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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 「ふりむん随筆 未完成公共学(一)」□私は自由の月である。フリームーンである。現在は順天堂大学医科大学教授で英語と文学(国語漢文を含む)の主任教授であるが、学生はわたしのことを「シュセキキョウジュ」と呼んで親しんだりこわがったりしているが「首席教授」の意味だが「酒席狂需」の意味だか、忙しくて辞書を引く暇がないので自分でもよくわからない。どんな辞書を引いたらよいか沖縄隋一の学聖否全日本でも無類の碩学 東恩納寛惇(有名人敬称略、御免)に質してからゆっくり調べることにする。

 昔から「金持ち暇無し」と言う通り、事実私は暇がないのである。アルバイトとして桐葉予備校、文京予備校、国際予備校の3校の英語主任も兼務して居り、日本英学院で英文学も講じて居り、丁度目下那覇の大宝館で上映中のグレイアム・グリーンの「落ちた偶像」の原作を英語で講義中である。ささやかながら自分の石川英語学院も手離せない。二つの出版会社の編集顧問も引き受けている関係で原稿依頼も多い。

「ありが英語小や、ゆくしぬうふさぬ、わー英語小けんそーれー」と日夜歌っている身になってごらんなさい。英語ニコヨンはつらいです。ウランダ口アチョールドウは悲しいです。「大和口使て、ウランダ口ならーち、唐書物読むる沖縄二才我身や」と大日本帝国はなやかなりし頃、那覇の一角、中島小掘のほとりでき門の望に明け暮れる母に琉歌を送ってなぐさめた、我が厚顔の青年の日が、昨日や今日のように思い出されて胸がうずく。「日本語も英語も知らぬアンマーはワッター次郎を故郷に待つ」と涙ながらに和琉ちゃんぼの忍び泣きに異郷滞在の不孝の罪を心にわびたのもその頃である。

徳田球一と神田の下宿で寝ころんで本を読んだのもその頃だ。球一はいつも丸太のように寝そべって、座ることなんかめったになかった。それから田端の或寺に引越して行った。当時の徳田球一の事を詳しく知っているのは山城正網画伯と文学薄士石川正通である。その1年前までの球一、つまり七高造士館時代の球一のことは伊礼肇に聞けば一番よくわかる。またその前、というと、沖縄一中時代の徳田球一の勉強振りや怠け振りに就ては伊礼亀(肇の当時の名)、比嘉良篤、瀬長良直あたりが生々しく語って呉れるであろう。当時の徳田球一行状記に関しては天才池宮城積宝が生き字引であったが、惜しい人を亡くしたものだ。しかし私が積宝から親しく聞いて大抵のことは覚えている。

奇行逸話に富む徳田球一のことだ。稿を改めて詳述するであろう。そのまま落語の種子になるような奇想天外的な彼の行動は驚天動地の彼の思想にもまして私の文学的好奇心をそそってやまないからである。


徳田球一の墓(多磨墓地)島袋和幸撮影

芥川龍之介は徳田球一の寄寓する寺の上手に、森田草平と「ばいえん」で有名な平塚雷鳥女史は下手に住んで居た。球一が霜氷る晩秋の暁方に雷鳥の門をたたいた秘話はシエイクスピアの四大悲劇の一つである「マクベス」の中の有名な「門たたきの場」とそっくりで、歴史は繰り返すと後輩の私などはつくづく感心したものだ。尼寺の美しい尼僧達が球一の天真爛漫な開放主義と男性美に面食らって感じてはならない春を感じてそそくさと列を乱し嬌声をあげて逃げたことも一度や二度ではない。私はもちろん共産党と何等関係はないが人間としての彼をこよなく愛する。

「ふりむん随筆 未完成公共学(七)」□「大傷繃帯日」も私の予言である。大東亜戦争が天皇の名で宣せられ「大詔奉載日」が制定されるや、私が愛国の至情から国難を予言した)「大傷繃帯日」は物の見事に的中した敗戦直後(終戦という言葉でごまかすな)伊波普猷の家で会ったとき松本三益に「石川先生は徹底的に敗戦論者でしたね」と妙なことを覚えられていて、比嘉春潮も「そうだったか」と私を見直した。「そてつ(蘇鉄)地獄」と沖縄の窮乏をなげき、「ブーサー極楽」と故郷の退廃を憂えていたとき「人口過剰の無人島」と人物缺乏を痛嘆した40年前の私の寸鉄は今日の日本に対する予言となって実現している。「天ぴ大和口」という奇語も私の発明だったかどうか忘れたが、今沖縄ではどんな標準はずれの標準語を使って金をもうけ、恋を語って居るであろうか。

キヤメルを鹿小と呼び、ラッキー・ストライキを旗小と称し、フィリップモリスを黒ん坊と唱えている由、私はふるさと人の語感を頼もしく思い、既に天下をのんでいるその意気に敬意を表して頭を下げる。パチンコと競輪にうつつをぬかして夢中になっている知性の無い今の大和民族にはそんな意気やゆとりのかけらも無い。一度は政治的に亡んだこの国は、今精神的亡国の寸前にある。だからいつまでもまずい煙草をのまされているのだ。煙草から立ち登る煙にすらレジスタンスをしめす気力がないのである。

「竹島は明らかに韓国領土だ。その証拠にはあの島にはパチンコ屋は一軒も無い」と李承晩大統領にすらなめられているていたらくである。日本の大学生はパチンコをしたついでに学校に通う。李承晩ラインの故智にならったわけでもあるまいが、沖縄の周囲に精神的愛郷の比嘉秀平ラインを張りめぐらして人生冒涜の亡国遊戯パチンコの神聖なる沖縄侵入を断固排していると聞く我が同僚沖縄民政府主席比嘉秀平の明智と良しきと勇気に対して在京沖縄人全体ではなく私一人を代表して厚く謝辞を述べて益々その健闘を祈らずには居られない。

「ふりむん随筆 未完成公共学(九)」□(略)当間重剛を語る門外不出の材料も一中、三高、京大、司法官時代と沢山ある。唯彼に一つの欠点がある。それは私に話しかけるとき、パリー語や那覇語を使わないで最初大和口を使うことである。それはよろしくない。今度彼が東京に出て来たら、大いに叱ってやろうと思っている。飲む前に叱るのだ。「石川正通 当間重剛を叱るの図」これは素敵な画題だ。山田真山の麗筆に触れれば雪舟、応挙の塁を摩し、金城安太郎の絹布に上れば、歌麿、写楽を彷彿させ、嘉数能愛のパレットに踊っては関屋敬次の風格と画風を再現し大城皓也のカンバスに現れては曽太郎、龍三郎の域に迫り、渡嘉敷唯夫の画用紙に捕らわれは、近藤日出造、池部均をしのぐ傑作となr山里永吉の画板に乗ればピカソかマチスかマボーあたりを顔色なからしめる旋風を起こすであろう。更にまた瀬名波良持の紅型に染めぬかれれば鳥羽僧正の遺風を伝えて永久に博物館を飾る国宝に指定されるであろう。

波之上神社の鳥居と那覇市役所の馬鹿塔と当間重禄の医者の看板を那覇の三大不用物と指摘したのは崎山嗣朝の余りにも有名な警句で政争の激しかった大正末期の名残を留めて如何にも泊人らしい気概に満ちている。和辻哲郎の「偶像再建」を読むまでもなくヨーロッパの中世思想に抗して興った近代ヨーロッパのアイコノクラズム(偶像破壊)の思想も今日では思想史の数頁をかろうじて占める哲学の足跡に過ぎない。わがふるさとも偶像再建の機運に近づきつつあることと思う。波之上神社の鳥居はカンプーサバチでどうなったか知らないが、前よりも大きな鳥居を建てたらどうだろう。もし神社が残っていたら。それは神の家の門として建ててもやがては那覇の風物詩の一つとなるであろうから。

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2015年6月 島袋恒政・島袋和幸『鳥人・飛び安里考』大和印刷(電話 03-3862-3236)定価・送料共1000円
発行ー『沖縄の軌跡』発行人・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)

島袋和幸「沖縄の鳥人<飛び安里・花火師>」
 沖縄の鳥人<飛び安里・花火師ヒハナジ>は、ことに沖縄では偉人と言われている。それは、約二百年前に<飛行>、つまり空を飛ぶ事について試行錯誤していた可能性があるからだ。その<飛び安里>について、彼が研究したであろう<飛ぶ>という事と、<沖縄の偉人>としてのロマンから、飛び安里について多くの方々が新聞や雑誌。書物などで言及されている。一方マスコミで取り上げられたことも数多いのである。しかし、こうした取り組みの中にあって、決定的な文献が無いとか、実際に飛んだ<飛び安里>とは一体誰なのかとか、又、飛んだ場所等についても諸説があったりで、実際には多くの方々を巻き込んで議論が尽きないのである。

 こうした中で島袋恒政氏は、「二百年前の初飛翔/コンピューターで性能解明へ」(『沖縄タイムス』昭和62年2月14日)、「<跳び安里>のロマン再び/資料から模型製作/二百年前に精巧な設計」」(『沖縄タイムス』昭和62年5月10日)という新聞記事になる、<想像図>を国立国会図書館で発見している。それは約30年も前のことで、これ以降、地元新聞紙上や雑誌などで盛んに取り上げられた。その後も、同氏は各種資料や書物に真実を求めて追求してきた。安里家の遺族関係者や、貴重な証言、珍しい資料などが埋もれてしまう前に記録しておきたいという強い思いがある。
 
 私は、約20年前に<飛び安里>研究に緒をつけた『科学画報』の記者、宮里良保について人となりを記録していた。さらに、15年前ほど前から民間航空の始祖である奈良原三次(奈良原繁沖縄県知事の嗣子)についても記録を行っていた。そして、いがいにも沖縄人の飛行機研究者が明治・大正期の早い時期から多かった事を知る。こうした事情等を島袋恒政氏の<飛び安里>についての博識な知識と、資料の記録をお手伝いしたいと思った次第である。

1999年3月28日『琉球新報』【南風原・玉城】「飛び安里の夢、再び」。南風原町の町おこしグループ「すきです南風原・夢・未来委員会」(島袋宗一会長)が、琉球王朝時代に空を飛んだ「飛び安里」の羽ばたき機をこのほど復元させ、27日午後、玉城村前川の丘陵地で初フライトにチャレンジした。想像図を基に約半年がかりで製作した復元機は、絶好の北風を受け、ふわりと空へ。伝説の翼が時を超えてよみがえった。 「町おこしのため、皆で何かできることはないか」と「飛び安里」の復元飛行を発案したのが、同委員会を立ち上げた8年前。島袋さんが会長に就任した2年前から本格的な作業に取り組み、昨年9月に復元機の製作に着手。試行錯誤を繰り返しながら、延べ60人がかりで完成にこぎつけた。
機体は、メンバーの島袋恒政さんが国会図書館から見つけてきた「飛び安里の羽ばたき機」の想像図を基に設計。主翼の幅が8・6メートル、長さ4・6メートル、高さ1・6メートル、重量25キロ。竹の骨組みで、翼はパラグライダーの素材を活用。一部に南風原町特産の絣(かすり)も取り入れた。初フライトのこの日、本番直前まで豪雨に見舞われたが、関係者の祈りが通じたのか雨も上がり、風速約5メートルの絶好のコンディションに。パイロット役としてパラグライダーインストラクターの仲里裕和さん(44)=佐敷町=が、機体に乗り込み準備が整った。
城間俊安町長をはじめ、多くの関係者が見守る中、タイミングを見計らって助走を開始。ハンググライダーの離陸の要領で斜面を駆け降りると、風を受けた機体はふわりと空中へ。高さ二メートルほどで、約15メートル飛行し、わずか数秒ながら初フライトは無事成功した。飛行を見守っていた島袋会長は「やった。すごい」と感激の第一声。「次はもっと飛べると確信した。これで目的は達成した。230年前の飛び安里の話も、これで実証された」と笑顔を見せた。ぶっつけ本番で緊張ぎみだった仲里さんは「思ったより難しかった。しかし、これでコツはつかめた。この機体で飛ばせてもらっただけで満足です」と話した。


自動車の知識(誠文堂十銭文庫 33) 宮里良保 著
宮里の本や資料については島袋和幸に問い合わせてください。〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10 ☎03-3695-9276 島袋携帯090-4920-6952

○1913年11月 素人飛行家、渡辺又一、勢理客鍋(佐敷村出身)両氏は渡辺氏の作成に係わるカーチス式複葉飛行機の滑走を試みるべく、両氏は数日前よりこれが組立に従事し、いよいよ飛行の当日は、先ず渡辺氏が滑走を試みたる後、勢理客氏又滑走を試みる筈にて行く行くは渡辺氏の飛行機に、勢理客氏の所有にかかるインジン(機関)を据えつけ、佐村氏の監督の下に天晴れ飛行家とならんとの決心を抱き居りたり。然るにピンカム知事は、これら飛行家の苦心を無視し、ハワイ軍区長官カーター少将の命によれりとて、遂に飛行を差し止むるに至りたり。『新聞にみるハワイの沖縄人90年』比嘉武信/編著 1990/10/01 若夏社
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岩陰(摩文仁の浜)


「摩文仁の浜の一日」と新城喜一氏

「摩文仁の浜の一日」(部分)

いにしえの門(中城城址の表門)


ヤマトゥーガーへの道(粟国島)


波照間三蔵氏と新城喜一氏

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・・・今思うに、”泊外人墓地”にしても、今回の写真にしても、<写真すること>に対する向かい方は同じスタンスであるとあらためて思っている。自分が生きて見た”風景”を自分の中に、そして外なるモノの世界に定着させたいという欲求である。それは、自分が確かに生きているということを確かめるために刻む、私が世界に刻んだ”接触痕”である。



新垣辰雄氏と作品「カリフォルニアの風」

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5月21日ー山田實さん宅に遊びに行くと下記の写真があった。

1972年 沖縄三越カメラコーナーで山田實さん


写真前列左からー金城棟永、不詳、屋良勝彦、山田實、津野力男、安里盛昭、金城幸彦、平井順光
後列左からー大城弘明、坂井一夫、高野生優、東邦定、小橋川哲、上地安隆、大嶺信雄、不詳、大城新吉
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  2015年5月20日『琉球新報』はハワイで墜落したばかりのオスプレイが訓練再開の記事、隣接して大阪国際平和センター(ピースおおさか)が沖縄戦の実物資料を紹介するコーナーを館内から撤去したことを報じている。リニューアル前の展示では満州事変から太平洋戦争にかけての「15年戦争」を紹介、中に南京大虐殺など日本軍の加害行為もあって、大阪維新の会、自民党の府市議らから「自虐史観」と言われていたのが大きな原因だと言われている。21日『沖縄タイムス』には立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎氏が「何を展示し何を展示しないかという判断に館なりの歴史観や価値観が反映される。今回の場合、大阪市長とその会派の歴史観を反映して展示が『大阪の被害中心主義』に変更された」と指摘。

 5月17日ー戦後70年止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会が沖縄セルラースタジアムで開かれ3万5千人が参加した。また橋下独裁の「大阪都構想」が否決されたとの記事もあった。県民大会について菅官房長官は「民間の方が主催したもので政府としてのコメントは控えたい」と嘯いた。『週刊ポスト』は権力批判で安倍首相などをまな板にのせているが、5月18日発売号では「日歯連マネーが複雑な献金ルートを経て菅官房長官が代表を務めていた団体に渡ったと報じている。この日歯連は、過去、自民党金権政治の財布となってきた組織だ。」と報道した。このように権力に咬みつくことを沖縄では「紙ハブ」というが、逆に国の暴力装置の佐藤海上保安庁長官が沖縄の「紙ハブ」に咬みついていた。

 古川美穂『ギャンブル大国ニッポン』岩波書店2013年に「大阪の橋下徹市長は、大阪府知事時代の2010年10月、カジノの合法化をめざす国会議員らを招いた『ギャンブルリング※ゲーミング学会』に出席し、『日本はギャンブルを遠ざけるゆえ、坊ちゃんの国になった。小さいころからギャンブルをしっかり積み重ね、全国民を勝負師にするためにも、カジノ法案を通して下さい』と議員らにカジノ合法化を求め、『増税よりもカジノ。収益の一部は教育、福祉、医療に回す。隣の兵庫県知事が反対しても無視。わいざつなものは全部大阪が引き受ける』と驚くべき発言をした(2010年10月29日『朝日新聞』)。しかし日本にはパチンコという小カジノが1万軒以上街中に乱立し、世界のゲーミングマシーンの6割以上があり、さらに6種類の公営ギャンブルが存在する。その結果、成人男性の9・4%、成人女性の1・6%が病的ギャンブラーの疑いがあるとされているのだ。-『坊ちゃんの国』などではない。日本はすでに、世界に冠たる『ギャンブル大国』ではないか。)」

 ギャンブルで思い出すのが、松井 一郎(まつい いちろう、1964年1月31日 - )である。大阪府知事(民選第18代)。大阪維新の会幹事長、維新の党顧問。維新の党幹事長、日本維新の会幹事長、大阪府議会議員(3期)などを歴任した。住之江競艇の照明・電気設備関係の工事・保守を一手に請け負う株式会社大通の元代表取締役。父は大阪府議会議長(1996年)を務めた松井良夫。(→ウィキペディア)父良夫元府議会議長は、知る人ぞ知る故笹川良一の直系の子分だった人物と言われていた。

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1893年9月15日『琉球新報』創刊

1989年11月30日『琉球新報』松島弘明「琉球新報初代主筆・野間五造の著書や論文発見」

1893年、寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。

 琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

 『琉球新報』の創刊は一八九三(明治二十六)年九月十五日だが、実はそれ以前にも新聞発行の動きがあったことが分かっている。一八九〇(明治二十三)年十二月十三日の『官報』に「沖縄新聞、隔日、琉球国泉崎村九番地、沖縄新聞社」と記されているが、この新聞は計画だけで終わった(新城栄徳「琉球新報」九三年四月二十日)。

■明治23年7月6日『九州日日新聞』「沖縄県に一新聞起るー行なきより近来時勢の進歩に連れて其必要を感する者日に増加し先頃来頻りに計画奔走中の者ありし由なるが今度同県庶務課属華族戸田敬義氏等の発起にて準備○○は整頓したるに依り愈々近日より一新聞を発行す○の○合なるが主筆には戸田氏自ら當る筈なりといふ」→國吉まこも氏提供

 同年9月22日、『大阪朝日新聞』は「琉球新報-廃藩置県の日浅く他県に比して一層の啓発を要するの地宜なる哉此新報の発刊を見るや新報は隔日刊にして初号には琉球年代記を附録せり」。京都『日出新聞』は「琉球新報-混沌たる暗黒の幕を破りて五百余万の王民に対し閃山一道光燈来の光景を与へんと期する琉球新報は本月十五日を以って第一号を発刊せり紙幅体裁固より内地の発達したる諸新聞紙に比すべくもあらざれど邦人をして琉球に於ける政治社会経済上の事実を知らしめ沖縄県民をして旧慣陋習を破り文明の空気に触れしむるの機関として裨益する処少なからざるべし発行所は那覇西村百二十三番地にして隔日刊行する由」と報じた。

 同年9月23日、『読売新聞』は「琉球新報-かねて噂ありたる琉球新報は去十五日第一号を発兌せり吾人は之より琉球が社会上の問題として並びに経済上の問題として天下に紹介さるるを喜ぶ」と報じる。

 同年9月26日、『朝野新聞』は「琉球に新報起れリ-昔は絶海の孤島、今は沖縄県の奔蒼裡に、喜ぶべし開明の一機関なる新聞は起これり。今や計画準備全く整頓して、琉球新報と題名し、去る十五日を以って第一号を発兌したりという。発起人は尚順氏の代表者、島按司護得久朝惟、商人芝原佐一、按司高嶺某、同親方豊見城某、宮井悦之助、野間五造の人々にて、発行兼印刷人は伊奈訓氏、編集人は太田朝敷氏、校正は諸見里朝鴻氏なり。印刷機械は従来沖縄県庁に備え付けありしものを七万圓にて払い下げ、維持費には同県庁の公布式を引き受けし年額二千圓余を充つるはずなりとぞ。因に記す、新聞の発行は当分隔日なる由」。27日の『国民新聞』は「琉球新報は去る十五日那覇西村琉球新報に由て発刊せられたり曾て慶応義塾に遊学しつつありたる琉球人の筆になる云ふ」と報じられた。

私は1989年11月に、琉球新報初代主筆の野間五造の経歴を発掘したことがある。大阪府立中之島図書館で、たまたま講談社創立者の野間清治のカードを繰っていたら、琉球新報の野間五造を思い出しカードで調べた。著書が次々出てきた。『縦横公儀録』(1912年)、『日支合邦論』(1913年)、『立法一元論ー貴族院無用論』(1926年)などがあった。岡山県出身ということも分かった。岡山市立中央図書館に岡本月村(画家)と共に問い合わせると野間の写真、新聞記事、人名簿などのコピーを送ってくれた。

『中国新聞』によると、「桜痴時代の新聞記者として健筆をふるった五造は、若い血潮にまかせてシナ、琉球、タイワン、満州ととびまわり巨万の富を築いた実業家でもあった」とある。五造は1898年、30歳のとき、若さと金にものをいわせ木堂派の憲政党公認で衆議院に出て当選した。1900年から01年にかけて欧米、インド、北津、ロシアなどを視察して帰国。次いで02年の衆議院にも再選された。政界を引退し満州にわたり水運公司をおこし財をなして07年に帰国。銀座や明石海岸に大邸宅を構え政界を放浪し日夜、遊里で大尽遊びを続けていた。

1911年1月発行の雑誌『グラヒック』に美人論と題し「今日のように新橋全盛の世と移りかわっている。その新橋でも江戸っ子芸者から名古屋の金城美人の全盛を迎え、今は北越種を加味し来り。此のぶんで進めば台湾の生蕃や琉球のアンガが飛び出す時代もくるであろうと思われる」と書いている。五造の女性の好みは知らないが、最近のテレビなどに毎日のように沖縄のアンガが出ていることを
教えてあげたいものだ。

 1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一は父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

麦門冬と太田朝敷


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05/17: 石川啄木

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1985年4月17日 琉球新報社・沖縄啄木同好会主催 「’85啄木忌 記念講演会」講師・渡辺喜恵子

わたなべ‐きえこ〔‐キヱこ〕【渡辺喜恵子】
[1914~1997]小説家。秋田の生まれ。本姓、木下。郷土に根ざした作風の歴史小説などを執筆。南部藩の御用商人の家族を描いた大河小説「馬淵川」で直木賞受賞。他に「啄木の妻」「原生花園」など。→コトバンク

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沖縄歴史物語(右がハワイ版)
伊波普猷のよく知られた言説に「・・・さて、沖縄の帰属問題は、近く開かれる講和会議で決定されるが、沖縄人はそれまでに、それに関する希望を述べる自由を有するとしても、現在の世界情勢から推すと、自分の運命を自分で決定することの出来ない境遇におかれてゐることを知らなければならない。彼等はその子孫に対して斯くありたいと希望することは出来ても、斯くあるべしと命令すること出来ないはずだ。といふのは、廃藩置県後僅々七十年間における人心の変化を見ても、うなづかれよう。否、伝統さへも他の伝統にすげかへられることを覚悟しておく必要がある。すべては後に来たる者の意志にに委ねるほか道がない。それはともあれ、どんな政治の下に生活した時、沖縄人は幸福になれるかといふ問題は、沖縄史の範囲外にあるがゆゑに、それには一切触れないことにして、ここにはただ地球上で帝国主義が終わりを告げる時、沖縄人は『にが世』かr開放されて、『あま世』を楽しみ十分にその個性を生かして、世界の文化に貢献することが出来る、との一言を附記して筆を擱く。」(1947年11月『沖縄歴史物語』沖縄青年同盟)がある。

<あま世>の言葉は、1933年1月、琉球新報主催「航空大ページェント」で瀬長島上空を関口飛行士操縦の複葉機から色白の美人・宮森美代子嬢がパラシュートで飛び降りる。それを万余の沖縄県民が見物という新報記事を東京で見た伊波が自身のロサンゼルス上空を飛んだ感動と重ね合わし「おもろ・飛行機」と題し「・・・紫の綾雲、おし分けて出ぢへたる、ふへの鳥の舞ひ、如何し来る鳥が、常世の大ぬしの御使者は有らにゃ、・・・大和世は物事変て、殊に工学のひろましや、珍しや算知らぬー沖縄御間切心一つならば、苦世す甘世なさめ。直り世は実に是からど始まる」とよんだことが初出である。

パンチボウルの丘(国立太平洋記念墓地)ー7万5千年から10万年前の火山活動によって形成された高台のクレーター、パンチボウルは、古代ハワイで「Puowaina(犠牲の丘)」と呼ばれていました。タブーを犯した罪人をいけにえとしてハワイ古代宗教の神に捧げる祭壇が高台に置かれていたのです。国立太平洋記念墓地としてオープンしたのは1949年。第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争で母国のために自らを「犠牲」にした4万6千以上の兵士が眠る丘となりました。。→ハワイナビ/アーニー”アーネスト・テイラー・パイル(Ernest Taylor "Ernie" Pyle, 1900年8月3日 - 1945年4月18日伊江島で戦死)は、アメリカ合衆国のジャーナリストやショージ・オニヅカ(Ellison Shoji Onizuka, 日本名:鬼塚 承次, 1946年6月24日 - 1986年1月28日)は、アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士である。の墓石。

1949年12月  セブンスデーの屋比久孟吉は平信徒でありながら華府本部から特別伝道者の任命を受けて伝道者の資格で沖縄へ赴くことになった。

1950年12月  慈光園教団発足ー顧問・小波津幸秀、上原与吉 相談役・伊芸長吉、村岡敏恵、桜田漸、福本元蔵、伊波幸繁、大嶺発市、仲真良樽金、宮城栄吉、大兼久秀一、石川元真、大城太郎、宜野座太郎、伊佐松 名誉教団長・・・与世盛智郎 教団長・山里慈海 理事長・宮里平昌 副・瑞慶覧智珍、仲嶺真助 書記・神谷益栄、上地安宏 会計・真喜志康輝、豊見里友義、監査・宮城麗栄、高良牛、宮城亀盛

1951年1月 比嘉武信『布哇沖縄県人写真帳ー来布五十年記念』
1951年2月 乙姫劇団が来布公演

1951年3月 雑誌『おきなわ』<ハワイ特集>



1951年3月 雑誌『おきなわ』湧川清栄「布哇沖縄人五十年史抄」」
1951年3月 雑誌『おきなわ』大城登美「見たり聞いたり味はったり」

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1951年10月 山里慈海『居士は春風』/1953年3月 玉代勢法雲『遠慶宿縁』


クラ放送局沖縄文化放送部デイゴメロデー/左から大城とみ子、津波實重、山川喜信→1951年1月 比嘉武信『布哇沖縄県人写真帳ー来布五十年記念』

1951年3月 遣米第二回国民指導員来布□志喜屋孝信、大城つる、城間政善、上江洲由道、渡口政義、永山盛三郎、当銘正順、上間亀政、翁長俊郎、大嶺政寛、名渡山愛順、松岡政保、中江実孝、屋田甚助、森敬道、林哲雄、財部つさえ 名渡山愛順「私は終戦後、青年将校の肖像画を五百枚以上も画きました。20数点持参してニューヨークで展覧会を開きますが出来たら帰路にハワイでも開き、又ハワイのカラーも描いて見たいと願っています。」
1951年6月 東京大阪合同琉球芸能団一行8名は渡口政善、金城常盛、上江洲安雄、安谷屋政信の招聘で来布□渡嘉敷守良(我如古安子の叔父)、池宮城喜輝、奥間英五郎、奥間清子、佐久間昌子、渡嘉敷信子、渡嘉敷利秋、島正太郎
1951年6月 南加大学の招聘で琉球音楽を講義しに行く東京沖縄音楽舞踊研究会会長の山内盛彬はツル夫人同伴寄港。
1951年7月 宮里辰彦(第三回沖縄国民指導員)ホノルル郊外ヒッカム飛行場着。此の飛行場は例の日本軍の真珠湾攻撃の際、真っ先に叩かれた所である。
1951年7月 雑誌『おきなわ』<故人追憶特集>

大里康永「民族解放の戦士 謝花昇」/湧川清栄「先覚者 当山久三を偲ぶ」/上原仁太郎「ダバオ開拓の恩人 大城孝蔵氏を偲ぶ」/比嘉春潮「仲吉朝助氏」/仲吉良光「法曹界の恩人 麓純義氏」/平良徳助「宮城鉄夫氏の思い出」/東恩納寛惇「真境名笑古」/比嘉静観「伊波普猷先生と私」/伊波冬子「微風」/船越義英「漢那先生」/玉代勢法雲「田原法水師を語る」/比屋根安定「比嘉保彦と佐久原好傳」/島袋盛敏「麦門冬を語る」/仲原善忠「佐喜間興英の業績について」/親泊政博「新聞人、当眞嗣合」/当眞嗣弘「父、当眞嗣合」/山里将秀「八重山の生んだ音楽詩人 宮良長包先生」/新屋敷幸繁「世礼国男氏を想う」/島袋源七「故 島袋源一郎氏を懐う」/編集後記

1951年8月 ハワイ沖縄連合会発足(理事長・儀間真福)
1953年2月  慈光園で柳宗悦、浜田庄司、バーナード・リーチ講演会「琉球文化を語る」。沖縄紹介映画、幻燈などがあった。
1953年12月 雑誌『おきなわ』№33「ハワイのうつりを語る座談会」
出席者ー平良牛助、玉代勢法雲、比嘉静観、小波津幸秀、金城珍栄、山里慈海、天願保永(おきなわ布晆支局長)

1954年4月  平良リエ子来布/5月 安谷屋政量・琉球工業連合会長「ハワイ第四十九州共進会」に参加で来布。慈光園で「琉球特産品展示会」、6月からハワイ各島で展示する。/12月 金井喜久子来布

1954年4月 雑誌『おきなわ』「ハワイ同胞事業家座談会ー慈光園ホール」
出席者ー仲宗根蒲助(越来)、天願加那(具志川)、上原正義(本部)、伊芸良吉(宜野座)、仲嶺真助(与那原)、山里慈海(久米島)、天願保永(具志川)、平真輔(石川)、長堂嘉吉(真和志)、島袋萬吉、速記ー津嘉山朝吉、瀬長清吉

       
上原正義(エバーグリン・レストラン社長)            天願保永(ハワイ沖縄人連合会)

      
儀間真福(ハワイ沖縄人連合会)                沢岻千恵子(名護市出身)

      
安里貞雄(ハワイ沖縄人連合会)               上江洲智綸


右ー池宮喜輝送別演芸の夕に開演を宣する司会者の仲嶺眞助、ドクトル上原與吉(ホノルル1952年)


布哇ホノルルに於ける三味線祭 焼香する池宮喜輝、左が開教師の山里慈海(1952年2月)

馬哇島ワイルクに於ける三味線展と池宮喜輝(1952年4月)
1954年7月 池宮喜輝『琉球三味線寶鑑』東京沖縄芸能保存会(比嘉良篤)

1955年5月 玉代勢法雲(マッカリー東本願寺住職)逝去/8月 写真業の屋比久孟吉は1953年3月、訪沖し那覇市崇元寺近くにベストソーダ合資会社創立したが、ニューヨーク市に機械購入の途次寄港。/8月 日航機で根路銘房子来布。イオラニ高校で開催の聖公会大会に参加で川平朝申来布。/11月 大浜信泉、国際大学連盟会議出席の後、欧米視察を経てパンナム機で来布、夫人英子は目下アメリカ国務省の招聘でアメリカ滞在中。/12月 高原芳子結婚来布。
1956年4月 ビショップ博物館で初の「琉球古典文化展」。/6月 大伸座長期興行。/8月 MGM社の「八月十五夜の茶屋」の撮影は大成功、同劇に出演して帰国の途にある大映スター根上淳、清川虹子および沢村みち子らの土産話にあったが、芸者(京マチ子)が沖縄舞踊を踊るとき地方になって蛇皮線を弾いた内間ハル子は儀間真福の妹。



12月 比嘉悦雄はペプシコーラ日本総販売権を獲得し、日本政府の認可で日本飲料株式会社創立。

1958年11月 真境名由康父娘来布
1959年1月 『守礼の光』創刊号(表紙・崎山さん)「写真ー守礼門」、納富浪連子「原子力を平和へ」

1959年6月 ヒロ市の浦崎政致の息子・政一は18ヶ月ぶりで両親見舞いで帰布、1945年8月28日、情報本部附民間人、そしてアメリカ人として最初に東京に入って通訳。琴に東条大将とは死せし約一ヶ月半寝食を共にし世話したので大将から軍服を貰った。
1961年2月 『オキナワグラフ』「沖縄へのアドバイスーホノルル夏の家快談」出席者ー当山哲夫(月刊「市民」社長)、仲嶺真助(2002年7月『仲嶺真助自伝』新報出版)、上原正治(エバーグリン・レストラン社長)、ワーレン比嘉(中央太平洋銀行モイリリ支店長)、安里貞雄(ハワイ沖縄人連合会顧問)、コンラッド赤嶺(元ホノルル日本人青年商工会頭)
1961年3月 『守礼の光』「姉妹都市ー那覇とホノルル」


フランク・ホーレー資料

1961年4月 「ホーレー文庫」が布大の手に入り、東西文化センター内に「沖縄文庫」を開設し陳列された。/5月 仲原善忠、比嘉春潮来布
1961年6月 『守礼の光』「東西両文化の新しいかけ橋ーハワイ大学東西文化センター」
1961年8月4日 オバマ・バラク・、ハワイ州ホノルルにある病院(英語版)で生まれる。 実父のバラク・オバマ・シニア(1936年 - 1982年)は、ケニアのニャンゴマ・コゲロ出身(生まれはニャンザ州ラチュオニョ県Kanyadhiang村)のルオ族、母親はカンザス州ウィチタ出身の白人、アン・ダナムである。 父のオバマ・シニアは奨学金を受給していた外国人留学生であった。2人はハワイ大学のロシア語の授業で知り合い、1961年2月2日に周囲の反対を押し切って結婚、 アンは妊娠しており、半年後に、オバマ・ジュニアを出産する。→ウィキペディア
1962年5月 『守礼の光』「立法院議員ハワイを見るーキャラウエイ高等弁務官のあっせんにより、琉球立法院議員の当銘由憲氏、嘉陽宗一氏、真栄城徳松氏、平良幸市氏の一行4人は、このほど6週間にわたり、とこ夏の国ハワイをおとずれました。」
1962年6月 『守礼の光』「ハワイに学ぶ営農の近代化」
1962年6月 宇良啓子がラジオKTRG局より電波に乗せて「沖縄貴族階級の方言で小咄を創作して」放送。

1962年7月 『守礼の光』「ハワイ同胞の警告『あわてて復帰は損』ーハワイ島のヒロ市で、内科と外科の開業医をしているマタヨシ・ゼンコウ博士は、琉球の古い友人や親類の人たちに会うため、このほど23年ぶりに、琉球をおとずれました。」/ヘンリー・ナカソネ(ハワイ大学付属農業試験場)「琉球の園芸の現状と可能性(1)」
1962年10月 『守礼の光』外間政章「1854年に結ばれた琉米条約

1963年 東京ー金城珍栄を囲んで、右から比嘉春潮、比嘉良篤、瀬長良直、當間重剛、金城珍栄、島清、仲原善忠

1963年5月 仲嶺真助、日本人連合協会会長に選出。/10月 琉球国民党総裁の大宜味朝徳は米軍用機で来布。

1963年7月 国際興行の小佐野賢治、ハワイのプリンセス・カイウラニ・ホテル買収□12月、モアナ、サーフライダー2ホテル買収/1974年9月 ワイキキ・シェラトン、マウイ・シェラトン、ロイヤル・ハワイアン3ホテル買収

1964年2月 『オキナワグラフ』ハワイ支局(青木富子)開設
1964年2月 『守礼の光』「ハワイの印象②」
1964年5月 『守礼の光』「偉大な老兵マッカーサー元帥の死をいたむ」
1965年4月 『オキナワグラフ』ハワイ支局長に我那覇武三/8月 『オキナワグラフ』「移民65周年記念 ハワイ特集号」
1965年4月 『守礼の光』仲泊良夫「琉球偉人伝 移民の父・当山久三①」
東と西の合流点 ハワイ文化センター」

1965年5月 沖縄興信所(代表・大宜味朝徳)『琉球紳士録』「本土在住琉球紳士録」

写真左から外間盛安、仲嶺真助、安里貞雄/知念精吉、具志保男、天願保永/津嘉山朝吉、儀間真福、新里与旌

1965年12月 『守礼の光』「実現間近い家庭用原子力発電」
1966年5月ー『オキナワグラフ』「ハワイだよりー髙江洲敏子さん」
1966年10月 『守礼の光』坂本万七「写真・伊藤若冲」
1967年3月  『守礼の光』せそこ・ちずえ「琉球昔話 空を飛ぼうとした男(安里周当)」、比屋根忠彦「久高島のイザイホー」

1967年12月  『守礼の光』「5年後に110階建て 世界貿易センター出現」
1968年2月  『守礼の光』「現代にも呼びかけるエイブラハム・リンカーンのことば」「アジア地区米陸軍特殊活動隊 粟国・渡名喜両島で奉仕活動」「原子力科学者が語る未来の原子力『食品工場』」
1968年4月  『守礼の光』ジョン・A・バーンズ(ハワイ知事)「琉球の文化的姉妹島ハワイ」
1969年5月  『守礼の光』宮国信栄」「放射能はどこまで人体に安全か」

1969年8月  『守礼の光』「四か国で開発中の原子力商船」
1969年9月  『守礼の光』「フィリピンの発展に役だつ原子力」「コンピューター しくみと働き」

1969年10月  『守礼の光』「宇宙にかける人類の冒険」「期待される放射線」「巨人ジェット機(ボーイング747)の登場」

1971年6月 当山哲夫『波乱重畳八十年の回顧』

写真左から屋比久孟吉、儀間真福、城間次郎、安里貞雄、ボールス博士、当山哲夫、ドクトル山城秀正、金城山助


写真左ー与世盛智郎師/ドクトル上江洲智綸氏夫妻と中村昌広氏

□第三次世界大戦爆発予言ー若し第三次世界大戦が突発するとすれば核兵器を以て抜き討ちに先手を打つ国が勝利するかも知れぬが然しながら第三次世界大戦は全世界の滅亡であり、この地球は火となって全滅するであろう。聖書は中東戦の発生を暗示し人類の滅亡を予言している。/(1965年)琉球政府高等弁務官アルバート・ワトソンー親愛なる当山主幹 沖縄人のハワイ移民六十五周年を心から祝福致します。そして貴方とこの喜びを共になさる3万5千人の沖縄系市民にもお祝いを述べさしていただきます。(略)私はまたハワイの沖縄人が彼等の文化遺産や親族関係のきづなを放棄されないことを観察しました。沖縄は自由諸国の前進基地で自由諸国を守る城の稜堡のようなものであります。沖縄人を理解し支援することは西太平洋方面全体の防禦に重要なことです。

1971年10月 東京ー比嘉静観氏歓迎会ー前列左2人目から比嘉春潮、比嘉静観、八幡一郎。中列右から金城芳子、比嘉栄子、魚住千代。後列左から照屋仁栄、喜久村絜秀、松本三益 
1971年7月 『守礼の光』「那覇市の昔と今ー市制施行50年を迎えた那覇市」「琉球文化を携えてアメリカ(ハワイ、ロサンゼルス)を訪問した芸能団」

1976年10月 「赤旗」特捜班『日本の黒幕ー小佐野賢治の巻(下)』新日本出版社□双頭のハワイー「ハワイには二つの〝顔〟がある。観光地としての〝顔〟と米軍事上の要所という〝顔〟と・・・」と語るのは、かつてハワイに滞在していたあるジャーナリスト。「観光地ハワイに太平洋地域最大の米軍基地があることはあまり知られていない。ベトナム戦争に関する作戦・輸送などの命令は、すべてハワイにあるシンクパック(CINCPAC=太平洋統合司令部)から出ていた。シンクパックはオハフ島の真珠湾をみおろす高台にあり、周囲の警戒はものすごく厳重だ。一度だけ私も入ったことがあるが、米海軍の機動部隊ー戦艦や空母が、いま太平洋のどこで何をしているかが、分秒たがわずわかる仕組みになっている。」これを裏づけるように、市川宗明・軍事評論家も、「ハワイは昔から、米国最大の海軍基地だ。とくに真珠湾は横須賀などの比ではない。だから、日本軍もまっさきに真珠湾にねらいをつけたのだ」と、言い切ります。両氏のいうとおり、ハワイにある米軍兵力は、陸海空・海兵隊あわせて6万5千5百人(1975年12月末)。沖縄基地を除く、在日米軍の4倍という戦力をもち、ペンタゴン(国防総省)に直結しています。

1978年8月 『ハワイ・パシフィック・プレス』


□木村雪子「復帰前の関西沖縄県人会」/「好印象残して帰国ー青い海友の会主催ハワイ親善訪問団」

 『ハワイ・パシフィック・プレス』
比嘉武信「仲嶺社長とHPP」□ハワイ・パシフィック・プレス(HPP)創立25周年おめでとう。ふりかえると1977年11月、故金城仁盛氏、故比嘉太郎氏、新川洋子夫人、小生たちが世話人となり、ささやかな創刊激励会を催したのを思い出す。その時、ゲストのフランク・ファシー・ホノルル市長が「カズオ仲嶺デー」を力強く宣言し会場は熱気に溢れた。あれから10年、20年と時は流れ、ファシー市長から計3回も「仲嶺デー」を贈られっと記憶する。年々歳々、成長に成長を重ね順風満帆のHPPの成り行きと、快男児・仲嶺和男社長の生い立ちを探って見る。
 彼は沖縄の最果ての国頭郡国頭村字宜名真の山村で、1939年(昭和14)11月30日生まれた。当年63歳の卯(兎)の人である。国頭で小、中校を経えて、那覇高校、琉球大学を卒業。入社試験”百分の4〝の難関をパスして琉球新報に入社。憧れの記者生活も、毎年のストライキに嫌気がさし6年にしてあっさり辞めた。
 再就職する前に”何でも見てやろう〝と、米国無銭旅行に出た。けれど彼の希望はハワイで躓いた。身元保証人の説得に従い、無銭旅行を断念して英語習得のために私立校の学生寮生活に入った。あれやこれやで保証人から入学費1,300ドルを借りた。私立学校に通いながら日本語学校教師、土・日・休日はレストランの皿洗いやバスボーイで稼ぎ、借金は1年間で返済した。
 幸いなことに、月謝の高い私立校よりカピオラニ・コミュニティー・カレジに合格、経済的に大いに助かった。時に湧川清栄編集長より文才を認められハワイ・タイムス記者として特技を生かした。5年間、日系人社会をみっちり勉強し、将来に備えt写真技術も会得した。
 ハワイの沖縄県人は1900年の来布以来、沖縄系新聞を頼りにして生計をたてていた。1970年に入って当山哲夫社長の「市民」が休刊(事実上廃刊)し、金城珍栄社長の「洋園時報」が廃刊した。県人は




1978年7月 沖縄の雑誌『青い海』通巻75号「青い海友の会第一回ハワイ親善訪問記ー大阪・ハワイの県人が交�


1980年10月 崎原貢『がじまるの集い・・・沖縄系ハワイ移民先達の話集』
□1 高江洲繁/2 金武朝起/3 豊平良金/4 大江ツル/5 大城健栄/6 仲間源助/7 金城仁盛/9 安里貞雄/10 比嘉賀秀(静観)/11 仲村渠永七/12 川上善子(旧 嘉数ウト)/13 天願保永 ジェームス/14 平真輔/15 上里良温/16 当山マツ/17 長嶺将真/18 高嶺安子/19 比嘉ツル/20 幸地朝則/21 島福カメ/22 小波津あき/23 沢岻千恵子/24 呉屋真苅/25 安慶名良信  
   

1986年4月26日ー竹中・織田は無罪判決を受け、釈放された。ハワイで、竹中正と織田譲二と香港の元飲食店主・梶田聖が、ロケット砲3基・マンシンガン5丁・拳銃100丁の密輸未遂、麻薬不正取引、殺人教唆の容疑で、囮捜査官・ヒロ佐々木らに逮捕された。ヒロ佐々木は連邦麻薬取締局の囮捜査官であり、マイケル・ジャクソンの日本公演やマフィアのパーティーも全て架空の話であった。しかも、一連の取引の模様は全て隠しカメラで収録されており、動かぬ証拠となっていた。(→ウィキペディア)



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1988年4月ーハワイ・ホノルル「那覇の物産と観光展」に新城あけみ琉舞で参加。


ジョージ・H・カー資料
1992年8月27日 『琉球の歴史』の著者ジョージ・H・カー(アメリカ・ペンシルベニア州生まれ)が老衰のためホノルルのクアキニ病院で死去80歳。 

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2000年3月 湧川清栄遺稿・追悼文集刊行委員会『アメリカと日本の架け橋・湧川清栄ーハワイに生きた異色のウチナーンチュ』ニライ社
2001年2月10日ーえひめ丸事故(えひめまるじこ)アメリカ合衆国ハワイ州のオアフ島沖で、愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船「えひめ丸」が、浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」と衝突し沈没した事故。乗務員の35人のうち、えひめ丸に取り残された教員5人、生徒4人が死亡し、救出されたうち9人がPTSDと診断された。→ウィキペディア








2004年4月 比嘉武信『比嘉武信の雑炊日誌』琉球新報社
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比嘉武信氏



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比嘉武二郎氏
□「戦争の記憶」(2) いじてぃめんそーれ ~故郷へ進軍した日系米兵~
戦中戦後、長きにわたってその存在が秘匿された人々がいる。MIS(米陸軍情報部)の日系語学兵だ。県民の4人に1人が命を奪われた沖縄戦では、日系語学兵の存在がなければ、犠牲者はさらに上回ったとも言われる。比嘉武二郎さんはハワイ移民2世として生まれ、少年期を沖縄で過ごすが、沖縄戦時には米軍の語学兵として上陸する、という過酷な運命におかれた。「なんとかして、沖縄の人達を助けたい…」そう苦悩した末に、ガマ(壕)に身を潜める人たちに沖縄の方言を使って投降を呼びかける。「いじてぃめんそーれ(出てきてください)!」戦後65年たった今、武二郎さんの胸に去来する思いと、交差して見えてくる沖縄の姿を見つめる。


2013年7月26日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー湧川清栄」


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2015年5月 『月刊琉球』
新城栄徳「沖縄最初の博物館を創った男 島袋源一郎」

仲村渠 克「時評 深読 世界一危険な嘉手納基地ー(略)もともとは、反基地運動のシンボルとして、嘉手納撤去が最優先課題だったはずだ。数万の人間が手を結んで、基地を取り囲む平和運動の“人間の鎖”は、1987年の嘉手納が最初、国内外に大きく報道され、これまでに4回実地された。なぜ、平和運動の最大目標が、嘉手納から普天間にすり変わったのか。(略)米軍の仕掛けた罠ー米軍が固執するのは嘉手納なのだから、『嘉手納の危険性除去』と『負担軽減』をリンクさせれば、(米軍は)慌てふためく。辺野古新基地建設の根拠も消える。」
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1971年9月 沖青友の会機関誌『石の声』8号への提言

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2015年5月 俳句同人誌『天荒』51号 野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536
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2015年2月 川平成雄『沖縄返還と通貨パニック』吉川弘文館
○エピローグー 米軍と日本政府に追われて(略)安倍政権は、憲法改正とは異なった愚を犯した。それは、サンフランシスコ平和条約が発効された1952年4月28日の「4月28日」を「主権回復・国際社会復帰」の日として2013年4月28日に記念式典を開催したことである。沖縄住民の強力な反対を押し切っての開催であった。式典2日前の26日、マサチューセッツ工科大学名誉教授で『敗北を抱きしめて』によりピュリツアー賞を受賞したジョン・ダワーは、「式典を開催するという政府の決定は、日本政府がいかに鈍感かを示している。沖縄の人々の反対は絶対に正しい。いわゆる沖縄抜きの平和、沖縄の主権を含まない式典は、明らかに日本政府の平和に対する無神経さを示すものであり、誤解を招くものだ。沖縄の反対は正しく、理解に値するものである」と批判する。

安倍首相は、式典において「日本に主権が戻ってきたその日に奄美、小笠原、沖縄の施政権は日本から切り離されてしまった。とりわけ銘記すべきは、残酷な地上戦を経験し、おびただしい犠牲を出した沖縄の施政権が最も長く日本から離れたままだった事実だ。沖縄の人々が耐え、忍ばざるを得なかった戦中、戦後のご苦労に対し、通り一遍の言葉は意味をなさない」と述べるが、何の深みももたない。首相の表現を借りれば、「通り一遍の言葉」でしかない。(仲井真)知事代理として出席した高良倉吉副知事は、式典後、「沖縄戦や米軍統治時代の大変苦難な歴史、今に続く米軍基地問題など県民が訴えてきた問題を踏み込んで言葉にしていた」と評価するが、どこに評価に値する「言葉」があるのか、疑問である。(高良)副知事は、知事の代理とはいえ、出席すべきではなかった。というのは、政府は、(高良)副知事が出席したこと自体、(沖縄)県民の意思のあらわれと見るからである。


2015年4月4日『八重山毎日新聞』「退官の川平元琉大教授が研究室ー沖縄社会経済史の探究さらに」
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本日は「憲法記念日」。記念日にちなむ集会が彼方此方で開かれている。新聞は「平和憲法守る」に軸足をうつし報道しているが、改憲を主張する集会も詳しく報道して貰いたいものだ。なぜなら岡留ブログに□2015.04.28「日本も沖縄も二度と戦争をしない国を目指してきたはずだが、いつのまにか、いつでも戦争の出来る国へ一直線である。戦後の平和と民主主義はほとんど雲散霧消、換骨脱退状態である。日本が忠誠をつくす米国は戦後も戦争の歴史を繰り返している。このまま、米国追従策を取れば、日本は確実に戦争と直面せざるを得ない。そうなれば、もう遅い。今から日本の戦犯リストを準備しておくべきである。」とあって、その戦犯リスト作成の資料になるからである。

目次
基地難民のはじまり/伊江島/伊佐浜/具志/銘苅/渡具知/土地接収の背景にある布令、条約など/住民を不安に陥れた新たな土地接収計画/島ぐるみの抵抗/復帰後は米軍の銃剣に代わって


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1955年3月11日ー『琉球新報』「伊江島と伊佐浜 土地収用」




昨今は日米国家が国家の暴力装置(防衛局・警察・海保・沖縄総合事務局など)を使って辺野古の「核弾薬庫」跡に核基地を造るに必死である。
『週刊ポスト』1973年11月15日号<平野部の”70%„が米軍基地の沖縄>





「核はこうして貯蔵されている<辺野古の核弾薬庫>」
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1、昭和7年5月以降  東亜問題の研究に専念し、若干の執筆がある。中国学生相手の飯店「東方閣」を経営し「東方倶楽部」に改組して文化的施設を併置すべく郭沫若(現中共政府副総理)に計ったことがあった。しかし戦争のため留学生が帰国する者続出し、此計画は実現しなかった。

1932年3月 『改造』饒平名智太郎「モスクワの計画」
1932年10月 『改造』饒平名智太郎「日露国交の危機」
1933年1月  『改造』饒平名智太郎「ソヴエート第二次五ヶ年計画」

1、昭和11年11月以降  4カ月間にわたり南洋群島、比律賓、南支及び台湾を視察し、ダバオでは日本人会の紛争を調停した。私がその後移植民問題に関わりを持つに至った最初の機会であった。



    饒平名智太郎「沖縄県人会の存在意義」

1、昭和12年7月  拓務省嘱託大臣官房勤務を命ぜられ、嘱託としての最高俸をもらった。近衛内閣の書記官長風見章の推薦に據る。


1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「饒平名智太郎」

1、昭和12年9月  朝鮮、満州国、関東州へ出張を命ぜられ、主として北満の武装移民の入植状況を視察した。(在満朝鮮人事情を執筆す)

1、昭和13年4月  現職のまま拓務省直営の奨励館主事(後に参事)を命ぜられ、機関誌「海を越えて」
を主宰した。官庁の息のかかった雑誌として恐らく秀逸であったろう。藤田嗣治、東郷青児等の画伯も表紙絵にしばしば動員され、又移民文学の育成にも大いに貢献するところがあった。

1938年4月19日 『琉球新報』永丘智太郎「海の生命線と沖縄漁夫の活躍(1)」


1、昭和13年7月  樺太へ出張を命ぜられた。その途次アイヌの父ジョン・バチエラー翁を訪ねたり、「樺太に於ける土人政策」の資料を蒐集したり、北大図書館で北海道屯田兵実施の指導者氷山武四郎のシベリヤ「周遊日記」という珍本を読んだり、私にとって有益な出張であった。
1938年7月 永丘智太郎『極東の計画と民族』第一出版社
1939年1月 『拓殖奨励館季報』創刊号 永丘智太郎「樺太に於ける土人政策」
1、昭和14年7月  朝鮮へ出張を命ぜられた。この旅行で私が特に興味を持って視察した所は、ソ連との国境地帯の住民と北鮮白頭山麓の思想地帯であった。日本の総督治下で金日成が侵入して「ソヴエート地区」と呼んでいた北鮮南三郡の農民運動の足跡を辿り日本官憲弾圧の資料は私の手許にある。
1939年8月 『地理教育』永丘智太郎「比島に於ける西班芽の植民的遺産」
1939年9月 永丘智太郎『極東ロシア植民物語』(財)拓殖奨励館

1、昭和14年11月  国策研究会に民族間題委員会が構成され、委員長大蔵公望から話があって私も委員となり約1年半東亜諸民族対策を研究した。私の分担はソ連の東洋民族政策であった。

昭和15年 『海を越えて』(財)日本拓殖協会発行の編集兼発行人となる。(~昭和16年2月)


1、昭和16年4月  主要府県在住朝鮮人の実態取調のため国内出張を命ぜられた。

1、昭和16年5月  拓殖奨励館はさきに日本拓殖協会と改称されていたがその参加団体たる南洋団体連合会の会長役を拓殖協会理事長が引受けた関係上」、私も同連合会に転出を命ぜられ調査部を主宰することとなり、大南洋年鑑を編集した。
1941年5月 『南洋』永丘智太郎「南方大調査機関設置の緊急性」
1、昭和16年11月  東洋拓殖株式会社嘱託兼務を命ぜられ社友会機関誌の編集事務を一任された。

1、昭和16年12月  南洋協会の常務理事だった二人の旧知からの懇望を容れ、南洋団体連合会を辞めて「南洋」の編集長となった。

1、昭和17年4月  各大学植民政策担当の学者で組織された大日本拓殖学会理事に推薦された。(会長高岡熊雄博士)

1、仝上        国策研究会大東亜労務対策委員会及び幹事を委嘱され、約半年にわたり南方の労働事情を研究し国策週報誌上に発表した。(委員長拓務次官田中武雄)
1942年6月 『南洋経済研究』永丘智太郎「旧支配国の統治政策研究(1)」
1942年9月 『南洋経済研究』永丘智太郎「旧支配国の統治政策研究(Ⅲ)」
1943年1月 『南洋経済研究』永丘智太郎「ミンダナオ=スールー地方 非基督教民族」

1、昭和17年11月  南洋協会の経営する「南方生活科学研究会」の常任委員を命ぜられた。(委員長陸軍軍医局長三木良英)

1、昭和18年5月  南洋協会への義理を果たして辞職し、東洋拓殖株式会社農林課常時勤務を命ぜられ、東亜地域に於ける労働事情、小作問題の調査事務を担当した。

1、昭和18年8月  農村事情調査のため朝鮮へ出張を命ぜられ主として東拓の母国移民地を視察した。済州島へも始めて行った。

1、昭和20年3月  東拓は現職のまま内務省管理局嘱託を命ぜられ朝鮮研究所の設立事務に携った。(これは東拓から資金が出ていた関係)

1、昭和20年7月  九州在住朝鮮人の戦災被害状況並に沖縄県疎開民の窮状調査のため内務大臣の特命で九州一円に出張を命ぜられ熊本の田舎で終戦に出会った。

1、昭和20年7月  沖縄難民の援護機関「沖縄協会」の設立に参画しその理事兼主事に選任された。(理事長伊江朝助)

1、昭和20年11月  沖縄人連盟を組織し副会長、総本部長を兼ね初代の会長事務を代行した。(会長伊波普猷)

1、昭和21年4月   沖縄協会は維持費を内務省、援護費を厚生省から補助金として獲得し常務理事に選任された。

1、昭和21年10月  昭和21年10月  沖縄協会理事長に選任され、同時に引揚者全国連合会の組織に参加しその副委員長となった。  

「沖縄人連盟」は本土在住沖縄人の民主的全国組織で自力を結集して同郷の引揚者、復員者、徴用工等を援護し力の及ばないところを政府及び連合軍総司令部に陳情して救助して貰った。かくて12万余の県人に政府から衣料、炊事道具、生業資金等の交付を受けて郷里へ送還した。また1万の遺骨をも無事に遺族へ引渡した。

「沖縄協会」は福岡にあった沖縄県出張事務所と協力して九州に疎開していた約5万の県民の救護に当り、かつ東京都内に引揚者の寮を用意し、宮内省に陳情して三里塚の御料地から80町歩を解放してもらって3百人の沖縄県難民を入植させてある1、昭和22年5月  右一切の援護事業から引退し、今は老妻と二人で三里塚の開拓地にあって1町歩の土地を耕作する開拓民に卒伍して余世を送り時折上京している。

妻八重(香川県人)との間に3男1女を挙げたが長女と2男をと喪い長男は健在で私大の助教授(心理学講座)として東京に別居しすでに嫡孫も生まれているが、3男は大学卒業間際に病気となり3年来国立病院で療養をつづけている。

著書(代表的なもの)
1、ガンヂーと直理の杷持(改造社)
1、極東の計画と民族(第一出版社)
1、極東ロシヤ植民物語(拓殖協会)
 
其他

                       右 永丘智太郎㊞

1947年1月15日『沖縄新民報』「沖縄人聯盟の内訌-永丘氏等遂に退陣」
1947年7月15日『沖縄新民報』「NHKの6月25日放送『私たちの言葉』で永丘智太郎の原稿『食物呉ゆしど我が御主』に対し、28日の放送で仲原善忠沖縄人聯盟会長が反駁」
1947年12月『青年沖縄』永丘智太郎「伊波文学士の憶ひ出」
1948年2月15日『沖縄新民報』「永丘智太郎氏、運輸省を訴へる」「宮里貞寛氏、2月14日兵庫県御影で逝去」
1948年3月15日『沖縄タイムズ』「琉球民族問題懇話会ー常任理事・永丘智太郎、比嘉春潮、比嘉良篤、比屋根安定、高安重正」
1949年1月15日『沖縄タイムズ』「永丘氏と一問一答/対日講和のカギは米ソ協調にかかる」
1950年2月25日『沖縄新民報』「永丘氏ら新運動展開ー元沖縄人連盟幹部永丘智太郎、元沖縄人青年連盟会長太田直治両氏は此の程沖縄、大島解放連盟なる団体を組織して沖縄、大島に対する米軍基地設置反対、人民奴隷化反対を標榜している」

1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』

1952年7月10日『沖縄新報』№15 発行代表者・永丘智太郎

1955年5月1日『沖縄と奄美』第38号 主筆・永丘智太郎 編集発行人・宮原邦男
1960年11月15日『沖縄タイムス』「永丘智太郎氏 13日未明 胃がんで死去。告別式は19日新宿区牛込河田町の月桂寺で行われる。」/『琉球新報』「長岡智太郎氏 胃がんのため12日ひる東京都下田無町2729で死去した。」