Archives

You are currently viewing archive for August 2015
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 戦争法案に反対する市民団体が30日、国会近くで集会を開いた。同法案に関する抗議行動では最大規模で、約12万人が参加した。雨の中、参加者は国会議事堂を取り囲み、車道にもあふれた。一斉行動も呼び掛け、全国200カ所以上でデモや集会を実施。「安保法案反対や辺野古新基地建設反対を訴える8・30沖縄大行動」もこれに連動。











『琉球新報』社説9月1日ー維新分裂
目まぐるしく変わる言い分は、たどることすら難しい。有権者の理解を得ることが仕事である人々の、これがあるべき姿なのか。維新の党の分裂が避けられない情勢となった。松井一郎大阪府知事とともに27日に離党した橋下徹大阪市長は28日、「大阪維新の会(同党の大阪系国会議員)で国政政党をやる」と明言した。離党の際、橋下氏は「大阪に全勢力を傾注するため」と説明し、「党は割らない」と明言していた。一晩で180度違う発言をしたことになる。(略)  橋下氏は5月に「大阪都構想」をめぐって大阪市で住民投票を行ったが、その際、「住民投票は1回限り」と訴え、否決の際は都構想断念と表明した。だが今回、都構想を再び掲げて大阪の府知事と市長のダブル選挙に臨むと明言した。(略)前言撤回があまりに多いと政治家の言動を国民は信用できなくなる。政治離れを加速させることにもなりかねない。いずれにせよ橋下氏らは真意を国民に説明する責任があろう。

『琉球新報』9月1日
橋下徹大阪市長は31日、安全保障関連法案に反対する市民団体が30日に国会周辺で開いた大規模集会に関し、自身のツイッターで「たったあれだけの人数で国家の意思が決定されるなんて(ことがあれば)民主主義の否定だ」と述べた。「デモは否定しない。国民の政治活動として尊重されるのは当然」としつつ「デモで国家の意思が決定されるのは絶対に駄目だ」と指摘した。「日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうち、ほぼ数字にならないくらいだろう。サザン(オールスターズ)のコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ」とも語った。

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
俳句雑誌『貝寄風』

□27年間発行されてきた俳誌「貝寄風(かいよせ)」が、8月号(通巻326号)で終刊となる。主宰の中瀬喜陽さん(78)=和歌山県田辺市神子浜1丁目=は「残念に思うがやむを得なかった。後に残る活動ができた」と振り返っている。貝寄風は、中瀬さんが編集を担当していた俳誌「花蜜柑」の主宰者が亡くなり、中瀬さんが知人の田辺市の串上青蓑さんに声を掛け、1984年7月、串上さんを主宰者として創刊。以来月1回発行し、串上さんが亡くなった後に中瀬さんが主宰を引き継いだ。終刊を惜しむ声もあるが、中瀬さんの体調による理由でやむを得ず決めた。

 俳誌には会員の俳句や、中瀬さんによる俳句や短歌の紹介などを掲載している。会員が俳句を作った経緯や思いを掲載しているコーナー「一句の周辺」は、作った俳句を見つめ直すきっかけにしようと設けた。俳句の作り方が分かるという声もあり、人気があるという。会員は創刊当初と同程度の約200人。田辺市や周辺町の住民を中心に、ふるさとについて知ることができるということで県外に住む県出身者らもいる。俳誌のほか、会員で句集「熊野九十九王子」や、創刊20周年を記念した「紀州田辺の俳壇」も発行してきた。また、中瀬さんが研究する南方熊楠を追悼する意味の「熊楠忌」は約10年前、俳人協会に季語として登録された。登録できた背景について中瀬さんは「貝寄風というグループの力があったからこそ」と話している。(→紀伊民報2012年5月19日土曜日)

『貝寄風』 - 新城栄徳「琉球の風」
Category: 99-未分類 Posted by: ryubun
 「琉球の風」第1回は2005年4月発行で、作家・神坂次郎氏との出会いを記し「その昔、外様大名の島津家久が徳川家康の許可を得て琉球に出兵し支配下に置いた。そして中国との交易のため『琉球王国』はのこした。島津氏は琉球士族に対して琉球人らしく振舞うよう奨励した。琉球士族は歴史書編纂などで主体性の確立につとめた。清朝から琉球久米村の程順則が持ち帰った『六諭衍義』は島津を介して徳川吉宗に献上された。幕府によって『六諭衍義』は庶民教育の教科書として出版された。それが江戸文学への遠因ともなり滝沢馬琴のベストセラー小説『椿説弓張月』(北斎挿絵)にもつながる。また、清朝の使者歓待のため玉城朝薫がヤマト芸能を参考に『組踊』が生まれるなど新たな琉球文化が展開された」と記した。


平成17年7月 俳句誌『貝寄風』』(編集発行・中瀬喜陽)新城栄徳「琉球の風②」
4月、南方熊楠顕彰会から『南方熊楠邸資料目録』が贈られてきた。巻末の人名索引に私の名前が有る。驚くと同時に記憶が甦った。1984年の夏、麦門冬・末吉安恭書の軸物「松山うれしく登りつめ海を見たり」を背に担ぎ熊本城を経て、田辺の熊楠邸を訪ねた。折よく文枝さんが居られたので麦門冬の写真を仏壇に供えてくださいと差上げたものであるが、大事に保存され且つ目録にまで記されるとは夢にも考えなかった。飯倉照平先生に電話で伺うと、研究会では熊楠没後の写真なので収録することに悩んだという。と書いた。そして麦門冬の親友・山城正忠を紹介した。正忠は那覇若狭の漆器業の家に生まれた。若狭は漆器業が多い。麦門冬の手ほどきで琉球美術史研究に入った鎌倉芳太郎(人間国宝)は「思うに(福井県)若狭はその地勢、畿内に接して摂津と表裏し(略)、古来日本海における外国貿易の起点となっていたが、十五世紀の初頭以来南蛮船も着船し、この地の代官も書をもって朝鮮国と通交しており、小浜から出て東シナ海に向かい、琉球に新しく出来た那覇港に、貿易物資(漆器)生産のための若狭の居留地が造成された」(『沖縄文化の遺宝』)と推定している。
平成17年12月 俳句誌『貝寄風』』(編集発行・中瀬喜陽)新城栄徳「琉球の風③末吉安恭と南方熊楠」

null
7月、立教大学の小峯和明氏と奈良女子大学の千本英史氏から南方熊楠特集『國文学』8月号を恵まれた。小峯氏は「熊楠と沖縄」を執筆され「それにしても、末吉安恭との文通が半年(1918年2月~9月)あまりでとだえてしまったのはなぜであろうか」と疑問を呈しておられる。千本氏は「等身大の熊楠へ」で「熊楠はいたずらに祀り上げるのでなく、その、すぐれた可能性を引き継いでいくことが求められている」としている。

そこで熊楠と末吉安恭の文通の周辺をみてみたい。柳田国男が『郷土研究』を創刊した1913年3月に柳田は伊波普猷に「琉球の貴重文書の刊行」についての書簡を送っている。程なく沖縄県庁では筆耕に『中山世譜』など写本を命じている。6月、黒頭巾・横山健堂が来沖し伊波普猷や安恭らと親しく交わり『大阪毎日新聞』に「薩摩と琉球」を連載。無論、沖縄の新聞にも転載された。

1914年に安恭らは同人雑誌『五人』を創刊、安恭は古手帖(抜書き)をもとに男色をテーマに「芭蕉の恋」を書いた。7月、伊波普猷、真境名安興らは県知事から沖縄史料編纂委員を拝命。1915年の1月に沖縄県史編纂事務所が沖縄県庁から沖縄県立図書館に移された。主任は安恭の友人で同じ池城毛氏一門の真境名安興である。当然、先の『中山世譜』などは県立沖縄図書館のものとダブルことになる。安恭は安興から『中山世譜』『球陽』などの写本を譲り受けた。安恭は『球陽』などを引用して『琉球新報』に「定西法師と琉球」「琉球飢饉史」、朝鮮史料で「朝鮮史に見えたる古琉球」を書き琉球学の開拓にこれつとめた。

熊楠宛の書簡で安恭は前出の「芭蕉の恋」に関連して「芭蕉翁も男色を好みし由自ら云へりと鳴雪翁の説なりしが、芭蕉がそれを文章に書き著せるもの見当たらず候が、御承知に候はば、御示し下され度候」とある。いかにも見た目には学究的だがその気質は芸術家である。安恭は俳人として麦門冬、歌人として落紅、漢詩人として莫夢山人と号したが俳諧が気質に合っていたようだ。前出の古手帖には「芭蕉」「子規」「俳句に詠まれた琉球」「俳句の肉欲描写」「沖縄の組踊の男色」などが記されている。

安恭は熊楠と文通を通じてお互いに聞きたいことは殆ど聞いたと思う。文通が直接には途絶えても沖縄の事は安恭贈呈の『球陽』で当面間に合う。『日本及日本人』誌上では安恭は亡くなるまで熊楠と投稿仲間であった。1919年1月、折口信夫編集『土俗と伝説』には熊楠の「南方随筆」と並んで安恭の「沖縄書き留め」がある。しかも同年6月、安恭は安興らと「沖縄歴史地理談話会」を設置し活動に入り安恭も自ら企画・講演をなしその内容を新聞記者として、創刊メンバーとして『沖縄時事新報』にも書く忙しさである。

私の手元に中瀬喜陽さん編著『紀州田辺の俳壇』がある。序に「田辺に俳人が訪れたであろう最初を大淀三千風の『行脚文集』に依るのが従来の定説だった」とある。安恭も1917年9月の『日本及日本人』に「大淀三千風の日本行脚文集に『雨雲をなとかは横に寝さすらむ名は正直(ろく)な神風』といふ歌あり、ろくに正直といふ意味ありしか」と『行脚文集』を引用している。同じく中瀬さん共著『南方熊楠アルバム』の1911年3月・熊楠日記には河東碧梧桐俳句「木蓮が蘇鉄の側に咲く所」」と河東写真が並んでいる。碧梧桐は1910年5月に来沖し安恭の俳句は「将来有望」と述べた。
 
私と熊楠(熊野)との関わりを述べる。1964年4月、私は集団就職で白雲丸(後に知るが、芥川賞作家・東峰夫も乗船していた。)に乗船し那覇港から上京。途中、暴風で船は和歌山の串本に避難したのが熊野との出会いである。熊野そのものの熊楠、その熊楠が書いた文から私は安恭を日比谷図書館で知ることになる。



1969年2月に沖縄から南方熊楠記念館を訪ねる。同年夏、京都の職場「紅屋」の慰安旅行で紀伊勝浦で遊び(ここで初めてストリップショーを見る)熊野那智大社を参拝。75年10月、満一歳の息子を連れ高野山(金剛峰寺)に遊んだ。後は、「琉球の風」①②でふれた。

 「琉球の風」第3回は2005年12月発行で、麦門冬の『球陽』入手の経緯、麦門冬と熊楠の文通、私と熊野との関わりを述べた。また沖縄都ホテルの社長であった熊野人の桑原守也氏との交遊を書いた。
 
 「琉球の風」第4回は2006年5月発行で、琉球学の巨人、東恩納寛惇の琉球学とは後世に残すべき『琉球の誇り』であるとの見解や、「郷土史の研究は単なる科学では無い。郷土に共鳴なくして郷土史を取扱う事は出来ない」との発言を紹介した。また折口信夫が琉球芸能に貢献したことにもふれた。

 「琉球の風」第5回は2006年10月発行で、「私は2001年『おきなわ写真の歩み』に、沖縄で日本最初になる写真を撮ったペリー艦隊のブラウン(1853年)、沖縄最初の写真師の垣田孫太郎(1876年)、沖縄人で最初の写真師・山城正択や又吉昌法。福永義一、写真師にして壮士芝居の役者でもある。福永が1902年に大阪から清国人を招聘し「支那そば屋」を開業したのが沖縄そばの直接のルーツとなった」ことを書き、麦門冬の琉球民俗への関心は1915年9月『琉球新報』の紀行文「薫風を浴びて」に始まることも書いた。

 「琉球の風」第6回は2007年2月発行で、「麦門冬は1918年4月10日の熊楠あての手紙で横山健堂『薩摩と琉球』の口絵に吉田博氏の写生せし琉球の墓がある」と述べている。横山は1913年6月に平壌丸で来沖、その著『薩摩と琉球』は1924年1月に中央書院から発行され、序文を大阪毎日新聞の本山彦一が書いている。本山は1908年10月に台湾縦貫鉄道開通式の帰途、桜丸で増田義一、坪谷水哉、鳥居素川らと一時来沖した。

 「琉球の風」第7回は2007年6月発行で、「私は、阿嘉宗教画『首里那覇鳥瞰図』や、沖縄タイムス『沖縄美術全集』所載の『うゃんまぁの図』、山口瑞雨の略歴、丹青協会の集合写真を東京の島袋和幸氏と共同して新聞の社会面で紹介してきた」ことを書いた。麦門冬の琉球美術史にもふれた。

 「琉球の風」第8回は2007年11月発行で、オカヤドカリ研究家の当山昌直氏の収集した坂口總一郎資料にふれ、飯倉照平氏との出会いも記した。「麦門冬は随筆に『蘇鉄』が沖縄から中国に渡ったという説は五雑俎に出て居ります。慶良間の伝説とは反対になって居ります。沖縄の地中から蘇鉄の化石でも出れば自生説が確実となります」と麦門冬が文人の視点で書いていることを記した。
 

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
2015年8月27日 『琉球新報』友寄貞丸「かちゃい ほーちゃいー週刊誌時評」
2015年8月27日 『琉球新報』友寄貞丸「かちゃい ほーちゃいー週刊誌時評<8月>」で来月から月2回掲載されると云う。月4回はやって貰いたいが事情もあるのだろう。

2014年5月29日 『琉球新報』友寄貞丸「かちゃい ほーちゃいー週刊誌時評」
友寄貞丸氏が 『琉球新報』に「かちゃい ほーちゃいー週刊誌時評」を連載するようだ。そこで友寄貞丸を検索すると上位に「琉文21」のも出てきた。2012年1月3日ー『琉球新報』友寄貞丸「辰年に寄せてー『竜頭蛇尾』の民主党」、よほど気にいっていたようである。本日のものに「『新聞・テレビが絶対に報じない』というのは、週刊誌の謳い文句である。事件、事故、スキャンダルからスポーツ、政治まで、新聞・テレビにはまねのできないゲリラ取材や、品位をかなぐり捨てた表現が身上だ。(略)この欄では『週刊文春』『週刊新潮』『週刊現代』『週刊ポスト』の4誌を中心に新聞社系2誌も含め、1か月間に掲載された記事の中から、興味を引かれたものや沖縄に言及したものを『かちゃい(かき集め) ほうちゃい(掃き集め)』してリアルな世相を垣間見る狙いある」とする。中に「シャブ愛人・栩内香澄美容疑者は、人材派遣会社パソナ代表の接待秘書」というのがある。パソナ会長は竹中平蔵元蔵相である。

ネット上では早くも「ASKAと共に薬物違反で逮捕されたパソナの女秘書に絡んで、パソナ会長の竹中平蔵は今回のこの事件に何の関係もなかったのかと大騒ぎになっています。まあ、どこからどう見ても関係がないわけがないのです。そんなことはもう誰の目にも明らかです。何しろ、パソナの迎賓館『仁風林』には竹中平蔵と親交の深かった政治家も何人か出入りしていたらしいですからね。」→rapt.sub
大宅壮一賞受賞作に竹中平蔵を描いた「市場と権力」(佐々木実)がある。


Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

○台風の影響もなくヤガン折目無事に執り行われる!
○ヤガン折目:奉納相撲、歌・踊り、カラオケ大会
○アイランダー機(9名乗り)からツインオッター機(19名乗り)へ
○夏休みラジオ体操!
○一括交付金活用:村営塾(アニー塾)開塾
○8月教学連絡会
○8月定例教育委員会議と総合教育会議について
○マブイ込めの異文化初体験:ALTのtiff先生
○お知らせコーナー

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
南洋群島ー日本の委任統治
第一次世界大戦での敗退によってドイツは海外植民地をすべて失い、連合国であった日本は1922年、ヴェルサイユ条約によって赤道以北の旧ドイツ領ニューギニアの地域を委任統治することとなった(赤道以南の旧ドイツ領ニューギニアの地域はオーストラリアおよびニュージーランドが委任統治)。日本は南洋諸島獲得後、開拓のため南洋庁を置き、国策会社の南洋興発株式会社を設立して島々の開拓、産業の扶植を行った。南洋諸島では時差があり、東部標準時(ヤルート・ポナペ地区)が日本標準時+2時間、中部標準時(トラック・サイパン地区)で日本標準時+1時間、西部標準時(ヤップ・パラオ地区)は日本標準時と同じであった。また、国際連盟脱退後はパラオやマリアナ諸島、トラック諸島は海軍の停泊地として整備し、それらの島には軍人軍属、軍人軍属相手の商売を行う人々が移住した。また、新天地を求めて多くの日本人が移住し、その数は10万人に上った。日本人の子供たちのために学校が開かれ、現地人の子供にも日本語による初等教育を行った。1941年(昭和16年)にはパラオ放送局が開局し、ラジオ放送が開始された。→Wikipedia

 比律賓群島

左から諸隈彌策①(太田興業社長)、木原副領事、内山総領事/鈴木不二男、中村直三郎(大同貿易マニラ支店支配人)、太宰正伍(横浜正金銀行マニラ支店支配人)/澤松守順、森繁吉、宮崎新吉/望月音五郎、森貞蔵、山本鶴次郎

大阪毎日新聞 1935.11.9(昭和10)
本社機マニラ訪問に欣喜雀躍の二万の在留邦人 マニラ本社無線電話 八日
肩身が一層広い思い 比島日本人聯合会長 ①諸隈弥策氏談
本社の日比親善飛行の壮図を前にして本社は八日午後四時四十五分(マニラ時間午後三時四十五分)比島日本人聯合会長諸隈弥策氏と国際電話で談話を交換したが諸隈氏は非常に感激に満ちた口調でつぎのごとく語った
比島コンモンウェルス政府樹立の記念すべき日を卜し大阪毎日東京日日両社が日比両国の親善を目的に空からの祝賀使節を御派遣下さるとの報に接し在留邦人一同はまさに欣喜雀躍し人気は沸くがごときものがあります、二万余の在留邦人を代表しまず貴社の御壮挙に対し衷心から御喜びと御礼を申上げます、今回のこの計画は両国の関係を一層親密にする意味から申しても非常な効果をもたらすでありましょうが、在留邦人としても一層肩身が広く感ぜられるわけであります、フィリッピン政府および日本官憲側としてすでに非常な意気込みのもとにそれぞれ歓迎凖備に着手しているようでありますが在留邦人の民間側として大々的な歓迎凖備に着手しております、飛行機到着の際には多数の在留邦人が挙ってお出迎えするはもちろん邦人小学生、児童も喜んでお迎えする凖備をしております、もう数日のうちに福本親善使節、大蔵飛行士、布施機関士の一行を歓迎申上げることを衷心から喜ぶとともに重ねてフィリッピンの在留邦人一同が非常な感激をもって飛行機到着の日をお待ちしていることを貴社の皆様からお伝えして戴きたいと思います 。→神戸大学図書館

河村雅次郎  三豊中学 、大正3年ー神戸高等商業学校卒 三井物産(豪洲メルボルン支店)、 三井物産(マニラ支店)

左から渡邊薫、大谷純一、筒井新/金ケ江清太郎、村瀬茂、北島庄平/山本亀彦、稲田繁造、上脇辰也/森誠之、永富麻夫、早川豊平


左から田中藤作、松本勝司、古川義三/原瀬宗介、村上忠二、田熊虎太郎/吉田圓茂、大森文樹、高山辰次郎/只隈與三郎、川上武雄、服部龍造


左から愛甲武男、崎谷襄一、村上寅吉/伊藤卯太郎、村田榮一、森長英/龍頭鉄次、仁木眞一、藤井熊太郎/内海安次郎、花田善太郎、高橋利一


左から星篤比古、蒲原廣一、岡崎平治/宮下鶴、西村五郎、拍原達象/宮坂清一、三原文雄、右高剣一/松尾菅平、小林千尋、大本徳太郎

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 大宜味朝徳・序ー我国の移植民事業は今後益々積極的に遂行しなければならぬ重要な国策の一つである。この海外発展の實を挙げるには、移民地の地誌文化民情等知悉することも必要であるが現に之等の植民地に邦人は如何なる人物がいるか、夫等の人々は如何にして今日の地位を築き上げたかを知ることは我国海外発展上極めて重要な問題である。まして之等の邦人と相提携して通商貿易其他の上に益々連絡の必要ある今日に於いてをやである。然るに移植民を国是とする我国に於いて海外人事に関し権威ある人事録の無かった事は吾人の久しく遺憾とした所であった。我海外研究所はこの点に着目しこの要求を充たす可く兼ねて海外人事録の発刊を企圖し、之が取材に努力して来たのである。ここに比律賓及南洋群島を纏めて公にしたのが本書である。本書は更に布哇、北米、南米、満洲等漸次調べ上げ之が完璧を期すつもりである。
 本書はありふれた人事録と異なり、植民地に活躍する邦人を努めて各層に亘り之を網羅し其閲歴の如きも植民人としての苦心、奮闘した点に力を注いで紹介し以って後進の指導発奮の資に供することにした。万里の異郷に於いて孤軍奮闘して之等多くの植民人の来歴を見る時に涙なくして聞くことの出来ぬ悲痛の物語の主もあり、一面「日本人ここにあり」を如実に体現し国士的な風格に於いて尊敬すべき人物も多い。之等多くの難関を突破し今日の地位を築き上げ邦人の進路を開拓した植民の先覚者に対し吾々は心からの感謝を捧ぐるものである。この意味に於いて本書は我国移民事業の生きた歴史であり植民史上後世に伝ふ可き金字塔である。

 南洋群島






左から上地安傳、仲本興正、國場長昌/備瀬知信、大濱賢介、西平守模①/安次富長光、仲里常一、比嘉賀春/儀間榮造、古堅宗全、野原朝碌
西平守模①大正6年、県立一中卒。大正15年、専修大学経済科卒。琉球新報記者、沖縄県庁農林課、昭和5年、南洋日々新聞編輯主幹。1945年、首里市労務課長、産業課長となり48年、琉球新聞社専務、50年、首里バス監査役、57年に沖縄飼料常務、61年に文化財専門委員。63年に沖縄外地引揚者協会長をつとめた。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


2015年7月17日~8月30日 沖縄県立博物館・美術館「深海探検ー海底二万里の世界」


8月18日 入場者2万人達成!!



せんすいてい「ノーチラス号」アトラクション体験 100分待ち

8月30日

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


写真ー比嘉良篤

写真左からー下地玄信、中田匤彦

写真左から崎山喜昌、下地玄信、高嶺明達/陳而松、津波実良、比嘉正子/山城得次、前里宗恭、森松長光

写真左から宮島肇、新崎盛敏、大浜信泉/石川正通、宮城栄昌、一泉知永①/外間寛、安良城盛昭、島茂彦
① 明治大学名誉教授の一泉知永(いちいずみ・ちえい)さんが15日午後5時34分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。81歳。那覇市出身。自宅は東京都杉並区和泉2-27-8。通夜は19日午後6時から、告別式は20日午前11時から杉並区永福1-8-1の築地本願寺和田堀廟所で。喪主は妻知榮子(ちえこ)さん。
一泉さんは1923年、那覇市泉崎の生まれ。41年に県立二中、49年に明治大学を卒業し、証券会社勤務を経て、53年に同大助手となり、研究者の道を歩んできた。専門は金融論と文化史で、著書に「証券市場論」「金融論」などがある。近年は沖縄方言や日本語の語源にも関心を広げていた。→2005年1月17日『琉球新報』


写真左から沢村美司子、嘉手納清美、堀川真智子/伊東ゆかり、大空真弓、金井喜久子/島晴美、川田礼子、仲宗根美樹

写真左から外間盛安、仲嶺真助、安里貞雄/知念精吉、具志保男、天願保永/津嘉山朝吉、儀間真福、新里与旌

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
「尾瀬2015-8」





尾瀬の夏風物詩「白い虹」

オゼヌマアザミーアザミ属は、分布域が比較的広いものと極端に狭い地域固有種がある。オゼヌマアザミの分布域は狭く、群馬県、福島県、新潟県にまたがる尾瀬及び同県内の湿地に限られ、尾瀬以外ではごくまれに見られる。基準産地は尾瀬。





» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02





2015年8月11日 県民広場「辺野古新基地建設の断念を求める県民集会」
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2015年6月 金子 豊 編『岸本英夫図書館関係著作集ー大学図書館のあるべき姿を求めてー』/写真・岸本英夫
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
若駒太郎のブログ 4月30日ー日米会談が27日から行われました。28日には公式晩餐会が開かれ、そこで披露した安倍首相の歌がふるっています。

ダイアナ・ロスが歌うR&Bの《Ain't No Mountain High Enough》の歌詞を引用して、日米の親密さを強調したんです。
 ♪
 あなたが私を必要なら
 私を呼んで
 あなたがどこにいようと
 あなたがどんなに遠くにいても

 大きな声で私の名前を呼んで
 急いであなたのもとに駆けつける
 私を信頼していいのよ
 心配はいらないわ
 ………………
 乗り越えられない山はないわ
 深すぎる谷だってない
 渡れないほど広い川もない
 私をあなたから
 遠ざけることはできないわ ♪

 今の日米関係を思うと、何と露骨な内容かと、開いた口がふさがりません。この晩餐会では、オバマ大統領は日本の俳句で安倍氏を歓迎し、乾杯にはシャンペンを傾けるかわりに日本酒の杯を上げたそうで、その返礼にと、安倍首相が先の歌を披露したのです。そうなんです。安倍さんは集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、この連休明けにそれにもとづく「戦争法案」を国会で一気にとおすことを目論んでいますが、その本質はこの歌のとおりなんです。 「重要影響事態」だとか「存立危機事態」や「国際平和共同対処事態」など、何だか訳のわからない言葉で「粉飾された」法案ですが、要するに「いつでも・どこでも・どんな時でも」「アメリカはもちろんそれ以外の国がしている戦争を支援します」「必要なら武器も使います」ということなんです。
 ちょっと露骨すぎるので「いちおう国会で承認するようして」「歯止め擬(もど)きはやっておきましょう」というのが公明党との約束で、与党多数の現状では何の歯止めにもならないまやかしが企まれています。


天木直人のメールマガジン2015年8月13日第668号 
 =============================================================
  
  米軍ヘリ墜落事故ではからずも露呈した自衛隊の違憲軍事行動

 =============================================================

 きのうのメルマガで書いたばかりだ。

 国民の知らないところで、いや政治家さえほとんど知らされていない
中で、自衛隊は公然と憲法違反の軍事演習を米軍と一体になって行って
きたと。

 それが共産党や社民党の国会質疑で明らかにされたと。

 わずか一日後に、今度はそのことが米軍ヘリの墜落事故という思いも
よらない偶然によって露呈した。

 日米地位協定と特定秘密保護法の壁に妨げられて、今度の米軍墜落事故の実態はほとんど明らかにされていない。

 そんな中で、きょう8月13日の朝日新聞が次のように書いていた。

 すなわち、陸上自衛隊によるとケガをした陸自隊員は「中央即応集
団」に所属していたと。

 合計10名が在沖縄米陸軍部隊の研修に参加するため沖縄に訪れてい
て、そのうちの二人が事故機に乗っていたと。

 中央即応集団を含む陸自の各部隊は2009年度から、米軍の部隊の
活動を学ぶ研修を毎年重ねてきたと。

 これだけでも十分だ。

 研修と言えば聞こえはいいが、これは紛れもなく米国との共同軍事演
習だ。

 そして中央即応集団とは、国際貢献、国連PKO活動などという美名
の下で作られた、専守防衛を逸脱した、もっぱら海外活動を念頭につく
られた新たな戦闘集団だ。

 この自衛隊と米軍との共同軍事演習が、2009年度から毎年行われ
ていたという。

 これは紛れもない自衛隊の憲法違反行動だ。

 このような憲法違反の自衛隊の行動が、安保法制案ができるはるか以
前から公然と行われていたのである。

 その事を誰も知らなかったのである。

 知っている政治家やメディアは誰も問題にしなかったのである。

 今度の米軍ヘリ墜落の本当の衝撃は、日米軍事協力が憲法論議を超え
て先行しているという現実が明るみになった事である。

 なぜメディアはその事を書いて国民に知らせなければいけない(了)

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
慶世村恒任 きよむら-こうにん
1891-1929 大正-昭和時代前期の郷土史家。
明治24年4月21日生まれ。郷里の沖縄県宮古島で代用教員をつとめるかたわら研究をすすめ,昭和2年宮古のはじめての通史「宮古史伝」を刊行した。昭和4年1月19日死去。39歳。沖縄師範中退。著作はほかに「宮古五偉人伝」「宮古民謡集」など。 →コトバンク

1914(大正3)年
10月8日 『琉球新報』清村泉水「宮古女性史ー按司時代以前の女」①
10月11日 『琉球新報』清村泉水「宮古女性史ー戦国時代の女」②
10月12日 『琉球新報』清村泉水「宮古女性史ー在番時代の女」③
10月14日 『琉球新報』清村泉水「宮古女性史ー明治時代の女」④
10月20日 『琉球新報』清村泉水「宮古女性史ー過渡時代」⑤
10月22日 『琉球新報』清村泉水「宮古女性史ー自由時代」⑤ママ

1927年2月 慶世村恒任『宮古史伝』南島史蹟保存会


1927年12月 慶世村恒任『註釈曲譜附 宮古民謡集 第一輯』南島史蹟保存会

1935年6月 慶世村恒任『宮古史伝 復刻版』須藤利一
1955年11月 慶世村恒任『宮古史伝 復刻版』伊志嶺賢二 
○比嘉春潮「序ー宮古史伝は既に二十年来、私の書棚に備えられて研究上すこぶるその恩恵を蒙むり、たびたび学友に示して愛蔵を誇った書の一つである。この書の初版は昭和二年(1927)であるが、数年を経て私は銀座の古書展で初めてこれを発見した。全く偶然で大きな喜びであった。(略)宮古史伝を読む毎に私は沖縄一千年史を連想する。博覧強記の真境名氏があらゆる文献を渉猟し読破して、一千年に亘る資料を胸中に収め、これに序列を与え達意な筆に載せたのがあの沖縄一千年史であらう。研究者はこれを一種の歴史辞典として利用することが出来る。宮古史伝についても同様のことが言へる。(略)この書はたしか昭和十七年の春、須藤利一氏の南島発行所によって台北の吉田書店から僅小部数ながら再版が出て、同好の士に頒けられたと覚えている。

1976年10月 慶世村恒任『宮古史伝 復刻版』吉村玄得

1995年2月 『沖縄タイムス』仲宗根将二「人物列伝 沖縄言論の百年 慶世村恒任」
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1910年5月、河東碧梧桐、岡本月村が来沖、沖縄毎日新聞記者が碧梧桐に「沖縄の俳句界に見るべき句ありや」と問うと「若き人には比較的に見るべきものあり其の中にも麦門冬の如きは将来発展の望みあり」と答えたという。

1908年1月『文庫』麦門冬「垣越えて鶏逃ぐる木の芽かな/乳呑児の母の昼寝を這ひありく/旅旅籠の女幮吊る無口かな/短夜の酒の香臭き畳かな/奪はれて男にうたす砧かな/許されて山雀しばし庭ありき」
1908年4月『文庫』麦門冬「庭の隅古根の椿咲きにけり/院々の晝静かなり鳥交る/恋知らぬ子猫よ来たれ日向ほこ」
1908年6月『文庫』麦門冬「狛犬の眼鼻に梅の落花かな/病癒まし小姓召さるる梅の花/下張りの屏風乾きぬ小六月/葱畑に先生おはす懐手/甘蔗の干殻白き枯野かな/道草にちぎり馴れにし薄かな」
1908年9月13日□麦門冬「糸瓜忌や叱咤に漏れし人ばかり」
1908年9月『文庫』麦門冬「禅単をすべり出づれば夏の月/蝙蝠や傾城老いて里に住む/炎天や騎馬の法師が頬冠り/お給仕の振袖つづく夏座敷/物の怪の落ちて眠りぬ蚊帳の人/佛へは白き桔梗をまいらせん/南山を見る立膝の主人哉/月の方へ蔭の方へと踊りけり/恋さまざま古文殻の紙魚ぞ知る/かしましき傾城共や嘉定喰/面白うわらひ薬やけさの秋/松風の心動きぬ墓参/平新皇河鹿の歌を詠まれけり/蜻蛉飛んで辻説教の供赤し」
1908年8月『文庫』麦門冬「晒女の邊に泳ぐ家鴨かな/夏痩や柱鏡に向ひ立つ/膳椀の漆輝く暑さかな」
1908年11月『文庫』麦門冬「草紅葉蔵と蔵との間かな/力石夜毎に蚯蚓遶り啼く/芋の子の尻にしかれて鳴く蚯蚓/柳ちりて店鎖しけり姨が酒/花葱に八日の月や夕明り/草花を鉢に培ふ姉妹/立ちながら杯を重ぬる濁酒哉/猿酒を盗みに行くや雲深く」
1908年12月『文庫』麦門冬「まめまめしく硯洗ふや小傾城/魂のぬくもりを出る蒲団かな/頭巾脱いで故郷の山に別れけり/蛤になれず雀の飛びにけり/海に入る勧学院の雀かな/落人の跡かぐ犬や枯野原/傾城に物ねだれし夜長かな/うそつきの唇薄き寒さ哉/梅干を碓つく庭の小春かな」
1909年3月『ホトトギス』麦門冬「粥杖や人の妬みに打たれけり」
1909年2月『文庫』麦門冬「屁を放つて空々如たり冬籠/霜の夜を焼鳥すなる翁かな/寒月に着る火鼠の裘/汲みこぼす水一条や冬の月/寒月に身をすぼめ行く女かな/袋して髯を養ふ冬籠り/船に乗す贄の乙女や枯柳/冬木立祠あらはに石寒し」
1909年4月『文庫』麦門冬「松の内を灯しつづけて石燈籠/女郎衆の艶書合せや松の内/水視我が身の上の今年かな/菜畑水鳥のぼる朝かな」
1909年4月『文庫』麦門冬「粥杖のどつと笑ふや打たれけん/打笑ひて粥杖隠し待つ君よ/交りは手毬を替へてつきにけり」
1909年5月『現今俳家人名辞書』(紫芳社)麦門冬「院々の晝静かなり鳥交る/月の方へ蔭の方へと踊りけり」
1909年5月『文庫』麦門冬「湖近く住みて書楼の柳かな/鳳輦を拝する市の柳かな/木蓮に春の簾を半ば巻く/供養すんで撞き出す鐘や夕桜/さを鹿の八つの角振り落しけり/蛇穴を窈窕として出づる哉/小人も君子も春の日永かな/鶯に崖高うして噴井かな/鶯や天の岩戸に谺して/野遊や火縄に焦げる春の草/泥の香をほのかに嬉し田螺汁/打果てて我が畑廣く眺めけり/三畳に夕日さして梨の花」
1909年5月『趣味』麦門冬「春を惜む柱に屋根の重かつし」
1909年5月『ホトトギス』麦門冬「うららかや低き家並の田舎町」
1909年6月『ホトトギス』麦門冬「磯山を焼き下しけり波白し」
1909年7月『ホトトギス』麦門冬「夏百日梁の袋糧やある」
1909年8月『ホトトギス』麦門冬「翡翠や釣人去りし忘れ笠」
1909年8月『趣味』麦門冬「短夜のすさびにやあらん團扇の絵/傘たたむ雫に闇の蛍かな」
1909年9月『趣味』麦門冬「人訪へば留守とばかりや青簾/青簾湖紅いに旭の出づる/山眼前に聳えて暗し青簾」
1909年9月『文庫』麦門冬「摘み残す煙草畑の小雨かな/裏畑や枯木の枝も掛煙草/蝶々や梅に餘寒の羽づくろひ/南天の葉にさめざめと春の雨/春寒う人元服す神の前/御秘蔵の鶏抱き来る小姓哉/鶏の垂尾美し木の芽垣/山佛焼けてふすぶりおはしけり/山焼くる今朝や匂ひの一しきり/燃尽きて夕になりぬ山寒き」
1909年10月『ホトトギス』麦門冬「庫あけて人のあらざる日永かな/露の野に草刈りおはす王子かな」
1909年10月『文庫』麦門冬「釣床の揺るるに人は寝入りけり/碁敵を迎へて涼し箪/すいと立つ竹一本や露重し/露の野に草刈りたまふ王子かな/木犀に玄関先の月夜かな/風の葦物馴れ顔に行々子/風死して黒き林や三日の月/古雛の首ぐらぐらと動き給ふ/爐塞ぎて疎々しさや老夫婦/家康も組する蛙合戦かな/長閑さや大宮人の長尿/づかづかと小男出でて絵踏かな/狂女とて扶掖して来る絵踏かな/野遊や八重垣の妻見つけたり/城外にぬける泉や草萠ゆる/畑打の木に忘れたる茶瓶かな/山の人駕籠舁き馴れて霞かな/屋根草をしもべに取らす日永哉/摘み行けば摘み来る人や春の草/庫々の白きに柳青みけり/鶯の小さき枝をふみ馴れし/昼寝して彼岸の鐘や夢うつつ」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


null
1935年4月「第一回沖縄洋画協会展」①大嶺政寛 ②大嶺政敏 ③大城皓也 ④大城皓也夫人 ⑤末吉安久 ⑥具志堅以徳 ⑦桃原思石 ⑧山田有昂 ⑨西銘生一 ⑩國吉眞喜 ⑪宮平清一⑫許田重勲 ⑬渡嘉敷唯盛 ⑭安仁屋政栄

写真左から末吉安久、桃原思石、許田重勲

1944年ー夏  学童疎開の引率で宮崎に

1946年ー秋  首里高校美術科教官に就任するや沖縄民政府文教局にデザイン科の設置を要請し首里に伝わる紅型の復活を図りたい」と嘆願し実現に導いた。

1949年3月  『月刊タイムス』№2□末吉安久「表紙・カット」
1949年4月  『月刊タイムス』№2□末吉安久「表紙・カット」
1949年5月  『月刊タイムス』№4□末吉安久「表紙・カット」

null
末吉安久「閑日月」
null
末吉安久「子供達」


1950年8月  朝日新聞社『鉄の暴風』末吉安久「装幀」/牧港篤三「挿絵」
1950年9月  末吉安久、首里図書館長就任(1957-4)
1951年11月 琉米文化会館「第3回沖縄美術展覧会」末吉安久「子供達」/金城安太郎「楽屋裏」

1952年1月1日『沖縄タイムス』末吉安久「思うたまで」

1952年1月1日『琉球新報』末吉安久(Q)「漫画漫詩」

1953年1月1日『沖縄タイムス』「漫画アンデパンダン展」末吉安久「乾かすのか掲げるのか」



1954年12月に写真集『基地沖縄』が東京新宿市ヶ谷加賀町の大日本印刷で印刷され沖縄タイムス社から発行された。編集は豊平良顕、上間正諭、牧港篤三、金城久重で、装幀が南風原朝光、末吉安久であった。零よりの出発と題して農夫の写真が掲載されていて、説明文に「戦争の破壊は、とにかく地上の人間の営みを根こそぎ奪い去った。戦後の復興はすべて零よりの出発と云ってよい。この老農夫の姿そのままが、零のスタート・ラインに立った終戦直後のオキナワを象徴している」とある。

1955年3月  第7回沖展に末吉安久「花」「サバニ」「静物」「金魚」
1956年3月  第8回沖展に末吉安久「黄色の部屋」「魚」「静物」
1956年8月15日 『沖縄タイムス』末ひさし「居タ居タ鳩ダ」

1956年8月19日 『沖縄タイムス』末ひさし(Q)「静かなデモ」


左から真境名安興、伊波普猷、末吉麦門冬(末吉安久画)
1956年11月 『沖縄タイムス』島袋盛敏「新遺老説傳 沖縄むかしばなし」末吉安久(Q)・絵
1957年3月  第9回沖展に末吉安久「静物」

1958年3月  第10回沖展に末吉安久「黒い月」「漁師たち」
1959年3月  第11回沖展に末吉安久「魚」「月」「大学の丘」「死せる生物」
1960年3月  第12回沖展に末吉安久「石」「根」「花」「珊瑚礁」
1961年3月  第13回沖展に末吉安久「作品」「墓場」
1961年3月  『養秀』養秀同窓会□養秀「表紙装丁カット」「金城紀光氏に聞くー聞き手/末吉安久」

1962年3月  第14回沖展に末吉安久「墓地A」「墓地B」「墓地C」



末吉安久/表紙絵 1962年8月『今日の琉球』58号「琉球の玩具」

null
写真ー末吉安久氏と大城皓也画伯

null
沖縄県立図書館の左側には「安冨祖流楽祖之碑」がある。安冨祖流絃聲会が1964年1月18日に建立しものだが、設計は末吉安久である。ちなみに、揮毫は島袋光裕、刻字が安里清謙、施行が安里清福である。沖縄県立図書館の館長室には歴代図書館長の一人として末吉安久の写真も飾られている。

1969年2月 『新沖縄文学』第12号 末吉安久「貘さんに る幻想」
1975年1月28日 山之口貘詩碑建立期成会発足(宮里栄輝会長、末吉安久副会長)
1975年7月23日 与儀公園で山之口貘詩碑除幕式
1975年9月7日 那覇文化センターで山之口貘記念会発足
1976年12月 『沖縄風俗絵図』月刊沖縄社□末吉安久「ケンケンパー」「足相撲」「ビー玉」「イットゥガヨー」「ジュークーティ」「クールーミグラセー」「クールーオーラセー」□末吉安久紅型「醜童舞い」「浜千鳥」「馬」「桃売りアングヮー」「カンドーフ売り」 

1977年11月29日『沖縄タイムス』「佐渡山安健『名馬・仲田青毛』末吉安久宅に」

null

1978年8月 『季刊 南風』№2 末吉安久・絵と文「続・無題」

2015年10月16日『沖縄タイムス』大城冝武「沖縄マンガ史34(末ひさし)末吉安久/大嶺信一」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
南風原文化センター(沖縄県島尻郡南風原町字喜屋武257番地 TEL:098-889-7399 FAX:098-889-0529 )は、南風原・沖縄に関する歴史資料や沖縄戦に関する展示,そして移民やむかしの暮らし等の展示を行っています。常設展示のほか企画展や講演会、音楽会、交流会なども行っています。
文化センター運営の基本
1.みんなで創り、みんなを結ぶ/2.学校や地域・他機関の要求や課題に応える/3.足元を深く掘り起こし、世界に広がる
文化センター活動の柱
1.資料の収集・記録保存・調査研究/2.資料・情報の公開と提供/3.歴史・文化の継承と創造/ 4.人と文化の交流

7月31日ー南風原文化センターで写真左から、新城栄徳、平良次子さん(南風原文化センター)、久部良和子さん(沖縄空手会館展示担当)、真喜志康徳氏(沖縄コレクター友の会)、与那城昭広氏(沖縄ブラジルネットアミーゴ会長)

1993年12月 『けーし風』創刊号 平良次子「ものを見る目ー真喜志康徳」


写真左から南風原文化センターの平良次子さん、大城和喜氏。真喜志康徳氏、神坂次郎①氏
①神坂 次郎(こうさか じろう)は、日本の小説家。本名、中西久夫。三田文学会員。社団法人日本ペンクラブ理事。
1927年3月2日、和歌山県和歌山市出身。1943年4月、陸軍航空学校に入校し、鹿児島県知覧特攻基地を経て、航空通信隊員として愛知県小牧飛行基地で任務時に終戦を迎える。終戦に際し、日本陸軍の暗号書等の重要書類を処分する役目を荷った。書類を燃やしながら涙が止めどなく流れたと後に回想している。
戦後、演劇関係の仕事に就き、長谷川伸と知り合い、時代小説を書き始める。1982年、『黒潮の岸辺』にて第2回日本文芸大賞受賞。1987年、『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』で第1回大衆文学研究賞(評伝部門)受賞。1992年の皇太子徳仁親王熊野行啓に際し、自著『熊野御幸』を2時間半に渡って進講。自らの特攻隊員としての体験や、地元和歌山の偉人を取り上げた作品を執筆し ている。→ウィキペディア

芸能/2003年4月28日~5月15日 南風原文化センター「貧しくも楽しい『うちなー芝居』の時代」
null
null
中央ー真喜志康忠優
null
null
null
null
2003年4月28日ー南風原文化センター「貧しくも楽しい『ウチナー芝居』の時代」


» Read More