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Category: 04-書の森
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1995年3月 金城棟永『私の歩んだ写真の記録』


2006年12月 山田實・金城棟永『沖縄の記憶ーオキナワ記録写真集1953-1972』生活情報センター

金城棟永ー1930年、那覇市生まれ。沖縄郵政庁、琉球国際電気通信局を経て国際電信電話株式会社(KDD)に転入。1992年から那覇市文化協会写真部長(~1998年7月)。1996年、第30回沖縄タイムス芸術選賞、写真部門奨励賞、1998年、第50回沖展、写真の部奨励賞、1999年、第51回沖展、沖展賞。写真の部準会員推挙。2000年、沖縄県立平和祈念資料館に写真展示。山田實と共に『沖縄の記憶ーオキナワ記録写真集1953-1972』(生活情報センター2006)を出版。

写真左から金城棟永氏、山田有昴氏、新城栄徳



1997年9月『林氏・金城家家譜』

坂本冬美①が金城棟永氏と那覇市歴史博物館に贈った「色紙」
要があります。(2015年2月)
①坂本 冬美(さかもと ふゆみ、本名同じ、1967年3月30日 - )は、和歌山県西牟婁郡上富田町出身の演歌歌手、女優。血液型O型。
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2014年7月26日ー沖縄県立博物館・美術館で遊ぶひより
名和靖

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仲里効氏、右に沖縄支部長・山田實さんの作品






前原基男氏と作品「なまはげ」

末吉はじめ氏と作品「廃屋」「空にゴーヤー庭に雨靴わたしは独り」


古堅希亜氏と作品「Peace」


翁長盛武氏と作品「アギャー」


真栄田義和氏と作品「初夏」



山田實支部長を囲んで

会期中、入場者数合計950人であった。今回、ニッコールクラブ本部協力で本部コンテスト70点、会員48点も展示された。

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写真左から与儀達憲氏、翁長良明氏、上原実氏、石澤司氏(郵便コレクター ☎090-3345-1438)


『琉球新報』2012年6月22日
故名渡山氏の油絵発見 石澤さん、米国から入手
 【東京】戦前戦後を通し、沖縄の文化の復興に大きな功績を残した画家、故名渡山愛順氏の作品とみられる油絵1点がこのほど米国で見つかった。発見したのは沖縄郵便史研究家の石澤司さん(39)=豊島区、那覇市出身。戦後、生活を維持するため依頼を受けた肖像画などを多数描いていた当時の画家の状況を伝える一枚で、石澤さんは「戦後復興期の沖縄の画家の様子を伝える貴重な作品だ」と話した。作品はハンチング帽をかぶった米国人男性を描いた肖像画で、保存状態は良好。石澤さんがインターネットのオークションで6月までに入手した。石澤さんは「米国の実業家に依頼を受け、描いた絵ではないか」と推測。「当時、沖縄にいた米国人がどのような服装をしていたのか、雰囲気も分かる」と話した。
 名渡山氏は1906年、那覇市生まれ。東京美術学校(現東京芸大)で学び、32年に帰沖し、第二高等女学校で教職に就いた。戦後間もなく他の画家と共に那覇市首里儀保町にできた通称「ニシムイ美術村」を創立。琉装の女性や裸婦画を多く残した。絵には右下部に「A・NaToyama Okinawa 1950」という署名が残されている。「名渡山」の「渡」の部分を「To」としているのが特徴だ。美術評論家で、前県立博物館・美術館副館長の翁長直樹さんは「渡米する前年に沖縄で描かれたものだ。署名やタッチ、雰囲気が名渡山氏のものであることは間違いない」と評価した。

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詳しくは「みどり印刷」ここをクリック

台風8号が沖縄を襲った7月8日(火)に7月の中扉の絵を描き終えた。続いて、翌水曜日も、幼、小、中、高校は臨時休校となった。2月から7月まで6枚の作品(?)が出来たので今日は『③連絡帳ギャラリー』の製作作業を行った。ドラマチックな事件・事故の多い6月だった・・・・・・・。 15センチ×11.5センチの空間に、その時々の想いを水彩画と短歌(供に我流)を作成する事は、僕の生活の中の良いアクセントになっている。「連絡帳」とは供に暮す奏(かなで、3歳7ヶ月)の首里大名町の若杉保育園の連絡帳で,それへの毎日の記入は僕の役目である。

僕は毎日、平良真地(テーラマージ・大名馬場通り)を朝夕と通るのだが、その中央辺りに台座だけの石碑が在るのは知っていた。石碑は古い物で7~8年前から在り、新設も含め首里の街のあちこちに30~ 40基ほども在ろうかと思われるが、この平良真地の石碑はその設置位置からして、馬場(ンマハラセー)の事が将来は記録されるのだろうと思って見ていたが、梅崎さんの受賞から1ヶ月程経った2月の後半あたりか、車で通りかかると、件(くだん)の石碑に真新しいビニールシートが掛けられていたのである。「アーッ!」と事の成り行きを直感して停車、確認すると真新しい文字版が取り付けられていた、とって返してカメラを持参その日のうちに梅崎さんに「吉報メール」を送信した。  設置主体は那覇市市民文化部歴史博物館とあった。  〈尚、沖縄タイムス出版文化賞も併せて受賞された。琉球新報からも受賞があった記憶があるが、この記事作成に確認が間に合わなかった事も記しておく。〉

 ローソクもヒラヤーチーもソーミンタシヤーも無い台風でしたが、これを機会に一つ一つの雑事を丁寧にこなし、大好きな夏のスタートを切りたいと思っています。この半年を振り返り、第15号をお届けできそうなので気分のケリがつきホッとしている処です。約20年前に(40歳前後の頃)首里の東にある運玉森が山火事で焼けてしまいました。消火作業を見つめ「かわいそうにな~」と思い、次に「不憫に思うぐらいなら木を植えればいいじゃーないか!」と自分の心に逆に『火』をつけ、友人達に呼びかけて「運玉クラブ」というものを皆でつくり、5年計画で焼けた森に1200本の木の苗を植えました。次号では20年振りに運玉森を訪ね写真を撮り、当時の記録写真と併せて、自分の20年も振り返ってみたいと思います。運玉クラブOB2人と供に「運玉再訪」が楽しみです。
 あの頃、一緒に森を駆けていた少年野球の男の子や、ガールスカウトの少女達もいまでは陽気なパパやママになっていることでしょう・・・・・。
  [運玉森=ウンタマモリ=沖縄語でウンタマムイ、160M程の美しい独立丘、西原富士とも呼ばれる〕
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敗戦後の沖縄で沖縄女性の逞しさ。2014年7月16日『琉球新報』に、国会で沖縄県内の教師が「集団的自衛権行使」に異議を唱える教師を監視せよとの印象のネトウヨ発言をしていた島尻議員。明日は『沖縄タイムス』がどう扱うか楽しみである。とにもかくにも文部省は右ヨリ教科書を沖縄に押し付けそのうち君が代を歌わない教員も監視し、次には公務員にも「秘密法」と相まって強制するだろう。大政翼賛政治「鬼畜米英打倒」の復活だ。安部政権による『天皇陛下万歳』はその幕開けであったようである。

この島尻議員はネトウヨ的なのでネット検索してみると宮城県仙台市生まれ。聖ウルスラ学院高等学校、上智大学文学部新聞学科卒業。高校在学中、アメリカ合衆国カリフォルニア州ハンティングトンビーチハイスクールに留学。上智大卒業後、シアーソン・リーマン証券日本法人(現リーマン・ブラザーズ)に入社。2004年、那覇市議会議員補欠選挙に出馬し、初当選。那覇市議会では民主党系会派の「アイ・ラブ沖縄!かがやく県民の会」に所属し、2期務める。2007年、那覇市議を2期目の任期途中で辞職。沖縄県選挙区選出の参議院議員・糸数慶子の沖縄県知事選挙出馬に伴う補欠選挙に、民主党を離党して無所属(自由民主党・公明党推薦)で出馬。首相(当時)の安倍晋三が選挙戦中に2度にわたり沖縄入りして応援演説を行う等、党本部から強いバックアップを受け、当選。当選後は自民党に入党し、平成研究会に所属。




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1953年4月『沖縄朝日新聞』に掲載された出版案内。柳宗悦が「労作の刊行に寄せて」を書いている。


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1955年11月 琉球史料研究会第一回総会
1955年12月 琉球史料研究会『琉球』1号□表紙題字・謝花雲石/表紙絵・大城皓也/東恩納寛惇「海表恭藩について」/稲村賢敷「宮古の家系考証」/喜捨場永珣「日琉古語辞集」/「琉球氏姓集」/城間朝教「琉球松の話」/外間正幸「玉陵庭出土品発掘記」/平敷屋朝敏「苔の下」/「自了絵・東恩納先生書簡より」/

1956年1月  『王代記』発刊

1956年4月 『琉球』第2号□島袋全発「行政区画と官衙」/奥里将建「円覚寺文化再認識(上)」/新屋敷幸繁「日本小歌史上の薩摩と琉球」/「琉球氏姓集」/仲吉朝敏「拾い集められた雑品(上)」/仲吉朝睦「のろこもいのマガタマ」/「混効験集」/通信抄ー金関丈夫・東恩納寛惇・比嘉春潮・鳥越憲三郎・仲吉朝睦(世田谷区玉川奥沢町)・桜田勝徳・島袋盛敏・宮良当壮・酒井卯作・三島格・吉田嗣延

1957年10月 『琉球』第6号□東恩納寛惇□『琉球』を読むー本誌も創刊以来足かけ三年、五巻重ねて、どうやら三号雑誌の危険区域を脱したもののようである。比嘉寿助君が、各家系譜の覆刻以来、採算のむずかしい仕事を引き受けて、郷土文献の研究保存に、全力を傾倒していられる事に対し、まことに感謝に耐えないものがある。私がここに若干苦言を呈せんとするのは本誌の健全なる成長を希い、比嘉君の事業をして有終の美をなさしめんとするの老婆深切からである。私は比嘉君を始め同人諸君が私の真意を汲み、これを認容する雅量を有せられる事を信ぜんと欲するのである。 

本誌には、毎号同人の研究発表の外、古典の覆刻版を附録にしてあるが、有り難い事に思っている。但し同じ事なら、その古典の選択に、今一段の考慮をし、今一段の研究的態度を示してほしいものである。吾々が古典文献の覆刻を希求するのは、一には保存の意味からで、かけがえのないものは、少しでも多く印行して残さない事には亡んで了う。現に郷土図書館に架蔵されていた、親見世日記や久米村日記の如き、極めて貴重な文献であったのに、戦災にあって滅んで了った。尚家の諸氏系譜もそうである。王代記やその類似の本は、古典覆刻とさえ云えば誰もが最初に手がけるものであるから類本が少なくない。和学と云えば平敷屋が持ち出される。才人には相違なく、又あの時代にあれだけの和文和歌を作った事も、多とするに足るものがあり又その数奇な運命も同情を買った所以であろうが、どちらかと云えば、一介の文学青年でその作品も、芸術的史料的価値は、それほど高くない。これに比べると、識名親方の思出草や、久志親雲上の雨の夜物語が、はるかに優れて居り、又その頃の沖縄の芸文全体をうかがう作品としては、浮縄雅文集がある。これ等をさしおいて、お座なりの『苔の下』など持ち出すにも及ばない事である。

喜安日記を出したのはよいとして、それならば異本を校合して、しっかりしたテキストを作ってほしかった。個人が校訂の任に当たったかは知らないが、まちがいだらけで、私も最初の間は、少し朱を入れて見たが、終いに腹立たしくなって、やめて了った。校訂者自身によく読めていなかったと見えて、なまじいよみがなをつけたものに、読みちがいが少なくない。苟も研究会と銘打ってある以上、権威ある研究の結果を示して欲しいものである。

琉歌集にしても、琉球新報社の富川本の覆刻では意味をなさない。この歌集には近代人雑歌なども多く取入れてあるから、それ等は削除すべきである。琉歌の「かなづかい」でも、おもろの本体にかえすべきであろう。山田有幹氏の正誤文には卓見が多い。しかし吾々が不満に思うのは、それほどの見識があり用意があるならば、何故に出す前に、自ら厳密な校訂を加え、動かないテキストを作らなかったかと云う事である。

混効験集にしても、流布本に誤りの多い事は吾々が已に指摘した。出す位ならば、博物館架蔵の評定所本を出してほしかった。坊間流布の活字本などを無批判に出して見たところで仕方がないではないか。要するに、ただ、出すと云うのではない。研究を発表し、権威あるものを出してもらい度いものである。

これまで私が読んだ中では林清国の天女伝説の研究が出色である。特に天女伝説が、王都の周辺に分布していると云う発見は、天女即王女説に有力な示唆を与える卓見である。同君は又丹念に、研究資料を採集されたようであるが、この種の努力に対しては、深く敬意を表せざるを得ない。ただしかし、その引用の系図は、いかなる性質のもので、何程の信ぴょう性のあるものかを、つきとめていただき度いものである。(忘言多罪)7月3日


『向姓金武家家譜』琉球史料研究会

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1953年9月『沖縄婦人の友』創刊(表紙画・山田真山)。社長・兼次佐一、編集兼発行人・比嘉寿助
1953年11月『沖縄婦人の友』2号
1954年1月
1954年2月
1955年『沖縄婦人之友』新春号□大宜味朝徳(沖縄出版協会長)/沖縄婦人之友の発展を祝すー出版事業は難事業の一つである。これ位、体力・智力を使うなら他にいくらでも楽な仕事はある筈だ。智識階級を相手の仕事だけに一寸でもヘマをやるともう相手にされない。沖縄における出版業は全く宿命の仕事である。これは過去の出版受難史が雄弁に物語っている。

永続した雑誌と云うのは今まで皆無の状態である。三号雑誌は良い方で一号でつぶれたものや計画だけで本の姿を見せず流産するのが多い。この難事業を比嘉君がコツコトと継続し、逐年発展の一途を辿りつつあることは比嘉君の信念と情熱の然らしむるものとして敬意を表するものである。今度更に新年度を期し編集方針を改革し誌面を公開し、雑誌文化を通じて沖縄の発展に寄与したいということは非常に意のあることでその発展に期待している次第である。

私が比嘉君を知ったのは昨年彼が那覇市会議員に落選したとき、私の事務所を訪ねて会ったときが始めてである。そのときの言草がふるっている。「どうも那覇市民は私の人物を知らぬようだ。どうか権威のある沖縄興信所発行の『琉球人物名鑑』に私の経歴を紹介してくれ」ということであった。

比嘉寿助(□1915年2月10日~1978年6月27日)代書業サイン社
本籍・那覇市西新町 住所・那覇市二区九/大正3年2月10日生 南大東島尋常高等学校卒。 趣味・一人で夜道を歩いて考えること。/家族・妻豊子、長女祥子、二女美津子、三女小夜子、四女市子。昭和8年あの有名な琉球天一坊事件をまきおこし後に日刊沖縄新聞記者。23歳の時に沖縄批判社を創立、初版で解散となり、24歳の時上京すべく鹿児島から土方をやりつつ1年がかりで25歳の暮れの鐘を東京新宿の安酒屋で聞くという放浪の旅をなし、26歳の時サンゴ座脚本部に入り、戦争と共に徴用され八重山飛行場の作業班長となる。終戦後はPT船大工、МGメスホールコック、『八重山文化誌』記者。現在前記場所にて代書業をなす。年3月、那覇市会議員に立候補し惜敗。比嘉和志のペンネームで雑文を書く。であった。

終わりに乞わるるままに『沖縄婦人之友』に忌憚のない希望を述べてみたい。沖縄の出版界の現状として、枕の代用にするような数百頁の雑誌をつくることは無理な話である。・・・・とすれば頁を少なくして質でゆくほかはない。同時に特色を持たせることが必要である。しからば『沖縄婦人之友』の特色をどこに置くか?という問題であるが、これには私は漫画(現在もやっているが)と婦人、子どもの読物に重点をおくことだと思う。漫画は立派なニュースであり、社会評論であり目に訴える読物として高く評価してよい。婦人子どもには最初に飛びつくのは漫画である。

1954年『向姓仲吉家之家譜』沖縄婦人之友社

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2014年7月15日~8月31日 沖縄県立博物館・美術館「20世紀フランス絵画展ー山形美術館 服部コレクション」
【内  容】
 印象派の誕生以降、さまざまなモダンアートが展開したフランス、パリ。20世紀前半には、キュビスムやフォーヴィスム、シュルレアリスムなどが生まれ、芸術の一大中心地となりました。近代的な精神で造形の問題に取り組んだ前衛芸術がある一方で、身近な情景を個性豊かに描いたエコール・ド・パリの芸術家たちもいました。叙情的でどこか哀愁ただよう彼らの作品は、現在に至るまで多くの人々に愛されています。
 本展覧会では、フランス絵画を系統的に収集展示している山形美術館の服部コレクションより、20世紀前半を代表する画家ルオー、ヴラマンク、ピカソ、シャガール、ユトリロ、ローランサン、キスリングなどのほか、フランス絵画の伝統と受け継ぐ荻須高徳、ブラジリエ、カシニョールなど、戦後のフランス画壇を彩る作家58人の60作品を紹介します。

【出品作家】
ルオー、ボーシャン、ヴラマンク、ピカソ、ローランサン、ユトリロ、シャガール、キスリング、アイズピリ、アンビーユ、バブレーヌ、ボラン、ブラジリエ、ブレイエル、ブリアンション、ビュッフェ、カイヨー、キャロン、カルズー、カシニョール、カトラン、シャプラン=ミディ、クラーヴェ、コメール、コタヴォ、クトー、デイエス、デスピエール、ディーテール、フサロ、ザリュー、ガントネル、ガルシア=フォン、ジェニ、ギアマン、イスカン、ジャンセム、クーパー、ラビス、ラピック、ルシュール、ロルジュ、ミノー、ミュール、オギス、ウドー、ピガ、ルベイロル、ロッド、ロネール、タル=コア、テレスコヴィッチ、ティフー、ヴェリコヴィック、ヴナール、ワイズバッシュ、ヤンケル
以上、58作家、60作品。


写真左からー上原徹氏、岩崎セツ子さん、寒河江努氏、シャルアンリ・ブロソー氏、安里進氏




2014年8月22日 来場者1万人達成セレモニー
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沖縄新報文庫の印が捺されている。

1943年  □仲本政基「私が沖縄新報の記者になったのは、昭和18年の10月であった。当時、沖縄は一県一紙になっており、琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報の3社が合併(昭和15年12月)してできたのが沖縄新報である。当時の社長は伊江朝助男爵で、専務が当真嗣合、常務が平尾喜一、総務局長兼編集局長が高嶺朝光、営業局長は親泊政博の各氏であった。工務局長はおらず、阿加嶺のターリーが工場長だったとおぼえている。編集局の陣容は、高嶺朝光氏の下に、外電関係整理が國吉眞哲氏、政経部に上地一史、仲泊良夫、与儀清三、座喜味盛良、勝連勇の諸氏、社会部は福地友珍、大城徳三(現在の牧港篤三)、友寄喜光、大山一夫の各氏が健筆をふるっていた。(以下略)」→1975年9月『那覇市史 戦時記録 資料篇第2巻中の6』

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新城栄徳宛、仲本政基ハガキ「先日はさっそくコピーを送っていただき誠に有難うございます。大変なつかしく拝見いたしました。また記事の中に昭和俳壇の選者比嘉時君洞さんの名前が出ており、これもなつかしく拝見いたしました。(略)」
□1928年9月9日『沖縄昭和新聞』


『沖縄タイムス』写真1951年ー一人おいて比嘉秀平琉球臨時中央政府主席、ビートラー軍政副長官、ザルツバーグ・ニューヨーク・タイムズ社長、高嶺朝光、上地一史、座安盛徳、豊平良顕、ディフェンダーファー米民政府情報教育部長


1951年10月22日、米民政府情報教育部で開かれ「琉球の声・AKAR」から放送された第一回新聞週間・各新聞編集長座談会。向かって右から司会・川平朝申(放送部長)、ハードウィック(新聞部長)、國吉眞哲(琉球新報)、金城直吉(琉球新聞)、豊平良顕(沖縄タイムス)、比嘉憲蔵(沖縄朝日新聞)、宮城鷹夫(琉球弘報)、外間征四郎(琉球弘報)
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1956年
1966年4月『新沖縄文学』創刊
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2017年9月2日 那覇市歴史博物館ー左から外間政明氏、屋冨祖仲啓氏、新城栄徳

1993年5月『新沖縄文学』95号 屋冨祖仲啓「本誌歴代編集長インタビュー/」重要な節目ごとに、考える作業をしてきたことは大きい」

2003年2月 『沖縄を深く知る事典』屋嘉比収「沖縄の雑誌に見る『自己意識』ー『新沖縄文学』を通して」


上里佑子さん、銘苅氏、川満信一氏、新川明氏、



1999年10月 真久田巧『戦後沖縄の新聞人』沖縄タイムス社



左から豊平良一氏、新城栄徳



左からー新城栄徳、諸見里道浩氏、平良知二氏

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1973年6月『沖縄春秋』第6号 □川平朝申「わが半生の記ー歴史と民俗と人①」

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2015年10月10日 松島弘明『遥かなる「満州」~父と母たちの昭和~』新星出版
沖縄満洲会

2004年1月24日ー『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森・人の網ー『沖縄満州会』の周辺」

2010年8月11日、パレット市民劇場で沖縄満州会主催の「嗚呼 満蒙開拓団」(羽田澄子演出)を観た。ミニ講話として山田實、新城勝両氏の話があった。会場には琉球新報の宮城修、高良由加利の両記者や、玉城朋彦、松島弘明の諸氏も居た。映画は1931年の満州事変以後、日本政府の国策によって、中国大陸の旧満州、内蒙古に入植させられた日本人移民の開拓団約27万人、そのうち約8万数千人が、ソ連参戦、日本の敗戦によって、帰国できずに亡くなった。そこから「残留孤児」などの問題が生まれた。中国人の養父母らが孤児を育て、その後に帰国した孤児と養父母との交流ー。日中友好が如何に大事かを考えさせられる映画であった。

終わると名城政次郎氏が居られたので「先日の新聞記事は届いてますか」と聞くと届いていたと返事と同時に、劇場入口でパンフを配っている女性を「家内です」と紹介してくれた。名城氏の郁子夫人で、尚学院事務部長、沖縄満州会事務局(〒900-0012那覇市泊2-17-4那覇尚学院内 電話098-867-3515)を見ておられる。


パレット市民劇場で、左・名城政次郎氏、新城栄徳(撮影・松島弘明氏)

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7月2日、那覇市歴史博物館「戦時体制下の沖縄~沖縄戦への道」見学、展示は本日までだが現実の沖縄は新たな「戦時体制下」を迎えることとなりそうだ。安倍政権が黒人大統領の(7月2日、米キニピアック大学が発表した世論調査で戦後最悪の大統領との評価)アメリカのための「集団的自衛権」を閣議決定したそうである。これも沖縄市長選での結果が「沖縄県人は基地容認」だと安部政権が自信を持った所為だろう。


7月2日ー県民広場で「集団的自衛権」閣議決定を糾弾