大城精徳/小橋川秀義・図表「壷屋の村(1)」(原稿・翁長良明コレクション)

ネットで『琉球の文化』を検索すると読谷村立図書館蔵書で出てきた。『琉球の文化』は大城精徳元沖縄県立博物館副館長が1972年3月に創刊した。創刊号の特集は<琉球の焼物>、72年9月・第二号は<琉球の染織>、73年3月・第三号は<琉球の伝統玩具・琉球の塗物>、73年10月・第四号は<琉球の芸能・琉球の古武術>、74年5月・第五号は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。私と発行人の大城精徳琉球文化社社長とは、72年に又吉眞三氏の建築設計事務所に大阪の西平守晴沖縄関係資料室主宰と同行し訪ねた折、そこに大城精徳氏が出来たばかりの『琉球の文化』創刊号を持参したときに出会った。

翌日、安里の琉球文化社事務所を訪ねると意気投合し琉球文化社関西支局を引き受けることになった。このときは私はまだ筆不精で文章を書いたことがない。結局、『琉球の文化』には書く機会がないまま休刊を迎えた。その後、大城精徳も関わっていた『新生美術』には美術史らしきものを書くようになった。今、東京発の「沖縄文化論」がテレビ・雑誌などを通じて沖縄に侵蝕。それらが今、沖縄の新聞紙上を占めている。そういうことを予見し危機感を持っていた大城精徳は「日本人としての誇りを得るために、沖縄人としての誇りを捨ててはいけない」とし日本復帰前に『琉球の文化』を創刊した。その初心に立ちかえりネット上で『琉球の文化』活動を復活し新たに補足・改訂を加え立体的に「琉球の文化」を捉えなおしてみたい。(2010-7-8-15時記)



『琉球の文化』1号~5号


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1913年
6月ー『琉球新報』大崎範一「琉球の陶器問題」連載

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昭和期ー沖縄県物産大連斡旋所主催「琉球古典焼漆器即売会」


やちむん
1970年
7月ー『ヤチムン研究会誌』創刊号□事務局・那覇市首里大中町1の1琉球政府立博物館内

1971年
8月ー『ヤチムン会誌』第2号□事務局・琉球政府立博物館内

1972年
3月ー『琉球の文化』<特集・琉球の焼物>創刊

8月ー『ヤチムン会誌』第3号□編集責任・宮城篤正(沖縄県立博物館)
10月ー大城精徳、宮城篤正『琉球の古陶ー古我知焼』琉球文化社


1973年
12月ー『やちむん』<特集・壺屋>□編集ヤチムン会(宮城篤正)発行・琉球文化社

1975年
4月ー『やちむん』第5号□編集責任・宮城篤正(沖縄県立博物館)
1977年
5月ー『やちむん』第6,7号<特集・沖永良部島>□沖縄県立博物館(宮城篤正)
1979年
10月ー『沖縄の名匠・金城次郎陶器作品集』沖縄タイムス社
10月ー『図録・沖縄の古窯』やちむん会□沖縄県立博物館内(宮城篤正)
1984年
10月ー『やちむん』<特集・浜比嘉島>第8号□事務局・琉球文化社内

1986年
7月ー『やちむん』第9号□事務局・琉球書院内
1987年
12月ー『企画展・現代沖縄の陶芸ー天野鉄夫コレクション』沖縄県立博物館
1989年
8月ー小渡清孝「沖縄の古窯」(第179回沖縄県立博物館文化講座)
1991年
9月ー『企画展・壺屋陶工遺作展』沖縄県立博物館
1996年
11月ー『沖縄の古窯・古我知焼』名護博物館
1998年
2月ー『壺屋焼物博物館常設展ガイドブック』
2001年
1月ー『企画展・くらしの焼物』宜野湾市立博物館
2004年
9月ー宮城篤正監修『翁長良明コレクション・琉球の酒器』
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<50年前の琉球の玩具>我部政達が1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」に出品したもの。



左のカラー図は、崎山嗣昌「闘鶏」/古倉保文「首振りトラ」、

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1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)
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写真・1978年8月ー那覇市一銀通りの琉球書院(琉球文化社)と青い海出版社の看板が見える。

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2013年9月1日『沖縄タイムス』「目~ぐるアングル⑥戦後沖縄文化の『博物館』写真家・山田實さんの事務所ー人と記録の『交差点』」



2013年9月10日 那覇市民ギャラリー「二科会写真部沖縄支部 第二回写真展」山田實「粟国の思い出」

小橋川肇氏、その作品「錯綜する馬面骨」①②

右が宮城護氏、その作品をバックに新城征孝氏

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『日本カメラ』2013年10月号


30日、自宅書斎にて



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□土佐幡多郡下田浦への漂着ー1795年4月、福州から琉球を目指して出港したが、再び遭難して土佐の下田浦に漂着した。八重山グループの中の座波(35歳)が土佐での滞在中に急病死し、座波の遺骸は、南宗寺の後ろの山に葬られているという。-写真の座波の墓は南宗寺の住職様より贈られたもの。
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島袋百恵・画「山之口貘」


沖縄県立図書館創立100周年記念「山之口貘文庫開設展」


写真は1925年8月16日、貘2度目の上京前に上左から又吉康和、国吉真哲、国吉真才、一人置いて貘

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写真は1959年1月3日「大原登美屋」で、座っている左から末吉安久(麦門冬の弟)、一人おいて国吉真哲、南風原朝光、一人おいて貘


2010年10月21日―午後5時 沖縄県立図書館の山之口貘展を期に貘さんの親友であった国吉真哲翁の「貘関係資料」数点を新城栄徳氏が沖縄県立図書館の島袋道男館長へ寄贈した。(宮城涼子 資料班長記)

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神山政良、山入端つる、貘の左に平良リヱ子

著者の後田多敦氏から『山之口貘 詩と語り』が贈られてきた。中に「貘さんが又吉康和」へ宛てた手紙の一節は興味深い。手紙には『小生まだ碌な仕事も出来ずまことにお恥ずかしい次第ですが、最後まで東京に頑張ります』とある。」 この手紙には「船」の詩原稿が添えられていた。国吉真哲記者によって元旦号の記事になったのはいうまでもない。


山之口貘の又吉康和宛書簡/詩稿
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1952年1月1日『琉球新報』

新城栄徳「山之口貘、バクの由来」
1911年1月ー『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉麦門冬)「古手帖」

1913年2月ー『沖縄毎日新聞』獏族(末吉麦門冬)「川柳 車上偶吟ー龍宮の火事鹽焼きの死魚出て/聲聞いて誰やみしへが入みそうれ/寒いのに波上などへ吹かれに出/大和語は唯はいはいと受け流し」

□新城栄徳「國吉眞哲翁から、貘と一緒に末吉麦門冬の家に遊びに行った話を伺ったことがある。玄関から書斎まで本が積んであって、麦門冬が本を広げている上を鶏が糞を垂れ流しながら走りまわっていたのが印象に残っているとの話であった。思うに貘はそのとき麦門冬の旧號・獏を夢を喰う意味での「獏夢道人」をいくぶん意識に植えつけたのではなかろうか。」→1997年8月1日『琉球新報』「貘のいる風景」

大正14年9月ー『沖縄教育』第百四十七号(編集者・又吉康和)□山之口貘詩「まひる」「人生と食後」(編集後記ー山之口氏は今般中央の『抒情詩』に日向スケッチ外三篇入選しました之れより琉球詩人がどしどし中央の詩壇に出現せんことを念じます救世者は政治家でなく、それは詩人と哲人であります。表紙の装幀を本号から改めました題字は山城正忠氏の揮毫、獅子は山口重三郎氏に御願しました茲に両氏に篤く謝意を表して置きます。)→この『沖縄教育』を那覇市歴史博物館に寄贈したのは鹿野政直さんである。

大正15年9月ー『沖縄教育』第百五十六号(編集者・國吉眞哲)□山之口貘短章「彼」(編集後記ー山之口貘君は青年詩人で『彼』は短章ではあるが胸を突くものがある筈である。)null

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大正15年12月ー『南鵬』第2巻第1号(編集者・又吉康和)□山之口貘詩「莨-ニヒリストへの贈物ー諦らむるものの吐息はけぶるのである/深い深い地の底に吸はれてけぶるのである  うちつづくこの怪しげな平面に直角lで/高い高い 昇天の涯で/ああ 疲れた生命のまうえ/死んだ月の輪にけぶるのである  うちふるふ希望の触手の末梢はしびれ/得体の知れない運命にすっかり瘠せてしまうて/とほくとほく真空をめざしてけぶるもの  それは火葬場を訪ねる賓客の莨です。」、國吉灰雨「風景短章」

1975年7月23日ー『琉球新報』国吉真哲「小説や絵にも筆力ー貘は中学時代は画家になることを志し、大正11年ごろの第一回の上京は日本美術学校に入学のためであった。しかし間もなく家計が左前になり、学費に窮することもしばしばで、いくばくもなく学校をやめ、大正12年の関東大震災を機会に帰郷したようである。家族が離散して後は、学生のもつズックの手提げにスケッチブックと大学ノート2冊、タオルと歯みがき楊子を入れたのが全財産のようであった。(略)絵については、基礎としてのデザインを強調し、物の見方や、対象の把握がなければ、真実を探求することは出来ないという意味のことを話していた。(貘)自画像ははっきり覚えている。赤みがかった茶色を主にし、くすんだ黄土色とだいだい色を使用したもので、よく似ていたが、少しきつかった。」

1986年12月ー『金真弓』沖縄県歌話会□新城栄徳「沖縄近代美術の流れと文学ー山之口貘の全集の年譜を見ると、大正6年8月に若い画家たちら浦崎永錫の主張で『丹青協会』が創設、とある。これは誤りで大正8年9月の『自由絵画展覧会』のことではなかろうか。翌年に『ふたば会第一回展』が開催されている。これらは沖縄近代美術史についてあまり知られてないゆえにそうなったので、先学の研究を下地にアウトラインを述べてみる。」

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伊波廣定氏と新城栄徳

新城栄徳、宮里正子さん、玉城よし子さん

安里進氏、宮里正子さん

2011年8月13日17時記ー新城栄徳「本日は物外忌」
昼前、沖縄県立図書館に行くと、伊佐眞一氏が東恩納寛文などの資料調査をしていた。
沖縄県立沖縄図書館初代館長・伊波普猷
伊波普猷(1876年3月15日~1947年8月13日)に対して私は麦門冬・末吉安恭を通じてのみ関心があっただけであった。1997年8月、那覇市が「おもろと沖縄学の父 伊波普猷ー没後50年」展を開催したとき私も協力した。関連して伊波普猷の生家跡に表示板が設置されたが、その表示板の伊波の写真は私の本『古琉球』(1916年9月)から撮ったものである。伊波展の図録作成も手伝った。その間に沖縄県立図書館比嘉春潮文庫や比嘉晴二郎氏の蔵書、法政大学の伊波普猷資料に接し感無量であった。

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1972年6月 沖縄の雑誌『青い海』14号 安次嶺金正「沖縄の文化財 海と台風に育まれた文化」 


2013年9月10日~10月27日 沖縄県立博物館・美術館「緑の抒情 安次嶺金正展」



安次嶺金正(五人展会場で)

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写真左『琉球の文化』第二号/null     





 外間正幸(山田實・撮影)

戦前のヤマトのなかの「琉球展」
1928(昭和3)年
1月25日ー東京銀座松屋呉服店
4月16日ー京都四條大丸呉服店


4月ー『古琉球 紅型』□伊波普猷改題/巧藝社(東京市日本橋区)□紅型の現品は八重山・上里参治、東京・岡田三郎助、山村耕花、京都・菊池契月、北野恒冨の賛助

□山村耕花 やまむら-こうか
1886-1942 大正-昭和時代前期の日本画家。
明治19年1月2日生まれ。尾形月耕に師事し,東京美術学校(現東京芸大)にまなぶ。風俗人物画を得意とし,文展,院展で活躍。版画,舞台美術も手がけた。昭和17年1月25日死去。57歳。東京出身。本名は豊成。作品に「業火と寂光の都」「うんすん歌留多(かるた)」など。(→コトバンク)

1937年
7月ー新宿伊勢丹で「琉球と薩摩の文化展覧会」□宇宿捷『琉球と薩摩の文化展覧会目録』「尚裕ー沈金美花御小飯並御菓子盆、御玉貫並に台、黄色地縮緬牡丹付袷、水色地麻菖蒲に蝶型付単衣」

1940年
6月ー東京日本橋高島屋で「琉球紅型と時代裂展覧会」

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11月ー日本民藝館で「琉球工芸文化展覧会」、東京銀座三越で「琉球風物写真展覧会」、「日本生活工芸展覧会」

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写真・日本民芸協会主催「琉球工芸文化展覧会解説」


1941年
5月ー東京日本橋高島屋で「古代琉球染織と時代裂展覧会」

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2013年9月 俳句同人誌『天荒』46号 野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 
電話・FAX098-936-2536






○野ざらし延男「天荒秀句鑑賞
□春雷や歴史は捏造されるという  おおしろ健ー「歴史」は必ずしも真実を刻んでいるわけではない。権力者が真実を歪曲し、恣意的に操作することもあろう。権力者は自分たちの都合のいいように、沖縄差別と抑圧を繰り返し、お国を守ってきた。「歴史は捏造される」の思いは沖縄にいるとよく判る。俳人も歴史の裏に隠された真実を見抜く眼を持たねばならない。
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岩獅子の独白  


 俺、冬瓜(とうがん)を担ぐ岩獅子。日々、冬瓜を担ぎ部屋の片隅で置物としての生業(なりわい)を果たしています。冬瓜とはいえ陶製なので、重みが右の肩に食い込み、肩や腰が痛くてなかなか辛い仕事でもあります。仲間のシーサー達からもよく「一体君は何のために、冬瓜を担ぐ格好でいるのか。」と聞かれますが、実は、俺にもよく解らないのであります。

俺は、この世に生まれてずっとこのかた、この格好でいるので、特に疑問に思ったこともなく、日々を過ごしてきたが、長ずるにつれ世間を見まわして見ると、俺の格好が奇妙で他のシーサー達とは違うことに気ずいてきました。この頃は、門柱の上で夫婦(めおと)シーサーとして仲睦まじく存在している彼らや、屋根瓦の上で孤高の哲学者のように、虚空を睨む彼に較べると、俺の格好はいかにもぶざまではないのか?との疑念が湧いてきて心穏やかではいられないのであります。存在の不条理というか、他のものに変わりたいというか、
兎にも角にもこの重たい物を降ろして、自由になりたいという思いが強くなってきて、
毎日が面白く無いのであります。
このオリモノのように沈殿した妄念が、ある暑い夏の日に爆発しました。
「一体、俺が冬瓜(とうがん)を担ぐことに何の意味があるんですか?。ゴルゴダの丘のキリストでもあるまいし。」と悶々たる思いを、生みの親である陶芸家先生にぶつけました
普段は物言わぬ俺の発言に、先生は一瞬「ん?」という顔をなさいましたが、曰く、
「特に意味はない。冬瓜の石膏型があり、思い付きで冬瓜と手びねりの獅子とコラブレーションしただけだ。只、最初の構想では槍を持つ衛兵の如く、姿勢はもう少し立つていたのだが、冬瓜の重みでだんだんと倒れかけてきて、アレ、アレと思うままに手直しを重ねてきたのが今の形だよ。」と仕事の手を休めるでもなく素っ気なくこたえるのでした。
勢いこんでいた俺は
「はぁ」と拍子抜けするやら、俺がこれだけ懊悩しているのに「思い付きでつくったぁーあ?俺の存在は毛ほども軽いのか?。」「倒れかけたら真っ直ぐに直したらいいじゃないか。あんたのズボラのおかげで、俺の肩と腰はヒィヒィいってるよ。」
と情けなくもあり、怒りも込み上げてきて、冬瓜(とうがん)をバット替わりに殴ったろうかとも思いました。俺の顔は紅潮し、目は涙目になりながらも、なお、
「先生、俺、辛いんだよ。やりきれないんだよ。意味も解らないで冬瓜を担ぎ存在していることが。」と声を荒げ言い放ちました。

先生は今度は仕事の手を休め、俺の方をむき直り、真顔で俺の顔をじっと見て
「君の存在理由を、強いて言えばユーモラスな感じかな?。門柱のシーサーや屋根のシーサーを見てごらん。どこも似たり寄ったりで、誰も見向きもしないではないか。そこにくると冬瓜を担ぐ君の姿を見ると、誰でもまずは微笑むだろう。そこだよ。君が意識するとしないとに関わらず君の存在は、人に微笑みを与える。微笑みとはすなわち幸せのことだよ。仏様の教えでは、己を滅して他に幸せを与える者を菩薩と言うんだよ。尊いことだよ。冬瓜を担ぐ君の姿は尊い菩薩行を行じているんだよ。」
と言い、頭をなでてくれるのした。その瞬間、憑き物が落ちたように、俺の人生でも初めてのことだが、ワァと涙が滂沱の如くあふれでて、俺の中にもこんなに涙があったのかと思うくらいに泣きました。そして先生が偉い人にも思えてきました。

その日以来、解ったような解らないような気持ちですが、でも少し解ったような気がしています。これからは、俺が冬瓜(とうがん)を担ぐ姿をみて、人が微笑んでくれたら良しとしようかと思います。又、その日以来、冬瓜が軽くなったような気がしています。    合掌

追記  今度のシーサー会の模合では、みんなにこのことを語ってみようとおもいます。


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