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Category: 04-書の森
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1972年1月 沖縄の雑誌『青い海』9号 大嶺信一「美術団体の封建性と沖縄の中央コンプレックス」

2015年10月27日~11月1日 沖縄県立博物館・美術館「父(大嶺信一)子(大嶺信孝/北山千雅子)三人展」


北山千雅子さんと作品「2014」

大嶺信孝氏と作品「繁殖の季節」/左 大嶺信一「繁殖の季節」


 大嶺信孝氏作品「南蛮鬼の腕〕→浄心窯 〒905-0427 今帰仁村字兼次817-2 ☏098-056-3365

2015年9月、山田實さんの所に遊びに行くと
大城立裕『レールの向こう』川端康成文学賞受賞記念の短篇集があった。沖縄に生きて、その風土を呼吸しながら創作を続けてきた八十九歳の作家の、初の私小説。時の移ろいを生き抜く老年の日常。妻の入院をきっかけに、出会ってきた人々の面影とともに、遠い記憶が鮮明に蘇り、いまを生きる私を、強く激しく揺り動かす――川端康成文学賞を受賞した表題作と新作『病棟の窓』を収録したもの。山田さんも大城さんも県立二中で、 山田さんに中樹緑会の写真を見せてもらった。

 1933年 二中樹緑会ー写真中央が志喜屋孝信校長、その左が名渡山愛順で、その右は大嶺政寛。1列右端は荒木遼一、その左が益田信行、2列右端は山田實、その後ろが大嶺政敏、その後ろは具志堅以徳。後列左から7人目が大嶺信一.3列目左2人目が伊波國男。この他に同期として、太田良博、渡口武彦、奥田良寛春らがいる。私の余り知らない大嶺信一の名前が出てきた。帰り那覇市民ギャラリーをのぞくと「父子三人展ーそれぞれの軌跡ー」の案内ハガキがあった。三人とは故 大嶺信一、長男の大嶺信孝、長女の北山千雅子で、大城立裕氏が信孝作品に感想を寄せているのは大城氏と大嶺信一が二中の先輩後輩の関係ということもあるだろうか。

写真左から北山千雅子さん、大城立裕氏、大嶺信孝氏
その展覧会には90歳という高齢をおして観覧し「お父様の肖像写真を見ていると、そのナーファムニーの語り口や笑い声を思い浮かべました」と図録の感想を寄せている。。2015年9月『沖縄タイムス』に大城冝武氏が「沖縄マンガ史」のなかで大嶺信一のマンガを紹介している。

写真左から仲原弘哲氏(今帰仁村歴史文化センター館長)、大嶺信孝氏

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那覇市歴史資料室収集写真には/大嶺信一氏(真中)、金城安太郎氏(左側)/(1950頃)がある。

 1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスバの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。


資料・金城五郎
1961年9月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 沖縄公論社(那覇市前島)大嶺信一表紙画、「マンガ ラ大使につづけ」/船越義彰「あきかぜの塔」大嶺信一・画
1961年10月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画 マンガ「ゴ―ホーム派遣医師」「禁じられた遊び」/船越義彰「壕」大嶺信一・画
1961年11月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画/「秋の沖縄画壇ー二科展に大城皓也、山里昌弘『福木』、城間喜宏『殻』、行動展に儀間比呂志、一陽会に与儀達治」「琉米文化会館『晃孝見敏展』山城見信、平良晃、比嘉敏夫、前田孝允、石川初子、上原浩、永山信春の琉大グループ」「南風原朝光 交通事故で急逝」/嘉陽安男「尚徳とくにちゃさ」大嶺信一・画
1961年12月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画「表紙のことば」/仲本政基「壕の中で作られた新聞」①大嶺信一・画
1962年1月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画「表紙のことば」/山里永吉「完備した図書館を」/仲本政基「壕の中で作られた新聞」②大嶺信一・画
1962年2月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 沖縄公論社(那覇市美栄橋) 大嶺信一表紙画、仲本政基「壕の中で作られた新聞」③写真使用
1962年3月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画/「美術ー神山泰治、永山信春、安元賢治 三人展」/大田昌秀「自殺断崖」①大嶺信一画

1962年6月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことばー突然に妻子を失って」
1962年7月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」/大田昌秀「自殺断崖」④大嶺信一画
1962年8月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」/大田昌秀「自殺断崖」⑤大嶺信一画
1962年9月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」/大田昌秀「自殺断崖」⑥大嶺信一画、亜吐里武(大嶺信一)「悲しみよ こんにちわ」「音を出さない音楽界」
1962年11月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」/大田昌秀「自殺断崖」⑦大嶺信一、画亜吐里武(大嶺信一)「ボカブンド」
1962年12月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」/「НHK交響楽団来演」/大田昌秀「自殺断崖」⑧大嶺信一、画亜吐里武(大嶺信一)「乏しい宣伝美術」「新劇と私」
1963年1月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」/「НHK交響楽団来演」/大田昌秀「自殺断崖」⑨大嶺信一画、亜吐里武(大嶺信一)「サクラ坂人生劇場」/「文化ー欲しい政府立の美術館」「外地での正月ー稲嶺ひろみ、川平ワンダリー」
1963年2月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」、亜吐里武(大嶺信一)「不審尋問」
1963年3月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」、亜吐里武(大嶺信一)「散髪無精」
1963年4月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」、亜吐里武(大嶺信一)「喫茶店閑話」/嘉陽安男「疑獄」大嶺信一画/中島蕉園「俳句漫言ー旧来の観念から脱皮」


1965年3月『ウルマグラフ』大嶺信一「暴力団事業は有望株かー暴力団という商売は随分モウかる事業のようである。コザ派に手入れがあったとき、親分なるものがポンと1万ドルの保釈金を積んで社会復帰したのにはド肝を抜かれた。そんなにモウかる仕事なら真面目に働いても借金ばかり残る絵描き商売などサラリと捨ててこちらも暴力団へ商売替えしょうかと真剣に考えたものだ。コザ派、那覇派に総手入れがあったのは確か金融検査部の簡清手入れとほとんど時を同じくして行われたと記憶している。・・・」


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2015年10月20日~10月26日 リウボウ7階 美術サロン「平敷慶秀 染展」

2012年6月26日「平敷慶秀  展」リウボウ7階美術サロン


右ー平敷慶秀氏

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2015年10月23日『琉球新報』仲村顕「「眠れる先人たちー松氏仲地家墓」
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1968年8月ー仲泊良夫『医師・仲地紀仁』大同印刷
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沖縄県立博物館・美術館 ふれあい体験室
ふれあい体験室は、「自然のしくみ」や「先人の知恵」をテーマとし、じかに手に取って観察し、考えながら学習することができる27の体験キットが準備されています。各キットは、サンゴ礁をすみかとする生き物たちの共生や、グスクの石積みの技術、また沖縄の島コトバや民具、玩具など常設展示の内容とリンクしており、子供たちに展示の内容について興味をもってもらう糸口となるよう構成されています。




ふれあい体験室で遊ぶ ひより



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撮影ー仲嶺絵里奈


2015年10月21日『沖縄タイムス』吉田健太「展評・まなざしの地層ー洗練された粋な映像作品」

2015年10月21日『沖縄タイムス』仲嶺絵里奈「・・・辻の女性たちが担った沖縄の芸能があり、発展した文化がある。」


2014年2月 フォトネシア沖縄『Photonsesia沖縄』仲嶺絵里奈「近代沖縄写真史ー𤘩宮城昇の写真表現」
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 本阿弥書店の竹内勉氏①の著を買ったら、氏からお礼の手紙がきた。大塚正彦編集長からもきた。その後、大塚氏も沖縄に来た時に、竹内氏を是非粟国を見てほしいと仲里氏が提案。2002年夏、朝の飛行機で竹内、仲里、大塚の諸氏が粟国へ。与那城、安里氏が迎えた。昼食は与那城夫妻の手づくりであった。島の彼方此方を見て、船で4時に帰覇。夕食は「味の店・三郎」でとった。翌日は今帰仁城、名護を見物。

2011年9月 竹内 勉『民謡地図⑧恋の歌垣 ヨサコイ・おばこ節』本阿弥書店

 ○『日本語の起源』によると、「奈良時代以前には、母音は四個であったと推定される」すなわち、「アイウ オ」の四つの母音からなっていて、「エ」が加わって、今日のように「アイウエオ」の五つになるのは奈良時代(和同3年<UTAGAKI>)の「き(KI)」が、「け(KE)〕にと変化するのは、奈良時代以降となるから、「歌懸け」や「歌掛け」は、「歌垣」から発音の変化の中で生まれてきた言葉で、あとは歌垣の現象から、先の漢字をあてるようになったと思われる。(略)私が2歳であった昭和14年(1939)に、写音機という手製の録音機で民謡採集をしていた町田嘉章が、九州の西海岸や島々を廻った折の取材手帖をみると、歌詞の部分に、×と「伏せ字」にして、そのあとに「くだらん」と書き込みをした箇所があちこちにあった。そうした旅から戻って、その報告をするため、町田嘉章は民俗学者・柳田国男宅を訪ねた。そして手帖の件も話をした。すると柳田国男は、「町田君、惜しいことをしたね。君はそれを採集してくればよかったにに・・・」と言ったそうである。

①竹内 勉(たけうち つとむ、1937年5月30日 - 2015年3月24日間質性肺炎で死去、77歳)は、日本の民謡研究家。東京都生まれ。民謡研究の第一人者。10代から民謡採集を始め、のち町田佳声に師事。1965年、第20回文化庁芸術祭・奨励賞(レコード部門)を監修「民謡源流考」(コロムビアレコード)で受賞。NHKラジオで長年に渡り民謡番組を担当し、2000年3月、NHK75周年感謝状。1999年には、民謡採集50周年記念として「生きる之碑」を京都・大原三千院境内に建立。民謡研究家の故・町田佳聲に師事。日本各地の民謡の収集、分類、保存に取り組んだ。NHKラジオの民謡番組のパーソナリティーも担当した。著書に「日本の民謡」「民謡地図」。→ウィキペディア

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 粟国の仲里正雄先輩のところで季刊『しま』№243を貰った。仲里氏に5冊送られてきたからであった。以前、氏が『日本の島ガイド SHIMADASU シマダス』を那覇の書店で置いてなく、直接日本離島センターに電話して三木剛志という人が出て親切に応対してくれて入手できたようだ。この三木氏が仲里氏と手紙のやり取りで粟国に興味を持ち、それに仲里氏が当然ながら協力したこともあって本誌の粟国取材がなった。グラビア「あわのくにの祈りと叡智」で粟国の祭事ヤガンウユミが紹介され、末尾で「多くの拝所が現存し、ヤガンウユミ以外にも数他の神事がのこされた粟国島。生きるために先人たちが重ねてきた労苦、神々や祖先を畏れ敬う気持ちを叡智として次世代に伝えつつ、独自の自然・文化資産の価値を高め、さまざまな体験プログラムを創出してゆけば、南西諸島に冠たる交流の島となるにちがいない」と結んでいる。

  

2007年5月 財団法人日本離島センター『日本の島ガイド SHIMADASU シマダス』

『日本の島ガイド SHIMADASU シマダス』「粟国島」

『日本の島ガイド SHIMADASU シマダス』「中ノ島」/2015年6月 山内道雄 岩本悠 田中輝美『未来を変えた島の学校ー隠岐島前発 ふるさと再興への挑戦』岩波書店
○過疎で廃校寸前の高校が,なぜ全国・海外からも志願者が集まる学校へ生まれ変わることができたのか.「ヒトツナギ」「地域学」「公立塾」「夢ゼミ」「島留学」といった独自の取り組みの原動力は何か.海士町,西ノ島町,知夫村,三つの島の協働が日本の未来を牽引する.教員,行政,地域住民,ヨソモノ等による人づくりの物語
○日本最古の歴史書といわれる『古事記』の国産みによれば、隠岐諸島は本州や九州よりも早く、三番目に生まれた「隠岐三つ子島」として登場しており、縄文時代には既に人々が住み、古代から大陸間海上交通の要衝として開けていた。平安時代以降は遠流の島としても知られ、知夫には文覚上人、海士には後鳥羽上皇①、西ノ島には後醍醐天皇②などが配流された。
承久の乱
承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は、時の執権・北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしたが、幕府の大軍に完敗。わずか2ヶ月あとの7月9日、19万と号する大軍を率いて上京した義時の嫡男・泰時によって、後鳥羽上皇①は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流された。父の倒幕計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流された。さらに、在位わずか3ヶ月足らずの仲恭天皇(当時4歳)も廃され、代わりに高倉院の孫、茂仁王が皇位に就き、その父で皇位を踏んでいない後高倉院が院政をみることになった。→ウィキペディア

○幕府は後醍醐天皇②が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。→ウィキペディア

1953年12月 全国離島振興協議会広報誌『しま』
離島振興法が成立した年の昭和28年12月に全国離島振興協議会の機関誌として創刊。第72号(同48年2月発行)から(財)日本離島センター財団広報誌として継続刊行。昭和49年8月、私は東京晴海にある(財)日本離島センターを訪ねた。『しま』を購入したが、1号2号はボロボロだったのでいただいた。近くにある晴海桟橋は初めて東京の地を踏んだところである。第1号の編集後記に、誌名についても、大いに悩まされた。日本の島・島と生活・離島振興・島民・島人など、幾つも幾つも名案やら迷案やらがとび出す始末であった。最後に「しま」はどうだろうかといったのは長崎県企画室の松本氏であった。簡明で、しかも強烈な印象を受けるというみんなの賛成で採用されることになった。かつて柳田国男氏などが主宰された「嶋」という雑誌があるので本誌の方は、同じ発音でも平仮名を採用した。柳田氏のお考えの一部でも、本誌によって発展させることができれば、望外のしあわせといえよう、とある。『しま』100号には大城立裕「沖縄離島への思い」が載っている。


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沖縄風俗踊図(1903年)/琉球藩王図(1912年)




1908年5月 菊池幽芳『琉球と為朝』

1911年  那覇尋常高等小学校卒。卒業後香港に渡りイギリス人の会社に就職。5年ほど滞在。

1918年  趣味は琉球古典音楽、古典舞踊、組踊。幼少のころから父・盛輝と祖父・盛矩から影響を受ける。この頃から玉城盛重に琴を師事。さらに三味線を伊佐川世瑞に師事。
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写真ー玉城盛重
□1923年2月24日『沖縄タイムス』田邉尚雄「音楽史上の参考資料ー琉球の琴八橋流 徳川初期のもので今は内地では消滅」
○玉城盛重氏は舞踊の外に八橋流の琴曲も奏せられたが私はここに此の八橋流の琴について一言したいと思ふ、八橋流と云ふのは勿論徳川の初めに京都で八橋検校が開いた箏であって、我が俗箏の開祖である。内地では八橋流は元禄時代に生田流が起こり文化文政時代に江戸で山田流が出たために今では生田や山田に圧倒されて八橋流は全く消えてしまった。然るに琉球には此の八橋流のみが伝わって生田流や山田流はあめり入って居ないのは頗る面白いことであると共に、又内地で滅びたものが琉球に残っていると云ふ点に於いて非常に音楽史上貴重なる材料であると云はなければならぬ。・・・

1922年~1946年  沖縄県鉄道局管理所経理課勤務。  

玉城盛重師と仲嶺盛竹(→2013年5月 仲嶺貞夫『琉球箏曲の研究』)

1936年6月1日ー日本民俗協会『日本民俗』第12号□解説ー折口信夫「組踊りの話」、伊波普猷「組踊りの独自性」、東恩納寛惇「台詞・隈・服装」、比嘉春潮「琉球の村芝居」、小寺融吉「舞踊を観る人に」/島袋全発「てきすと」ー昔楽、舞踊、組踊「執心鐘入、二童敵討、銘刈子、花売の縁
1936年7月ー沖縄県教育会『沖縄教育』№239□島袋盛敏「琉球芸能感想記」、上間正敏「古典芸能帝都公演に就て」
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右ー音楽の部に琴・仲嶺盛竹
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写真ー前列右から」仲嶺盛竹、玉城盛義、折口春洋、新垣松含、眞境名澄子、玉城盛重、眞境名苗子、伊佐川世瑞、古堅盛保、池宮城喜輝、渡口政興。中央右から眞境名由康、上間正敏、名護愛子、田代タカ、根路銘千鶴子、新垣芳子、二人おいて二代目宜保松男。後列右から島袋源一郎、金武良章、伊波普猷、親泊興照一人おいて山口ちづ子。(雅叙園で)


映画「オヤケアカハチ」制作・東京発声映画製作所/配給・東宝映画/監督・重宗務、豊田四郎/脚本・八田尚之/原作・伊波南哲/撮影・小倉金弥/音楽・大村能章/美術・河野鷹思/録音・奥津武/出演・大日方伝、藤井貢、三井秀男、市川春代、山口勇
写真ー上右から八木明徳、3人目・山城正樹、13人目・山田有登、田代タカ子、玉城盛重、17人目・護得久朝章、19人目・上間朝久、渡口政興、22人目・國場世保、23人目・仲嶺盛竹。中列左端・山田有昴、3人目・奥津。前列左から4人目・藤井貢、監督、8人目・大日方伝、高江洲康享、上間郁子1937年


那覇市歴史資料室収集写真/閑院宮春仁王殿下御前演芸記念写真 /同写真1枚あり/氏名記載あり/前列右より古堅盛保、金城幸吉、玉城盛重、仲嶺盛竹、与世田朝保。後列右より浦崎康華、金城隹子(現在真境名隹子)、渡口政興、国場世保、国場徳八、高嶺てる子。(1941/03/07)

1949年8月『芝居と映画』屋部憲「戦争と藝能」
○終戦当時国頭羽地大川のほとり、川上の山宿で始めて仲嶺盛竹氏の琴を聴いた時、何とはなしに熱ひものが頬を伝はるのを覚えた。別に悲しいのではない。さりとて歓びの感激でもない。勿論生延びた喜びはあるが、それのみの為めじやない。又戦禍に斃れし人々のことを考へた時悲痛の思いはするが、それのみののためでもない。亦死に勝る戦争中の飢餓と労苦を考えた時、血がにじみ出るやうな思ひ出はあるが、然し、その追憶のためでもなひ。今私はこの名状すべからざる感激の詮索に隙を假すことを憚り乍ら、筆を持ちなほしていく。

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1954年2月14日 「火野葦平先生招待記念」
前列右から南風原朝光、真境名由康、火野葦平、平良リヱ子、仲嶺盛竹、真境名由祥。中列右から山里永吉、真境名澄子、真境名由苗、宮里春行。後列右から国吉真哲、一人おいて豊平良顕、真境名由乃、真境名佳子、勝連盛重。


1955年 第10回文部省芸術祭公演参加のメンバー(那覇・世界館)前列右から大嶺政寛、玉那覇正吉、國吉眞哲、山本義樹、豊平良顕、南風原朝光、末吉安久、田島清郷。後列右から宮里春行、識名盛人、眞境名由乃、眞境名由苗、牧志尚子、平良雄一、眞境名由康、勝連盛重、宮平敏子、屋嘉宗勝、眞境名佳子、喜納幸子、南風原逸子、仲嶺盛竹、嘉手苅静子、屋嘉澄子、仲嶺盛徳。

仲嶺盛竹(→2013年5月 仲嶺貞夫『琉球箏曲の研究』)□箏は竜になぞらえて作られたと言われ、各部の名称に竜の字が多く使われている。


稽古風景ー仲嶺盛竹師と仲嶺貞夫氏(→2013年5月 仲嶺貞夫『琉球箏曲の研究』)


元氏 仲嶺本家の墓

1993年3月『沖縄芸能史研究会会報』第190号 「第190回研究報告/仲嶺盛竹師を語るー仲嶺貞夫」

写真左が仲嶺貞夫氏(仲嶺盛竹の嗣子)、新城栄徳

写真左が仲嶺貞夫氏(仲嶺盛竹の嗣子)、姪の仲嶺絵里奈さん
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10月6日午後2時ー午後3時30分 (公財)おきなわ女性財団「ギャラリーリレートーク 戦後70年 過去から未来へ/次世代の女性達へ伝えたいこと」大城貴代子、平田正代、仲井間文子、安里和子、吉川文子、大城光代

 沖縄県男女共同参画センター「てぃるる」女性史パネル展「沖縄の今を築いた女性達」(主催・沖縄県男女共同参画センター管理運営団体)が10月6日から11日まで、那覇市の沖縄県立博物館・美術館で開かれる。戦後、さまざまな分野で復興を支え、平和や人権擁護、女性の地位向上に貢献した女性たちを紹介する。観覧無料。関連事業として6日午後2時から、おきなわ女性財団主催のギャラリーリレートークもある。大城貴代子さんがコメンテーターを務め、デザイナーの仲井間文子さん、国際福祉相談に尽力した平田正代さん、沖縄県庁で女性初の部長を務めた安里和子さん、教育界で活躍した吉川文子さん、沖縄県内初の女性弁護士・裁判官の大城光代さんら5人のパネリストが「次世代の女性達へ伝えたいこと」をテーマに登壇する。

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左ー1928年9月『旅と伝説』「八丈島の大蘇鉄」/浦添大公園-蘇鉄

浦添大公園-蘇鉄

浦添大公園ーガジマル



浦添大公園ー猫
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2015年4月『月刊琉球』 <500円+消費税> Ryukyu企画〒901-2226 宜野湾市嘉数4-17-16  ☎098-943-6945 FAX098-943-6947□『月刊琉球』はジュンク堂那覇店でもバックナンバーで揃っています。

『旅と伝説』

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 那覇市歴史博物館で外間政明氏から『歴博』を貰った。同誌に外間氏が「博物館展示のいま44那覇市歴史博物館」を紹介している。法政大学大原社会問題研究所、大阪産業労働資料館、成田空港 空と大地の歴史館が紹介されている。大阪産業労働資料館はハシシタ大阪知事に就任して最初に廃止したと記されている。このハシシタは大阪人権博物館の予算も廃止している。同誌編集後記に「政府の安全保障法案を懸念する世論が、世代を超えてこれほど急速に広がり、連日の抗議行動が、国会周辺だけでなく全国的な広がりを見せるとは夢にも思わなかった・・・」とあって編集者は同じ国立テレビのアベチャンネルと違いモノゴトを公平に見ている。
 沖縄の地元紙に共産党が民主党など野党に「戦争法[安保法制]廃止の国民連合政府」の実現を呼びかけているという。昨年の総選挙の沖縄1~4区の小選挙区選挙で行った、「米軍新基地建設反対」を掲げての選挙協力の延長だろう。先の『歴博』編集後記に「一人一人が我が事として今と向き合い、戦争の時代と戦後の歴史を創ってきた地下水脈は健在であった。」とあるが、これはアベ自公政権は当然だが、ハシシタ独裁も壊滅させなければ意味はない。





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 大行社ー大正13年(1924年)6月11日 清水行之助が後藤新平のほか、有力諸賢の後援を得て設立。戦後永らく休眠状態にあったが、1981年に岸悦郎が旧知の仲である清水から要請があり、暫定的に会長代行となった。結成式には稲川会初代会長の稲川角二や住吉連合代表の堀政夫が列席した。岸は公式には堅気でありながら任侠右翼であることを認めていた。→ウィキ

 「メンズサイゾー」2011-9-22 〇9月21日発売の「週刊文春」(文藝春秋)でビートたけしが「暴力団との関係」を赤裸々に語り、大きな話題となっている。暴力団との交際が原因で島田紳助が引退したことにより、芸能界と暴力団の関係がクローズアップされ、どのタレントもヤクザとの関わりが明らかになることにおびえるようになった昨今、なぜあえて暴力団との関係を自ら語ったのか。
記事では、フライデー襲撃事件後に復帰した際に「復帰が早すぎる」として右翼団体に街宣をかけられたことがあると明かしている。紳助が暴力団と関係を持ったきっかけは、同じく右翼団体に街宣をかけられ、その解決を渡辺二郎を通じて暴力団に頼んだことだった。しかし、たけしは右翼団体の関係先である住吉連合会の堀政夫会長をひとりで訪ね、土下座して謝って解決したという。この点が紳助とは違うとして、「タレントとして、そういうのを上手くやって逃げるのも本人の芸」「紳助は逃げる芸がなかった」と語っている。また、10年ほど前に、ある芸人(※文春は中田カウスだと断言)の策略によって山口組の渡辺芳則5代目組長と無理やり面会をさせられたこともあるという。さらに、稲川会からのプレッシャーにより初代会長・稲川聖城氏との面会を断れなくなり、月刊誌「新潮45」(新潮社)で対談したこともあった。(略)


『四国新聞』2002年6月3日ー右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の岸悦郎氏(76)が台湾で死去していたことが3日、警視庁の調べで分かった。警視庁などによると、岸氏は5月から、がんの治療のため台湾に滞在していたが、今月2日深夜、台北市郊外の別荘で死亡したという。大行社は日本で最大規模の右翼団体。氏(76)が台湾で死去していたことが3日、警視庁の調べで分かった。警視庁などによると、岸氏は5月から、がんの治療のため台湾に滞在していたが、今月2日深夜、台北市郊外の別荘で死亡したという。大行社は日本で最大規模の右翼団体。

沖縄の機関誌/『民族』 『社会時報』

1997年ー『民族』日本民族思想普及会(儀武晋一)/1989年ー『社会時報』桜魂社護国塾(松田昌雄)

ヤクザ住所録
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○2015年4月、崇元寺橋近くに「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」という興味ある垂幕を見た。4月19日には沖縄県立博物館・美術館講堂で、「いよいよ、保守県民お待ちかねの会発足!さようなら 沖縄の左翼メディア。沖縄は私たちが守る!」、26日には公約破り市長が居る浦添市で中山成彬先生を招いて第1会総会が開かれるそうだ。「さようなら 沖縄の左翼メディア」と言うからには本人たちは右翼メディアだと強調したいのだろうが某新聞の拡大のための宣伝だ。その新聞の社長は元沖縄開発担当兼那覇支局長だ。右翼もどきが言うメイド・インチャイナ翁長県知事は少なくとも左翼ではなく沖縄の保守本流だ。右翼と同様に今の沖縄には左翼は居ても影響力は無いことは翁長知事を見ても分かる。19日には日本編集者学会の「今だからこそ、沖縄の出版とジャーナリズムについて語り合おう!」も開催され「満員御礼」の張り紙があった。



藤田 五郎(ふじた ごろう、1931年11月2日 - 1993年12月11日)は、極道出身の小説家。任侠小説を主に書いた。自伝的要素を含む「無頼 ある暴力団幹部のドキュメント 」は後に「無頼」シリーズとして渡哲也の主演で映画化された。 1975年に映画化された「仁義の墓場」でも知られる。1993年、東京都中央区内のホテルでビニール袋をかぶり窒息自殺した。→ウィキ


1980年10月 藤田 五郎『任侠百年史』笠倉出版社/1983年8月『月刊実話ニッポン』「人物クローズアップ ”人斬り五郎〟銀座に遊ぶ」
映画ー1965年11月 那覇 沖映本館「血と掟」(安藤昇)



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