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2014年9月『粟国村教育委員会便り』 〒901-3702 粟国村字東580


粟国村教育委員会 刊行物





あぐに資料①

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古典音楽同好会「幕開け」



新城清弘「独唱」


宮城能舞「御歳日の唄」








伊良皆賢哲・教育長、右が新城岳祐・吟士正師範

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与那城昭広「会長挨拶」




新城静喜「来賓祝辞」




上原小一「乾杯の音頭」

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翁長那覇市長「挨拶」

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ゲイリー・クーパー1901年5月7日出身地アメリカ/モンタナ州ヘレナ
略歴ー本名はFrank James Cooper。今なお多くのファンに愛されるハリウッド黄金時代を代表するビック・スター。両親がイギリス人であるということから9歳で渡英。父の故郷で3年間教育を受けた後、アメリカに戻りアイオワ州のグリネル大学で美術を専攻。新聞社でマンガを描いていた時期もあるとか。大学を中退後、父を頼りにLAに渡った時に、友人の勧めで映画のエキストラとして活動を開始。26年、サミュエル・ゴールドウィンのオーディションにより「夢想の楽園」で大役をうける。後はハリウッド大作スターとして数多くの作品に出演。41年「ヨーク軍曹」、53年「真昼の決闘」でアカデミー主演男優賞。61年にはアカデミー名誉賞を得る。しかし同年、前立腺ガンによりこの世を去った。33年、サンドラ・ショーと結婚。一女あり。→ヤフージャパン映画


1939年9月 那覇の旭館で「平原児」上映
パラマウント 1936年製作、 監督セシル・B・デミル、 ゲイリー・クーパー、 ジーン・アーサー出演


1939年10月 那覇の旭館で「マルコポーロの冒険」上映


1939年11月 那覇の平和館で「海の魂」上映

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現代歌劇・愛の雨傘
1933年(昭和8)に、眞楽座の役者・上間昌成が創作し、大正劇場で初演した。前・中・後編の三部作。


1934年4月 那覇の眞楽座で「愛の雨傘(一名 赤い目の兎)」上演、新曲かたれ節(上間昌成作詞、多嘉良朝成作曲)挿入。


1940年2月 那覇の眞楽座で「愛の雨傘」上演






1988年11月18日『琉球新報』「舞台の顔ー北島角子(父は上間昌成)」


舞台美術・新城栄徳
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舞台美術家・新城栄徳氏が最近手懸けた「舞台」








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2013年9月23日~28日 那覇市民ギャラリー「桑江良健絵画展」







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 1966年5月『婦人公論』仲地愛子「末娘からみた父漱石の素顔ー家庭における漱石については誤り伝えられている点がある。それはどういうことなのか。第四女が綴る父との楽しかった日々の思い出」
○・・・父が死んだのは数え年で五十、今流に言えば満四十九歳であった。私は十か十一になるかならないかであった。母と子供六人は父の枕辺に座って父を見守っていた。その頬には白い鬚が延び、枕の上の父のしなびた顔はひどく黄ばんで、なぜかその憐れな様子が私に晩秋のすすきを思わせた。私はあたりの様子にひどく胸打たれ、悲しさがこみ上げて来て泣きじゃくった。・・・ 

○最近のネットに「仲地漱祐 鎌倉民主商工会長 アクセサリー・輸入雑貨販売業/」妹・吉田一恵  東京都大田区出身で、1972年に鎌倉に移り住み、店舗を営む。2005年10月鎌倉市長選に立候補するも落選」とある。

 数十年前、沖縄の新聞で翁長君代(琉大家政学科教授)さんの何かのパーティでの発言「夏目漱石の娘は沖縄出身の貿易商に嫁いでいる」との囲み記事を見たことがある。それで上記の雑誌記事を見つけた。翁長君代さんの夫君は翁長俊郎琉大英文科教授で、その娘・斎藤陽子さんはアメリカ在住である。

1969年12月 翁長君代『琉球料理と沖縄の食生活』績文堂(東京 新宿)
はじめにー沖縄の食生活と琉球料理
1 琉球料理をかたちづくったもの 辻と琉球料理ー今日の琉球料理の発達と、昔の辻遊廓の関係も見のがすことはできません。/主食としての芋/昆布ー元来、昆布は琉球の近海では採取ができないのに、古くから琉球料理のいろいろのものにつかわれてきたのは、昆布が貿易品として扱われてきたことを物語るものです。
2 琉球料理 肉の料理ー血炒ちー(豚の血の炒めもの)琉球料理は、豚一頭分をあますところなくつかって料理するのが特長ですが、これは
豚の血をつかった独特なものです。昔は法事に用いられたようです。お年寄りはよくなさったようですが、ちょっとグロテスクなので、最近の若い方たちはあまりいただきません。
3 沖縄の食品 沖縄のそばーむかしから沖縄で庶民の味として親しまれているものにそばがあります。そばといってもそば粉がつかわれているわけでもなく、中華そばに類するそばです。
4 沖縄の栄養
付1 沖縄の食品衛生
付2 家計経済からみた沖縄の食生活
付3 おもな食品の栄養成分表
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那覇市歴史博物館所蔵
□「王姓門中会ホームページ・王姓門中会トップ」
久米村王姓大宗家之墓碑
久米村王姓始祖王立思(一五五一~一六〇〇)は中國福建省漳州府龍渓縣の出身。萬暦十九年(一五九一)久米村入籍、通事・官船舎人の役職をもって首里王府に仕え、使節一行として度々、旅役にあり、福州にて病没。墓陵は王府より御拝領、久米村地内に築かれた。大宗が國場家となった開祖は第三世王明佐國場親方である。彼も高齢の身を押して紫金大夫の旅役にあって山東東昌府で没した。四百年の大宗の墓は沖縄戦で破壊された。戦後の都市区画整理で移動を余儀なくされ現在は識名のこの地に安らいだ。ここに歴史の事実を銘記し、久しく子々孫々に物語り伝える。久米村 王 姓 槐 王 会 平成十二年(二〇〇〇)四月吉日 建立

2004年3月 久米村王姓門中槐王会『久米村王姓門中(槐王会) 資料5 遥かなる旅路 漳州に祖先を訪ねて2』






2001年3月『久米村 王姓門中(槐王会)資料四』下中央の史料「資料は、新城栄徳氏が沖縄県公文書館所蔵の文書群から、発見し、提供されたものである。」

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シンポジウム「消滅危機方言の持続的継承活動を考えるー地域・学校における取組」で宮里朝光氏(沖縄語普及協議会会長・しまくとぅばプロジェクトメンバー)「開会のあいさつ」

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1915年8月30日『琉球新報』「琉歌吹込みを聞くー1昨日から石門通り森楽器店主の主催とせる琉球音楽奨励会のレコード吹込みを奥武山公園内城間氏別荘でやっているが昨日吹込みを為すべき音楽家は首里から高江洲氏那覇から城間、伊差川、我謝、池宮城喜輝の諸氏であったー」


1915年9月3日『琉球新報』広告「空前の大提供ー本県家庭の大福音/琉球歌と蓄音器」
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1915年9月3日『琉球新報』「琉歌レコード仕上ー森宗次郎、仝仲太郎、山口全則主催の琉歌レコードは去る31日までに吹込みを終了し1昨日技師等は是を携え上阪せるが該レコードの仕上は多分9月下旬ならんー」

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毛氏古堅盛珍は亀川殿内2代の支流平安名親雲上の長男、1852年生まれ。父の役をつぎ平安名の脇地頭、後読谷山古堅の脇地頭。18歳の頃、弦声の道を安室親雲上に学ぶ。次男盛保。1920年没。1915年、城間恒有別荘でコロンビアレコードに辺野喜節を吹き込む。金武良仁は述懐節を吹き込む。



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池宮喜輝と東恩納寛惇

□池宮喜輝(73)は琉球音楽と仏教の声明(ショーミョウ。補助楽器を用いない声楽)念仏と琉球古典曲との関係を探求した。高野山大学で中山僧正に琉球古典曲「十七,八節」を歌三味線で紹介したら「これは比叡山の天台声明にちかい」との話で、さっそく同僧正の紹介状をもって比叡山に行き、比叡山音律研究所の教授・中川僧正に会い古典曲「十七、八節」を聞かせたら「この曲は、音律、節回しなど声明と密接な関係がある」といわれた。弘法大師時代にできた声明(浄土声明その他)が袋中上人の時代に琉球の風土に移植され、さらに湛水親方によって、古典曲としての面目があたえられたと、池宮は見ているのである。

1987年1月 池宮喜輝『琉球芸能教範』月刊沖縄社
池宮は15歳の頃に空手を赤畑の安座間の島袋という人物の自宅に通い習った。同門に山城正沢、宮里良栄とか、田頭、渡口といった弟子が6,7名だった。後に西の東恩納先生に弟子入りした。その時の相弟子に宮城長順、許田重発や首里の島袋がいた。


池宮喜輝の墓、中央に世界漫遊記念碑→識名

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09/17: 上里勲

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『暗黒街の弾痕』(あんこくがいのだんこん、原題・英語: You Only Live Once)は、1937年に製作・公開されたアメリカ合衆国の映画である。(撮影は1936年)。オーストリア出身フリッツ・ラング監督の渡米2作目の映画であり、シルヴィア・シドニーとヘンリー・フォンダが主演した。→ウィキペディア
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1940年7月 珊瑚座で「大新城誠忠傳」上演



1940年9月 那覇の眞楽座で「実傳 大新城奮起録」上演


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ミュージアムショップ「ゆいむい」
博物館・美術館の収蔵品をもとにしたオリジナルグッズ(ポストカード・クリアファイル等)や伝統工芸品の販売、常設展・企画展の図録その他多数の書籍を取り揃えております。 ぜひご利用ください。


営業時間 09:00-18:00
休館日  毎週月曜日(ただし、月曜日が祝日または振替休日となる場合は翌日)
電話:098-941-0749 FAX:098-941-0884


2014年3月28日 星雅彦(元沖縄文化協会長)夫妻と池宮城さん
ミュージアムショップ「ゆいむい」

ひより「ゆいむい」で遊ぶ




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『モダン・タイムス』(Modern Times)は、1936年のアメリカ映画。チャーリー・チャップリンが監督・製作・脚本・作曲を担当した喜劇映画で、彼の代表作のひとつである。モノクロ、サウンド版。資本主義社会や機械文明を痛烈に風刺した作品で、労働者の個人の尊厳が失われ、機械の一部分のようになっている世の中を笑いで表現している。自動給食マシーンの実験台にされるシーンや、チャップリンが歯車に巻き込まれるシーン、ラストのチャップリンとヒロインが手をつないで道を歩いてゆくシーンなどが有名である。→ウィキペディア




1939年6月 那覇の旭館で「ハリケーン」上映
『ハリケーン』(The Hurricane)は、ジョン・フォード監督、サミュエル・ゴールドウィン・プロダクションズ(英語版)製作による1937年のアメリカ合衆国の映画である。

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森於菟 もり-おと
1890-1967 大正-昭和時代の解剖学者,随筆家。
明治23年9月13日生まれ。森鴎外の長男。東京帝大助教授をへて台北帝大教授となり,解剖学を担当。のち東邦大医学部長などをつとめた。「解剖台に凭(よ)りて」「森鴎外」「父親としての鴎外」などの著作がある。昭和42年12月21日死去。77歳。東京出身。東京帝大卒。→コトバンク
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沖縄県立博物館・美術館にて「くしの日 美ら姿 結い遊び(主催:玉木流 琉装からじ結い研究所)」がありました。



モデル・仲里なぎささん


1995年10月 小波則夫/宜保榮治郎『きからじの世界』小波則夫
○グラビア/第一章ー実技編1、小波式琉髪の結い方 2、歌劇にみる髪型 /第二章ー髪型・資料編1、琉球風俗絵図 2、諸外国にみる髪型 3、琉髪と簪の歴史概説 /第三章ー対談1、小波則夫の足跡2、小波則夫の芸談 小波則夫・年譜

○写真ー金武良章、志田房子、佐藤太圭子、親泊興照、真境名由康、宮城能造、島袋光裕、宜保榮治郎、ウミングヮ役の小波則夫、久高将吉、比嘉清子、与座つる、浜元澄子・朝保、比嘉正義、玉城盛重、前田幸三郎、翁長小次郎、小山明子


2013年12月21日 沖縄県立博物館文化講座「『きからじ』と『ジーファー』」
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写真左から写真家の山田實さん、牧野浩隆氏、沖縄髪結いの小波則夫氏

鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』岩波書店(1982年10月)に首里王府画人伝と題し、長嶺華国「琉球歴代画人表」、末吉安恭「琉球画人伝」とあるが,これは村松梢風『本朝画人伝』に倣って鎌倉さんが付けたもの。「琉球画人伝」の恵光翰友寄筑登之で「彼以前に沖縄美人を画く者もあったが、髪を画くにあたり昔風に根をつめて結う髪の形が野暮ったくこれを絵にしても面白くないので、恵光翰は大いにここに工夫をこらし、根をゆるくして左右に張り広げるように画いたため髪がひき立って美しく見えるようになった。その髪風がまもなく辻の遊女の間に行われ、また一般婦女子にもこれを模する者が現れ、これが流行となって新しい明治風俗の琉球美人を形成した」と琉髪に触れている。

           



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刀剣・諸道具・御輿・山車・和船・かつらといった様々な古き良き日本伝統の品物を全国各地の職人を尋ね歩いて製作依頼し、また蒐集したミニチュアコレクション。工芸品とも呼べる品々から、選りすぐった逸品ばかりを紹介!江戸の風物や諸職人の心意気を情緒溢れる文章で紹介する今清水氏の随想は、ミニチュア世界の奥行きを広げ日本の在りし日の姿を髣髴とさせる。





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ミルクウンケー(琉球語 うちなーぐち)直訳すれば「弥勒様のお迎え」とすればいいのだろうか?今年は8月17日(日)午後4時30分、赤田首里殿内(アカタスンドゥンチ)跡の赤田クラブから弥勒様御一行がお出ましになる、僕もバイクに飛び乗り駆けつけた。「ミルクウンケー」については『沖縄タイムス大百科』から以下転載する。

 弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化生といわれる中国唐代の禅僧、布袋和尚(ほていおしょう)が、七福神の一つとして京都の祭礼の行列〈風流〉に登場したのは室町時代といわれる。
 首里では350年程前、石川門中の祖、求道 〈ぐどう〉長老により、赤田首里殿内に弥勒面が祀られ、7月14日に泰安所を開き、16日に門中を中心に道ジュネー(行列)があった。赤田マチグチ(赤田市場口、今のウフカクジャー交差点から南に100メートル足らずの路肩一帯は赤田市の跡で沖縄戦まで、食肉、豆腐、野菜、雑穀など、主として食料品の相対売り市場であった。←久手堅憲夫著『首里の地名』より)突き当たり右に直角に曲がるあたりに舞台を設け、その中央に面や胴、衣装一式を安置し、まわりには弥勒御愛子(ミルクウミングヮ、ミルクングヮ)が並び大香炉に香を焚き、東に向かって(←ここ重要)世界風
ユガフ、豊作、健康を祈願した後、祭主の本家、大石川(ウフイシチャー、首里石川の宗家)の家長が面と作り物の胴をつけ、ドゥジン・袴をつけ胸をはだけて大団扇(うちわ)で豊年を招き寄せながら、舞台をしずしずと一周する。

 弥勒面は戦災で焼失したが、平成6年に復元された。 行列は高張提灯一対を持ち、先頭に警護役、弥勒、路次楽隊(ろじがくたい)、ミルクングヮ、赤田の村人の順に、首里殿内跡の赤田クラブを出発して、弥勒節を歌い、且つ奏でながら赤田マチグチに向かう。(赤田市のない今では、赤田クラブの庭に舞台を設え、赤田クラブを出て赤田町の外周を1時間ほどかけて、マチマーイ(街廻り)をした後、クラブの舞台でのウトゥイムチとなる。  転載ここまで。( )の解説は筆者。 

 通り沿いには大人に混じって小さな子を抱いた人や、ベビーカーの赤ちゃんが詰めかけ弥勒の団扇の洗礼を待ち受けていた。2~3歳くらいの子等は弥勒様の大きな顔にビックリして泣き出したり、逃げだす子もいて、見ていて楽しい。今回見ていて、「時代だよなぁ~」と思ったのは、ペットの犬や猫を抱いて待ち受ける人達がいたことだ。でも心優しい吾ら弥勒加那志(ミルクガナシー〈ガナシーは尊称〉は人畜の分け隔てなく、その福の風を送るのでした。

 ミルクのゆったりとした行列が移動するにつれて、笑顔や歓声の波が移って行く、それがやがて赤田町全体を包み込んでいく・・・・・極楽浄土の風が吹いているんだ!この光景を見ながら僕は例によって「俺は今、天の御国にいる!」と呟いたのだった。


ミルクングヮと チャンチャンと ピーラルラー
 ミルクングヮはンカジバタ(百足旗)ムカデの足のようなヒラヒラの付いた三角旗を持っている。保育園児から小学校中学年(3~4年生)の児童からなる。僕のオヤジも2回でたと言っていた。(左写真)路次楽隊の端のメガネをかけた女子中学生が持っているのが「チャンチャン」中華シンバルと名付けておく。 (写真右) 主旋律を奏でるピーラルラー(確かにそのような音色がするが、チャンチャンといい、このピーラルラーといい、琉球の先人達の音色をそのままに、その楽器の名称にするセンスには笑っちゃうのだ)ピーラルラーはチャルメラともいうらしい。思わずインスタントラーメンの外装に描かれた屋台のオジサンを思い出した。「夜鳴きソバ屋」のない沖縄でも、あの「ソラシーラソ・ソラシラソラー」の旋律を思い出す。 チャルメラとあの旋律については面白いので調べて『番外編』を後付けする。

ウトゥイムチ
  赤田町を一周して赤田クラブに帰ってくると、クラブの庭に設えたバンクと呼ばれるステージでのウトゥイムチ(ミルク様への お・も・て・な・し タイムです)歌や踊り、空手の演武などで、ミルク様と下界の衆生との年に一度の邂逅(かいこう)を供に歓び、その幸せを皆で分かち合うのです。直会(なおらい)、沖縄でいうウサンデーです。喜びも悲しみも、そして食べ物も供に分かち合い戴く、そしてその歓びを確認していく事はとても大切な事です・・・・ここをクリック


弥勒菩薩と布袋さん
 今回、友人の一人と「赤田のミルクウンケー」の話しをしている中、「あれは、弥勒菩薩ではなく、布袋さんだぜ!」と意見が一致した。10歳を過ぎた頃から(もの心の付いた頃)から、ミルクの話は父から何度となく聴かされてきたが、布袋だの弥勒だのという話題になった事は無く石川門中でも「肥満体のジーチャンイコール 「ミルク様」と言う考えが固定化されているのだと思う。(ミルク様悪口じゃないのですゴメンナサイ!) とても新鮮な気付きであった。

 弥勒菩薩といえば、京都広隆寺の半跏思惟像(はんかしいぞう)が有名である。(写真左、郵便切手にもなった)。修学旅行で半跏思惟像に初めて出会った時は、その美しさ、静けさに、しばし、動くのもためらわれた記憶がある。それにしても大きなお腹で明るく、豪放磊落な熱血漢、たくさんの子供たちを引き連れて旅をしていた布袋さんと、慈愛に満ちて思慮深そうな弥勒菩薩ではイメージのギャップは甚だしい。

 そこで、この謎を解明しようと弥勒菩薩と布袋さんとの関係をネットで調べてみた。
 インドで生まれ、中国を経て日本に伝来した仏教は、その時代や地域と複雑に絡み合い、変化し、日本の神仏習合まで併せると、とても僕のような凡人には他人に説明などできないと思い知った。そこで、おもいきりハショリ、平ベッタク云えば。弥勒菩薩が一般の衆生を救済する時には垂迹して(本地垂迹説の垂迹)布袋さんの姿を借りて人間世界に現れる化生としての布袋さん・・・というところに辿りついた。布袋和尚は800年代後半に生まれ、916年に没した実在の禅僧である。(神とキリストの関係に少し似ている。)
 弥勒菩薩が七福神の一人となった今、そのご利益は、夢を育て、人格を磨き、円満な家庭を築いて、金運を招福するということで、慈恵(いつくしみ)と和合の神様、予知と金運の神様として信仰されているようである。
 そういえば、七福神のなかの紅一点、弁財天も龍潭の東に、天女橋とともに弁財天堂として県民に親しまれている。

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