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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
 伊波普猷(1876年3月15日~1947年8月13日)に対して私は麦門冬・末吉安恭を通じてのみ関心があっただけであった。1997年8月、那覇市が「おもろと沖縄学の父 伊波普猷ー没後50年」展を開催したとき私も協力した。関連して伊波普猷の生家跡に表示板が設置されたが、その表示板の伊波の写真は私の本『古琉球』(1916年9月)から撮ったものである。伊波展の図録作成も手伝った。その間に沖縄県立図書館比嘉春潮文庫や比嘉晴二郎氏の蔵書、法政大学の伊波普猷資料に接し感無量であった。

1891年
4月ー沖縄県尋常中学校入学。学友に漢那憲和、照屋宏、真境名安興、当間重慎、渡久地政瑚、金城紀光、西銘五郎(徳太)
1900年
9月ー京都第三高等学校入学。入学保証人の一人、下国良之助(大阪在住)。この頃、西本願寺仏教青年会やキリスト教会に出入りする。
1903年
9月ー東京帝国大学文科大学入学。この頃、片山潜宅に出入りして田島利三郎の影響もあって英文の『社会主義小史』を共に読む。
1904年
7月ー鳥居龍蔵、伊波普猷を同行し来沖。
1905年
8月6日~8日ー伊波普猷、遠藤万川(出雲国生まれ)と富士登山。
1906年
7月ー千駄ヶ谷の下宿をたたんで帰沖。

1910年8月ー沖縄県立沖縄図書館創立

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1910年7月31日『沖縄毎日新聞』

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奈良県立図書館ー1908年に奈良公園内に建てられたもの。昭和43年に郡山城内に移築された。伊波普猷は沖縄県立沖縄図書館のモデルを奈良県立図書館に求めた。

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湯浅半月京都図書館長。伊波普猷は沖縄県立沖縄図書館創設にあたって半月のアドバイスを受けている。京都図書館は1909年2月落成した。現在は外観だけ残して、後ろにガラス張りのビルが新築された。

1911年
4月1日ー河上肇来沖、伊波普猷と親交を結ぶ。
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■河上肇の伊波普猷宛ハガキ(国吉真哲翁旧蔵。新城栄徳を介して現在、沖縄県立図書館・那覇市歴史博物館所蔵)

8月3日『沖縄毎日新聞』「昨今県下に於いて美術趣味が勃興しおれる折柄過般、県立図書館に於いても大枚を投じて雪舟山水帖及び大長巻、ミレー名画集等は何れも東京審美書院の発行に係り版刻鮮明にして美麗、殆ど原画の神韻を伝ぶるものあり・・・」


1911年10月 井上圓了『日本周遊奇談』博文館

1912年
4月ー岩崎卓爾『八重山民謡集』序文・伊波普猷□印刷・仙台国分町
1913年
3月ー伊波普猷、那覇西の自宅を開放し「子供の会」を始める。参加者・金城朝永、山里永吉、金城唯温、新垣美登子、知念芳子、永田千代

1913年
3月29日ー伊波普猷、来沖のエドモンド・シモンと歓談。
5月ー『民俗』第1年第1報□日本民俗会員・井上円了、巌谷小波、伊波普猷


井上円了
 
 『貝寄風』の主宰者の中瀬喜陽氏は南方熊楠研究家、現在・南方熊楠顕彰館の館長である。『貝寄風』にも「南方熊楠と正岡子規」といった熊楠関連の資料を紹介しておられる。私も同誌にときおり「琉球の風」を書かせてもらっている。『天荒』36号にその抜粋が載っている。私は平成17年7月の『貝寄風』には井上円了と渋沢敬三について書いた。□1926年、渋沢栄一の孫・渋沢敬三が石黒忠篤と台湾から来沖。沖縄県沖縄図書館で仲吉朝助の『琉球産業資料』を複写、これは後に小野武夫によって『近世地方経済史料』に収録される。渋沢は案内役をつとめた沖縄県殖産課長・田村浩の著『琉球共産村落之研究』を岡書院から出版させた。同行した石黒は石黒忠悳の息子、妻は穂積重陳の娘で渋沢栄一の孫娘。渋沢敬三は南方同胞援護会(現・沖縄協会)の初代会長で、また東洋大学名誉学位第1号でもある。

大正14年7月『週刊朝日』伊東忠太□化けものー故井上円了博士は有名な妖怪学者であったが、博士は化け物の有無については徹底的に断案を下しておらない。

井上円了
生年: 安政5.2.4 (1858.3.18)
没年: 大正8.6.5 (1919)
明治大正期,東西の思想を統合しようとした哲学者。新潟県の真宗大谷派慈光寺の井上円悟,いくの長男。京都東本願寺の教師学校の留学生として東京大学の哲学科に入学。明治17(1884)年に哲学会を発足させた。18年東大を卒業。20年に哲学書院をつくり,『哲学会雑誌』を創刊。さらに同年,哲学館(東洋大学)を創設し,哲学を中心とする高等教育を大衆が学ぶことができるようにした。また21年政教社をつくり,『日本人』を発行し,西洋の長所を認めながらも,日本固有のものを保存しようと主張した。著書は,哲学関係では諸学の基礎として純正哲学を説く『純正哲学講義』,それを集大成して宇宙の全体を示す『哲学新案』,宗教関係では進化論に基づいてキリスト教を批判し,仏教に西洋哲学からみた真理が真如という形で存在すると説く『真理金針』(1886~87),『仏教活論序論』『仏教活論本論』,心理関係では『心理摘要』,仏教の心理説を西欧の心理学の立場からまとめた『東洋心理学』『仏教心理学』,わが国最初の『心理療法』,また学際的な分野では民間の迷信をなくし,近代化をはかるための科学概論ともいうべき『妖怪学講義』(1894)がある。井上は多くの分野において先駆的な業績を開拓している。好奇心のきわめて強い人であり,学問を社会に役立てようとしたことは注目に値する。<参考文献>井上円了記念学術センター編『井上円了選集』全11巻
(恩田彰) →コトバンク

8月20日ー伊波普猷、久米島で1週間滞在。「三島問答」を発見。
9月ー『おきなは』第1巻題号□伊波普猷「私の子供の時分」、写真「許田普益」→1922年11月『龍文』伊波普猷「私の子供時分」
1916年


1月ー『沖縄毎日新報』伊波普猷「系図を調べて」(当間重慎家)
3月ー伊波普猷、比嘉賀秀らと共に沖縄組合教会を設立。参加者・比嘉賀盛、浦崎永錫ら


1917年7月8日『琉球新報』「亡祖母マウシ葬送御礼/孫・松村嘉實、曾孫・松村薫、孫・松村嘉昌、親戚・東恩納寛仁、伊波普猷」

1918年
3月ー『日本エスペラント』第13年題号□伊波普猷、比嘉春潮らの写真
1919年
7月ー島袋源一郎編『沖縄県国頭郡志』□伊波普猷「序文」
1920年
    岩崎卓爾『ひるぎの一葉』□伊波普猷「序文」
1921年
5月27日ー伊波普猷、沖縄県立図書館長嘱託から図書館長。
1924年
3月23日ー『沖縄タイムス』伊波普猷「琉球文芸叢書に序す」
3月30日ー『沖縄タイムス』伊波普猷「『帆かげ』の序に代へて」→1924年6月『沖縄教育』伊波普猷「序文二則」
5月ー『沖縄教育』伊波普猷「琉球民族の精神分析」


12月ー『養秀』31号「図書館長伊波文学士中学時代の思出」→1934年7月『養秀』35号「在学時代の思い出」

1925年
2月ー上京し小石川戸崎町に真栄田冬子と同居。
7月ー『沖縄朝日新聞』伊波普猷「京太良詞曲集につきー比嘉盛章君に」
1926年
1月18日ー『琉球新報』伊波普猷「クワイナの語義その外」(1)~
1月30日ー『琉球新報』伊波普猷「南島の歌謡に現れた為朝の琉球落」~(31)
8月10日ー『琉球新報』伊波普猷「琉球古代の裸舞」(1)~
9月ー帰沖、那覇市教育部会にて「随書に現れたる琉球」と題して講演□後の写真家・山田實が同級生の伊波國男の家に遊びに行き2階で読書中の伊波普猷を見る。
1927年
4月ー嘉手かる信世の『学芸講演通信社パンフレット』№46に「南島の歌謡に就きて」
1928年
10月ー春洋丸でハワイ着
1929年
2月ー山城亀雄飛行士が操縦する飛行機でロサンゼルス上空を飛ぶ
8月ー『科学画報』13巻2号□伊波普猷「布哇の自然と人」、伊波普猷、帰沖(折口信夫と同行予定が折口体調不良のため伊波一人の帰沖となった)。10日ー真境名安興と共催で「琉球古典劇研究座談会」、19日『琉球新報』伊波普猷「孟蘭盆の新意義」、25日ー『琉球新報』伊波普猷「五ツ組の用語と詩形」、30日ー伊波普猷、上里朝秀ら台中丸で帰京(途次、喜界島で講演)。11月23日ー京浜沖縄県学生会秋季総会で「方言に現れたる土俗」と題し講演
1930年
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伊波普猷、冬子夫妻、右端にバクと肩組む伊波文雄(本名ー普哲)魚住惇吉、千代夫妻、金城朝永・芳子夫妻

小石川の伊波宅に甥の文雄、山之口貘が居候
1931年
6月ー伊波の母(知念)マツル死去
12月ー小石川の伊波宅に上原美津子が同居

比嘉美津子『素顔の伊波普猷』ニライ舎1997年8月/『沖縄タイムス』2019-10-10

写真。東急ホテルでー左から上里祐子さん、新城栄徳、大城道子さん、比嘉美津子さん、大峰林一氏、伊佐真一氏

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平良次子さん、比嘉美津子さん、比嘉梨香さん

1932年
1月ー『沖縄朝日新聞』伊波普猷「蚕蛹の琉球語」(2)~
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1932年6月『ドルメン』濱田青陵「ドルメン語」、伊波普猷「二位尼の煙管」
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1934年5月『ドルメン』第3巻第5号東京人類学会創立50年記念大会



1933年
1月ー琉球新報で「航空大ページェントー瀬長島上空から関口飛行士操縦の複葉機から宮森美代子嬢がパラシュートで飛び降りた」記事を見て、伊波が飛行機と題しオモロ「紫の綾雲、おし分けて出じへたる、ふへの鳥の舞ひ、如何し来る鳥が、常世の大ぬしの御使者は有らにやー大和世は物事変て、殊に工学のひろましや、珍しや算知らぬー沖縄御間切心一つならば、苦世す甘世なさめ。直り世は実に是からど始まる」
1934年
7月ー金城朝永『異態習俗考』伊波普猷「序文」
1936年ー『沖縄日報』伊波普猷「塔の山よりー改姓のこと」(4)。この年ー1月29日『沖縄朝日新聞』第6989号/10月14日『琉球新報』第12779号/11月3日『沖縄日報』第1674号
1937年
1月ー『犯罪実話』第4巻第1号□伊波普猷「布哇日系移民の殺人事件ー天才日系市民の公判記録」、2月ー『犯罪実話』第4巻第2号□伊波普猷「布哇日系移民の殺人事件(完結編)
1939年
12月18日ー『沖縄日報』「若き日の琉球の友を探すー池田前蔵相の友情 今は亡き許田普益氏と推定ー伊波普猷談」
1941年
3月ー伊波普猷妻マウシ死去

2010年7月25日ー『琉球新報』「伊波普猷の卒論発見」□伊佐眞一氏が最近静かだと思ったら卒論を追い求めていた。コメントで鹿野政直早稲田大学名誉教授が「私自身も含め、伊波の卒論にこれまで誰も言及しなかった点で、今回の発見は伊波研究の不十分さも明らかにした。100年以上前の卒論の現物を発見したことは今後の伊波研究にとって実に画期的なことだ」と述べた。来月は物外忌、皇太子来沖で今月27日、28日は交通規制だということに合わせたわけではなかろうが伊波の「沖縄人は広い意味で日本人と根を同じくする民族である」に異議をとなえる伊佐氏らしく新聞を派手にさわがしている。

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

ウフンミー新城喜一氏と私(ニーブー新城栄徳)の粟国の実家は道を挟んでの隣家である。

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粟国島の民家

新城喜一/表紙絵 1965年7月『今日の琉球』93号「観光沖縄」/1964年9月『今日の琉球』83号「製糖工場」

新城喜一/表紙絵 1967年2月『今日の琉球』112号「県木に選ばれた琉球松」




粟国の村長室にある新城栄市氏の作品

「絵看板師の集い」(1970年)写真前列右端が新城栄市氏、3人目が外間善幸氏。左端が新城喜一氏、左から4人目が具志弘樹氏□2001年8月 山里将人『アンヤタサ!戦後・沖縄の映画 1945-1955』ニライ社




左が新城喜一氏


1983年5月18日『沖縄タイムス』/1984年8月 沖縄舞台技術家協会『舞台技術』弟4号「スポットライトー新城喜一」


1998年11月11日の『琉球新報』に「沖縄人国記ー粟国村」(料理人達の末えい)が掲載され、安里幸一郎(現代の名工)、安里信祐(伊勢海老料理「三郎」代表)、屋宜宗一(前那覇市選管委員長)、新城栄徳(沖縄関係資料収集)とともに新城喜一さんも紹介されている。/芝居に欠かせない書き割りや舞台装置。新城喜一(65)は、この道40年。沖縄芝居の舞台絵はたいてい新城の手による、父は戦前、西新町にあった「宝来館」という旅館の料理人をしていた。家が西本町にあり、近くに映画館「平和館」があった。中学校を卒業してすぐ軍作業に就き、基地内の表示板をかく仕事に。アルファベットの看板ばかりをかいていた。が、このままではいけないと思い、軍作業を辞めて、世界館、国映館の看板かきに。1965年に沖映演劇ができたあと、その専属となり同劇場が閉鎖した1977年に独立。コンベンション・センターのこけら落とし、第一回世界のウチナーンチュ大会で舞台美術を担当した。国映館の看板は弟の新城栄市(63)が引き継いだ。その弟の新城栄徳(60)も舞台美術の仕事をしている。末弟の新城征孝(55)は写実的な風景画で知られる画家。新城喜一さんは、2005年12月に新星出版から『新城喜一画集・失われた沖縄風景』、2009年6月に『新城喜一画・沖縄風景今昔』を出している。また2008年3月には(㈶)国立劇場おきなわ運営財団から『新城喜一 沖縄芝居大道具帳』も出た。


写真ー左から新城栄徳、安里信祐(伊勢海老料理「三郎」代表)、新城喜一氏


金城安太郎展でー左から金城安太郎さん次男・一夫氏、喜久村徳男氏、 新城喜一氏



写真上ー左から末吉保朝氏、星雅彦氏、山里善市氏、伊佐傳一氏(12代郷友会長)
写真中ー左から安里幸一郎氏、玉寄栄一氏、仲里正雄氏、新城栄徳
写真下ー左から山里善市氏、糸数信一氏(32代郷友会長)、末吉保朝氏(35代郷友会長)、不詳、新城喜一氏、伊良皆賢哲氏



旧役場の前

粟国の村長室にある新城栄市氏の作品


現在の役場の前


粟国の村長室にある新城喜一氏の作品

粟国の学校にある新城喜一氏の作品

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写真左から大城和喜氏、新城喜一氏、平良次子さん
2003年4月28日~5月15日 南風原文化センター「貧しくも楽しい『うちなー芝居』の時代」




写真左から新城喜一氏、森田豊一氏①、新城栄徳

2014年7月21日 『沖縄タイムス』
①森田豊一氏
 沖縄芝居役者で琉球歌劇保存会元会長の森田豊一氏が21日午前5時すぎ、敗血症のため那覇市内の病院で死去した。81歳。那覇市出身。告別式は24日午後2時から那覇市銘苅3の22、サンレー那覇北紫雲閣。喪主は長男の勝(まさる)氏。個性的で人情味あふれる演技で存在感を放った。「怪盗伝」(石川文一作)の「油喰」役などで人気を博す。1971年に結成した劇団「潮」で沖縄演劇の新境地を開拓した。1999年県指定無形文化財「琉球歌劇」保持者、2010年沖縄タイムス芸術選賞功労賞、11年県文化功労者。


2013年12月27日 新城喜一氏宅で左から島袋百恵さん、新城栄徳、新城喜一氏

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1998年11月11日の『琉球新報』に「沖縄人国記ー粟国村」(料理人達の末えい)で新城喜一さんが紹介されている。/芝居に欠かせない書き割りや舞台装置。新城喜一(65)は、この道40年。沖縄芝居の舞台絵はたいてい新城の手による、父は戦前、西新町にあった「宝来館」という旅館の料理人をしていた。家が西本町にあり、近くに映画館「平和館」があった。中学校を卒業してすぐ軍作業に就き、基地内の表示板をかく仕事に。アルファベットの看板ばかりをかいていた。が、このままではいけないと思い、軍作業を辞めて、世界館、国映館の看板かきに。1965年に沖映演劇ができたあと、その専属となり同劇場が閉鎖した1977年に独立。コンベンション・センターのこけら落とし、第一回世界のウチナーンチュ大会で舞台美術を担当した。国映館の看板は弟の新城栄市(63)が引き継いだ。その弟の新城栄徳(60)も舞台美術の仕事をしている。末弟の新城征孝(55)は写実的な風景画で知られる画家。新城喜一さんは、2005年12月に新星出版から『新城喜一画集・失われた沖縄風景』、2009年6月に『新城喜一画・沖縄風景今昔』を出している。また2008年3月には(㈶)国立劇場おきなわ運営財団から『新城喜一 沖縄芝居大道具帳』も出た。


新城栄徳/表紙絵 1969年6月『今日の琉球』139号「鶏」


1973年9月 『沖俳協』パンフレット第1号 「護佐丸と阿麻和利」(舞台美術・新城栄徳)


1977年4月『沖縄タイムス』/12月『新沖縄文学』№37表紙絵・新城栄徳氏






写真左から儀間比呂志さん、新城征孝氏、新川明氏、新城栄徳、その前が舞台美術家・新城栄徳氏



新聞紙上で顔写真を取り違えられた新城栄徳


写真左から新城栄徳、平良進氏①、不詳、久高将吉氏②、画家の新城栄徳氏
①"沖縄県出身の俳優、演出家。1997年、劇団「綾船」結成。沖縄芝居の舞台作品多数に出演、映画『うみ・そら・さんごのいいつたえ』『BEAT』『ナビィの恋』『真夏の夜の夢』、NHK『ちゅらさん』『純と愛』にも出演。また1970年〜1983年の間、沖縄歌謡舞団として『太陽燃える島』で日本全国・世界各地で公演。沖縄指定無形文化財""琉球歌劇保持者""でもある。→コトバンク
②1948年 振興劇団に入団。・1949年 大伸座に入座。・1956年 ともえ座を経営・1957年 みつわ座と合併
・1958年 みつわ座から分離、演技座と合併・1959年 演技座から分離、劇団俳優座を創立。→沖縄俳優協会




2014年9月14日ー写真左から新城栄徳、金城美奈子さん、山城知佳子さん、舞台美術家の新城栄徳氏

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