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Category: 04-書の森
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写真ー渡嘉敷唯信
渡嘉敷唯信(1910年~2002年1月17日逝去 二中14期・1928年卒 )「牛と雀」→那覇市『明治・大正生まれの作家たち』
沖縄県立二中(同期に当山堅一、山田有昴)を経て明治学院大学を卒業。独立美術研究所にて修業、小島善太郎に師事。1945年に独立美術会友、49年に自由美術会員、64年に自由美術退会し、70年より80年までの間に3回にわたって海外取材旅行をなす。



1985年3月 米城律・伊藝滋『石川正通追想集』石川澄子□渡ケ敷唯信(石川澄子は姉)「嘉納治五郎を救った話」

新川唯盛

「石垣」

「勝山の港」

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郷友会会長を離任した上原小一氏と前会長の上江洲裕寿氏

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新城粟国村長の挨拶

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ムンジュルー
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写真左からオキジム会長の新里有四郎氏、糸数信一32代郷友会長、新会長の与那城昭広氏

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写真左が粟国村教育長の伊良皆賢哲氏、粟国幼小中学校校長の島史生氏
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写真左が新里有四郎氏、レストラン宝楽の新城栄豊氏
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写真右が新里有四郎氏、郷友会副会長の玉寄貞一郎→「沖縄県 ウォーキング協会 応援団の紹介|健康おきなわ21」」


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右下に井筒屋の開業広告

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1994年2月21日、新聞で井筒屋の開業広告を見つけたので、井筒屋の話を聞きに浦添市のオキジム本社を訪ねた。新里有四郎会長、新里盛吉社長、新里有造氏が同席された。有造氏はライフル射撃で国場武三(こくば駐車場)氏とも知り合いだった。現社長はこの人の子息である。写真/オキジム会長室で、左から新里有四郎会長、新城栄徳

1995年6月ー『私の好きなすばやー物語』(資料提供・新城栄徳)ボーダーインク


2002年10月30日ーオキジム本社で左から、新里有四郎会長、玉寄貞夫氏(世界のそてつを守る会℡098-862-0906)、新城栄徳

『日清食品社史』「めんの系譜図」
台湾出身の安藤百福(あんどう・ももふく、1910-2007)は繊維業に携わり大阪へ進出。第二次大戦後の復興にはまず食事が大事と考え、食品加工・製塩などの事業を経て1948年(昭23)加工食品の輸出入・販売業の中交総社を設立。翌年サンシー殖産に改称、1958年(昭33)瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(チキンラーメン)を開発し、「日々清らかに豊かな味をつくる」との願いから日清食品に商号変更する。1971年(昭46)カップめんを発売開始、事業を多角化し海外へも発展する。当該社史は7章の本文と資料からなり、創業前史で安藤の生い立ちと即席めん開発を記述。口絵にめん食の文化史や製品・工場写真を多数掲載。[2008年(平20)持株会社日清食品ホールディングス設立、新たに即席めん事業の日清食品(株)が誕生]


〔大濱聡〕2019-3-30

1994年2月22日『琉球新報』「沖縄そば 明治40年ごろ独自の味定着 新城栄徳さん(44)が調査」


沖縄県立博物館・美術館Facebook2013 
明日10月17日は沖縄そばの日!
沖縄そばはいつごろ誕生したのか。この疑問を解明した人物がいる。「琉文21」を主宰する新城栄徳さんである。今から19年前(平成6年)の新聞紙上で沖縄そばのルーツを見事に解き明かしている。新城さんは、明治31年から大正11年までの新聞・雑誌の広告を丹念に調べあげ、明治35年4月9日付けの琉球新報に「支那そばや」の開店広告を発見する。但し、同そば屋は清国より料理人を招いて「支那そば」を売り出しているので、まだ沖縄そばと呼べる代物ではない。
では、支那そばから沖縄そばに進化するのはいつごろか。新城さんは、明治40年に那覇の前之毛で福州の料理人を雇う「観海楼」と地元の「比嘉店」が客の争奪戦をして、比嘉店が勝利をおさめたという記事に着目する。つまり、この頃には沖縄そばとしての味が一般に定着していたのではないかというのである。さらに、「不勉強屋」の広告でも分かるように、和田那覇署長が「琉球そば」と呼ぶように指示。かくて明治末から大正期にかけて、我が愛すべき県民食は誕生したのだ。
同記事は「(沖縄そばの)由緒を正確にする必要がある」という新城さんの言葉で結んでいる。嗚呼、沖縄そばよ! 汝はかくもナゾ多き食い物であったか・・・。まーさいびたん!(M.K:M.K)

5月8日『琉球新報』「戦後50年きょうから明日へ 沖縄そば」


あぐに/沖縄そば
1879年5月4日         『西京新聞』「那覇に料理店、茶店の向は一ヶ所もなし」
1889年              那覇の料理屋ー海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤など。
1890年              料理屋・飲食店ー那覇39軒、首里6軒
1891年              料理屋・飲食店ー那覇63軒、首里9軒、名護2軒、渡久地1軒
1892年              沖縄県の料理屋・飲食店ー開業48軒、廃業15軒
1893年              寺内某が来県、料理屋「東家」の協力をえて琉球芝居の俳優、囃子方らを雇い関西興行をなす。
1894年3月9日         『国民新聞』「沖縄農民は4食にして唐芋と云う甘藷、豆腐、味噌汁および豚肉らはその常食にして魚                     類、米、粟、豚脂に揚げ たる麦粉らこれに次ぐ。そのほか蘇鉄、椰子あり。料理には大概豚脂を用ゆ」
                   料理屋・飲食店ー那覇144軒、首里47軒、宮古10軒、八重山6軒
1895年              料理屋・飲食店ー那覇171軒、首里62軒、宮古14軒、八重山8軒。
1896年              台湾領有で那覇の主な料理屋、台湾に移る(いろは亭、玉川屋などは残る)
1899年              名護に料理屋5軒、仕出屋2軒。那覇南洋堂「食パン」販売。宮里松、大門前通りで蕎麦屋を開業(日本そば)
1900年              那覇「りん寿司」改良すしを始める。楢原鶴吉「東家」を譲り受け、大阪より料理人を雇いいれる。那覇                     「鶴屋」練羊羹・カステラ・メリケン粉販売。
                   那覇「住吉屋」牛すき焼き8銭、鳥すき焼き12銭、すし7銭。那覇「紅屋」茶碗蒸し、すし、かまぼこ、牛肉、鳥肉販売。
1901年12月          高等女学校及師範学校女子講習科が料理科を新設し和洋の料理法を実習、費用は自弁。
1902年4月9日      福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑下りに「支那そばや」開業。 
1915年6月           「不勉強屋」支那そばを琉球そばと表示(和田那覇暑長が指示)

1920年10月16日-新里有一郎「井筒屋」(琉球そば)開業
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1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業



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宮城久隆「関西の人々」



1960年1月『今日の琉球』弟4巻第1号


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私はこれより各時代に於ける言葉の、沖縄語と同じく、若しくは似ている所のものを時代順に挙げて、沖縄語は日本語なりと云ふ証拠を示したい。先づ奈良朝時代の言語を代表するものとして、萬葉集から抜き出して見やう「わがききし耳によくにるあしかひのあなへくわかせつとめたふべし」のあなへくは、びっこひくと云ふ意味で、即ち沖縄語のなへぐに當る。「葦北の野坂の浦に船出してみ島にゆかむ波立つなゆめ」のなゆめは現に吾等が日常使用している「あんしなゆみ、かんしなゆみ」のなゆみと同じ意味である。沖縄語に心元ないと云ふことを「くくてるさ」と云ふが其の語源はわからない、茲に萬葉にこれと似た言葉がありはあるが、まだそれが直ちに同一のものであると云ふことは断定が出来ない。「春日山かすみたなびきこころくくてれる月夜に独かもねむ」のこころくくは心憂くの意であると解され、てれるは月夜にかかるものとすれば「こころくくてれる」と「くくてるさ」と一緒にすることは出来ないが、唯こころくくくくくくてるさくくは同一であるとしてもよい。


1923年2月 沖縄県立図書館『図書館報』

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2004年2月14日ー『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑯」(追記)
□(略)先月は舅・金城宏次の85歳(申年)生年祝が読谷であった。楚辺公民館で合同、自宅では孫20人に囲まれ盛会に終わった。舅の祖父英三は旧藩時代、福建省を往来したことがあり、その父は読谷山間切最後の地頭代としてつとめた。舅の父・金城三平は沖縄県国頭郡各間切島組合立農学校(後の県立農林学校)の2期卒業、同期生に前川亀助、宮城久保、宮里貞寛、中村権五郎らが居た。1期にカキ王と云われた宮城新昌が居る。卒業生が海外雄飛でアメリカやハワイに渡航するなか、三平は読谷で教員をつとめた。地元で信望があったが早逝した。

舅は尋常高等小学校卒業後、上阪。福田自動車の製造工、昭和15年、自動車運転免許を取得。同年に西淀川区で徴兵検査で甲種合格。昭和16年1月10日、熊本西部二十四部隊(輜重兵第六聯隊)自動車隊に入隊し、半年間の教育修了後、東シナ海を経て上海に到着。独立自動車部隊・独立輜重自動車隊、更に輜重兵第二十二聯隊(原第七九三八部隊)に転じた。杭州の西湖近くに駐屯した。尾崎秀樹『西湖のほとり』に「西湖の孤山には乾隆帝の『四庫全書』を納めた文瀾閣があった(略)西湖の地はマルコポーロも足をとめているし、日本の空海もはるばるこの地を訪れている」とある。舅がかの地で戦死していたら20人の孫たちは存在しなかった。
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西湖

西湖の紹介
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西湖(せいこ)は、中国浙江省杭州市にある湖。 西湖の自然の島である孤山、西湖を分ける堤の苏堤、白堤、杨公堤、人口の島である小瀛洲、湖心亭、阮公墩、分けられた湖の外湖、西里湖、北里湖、南湖、岳湖、これらをまとめて形状を「一山、三堤、三島、五湖」と称される。2006年に、中国の国家AAAAA級旅行景区に指定される。2004年発行の第五版人民元1元札裏面の図案として、西湖の三潭印月が採用されている。 名称からして都市や山の西にある湖ということで、中国に数ある西湖であるが、単に「西湖」と言えば、この杭州の西湖を指す。その美しさは、古くから多くの詩にうたわれ、絵にも描かれ、詩人?蘇東坡が春秋時代の美女?西施にたとえたほどで、それが西湖の名の由来ともなった。 (→樂遊中国)

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前列右から2人目が金城宏次

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戦友たちから金城宏次宛のハガキ

1982年10月11日『琉球新報』「金城宏次さん/わたしの秘蔵品ーラジオ電蓄」

軍歌「戦友」を「支那事変」に従軍した新城慶喜小父(画家の新城兄弟の父)から聴かされたことがある。京都丹後学会のホームページに「歌の作者は真下飛泉、発表は1905年。前年には与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』が出ていた。真下には戦争体験はない。知人から奉天大会戦の悲惨な経験をつぶさに聴いて感動し、この歌を作った」とある。

軍歌が似合う時世になった。森繁久弥の歌う「戦友」を聴きながら記す。亡き戦友への鎮魂」の歌である。満州の「赤い夕日に照らされて/友は野末の石の下」。

2004年3月27日ー『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑲」
□前に舅の戦時中のことを書いたら当時の戦友から、電話があり体験を20分も話してくれた。その翌日2月16日の本紙社会面に「戦争今昔伝えたい」として平良真六氏と宮良作氏の記事があった。そして真六氏の二女・次子さんから「先日、タイムスで新城さんが”軍歌”に触れていた」からと記事にあった真六氏の「回帰」と題する軍歌が送られた。


舅は終戦を経て昭和昭和21年9月、バンコクを出航し浦賀上陸、復員した。帰郷、米駐留軍施設の輸送部隊勤務を経て沖縄バスに勤務。


戦前の嘉手納比謝橋下方


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読谷ー金城家墓地

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2014年4月16日ー写真左から新城栄徳、麦門冬孫の石垣長敏氏と石垣米子さん
今回、石垣市立八重山博物館所蔵で、八重山白保(真謝)の与人(真仁屋与一)の家・石垣家が所有した知念大工型三線を見に来館したもの。真仁屋は、西表島古見を舞台にした古典音楽「古見の浦節」の作者・大宜見長稔の実家で、同三線は長稔愛用と伝わる。
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2007年10月、第4回沖縄コレクター友の会合同展示会が9月25日から10月7日まで西原町立図書館で開かれた。会員の照屋重雄コレクションの英字検閲印ハガキが『沖縄タイムス』の9月29日に報道され新たに宮川スミ子さんの集団自決証言も報道された。10月4日の衆院本会議で照屋寛徳議員が宮川証言を紹介していた。重雄氏は前にも琉球処分官の書簡で新聞で話題になったことがある。

照屋重雄さん

合同展の最終日は読谷の義父の米寿祝いがあった。途次、息子の運転で母も連れ合同展を見た。上原会長、翁長副会長、宮城図書館長に息子を紹介した。米寿祝いは読谷「体験王国むら咲むらククルホール」であった。友の会副会長の翁長良明氏は36年間「芸大」近くで、なるみ弁当を営んできたが2007年に車道拡張で立ち退きを迫られ廃業に至った。本人は至って意気軒昂で古美術商の免許も取り第二の人生スタートと張り切っている。10月放送の「なんでも鑑定団」に出演したが10月3日の『沖縄タイムス』ダーヴァにテレビ出演の予告と「戦中のお宝ざっくざっく」と題してコレクションの一部が紹介された。10月5日の『琉球新報』に翁長氏は「戦後の象徴『石川』(東恩納博物館)」を書いた。

 ここで沖縄コレクター友の会の歩みを示す。
 1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。

 同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスパの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。

  2002年2月、会員の真喜志康徳氏が南風原文化センターで「真喜志康徳の世界展」を開いた。5月には会員の上原実氏が糸満中央図書館で復帰30周年特別記念展として「上原実コレクションに見る沖縄の人々と祖国復帰」を開いた。同月、リュウボウ沖縄広告協会創立20周年記念事業「沖縄の広告展」には会員5名がコレクションを出品した。2003年に会員の伊禮吉信氏が運営する諸見民芸館で「懐かしのガラスビン展」が開かれた。

 2004年8月、会員の翁長良明氏が宜野湾市立博物館で「世界のお金展」、沖縄県立博物館で友の会の第一回合同展「沖縄歴史を綴る秘宝展」、壷屋焼物博物館で翁長氏出品の「沖縄の酒器・沖縄の古陶コレクション」が相前後して開かれた。2005年5月、新城栄徳、上原実出品「琉球弧の雑誌展」が沖縄タイムスロビーで開かれた。6月、諸見民芸館で「あの時、あのころ、なつかしのレコード展」、8月には西原町立図書館で第二回の合同展「コレクター収集資料展」、10月に琉球新報本社で真栄城勇、上原実出品「号外に見る沖縄戦後60年」が開かれた。

 2006年2月、宜野湾市立博物館で伊禮吉信出品「パッチーの世界」、8月の宜野湾市立博物館の「あわもり展」には会員5名が出品した。9月には沖縄市立郷土博物館で第三回の合同展「私のコレクション」を開催した。12月、名護市立中央公民館で翁長氏の講演「私のコレクション」があった。

 沖縄コレクター友の会の新城栄徳は、1988年の緑林堂書店発行『琉球弧文献目録』No.6に「沖縄出版文化史ノート」を書き諸見里朝鴻、佐々木笑受郎、宮田倉太の顔写真も入れた。緑林堂店主の武石和実さんの紹介で新城は、古書店の業界誌『彷書月刊』(1990年2月)に「沖縄に来た画家たち」、「全国古書店案内65沖縄那覇・宜野湾」を2006年5月に書いた。後の古書店紹介では、古美術・観宝堂(TEL:098-863-0583)と諸見民芸館(TEL:098-932-0028)も取り上げた。諸見民芸館館長の伊禮吉信さんは沖縄コレクター友の会のメンバーである。

 2007年のコレクター友の会の例会に県立芸大の粟国恭子さん、浦添市美術館の岡本亜紀さんが参加し「沖縄の金細工展実行委員会」にコレクター友の会も参加を要請された。8月、浦添市美術館での「沖縄の金細工ー失われようとするわざ・その輝き」に会員有志が出品した。

 沖縄コレクター友の会副会長の翁長良明氏は、2008年9月13日~23日まで沖縄市・沖縄こども未来ゾーンのワンダーミュージアムでふるさと園ちゃーがんZOOまつりの一環として「沖縄のお金、世界のお金展」の開催に協力した。翁長氏は首里の雨乞森にあったテレビ塔を持っている。無論、鉄骨全部の保存となると部屋いっぱいになる。肝要な部分と、写真、内部文書を所蔵している。それらのモノは生きた沖縄放送史の証言者ともなっている。翁長氏は戦時中の伝単(宣伝謀略ビラ)や、『ウルマ新報』創刊号を始めとして、新聞人の手書きの原稿(伊江朝助、池宮城秀意)、内部文書などを所蔵している。

 那覇市の平和通りから壷屋焼物通りに抜ける界隈は古美術なるみ堂や、成美堂(TEL:098-862-0041)、琉球文化屋(TEl:090-9656-6155)などが集まっている。旧グランドオリオン通りに沖縄コレクター友の会の仲里康秀さんが「しんあいでんき」(TEL:090-3322-9908)を開いた・古いラジオ、カメラ、時計や戦前の沖縄風景写真が並んでいる。仲里さんに関して新城栄徳が2004年3月の『沖縄タイムス』・「うちなー書の森 人の網」に書いた。「先月、沖縄コレクター友の会ドゥシ真喜志康徳氏と共に南風原町の仲里康秀氏宅へ遊びに行った。古いジュークボックスなどに囲まれた部屋で1968年の『知念高校卒業アルバム』を見た。恩師の当間一郎、山内昌尚、饒平名浩太郎、津留健二。卒業生の物理・放送・無線クラブの仲里康秀、社会クラブ大城和喜、上江洲安昌、宮平実、高嶺朝誠らの諸氏の顔が並ぶ」。

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沖縄コレクター友の会


南風原レストラン「沖縄コレクター友の会例会」
眞喜志康徳(郷土歴史研究会眞玉会)ー南風原町字与那覇79 ℡889-4261
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『オキナワグラフ』2009年8月号

会長兼事務局
上原実ー糸満市西崎1-33-6 ℡090-1941-5268
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『オキナワグラフ』2008年9月号

会員
伊禮吉信(諸見民芸館館長)ー沖縄市諸見里3-11-10 ℡090-9789-9289
与儀達憲(壺屋焼物博物館友の会会長)ー那覇市古島1-5-6 ℡090-4470-3738
和田正義(古文書収集家)ー那覇市上間344-1-804 ℡831-6257
□2009年12月8日『琉球新報』高良由加利「松田道之の書簡発見/那覇市の和田正義さん、1872年『滋賀新聞』も」





2010年8月25日『琉球新報』高良由加利「はと笛ー『人とモノの物語 沖縄コレクター友の会会員コレクション展』が24日、那覇市立壺屋焼物博物館で始まった。-」

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東京ディズニーランド入り口で息子とさやかーTDR東京ディズニーランドは、オリエンタルランド(OLC)が米ウォルト・ディズニー側と“ライセンス契約”を結び、運営している。
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国際科学技術博覧会 で息子とさやか
茨城県で開催された国際博覧会。開催期間は1985年3月17日から9月16日。入場者数は2033万4727人。「科学万博」とも。テーマは「人間・居住・環境と科学技術」。→コトバンク
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 著者の三十年間にわたる博物学の巨人と称われた南方熊楠への取材と資料渉猟のなかで明らかにされた、沖縄の民俗学の異才、末吉安恭の存在。南方熊楠が強い興味を示し、また海の彼方から反骨の熊楠に熱い眼差しを向けていた末吉安恭その人の、知られざる人生に光をあてる。
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神坂次郎の本(文庫本)

神坂次郎
2005年2月13日『琉球新報』新城栄徳(書評)ー神坂次郎『南方熊楠の宇宙』(四季社)/今や、世界遺産「熊野」の顔ともなった和歌山在住の作家・神坂次郎さんから特急便で本書が送られてきた。そして「啓、ずいぶん長い時間がかかりましたが、ようやく、ほんとうにようやく『安恭さんの本』が出来ました。まず最初の一冊を新城さんに献じます」の文もそえられ、かつ、感極まられたのか「待ち待ちし麦門冬の花咲きにけり/次郎(印)」と揮ごう社主催の講演で麦門冬・末吉安恭を紹介された。


出版した『南方熊楠の宇宙: 末吉安恭との交流』四季社と、熊楠直筆の手紙を持つ神坂さん
 
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2010年7月 神坂次郎・福富太郎・河田明久・丹尾安典『画家たちの「戦争」』新潮社〇神坂次郎ー昭和元年(1926年)というのは七日間で終わっているから、昭和二年三月生まれの私などは、六十四年間の”昭和〟という日本史始まって以来の激動の地獄と、飽食の世をたっぷり味わってきたことになる。もともと昭和の年号は、中国最古の経典で、天下泰平を絵に描いたような尭・舜の治世を記した『書経』の尭典<百姓昭明・協和万邦>からきたのだというが、「何が万国協和か」と破顔(わら)ってしまう。

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1914年正月『琉球新報』広告

福禄寿は中国では南極老人という。いつも杖を手に持ち、腰には瓢箪、しばしば白い鶴、ときには亀を従えて、道教での理想の姿となっている。滝沢馬琴『椿説弓張月』の北斎挿絵には「球陽福禄寿」が登場する。寿老人も中国では同じく南極老人と言われた。序に京都に「都七福神」、神戸に「西国七福神」巡りがあるが七メンバーに定着したのは江戸後期と言われている。七福神のうち恵比須だけが日本固有の神だが、これとて夷、戎、蛭子とも書くように、海の向こうからやってきた荒神だ。大黒天は室町の頃から恵比須と一対になり、家を守る神として祀られた。大黒は円満温厚な福相とはうらはらに出自はインド・ヒンドゥ教の破壊を司る大変恐ろしい神マハーカーラである。毘沙門天もヒンドゥ教の神でヴァイシュラヴァナという軍神だ。布袋尊は宇治萬福寺天王殿に鎮座する布袋が有名だが、中国の後梁時代に実在した僧と考えられ、且つ弥勒菩薩の化身とも言われている。弁財天は奈良時代に8本の腕を持って伝来、本来はヒンドゥ教の水(河)の神、サラスヴァティであった。

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1980年6月 大田政作『歴史の証言ー米占領統治下における沖縄の歩み』力富書房
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名城政次郎氏ー2013年1月17日・自宅近くの沖縄県立博物館・美術館入口の民家前


2014年4月5日 平良次子さん

新城栄徳(平良次子さん・撮影)
2014年4月10日 武石和実氏



2019年2月10日 左から、さやか、ひより、後列左が金城美奈子さん、喜屋武千恵さん

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右が金城あけみ
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撮影・山田實

『オキナワグラフ』
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山川岩美氏(右)と新城栄徳


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中央ー平敷慶秀氏
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2012年9月25日~10月7日 青砂工芸館「琉球藍染工房展」

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「関東大震災。虐殺事件」2014年4月20日13時~17時 若狭公民館 ℡098-917-3446 どなたでも自由参加

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1923年9月1日ー関東大震災ー東京という<日本の近代>が瓦解


□1992年10月ー毎日グラフ別冊『関東大震災69年』毎日新聞社

□当時の人口1175万人(現在4000万人)
・マグニチュード:7.9(阪神大震災:7.3)
・死者、行方不明:104,619人(阪神大震災:5,502人)
・家屋被害   :296,206戸(阪神大震災:100,282棟)
関東大震災の死者の多くは、火炎流による焼死者で、たった一箇所で死者3万8千人とも、4万4千人とも言われる焼死者を出したのが、当時の本所区横網町(現在の墨田区の一部)にあった本所区被服廠跡。2万430坪の敷地の中で火炎流にのみこまれて死亡したのです。また、上の表を見ると家屋の損害も、地震による倒壊よりも火災による焼失が圧倒的に多いのが分かります。つまり、火災被害が関東大震災の大きな特徴なのです。 (→住まいの水先案内人)


□2009年9月ー島袋和幸「沖縄の軌跡№65ー<検見川事件>秋田県人・藤井金蔵、三重県人・真弓二郎、沖縄・儀間次助3県人の殺害事件の真相」



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04/08: 曹氏③

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大宗 慶白ー慶京ー慶均ー慶隆
三世 慶均 瀬底親雲上ー1645年 本国中絵図ト為リ薩州ヨリ鬼塚源太左衛門殿 遠武軍介殿 大脇民部左ヱ門殿 簗瀬清右ヱ門殿 渡来ノ時案内者ト為リ東氏当山親雲上政左、李氏長嶺親雲上由恒筆者ト為リテ勤ム





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1966年『現代沖縄人物三千人』沖縄タイムス社

1993年5月1日 『おきなわの声』第161号 新垣淑明「散歩道/虎頭山周辺①」
1993年6月15日 『おきなわの声』第162号 新垣淑明「散歩道/虎頭山周辺②」
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1966年『現代沖縄人物三千人』沖縄タイムス社「高里良恭」

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墓前で先祖を供養する清明(シーミー)




クワディーサーとは和名ではコバテイシやモモタマナという樹木。うるま市屋慶名には「屋慶名クワディーサー」という有名な民謡があるのでそれをマンホールのモチーフにしたのではないかと思われる。→「DEEokinawa」


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1953年4月5日に慶福翁が門中総代として神御清明祭で次のように祭文を読み上げている。「曹氏第11代 島袋慶福 謹んで墓前に於いて呈します。(略)平敷慶隆様が検地のため粟国島に御出張になり同地御滞在中(約半ケ年)に粟国にも御子供が出来て現在でも大へん子孫繁昌してをるように聞きます。・・・」


平敷慶隆
1972年11月 外間守善『おもろ語辞書』角川書店

1982年9月 池宮正治『近世沖縄の肖像 上 文学者・芸能者列伝』「平敷慶隆」

1983年5月 『沖縄大百科事典』池宮正治「平敷慶隆ー実務的官僚としてもすぐれ、本土文芸の教養もあり、書も達者だったことがわかる。1702年には内裏言葉并女官糺中取に任ぜられ、『混効験集』や『女官御双紙』の編集に関与した。」

1993年2月 『真境名安興全集 第三巻』「備忘録(昭和6年)/28、曹氏の墓の副葬品ー曹氏浦添筑登之慶白の墓の副葬品に短刀と『カミサシ』とあったようであるが、『カミサシ』は『イチュビガ』金にて茎は銀であったと、その裔孫(島袋慶福)の人の話である。家譜によると此人は尚清王時代に唐船改奉行となって唐に渡られたことがあるけれども年代は伝わらない。36才で死んだようである。又この人の子孫に内裏言葉の編纂にたずさわった人がある。」

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1950年6月 雑誌『おきなわ』高嶺明達「南島風土記に奇すー東恩納先生は又『自分は最後の沖縄人を以て自ら任ずる者である』と云われた。私も亦沖縄人、而も善かれ悪しかれ最も日本化した沖縄人を秘かに任ずる者である。先生に云わせれば、そんなのは沖縄人でないと云われるかも知れないが。自分のことを申し上げ過ぎて恐縮だが、私は那覇の久米村で生まれた・・・」

1952年11月 高嶺明達『太平洋の孤児 米国統治下の琉球』沖縄通商
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高嶺明達

高嶺明達 (たかみね・めいたつ)
1898~1966(明治31.8.22~昭和41.11.8) 官吏。旧姓・楚南。那覇市久米生まれ。東京帝大卒後、商工省入り。軍需省総務局長など歴任。戦後、B級戦犯で公職追放。復帰前の沖縄と政府のパイプ役を果たす。→沖縄コンパクト事典
妻・芳子は岸本賀昌の娘


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1987年3月 『新沖縄文学』第71号「特集ー島尾敏雄と沖縄」
1989年9月 『新沖縄文学』第81号「特集ー奄美から見た沖縄」
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テープカット左から萌子さん、安里進氏、木下晋氏、上原徹氏、平良知二氏


左から翁長邦子さん、粟国恭子さん、宮城篤正氏、波照間永吉氏

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1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会「仲村隆夫」

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1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「早野参造」
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1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会「金城時男」
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1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会「上原仁太郎」

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1959年5月 『オキナワグラフ』

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1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「八幡一郎」


1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』「八幡一郎」

1978年ー神山政良氏カジマヤー祝で、左から八幡一郎、松本三益、金城唯温、島清

1988年6月15日 『おきなわの声』第103号 新崎盛敏「八幡一郎さんを偲んで」
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1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会「與儀美登」


1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会「與儀實久」


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1959年5月 『オキナワグラフ』


1966年『現代沖縄人物三千人』沖縄タイムス社