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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 「ふりむん随筆 未完成公共学(一)」□私は自由の月である。フリームーンである。現在は順天堂大学医科大学教授で英語と文学(国語漢文を含む)の主任教授であるが、学生はわたしのことを「シュセキキョウジュ」と呼んで親しんだりこわがったりしているが「首席教授」の意味だが「酒席狂需」の意味だか、忙しくて辞書を引く暇がないので自分でもよくわからない。どんな辞書を引いたらよいか沖縄隋一の学聖否全日本でも無類の碩学 東恩納寛惇(有名人敬称略、御免)に質してからゆっくり調べることにする。

 昔から「金持ち暇無し」と言う通り、事実私は暇がないのである。アルバイトとして桐葉予備校、文京予備校、国際予備校の3校の英語主任も兼務して居り、日本英学院で英文学も講じて居り、丁度目下那覇の大宝館で上映中のグレイアム・グリーンの「落ちた偶像」の原作を英語で講義中である。ささやかながら自分の石川英語学院も手離せない。二つの出版会社の編集顧問も引き受けている関係で原稿依頼も多い。

「ありが英語小や、ゆくしぬうふさぬ、わー英語小けんそーれー」と日夜歌っている身になってごらんなさい。英語ニコヨンはつらいです。ウランダ口アチョールドウは悲しいです。「大和口使て、ウランダ口ならーち、唐書物読むる沖縄二才我身や」と大日本帝国はなやかなりし頃、那覇の一角、中島小掘のほとりでき門の望に明け暮れる母に琉歌を送ってなぐさめた、我が厚顔の青年の日が、昨日や今日のように思い出されて胸がうずく。「日本語も英語も知らぬアンマーはワッター次郎を故郷に待つ」と涙ながらに和琉ちゃんぼの忍び泣きに異郷滞在の不孝の罪を心にわびたのもその頃である。

「ふりむん随筆 未完成公共学(七)」□「大傷繃帯日」も私の予言である。大東亜戦争が天皇の名で宣せられ「大詔奉載日」が制定されるや、私が愛国の至情から国難を予言した)「大傷繃帯日」は物の見事に的中した敗戦直後(終戦という言葉でごまかすな)伊波普猷の家で会ったとき松本三益に「石川先生は徹底的に敗戦論者でしたね」と妙なことを覚えられていて、比嘉春潮も「そうだったか」と私を見直した。「そてつ(蘇鉄)地獄」と沖縄の窮乏をなげき、「ブーサー極楽」と故郷の退廃を憂えていたとき「人口過剰の無人島」と人物缺乏を痛嘆した40年前の私の寸鉄は今日の日本に対する予言となって実現している。「天ぴ大和口」という奇語も私の発明だったかどうか忘れたが、今沖縄ではどんな標準はずれの標準語を使って金をもうけ、恋を語って居るであろうか。

キヤメルを鹿小と呼び、ラッキー・ストライキを旗小と称し、フィリップモリスを黒ん坊と唱えている由、私はふるさと人の語感を頼もしく思い、既に天下をのんでいるその意気に敬意を表して頭を下げる。パチンコと競輪にうつつをぬかして夢中になっている知性の無い今の大和民族にはそんな意気やゆとりのかけらも無い。一度は政治的に亡んだこの国は、今精神的亡国の寸前にある。だからいつまでもまずい煙草をのまされているのだ。煙草から立ち登る煙にすらレジスタンスをしめす気力がないのである。

「竹島は明らかに韓国領土だ。その証拠にはあの島にはパチンコ屋は一軒も無い」と李承晩大統領にすらなめられているていたらくである。日本の大学生はパチンコをしたついでに学校に通う。李承晩ラインの故智にならったわけでもあるまいが、沖縄の周囲に精神的愛郷の比嘉秀平ラインを張りめぐらして人生冒涜の亡国遊戯パチンコの神聖なる沖縄侵入を断固排していると聞く我が同僚沖縄民政府主席比嘉秀平の明智と良しきと勇気に対して在京沖縄人全体ではなく私一人を代表して厚く謝辞を述べて益々その健闘を祈らずには居られない。

「ふりむん随筆 未完成公共学(九)」□(略)当間重剛を語る門外不出の材料も一中、三高、京大、司法官時代と沢山ある。唯彼に一つの欠点がある。それは私に話しかけるとき、パリー語や那覇語を使わないで最初大和口を使うことである。それはよろしくない。今度彼が東京に出て来たら、大いに叱ってやろうと思っている。飲む前に叱るのだ。「石川正通 当間重剛を叱るの図」これは素敵な画題だ。山田真山の麗筆に触れれば雪舟、応挙の塁を摩し、金城安太郎の絹布に上れば、歌麿、写楽を彷彿させ、嘉数能愛のパレットに踊っては関屋敬次の風格と画風を再現し大城皓也のカンバスに現れては曽太郎、龍三郎の域に迫り、渡嘉敷唯夫の画用紙に捕らわれは、近藤日出造、池部均をしのぐ傑作となr山里永吉の画板に乗ればピカソかマチスかマボーあたりを顔色なからしめる旋風を起こすであろう。更にまた瀬名波良持の紅型に染めぬかれれば鳥羽僧正の遺風を伝えて永久に博物館を飾る国宝に指定されるであろう。

波之上神社の鳥居と那覇市役所の馬鹿塔と当間重禄の医者の看板を那覇の三大不用物と指摘したのは崎山嗣朝の余りにも有名な警句で政争の激しかった大正末期の名残を留めて如何にも泊人らしい気概に満ちている。和辻哲郎の「偶像再建」を読むまでもなくヨーロッパの中世思想に抗して興った近代ヨーロッパのアイコノクラズム(偶像破壊)の思想も今日では思想史の数頁をかろうじて占める哲学の足跡に過ぎない。わがふるさとも偶像再建の機運に近づきつつあることと思う。波之上神社の鳥居はカンプーサバチでどうなったか知らないが、前よりも大きな鳥居を建てたらどうだろう。もし神社が残っていたら。それは神の家の門として建ててもやがては那覇の風物詩の一つとなるであろうから。

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Posted by: ryubun02


 「新城喜一ギャラリーカフェ・画亜歩(があぶ)」那覇市松尾2-23-19 開南薬局2階



2018年1月23日ー新城喜一氏/新城喜一氏(右)、新城栄徳

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・・・今思うに、”泊外人墓地”にしても、今回の写真にしても、<写真すること>に対する向かい方は同じスタンスであるとあらためて思っている。自分が生きて見た”風景”を自分の中に、そして外なるモノの世界に定着させたいという欲求である。それは、自分が確かに生きているということを確かめるために刻む、私が世界に刻んだ”接触痕”である。



新垣辰雄氏と作品「カリフォルニアの風」

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  2015年5月20日『琉球新報』はハワイで墜落したばかりのオスプレイが訓練再開の記事、隣接して大阪国際平和センター(ピースおおさか)が沖縄戦の実物資料を紹介するコーナーを館内から撤去したことを報じている。リニューアル前の展示では満州事変から太平洋戦争にかけての「15年戦争」を紹介、中に南京大虐殺など日本軍の加害行為もあって、大阪維新の会、自民党の府市議らから「自虐史観」と言われていたのが大きな原因だと言われている。21日『沖縄タイムス』には立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎氏が「何を展示し何を展示しないかという判断に館なりの歴史観や価値観が反映される。今回の場合、大阪市長とその会派の歴史観を反映して展示が『大阪の被害中心主義』に変更された」と指摘。

 5月17日ー戦後70年止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会が沖縄セルラースタジアムで開かれ3万5千人が参加した。また橋下独裁の「大阪都構想」が否決されたとの記事もあった。県民大会について菅官房長官は「民間の方が主催したもので政府としてのコメントは控えたい」と嘯いた。『週刊ポスト』は権力批判で安倍首相などをまな板にのせているが、5月18日発売号では「日歯連マネーが複雑な献金ルートを経て菅官房長官が代表を務めていた団体に渡ったと報じている。この日歯連は、過去、自民党金権政治の財布となってきた組織だ。」と報道した。このように権力に咬みつくことを沖縄では「紙ハブ」というが、逆に国の暴力装置の佐藤海上保安庁長官が沖縄の「紙ハブ」に咬みついていた。

 古川美穂『ギャンブル大国ニッポン』岩波書店2013年に「大阪の橋下徹市長は、大阪府知事時代の2010年10月、カジノの合法化をめざす国会議員らを招いた『ギャンブルリング※ゲーミング学会』に出席し、『日本はギャンブルを遠ざけるゆえ、坊ちゃんの国になった。小さいころからギャンブルをしっかり積み重ね、全国民を勝負師にするためにも、カジノ法案を通して下さい』と議員らにカジノ合法化を求め、『増税よりもカジノ。収益の一部は教育、福祉、医療に回す。隣の兵庫県知事が反対しても無視。わいざつなものは全部大阪が引き受ける』と驚くべき発言をした(2010年10月29日『朝日新聞』)。しかし日本にはパチンコという小カジノが1万軒以上街中に乱立し、世界のゲーミングマシーンの6割以上があり、さらに6種類の公営ギャンブルが存在する。その結果、成人男性の9・4%、成人女性の1・6%が病的ギャンブラーの疑いがあるとされているのだ。-『坊ちゃんの国』などではない。日本はすでに、世界に冠たる『ギャンブル大国』ではないか。)」

 ギャンブルで思い出すのが、松井 一郎(まつい いちろう、1964年1月31日 - )である。大阪府知事(民選第18代)。大阪維新の会幹事長、維新の党顧問。維新の党幹事長、日本維新の会幹事長、大阪府議会議員(3期)などを歴任した。住之江競艇の照明・電気設備関係の工事・保守を一手に請け負う株式会社大通の元代表取締役。父は大阪府議会議長(1996年)を務めた松井良夫。(→ウィキペディア)父良夫元府議会議長は、知る人ぞ知る故笹川良一の直系の子分だった人物と言われていた。

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Posted by: ryubun02
パンチボウルの丘(国立太平洋記念墓地)ー7万5千年から10万年前の火山活動によって形成された高台のクレーター、パンチボウルは、古代ハワイで「Puowaina(犠牲の丘)」と呼ばれていました。タブーを犯した罪人をいけにえとしてハワイ古代宗教の神に捧げる祭壇が高台に置かれていたのです。国立太平洋記念墓地としてオープンしたのは1949年。第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争で母国のために自らを「犠牲」にした4万6千以上の兵士が眠る丘となりました。。→ハワイナビ/アーニー”アーネスト・テイラー・パイル(Ernest Taylor "Ernie" Pyle, 1900年8月3日 - 1945年4月18日伊江島で戦死)は、アメリカ合衆国のジャーナリストやショージ・オニヅカ(Ellison Shoji Onizuka, 日本名:鬼塚 承次, 1946年6月24日 - 1986年1月28日)は、アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士である。の墓石。

1949年12月  セブンスデーの屋比久孟吉は平信徒でありながら華府本部から特別伝道者の任命を受けて伝道者の資格で沖縄へ赴くことになった。

1950年12月  慈光園教団発足ー顧問・小波津幸秀、上原与吉 相談役・伊芸長吉、村岡敏恵、桜田漸、福本元蔵、伊波幸繁、大嶺発市、仲真良樽金、宮城栄吉、大兼久秀一、石川元真、大城太郎、宜野座太郎、伊佐松 名誉教団長・・・与世盛智郎 教団長・山里慈海 理事長・宮里平昌 副・瑞慶覧智珍、仲嶺真助 書記・神谷益栄、上地安宏 会計・真喜志康輝、豊見里友義、監査・宮城麗栄、高良牛、宮城亀盛

1951年1月 比嘉武信『布哇沖縄県人写真帳ー来布五十年記念』
1951年2月 乙姫劇団が来布公演

1951年3月 雑誌『おきなわ』<ハワイ特集>



1951年3月 雑誌『おきなわ』湧川清栄「布哇沖縄人五十年史抄」」
1951年3月 雑誌『おきなわ』大城登美「見たり聞いたり味はったり」

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1951年10月 山里慈海『居士は春風』/1953年3月 玉代勢法雲『遠慶宿縁』


クラ放送局沖縄文化放送部デイゴメロデー/左から大城とみ子、津波實重、山川喜信→1951年1月 比嘉武信『布哇沖縄県人写真帳ー来布五十年記念』

1951年3月 遣米第二回国民指導員来布□志喜屋孝信、大城つる、城間政善、上江洲由道、渡口政義、永山盛三郎、当銘正順、上間亀政、翁長俊郎、大嶺政寛、名渡山愛順、松岡政保、中江実孝、屋田甚助、森敬道、林哲雄、財部つさえ 名渡山愛順「私は終戦後、青年将校の肖像画を五百枚以上も画きました。20数点持参してニューヨークで展覧会を開きますが出来たら帰路にハワイでも開き、又ハワイのカラーも描いて見たいと願っています。」
1951年6月 東京大阪合同琉球芸能団一行8名は渡口政善、金城常盛、上江洲安雄、安谷屋政信の招聘で来布□渡嘉敷守良(我如古安子の叔父)、池宮城喜輝、奥間英五郎、奥間清子、佐久間昌子、渡嘉敷信子、渡嘉敷利秋、島正太郎
1951年6月 南加大学の招聘で琉球音楽を講義しに行く東京沖縄音楽舞踊研究会会長の山内盛彬はツル夫人同伴寄港。
1951年7月 宮里辰彦(第三回沖縄国民指導員)ホノルル郊外ヒッカム飛行場着。此の飛行場は例の日本軍の真珠湾攻撃の際、真っ先に叩かれた所である。
1951年7月 雑誌『おきなわ』<故人追憶特集>

大里康永「民族解放の戦士 謝花昇」/湧川清栄「先覚者 当山久三を偲ぶ」/上原仁太郎「ダバオ開拓の恩人 大城孝蔵氏を偲ぶ」/比嘉春潮「仲吉朝助氏」/仲吉良光「法曹界の恩人 麓純義氏」/平良徳助「宮城鉄夫氏の思い出」/東恩納寛惇「真境名笑古」/比嘉静観「伊波普猷先生と私」/伊波冬子「微風」/船越義英「漢那先生」/玉代勢法雲「田原法水師を語る」/比屋根安定「比嘉保彦と佐久原好傳」/島袋盛敏「麦門冬を語る」/仲原善忠「佐喜間興英の業績について」/親泊政博「新聞人、当眞嗣合」/当眞嗣弘「父、当眞嗣合」/山里将秀「八重山の生んだ音楽詩人 宮良長包先生」/新屋敷幸繁「世礼国男氏を想う」/島袋源七「故 島袋源一郎氏を懐う」/編集後記

1951年8月 ハワイ沖縄連合会発足(理事長・儀間真福)
1953年2月  慈光園で柳宗悦、浜田庄司、バーナード・リーチ講演会「琉球文化を語る」。沖縄紹介映画、幻燈などがあった。
1953年12月 雑誌『おきなわ』№33「ハワイのうつりを語る座談会」
出席者ー平良牛助、玉代勢法雲、比嘉静観、小波津幸秀、金城珍栄、山里慈海、天願保永(おきなわ布晆支局長)

1954年4月  平良リエ子来布/5月 安谷屋政量・琉球工業連合会長「ハワイ第四十九州共進会」に参加で来布。慈光園で「琉球特産品展示会」、6月からハワイ各島で展示する。/12月 金井喜久子来布

1954年4月 雑誌『おきなわ』「ハワイ同胞事業家座談会ー慈光園ホール」
出席者ー仲宗根蒲助(越来)、天願加那(具志川)、上原正義(本部)、伊芸良吉(宜野座)、仲嶺真助(与那原)、山里慈海(久米島)、天願保永(具志川)、平真輔(石川)、長堂嘉吉(真和志)、島袋萬吉、速記ー津嘉山朝吉、瀬長清吉

       
上原正義(エバーグリン・レストラン社長)            天願保永(ハワイ沖縄人連合会)

      
儀間真福(ハワイ沖縄人連合会)                沢岻千恵子(名護市出身)

      
安里貞雄(ハワイ沖縄人連合会)               上江洲智綸


右ー池宮喜輝送別演芸の夕に開演を宣する司会者の仲嶺眞助、ドクトル上原與吉(ホノルル1952年)


布哇ホノルルに於ける三味線祭 焼香する池宮喜輝、左が開教師の山里慈海(1952年2月)

馬哇島ワイルクに於ける三味線展と池宮喜輝(1952年4月)
1954年7月 池宮喜輝『琉球三味線寶鑑』東京沖縄芸能保存会(比嘉良篤)

1955年5月 玉代勢法雲(マッカリー東本願寺住職)逝去/8月 写真業の屋比久孟吉は1953年3月、訪沖し那覇市崇元寺近くにベストソーダ合資会社創立したが、ニューヨーク市に機械購入の途次寄港。/8月 日航機で根路銘房子来布。イオラニ高校で開催の聖公会大会に参加で川平朝申来布。/11月 大浜信泉、国際大学連盟会議出席の後、欧米視察を経てパンナム機で来布、夫人英子は目下アメリカ国務省の招聘でアメリカ滞在中。/12月 高原芳子結婚来布。
1956年4月 ビショップ博物館で初の「琉球古典文化展」。/6月 大伸座長期興行。/8月 MGM社の「八月十五夜の茶屋」の撮影は大成功、同劇に出演して帰国の途にある大映スター根上淳、清川虹子および沢村みち子らの土産話にあったが、芸者(京マチ子)が沖縄舞踊を踊るとき地方になって蛇皮線を弾いた内間ハル子は儀間真福の妹。



12月 比嘉悦雄はペプシコーラ日本総販売権を獲得し、日本政府の認可で日本飲料株式会社創立。

1958年11月 真境名由康父娘来布
1959年1月 『守礼の光』創刊号(表紙・崎山さん)「写真ー守礼門」、納富浪連子「原子力を平和へ」

1959年6月 ヒロ市の浦崎政致の息子・政一は18ヶ月ぶりで両親見舞いで帰布、1945年8月28日、情報本部附民間人、そしてアメリカ人として最初に東京に入って通訳。琴に東条大将とは死せし約一ヶ月半寝食を共にし世話したので大将から軍服を貰った。
1961年2月 『オキナワグラフ』「沖縄へのアドバイスーホノルル夏の家快談」出席者ー当山哲夫(月刊「市民」社長)、仲嶺真助(2002年7月『仲嶺真助自伝』新報出版)、上原正治(エバーグリン・レストラン社長)、ワーレン比嘉(中央太平洋銀行モイリリ支店長)、安里貞雄(ハワイ沖縄人連合会顧問)、コンラッド赤嶺(元ホノルル日本人青年商工会頭)
1961年3月 『守礼の光』「姉妹都市ー那覇とホノルル」


フランク・ホーレー資料

1961年4月 「ホーレー文庫」が布大の手に入り、東西文化センター内に「沖縄文庫」を開設し陳列された。/5月 仲原善忠、比嘉春潮来布
1961年6月 『守礼の光』「東西両文化の新しいかけ橋ーハワイ大学東西文化センター」
1961年8月4日 オバマ・バラク・、ハワイ州ホノルルにある病院(英語版)で生まれる。 実父のバラク・オバマ・シニア(1936年 - 1982年)は、ケニアのニャンゴマ・コゲロ出身(生まれはニャンザ州ラチュオニョ県Kanyadhiang村)のルオ族、母親はカンザス州ウィチタ出身の白人、アン・ダナムである。 父のオバマ・シニアは奨学金を受給していた外国人留学生であった。2人はハワイ大学のロシア語の授業で知り合い、1961年2月2日に周囲の反対を押し切って結婚、 アンは妊娠しており、半年後に、オバマ・ジュニアを出産する。→ウィキペディア
1962年5月 『守礼の光』「立法院議員ハワイを見るーキャラウエイ高等弁務官のあっせんにより、琉球立法院議員の当銘由憲氏、嘉陽宗一氏、真栄城徳松氏、平良幸市氏の一行4人は、このほど6週間にわたり、とこ夏の国ハワイをおとずれました。」
1962年6月 『守礼の光』「ハワイに学ぶ営農の近代化」
1962年6月 宇良啓子がラジオKTRG局より電波に乗せて「沖縄貴族階級の方言で小咄を創作して」放送。

1962年7月 『守礼の光』「ハワイ同胞の警告『あわてて復帰は損』ーハワイ島のヒロ市で、内科と外科の開業医をしているマタヨシ・ゼンコウ博士は、琉球の古い友人や親類の人たちに会うため、このほど23年ぶりに、琉球をおとずれました。」/ヘンリー・ナカソネ(ハワイ大学付属農業試験場)「琉球の園芸の現状と可能性(1)」
1962年10月 『守礼の光』外間政章「1854年に結ばれた琉米条約

1963年 東京ー金城珍栄を囲んで、右から比嘉春潮、比嘉良篤、瀬長良直、當間重剛、金城珍栄、島清、仲原善忠

1963年5月 仲嶺真助、日本人連合協会会長に選出。/10月 琉球国民党総裁の大宜味朝徳は米軍用機で来布。

1963年7月 国際興行の小佐野賢治、ハワイのプリンセス・カイウラニ・ホテル買収□12月、モアナ、サーフライダー2ホテル買収/1974年9月 ワイキキ・シェラトン、マウイ・シェラトン、ロイヤル・ハワイアン3ホテル買収

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Posted by: ryubun02
本日は「憲法記念日」。記念日にちなむ集会が彼方此方で開かれている。新聞は「平和憲法守る」に軸足をうつし報道しているが、改憲を主張する集会も詳しく報道して貰いたいものだ。なぜなら岡留ブログに□2015.04.28「日本も沖縄も二度と戦争をしない国を目指してきたはずだが、いつのまにか、いつでも戦争の出来る国へ一直線である。戦後の平和と民主主義はほとんど雲散霧消、換骨脱退状態である。日本が忠誠をつくす米国は戦後も戦争の歴史を繰り返している。このまま、米国追従策を取れば、日本は確実に戦争と直面せざるを得ない。そうなれば、もう遅い。今から日本の戦犯リストを準備しておくべきである。」とあって、その戦犯リスト作成の資料になるからである。

目次
基地難民のはじまり/伊江島/伊佐浜/具志/銘苅/渡具知/土地接収の背景にある布令、条約など/住民を不安に陥れた新たな土地接収計画/島ぐるみの抵抗/復帰後は米軍の銃剣に代わって


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1955年3月11日ー『琉球新報』「伊江島と伊佐浜 土地収用」




昨今は日米国家が国家の暴力装置(防衛局・警察・海保・沖縄総合事務局など)を使って辺野古の「核弾薬庫」跡に核基地を造るに必死である。
『週刊ポスト』1973年11月15日号<平野部の”70%„が米軍基地の沖縄>





「核はこうして貯蔵されている<辺野古の核弾薬庫>」