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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

写真ー神山南星
真喜志ヌターリーから歌人・神山南星資料を贈られたことがある。南星は1913年、那覇の垣花生まれ。ライを病み鹿屋敬愛園に入りそこで林文雄園長から短歌を学んだ。南星の歌文集のひとつ『牡丹のあと』の表紙は斉藤茂吉研究家の山上次郎の色紙「海人保と続く歌よみを神山南星と言ひてさびしむ」で、扉絵には林竹治郎画伯の「沖縄なんみんもう」で飾られ巻頭の随筆は俳人正岡子規と野球、野球用語の歴史的考察、短歌も野球を詠んだのが多い。

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1933年1月 金城朝永『異態習俗考』六文館


1934年7月 金城朝永『異態習俗考』成光館書店
□琉球の遊女ー(略)琉球の遊女に関連しては尚多くの書くべき事柄が本稿には取り残されてている。その琉球史上に於ける詳細な文献學的考証と論究は前記の『沖縄女性史』の御一読を御勧めするとして、その外でも、琉球の農村と遊女との関係、今一つ廓内の「尾類馬行列」に就いては書いて見る積りであった。殊に後者は、遊廓の行事と云ふよりも那覇の町にとってもその年中行事の大きなものの一つに数えてもよい位で是は旧正月廿日に挙行されるので、土地では「廿日正月」と云へば「尾類馬行列」を意味している程有名なものであるが、その詳細に就いて述べるには、本文と等しい紙数を要さねばならないから止むなく割愛することにした。それから本稿に於いては平易なものの外は引用文献の再録を避けて単に摘意に止めたり、又はその書名をも二三除いては省略して置いたが、之は故意に先人の功を閑却した訳ではなく、可なり型ぐるしい記述を採用しなかった為めであるから、切に読者諸賢の寛怒を請ふ次第である。



1932年1月 『犯罪科学』金城朝永「頭蓋骨崇拝」
1931年2月 『デカメロン』創刊号 金城朝永「琉球の遊女」
□裏表紙に原浩三『ポムペイの美術』風俗資料刊行会の広告。「ポムペイ!この名に籠っている響の強さはどうだ。其処は2千年の長い間 地下に葬られていた都市であり、特別な女郎屋とか淫祠でなく普通の家庭の寝間に春画が飾られ、妙な彫刻が置かれてあった処である」と刊行の辞がある。

□戦後の1969年10月発行『愛苑』は髙橋鐵監修だが巻頭にカラーで「古代人の愛 ポンベイ壁画集」が載っている。

1933年1月 『人情地理』創刊号 金城朝永「迷信のろーかる・からー」

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島袋百恵・画「仲吉良光」

1912年ー大隈重信を囲む早稲田大学沖縄県人会

中央の大隈重信の左が仲吉良光、右二人目が尚秀。その後ろが新崎盛珍


1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「嘉手川重利」


前列右から池宮城積宝、山口全恭、渡久地政憑、野村安茂 後列右から末吉麦門冬、嘉手川重利、当真嗣合、屋嘉宗恭、仲吉良光

仲吉良光 なかよし-りょうこう
1887-1974 大正-昭和時代のジャーナリスト,政治家。
明治20年5月23日生まれ。大正4年創刊の「沖縄朝日新聞」編集長。アメリカでの邦字紙記者などをへて,昭和15年首里市長となる。戦後,沖縄諸島日本復帰期成会を結成,「沖縄復帰の父」といわれた。昭和49年3月1日死去。86歳。沖縄県出身。早大卒。著作に「沖縄祖国復帰運動記」など。→コトバンク


那覇市識名にある仲吉家の墓2015-9-21
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「仲吉良光関係文書」那覇市歴史博物館所蔵
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辺野古新基地NO

私は1997年8月の『敍説』に「雑誌『おきなわ』総目次」を発表した。その中の執筆者に国場幸太郎という名前に興味を持って調べたことがある。何故なら沖縄財界の国場組の国場幸太郎と同名だからである。もとより政治運動に関心が無かった私には政治的論争など知る由もなかった。今でも私は政治的発言は弟・栄仁にさせている。偶々手許に森秀人の『沖縄怨歌・崩壊への出発ー甘蔗伐採期の思想』(現代思潮社1971年12月再版)がある。その中に□わたしが糸満に主眼を置いたのは、那覇で瀬長亀次郎にあって、この、沖縄ははえ抜きの闘士との話しあいに失望して、より辺境に目を注いだ結果であった。わたしの予測は、半分的中し、半分はずれた。というのは糸満ではより自由な雰囲気で、たとえば安保闘争について、あるいは共産党について、話すことができたからである。すでに当時の人民党は反日共系の国場幸太郎をはじめ、幹部クラスの数十名を放逐し、共産党との連携を強めていたが、下部ではもっと流動的であった。たとえば、糸満の人民党とそのシンパサイザーたちの集会では若者たちの大半は、わたしの反日共の論理を素直に受入れて幹部と対立したいた。と国場幸太郎の名が出てくる。

続けて□わたしは、しかし沖縄を去るにあたって、不吉な予感をまぬがれなかった。8年後の今日、わたしにははっきりわかったことは、沖縄ではついに生まれることのなかった思想についてなのだ。沖縄は、アメリカとニッポンのために犯されたが、沖縄の思想は、ある種の加担者たちのために虐殺され、死産児としてわれわれの眼前に横たわっている。わたしはただそうした加担者たちをならべたて、かれらが抹殺したものの怨歌をつづるだけなのである。わたしの『甘蔗伐採期の思想』という本はこうした加担者たちによって抹殺されつづけた本である。その証拠はいくらでもある。中野好夫が所長をしている沖縄資料センターでは、わたしの寄贈したこの著述をいちはやく焼却した。以後、この資料センターのいかなる書目にものったことがない。中野好夫編『沖縄問題を考える』(大平出版社)という破廉恥きわまる本が1968年に刊行されているが、これは一種の沖縄問題のハンドブックとして作成され、戦後出版された沖縄関係の書籍や資料はもれなく収録されているにもかかわらず、私の本は名すら出てこない。ちなみに、この破廉恥きわまりない書物の共著者たちは、新崎盛暉、石田郁夫、井上清、木村禧八郎、霜多正次、新里恵二、高橋実、中野好夫、星野安三郎、宮崎繁樹、宮里政玄、森田俊男である。(略)新崎盛暉も、もっとも悪しき沖縄問題評論家のひとりである。彼は前出の沖縄資料センターに所属し、沖縄問題に巣を作って、沖縄問題を喰い物にしている者たちにつながっている。・・・・・あとがきー(略)沖縄では新川明ら少数の自立主義者がいて、いぜんとして困難な状況を斗っているが、近年とりわけ注目されるのは沖縄芸能者の世界からの自立論の多出である。 1971年12月

さて森秀人氏は沖縄に何時来たのかを、新城栄徳作成の「来訪者略年表(1945~72年)」(『新沖縄文学』№94所収)に、1962年3月に来沖、1963年4月には『甘蔗伐採期の思想』を現代思潮社から出している。『戦後初期沖縄解放運動資料集』3巻に『日本読書新聞』の森・新里・国場論争が収録されている。先ず1963年2月の森秀人「ひき裂かれた歴史」で比嘉春潮・霜多正次・新里恵二『沖縄』を批判。それに新里恵二が「沖縄をどう考えるか ”新沖縄学”を樹立せよ 差別と偏見は日本社会の構造と不可分」で分裂ではなく一致の方向へと批判。新里・森の論争が、国場幸太郎が森を擁護したため新里・国場の論争へと展開する。

森秀人 もり-ひでと
1933- 昭和後期-平成時代の評論家。
昭和8年4月15日生まれ。昭和33年三一書房の評論募集に入選。35年行商人,零細企業労働者などをあつかったルポ「現代日本の底辺」(共著)を刊行。38年「思想の科学」編集長。月刊「七宝芸術」編集長をへて,評論活動に専念する。考古学,民俗学関係,釣りなどに関する著作がある。東京出身。早稲田高等学院卒。本名は秀男。→コトバンク

1974年11月『青い海』37号<特集・戦後沖縄の重要論文集> 森秀人「甘蔗伐採期の思想」(解説・岡本恵徳)

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1973年4月ー国場幸太郎『沖縄の歩み』牧書店
目次-まえがき/1、けわしい戦争の雲ゆき/2、沖縄戦の悲劇/3、遠い昔の沖縄/4、江戸時代の沖縄/5、明治時代の沖縄/6、大正・昭和前期の沖縄/7、第二次大戦の沖縄/あとがき□主な参考文献・比嘉春潮『親稿 沖縄の歴史』三一書房、新里・田港・金城『沖縄県の歴史』山川出版社、太田昌秀『近代沖縄の政治構造』勁草書房、上地一史『沖縄戦史』時事通信社、沖縄県教職員組合編「これが日本軍だー沖縄における残虐行為」、平凡社刊『沖縄文化論叢』1~4、谷川健一編『叢書わが沖縄』1~6木耳社、中野・新崎『沖縄問題二十年』岩波書店、中野・新崎『沖縄・70年前後』岩波書店

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写真右から新城栄徳、国場幸太郎氏

1974年11月『青い海』国場幸太郎「沖縄の日本復帰運動と革新政党(上)」/解説・新崎盛暉
1974年12月『青い海』国場幸太郎「沖縄の日本復帰運動と革新政党(下)」

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1913年6月5日、岡田雪窓 那覇港から鹿児島へ



1919年ー京都都踊りで琉球太鼓踊り
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上ー1995年1月19日『琉球新報』「人気あった琉球の太鼓踊りー大正8年 京都の都おどりで」/下はその時の絵葉書、左が巴紋の幕の前で万国旗をかざす踊子たち。右が太鼓踊り
□1919年3月12日『日出新聞』「都踊ー『今紫四季栄』平和踊・御越わん、里前御扶齎したぼれエイヤヨヌ平和の日(ひゃるがひー)ー」


1916年3月19日『琉球新報』素月生「入獄記ー同性間の恋物語(1)」
1916年3月20日『琉球新報』素月生「入獄記ー同性間の恋物語(2)」
1916年3月21日『琉球新報』素月生「入獄記ー同性間の恋物語(3)」

1916年4月1日『琉球新報』「俳優投票募集」
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1916年5月2日『琉球新報』「俳優投票結果ー多嘉良朝成・六万千九百三十八票、渡嘉敷守良・五万2千六百七十二票、真境名由孝・二万二千三十五票、伊良波尹吉・一万千六十九票」


1917年10月 『沖縄毎日新聞』伊波普猷「仲尾次政隆と其背景」→1926年7月 伊波普猷『真宗沖縄開教前史』明治聖徳記念学会
1919年10月 伊波普猷・真境名安興『沖縄女性史』「尾類の歴史」小沢書店→1926年9月 『新小説』伊波普猷「琉球の売笑婦」


1925年10月 沖縄県教育会同人(又吉康和)『琉球』小沢書店

□鎌倉芳太郎氏は寫眞や装幀に助言され・・・、表紙は羽田会長の案に出たもので、若狭町の知念と云ふ老舗の作製に成る純琉球物です。





樋口富麻呂
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1926年ー初来沖/1928年ー『川柳 大大阪』表紙絵
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1935年ー2回目の来沖/1960年ー3回目の来沖

1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」○ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」
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「二十日正月踊」のジオラマ

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那覇市天妃町 料理屋「一味亭」




1934年8月ー大阪商船「沖縄航路案内」(大野麦風「守礼門」)


有馬潤(1906年10月18日~1945年5月8日)
1931年4月 有馬潤『詩集・ひなた』青山書店

○有馬潤・口絵「蛇皮線を持つ女」
○ひなた、他九篇
ひなたー陽の きらきら する/ぬくい/えんがわにすわって/母とはなしてゐると、/なんにも/ほしいとはおもはない。
○佛さま、他十篇
佛さまーお母あさんが/ぶつだんの前にすわって/なにかお祈りして いらっしゃる/ほとけさまは/きっと 願ひをかなえてくださると おもふ。
○母と子、他八篇
○佐藤惣之助「序」/菊地亮「跋」/伊波南哲「跋」
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向かって左から山田有邦、川平朝申、有馬潤、名渡山愛順、志垣新太郎、仲間武雄(樹緑会1924年夏)








1934年10月 久志助善『沖縄の歓楽郷 辻の今昔』







○一向宗の法難と廓
王朝時代の沖縄では御國元(薩摩)にならって一向宗の信仰を厳禁されていたが泉崎の名家仲尾次親雲上政隆や、備瀬筑登之などに依って密かに布教されその信者も相当の数を得ていたが遂に発覚されて仲尾次翁を始めその信者が処罰されたことがある。この仲尾次翁は初め辻の女郎屋に御本尊を安置して熱心に信仰し、また布教していたが、次第に信者も多くなり遊廓では都合が悪く自宅にこれを移したが、遂に発覚されて八重山に流刑されたのであるこの仲尾次翁の「法難日記」の一節に   荒神之前の牛あんま、真中のさまのかめあんま、雲登留の牛あんぐわ、も座窂より同日出窂云々とあるから処罰された信者の内には遊女だちもおたようである。

また、仲尾次翁の法難当時、大島あたりに行っていたので難をのがれたが明治10年10月 田原法水師の法難事件に殉した、備瀬筑登之の白状した所によると弘化元年渡地傾城荒神の前ウシ方で始めて一向宗を信仰したが、文久元年12月本山から御本尊を請受けて自宅で内秘に信仰していたが、元治元年に露顕を恐れて一旦本尊を本山に還したことにして、辻の染屋のカマ方に預けそこで法話をしたり経典を講じたりしていた。

明治9年5月に眞教寺の先代、田原法水師が商人田原里治と偽って大有丸で那覇に着き、長嶺筑登之の宅に宿して密かに辻遊郭で布教をし10月ごろまでに遊廓で78十人の信者を得た。
備瀬筑登之はその年の6月ごろ、辻の亀の油香々小で始めて法水師と会って、ともに布教につとめていたが遂に彼の法難に逢ったのである。このように禁制当時の一向宗の信仰や布教が遊廓を中心としてなされたことは、当時の遊廓がその取締もゆるくまた彼女だちが秘密を洩らすことなきを信頼してこの場所を選定されたのであろう。

1936年10月2日 『大阪朝日新聞』島袋源一郎「遊子を魅する南島芸妓の美声ー猫額大の土地に貸座敷およそ5百戸」芸娼妓、酌婦合わせて1千人も住んでいる/料理屋と待合、貸座敷の三つをゴッチャにしたものといってよい。料理を出したり、宴会を催したりしている点からいうと料理屋に当たり、歌舞、音楽が行われ商談でも政治の駆け引きでも行われているのは待合のようである/妓女が一人前になるまでは抱親が一切の面倒を見てやるが、成人すると月極め4,50圓乃至6,70圓を抱え親に納めて部屋持になる/聖代の今日、人身売買の陋習は人道上の大問題でありあり、殊に遊里は波之宮の神域に近く、最適の納涼地であるから、本県風教上速やかに移転または改革を断行しなければならない。 


1936年10月3日ー華やかな飛行場開き、本県初の遊覧飛行

1937年3月1日 『沖縄朝日新聞』島袋源一郎「南島春爛漫ー女郎馬行列とその歴史」



1938年9月15日『大阪球陽新報』
□行雲流水ー辻遊廓問題は一応ケリが着いたかと思ったが余燼はまだブスブス燻って却々消えそうにもない。その顕著な一例は沖縄基督教聯盟の真剣な粛正運動である。同聯盟の熱意の籠った純理論には如何なる有力者も眞ッ向から反対を唱えることは出来まいだろうが其処が多年の因習と利害関係の錯綜した辻遊廓の事だからそう簡単に解決はつくまい。

家主や廓内の商売人からすれば全くの死活問題に違いないから凡ゆる手段を講じて之が阻止運動に出づべきは逆賭するに難くはない。然し改善論者側ではそんな個人的の利害問題などテンで眼中に置かず県の体面問題及び明日の沖縄を担ふべき青年の死生問題として重大視しているから決して馬鹿には出来ない。

県外識者中には沖縄から大人物が出ないのは辻と泡盛の為だと嘆いている人もあり「人生をテーゲードヤル」と茶化している不真面目の壮年老人連中は何うでもいいが未来ある青年だけは救わねばならぬと叫んでいる。大阪湯浅商店主の山川氏などは那覇市が辻遊廓から上がる公課を唯一の財源として之を擁護するのは淫売した不浄の金を重要予算として奨励しているようなもので市の不面目是より甚だしきはなく恥を天下に曝すものだと慨嘆している。

辻を市経済の有力機関だとの考え方が抑々の間違いで寧ろ家庭経済の破壊者であり産業発展の敵といっても過言ではない。那覇、首里の名家で辻のために産を破ったもの幾何なるを知らず農村民にして粒々辛苦折角儲けた虎の子を遊女に奪われて帰る旅費もなくなったという実例はザラにある。中には農村青年の娯楽機関として辻必要論を叫ぶ者もあるが以ての外の暴論で慰安の方法は演劇、映画等其他情操方面に幾らでもある。沖縄の都鄙を通じて演劇が発達しないのも辻許りに関心を持っている為で、この意味から云っても辻は精神文化の阻害者であり県民を亡国の民たらしむる囮である。


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Posted by: ryubun02
うつくしい日本のイメージとしてステレオタイプであるが「ゲイシャ、富士山、桜」が浮かび世界的にも古くから著名である。イギリスのカメラマン)ハーバート・G・ポンティングが明治時代に『この世の楽園 日本』という写真集を発行し「ゲイシャ」を紹介している。私は小学4年生のときに粟国島から出て那覇安里の映画館「琉映本館」の後にある伯母宅に居候していた。だから東映時代劇の総天然色映画は小学生ということで映写技師にも可愛がられ映写室でフィルムの切れ端を貰って遊び、映画は殆どタダで見た。東映時代劇には「ゲイシャ、富士山、桜」がフルに取り込まれていた。特に京都を舞台にした片岡知恵蔵(日本航空社長の植木義晴は息子)や市川歌右衛門(俳優北大路 欣也は息子)主演「忠臣蔵」や「新撰組」も見た。片岡や市川が顔で演技するのは今の世代は理解できるであろうか。美空ひばりが歌いながら男役もこなし縦横に活躍していた。

討ち入りを決意した大石内蔵助が、一力茶屋で豪遊したという話や、幕末には大和大路通りに営業していた「魚品」の芸妓、君尾が志士たちを新撰組の目から逃れさせたことは有名だ。近藤勇の愛妾と言われた深雪太夫(お幸)も。明治時代には「加藤楼」のお雪が、アメリカの実業家ジョージ・モルガンと結婚し、現在なら1億円ともいわれる高額で身受けされたことも伝わる。ほかに芸妓幾松(いくまつ)として維新三傑・桂小五郎(後の木戸孝允)の妻「木戸松子」も有名。西郷隆盛が奄美大島に流されたおり、愛加那(あいかな)との間にもうけた子供西郷菊次郎(後に京都市長)がいる。同じく妹に大山誠之助(大山巌の弟)の妻となる菊子(菊草)がいる。何れも明治の元勲たちは青春時代は明日も知れぬ身なので、愛人の出自には拘らない様であった。似たタイプに大田朝敷がいる。大田は連れあいに旅館を運営させている。旅館と似た業種に「料理屋・飲食店」がある。


1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。1872年9月に琉球藩が設置されると川崎正蔵も戸籍寮の根本茂樹らと来琉し沖縄物産調査を行った。川崎は「日琉間に郵便定期航路を開き、武断政策よりも経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島密に認められた。この年に名妓小三が鳥取藩士松田道之(後の琉球処分官)と祇園下河原の大和屋お里との間に生まれている。


1875年(明治8)年に来琉した河原田盛美の『琉球紀行』に「写真は既に垣田孫太郎なるもの創めたれとも之を内地に輸送せさるは亦全き利を得るに至らさるなり」とあり、垣田という鹿児島商人の手によって沖縄での写真屋は始められたが短命であったようだ。79年3月25日、琉球処分官・松田道之、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部、巡査160人余、熊本鎮台分遣隊400人来琉。島袋盛敏が「私の家は当蔵町のアダニガーお岳の下にあったが、仲宗根嶂山家も名護から引き上げてお岳の傍らに来た。私の隣人になっていたのである。そうして嶂山翁の長男真吉君と私は大の仲良しになり、毎日行ったり来たりして遊んだものだ。嶂山翁は初め沖縄県庁の役人や分遣隊の士官達の求めに応じて、絵を売り生活しておられたとのことであるがその需要がなくなったので、名護の教員になられたのであろう。しかし教員も長く続かず再びアダニガーお岳の傍らに落ちつかれたものと見える」と述べているように、当時の画家の友寄喜恒、阿嘉宗教、佐渡山安豊、麻有信・儀間親雲上、兼城昌興、比嘉華山などは沖縄県庁や分遣隊の士官達の求めに応じて首里城や沖縄風俗絵を描いていたようだ。





仲里コレクション「友寄喜恒」
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司馬江漢写(?)



兼城昌興



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1879年2月 渡邊重綱『琉球漫録』小笠原美治

1893年6月1日に笹森儀助が陸奥丸で那覇港に着く。港には朝日丸、信濃丸も停泊。西村浅田五三郎方に投宿
1894年5月ー笹森儀助『南島探検』
□漢那氏曰く那覇3千の娼妓なるものは各間切より出ずる所概ね年齢は9歳より13,4歳以下の女児とす當初上等は大凡身売代は金160圓位にして以下は7、80圓に至る一昨年頃は国頭地方より該地間切にて両3名を出したるも今日は一人も有るなし而して中頭島尻両地方より出すものは本間切美里19ヶ村30人位越来間切10ヶ村60人位読谷山16ヶ村北谷10ヶ村中城23ヶ村浦添14ヶ村具志川15ヶ村西原、佐敷、大里、南風原、眞和志、小禄、豊見城諸間切より最多く出すものとす但し人身売買禁止の令發せらしより其名目を改めたるも内実は依然旧を改めず」




現時点で見られる沖縄写真屋の最初の広告は、1895(明治28)年の『袖珍沖縄旅行案内』所載の「岩満写真場ー那覇東村上の倉」で後の上之倉写真館である「那覇東村上の倉・岩満写真場「写真ー琉球絶景の眞趣を穿つは写真なり弊店写真中優等なる者は首里城、中城殿、師範学校、崇元寺、波の上、墓所、辻遊廓、市場、通堂浜、那覇市街、吾妻館、奥武山、港口、三重城中島海岸、蓬莱山なり琉球の眞景を知り度き人は続々御注文を乞う」とある。この沖縄旅行案内には旅店遊廓及び割烹店も紹介されている「遊廓ー辻を第一とし中島渡地之に次ぐ辻にて」有名なるものは荒神の前大福渡名喜伊保柳香々小新屋染屋小等とし又内地芸妓を養ひ宴会の席に侍せしむる所を通堂とし辻中島渡地を通じて貸座敷631戸娼妓1442人芸妓辻9人中島4人又通堂の貸座席兼割烹店は東屋芸妓21人を有し常盤芸妓9人小徳芸妓10人海月3人合計46人」、演劇場は「本演芸場中毛演芸場壬辰座及び首里演芸場等なり開場は毎日午后2時より6時半より12時迄木戸銭は晝四銭夜三銭場代とてはなし」とある。同書発行5年前の1890年『沖縄県統計』を見ると写真師のところに那覇2人となっている。






1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図会』東陽堂
『風俗画報』は1889年に創刊された。出版元の東陽堂は1876年、東京日本橋で吾妻健三郎によって創業された。後に吾妻と同郷(山形米澤)の縁で渡部乙羽が入社する。乙羽は後に出版社博文館の婿に入るまで『風俗画報』に健筆を揮った。1889年には沖縄県七等属の石沢兵吾が東陽堂から『琉球漆器考』を刊行した。




「料理屋・飲食店」の歴史をみる。1879年5月4日の『西京新聞』は「那覇に料理店、茶店の向は一ヶ所もなし」とある。料理屋、芝居は警察の管理下にあるので統計がある。1889年、那覇の料理屋ー海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤などがある。90年、料理屋・飲食店ー那覇39軒、首里6軒。91年、料理屋・飲食店ー那覇63軒、首里9軒、名護2軒、渡久地1軒。92年、料理屋・飲食店ー開業48軒、廃業15軒。93年、寺内某が来県、料理屋「東家」(後の風月楼)の協力をえて琉球芝居の俳優、囃子方らを雇い関西興行をなす。94年3月9日『国民新聞』「沖縄農民は4食にして唐芋と云う甘藷、豆腐、味噌汁および豚肉らはその常食にして魚類、米、粟、豚脂に揚げ たる麦粉らこれに次ぐ。そのほか蘇鉄、椰子あり。料理には大概豚脂を用ゆ」、料理屋・飲食店ー那覇144軒、首里47軒、宮古10軒、八重山6軒。95年、料理屋・飲食店ー那覇171軒、首里62軒、宮古14軒、八重山8軒。96年、台湾領有で那覇の主な料理屋、台湾に移る(いろは亭、玉川屋などは残る)。99年、名護に料理屋5軒、仕出屋2軒。那覇南洋堂「食パン」販売。宮里松、大門前通りで蕎麦屋を開業(日本そば)。1900年、那覇「りん寿司」改良すしを始める。楢原鶴吉「東家」を譲り受け、大阪より料理人を雇いいれる。那覇「鶴屋」練羊羹・カステラ・メリケン粉販売。那覇「住吉屋」牛すき焼き8銭、鳥すき焼き12銭、すし7銭。那覇「紅屋」茶碗蒸し、すし、かまぼこ、牛肉、鳥肉販売。01年12月、高等女学校及師範学校女子講習科が料理科を新設し和洋の料理法を実習、費用は自弁。02年4月9日、福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑下りに「支那そばや」開業。 


太田朝敷とジュリ芝居
真境名由康がある座談会で「初めは、全部女、女郎のいい年頃の、それ達がやっているんですよ。雑踊りなんかやって、肉襦袢ですね。あれ着けて、裸みたいでやったような話がありますね。あの時に、ちょっと変わった話がありますよ。その時に、太田朝敷さんが、そこの事務員で、庶務会計で、それがもう妙な話ですよ。警察方面との交渉とか、いちいち太田先生が引き受けてやっておったそうですよ。いろいろ首里の方々から苦情を言われて終い、『あんたはジュリの使い者になって』と叱られて、それから東京に行くようになったそうですよ。」「それじゃ、私はおいとまして、皆の言葉に従って東京に行き、研究して来るからと言って、手元から太田先生は謝礼を受け取って計算もせずに、すぐお菓子を買わして、皆に配分して、別れをしたと云う話が残っています。」と証言。大田は1900年4月 『文芸倶楽部』の「琉球の遊廓」で、「本誌第六巻第四編にある、琉球遊女の写真中、立姿のものは、辻の香々小と云う妓楼の、乙と云うて、頗る付の美人だ、或る内地の歴々が彼女を見て、流涎三千丈であったというが、これは強ち無理でもない、で彼の写真を見るにつけて、日本中外に類のない、琉球遊廓の状態が、ありありと胸に浮かぶのだ、そこで三つ四つかわりたる風習を書く気になった。・・・」と述べている。
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2011年11月15日『琉球新報』

1903年3月ー「学術人類館」開館

1910年8月9日ー馬山丸で第2観光団(70人余)の一人、松村梅叟(京都市立絵画専門学校生徒)来沖
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1908年5月 菊池幽芳『琉球と為朝』

1910年5月15日ー『日本及日本人』第573号 碧悟桐「那覇での社会問題として第一に指を屈せられるべきものは辻遊郭である」
麦門冬と河東碧梧桐
1984年12月発行の『琉文手帖』「文人・末吉麦門冬」で1921年以降の『ホトトギス』の俳句も末吉作として収録した。これは別人で熊本の土生麦門冬の作品であるという。土生麦門冬には『麦門冬句集』(1940年9月)があった。1910年5月、河東碧梧桐、岡本月村が来沖したとき、沖縄毎日新聞記者が碧梧桐に「沖縄の俳句界に見るべき句ありや」と問うと「若き人には比較的に見るべきものあり其の中にも麦門冬の如きは将来発展の望みあり」と答えたという。


1911年7月27日『沖縄毎日新聞』麦門冬「忘られぬ華國會」
華國翁は本県が琉球王国であった時代に生んだ最後の丹青家の一人である。即ち琉球王国が生んだ画家の一番末の子である、そして日本帝国の一部たる沖縄県が旧琉球から引継に譲り渡された一の誇りたるべき美術家の一人である。これだけでも私は華國會に臨んで私に希望と自信とを感せしむるに充分であるが、その上に私は華國翁と同じ字に生まれ幼年時代から其顔を知っていて華國翁というえらい画家は私の頭に古い印象を留めていると云ふ関係もあるから今度の華國會の席上に於いて私の肩身に猶更に広くならざるを得ない。私は南香主筆から今日華國會が若狭町の山城(正忠)医院で開かれるそうだから君行って見ないかと云はれた時にも私は疾うに行くと云ふことを極めてる様な気分で社を出てた。(略)私は小さい時から絵が大好きであった、探幽①とか雪舟②とか趙子昂③とか自了とか云ふ名は私の耳には音楽のような囁きとなりそれからこれ等の名家に対する憧憬の念は私の頭に生長して段々大きく拡がっていって私自身が遂に雪舟になりたい探幽になりたいと云ふような空想をなした時代もあったがそれはすぐに或事情の為に打ち消されてしまったがそれでも猶私にはこれ等の名家の残した作物に対する憧憬崇重の念はやまない。何とかしてこれ等の名画を私の手に入れて、私がそれと日夕親しまれるようになって見たいと思ったこともある。今でもやっぱり思っている。・・・

麦門冬が、私は華国翁と同じ字というのは首里は儀保村のことである。1960年10月の『琉球新報』に中山朝臣が「麦門冬作の『儀保の大道や今見れば小道、かんし綱引きゃめ儀保の二才達』を紹介。儀保は平地に恵まれ『儀保大道』は首里三平でも自他共に認められた大通りであった。この村の二才達(青年達)は総じて磊落、飲み、食い、歌い、踊り傍若無人の振舞で鳴らしたものである。したがって儀保村の綱引きは道路と二才達の心意気に恵まれて荒っぽい綱として有名だったという」。朝臣は11月にも麦門冬が那覇泉崎で愛妻を失って『無蔵や先立てて一人この五界に、酒と楽しみることの恨めしや』も紹介している。サンシンをひくジュリの狂歌には仲浜政摸の「尾類小たが弾ちゅる三味線の音や客すかち銭小(じんぐわ)とてんとてん」がある。遊女よしやの歌「新はぎの御船に嘉例吉の乗り主、夜べの夜はらし波も静か」と夜船する処女航海を、すらすらと歌としている。(中山朝臣1960年)

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1912年1月8日『琉球新報』「遊廓富者物語(1)」/「謹告・琉歌集、本月15日までに代金引換 富川盛睦」
1912年1月9日『琉球新報』「風月愛子さんの手練(上)


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1912年1月17日『琉球新報』「美人投票規定」

1912年1月18日『琉球新報』「美人投票得点」


1912年1月19日『琉球新報』「美人投票得点」「当選美人へ寄付ープラチナ引伸ー1等2等3等各1枚宛 久米 吉村写真館/名人画帳 某氏」
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1912年1月20日『琉球新報』「美人投票得点」
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1912年2月3日『琉球新報』「美人投票得点」「本社美人投票賞品」

1912年2月29日『琉球新報』「美人投票本日締切り」


1912年3月2日『琉球新報』「美人投票ー賞品目録」

1912年3月4日『琉球新報』「美人投票の状態」「尾類馬」


1912年3月8日『琉球新報』「本日の尾類馬」

1912年3月9日『琉球新報』「昨日の尾類馬」


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1950年4月 『おきなわ』創刊□巻頭言ー1950年 この新しい年を迎へて、我々沖縄の者は、講和条約に対する希望の光を期待し、昨年までの宙ブラリンの気持ちを一掃出来ると予想したのであったが、近頃は又、国際情勢が微妙複雑に変化しつつあるように見受けられる、夢の中の物の形の様に、形をなすが如くしてなさず手に取れるようで届かないのが講和条約であり、沖縄の帰属問題であらう。まことに、悲喜交々到るの態であるが、所謂『二つの世界』②の醸出す空気が決めることであり、我々は、沖縄の人間は、能の無い話であるが、その時が来るまで待つの外仕方の無い事であらう、『その時』が来るまで我々沖縄人は充分に智識を蓄へ、心を澄まして待つ可きであらうし、その間に、歴史をふり返り新しい沖縄の立上りに備へ、心を戦前の豊かさに立戻らせるなど、感情の整理、感覚の研磨を完了して晴れの日を待つ準備が必要であらう、私達のこのささやかな小誌が、これ等の心の立直りに幾分でも役立つことが出来れば幸である。希くば私達の微力に、諸賢の鞭撻と教示を加へて下さらん事を祈ります。これが私達の小さな野心、大きなのぞみである。

②第二次世界大戦後の世界を二分した、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造は「冷戦」という。1945年から1989年までの44年間続き、アメリカ合衆国とソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。


1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会「佐久本兼朗」

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1945年8月、国吉真哲・宮里栄輝・源武雄が早く帰還できるよう「県人会」結成を相談。宮里栄輝、熊本沖縄県人会長になる。/女子挺身隊救済で尼崎沖縄県人会結成。
      9月、松本三益が比嘉春潮を訪ね、伊波普猷を代表に推し「沖縄人連盟」結成を相談。
      11月11日、沖縄人連盟創立総会。総務委員・伊波普猷(代表)、大浜信泉、比屋根安定、比嘉春潮、永丘智太郎
      11月26日、関西沖縄人連盟創立大会。代表・豊川忠進、兼島景毅、井之口政雄  参加・良元村(のち宝塚)、神崎川、城東、泉州、堺、和歌山の県人会
      11月、九州沖縄県人連合会結成。大分、熊本、宮崎、鹿児島の沖縄県人会が参加。会長・真栄城守行     
      12月6日、沖縄人連盟機関紙『自由沖縄』第一号(比嘉春潮)
1946年1月26日、中央大学講堂で沖縄学生会発足、会長・山川武正、評議員・上地栄、神村朝堅、金城和彦
      1月28日、関西沖縄人連盟大会(尼崎難波自由市場内)徳田球一を招く。
      2月24日、日本共産党第五回党大会「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」
      3月、『関西沖縄新報』創刊
      4月1日、沖縄人連盟(沖縄大島人連盟)関西本部結成大会。会長・幸地長堅 副会長・翁長良孝、大江三子雄、大山朝繁、宮城      清市、屋良朝陳
      4月、関西沖縄青年同盟結成大会。委員長・大湾宗英  顧問格・高安重正  執行部・屋良朝光、山田義信、高良武勇
      8月4日、沖縄人連盟兵庫県本部結成大会。会長・大山朝繁  副会長・赤嶺嘉栄①、安里嗣福、大城清蓮  書記長・上江洲久
①空手家・赤嶺嘉栄
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写真ー前列左から友寄英彦実行委員長、平良良松那覇市長、比嘉佑直保存会長。後列左から備瀬政太郎経民部長、前田武行助役、稲嶺成珍助役、赤嶺嘉栄審判長。→2001年12月 『那覇大綱挽』那覇大綱挽保存会

空手の人物事典や上地流の本を見ると赤嶺嘉栄が出てくる。沖縄人連盟史関連にも名前が出てくる。その沖縄人連盟では赤嶺が中心となりヤクザ鴻池組系井上組に抗議している。また又吉世喜(1975年)や喜舎場朝信(1977年)の葬儀に、宮城嗣吉と共に友人代表のひとりに名をつらねている。また赤嶺の葬儀のとき友人代表のひとりとして東京の万年東一の名がある。万年は横井英樹銃撃事件で知られる安藤昇の親分である。
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写真ー赤嶺嘉栄
万年東一の名刺/安藤組組織図、上の方に万年東一の名がある。

1947年2月、大阪で「沖縄青年同盟」結成大会(全国組織)。中央執行委員長・仲宗根仙三郎、副委員長・大田直治(関東)、宮城春潮(中京)、宮城清市(関西)、山城善貞(兵庫)、具志清雲(九州)、顧問・高安重正
1947年3月、沖縄学生会、沖縄人連盟から離脱して沖縄学生同盟に改称
1947年8月15日、沖縄人連盟総本部部長会議で沖縄文化協会設置を決定、会長格・宮良當壮
1947年11月、沖縄青年同盟準機関紙『沖縄タイムズ』創刊。


1947年12月、駒場の日本民芸館で「沖縄民藝展覧会」、沖縄文化協会「沖縄文化記念講演会」
1947年12月に柳宗悦氏がその駒場の民芸館で沖縄民芸展覧会を開催した時、宮良氏に連絡があって沖縄文化記念講演会を一緒に開くこととなり、「沖縄語と日本語の関係」(宮良当壮)、「沖縄の歴史と文化」(東恩納寛惇)の講演があった。この時柳氏から文化協会の講演会を定期的開く提唱があり、その斡旋を宮良氏がすることになった。1948年の4月から毎日第一土曜日に民芸館で講演会を開いた。9月、沖縄連盟から離れて独自の沖縄文化協会に改組。比嘉春潮、仲原善忠、島袋源七、金城朝永、宮良当壮の5人が運営委員となり、仮事務所を比嘉春潮の所に置いて発足した。

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この新しい沖縄文化協会が出来ると私(比嘉春潮)は自ら進んで、会報『沖縄文化』の編集、印刷、頒布を引受け、その第一号を1948年11月1日に出した。『沖縄文化』はタブロイド半截判4頁、誌名に「沖縄文化協会会報」の肩書を加え、毎月1日発行とした。内容は会の主張・研究ものに文化ニュース(又は文化だより)等を載せた。→沖縄文化協会『沖縄文化叢論』(法政大学出版局1970年5月)

沖縄文化協会の人びとー右から仲原善忠、伊波南哲、比嘉春潮、宮良当荘、金城朝永、志多伯克進、東恩納寛惇、神村朝堅、柳悦孝


1948年1月21日 沖縄青年同盟準機関紙『沖縄タイムズ』第二号




1948年3月15日『沖縄タイムズ』第3号

1950年4月 『おきなわ』創刊□巻頭言ー1950年 この新しい年を迎へて、我々沖縄の者は、講和条約に対する希望の光を期待し、昨年までの宙ブラリンの気持ちを一掃出来ると予想したのであったが、近頃は又、国際情勢が微妙複雑に変化しつつあるように見受けられる、夢の中の物の形の様に、形をなすが如くしてなさず手に取れるようで届かないのが講和条約であり、沖縄の帰属問題であらう。まことに、悲喜交々到るの態であるが、所謂『二つの世界』②の醸出す空気が決めることであり、我々は、沖縄の人間は、能の無い話であるが、その時が来るまで待つの外仕方の無い事であらう、『その時』が来るまで我々沖縄人は充分に智識を蓄へ、心を澄まして待つ可きであらうし、その間に、歴史をふり返り新しい沖縄の立上りに備へ、心を戦前の豊かさに立戻らせるなど、感情の整理、感覚の研磨を完了して晴れの日を待つ準備が必要であらう、私達のこのささやかな小誌が、これ等の心の立直りに幾分でも役立つことが出来れば幸である。希くば私達の微力に、諸賢の鞭撻と教示を加へて下さらん事を祈ります。これが私達の小さな野心、大きなのぞみである。

②第二次世界大戦後の世界を二分した、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造は「冷戦」という。1945年から1989年までの44年間続き、アメリカ合衆国とソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。



1952年9月 『おきなわ』第31号○おきなわ社ー東京都中央区銀座西2-3に変わり、発行人に中田匤彦(第一物商株式会社社長で、女優の大空真弓の父)。神村朝堅は編集人

中田匤彦(大空真弓の父)ー『おきなわ』第39号から第41号まで森英夫(遠藤朝英)が伝記を書いている。

『青い海』2号に紹介された遠藤朝英・医学博士


1966年 沖縄タイムス社『現代沖縄人物3千人』

大空真弓 おおぞら-まゆみ
1940- 昭和後期-平成時代の女優。
昭和15年3月10日生まれ。昭和33年新東宝に入社,「坊ちゃん天国」でデビュー。その後東宝の「駅前」シリーズなどに出演。39年テレビドラマ「愛と死をみつめて」が大ヒットし茶の間の人気者となる。舞台では「黒蜥蜴(くろとかげ)」などに出演。東京出身。東洋音楽高(現東京音大付属高)卒。本名は中田佐智子。


『オキナワグラフ』1960年1月号の表紙を飾った大空真弓/同号に「僕は特派員」に新川明、石野朝季、島袋俊一らが登場する。



1954年11月 仲地吉雄『憂愁の郷土沖縄を想う』おきなわ社
1955年12月1日ー沖縄市町村長会『地方自治七周年記念誌』□印刷・琉球新報社 □デザイン安谷屋正義 □編集ー比嘉春潮、伊豆味元一、神村朝堅

1956年7月  宮城鉄夫顕彰会編『宮城鉄夫』おきなわ社
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平成13年10月 『顕彰記念誌 宮城鐵夫先生』同顕彰記念事業期成会(BOOKSじのん在庫)


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1956年8月ー『琉球民謡集』おきなわ社(神村朝堅)

1956年8月 島袋盛敏『琉球芸能全集1 琉球の民謡と舞踊』おきなわ社(中田匡彦)□琉球芸能全集編集委員ー比嘉春潮、島袋盛敏、山内盛彬、伊波南哲、山之口貘、高嶺朝盛、神村朝堅





1956年11月 島袋全発遺稿刊行会編『島袋全発著作集』おきなわ社

1957年12月 大里康永『謝花昇伝 沖縄自由民権運動の記録』おきなわ社

1957年12月 太田朝敷『沖縄県政五十年』おきなわ社
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1974年7月31日『琉球新報』津野創一(月刊「青い海」編集人)「おち穂ー雑誌二題」
○ぼくの、風変わりな友人の一人である新城栄徳君が、例によってひょっこりやってきて「これ、あげます」と言って、一冊の雑誌を置いてひょう然と帰って行った。ザラ紙の、30ペ-ジほどの冊子「おきなわ」創刊号である。昭和25年4月の発行だから、24年ほども前の、紙の事情もまだわるいころのものだ。発行所が東京になっていて、広告が、当時の在京県人の経済活動を問わず語りに語る。
巻頭言には、講和前の沖縄の帰属問題を憂う在京県人の気持ちをうつして「その時が、来るまで、県人の心の立ち直りに資する」ために発行した、とはっこうの趣旨がうたってある。その時は、翌年9月にやってきて、対日平和条約は沖縄を日本から切り離すことを明文化して調印された。残念ながら、その時の周辺の「おきなわ」は手元にない。しかし、おそらくは在京県人を中心として、郷土沖縄をうれう声が全ページに盛られているだろう、と想像する。
数日後、再びひょっこりやってきた新城君は、「おきなわ」が30号ほど続いたこと、したがって「青い海」が沖縄の月刊誌としてやっとのことで最長不倒記録?をつくったことを伝えて、ひょう然と帰っていった。ぼくたちが、ささやかな月刊雑誌の発行を思いたったのが70年の暮れだった。以来、いくつかの危機と分裂と業務不振などの曲折を経て、いま沖縄の郷土月刊誌「青い海」は8月号で35号を数える。「その時」にそなえたものではなかったが、復帰というその時を境に、編集の方向も少しずつ変わっている。「こころの立ち直りに資する」ほどの自信はないけれども、沖縄をともに語らい続けようというのが、発行人の山城賢孝とぼくと、スタッフの心意気である。
「それにしても、24年前に『おきなわ』をつくった先輩たちを、何ほどものりこえてはいませんね」。ひょっこりやって来た新城君のひょう然と帰る前の捨てゼリフである。ナイーブなぼくは、著しく傷つき、そのことばの鉄ついにうちひしがれて、気恥ずかしさから、沖縄と東京と大阪をせわしく立ち回る”いちむどぅやー人生”に埋没する。新城君はぼくの友人である。新城君は「ぼくは『青い海』の友人」なのだ、という。

1997年8月ー『敍説』新城栄徳「雑誌『おきなわ』総目次」

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雑誌『おきなわ』

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島嶼県である沖縄には地域の特色あふれたミュージアムがいくつもあります。それぞれの館で行われているプログラムからみえてくる地域との関わり、教育普及の立場から島のミュージアムに必要とされている可能性を探ります。
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柳光観
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               写真右から上原誠勇氏、新城栄徳、佐久田繁氏、鈴木当志子




2014年2月25日ー左が鈴木礼公氏、島袋さん

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2014年3月2日 新城栄徳、鈴木当志子さん、小林純子さん
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昨年暮れ、沖縄県立博物館・美術館指定管理者の「文化の杜共同企業体」から今年5月に開催される企画展「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した“美”」の図録に末吉麦門冬と鎌倉芳太郎についての原稿依頼があった。奇しくも今年11月25日は末吉麦門冬の没後90年で、展覧会場の沖縄県立博物館・美術館に隣接する公園北端はかつて末吉家の墓があった場所である。加えて、文化の杜には麦門冬曾孫の萌子さんも居る。私は2007年の沖縄県立美術館開館記念展図録『沖縄文化の軌跡』「麦門冬の果たした役割」の中で「琉球美術史に先鞭をつけたのは麦門冬・末吉安恭で、その手解きを受けた一人が美術史家・比嘉朝健である。安恭は1913年、『沖縄毎日新聞』に朝鮮小説「龍宮の宴」や支那小説「寒徹骨」などを立て続けに連載した。そして15年、『琉球新報』に『吾々の祖先が文字に暗い上に筆不精(略)流石は朝鮮で支那に次ぐ文字の国ではある』と朝鮮の古書『龍飛御天歌』『稗官雑記』などを引用し、『朝鮮史に見えたる古琉球』を連載した。

 画家の名は音楽のように囁くー末吉麦門冬
安恭の琉球風俗にふれた随筆は1915年の『琉球新報』「薫風を浴びて」が最初であるが、美術評論を試みたのは1912年である。第6回文展に入選した山口瑞雨作「琉球藩王」を見た安恭は『沖縄毎日新聞』で「王の顔に見えた表情は無意味であり無意義である。冠がどうのといっては故実家の後塵を拝するに過ぎない。作者が琉球と目ざす以上はもっと深く強く琉球人の歴史、民情、個性を研究してから筆を執らねばならなかった」と酷評。しかし長嶺華国に対しては「翁の存在は私に希望と自信と栄誉とを載せしむるに充分である」と理屈抜きで讃美している。1983年1月、鎌倉の畢生の著『沖縄文化の遺宝』(岩波書店)が第10回伊波普猷賞を受賞したとき、鎌倉は談話として「沖縄美術や沖縄文化の手解きを私にしてくれた偉大な文化人、末吉安恭氏にふれたい。末吉氏に出会わなかったら、この本は世に出なかったかもしれません」と述べている。


麦門冬を一言で説明すると、鎌倉芳太郎(人間国宝)が『沖縄文化の遺宝』の中で「末吉は俳諧を能くして麦門冬と号し、学究的ではあったがその資質は芸術家で、特に造形芸術には深い関心を持ち、琉球文化の研究者」であると述べたことに尽きる。鎌倉は続けて麦門冬の分厚い手の感触を懐いながら「この(琉球美術史)研究のための恩人」と強調しているように、鎌倉は『沖縄文化の遺宝』の殷元良のところで鎌倉ノートには記されてないが次のように補足、「末吉は更に加えて、孫億、殷元良の如き画の傾向は、此の時代において、東洋絵画として、南中国閩派琉球絵画の独自の伝統として、大いに尊重すべきであるのに、深元等がこれを軽んじているのは、一つには尊大なる薩摩人の性格からであり、一つには徳川幕府の御用絵師狩野の流派を守る者として、その画風や主義の相違から来ている、例えば雲谷派の簫白が写生派の応挙を評するに似ている、という。末吉も探元の酷評に腹の虫がおさまらなかったようである。」と、麦門冬の芸術家としての側面を表している。

1911年7月27日『沖縄毎日新聞』麦門冬「忘られぬ華國會」


華國翁は本県が琉球王国であった時代に生んだ最後の丹青家の一人である。即ち琉球王国が生んだ画家の一番末の子である、そして日本帝国の一部たる沖縄県が旧琉球から引継に譲り渡された一の誇りたるべき美術家の一人である。これだけでも私は華國會に臨んで私に希望と自信とを感せしむるに充分であるが、その上に私は華國翁と同じ字に生まれ幼年時代から其顔を知っていて華國翁というえらい画家は私の頭に古い印象を留めていると云ふ関係もあるから今度の華國會の席上に於いて私の肩身に猶更に広くならざるを得ない。私は南香主筆から今日華國會が若狭町の山城(正忠)医院で開かれるそうだから君行って見ないかと云はれた時にも私は疾うに行くと云ふことを極めてる様な気分で社を出てた。(略)私は小さい時から絵が大好きであった、探幽①とか雪舟②とか趙子昂③とか自了とか云ふ名は私の耳には音楽のような囁きとなりそれからこれ等の名家に対する憧憬の念は私の頭に生長して段々大きく拡がっていって私自身が遂に雪舟になりたい探幽になりたいと云ふような空想をなした時代もあったがそれはすぐに或事情の為に打ち消されてしまったがそれでも猶私にはこれ等の名家の残した作物に対する憧憬崇重の念はやまない。何とかしてこれ等の名画を私の手に入れて、私がそれと日夕親しまれるようになって見たいと思ったこともある。今でもやっぱり思っている。・・・

麦門冬が、私は華国翁と同じ字というのは首里は儀保村のことである。1960年10月の『琉球新報』に中山朝臣が「麦門冬作の『儀保の大道や今見れば小道、かんし綱引きゃめ儀保の二才達』を紹介。儀保は平地に恵まれ『儀保大道』は首里三平でも自他共に認められた大通りであった。この村の二才達(青年達)は総じて磊落、飲み、食い、歌い、踊り傍若無人の振舞で鳴らしたものである。したがって儀保村の綱引きは道路と二才達の心意気に恵まれて荒っぽい綱として有名だったという」。朝臣は11月にも麦門冬が那覇泉崎で愛妻を失って『無蔵や先立てて一人この五界に、酒と楽しみることの恨めしや』も紹介している。




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昭和2年4月「鹿児島沖縄航路案内」

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昭和6年8月 「琉球舞踊古典劇公演会プログラム」

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昭和12年4月 島袋源一郎『琉球舞踊解説』

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2014年2月10日なるみ堂でー左・宮里朝光さん、翁長良明氏
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2013年12月のひより





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02/07: 創斗展

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ー明治未期の古本屋は呑気なものー


文教出版 神山社長
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緑林古書目録

2003年7月12日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー 書の森 人の網①」
「大宅壮一と沖縄」を話題に歓談
私は1971年の初め、西平守晴主宰する大阪・沖縄関係資料室で本格的に資料収集に取り組んだ。そのときの手引きが沖縄タイムス紙上に連載された崎原恒新「沖縄地方文学史」と新城安善「郷土のドギュメントを探る」で、それは知的好奇心を十分に満足させるものであった。以来、大阪・中之島図書館で新聞のマイクロフィルムや雑誌から「ウチナー」に関連する記事、広告を抜き出すことが習慣になった。

そこから分かったことを88年4月、緑林堂『琉球弧文献目録』6号に諸見里朝鴻、佐々木笑受郎、宮田倉太の顔写真を付けて「沖縄出版文化史ノート(戦前篇)」として、6月に『新沖縄文学』76号に「近代沖縄の新聞人群像」として発表した。これらを基に活字文化と人物を主にして話を展開していきたい。

資料室の西平守晴さんは石垣出身でいとこに西平守栄南西印刷社長がいたので印刷所に団体記念誌、機関紙・誌などをもらいに行った。その同郷の津野創一氏の『青い海』創刊に私も参加した。経緯については『沖縄を深く知る事典』に記してあるので割愛する。私は84年に『琉文手帖』で、「文人・末吉麦門冬」を特集した。86年、石垣市の旧家に嫁いでいる麦門冬の娘・石垣初枝さんの誘いをうけ初めて八重山に遊ぶ。この時は上江洲儀正氏がいろいろと案内してくれ竹富島まで言った。


左から石垣繁氏、比嘉政夫氏、武石和実氏





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山本森之助「首里の夕月」


大嶺信一「おんな」


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那覇市歴史博物館

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『琉球漫録』 (1879年 渡辺重綱 著) 資料コード:T00015795B より
著者の渡辺重綱は、同分遣隊の軍医として1878(明治11)年に沖縄に滞在しました。半年間の滞在中に見聞したことが『琉球漫録』にまとめらています。明治10年代の沖縄の実状を詳しく紹介しています。→沖縄県公文書館


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写真ー渡邊重綱
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○小説の裏ばなしーあれから十何年もすぎて、昭和十年、新垣美登子さんが、辻遊郭をテーマにして「花園地獄」の題で新聞小説を発表した。佳境に入って人気を博したが、男主人公を除かねば場面の展開が困難になった。美登子さんはその男の病気のことで相談に来たので、有島武郎と三木謙三博士の故智にならって引きうけることにした。まず、飲む、打つ、買うの三拍子の中年をすぎた男を半年位で死なせるには胃癌が適当と思い、診断、治療の舞台を県立病院にした。担任の医師はその一時代前に美青年で独身者として、若い娘達のあこがれの的だった仲地紀晃さんのイメージを浮きほりにした。(略)文章は美登子さんの自由表現で添削はあったが、病院に関する」ことはほとんど敷写しである。レントゲン影像の説明、幽門癌、そして方々にすでに転移が認められることなど。(略)東京の東恩納寛惇先生から新聞社の親泊政博氏に物言いがあった。「女だてらに辻の内面をかくとは汚らわしい。沖縄ではそんな″手合い"を女流作家というのか。」と。

その後、20数年がすぎ、戦後の沖縄を訪れた東恩納先生は、いとこに当たる新嘉喜家に滞在して、大勢の知人との久闊を喜び語っていた。そこへ美登子さんは女子大時代の保証人であった関係で挨拶に行った。″手合い"といわれた記憶もこの人には何のその、いっこうに通じなかったらしく、又先生も喜んで、明日「伊野波の石くびり」を訪ねるから連れて行くとおっしゃった。当日は親泊さんが車を提供して前にのり、弁当は料亭那覇のマダムが持参して後座席に先生を中心に二人の初老の女がのった。沿道では謝敷板千瀬とか、北谷の何とか、いろんな古歌の説明があり、時々感動して肩に手をかけたりした。いよいよ、  伊野波の石くびれ無蔵連りて昇るにやへも石くびれ遠さはあらな(読人しらず)の現場に着き、昇る時には二人の初老女を抱えるようにして昇った。


「伊野波の石くびり」の伝説取材で、後ろ右から金城清松、池宮喜輝、前右から上江洲文子、寛惇、新垣美登子



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松乃下で芳名録に記帳した東恩納寛惇(真喜志康徳所蔵)
○1978年5月「東恩納寛惇全集付報1」千原繁子「巷の細路にしてー私が東恩納先生を知らない時期の話に、多分大正3年頃のことであろう。久しぶりの帰省に友人が歓迎会を催した。ちょうど麻布で開業していた銘苅医師と二人の合同であった。会員が集まったので代表が迎えに行った。そこは西町の屋嘉家で、夫人の生家である。人力車に乗る段になって、「会場は」前のモウの三杉です」「辻じゃないか」といって出席することをにべもなく断った。これは屋嘉のお母さんに直接聞いた話である。主催者こそいい面の皮だったろう。こんな石部金吉は沖縄では通用しない。ずっと後になっての話であるが、辻での放談に「那覇であの世代で、結婚まで童貞だったと信じられるのは、東恩納のモーサーチー(童名)と、○○のケーケー(精薄)」といったとか。それを後輩のあけすけの男が、先生夫妻にしゃべってしまった。夫妻は腹を抱えて笑ったそうである。そしてその男を清涼飲料と名づけてある、と夫妻から直接聞いた。

(略)二女和代さん夫妻と同居して居られたが、和代さんの便りによれば、毎晩ビールを飲むので困る、注意すると山原の人のやっている飲み屋に行くようだとのこと、胸つぶれる思いがした。やっと1958年に後輩の乞いに応え帰郷の運びとなり、飛行場に降りると、故郷の土は残っているといって土に口づけしたい思いだったといわれた。宿舎は親戚の新嘉喜家で、入れかわり立ちかわりの訪問客、それに講演会と、寸暇もない有様だった。2時間の講演に一片のメモも持たずに、淀みなく年代までもすらすらと、音声のくずれもなく、知識に飢えていた聴衆は水を打ったようだった。私もこんな会は始めてであった。和代さんから、飲み過ぎを注意してくれと前もって頼みがあったので、夕食会で注意して見ていたら、ビール7本になってやっと帰る途中、「50年間も僕はひたすら打ち込んだよ。余生は少しくらい緩んでもいいんじゃないかな」と仰ったときは、涙がにじんだ。先生は数えの78歳であった。
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山入端つるー13歳のとき、姉たちが行っている辻に売られていった。






〇三木健「解題・近代沖縄おんなの生きざま」
関東で琉球芸能を普及ー疎開先での生活を切りあげ、東京に出ることにした。そのとき、つるの頭にひらめいたのは、やはり芸能のことであった。千葉から東京墨田区の平川橋に一戸を求めて住んだが、芸能の打ち合わせなどで川崎に出向くことが多くなり、居を同地に移す。1948年(昭和23)頃のことだ。

川崎や鶴見には戦前沖縄から工場労働者として出稼ぎに来た2,3千人がそのまま住みつき、一つの集落をなしていた。そこでは沖縄芸能も盛んだった。川崎における琉球芸能の歴史は、昭和2年に、阿波連本啓が「阿波連郷土舞踊同好会」の看板を掲げ、県出身者を集めてはじめたのが嚆矢といわれている。

戦後になって米須清仁らが中心となり、それに鹿児島に疎開していた野村流師範の池宮喜輝、舞踊の大家渡嘉敷守良らが加わり隆盛をみる。つるも渡嘉敷守良や池宮喜輝の両師範から古典を仕込まれた。つるは乞われて地方をつとめた。川崎沖縄芸能研究会が結成されたのもそのころのことである。

1948年3月、読売ホールで平良リエ子、児玉清子のコンビによる芸能公演が3日間にわたって開かれたときも、つるは地方をつとめた。(略)マッカーサー夫人の主催する会に招かれて、児玉清子の踊りの地方をつとめたことも忘れられない。また西崎流舞踊家元の西崎緑は渡嘉敷守良に弟子入りしていたが、琉舞を歌舞伎座で舞ったときも、つるが地方をつとめた。西崎はまたつるのよき理解者であった。

とにかくそのころは地方はほとんどおらず、つるは西へ東へと多忙な日々をおくる。こうした活動が認められ、つるは川崎市文化協会から感謝状をもらっている。沖縄芸能は全国でもめずらしく、1952年(昭和27)に川崎沖縄芸能研究会が川崎市の無形文化財に指定され、1954年には神奈川県が県の無形文化財に指定した。つるたちの活動が大きな支えとなっていた。


1957年ー山入端つる 東京新橋に琉球料理「颱風」開店

寛惇はつるの「三味線放浪記」を書いたあと、「このつぎは萬栄兄さんのことを書こうね。そして二つまとめて本にしようね」と話していたが、萬栄のことを少し書きかけたころに亡くなったのである。


□東恩納寛惇は1950年に、真栄田勝朗『琉球芝居物語』に序文を書いている。□さきに渡嘉敷唯錦君の辻情話が出た時に私は依頼によってひと通りその原稿に目を通した。ことごとく吾々の知見の及ばざる世界の噺ではあったが、吾々の同時代の社会生活の一面である以上、よかれあしかれ、誰かが引受けて記録しておかねばならないであろうと考えながら、せめては表題だけでも『青芝巷談』として見てはと提案したが、遂に採用されなかった。但し、序文だけは畠ちがいという理由で御免蒙りたい意中を先方で察して遠慮して呉れた。今度、真栄田君が芝居噺を書くと聞かされて、大方辻情話の姉妹篇であろうと考えていた。廻って来た原稿を一読すると、姉妹らしき処もあり、従姉妹らしき処もあり、血のつながりのある事だけは争えないが、それにしても、何処か知らぬ気質の違った点が見受けられた。(略)すべて臭い物には蓋をするがよい。蓋さえしっかりしておけば自然に消滅する。(略)然るに最後の結語に沖縄芸能の保存が古典劇と代表的舞踊とに重点を置くべき事、役者の教養を高むるべき事などを提唱した見識にすべてを見直し得難い風俗史料として江湖に推薦する。


□2014年1月25日昼ー高槻の平良リヱ子さん宅から息子が電話をしてきた。あけみと息子が遊びに行ったようである。平良さんも電話で「あけみさん、児玉清子さんに似ている」と言われた。帰りに、お土産(舞扇など)いっぱい貰ったという。あけみは山入端つるさんも訪問看護で会ったことがある。 


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1894年5月ー笹森儀助『南島探検』
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ささもりぎすけ【笹森儀助】 1845‐1915(弘化2‐大正4)
明治時代の探検家。弘前に生まれる。元弘前藩士。1870年(明治3)官吏となり,78‐81年青森県中津軽郡長。民権派に荷担する県令に反対して退官し,翌82年より約10年間,士族授産のため岩木山麓に農牧社を経営。90年創開の帝国議会を全日傍聴,国政に失望して91年西国を巡視した。翌年千島列島探検,93年沖縄・奄美諸島を踏査して国境の防備,辺境の社会改革等を提言した。94‐98年奄美の島司。95年薩南(さつなん)の10島を視察。 (コトバンク)

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2014年2月2日『沖縄タイムス』
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小野正路数十年前、那覇市史の照屋正賢氏から田山花袋『日本名勝地誌ー琉球之部』博文館(1901年12月)の凡例に「附録に載せたる歴史概説、及び言語は小野正路氏編纂の琉球紀要に負う所多し。付記して以て拠る所を明かす」という記述を教えられた。小野正路は兵庫県出身、1894年2月沖縄県師範学校教諭。1899年10月『琉球教育』第46号に「士気に就きて」の文章がある。これは小野が大分の師範学校教諭兼附属主事のとき書いたものの転載という。のちに広島県第三中学校校長に就任。









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写真左から本郷 清次郎氏、新城栄徳、城間栄市氏
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2010年7月3日『琉球新報』 先達たたえ献奏 琉球古典音楽野村流
顕彰碑前で「ぢゃんな節」「十七八節」を厳かに献奏する会員ら=2日、那覇市若狭の旭ケ丘公園内 琉球古典音楽野村流の4団体で構成する「野村流合同協議会」(國吉正康会長)は2日、那覇市若狭の旭ケ丘公園内にある琉球古典音楽野村流始祖先師顕彰碑前で「野村安趙師を始祖とする野村流先師の遺徳を偲(しの)ぶ会」を開いた。役員ら16人が出席して黙とうを捧げ「ぢゃんな節」「十七八節」を厳かに献奏し先人の偉業をたたえた。偲ぶ会は2008年から始まり3回目。毎年、野村安趙師の命日である7月2日に合わせて野村流音楽協会、野村流伝統音楽協会、野村流古典音楽保存会、野村流松村統絃会で構成する合同協議会が主催する。
 前日の大雨とは一転し晴れ渡った空の下、出席者は報恩の音色を響かせた。國吉会長は「文化庁も(琉球古典音楽を)高く評価し、郷土芸能の真価を認められている。海外へも普及し伝統を継承していきたい。先師への報恩と喜びの会としたい」とあいさつした。

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「二十日正月踊」のジオラマ