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Category: 04-書の森
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写真ー2012年9月11日ー左から写真史研究所の仲嶺絵里奈さん、山田實氏、東京都写真美術館の金子隆一氏①


2014年3月ー左から豊里友行氏、山田實さん、金子隆一氏、仲嶺絵里奈さん

①金子 隆一(かねこ りゅういち )は、1948年生まれ。写真評論家、写真史家、写真集コレクター。本業は僧侶。立正大学文学部卒業。元東京都写真美術館学芸員。武蔵野美術大学非常勤講師。日本写真史、特に日本の芸術写真(ピクトリアリスム)を専門とし、東京都写真美術館の企画展はもちろん、国内の様々な写真展を企画している。主な著書として、写真集を写真撮影してアーカイブした『日本写真集史1956-1986』(2009年、赤々舎)など。芸術写真に限らず、写真史のその他の分野にかかわる著作も多い。1985年のつくば写真美術館'85の企画にも参加。→Wikipedia

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 松濤 船越義珍『愛蔵版空手道一路』榕樹書林2004年12月
○・・・そのために、三〇有余年にわたる教員生活に別れをつげたのである。が、そのかわり、それまでの経験を生かして御奉公をしようというつもりで、当時(後)の県立図書館長の眞境名笑古(安興)、沖縄タイムス編集長(主筆)の末吉麦門冬の両君と相談して、沖縄学生後援会を組織しその経営に当ることになった。一方、先輩や友人とも語り合って、空手道を一本化するために沖縄尚武会を作り、その代表者として働くことにもなったのである。

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富名腰(船越)義珍が末吉麦門冬に贈った写真
1922(大正11)年


4月24日  『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆<35>ー唐手の伝来」(『大島筆記』)/「禁止された琉球歌劇が復活の傾向」
4月27日  『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆<37>ー唐手の伝来」

○どうも面映ゆい話だが、私の若い日の修行の一端について、少し書いてみたいと思う。まず、台風の中で稽古をした話は同門の作家・戸川幸夫君①が作品として書いているので・・・
①戸川幸夫ー経歴生後まもなく若松市の実業家の養子となる。大正12年一家で上京。東京日日新聞(現・毎日新聞)記者、社会部副部長などを務める傍ら、長谷川伸主宰の新鷹会に入り、動物小説を書き始める。昭和29年「高安犬物語」で直木賞受賞、以後単行本は二百冊を超える。動物文学という新しい小説の分野を開拓し、小説を書くために世界各地を旅行している。40年沖縄・西表島のイリオモテヤマネコを発見したことで有名。子供向け読み物も執筆。日本動物愛護協会理事、世界野生生物基金委員などとしても活躍。俳人としては「渋柿」系俳人関谷嘶風の手ほどきを受け、「渋柿」所属。他の著書に「野生への旅」(全5巻)「人間提督山本五十六」「けものみち」、「戸川幸夫動物文学全集」(全10巻 冬樹社)、「戸川幸夫動物文学全集」(全15巻 講談社)がある。→コトバンク

○小杉放庵(未醒)画伯②の応援
1916年1月12日朝ー小杉未醒、横山健堂を訪ねて琉球への添書を頼む。
      1月13日ー小杉未醒、太平洋画会脱会の通知を出す。
      2月6日午後7時ー小杉未醒、丹青協会の歓迎会に赴く、山田真山、末吉麥門冬、20人参加。





②小杉放庵 こすぎ-ほうあん
1881-1964 明治-昭和時代の画家。
明治14年12月30日生まれ。小杉二郎の父。小山正太郎にまなぶ。明治40年「方寸(ほうすん)」同人。渡欧後,大正3年日本美術院に洋画部を設立,11年春陽会を結成した。後年油彩から日本画にうつり,独自の水墨画をえがいた。昭和39年4月16日死去。82歳。栃木県出身。本名は国太郎。初号は未醒(みせい)。代表作に「水郷」「山幸彦」,著作に「放庵画論」など。 【格言など】頂の岩に尻据ゑ足指にまさぐらむとす越の国原(歌集「山居」)→コトバンク


小杉放庵(未醒)葉書(新城栄徳蔵)


1910年8月25日 琉球新報・沖縄新聞・沖縄毎日新聞主催「近畿地方観光団」出発→1911年8月25日・26日『琉球新報』松濤「観光団員として」


1912年11月 『琉球新報』松濤「鄭嘉訓の半面」


1913年1月9日『琉球新報』松濤「唐手は武芸の骨髄なり」


1913年7月 『琉球新報』松濤「菊...


1941年4月『月刊文化沖縄』富名腰義珍「空手物語」

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写真左が山城善光氏、新城栄徳
1930年 県立二中『みどり』山城善光「思ひ出の帰省」「太郎」
1938年6月 山城善光『球陽ー百人百言集』大阪球陽新報社
1975年10月 山城善光『山原の火ー昭和初期農民闘争の記録』沖縄タイムス社
1978年12月 山城善光『火の葬送曲ー続・山原の火』

山城善光氏が死去/「山原の火」著す( 2000年4月1日 『琉球新報』 )

戦前の民主化や財政経費節減などを求めた大宜味村政革新農民運動でリーダーとして活躍し、同運動を記録した著書「山原の火」で知られる元立法院議員の山城善光(やましろ・ぜんこう)氏が31日午前3時20分、肺がんのため、浦添市の病院で死去、89歳。大宜味村出身。自宅は那覇市首里寒川町一ノ23。告別式は1日午後3時から4時、那覇市首里寒川町一ノ二、安国寺で。喪主は妻初枝(はつえ)さん。

大宜味村喜如嘉出身。県立第二中学校を卒業後、大阪球陽新報記者などを経て、沖縄協会職員、沖縄人連盟東京総本部事務局次長を務めて帰省した。政治運動に身を投じ、農民運動のリーダーの一人。その後、沖縄民主同盟・沖縄社会大衆党の創設に尽力した。1958年立法院議員に初当選、一期務めた。復帰後は出身の大宜味村の地域活性化に貢献。立法院議員を経て、レストラン経営に転じ、村に古くから伝わる精霊ブナガヤ(キジムナー)に熱中し、「ブナガヤ実在証言集」を82年に出版した。







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2016年3月25日 沖縄県立博物館・美術館「那覇市文化協会 第24回 あけもどろ総合文化祭 琉球王朝禮楽・空手文化」
~王朝禮楽部会演奏 山内盛彬 生誕126年~

王府おもろ 安仁屋眞昭□「おもろさうし」は琉球王府で編纂された古歌謡集である。内容は、開闢神話から琉球王朝の祭政一致時代の祝詞をはじめ、天体讃歌、英雄賛歌、歴史的事象、航海安全の祈り等を含む叙事詩である。殆どの「おもろ」に節名が付いていて、かっては、メロディを持ち謡われていた。大和の万葉集も謡われていた歌もあったといわれているが、編纂の時にはメロディの記載はなく(曲の記録方法が確立していなかったのであろう)歌詞だけの記録集になった。「おもろさうし」メロディもほとんど伝わっていないが、王朝の儀式・祭礼「おもろ」のうち、五曲が伝承されているだけである。王府に「神歌主取」(オモロ ヌシドゥイ)という役職を置き、「おもろさうし」の管理と儀式・祭礼の時、「オモロ」を謡う任務とした。安仁屋家が代々世襲で「神歌主取」を務め、明治の初め琉球王朝廃朝の時まで続いた。初代は1616年生まれの安仁屋親雲上で最後の「おもろ主取」は1837年生まれの安仁屋眞刈(~1916年)である。「王府おもろ」として伝承されている五曲の「オモロ」は、大正元年に安仁屋眞刈から山内盛彬(1890年~1986年)に伝授され、1978年に山内翁から私・安仁屋眞昭(安仁屋眞刈は曾祖父)に伝授されて以来「おもろ」紹介に努めているところである。


首里クェーナ

山内盛彬 作曲「ひやみかち節」「屋嘉節」琴演奏と歌 山内貴祐


安仁屋眞昭・琉球王朝禮楽部会長(右)、新城栄徳
2016年3月 山口栄鉄『英人バジル・ホールと大琉球』不二出版□まだ舞台の上にいる私(山口栄鉄)の前に、旧琉球王朝時代の正装、真っ白いあごひげ姿の安仁屋眞昭さんが現れました。私の親友で、琉球国の聖典おもろさうしの伝承者第15代目の安仁屋さんの出現に一瞬驚き、また感涙を抑えんと懸命の私に、安仁屋タンメーは、講演会出席の皆さんに、おもろの正式唱法を紹介したいと申し出たのです。(略)私がおもろさうしの発見者がほかでもない、キャプテン・ホールのお孫さんのバジル・ホール・チェンバレンだとの説明に納得したようでした。(とまりんフェスタ 2012年9月)


空手文化部会空手演武小論文

開式のあいさつをする與儀清春・空手文化部会長

本部御殿手/上地流


劉衛流 / 剛柔流


小林流

小林流、剛柔流、劉衛流、上地流、本部御殿手
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右は青年時代の宮城嗣吉
□仲宗根源和の帰郷は沖縄の空手も、ぜひ「道」として高次元の探究をすべきであり、その運動が目的のひとつであった。仲宗根が三郎(宮城嗣吉)を訪ねて来た。協力をたのむと言うのである。三郎が承諾すると、仲宗根は、当時の沖縄の名ある武人訪問の案内を三郎に依頼した。三郎は屋部憲通、花城長茂、喜屋武朝徳、知花朝信、城間真繁の武人のもとへ仲宗根を案内した。→源和は1938年5月に『空手道大観』を沖縄師範学校の一期後輩の新田宗盛の東京図書から出版、1937年3月に沖縄県空手道振興協会(会長・知事、宣伝部長・島袋源一郎、指導部長・屋部憲通)が決定した空手道基本型制定も収録。ま1905年の花城長茂が書いた「空手組手」を紹介、すでに空手の名称が使われていたことを強調している。


2001年8月左から新城喜一氏、山里将人氏、船越義彰氏、新城栄徳


1963年8月『月刊沖縄』「座談会ー今だから話そう/逃げようとした牛島中将」□宮城嗣吉(琉球映画協会会長)ー沖縄戦だが、私はみんなが見る沖縄戦とは見方がちがう。とにかく真相はヤミだ。というのは、沖縄の進駐当時まず慰安所の経営から手をかけた。軍規が乱れていた証拠だねあれは。日本人は我々が小さなとき、武士道とは”死ぬ事と見つけたり″と教え、兵隊では”忠君愛国"などをたたきこみ、組織的に訓練された軍隊だった。ところがどうだ。首里を中心として玉砕すべきだったものが、新垣、安謝から安里へ逃げたうえに陥落寸前に、撃てる銃を破壊したんだったな。陸軍は卑怯だったな。海軍はあんた、7,800名から一割しか生きていない。つかえる銃があるならば、最後まで闘うべきではなかったか、と思うね(略)何はともあれ、牛島中将、長参謀も卑怯だよ。住民が逃げかくれて安全だと思っている壕を占領しようとして、住民を壕から追い出したのだからね。

○屋嘉捕虜収容所。日本人、沖縄人、朝鮮人、将校の4部隊に分けられる。沖縄人部隊の本部付になる。スヤーサブローとよばれ後に沖映社長となった宮城嗣吉と同室になる。日本人部隊のやくざ崩れが沖縄人部隊をいじめたので、そのボスを宮城が組み伏せた。捕虜収容所長は旧日本軍の上等兵。米軍上陸後、いち早く捕虜になった米兵気に入りの兵隊たち。→2006年 外間守善著『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』

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1981年9月 沖縄の雑誌『青い海』106号 田名真之「歴史にみる中国と沖縄」


2016年4月5日 沖縄県立博物館・美術館館長室ー田名真之氏


2014年9月11日ー田名真之氏

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2013年5月18日 博物館文化講座「首里王府の史書編纂事業『中山世譜』から『球陽』まで」



2008年3月 田名真之『クニンダ人物志1 蔡氏』久米崇聖会〇蔡譲は国書を抱いて海に浮かび万死一生を得た。そこへどこからともなく大きな亀が現れ蔡譲を背中に乗せて泳ぎだした。さらに2匹の鮫が左右に寄り添うように付き従った。どこへ向かっているのか見当もつかないまま丸2日間が過ぎた時、漸く岸に着いた。上陸してみるとそこは何と南京の地であった。蔡譲は亀と鮫に対して、あなた方は私を助けてくれた。その恩に報いる術はないが、もし無事帰国できたら私の子孫に今後永久にあなた方の肉を食べてはいけないと教えましょう。といった。亀と鮫はしっぽ振りながら泳ぎ去った。
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田名真之の本

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 2013年7月19日、村口一雄氏(八丈島出身)が東京都内の病院で死去。78歳。那覇の東恩納寛惇賞のとき知り合い、大阪でも古書買付に来られていた氏に偶然出会ったことがある。

写真左から富島壮英氏、石野朝季氏、村口一雄氏


上田正昭氏と村口一雄・第一書房社長

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上・2002年7月ー東京の第一書房で、左・新城栄徳、右・村口一雄氏/下ー2010年3月12日ー第27回「東恩納寛惇賞贈呈式(受賞者・仲宗根将二)」琉球新報ホールで、左から松島弘明・新星出版社長、武石和実・榕樹社社長、村口一雄・第一書房社長(撮影・新城栄徳)

第一書房(学術図書・出版・古書)ー〒113-0033東京都文京区本郷6-2-10 電話03-3815-1072 FAX03-3816-1854
第一書房は東恩納寛惇全集、宮良當壮全集、太田朝敷選集などを刊行している。古書店も兼業。営業種目は日本史・東洋史・西洋史・考古学・民族・民俗・音楽・国語・国文・言語・文学・科学史・地理・仏教・仏教美術・宗教・神道・美術・工芸・郷土史・建築史・古典籍・和本・古文書・絵巻物・古地図・植物学・動物学・全集叢書・雑誌・洋書・書誌学・目録などである。


写真左から村口彌生第一書房社長、富田詢一琉球新報社長、田里修沖縄大学教授「選考経過」、糸数兼治・貞子御夫妻
2016年2月26日 沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハ「第33回 東恩納寛惇賞 贈呈式」祝賀会
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1972年ー石野朝季『沖縄と南西の島々』山と渓谷社
1977年『青い海』5月号 「女人登場ー石野桂子さん」
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写真上ー石野宅で新城栄徳、石野朝季氏
写真中ー石野朝季氏、とかしきただお氏、仲宗根将二氏(新城栄徳撮影)
写真下ー石野朝季氏、鎮西 直秀氏( 画家)

写真左が石野朝季氏、桑原守也さん

写真左から知念良秀氏、石野朝季氏、新城栄徳

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2016年3月23日 沖縄県立博物館・美術館ミニ企画展「沖縄の昔話・伝え話ー沖縄伝承話資料展ー」

安里進沖縄県立博物館・美術館館長(右)に「民話テープ」を手渡す沖縄伝承話センター理事長の照屋寛信氏


寄贈の挨拶を述べる照屋寛信氏


民話資料


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前列左端が宮城嗣吉沖映本館社長と俳優たち


沖映演劇台本(翁長良明コレクション/古美術なるみ堂 ☏098-987-5530)




沖映演劇チラシ(翁長良明コレクション/古美術なるみ堂 ☏098-987-5530)


1974年6月 『沖映演劇』「第53回公演 恩納ナベ」□儀保正輝「いまはなき兄を偲んで」/宮城嗣吉□名優紹介 儀保松男の追憶ー私が大正劇場の楽屋に出入りしはじめた当時、伊良波尹吉優の一行が公演中、儀保がファンの望みで泊松茂良の「公相君(くーさんくー)」の演武を見る機会を得ましたが、筆者はいまだかって彼ほどの「公相君」の使い手を見たことがなく、今なお眼底に焼付く思いをいだいております。演武後、楽屋を訪れ教えを乞うたら「人それぞれに特意があるもの、その得意を生かす事だ」と微笑んだ千両役者の言葉に圧倒され、以来、儀保を先輩として礼をつくすようになったのです。儀保の舞踊の美しさ」、素晴らしさは、空手の鍛錬からきたものか又、儀保の固唾をのむ演武が舞踊の至芸からくるものか「演武」と「演舞」の鍛錬が一体であることは間違いないものと思われるのである。儀保15,6才の頃、同字の先輩「ジンメー小」こと比嘉仁明氏に空手の手解きを受け、首里派の使い手・新垣安吉氏と遊び、「チャンミー小」こと喜屋武朝徳翁や本部御殿の「サールー」こと本部朝基先生が一目おいておられた「板良敷のアカータンメー」こと板良敷朝郁翁に教えを乞い武の道に入らんと苦心したことなど、儀保の短い生涯に求めんとした芸道、武道への一途な姿が今でも髣髴として私の目に浮かぶのである。・・・
1974年8月 『沖映演劇』「第54回公演 逆立幽霊」□宮城嗣吉「名優紹介 眞境名由康の人と芸」

1975年2月 『沖映演劇』「第59回公演 真壁チャーンと糸満マギー/泊阿嘉」□宮城嗣吉「名優紹介 玉城盛儀」/船越義彰「『あかちら』幻想」/仲井真元楷「尾類馬の由来」/宮城嗣吉「空手雑感」

1922年2月22日  『沖縄タイムス』莫夢生「鶏聲犬語ー隈侯と山公(11)」
        側に「美しく有望な女形ー儀保松男君」記事


女形・儀保松男
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儀保松男(左)、親泊興照

大衆雑誌『芝居と映画』
1949年5月  沖縄劇場協会『芝居と映画』創刊号□編集兼発行人・高良一
山里永吉「雑談」/比嘉正義(松劇団)「劒戟役者放談」/親泊興照、儀保松男「儀保松男追憶談」/平良良勝(沖縄俳優協会長・竹劇団長)「芸道苦心談」/大見謝恒幸(梅劇団)「新俳優研究生時代の思い出」/「映画スター前身調べ 癖しらべ」/仲井眞元楷「演劇漫筆」/編集後記「沖縄で最初の娯楽雑誌としてデヴィウすることになりました。誌名に示すとうり”芝居と映画に関する一切の記 を集録して読者諸賢にまみえるつもりです」

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1922年4月22日『沖縄タイムス』に莫夢生(末吉安恭)が「詫遊は神舞」と題し次のように書いている。□私は宮古の神舞は(沖縄)本島の上代にあった詫遊の神舞と同じものであると云った。即ち神舞に出づる女人達の扮装の異形なるは袋中のいわゆる龍宮様ではないか。龍宮との関係も宮古の伝説にはよく現れている。あるいはまた宮古の「あやぐ」もこれから出たものであろうとも思う。(沖縄)本島内にある「しのぐ」も、その由来するところはここにあるのではないかと思うのである。


さらに私は詫遊の遊と云うのに舞踊の意味のあることを考えさせられるのである。琉球語の「あそび」と云うことは、唄をうたい、舞うことを意味することは誰もよく知っているとおりである。「あやぐ」を交遊と書くのも村芝居をあそびと云うのも、その意味を現したものの一つである。琉歌に 遊びかとまうきやる踊りがどもうきやる歌もうたえらで遊でたぼれ とある遊びはすなわちこの遊びである。 春や花ごとに色まさりまさりでかけやうおしつれて眺め遊ば の遊びは遊賞の意で、それと前者とは違うのであるが、 とりの伊平屋島や浮やがて見ゆる遊で浮やがる我玉黄金 の遊びはたしかに舞踊でなければ意味をなさぬ。琉球語の遊びと云う言葉は二様の意味があり、舞踊の意味が本源的のものであろうと思う。


(略)
今日の演劇舞踊の起源は神前にて足ふみととろかし神懸りして舞う神舞であることは、各民族に共通するものであるからだ。歌舞伎の元祖といわるる出雲の阿国ももとは巫女であったと云うのである。巫女から歌舞伎の生まれたのは卵から鶏の生まれたそれに近いものではなかろうか。しかして神事と舞踊との関係が最も著しく現れているものは琉球のものであるから日本の古代を研究するにも、琉球□他のものが参考になると同じくまたその舞踊も大切な研究資料ではあるまいかと思うのである。

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玉城朋彦の本
玉城朝彦『沖縄放送研究序説ーテレビ報道の現場から』出版舎Mugen
本書の第1章の沖縄放送断面史に「平和通りの奥でなるみ堂という骨董店をオープンした翁長良明さんは県内屈指のコレクターだ。テレビの『なんでも鑑定団』にも登場したから、すでにご存知の方も多いことだろうが、彼の収集の中心の陶器や書画と並んで、大きなジャンルは県内の『紙』である。たとえば1955年発行の『RBC社報』や新聞、辞令書、『入社試験問題』等の普段は見捨てられてしまうような『紙』も集めている。私もRBC在職中に社報編集委員をしていたが、昭和三十年の社内報など保管されてもいなかった。社内報が社外にあるのも面白い。でもこのような個人の収集に頼らざるを得ないのが、沖縄の放送史と放送資料の現状の一端なのだ」とある。」

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玉城朝彦の著書

□なるみ堂・〒900-0013那覇市牧志3-2-40 電話098-987-5530
最近、翁長良明コレクションの絵葉書をパネル(横40cm縦28cm)にして千円で販売。戦前の沖縄風景、電車が走る那覇市場通り、崇元寺や宮古の博愛記念60周年の絵葉書、豚(アグー)、琉球美人などの絵葉書がある。戦前のこの風景をパネルにしてほしいとリクエストするとそれがパネルになる可能性も十分ある。

玉城朝彦『沖縄放送研究序説ーテレビ報道の現場から』出版舎Mugenー佐野眞一氏の誰にも書かれたくなかった沖縄戦後史を見て思うのが本書の「沖縄の薔薇族ー心やさしきホモの世界を訪ねて」である。これは『青い海』№122(1983年5月号)に平良弘のペンネームで書かれたもの。ついでに『青い海』同号の特集<ここまできたおきなわの性風俗>で、ピンクサロンや大人のおもちゃ、ポルノショップ、ストリップ劇場などがカラー写真で紹介されている。また「社会時評」を書いている伊江秀雅は琉球新報記者のペンネームである□→「月刊薔薇族HP」/薔薇族は、日本初の男性同性愛者向け雑誌(ゲイ雑誌)『薔薇族』から来ている。伊藤文學率いる第二書房より1971年7月に創刊された。(孫<ひより>を抱っこしながら記す)


2013年2月5日ー玉城朋彦氏

2016年2月26日『沖縄タイムス』嘉数啓「玉城朋彦君を悼むーキレある名キャスター」

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石川寅治
洋画家。高知県生。小山正太郎の不同舎に学び、太平洋画会を起こす。のちに示現会を創立。初期は婦人像を描いたがのちに風景画へ移行し、印象派風の明るい画風を示した。美術教育にも功績がある。日展参事。帝展・新文展審査員。日本芸術院賞恩賜賞受賞。昭和39年(1964)歿、89才。 →コトバンク


1912年2月」16日『琉球新報』


石川寅治「大島の豚小屋」


石川寅治「琉球の龍舌蘭」


石川寅治「首里の士族町」

1912年3月『みづゑ』86号 石川寅治「沖縄土産」□図書館があって館長は沖縄県人の文学士伊波普猷と云ふ方です、山口瑞雨氏は沖縄に15年以上も住まわれ館長と共に美術の事を非常に奨励され美術の書類は鹿児島の図書館よりも、遥かに多くスッヂオ始め様々の美術雑誌が供えて有りました。

1913年8月 『美術新報』石川寅治「琉球の風景と人物」


2016年3月20日『沖縄タイムス』「100年前 石川寅治が描いた『琉球風景』、漁民が神事を行った龍宮神などが描かれている。」
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中川八郎 なかがわ-はちろう
1877-1922 明治-大正時代の洋画家。
明治10年12月2日生まれ。松原三五郎,小山正太郎にまなぶ。風景画を得意とし,文展と帝展の審査員をつとめた。明治34年太平洋画会の創立に参加。大正11年8月3日死去。46歳。愛媛県出身。作品に「北国の冬」「高原の花」「夏の朝」など。 →コトバンク

1912年2月ー太平洋画会の石川寅治、中川八郎、吉田博と丹青協会


中川八郎「琉球の刳船」


中川八郎「琉球の山原船」

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1912年3月『みづゑ』86号 中川八郎「沖縄土産」



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吉田博 よしだ-ひろし
1876-1950 明治-昭和時代の洋画家,版画家。
明治9年9月19日生まれ。田村宗立(そうりゅう)に師事,のち小山正太郎の不同舎にまなぶ。明治32年中川八郎と渡米,翌年パリへわたる。34年帰国して中川らと太平洋画会を創立し,文展,帝展で活躍,山岳や渓谷の風景画で知られる。大正9年から木版画を制作。戦後,太平洋画会会長。昭和25年4月5日死去。73歳。福岡県出身。旧姓は上田。 →コトバンク


1912年2月15日 沖縄県庁倹徳館で太平洋画会・石川寅治、吉田博、中川八郎の「琉球写生画展覧会」油絵60余点、水彩画20数点  




吉田博「崇元寺前」


吉田博「泉崎橋」


吉田博「糸満町市場」


吉田博「首里の市場」


吉田博「糸満町の刳船」


吉田博「雪崎から波上宮」

1914年1月 横山健堂『薩摩と琉球』吉田博「琉球写生旅行」□那覇から約1里、旧都の首里がある。首里には今も王城が存してる。段々に高くなった、其の頂上に構へられてある。王城の建築は進歩したものでもない。彫刻にも大した物はない。内地では見ぬ形の龍の首、琉球によくある内地のコマ犬みた様な獅子、此等は彫刻としての眞の意味ではないが、珍しい変わって居るといふ意味で面白く感ずるのがある。殊に、此の王城を今では学校などに使ってる為、是を以て琉球に来た興味の中心とは思はれぬ。(略)35里離れた面白い処では、普天間の岩窟、中城の城跡、与那原、知念、金城、真玉橋、糸満、波上神社、雪ケ崎、泊、崇元寺、平村等がある。知念はハブの名産地で、糸満は趣味多き漁師町である。・・・


吉田博の墓(島袋和幸 撮影)

1912年2月ー太平洋画会の石川寅治、中川八郎、吉田博と丹青協会

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1924年
6月13日ー土方与志、小山内薫「築地小劇場」開設

7月『マヴォ』第1号(表紙・山里永吉作品)
<1925年
秋ー仲泊良夫(白金三光町の明治学院文科の寄宿舎)、伊波文雄(小石川の伊波普猷宅に寄宿)に連れられて中野の山里永吉下宿を訪ねる。仲泊の同級生に仲村渠、渡辺修三、平川泰三、矢島などがいた。またダダイストの辻潤、詩人サトウハチロー、後藤寿夫(林房雄)らと交遊していた。

□1930年9月ー『フォトタイムス』宮城昇「ベストカメラ禮讃ー屋外人物に就いてー」、10月『フォトタイムス』「写檀人ニックネーム一覧表 宮城昇(東京)インチョウ」、12月『フォトタイムス』伊達良雄「東京写真学士会第1回展覧会に就いてー宮城氏の作品六点は何れも旧作であるが、一貫した感覚が漂って居り、殊に少女や少年を撮ったものには深い愛が感じられた。」、1931年1月『フォトタイムス』宮城昇「ベストカメラ禮讃ー屋外人物に就いてー」「或る写真価値」、2月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(5)ースケッチに就いて」、3月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(6)」、4月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(7)ー風景に就いて」、5月ー宮城昇「肖像写真価値の一つ」、9月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(9)ー静物に就いて」


写真上ー1933年1月ー嵐山事件とオイル事件の闘士たち(国吉宅で)、右から宮城清一、大城永繁、上地一史(戦後・沖縄タイムス社長)、平良良松(戦後・那覇市長)ー国吉真哲撮影/写真下ー国吉真哲、マリ子夫妻(自宅で)、写真は何れもバックに築地小劇場のポスターが写っている。

1937年5月ー仲吉朝興『観光沖縄案内』向春商会印刷部□太田潮東郷土協会長「序」
1939年4月ー柳宗悦ら民芸一行(グシ宮城昇が写真撮影で参加)



写真ー久米島にて 右より濱田庄司、一人おいて喜久山添采、芹澤銈介、柳宗悦、河井寛次郎、柳悦孝

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嘉数能愛


昇は南島美術協会展に出品する作品を撮ったりして若い美術家たちを応援した。

1939年10月『工藝』百号「琉球の風物ー追記・撮影に努力されたグシ宮城昇氏にも厚く御禮を述べたく思います。」

1940年1月1日『琉球新報』国威宣揚之新春ー皇紀二千六百年広告「昇スタヂオー上ノ蔵大通り 電話395番」

2011年2月ー◇東京の奥間政作氏からグシ宮城昇の文章が掲載されている『フォトタイムス』が送られてきた。1929年9月号ー宮城昇「時代は移る」、田村榮「新らしく進む路(6)」には親友の宮城昇君が出てくる。11月号ー宮城昇「人物とバックの関係」には昇の作品(花柳はるみ、松本旭一光)も掲載されている。12月号ー「人物とバック」の2回目、昇作品(支那服を着た花柳はるみ、寛子さん)、1930年6月号ー「ベストカメラ禮讃」これにも花柳はるみがモデルの昇作品が載っている。1931年1月号ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(4)」「或る写真価値」が載っている。1931年5月号ー宮城昇「肖像写真価値の一つ」、10月号ー田村榮「近況を語る」に昇が故郷で写真館を開業のため上京されていると、紹介されている。また1936年6月発行の『東京写真専門学校一覧』も送られた。

2011年4月12日『琉球新報』□東京空襲で亡くなった那覇市出身の写真家、𤘩宮城(ぐしみやぎ)昇氏(1906~45年)の作品が、没後から66年、新たに3点見つかった。那覇市に住む男性から琉球新報に持ち込まれた写真を那覇市歴史博物館に照会したところ、写真に𤘩宮城氏の写真館「昇スタヂオ」の刻印があることなどから、同氏の撮影した写真であることが分かった。写真には、1939年に沖縄を訪れた日本民芸協会一行の調査などが収められている。同博物館は「𤘩宮城が日本民芸協会の調査を撮影したことを再確認できるいい資料だ」と評価している。𤘩宮城氏は東京写真専門学校(現東京工芸大学)を卒業し、31年に那覇市上之蔵に昇スタヂオを開業した。肖像写真を中心に撮影しながら、戦前に行われた那覇大綱挽など県内の歴史的な行事をフィルムに収めてきた。2010年夏ごろに建築物の廃材の中から同写真を発見した解体業の知人から託された浦崎直恒さん(58)=那覇市=が「昔の沖縄を写した貴重な写真かもしれない」と写真15点を琉球新報に持ち込んだ。

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島袋百恵 画「末吉麦門冬」

 麦門冬・末吉安恭は1886年5月に首里儀保で生まれた。沖縄師範附属小学校を卒業後の1902年上京した。杉浦重剛の日本中学や、神田の英語学校に通いながら演説会に行ったり、図書館で好きな本を読んで抜書きしたりして新しい知識を貪欲に求めた。1904年に一時帰郷し、名護真松と結婚。1905年再上京、弟の安持と同居。1906年、長男・安慶が生まれると帰郷。
 麦門冬(龍の鬚・ヤブラン藪蘭)とは俳号のことで、歌人として落紅、漢詩人として莫夢山人と色々と使い分けていた。麦門冬も身内(先祖)の毛鳳儀を1919年の『沖縄朝日新聞』に「王舅・池城毛公」として長期連載している。
 末吉麦門冬家は毛氏池城一門で、その始祖は新城親方安基、俗に<大新城>といい、トーナーは毛龍○<口+全>である。一門は八重山でも繁盛していて1928年9月の『先島朝日新聞』には「八重山毛氏一門の美挙 当地毛姓には本年大祖大新城親方の三百五十年忌に相当するを以って門族相図り記念運動場南の墓地に大祖の記念碑を建設し去る2日盛大に其の三百五十年祭を挙行せり」として毛姓・池城安伸の祭文まで記されている。
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いつ降りるの?いまでしょ!一即一切・一切即一○分かりやすい例としてー個人は父母2人、さらに父母併せて4人の親が居る。10代前にさかのぼると2×2×2×2×2×2×2×2×2×2=1024人となる。/三千大世界=須弥山世界は小世界と云う。小世界が千集まれば小千世界。小千世界が千集まれば中千世界。中千世界が千集まれば大千世界。これらを総称して三千大世界という。

おのおのがかけがいのない個になればなるほど、互いに関係しあい、豊かな世界が成立する(竹村牧男)


かまくら‐の‐だいぶつ 【鎌倉の大仏】
神奈川県鎌倉市高徳院にある、高さ3丈5尺(約11.39メートル)の阿弥陀如来の銅の鋳像。建長4年(1252)造立。室町期に仏殿が倒壊し、今日まで露座のままである。長谷の大仏。ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有しています。→コトバンク

1916年1月22日『琉球新報』「山田画伯と語る」
○昨日朝日の寂泡、民報の尚球両君と共に山田画伯を其の寄寓せる徳田氏宅に訪ねた。山田氏は一見美術家らしい容貌を具え或る理想に憧れたような瞳を動かしつつ慇懃に語られるよう▲赤い瓦と常盤木が当地へ参った第1の印象です。上京してから支那に行く途中一度はチト寄った事がありますが七年前の事ではあるし今度始めてのような感じします、気候は随分変わりますがそれとて又冬装束も出来ますし、外套も着られます識名へ参りますと蛍が居ました、-年中育ち居ると見えます、マァ▲五月でも咲きそうな気候ですね。材料ですか実に豊富ですな私は彫刻と絵と両方やる積りです始めは彫刻の方から入りました、帝劇の鳩ですか、はい私がやったのです私は従来の日本の彫刻を甚だ貧弱に考えまして殊に洋館には不調和なることを感じましたので▲募集が有りましたから応じましたら私がやることになりました、鳩が五十羽孔雀が二羽それに花が溢れる所を彫刻したのであります。絵の方も始めは想像的でありましたが、今は進んで来て古墳を研究し西・や希臘等を参酌して描く事になって居ます例えば▲神武天皇を描きにしても今迄の神武天皇でなく希臘の古武士に見るようなものです。(略)岡倉覚三氏は沖縄は平安朝時代の▲絵巻物を見る心地がすると申して居ります、小学校の時琉球人と云うので随分恥も掻きましたが芸術家に着目されてからは歴史に於いて沖縄人たる事を誇りにして居ります。


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1953年 左から金城安太郎、山田眞山、柳光観
1954年1月 米国民政府情報教育部『新沖縄』「琉球の山田(真山)画伯ー山田眞山氏は沖縄が生んだ最も卓越した画家の一人である。画風は古典派で古琉球とその優秀なる文化を主材にしている。彼の偉大なる技能は永い間国際的名声を博し、特に彼の作品である明治神宮の壁画”琉球藩設置”は画界に於ける呼物となっている。・・・・・彼は沖縄の首里に生まれ、その後幼年期は八重山で育ち、後に日本で教を受けた。」
1959年2月 『今日の琉球』山田真山「表紙・樹木」

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1897年  東京美術展覧会に「登庁賀正図」「醉後納涼図」を出品

 左ー山口瑞雨「醉後納涼図」/「群雀啄花図」
1897年12月『琉球教育』「山口本県師範学校助教諭心得は予て同中学校助教諭心得をも兼務せられしが先頃東京美術展覧会に向て旧藩時代の風俗画として登庁賀正図、並に醉後納涼図の二種を出品せられしに其中、醉後納涼図は今十月二十八日を以て忝くも 宮内省の御用品として御買上げと為りし・・・・」
1898年  東京美術協会に「群雀啄花図」を出品


左ー山口瑞雨「運天港図」/「首里中山門図」
1899年  東京秋季美術展覧会に「運天港図」出品


山口瑞雨「沖縄婦人図」(左)/「沖縄上流婦人図」
(山口善丸氏提供)



1910年沖縄県師範学校卒業記念 本校職員ー前列左から三島訓導、園山民平、山口瑞雨、松下之基、古田先生、高橋清次郎。古田の後ろが島袋源一郎


1912年2月15日 沖縄県庁倹徳館で太平洋画会・石川寅治、吉田博、中川八郎の「琉球写生画展覧会」油絵60余点、水彩画20数点  

1912年  沖縄県師範学校退任。この頃の 首里区当蔵村伊江朝永方に居住。第6回文展に「琉球藩王図」を出品

この藩王図については夏目漱石が「橋本雅邦の竹を見た。この竹の向こう側には琉球の王様がいた」と朝日新聞に書いた。13年、瑞雨は沖縄を離れる。
1923年4月 浮世絵師 水野年方①の顕彰碑を鏑木清方らと神田明神に建立。裏面に山口米庵の名が記されている。

1924年8月26日ー第13回丹青協会絵画展覧会

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夢殿にたたずむ新城あけみ
聖徳太子が住まわれた斑鳩宮跡に、行信僧都という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院(東院伽藍)といいます。その中心となる建物がこの夢殿です。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身と伝える秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像(平安時代)なども安置しています。この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂として、神秘的な雰囲気を漂わせています。(→法隆寺)


昭和25年4月 いかるが会『法隆寺手帖』



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山城賢孝(沖縄の雑誌『青い海』前代表)「あまたある店頭に並ぶ雑誌の中 わがつくりたるは殊にまばゆし」









平山良明「語る会開催経過と語り・お礼」







大城敬人「賢孝さんを語る・同僚」


山城隆子「家族謝辞及び夫を語る」

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2013年5月15日 公益財団法人平山郁夫シルクロード美術館」館長 平山美知子さん、新城栄徳(このとき平山画伯夫人に薬師寺は大阪の家から1時間で行けます、といったら『羨ましい』と答えられた。奈良・薬師寺玄奘三蔵院の壁画は平山画伯の作。)

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戦前のオキナワノ嶽(神名ヨリアゲ森カネノ御イベ)


那覇市安里のバス停崇元寺近くにあるオキナワノ嶽(神名ヨリアゲ森カネノ御イベ)、ハーリーのとき泊村が祈願する。

□1925年2月 仲原善忠『日本外交史』イデア書院
命がけの航海ー第二船には古磨と支那の有名な坊さん鑒真和尚(鑑真和上)が載っていました。此の人の伝記(鑒真和尚東征伝)を読むとその時分の航海がいかに困難であったか細かくかいてあります。此の船は15日に他の船といっしょに楊州を出発し、暴風のため6日間あちこち吹き流されて21日に沖縄につきました。第三船も前夜そこに吹き流されて来ています。翌月6日に風が出たので出発しょうとしたが浅瀬に乗りあげて動かない、島人の助けによって、やうやう船を下ろし7日にそこを出て屋久島にちょっと寄って20日にサツマの國川邊郡の秋目につきました。鑒真和尚は奈良に行って有名な唐招提寺を立て聖武帝や光明皇后の信仰をうけた人でその寺は当時の学問芸術の中心になったことはよく人の知っている所です。


□恵心僧都「観世音菩薩の像」

恵心僧都 【けいしんそうず】
平安中期の天台宗の僧。恵心流の祖。大和生。諱は源信、恵心僧都は通称。良源に師事し、顕密二教を学ぶ。また『往生要集』を著し、以後の浄土宗信仰の展開に大きな影響を与え、宋でも高く評価された。寛仁元年(1017)寂、76才。 →コトバンク



□伊波普猷『沖縄考』
東恩納寛惇君の琉球地名考中の「沖縄」の項を引用して、緒言に代へよう。延歴僧録中、淡海三船が僧鑒真伝、天平勝宝五年冬、遣唐大使藤原清河、副使大伴古磨、吉備真備、僧鑒真、唐より帰朝の途次、暴風に遭ひて「阿児奈波島」に漂到したる記事を以て始見となす。琉球古代の神歌「おもろ」に『オキナワ』に作る。




琉文菴は同じ世界遺産の法隆寺、京都、熊野にも取り囲まれているがかつて那覇の小中学時代の歴史教科書で慣れ親しんだ大和、奈良、平安、室町、安土桃山の各時代の舞台にも近い。其れはさて置き、鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』に、鑑真和上が来た阿児奈波島の港は安里川に面する「ウチナーヌウタキ」(沖縄美御嶽)の拝所附近と推察する、としている。天平勝宝5年(753年)遣唐使3船一行(①吉備真備ら)は10日余、安里の此所に南風の吹く日の風待ちのために滞在したということである。


鑑真和上のころの東大寺

①きびのまきび【吉備真備】 695‐775(持統9‐宝亀6)
もと下道(しもつみち)真備。奈良時代の学者,政治家。備中国下道郡出身。父は右衛士少尉下道圀勝(くにかつ)。母は楊貴(八木)氏。圀勝の母の骨蔵器が岡山県矢掛町三成で発見されている。716年(霊亀2)22歳で唐への留学生となり翌年出発し,735年(天平7)に帰国。唐では儒学のほかに天文学や兵学,音楽も学んだことは,帰朝時に献上した《唐礼》130巻(経書),《大衍(えん)暦経》1巻,《大衍暦立成》12巻(以上天文暦書),測影鉄尺(日時計),銅律管,鉄如方響,写律管声12条(以上楽器),《楽書要録》10巻(音楽書),絃纏漆角弓,馬上飲水漆角弓,露面漆四節角弓各1張(いずれも騎馬民族の使う弭(ゆはず)が角製の弓),射甲箭20隻,平射箭10隻等によってわかる。
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1962      三重県立博物館「沖縄文化展」沖縄展後援組織委員会 鎌倉芳太郎、東恩納寛惇・・        
           4月ー三重県立博物館で「沖縄文化展」(沖縄民謡観賞会、空手演武)



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2016年3月12日ー屋部夢覚さん(那覇市文化協会書道部会長)、作品


1750年代ー東風平親方朝衛「上下の綾門関の戸もささぬ治まとる御代のしるしさらめ」

前出の琉歌を書家の屋部憲次郎氏に書いてもらったもの

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1920年5月ー『沖縄時事新報』莫夢生「平敷屋朝敏の事共」
序言
同人上間草秋君の新作「或る恋歌」は本紙に連載されて好評を博したが、今度若葉団で上場することとなり、目下評判になりつつある。私も初日と二日と二回続けて見たが、平生と違い俳優一同車輪になって働いているので、観客も緊張しているようであった。その劇評は同人の紅華君が遣ったから屋上屋を架することは罷めて、私は上間君と兼々約束もあいてあったし、茲に主人公平敷屋朝敏の事を一寸書いて見よう。平敷屋朝敏の伝記は真境名安興君が先年物されたのがあって彼の事蹟に就いては殆ど尽されているようであったから、私はそれに洩れた逸話並びに彼に関する断片的事実を集めることにする。大田先輩が本紙に連載された「与勝半島」の中にも、私は一寸筆を執って与勝半島に関係した彼のことを書いたから、それも重複を避けることにした。
朝敏の幼時
平敷屋朝敏の父は向文徳禰覇親雲上朝文と云い、母は湛氏とある。父朝文には室馬氏幸地親方良象の女真加戸樽と云うのがあるから、馬氏は前妻で、朝敏の母湛氏は後妻であったのであろう。父朝文は我が宝永三年四月十三日、に不幸享年二十九で没したのであるから享保十九年十一月二十三日生まれの彼が数え年僅かに七歳にして父に別れたこととなる。彼は姉の真加戸樽と妹の思乙金、弟の禰覇の三人の同胞があった。父を失った兄弟姉妹は母の手一つに育てられたのであるから、家計は裕ではなかったことと想像さるる。裕福な家に育たなかった彼が人一倍苦学力行したことも又窺い知られるのである。
國の字の点  少年時の師  龍洞寺心海
心海の神通力(一)  心海の神通力(二)  秘密の古墳  
朝敏の頓智  酒と恋愛  此歌の別説  「或る恋歌」
美貌と香臭
平敷屋の美貌は人口に膾炙することであるが又彼には躰に一種の香臭があったとのことである。これ□□小姓時代のことだそうだが、同僚の者が何時も不思議に感ずるのは朝敏が座に就くと何とも云えぬ香ばしい匂いが漂うことであった。いづれもこれを不審なりとし遂に評判になった。或者はそれは彼が匂い物を身につけた為である。衣服の洒落なら兎に角男子として匂い物を身につくるなどとは余りに若気過ぎたざまであると誹り或いは面責してやろうと云う者もあったがそれよりも彼に沐浴を勧めてその性躰を慥むるに若くはないと云うことになり態々風呂を沸かして彼を招き何気なく入浴を勧めた。平敷屋も計略のあるとは夢にも知らず勧めらるるままに湯に入りやがて上がりぬれた躰を
拭く時に一同どやどやと入り来り検査を始めた。所が驚くべし馥郁たる香臭はいつもよりは甚だしく自然に彼の皮膚から醗酵する所のものだあったことが分かった。一同も漸く其の邪推なりしことを悟り實を打開けて遂に大笑いになったとのことである。これを或人は腋香の一種だと云ったがそうかも知れない。美男子美女には往々異性を誘惑する体臭があるとのことだが平敷屋も香水要らずのよい物を持っていたものだ。この話は誇張された虚談なりとしても彼が稀有の美男だったということはこれ等の話があるのでも類推さるるのである。
速筆と強記  他所目忍ぶな                    
妻女かめ                                                                                           世の伝ふる所に依ると、下の歌は平敷屋夫婦唱和の歌と云うのである。  夢に夢蔵お側並べたる枕、吹きよおぞますな恋の嵐
上の句を朝敏が詠むと、細君が下句をつけたと云うのである。さてかような歌を詠んだ、平敷屋夫人はどんな才媛であったか、今知る由もないが、其の作ったという下の句の凡手にあらざるを見ても、其の人柄が偲ばるると共に、夫婦仲の円満なりしことも思い遣らるるのである。しからば彼女は如何なる素性の人かと云うに、南山王の系統を引いた阿姓であって、父は阿天壽、知花親方守壽、母は向氏仲田親方朝重の女眞犬金と云い、彼女は名を亀と称し長女であった。元禄13年8月11日の生まれで、夫と同年であるが、月から云うと彼女が長じていた。平敷屋との間に女子一人、男子二人をもうけた。平敷屋が刑死し、其の二人の男の子も流罪に処せられ、家は破滅、憂き困難、其の為に生命を縮めたのか元文4年12月28日即ち夫に別れてから5年の後、享年40歳で彼女も没した。阿姓佐久田家の家譜には   長女亀康煕39年庚辰8月11日生嫁平敷屋、雍正12年甲寅6月26日平敷屋得罪於安謝港八付、島並系記御取揚欠所ニ付貶百姓、乾隆4年巳未12月28日死、享年40號ばい心とある。平敷屋という美男の且つ粋人の妻であるから、彼女も又才貌双絶の佳人であったに違いない。

○私の聴いたこの歌の説は以上の通りだが、故恩河朝裕氏(熱心な琉球の故実研究家であった)の随筆には下のように伝えてある。・・・
○蔡温ー其の性格を儒者一流の弁を以て粉飾するの傾きがある為め門閥を以て一種の誇りとし、自ら文化的、趣味的に於いて優秀なりとした。・・・
○護得久朝常翁の手控本に沖縄の歌人歌学者の姓名並びに生死年代があるがそれに依ると屋良親雲上宣易は順治十五年戊戍の生まれで雍正七年已酉に卒す在世七十二年とあるのである。・・・

文若と朝敏(一)  文若と朝敏(二)
蔡温弾劾落書 千松明蝋燭  東風平親方  屋良親雲上  騎馬の曲者
判官へ助言  朝敏等の判決  罪人の子等  最後の髪結ひ


1920年7月20日『沖縄時事新報』に白浪庵(末吉安恭)「龍舟」30が載っています。残念ながらこの1回分しか残っておりませんが、麦門冬の内面が垣間見えるものです。
□汪応祖は腕組みをして独語す。北谷大屋子しばし躊躇して進まず。汪応祖「今俺はたしか刀の柄に手を掛けた。それはあの両人の者を斬ってしまおうと云うのであった。それにしてはこの俺に似合しからぬ料簡ではないか。俺は血腥い戦乱を鎮め、世の中を平和にしたい而して人民の生活を文化的に向上させたい。すべての罪悪をこの社会より根絶させたい。一の理想国をこの南の島の中に実現させたい。こんなことを始終思っている身ではないか。




1915年2月 『琉球新報』末吉麦門冬「琉球饑饉史」
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○古琉球人は多神教であった「冨津加久羅神は天神なり儀来河内は海神なり君手摩神は天神なり荒神は海神なり浦巡神は天神なり與那原召亊は陰陽之神なり月公亊は天神なり河内君真神は海神なり五穀の神は五穀を護衛の神なり」と云う。これらの神が婦人二夫に接せざる者に乗り移って遊び給ふと信ぜられて五穀の神などは節々に出現して人民に福を授け給ふと云うのである。・・・
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麦門冬は真境名安興から貰った『中山世譜』の神名を引用している。
□この文章の下に「円覚寺の建築」の記事が載っている。□県議事堂建築の為め来県忠の工師氏家重次郎氏は此の程県内の古建築を見て廻ったが首里の円覚寺の建築を見て大変気に入り俄かに研究心を刺激したと見えその視たる儘を語りて曰く円覚寺の創建は四百年前のものに係るようだが建築構造すべてが足利時代の特徴を発揮し兎に角見事なものである。伽藍などに少々缼漏のあるのは火災等の為に原型を失ったのでは無いかと思う。山門の石欄等足利時代の産物たる特色を呈している。寺鐘は佛殿前の小なる者が年代古く八百年前のものらしい同寺建築すべてが今は尚家の私有であるが保存上遺憾なからしむには是非国宝にして維持費を要求せなければならぬが自分の見る所では充分国宝たるの価値を有すると思う早く其の手続きをして国宝に編入されたがよい。今のままに打棄って置くのは実に惜しいものだ云々


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冨名腰(船越)義珍が末吉麦門冬に贈った写真

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アバサンゴ、ひより



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2016年3月4日 パレットくもじ前でーひょうごツーリズム協会などで組織する観光キャラバン一行の「はばタン」(兵庫県の魅力をPRする観光名誉大使)、新城栄徳
[ひょうごツーリズムガイド: 兵庫県観光情報サイト]
兵庫県(神戸・姫路・城崎・淡路など)の観光情報を発信しているひょうごツーリズム協会(旧兵庫県観光連盟)の公式サイトです。観光スポット・温泉・イベントの情報満載。


1952年9月 雑誌『おきなわ』表紙・神戸・沖縄会館
沖縄県人会兵庫県本部 住所: 〒660-0805 兵庫県尼崎市西長洲町2丁目26−12 中央ビル 電話:06-6487-0545




□「神戸」資料
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写真左から赤嶺昌樹氏、梅崎晴光氏(スポーツニッポン新聞社東京本社・専門委員)、石川和男氏

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 私(新城栄徳)は久志芙佐子の最初の夫・安良城盛雄についても紹介している。これは妻の芙佐子のみの情報が一方的に語られ、夫である盛雄の情報があまりにも少ない。県人会名簿を記して分かったことだが県人の情報が特定個人に集中し、これ以上知る必要がなくても情報が有り余るのは今のテレビの世界と同様である。やれ坂本龍馬、やれハニカミ王子、何とかスポーツとかが年中テレビで報じられていて食傷気味になる。(見たくなければ見るな、とテレビの声)報じるものは結果ではなく何ごとも予防である。例えば自然災害、人間、家畜らの伝染病は日頃から智識を国民に提供することもマスコミ(テレビも含む)の重要な仕事である。テレビ、新聞でオタク的な国家論を喋っている評論家はたまに町を歩きコンビニに溢れているエロ本(悪書とは言ってない。品格・友愛などと言う御仁に勧める)と、クルマ、タクシーの路上駐車、能天気な男女の運転中の携帯電話、公園での未成年男女の酒盛りなどなどを見て少しは現実社会も実感してほしい。それら日常の貧困などに触れないで女性論とか国家の暴力、何とかをテレビで語るテレビ政治家、評論家が横行しすぎる。話は横道にそれたが、現実に生きている個人の息吹にも眼を向けたい。→2010年6月

 
安良城盛雄資料


2016年2月 森川満理子『歌集 若夏の風』不識書院(仲村顕氏提供)表紙のおびに○ 亡き父の故郷はけふ「慰霊の日」いまに
戦後のつづく沖縄 著者は、名古屋市生まれ、市立菊里高校音楽科(ヴァイオリン科)卒、旧姓(安良城)。


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島袋百恵・画「久志芙沙子」2013年11月3日『新報小中学生新聞 りゅうPОN!』仲村顕「人ものがたり㉛久志芙沙子(1903~1986)幻の女流作家」


1915年2月11日『琉球新報』久志ツル(芙沙子)


1973年9月 『青い海』


197311月 『青い海』



1974年新年号『青い海』伊波南哲「久志芙沙子さんの思い出」
〇石川正通夫人・澄子は久志(坂野)芙沙子の1年先輩。1987年6月発行の『ひめゆり一女師・一高女沿革誌』に澄子は「修学旅行の思い出」を書き、その傍には芙沙子の「追憶」が載っている。


1974年6月 『青い海』

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2017年3月 沖縄県立博物館・美術館『山元恵一展 まなざしのシュルレアリスム』


2017年2月8日沖縄県立博物館・美術館で左から新城栄徳、板橋区立美術館の弘中智子さん、豊見山愛さん

1956年2月 金城唯恭 編『新沖縄文化史』郷土誌研究会□山元恵一「古琉球の絵画」
1957年3月『琉球新報』森英夫「夢いつわらず」(画・山元恵一)
1957年3月『琉球新報』森英夫嘉陽安男「異本 運玉義留」(画・龍界寺惠=山元惠一)

写真前列右端が山元恵一


1972年9月 『琉球の文化~歴史・民俗・考古・美術・工芸・音楽・舞踊・演劇・文学の総合誌~』琉球文化社



1993年10月 『山元恵一作品集』那覇市文化振興課
星雅彦「山元恵一の軌跡」/「作品図版」/「俳句と随筆」/「山元恵一写真アルバム」/「山元恵一年譜」/「山元恵一作品目録」

1955年3月12日ー沖縄タイムス主催「芸術祭」ゴッホ劇、現代版「中城若松」

1955年3月ー写真向かって右から 前列 大城皓也、大嶺信一、安次嶺金正、安谷屋正義 後列 大城貞成、南風原朝光、島田寛平、榎本政治、大嶺政寛、豊平良顕、山元恵一 南風原朝保


2016年3月19日~4月17日 沖縄県立博物館・美術館「パブロ・ピカソ『ゲルニカ タピスリ』沖縄特別展」

 1973年4月14日『沖縄タイムス』山元恵一○パブロ・ピカソが8日、南仏ムージャンの画室でなくなられた。世紀の巨匠がついにその偉大な生涯を閉じられた。91歳という高齢で、世界中の芸術家が悲しんでいるだろう。カメレオンのように画風の変わる作家ともいわれた。父もマラガの州立工芸学校の美術教師で、ピカソは14歳から無類の天才ぶりを発揮しはじめた。パリに出た頃ロートレックの影響をうけ、次にグレゴの影響をうけながら有名な青の時代(23歳頃まで)、赤の時代(35歳位まで)、つづいてマチスと会い野獣派(フォーヴ)の時代が始まる。日本の萬鉄五郎らも影響をうける。翌年ブラックに会い28歳頃から立体派の時代が始まる。この運動はイタリーに入ってマリネッティらの未来派運動、ドイツ、ロシアの表現派。青騎派(ミュヘン)の運動には自身も加わる。フランスでは立体派と並んでピュリズム(ル・コルヴィジェの名で建築家でもあったジジャンヌレの主唱)、レジエ等の力動派」(エモーショナリズム)、音楽主義(アンリ・ヴァランシ)等20世紀初のこれらの一連の新運動はピカソとブラックの立体派宣言に端を発したものと言っても過言ではない。(略)1930年頃からシュール・レアリズムの一連の作品を残し、ピカシズムと呼ばれる。眼が顔の片側に集まる例のデフォルマシオンの時代が始まる。「ゲルニカ」まで続いていく。
 8日は私はタイムス・ホールの「現代の幻想絵画展」を見た。福沢一郎先生の「牧神とニンフ」の大作がいきなり眼にとびこんで来る。美しい。福沢先生も日本に於けるシュール・レアリズムの最初の紹介者の一人である。私は東京に出た翌年、春鳥会で偶然この展示会を見た。エルンストの灰色の中のオレンジの線の抽象的な作品を忘れることが出来ない。(略)香月泰男兄も2期先輩である。古沢岩美、麻生三郎氏らも池袋では、色々歓談したものである。それで今回の催しに非常な感激を覚えたのだが、引き続いて翌日ピカソの訃報である。何とも落ちつかない。


1973年4月 沖縄=タイムス主催 後援=朝日新聞社


福沢一郎「牧神とニンフ」


古沢岩美「コルドバの朝の幻想」


麻生三郎「ある群像」


香月泰男「業火」
1973年4月12日『沖縄タイムス』城間喜宏「『幻想絵画展』を見て<1>懐かしい出会い 福沢一郎『牧神とニンフ』」
1973年4月13日『沖縄タイムス』安次嶺金正「『幻想絵画展』を見て<2>すばらしい展覧会」
1973年4月15日『沖縄タイムス』安次富長昭「幻想絵画展への招待ー幻想絵画展が示す現代絵画の一つの方向」

1973年4月23日『沖縄タイムス』山元惠一「大ピカソ展」


1973年4月24日~5月6日 沖縄三越「大ピカソ展」

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山城正忠自画像

1901年  沖縄県立病院及び医生教習所、産婆養成所を久茂地に移転
1902年  楊長積(永井長積)那覇に歯科医院開業
  
 山城正忠が那覇尋常高等小学校のとき、校長だった山城一は鹿児島県出身で慶応義塾に学び教員に。鶴のように瘠せて背は高かったと教え子はいう。山城一は頑固党の首魁・義村朝明から李鴻章の密使と称し、清国援兵の資金ということで大金を騙し取った男で、山城正忠はこの事件をモデルに「九年母」を書いているが、後に山城は、「私が東京にいる頃、小杉天外先生が経営されていた『無名通信社』の小使をやっている変わりものの老人があった。それを主人公にして、中村星湖氏がかいた『短刀と判取帳』という短篇小説があった。それが誰あろう。山之城先生のなれの果だということを、作者からきいて驚いたことがある。」と『那覇尋常高等小学校四十年記念誌』に書いている。


 1903年3月11日『琉球新報』小きん(山城正忠)「病詩人『ゴルギー』を思ふ」○花も咲かず緑もなきロシアの白雪曀々たる荒野に一時運命の寵児として世界の評壇に喧伝されたる詩人ゴルギー①
①マクシム・ゴーリキー(Максим Горький, 1868年3月28日(ユリウス暦3月16日) - 1936年6月18日)は、ロシアの作家。本名はアレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ(Алексей Максимович Пешков)。ペンネームのゴーリキーとはロシア語で「苦い」の意味。社会主義リアリズムの手法の創始者であり、社会活動家でもあった。→ウィキペディア

1904年  医生教習所の砂辺松勁出征で山城正忠が後任に任命される。
1905年  山城正忠、青山第四聯隊入隊。三念・高江洲康健と広津柳浪を訪問する。
 
1932年5月15日~ー『琉球新報』「あの頃を語る/山城正忠氏の思出ばなし」
山城正忠氏は今更言ふまでもなく本県文壇の大御所。自ら萬年文学青年と言ひ沖縄に文藝の芽が萌え出してから幾多の変遷多き文学思潮に染め上れて来た人。近く来県の噂ある与謝野晶子女史の愛弟子として歌才豊かに。同氏から明治時代における文学志願者の苦闘の思出を聴く。
  (略)石川啄木は痛快な男であった。何時も思索しているやうな瞳でものをみる。彼が私にくれた手紙がある。
  復啓、玉稿昨日早朝正に落手仕候。日毎に新聞の続き物に追はれ居候のと、雑誌昴「スバル」のため寸暇を得ず今朝までまだ拝見致しかね居候。今出かけるところ、帰ったらすぐ拝誦可仕候。外出不定なれど夜分は大抵在宅今日は夕刻より屹度居る筈に候へば若しお暇に候はば御散歩がてら御来遊如何。大学の正門(赤門ではなく)の前から西に入り映世神社の向かって左の横手を真直に一町半坂の上の右側がこの宿に候、電話は下谷乙867番。 四十一年十二月二十一日 石川啄木
      (以下略)

石川啄木と山城正忠
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1937年6月『月刊琉球』山城正忠「啄木と私」
○山里君の出題によって、斷れぎれに浮かんで来る記憶を、その場でその儘、まとまりのない覚書にして見たのがこれ。私がはじめて琢木に会ったのは、その頃千駄谷に有った、与謝野先生の家であった。明治何年であったかはっきりしないが、与謝野寛年譜に拠ると、明治38年、皇紀2565、西暦1905年に私は新詩社同人となっているから、少なくともその翌々年位であらう。私と一緒に同人になった連中には、吉井だの北原だの、長田兄弟だの、それから木下杢太郎で盛名を馳せた現在東北大学にいる太田正雄が帝大の金釦で時々顔を見せ、箱根の水難が奇縁となり、天下の名妓萬龍を射止めた恒川石村、今の岡本一平氏夫人かの子さんがまだ大貫姓を名乗っていた。石川は明治三十四年に社中同人となり、私などのはいった頃には、既に鬼才を認められて、可なりその名が喧伝されていた。何でも雨のひどく降りつづく日であった。皆が白地の浴衣着ていたから夏の眞盛りであったとおもふ与謝野先生の家の都合で、近所の生田長江先生の客間を拝借して連中が集まった事がある。とにかく十名内外だったと覚えている。一座の中に、どう見ても気に喰わない男がひとりいた。歳からいふと私より二三下だといふ見当だが、それを寛先生や周囲の人たちが、いやにちやほやしていた。それに関わらず、本人は口数少なく、絶えず天の一角を睨んでいるやうな態度を持していた。青ン張れた顔で、どこか漱石先生の「坊ちゃん」にでてくる「うらなり」といふ感じだったが、それでいて、何かしら、犯しがたい風格と、ただならぬ気魄のあるのを私も見のがさなかった。

その男が突然私に向かって「山城君。君のくにじゃ、今でも人が死んだら喰ふのかい」と、飛んでもない質問をされて、一時カッとなった私は「馬鹿言へ、そんな事があるか」とハネかえしたのを与謝野先生がうまく取りなされた事があった。その場ですぐわかったが、それが誰あらう、わが石川啄木の奴だった。以来私は急速に彼と親しくなり、おれは北だ、貴様は南だ。ひとつ、大ひに提携して、東京の奴等を押へつけてやらう。といふ、盟約まで申込ませる仲になった。ああ、それなのに。といふ慙愧に堪へない私である。しかしそんな事はどうでもよい。今慶大にいる文学博士茅野粛々が、京大に赴く送別歌会の日、「鉢」といふ題で喝采を博したのが、啄木の「怒る時必ず鉢を一つ割り」といふ歌であり、もう一つ、彼が、何かの興行のビラになぞらへ、、寛、晶子、を横綱格に、北原吉井を大関格にしやっと入幕といふ所に、富田碎花、北川英美子、長島豊太郎、山城正忠といふ戯書を認めたのも、その日の会合だったとおもふ。それが現在、新しき村の長島豊太郎が表装して珍蔵しているらしい。


降って明治四十五年頃だと思ふ。当時石川は、本郷の蓋平館別荘にいた。閑なら遊びに来ないかといふ端書に接し、どこかの宴会がへりのささ機嫌で行ったら、別荘とは言へ、実は高等下宿の別棟で、それも特別狭い部屋に屯していた。酔ふていたので、何を話したかよく覚えていないが、その頃彼のかいていた、東京日々かの連載小説、「島影」のモデルが中心となり、それが彼の初恋に及んでいた事は確かである。どういふわけか、厨川白村博士や平野萬里に対して心よからず思っているやうな話だった。それから後の記憶は朦朧としているが、何かの行違いで彼と私の口論となり、結局「貴様とは絶交だ」と私の方で席を蹴って起ち、玄関から出る処を「馬鹿、つまらん事で誤解するか」と、追ひすがってたしなめられた事をかすかに覚えている。かうして私は、天下の石川啄木と別れた。いくばくかもなく、おもひがけない訃報を、私は郷里に於いて受けたのである。大正15年の夏、函館郊外の立待岬にある彼の墓地を訪ふた私は、ただただ、人の世の辞句を忘れた感慨があった。



 1912年5月『沖縄教育』第七十三号(編輯兼発行者・親泊朝擢)山城正忠「琉球の二大彫刻家 梅帯華と梅宏昌」○緒言 近時最も喜ぶべき消息に接した、といふは別のことではない。我琉球の畫聖自了が、今度『大日本百科大辞書』といふ、浩瀚なる大著の中に載録されて、弘く世界に紹介されたことである。これより先、昨年の八月琉球教育会の事業として編纂された『偉人傳』中にも先進笑古眞境名安興氏の筆で『畫伯自了と殷元良』の傳記が併録された。そのなかに、首里龍潭池上に架せられた、世持矼の右欄畫は、口碑傳説に拠ると、彼の琉球丹青界の巨臂、自了の作だといはれている、といふことがあった。私は幼少の頃にも一度さういふことを聞いた記憶を持っているしかしそれも歳月と共に、漸次印象が朦朧となっていたが、同氏に依って再び鮮やかな印象の色彩を喚発したのである。而し未だ文献の徴するものがないので、その真偽の程は確証されない相だが、私はどういふものかそれを事実として見たい。そこで、依前は路傍の砂塵にまみれた、無名の作品として一瞥も与へなかった死畫の魚も、急に芸術的価値を論究されるに至った。若し果たしてそれが眞なりとしたら、轍鮒の水を得て再び泳ぎ出したやうな観がある。その後私は数々該橋を通って見たが、そのたんびに絵画の鑑識に乏しい愚眼にもあの彫刻魚の尾鰭が、藻草と小貝の間にからまって、溌剌として動くやうに思はれる。遡って畴昔、冠船渡来に際して池上に龍舟を浮かべ、当時恐ろしく権勢を張っていた冊封使を歓待したといふ、歴史を想像して見ると古式の衣冠帯束の色彩と、あの藻草に鯉魚の彫刻をして、模様画風の石欄画との調和がよほど風韻を帯びている。(華国翁は是を否定していられるらしい)又或人の話に依ると、嘗て岡倉覚三氏も、此両画伯の作品を激賞して『琉球特有の名画』といふ讃辞を吝まなかったといふ。自了は又唐人杜三策や、本邦狩野安信をも驚歎せしめた程の名人である。而しこんなことは人の皆能く知る処、敢えて説く必要もあるまい。

 私はこの彫刻の魚を見たり攷へたりする毎に、連続して近代の偉人、琉球彫刻界の二大明星田名宗經翁(梅帯華)並びに其息宗相翁(梅宏昌)の英姿を髣髴として思ひ浮かべずには居られない。故人は実に琉球王国最後の芸術家である。

 却説、近来漸く琉球史開拓の機熟し、先輩諸氏の薀蓄せる学識と彩筆を、これら郷土の偉人傳記に傾注されつつあるのは、民族教化、並びに社会教育上、実に慶ぶへき現象である。独りこれのみではない。祖先崇拝の徳を涵養するに就いても、亦多大の効果を奏するであらう。

 而し我が田名筑登之親子の事績に至っては、世に之れを伝ふるもの少なく、大分人々の記憶も薄らぎつつあるやうだから、私はその湮滅を恐れ、聯か禿筆を呵して伝記の概略を叙べて、見たいと思ふ。殊に故人はわが字の偉人で、若狭町の誇りである。その関係から言ふても、これは当然私共の義務であるかのやうに考へた。而し私は素より歴史家ではない。加之浅学菲才、此任に当る器ではないが、要はただ、今迄私の手で調査蒐集した零碎な材料を一纏めにして、識者の劉覧を煩し、併せて学者の御教示を須つのである。・・・・

1985年11月『歌人・山城正忠』(琉文手帖3号)

1920年11月  東京歯科医師会、ライオン歯磨本舗と「虫歯デー」実施  柴田米三(東歯)、小那覇全孝(日歯)在学中で参加。   
      12月4日  沖縄県歯科医師会設立総会(於 天理教会)会長・佐々木義一、副会長・楊長積(永井長積) 

1923年3月28日 沖縄県歯科医師会 役員改選で会長・山城正忠、副会長・今井小四郎
1925年1月 『沖縄教育』144号(又吉康和 編) 山城正忠「絵を描くある男との話ー師走のある日、午後のことーそれに死んだ麦門冬のことを思ひ出して、さらでだに、心が晦くなっている矢先ですから、そういへば、末吉さんはほんとにお可哀想なことしましたね。 全くです。つまらんことをして呉れました。これからがほんとうに、彼の生命の、ぐんぐん延びるところでした、だが一面から考へて見ると、彼らしい最後を遂げたとも言へます。『ねがはくは花の下にてわれ死なん』といふ句を、套口のやうに讃仰していましたからね。・・・」

1927年9月  山城正忠、同人雑誌『珊瑚礁』山里永吉「人間は居ない」→1935年3月『海邦』山里永吉「佐伯氏夫妻」→1991年1月ー『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)収録。モデルは佐山明(歯科医)
○1985年11月『歌人・山城正忠』(琉文手帖3号)国吉真哲「珊瑚礁のころ(同人たち)ー佐山明(歯科医)、菊地亮(沖縄刑務所教誨師)、糸数三武郎(訓導)、川俣和(沖縄二中教諭)、型谷悌二郎(国吉真哲)」

1929年8月8日 『琉球新報』本山夢路「再び放浪の旅へー放浪の旅への力附けをして下さいました、山城正忠、川俣和、向井文忠氏 奥様、根尾耳鼻科部長(県病院)花城清用、国場道平諸先輩に心から感謝します・・・」/川俣和「前線を歩む人々(15)眞なるが故に新なり」

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 2001年10月ー沖縄県写真協会『おきなわ写真の歩み』□新城栄徳ー沖縄写真史散歩ー前に写真家・山田實さんから、父山田有登とその沖縄県立中学校同窓の山川文信、翁長助成、山城正好、宮里良貞、𤘩宮城宗倫が写っている1907(明治40)年の識名園園遊会での写真①を見せてもらった。中のひとり𤘩宮城宗倫の息子が𤘩宮城昇である。他に1904年の同窓生は川平朝令、志喜屋孝信、比嘉徳、久高将旺が居る。昇は東京写真専門学校在学中の1927(昭和2)年に東京写真研究会主催の展覧会に応募、入選するなど意欲的に写真に取り組んだ。沖縄に帰り写真館・昇スタジオを那覇市上之蔵に開業。明視堂写真部と共催で写真展を開いたり、新聞に作品を発表したり、短編小説を<時計の宣告>と題し「今日は昨日の連続である。人生は瞬間の連続である。その瞬間をいかに朗らかに楽しむか」などを発表した。とにかくいろいろな表現を試み写真も芸術写真を志向したー。

①識名園遊会での写真






1919年9月ー『鹿児島新聞』で「古き薩琉親善の家門」としてグシ宮城家当主の宗倫が紹介され「宮城宗倫といって、長崎医専の出身で、今は薬種商を営み(略)訪古採訪の客を請じてその家譜や在番奉行請待の客室や、当時薩藩の名士よりもらい受けたる書簡、刀剣、茶器等を一切開放して閲覧せしむるー」と出て一般に家宝を公開していることがわかる。下の写真はグシ宮城宗倫を中心に左に真境名安興、右に冨名腰義珍も見える。

1926年1月ー坂口総一郎『沖縄写真帖』/池野成一郎□序ー私は大正14年1月沖縄本島を旅行した。しかも此写真帖の著者坂口君の御親切な案内を受けて、その旅は実に愉快であった。その旅の事を考えると今でもその時の愉快さがありありと頭の中に浮み出でて胸のあたりがすつとする。私は旅が大好きだ。明治21年生まれて初めての旅をして以来私は毎年多少の旅行をしない事はない。外国の旅行は別として日本内地は勿論、台湾、朝鮮、樺太その外小笠原島や対馬、隠岐の様な離れ島でも私の足はその土を踏んでいる。その数百回に亘る旅行はいつでも多少面白かつたに相違ないが併し大正14年1月の沖縄旅行は私が尤も面白いと思つた旅行の中の一つである。沖縄にはフルギがある、ヘゴがある、アダンがある、ガジュマルがある、植物の平凡な東京に住む植物学者の私に取つて沖縄が面白いのは当然だが併し沖縄の面白いのはただ植物ばかりでは無い。動物も面白い、風俗、建物、言語、風景皆内地と違つているから面白い隋つて植物学者も行くべし、動物学者も行くべし、人類学者も、建築学者も、博言学者も誰れも彼れも、苟くも珍奇な事物を見て智識を得ようと思ふ人は皆行くべしだ。併し如何に沖縄へ旅行したくとも暇のない人もあり、又旅費が思ふ様にならない人もある。それ等の人は此写真帖を見て沖縄の動植物や、建物、風俗抔の一班を知るがよい。尚ほ沖縄も内地との交通が繁くなるにつれ、風俗等も段々内地のものに近くなり、古い建築物も追々朽ちはて、おまけにヘゴやヒルギの様な珍しい植物がやたらに切り倒される今日だから今の内に此写真帖が出版されるのは誠に時を得たものだと思ふ。此点に於て坂口君の御骨折を感謝すると同時に此写真帖が第三輯以下次々と出版される事を祈る。
1936年
1938年
9月ー『アトリエ』<二科会特集>藤田嗣治「孫」、藤川栄子「琉球のキモノ」、加治屋隆二「糸満の井戸」
11月ー大阪阪急百貨店で「琉球漆器陳列会」

1939年
5月17日ー日本民芸協会一行、尚順邸で歓待を受ける。
5月19日ー又吉康和の招待で辻正鶴楼で歓迎会
11月ー『月刊民芸』<琉球特集>□尚順「古酒」、比嘉景常「石」、山田有邦「芝居」、島袋源一郎「郷土博物館」、仲里誠吉「市場」、世禮國男「三線」、島袋全発「童謡」、石野径一郎「うた」、比嘉春潮「衣・食・住」

1940年3月ー『月刊民藝』水澤澄夫(国際観光局)「沖縄の風物と観光」□1月7日ー午後、那覇市公会堂で、「観光座談会」が催された。両市(首里・那覇)の主だった人達はじめ県警察部長、師範学校長、図書館長、大阪商船支店長等が地元から出られ、こちら側からは柳(宗悦)先生はじめ濱田庄司氏、式場隆三郎博士、日本旅行協会の井上昇三氏、わたしなど十人余り出席した。話は崇元寺前の折角の美しい石門の風致を害する電柱の取りつけのことから端を開き、わたしは、四日間だまって見物して得たところを材料として、1、開発していただきたいもの、2、保存してもらいたいもの、3、禁止してほしいもの、これら3者について具体例をあげて希望を述べた。すなわち、旅館、道路、下水の問題、標準語の問題、勝地に於いて風趣を損ずる立札等の問題(糸満白銀堂の寄進名表、満座毛のコンクリートの鳥居と卓、首里城々門下の井戸柵など)。結局沖縄は観光地として資源の上から十分発展の可能性がある。現下の世界情勢において急に国際観光地として立つわけには行くまいが、国際観光事業は「見えざる輸出」として貿易外収入の道として忽せに出来ぬ事業であるから、御考慮願いたい。このことは国内観光事業の場合、一県を主体にとって考えれば同じ趣旨が成り立つものである、というようなことを言った。

この会ではわたしの持ち出した標準語問題と式場博士の言い出した墓保存の意見とがはしなくも論議の種になり、御数日は賑やかな沖縄ジャーナリズムの問題となった。標準語問題というのは、女学校の壁に張られた県で募集した標準語励行当選標語に、「沖縄を明るく伸ばす標準語」「一家そろって標準語」「いつもはきはき標準語」などというものがあり、県当局の意向も判りはするが、少し行きすぎたところがありはしないか言い出したのに端を発する。標語というものは概していくらか滑稽なところがあり行きすぎがちなものである。そして、その割に効果少ないものである。この問題も県としては重大な問題に相違ないが、実際的な正しい効果をあげる方法は多分他にあるのではなからうか。前にもしるしたように沖縄語は一方言としてとりあつかうにはあまりに古格のある言葉である。人は郷土の言葉にこそ生き生きした息吹を感ずる。標準語は方便である。沖縄の人も冷静に考えればこのことは十分判ることであろう。わたくしの言から緒を発した県当局の意見と柳先生の論旨とは根本的に論拠がちがうのである。そのことを県の人々も一般人士も気づいてほしい。観光的観点から見れば、言葉も亦郷土色を彩る重大な要素の一つである。切に沖縄語の正しい保存を希求して止まない。墓の問題も同然、論点が異なるのである。式場博士の説を十分に咀嚼してもらいたいと思う。

出立の前日人づてに尚順男があいたいと言って来られたので首里桃原の邸に伺った。尚順男は現尚侯爵の叔父に当たる方で69歳、嘗ては貴族院議員として又銀行頭取として県下に威を振った人である。いまは博学多識な老紳士として、しかもなお衰えを見せぬ県内第一の人物である。話は男の経営にかかる那覇市西新町の埋立地に関してであった。現在約六千坪であるが3年後には約3倍の面積に達する。ここに小公園を置き、水族館を設ける予定であるが、更にホテルを築造してはどうかと言われるのである。-相当の室数と宴会場を持ったホテルは実際那覇にとっては必要なのだ。ここには辻という特殊な花街があるが、そこは待合娼家旅館料理屋宴会場を兼ねている。その組織も独特なものである。それが現在旅館の少ない那覇の不備を補っているし、宴会といえば知事の招宴でもここを用いなければならない。しかも一方、県当局はここの廃止を企てたりする。これは現在の状態においては一つの矛盾ではないか。そこで私は宴会場をもったホテルを提唱するのである。そこにはステージをつくって沖縄舞踊の見聞に便ならしめ、琉球料理、洋食、支那料理を設備する。沖縄においても最も簡単に出来るのは材料の関係からいって琉球料理はともかくとして西洋料理である。又、遊覧の為には那覇湾頭珊瑚礁には約二千種の魚介類が棲息するから、、ガラス底の船を出して之を見せる。

一里程離れた小湾は最もよい海水浴場であり、尚侯、尚男の別荘がある。そこへサンドイッチくらい持ってドライブするのもいいだろう。又山の方は桃原農園にもっと、熱帯植物を養殖して一大植物園とし、ホテルの別館を置くのもいい。ゴルフ場も出来るし、例えば恩納岳に螺旋状自動車をつくるのも面白いと思う。沖縄はよき観光地である。殊に冬季は絶好の避寒地である。-男の話は雄大であり、実際的であり、傾聴すべき意見であった。古稀に垂れんとする老紳の熱情をかたむけての話をわたくしはゆるがせには聞けなかった。しかもその老紳士たる、沖縄においては声威並びない人なのである。この人の夢が実現しない筈がない。わたくしは微力ながら出来るだけの努力は惜しまない旨答えて辞去したのであった。

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𤘩宮城昇
1906年7月14日ー𤘩宮城昇、父宗倫、母セツの4人兄弟の二男として生まれる。
1922年10月19日ー真境名安興「琉球史の使命と太平洋問題」
1923年10月28日『沖縄朝日新聞』東恩納寛惇「大震災後記」
1932年8月『フオトタイムス』宮城昇「低気圧ースタヂオを建ててしまった。未だ半年にしかならないのに、この猛烈な風に会い、写場の壁紙の北側は台無しになった。北風のすごい事は知っていたが、しかしスタヂオのスラントも北向きが良いとは皮肉だった。(略)少なくとも、写真に対する人心の覚醒をする為には、我々の低気圧を必要とする土地、那覇である。」/圓谷英二(後に特撮の神様といわれゴジラやウルトラマンをつくった)「ホリゾント法に拠るセツテングの研究(1)」

1938年1月8日『琉球新報』ベス・ブラツト「祖父と私と沖縄」/比嘉景常「猛虎之図(小橋川朝安)」



2011年3月4日ー4月20日「𤘩宮城昇の写した世界」那覇市歴史博物館

1909年ー『スバル』森鴎外「未来派宣言」

1920年12月ー柳田国男13日より沖縄の旅に出る


1919年9月ー『鹿児島新聞』で「古き薩琉親善の家門」として𤘩宮城家当主の宗倫が紹介され「宮城宗倫といって、長崎医専の出身で、今は薬種商を営み(略)訪古採訪の客を請じてその家譜や在番奉行請待の客室や、当時薩藩の名士よりもらい受けたる書簡、刀剣、茶器等を一切開放して閲覧せしむるー」と出て一般に家宝を公開していることがわかる。下の写真は𤘩宮城宗倫を中心に左に真境名安興、右に冨名腰義珍も見える。

1931年ー𤘩宮城昇、那覇に「昇スタヂオ」開業7

1932年ー昇スタヂオで豊平勝子(のちの山里永吉夫人)、グシ宮城昇、大山一雄

1932年8月『フオトタイムス』宮城昇「低気圧ースタヂオを建ててしまった。未だ半年にしかならないのに、この猛烈な風に会い、写場の壁紙の北側は台無しになった。北風のすごい事は知っていたが、しかしスタヂオのスラントも北向きが良いとは皮肉だった。(略)少なくとも、写真に対する人心の覚醒をする為には、我々の低気圧を必要とする土地、那覇である。」/圓谷英二(後に特撮の神様といわれゴジラやウルトラマンをつくった)「ホリゾント法に拠るセツテングの研究(1)」




映画「オヤケアカハチ」制作・東京発声映画製作所/配給・東宝映画/監督・重宗務、豊田四郎/脚本・八田尚之/原作・伊波南哲/撮影・小倉金弥/音楽・大村能章/美術・河野鷹思/録音・奥津武/出演・大日方伝、藤井貢、三井秀男、市川春代、山口勇
写真ー上右から八木明徳、3人目・山城正樹、13人目・山田有登、田代タカ子、玉城盛重、17人目・護得久朝章、19人目・上間朝久、渡口政興、22人目・國場世保、23人目・仲嶺盛竹。中列左端・山田有昴、3人目・奥津。前列左から4人目・藤井貢、監督、8人目・大日方伝、高江洲康享、上間郁子



1939年5月ー『月刊民藝』□日本民藝協会同人 琉球日記ー3月28日、夕刻5時織の仕事について親切な配慮をして下さる工藝(業)指導所長安谷至(屋)氏の来訪を受けて色々打合せをした。比嘉景常氏、山里氏、平野学務課長等の来訪もあって、琉球の家最初の夕食は、喜久山一家の手になる琉球風な料理である。食後再度街の方へいろんな買物に行く。蛙の鳴く夜を蚊帳をつって眠る。

1939年7月ー『月刊民藝』□日本民藝同人 琉球日記ー4月14日、朝8時県庁から廻された車で国頭に向う。運転は正月の柳の時と同じ、柳沢君(奄美大島で運転手をしていた)。一行は柳、河井、濱田、外村、写真の宮城昇君の5人である。

1939年8月ー『月刊民藝』□日本民藝同人 琉球日記ー4月17日、豫々待望の久米島行の日。外村、田中、岡村の3人は留守番と決定。朝10時那覇の港を出づ。安谷屋所長、久米島出身の濱川昌俊県会議員等の見送りをうく。宮古丸、同行者河井、濱田、芹沢、柳、悦孝の5名、それに吾等のよき友喜久山添采氏、写真師として宮城昇氏病をおして一行に加わる。久米紬同業組合長・比嘉文貞氏も幸い同船。 4月20日、宮城氏撮影に多忙なりー  

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発行所・戦争と平和を考える詩の会□〒143-0016大田区大森北1-23-11 甲田四郎(電話03-3761-8454

麦朝夫「年月日」□津波にも耐える民よ/平成も二七(にな)え年号/五三(ゴーサイン)と目暗ますライトの下/純な新人たちで血まつり 粋な米軍と集団で/さっさと沖縄の海などえぐって差し出し/泣けるヤス国目ざし また演れば どうなるか/どう日々が 肉片となって吹っ飛ぶか

堀場清子「ひとごと民主主義 わがことの民主主義」□(略)小笠原諸島の赤珊瑚を/中国の密漁船が根こそぎしても/海上保安庁は 一隻しか巡視船を出さなかった/辺野古の海には 五隻の巡視船が居座る (略)沖縄の痛みを わが痛みとし/フクシマの痛みを わが痛みとし/ヒロシマ・ナガサキの痛みを わが痛みとし/戦争で無駄に殺傷された万人の怨念を わが怨みとし/格差社会に潰される子供の貧困へ 手を差し伸べねば/わがことの民主主義には 到り着けない

芝憲子「きょうの空模様ー能天気予報士」□南方海上で台風五五号が発生しました/目の中でジローさんが「おちます おちます」/台風は進路を北に取り/オールオキナワからオールジャパン/オール地球に発達するもようです/九〇〇ミリオバアで 大型 強力 お茶をのみます/スーパー台風 海上も会議場も大荒れ/辺野古の工事を吹き飛ばし 戦争法案を吹き飛ばし /日米両政府に大きな損害をあたえるでしょう/それではきょうも何か良いことがありますように/偏向のNHKが御見送りしました わたしのクビもこれで飛びます オキナワの二新聞社どうか拾ってください

金 水善「クレオパトラの泪」□(略)青くて 美しい地球の上/人類の歴史に/黒い線で/くっきりと/《意に反して 従軍慰安婦にさせられた乙女たちがいた》と刻みこまれた

ゆきなかすみお「理路不整然社会」□昨年十二月の総選挙、自民党は24%の得票で77%の議席を獲得。/70%以上の国民は自民党に投票していない!/いわば、死票の山が今の衆議院、参議院。/アホらし屋のカネが鳴ーる!

江部俊夫「右折は禁止です」□(略)どこかの国は喜んで/一緒に戦争ごっこをしています/その先にはゴッコではない/死が待っています

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沖縄/向かって左から山田有邦、川平朝申、有馬潤①、名渡山愛順、志垣新太郎、仲間武雄(樹緑会1924年夏)
有馬潤(1906年10月18日~1945年5月8日)
1924年ー9月、岩崎卓爾、文芸同人結社セブン社を主宰、同人誌『せぶん』を創刊。本山桂川、民俗採集で来島、卓爾のすすめに応じて与那国島踏査に赴く→1925年『南島情趣』『与那国島図誌』『与那国島誌』刊行。
1925年7月ー『詩之家』創刊(詩及詩歌研究誌)
1926年11月 『沖縄教育』□新屋敷幸繁「人生詞花集(その1)」 池宮城美登子「母となれば」 國吉眞哲「久米島日記抄」宮里静湖「校長の印象(2)」 桃原思石「秋の感覚」 糸数三武郎「手紙の一節」 神山康一郎「石工」 夕雁庵「雑詠」 新島政之助「鷹渡る日に」 牛島軍平①「一筋の道」 川俣和②「平原の」


①1978年4月 前川幸雄 編『ここにも一人門弟子がー折口信夫と牛島軍平ー』/写真左から伊原宇三郎、牛島軍平、萩原雄祐 前中央が柳田國男〇牛島略歴ー1924年10月、沖縄県立第二中学校教諭。折口信夫から伊波普猷、末吉安恭への紹介状をもらう。末吉が『沖縄タイムス』に「郷土研究者牛島軍平来る」と報じたので牛島は「気恥ずかしい思いをする」。


②1973年11月 川俣和『歌集 牧歌』(くぐい叢書28篇)〇今年は折口信夫先生が亡くなられて20年目に当たり、各方面で記念のお祀りや出版が行われました。私もこの貧しい歌集を先生の御前にうやうやしく捧げて、私の日頃の怠慢をおわび申し上げたいと思います。/1965年8月17日『沖縄タイムス』川俣和「沖縄で見た”日本„」
 
1926年12月 『南鵬』第二巻第一号 □山之口貘「莨-ニヒリストへの贈物ー」 國吉灰雨「風景短章」 
1927年2月 慶世村恒任『宮古史伝』南島史蹟保存会

1927年5月 『セブン』國吉灰雨「八重山嶋模型図の一部」
1927年7月 『珊瑚礁』第三号 □山里永吉「表紙」 仲泊良夫「夜のメカニスト」 比嘉時君洞「白雲去来」 スナオ・ヤマキ「二つの事実」
1927年12月 慶世村恒任『註釈曲譜附 宮古民謡集 第一輯』南島史蹟保存会

1930年1月ー『詩之家』第6年1月号 伊波南哲「かへり咲き」「老子降誕批評」□詩之家友の住所ー菊池亮 富山県氷見町/山口芳光 那覇市上ノ蔵2ノ3/伊波南哲 東京市外中野新町3777/金城亀千代 福岡県遠賀郡折尾町/津嘉山一穂 東京・本郷・元町2ノ66岡本方/有馬潤 那覇市上泉町1ノ51
1930年2月ー『詩之家』第6年2号 伊波南哲「毀された腕時計」
1930年3月ー『詩之家』第6年3号 伊波南哲「詩篇・東京駅」「雑藁・詩人よ詩をつくれ」
1930年4月ー『詩之家』第6年4号 伊波南哲「アスフアルトから拾った詩」「詩之家3月号批評」
1930年5月ー『詩之家』第6年5号 伊波南哲「芸術の共感性」「泥濠に花咲くもの」「虜囚批評・著者へ」
1930年6月ー『詩之家』第6年6号 伊波南哲「詩篇・狂へる太鼓」「七つの顔批評/『七つの顔』著者へ」
1930年7月ー『詩之家』第6年7号 伊波南哲「『虐待される街』と藤村端③」「越智弾政④の飛躍性」「反駁・感想・岩田潔君に与ふ」③【藤村 端】『虐待される街』1930/詩之家(川崎)/131pフジムラ タン【藤村 端】『藤村端詩集(遺稿詩集)』1933/詩之家
④越智弾政 おちただまさ(1908-1945)
福岡県遠賀郡八幡町(現、北九州市八幡東区)生まれ。旧制八幡中学校を卒業後、四国、瀬戸内海、日本海側を一年余り放浪。東洋大学文学部国文科卒業。在学中に佐藤惣之助の「詩之家」に参加、1930年 第1詩集『波止場での殺意』を刊行。帰郷後は市役所勤務を経て、小学校、高等女学校、工業学校等で教鞭をとった。八幡で八幡詩人協会を結成する。岡田武雄と「八幡船(ばはんせん)」を発行。また「季節の肌着」「北九州詩人」等にも参加した。1944年に再召集され翌年にフィリピンのルソン島で戦死。『応召前後』まで 8冊の詩集がある。→「現代詩大事典」

1930年8月ー『詩之家』第6年8号 伊波南哲「詩篇・失業」、岩田潔「伊波君に答へる」
1930年9月ー『詩之家』第6年9号 伊波南哲「詩篇・呑気な奴のことだ」「白痴無用論」
1930年10月ー伊波南哲『詩集・銅鑼の憂鬱』詩之家出版部
1930年11月ー『詩之家』第6年11月号 伊波南哲「山口芳光氏を憶ふ」「霜害警報批評③/詩集霜害警報について」
③『霜害警報 : 詩集』著 清水房之丞, 1903-1964 詩之家出版部1930

1931年1月ー『詩之家』第7年1号 伊波南哲「獣族美学批評/獣族美学に就いて」、越智弾政「『銅鑼の憂鬱』の会ー11月28日午後6時より省線万世橋駅前松木家にて開催(大宜味朝徳も参加)
1931年2月ー『詩之家』第7年2号 伊波南哲「詩篇・黎明」
1931年3月ー『詩之家』第7年3号 伊波南哲「詩篇・電気時計」
1931年4月ー『詩之家』第7年4号 伊波南哲「詩集『無機物廣場』に就いて」「感想・詩之家3月号批判」
沖縄/1931年4月 有馬潤『詩集・ひなた』青山書店

○有馬潤・口絵「蛇皮線を持つ女」
○ひなた、他九篇
ひなたー陽の きらきら する/ぬくい/えんがわにすわって/母とはなしてゐると、/なんにも/ほしいとはおもはない。
○佛さま、他十篇
佛さまーお母あさんが/ぶつだんの前にすわって/なにかお祈りして いらっしゃる/ほとけさまは/きっと 願ひをかなえてくださると おもふ。
○母と子、他八篇
○佐藤惣之助「序」/菊地亮「跋」/伊波南哲「跋」


1931年5月ー『詩之家』第7年5号 伊波南哲「詩篇・唐手」「詩集『ひなた』に就いて」
1931年6月ー『詩之家』第7年6号 伊波南哲「批評・動的意志力としての芸術」「民謡調『蒙古十月』に就いて」
1932年1月ー『詩之家』終刊号(通巻78冊)
 
沖縄/ 1933年5月 『詩誌 闘魚』第壹輯 カット・装・ジュン/那覇市上泉町2-51
 闘魚消息ー 山之口貘・東京芝区西久保廣町36田中四郎方/菊池亮・京都市左京区下鴨上川原町11へ移住/國吉眞善・東京市浅草区山谷町4ノ5/伊波南哲・東京市淀橋区淀橋643へ転居/與儀二郎・4月29日出覇。現住 国頭名護町字名護81,8/イケイ雅・島尻郡伊是名校勤務/松山晴児・首里当蔵町2ノ23仲里方。

沖縄/ 1933年7月 『詩誌 闘魚』第貮輯 カット・装・ジュン
 仲泊良夫「抽象の魔術ー(略)言語は残酷な死刑執行人である。私は自分の書きたいと思う事を書いていない。脳髄を全部露出することは醜悪なる猿である。創造を現実的に考えることは私には不可能である。凡ての現実は凡ての箴言に過ぎない。私は箴言を信じないように精神を信じない。抽象を精神的に考える人間は浪漫的な猫に過ぎない。抽象は異常なる砂漠の花に等しい。抽象は夢想ではない。私は私の創造に就ては極端に孤独なタングステン電球である。人間の馬鹿げた文學活動それはインク瓶をさげた犬の活動にすぎない。どうして諸兄は対象に向かって本能的批判をするのか。詩人のスタイルは本能の鎖をたちきった時に開くバラである。・・・」

闘魚消息ー 山之口貘氏・通信は東京市本所区東両国4ノ56吉川政雄気付/與儀二郎氏・6月10日出覇/仲泊良夫氏・島尻郡与那原2080/比嘉時君洞氏・6月初め久米島より出覇/泉國夕照氏・5月下旬退院/山里永吉氏・『戯曲集』新星堂書房より近く刊行さる、目下印刷中/國吉眞善氏・第参輯より闘魚同人加盟/イケイ雅氏・病気療養中。

沖縄/1933年9月 『詩誌 闘魚』第参輯 カット・装・ジュン
仲泊良夫「世界の創造ー或ひは観念への革命ー乾燥した時間に於て生誕する救世主/循環する世界それは革命する世界である/透明な詩人の純粋の夢/海底の少女と海底の美少年の戦争」 
  馬天居士『おらが唄』石敢當社(豊見城高良)ー著者馬天居士氏は、ゴミゴミした都会に住んでいる人ではない。そして世に謂う文藝人ではない。氏はあくまでも土に生きる人であり、野に遊ぶ人である。この”おらが唄〝の一巻を愛誦してみたまえ。俳句あり、川柳あり、短歌あり、そして軍歌あり、更に琵琶歌がある。だがそれらの作品はわれわれに何を考えさせるか。われわれは文藝意識に縛られている自分らのいぢけた存在をふりかえってにるにちがいない。それだけにおらが唄の一巻は、野性的な香りを放ち、自由な奔放さに流れ、また一面には辛辣すぎる皮肉さがある。社会のあらゆる階級的の上に端座したる馬天居士氏の八方睨みの静けさを愛する。

  闘魚消息ー 與儀二郎氏・7月御祖母死去謹んで哀悼を表す/ 外山陽彦氏・島尻郡久米島仲里村役場気付/新屋敷幸繁・8月10日帰省。8月28日上鹿/南青海氏・与那原216/宮里靜湖氏・島尻郡久米島仲里校/川野逸歩氏・島尻郡具志川村役場/伊波南哲氏・東京市淀橋区淀橋643/志良堂埋木氏・朝日新聞社主催の文芸懇談会を風月樓にて7月22日開催す/イケイ雅氏・休暇中は中頭郡与那城村字饒邊3へ滞在/山里永吉氏・『山里永吉集』出づ大衆小説「心中した琉球王」文芸春秋社オール読物号8月号へ所載。

沖縄/ 1933年11月 『詩誌 闘魚』第四輯 カット・装・ジュン
  闘魚消息ー與儀二郎氏・名護町字名護801山入端方へ転居/宮良高夫氏・現在沖縄日報社内/花城具志氏・闘魚社内気付/外山陽彦氏・土木工事多忙の為休稿/有馬潤氏・菓子店「ひなた屋」開業/原神青醉・歌誌「みちしほ」編輯せる氏は同誌一周年紀念号発刊に際し原神青醉歌集を近刊/山里永吉氏・「永吉集」好評。9月上旬 幸楽亭に於いて刊行祝賀会。出席者50名盛況


写真1935年頃辻ー後列右からー山里永吉、仲泊良夫 前列中央が松田枕流(賀哲の弟)

1939年4月ー日劇ダンシングチームによる「琉球レビュー」原作・伊波南哲
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東恩納家系図

東恩納寛惇自筆履歴書


公的機関が作成した東恩納寛惇の経歴書


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写真上右ー1901年1月4日東京神田小川町・写真館美影堂(中村董)で沖縄中学校の同級生たち前の右から東恩納寛惇、崎浜秀主、国吉真徳、伊波興旺、後列右から赤嶺武太、小嶺幸慶、与那覇政敷。

写真中ー福州において東恩納寛惇が発見した5代目祖先の墓碑。その右ー1901年5月13日熊本市下通町上村嘉久次郎・写真裏に「地上の友なる国吉真徳大兄へー寛惇」

写真下ー1933年12月に東恩納寛惇が安南および福建より持ち帰った三味線、昭和会館に寄贈した。(1)ヤマト、(2)琉球、(3)安南、(4)安南


1933年12月ー東恩納寛惇は一中時代の同級生の比嘉盛珍(元内務省土木技師)、島袋慶福(陸軍少尉)、漢那憲英(海外協会)、崎浜秀主(商校長)、糸数青盛(那覇市税務課)、及び旧友の照屋那覇市長、島袋二高女校長、志喜屋二中校長、胡屋一中校長、當間那覇市助役、城間恒淳、千原成悟、山田有登、古波倉博士、新嘉喜倫篤らの諸氏と、久米蔡氏堂に立ち寄り仲良くカメラに収まって後、波の上医院のよ平名さんの案内で那覇でも1,2位を争うという自慢のよ平名家の庭で談話に耽った。


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寛惇が『童景集』を瀬長佳奈と甥の鈴木亨に贈ったもの。

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1921年3月ー鎌倉芳太郎、東京美術学校図画師範科を卒業。奈良古美術見学。唐招提寺で開山鑑真和上が「阿児奈波」に漂着したことを知る。4月、文部省より沖縄県に出向を命ぜられ、沖縄県女子師範学校教諭兼沖縄県立高等女学校教諭に任ぜられる。/東京美術学校同期には米須秀亀(西洋画科)、野津唯尹(日本画科)が居た。翌年には我部政達、嘉数能愛、平田善吉、古謝景明が居た。


佐藤惣之助
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佐藤惣之助 さとう-そうのすけ
1890-1942 大正-昭和時代前期の詩人。
明治23年12月3日生まれ。佐藤紅緑(こうろく)に俳句をまなぶ。千家元麿(せんげ-もとまろ)らとまじわり,詩作に転じ,第1詩集「正義の兜(かぶと)」などを刊行。大正14年詩誌「詩之家」を創刊。また随筆,釣りの本をかき,歌謡曲「赤城(あかぎ)の子守唄(うた)」「人生劇場」などを作詞した。昭和17年5月15日死去。53歳。神奈川県出身。(→コトバンク)

佐藤惣之助年譜
1922年
3月ー詩誌『嵐』を千家元麿、陶山篤太郎、後藤大治らと創刊。
5月31日ー横浜より大洋丸で出帆、沖縄、台湾への旅にたつ。
6月1日ー神戸上陸、芦屋の富田砕花(不在)宅で百田宗治と会う。
6月3日ー長崎に下船、崇福寺、木蓮寺、丸山見物。
6月5日ー三角、熊本、鹿児島泊。
6月7日ー正吉丸、天候不良で出航延期。
6月8日ー鹿児島出帆。
6月9日ー奄美大島名瀬に上陸、夜、暴風をついて那覇へ向かう。那覇で3週間。その間、慶良間、石垣島へ渡る。帰路は基隆へ渡る。□1959年5月1日ー『琉球新報』山里永吉「沖縄の佐藤さんー古い風物につながる思い出ー佐藤惣之助さんが沖縄入りしたのは大正11年、たしか若夏の候だったと憶えている。当時佐藤さんは詩誌『嵐』を主宰し、詩集も矢つぎばや・・・と云っていいくらい出版されて、名声トミにあがっていたが、沖縄にはこれといった知人がなく、『嵐』の愛読者で、私の親しい友だった伊波普哲君(伊波普猷先生の甥)に連絡をとっての、未知の島訪問だった。


伊波普哲のハガキ
それで、その頃、中学を出るか出ないくらいのニキビ少年だった私と普哲君は、つれだって那覇の港に出迎えに出かけたわけだが、このヤマトの詩人先生には、のっけから度肝をぬかされたことだった。まずそのイデタチ。当時は珍しいヘルメットに半ズボン、それにストッキング・・・という扮装は、まるでアフリカ探検にでも出陣してきたようで、おかしいよりも少年たちの目をびっくりさせる方がつよかった。

そして第二のびっくりは、それから何日かしてきた、その頃県立図書館館長だった伊波普猷先生らの取計らいで、辻町の音羽楼で「佐藤惣之助先生歓迎会」が催されることになった。参席者は山城正忠、渡口政興さんら当時の文学青年が主で7,8人も集まったろうか。とにかくそのときの会では古波鮫漂雁さんが出した名刺に(略)。

先夜、せっかくの辻にのぼりながら、あっさり散会となった後味の物足らなさに、一旦旅館にかえった佐藤さんは再び人力車を駆って辻入城・・・といったいきさつ。しかも『けさ目をさましてみるとだね、色の黒い脛をドタンとぼくの腹にのっけて、グウグウ寝ているんだ。何て愉快じゃないかキミ!』(略)その辻の女性と共に波之上通り裏のゴミゴミしたところに住居をみつけて、沖縄の生活にひたっている風だった。
1922年10月ー『日本詩人』佐藤惣之助「八重山情詞」
□1 楽聖アカイヌコ 琉歌・・・歌の蛇皮線のむかしはじまりやいんこねあがりの神のみさく(作田ふし)

」船子よ、娘らよ今宵こそ/むかしうつくしき若者アカイヌコを/星座の篝火きよけき空や/蒲葵の扇の下風に捕えてよ/蛇皮線かたげ、島々よ流れありき/われらの神ようたい、航海ようたい/王と英雄と娘らとをうたひへし/島の聖歌の月夜たまこがねや捕へてよ/今宵若夏の祭踊りつ皆そろて/むかしからのおもろのふしや唄ひ盛り

(略)