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Posted by: ryubun02

1961年7月 ジョン・ガンサー 三浦朱門 訳『頭の回転=マスコミ最大の成功者の物語=』新潮社

1964年12月7日、カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay,)勲一等旭日大綬章を入間基地で浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は、浦茂幕僚長がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査、審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。推薦は防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名で行われる。→ウィキ

1965年4月 『思想の科学』№37<特集・日本の黒幕>思想の科学社

丸山邦男〇占領期の黒幕ー「総指令部は、日本の国内政治の運営を実際に支配しているわけではない。わたしがきいた、あるアメリカ人の話によると、日本には、今日でもなお<日本地下政府>が存在しているということだった・・・・」。これは1951年に出版されたJ・ガンサーの『マッカーサーの謎』(木下・安保共訳)に出てくる一節である。占領下の日本の政治を直接間接にコントロールしたものはGHQだが、占領期間中の重要な時期あるいは事件に関連する政治にたいして、最高責任を負った代表的人物といえば、いうまでもなく吉田茂の名を挙げられる。

神島二郎〇日本の黒幕序論ー(前略)今後の黒幕は、ヒトや限られた党派を操る黒幕ではなくて、大衆だとか経済構造を操作できるブレーンという形が」、重要になるのではないか。操作というのは、権謀術数でだますというのとは違って、大衆のイメージに合わせて、政治をつくってゆくということだし、そういうことの専門家が政治に参画しだしているということは、新しい問題だね。

1965年8月 大野達三『アメリカから来たスパイたち』新日本出版社□図ー「連合軍総司令部機構」「G2・CIC関係図」「」
1965年6月11日 読谷村喜名小学校5年生の棚原隆子さんが自宅前で米軍演習トレーラーが空から落下し圧死した。
1965年12月 『守礼の光』「実現間近い家庭用原子力発電」

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1966年5月25日、アメリカの作家ジョン・トーランド、とし子夫人と来沖□5月30日『沖縄タイムス』「作家トーランド氏の講演・生きた歴史を強調」
1966年5月ー『オキナワグラフ』「ハワイだよりー髙江洲敏子さん」
1966年10月 『守礼の光』坂本万七「写真・伊藤若冲」
1967年3月  『守礼の光』せそこ・ちずえ「琉球昔話 空を飛ぼうとした男(安里周当)」、比屋根忠彦「久高島のイザイホー」
1967年6月 カール・ヨネダ『在米日本人労働者の歴史』新日本出版社□塩田庄兵衛・中林賢二郎「序ーアメリカ合衆国は、もともといわば移民によってきずきあげられた国であるが、ヨーロッパの先進資本主義国から渡航して新しい国の主人公となった白人と、アジアを中心とする『後進地域』から渡航した移民との間には、人種差別という形をとった差別待遇がはっきりみられた。そのなかで日本人は、中国人、朝鮮人などとともに、低賃金労働者として下積みの扱いをうけた黄色人種であった。わが同胞は、アメリカ西部とハワイの農園・鉱山・鉄道・森林・漁場にその労働力をそそぎこみ、今日のアメリカ独占資本主義の富の少なからぬ部分をつくり出した。今日のアメリカの富について考えるばあい、中国人・朝鮮人などとともに、日本人が流した血と汗と涙を無視することはできないのである。・・・・」
1967年12月  『守礼の光』「5年後に110階建て 世界貿易センター出現」

1968年2月  『守礼の光』「現代にも呼びかけるエイブラハム・リンカーンのことば」「アジア地区米陸軍特殊活動隊 粟国・渡名喜両島で奉仕活動」「原子力科学者が語る未来の原子力『食品工場』」
1968年4月  『守礼の光』ジョン・A・バーンズ(ハワイ知事)「琉球の文化的姉妹島ハワイ」

1968年

沖縄100万の叫び―嬉野京子写真集 (1968年) →菅原恭正ブログ2016-4-27:【第1660回】

1969年 アメリカ国防省がコンピュータネットワークの実験(UCLA、ユタ大学などを「ARPANET」)で連結に成功
1969年5月  『守礼の光』宮国信栄」「放射能はどこまで人体に安全か」
1969年7月  朝日新聞西部本社企画部『原爆展』(主催・広島市・長崎市・朝日新聞社)

1969年8月  『守礼の光』「四か国で開発中の原子力商船」


1969年8月 E・ライオンズ/高橋達男 訳『世界の企業家=3 電子工業のパイオニア サーノフ』河出書房新社→デビッド サーノフ1891.2.271971.12.12  米国の無線技術者,実業家。元・RCA社長。ロシア生まれ。1900年にアメリカに移住し、’06年RCAの前進であるマルコニー社に入り、’12年電信技士、’18年検査主任、主任技師となる。同年RCAを設立し、’21年総支配人を経て、’25年副社長、’30年社長となる。アメリカテレビの先駆者として知られ、第二次大戦中は、通信隊顧問として活躍した事もある。→コトバンク
1969年9月  『守礼の光』「フィリピンの発展に役だつ原子力」「コンピューター しくみと働き」

1969年10月  『守礼の光』「宇宙にかける人類の冒険」「期待される放射線」「巨人ジェット機(ボーイング747)の登場」

1972年  ビル・トッテン(1941年米カリフォルニア州に生まれ) トッテンを含む社員6名で、その製品名にちなんだ日本初のパッケージ・ソフトウェア販売専門会社「アシスト」資本金100万円で設立。代表取締役就任 ○2012年8月 『会社四季報 10年後 浮かぶ業界 沈む業界』ビル・トッテン○たとえば、今の農業は1㌍の食料を作るのに10㌍の石油を消費している。農薬は石油から作られているし、機械を動かしたり、食料を輸送するのにも石油を使う。肉だったら1㌍のために20㌍。今の米国や日本のような経済を維持しようと思ったら、地球があと4つは必要になる。もちろん、そんなことは不可能だ。インターネットだって、ものすごくエネルギーを食っている。グーグルは30数カ所のデータセンターを持っているが、一つのデータセンターが消費する電力は10万世帯分。ネットが消費するエネルギーは膨大で、石油に限界がある以上、ネットの成長も終わる可能性がある。

1972年9月に沖縄キリスト教協議会(比嘉盛仁)から『沖縄キリスト教史料』が発行されている。中に植村正久先生来島記念(1923年)やベッテルハイム記念碑除幕式(1926年)の写真がある。前記には新垣信一、大城カメ、比嘉盛仁、比嘉盛久、久場政用、眞栄田義見ら、後記には島袋源一郎、岸本賀昌、知花朝章、志喜屋孝信、佐久原好伝、アール・ブールらが写っている。

1972年11月 『断悪ー原爆被爆者救援のための実体験の記録』沖縄県原爆被爆者協議会 
1973年4月7日 『沖縄タイムス』「海洋博を点検する<21>肥大する三次産業 大阪万博倒産の教訓生かせ 陸は観光スラム 海は石油汚染」
1973年5月15日 『日本経済新聞』「第二部 沖縄特集ー珊瑚礁に夢結ぶ海洋博’75」
1974年1月『基地情報』第4号 基地対策全国連絡会議「国民主権を侵害するもの」/2月『基地情報』第5号「沖縄基地調査特集」

1974年1月 レイチェル・カーソン/青樹簗一 訳『沈黙の春ー生と死の妙薬ー』新潮文庫→レイチェル・カーソン日本協会ー組織運営をめぐり、発足から20年が経過するなかで、組織のリフレッシュをはかる必要性が指摘されることが増えてきた。総会、理事会で「日本協会の今後の在り方」をめぐり意見交換を深めた結果、2008年3月15日、特定非営利活動法人格を返上するための「解散総会」を持つと共に、当面、関東フォーラム、関西フォーラムを拠点にした「ゆるやかなネットワーク組織」としてレイチェル・カーソン日本協会が再発足した。
1975年4月4日  ビル・ゲイツ氏とポール・アレン氏らによってMicrosoft(現在の本社所在地ーワシントン州 レドモンド)が設立された。



1975年2月 『沖縄の米軍基地』沖縄県渉外部基地渉外課

1975年5月23日 『毎日グラフ』「緊急増刊 勝利した解放戦線」
1975年6月14日 『沖縄タイムス』「原子力と人間<1>核ジャックの恐怖 プルトニウム放射能半減期2万4千年」
1975年8月15日 『週刊読売』「臨時増刊 日本人の戦歴ーソ連側撮影 シベリアの日本兵捕虜」
1975年9月15日 『朝日ジャーナル』「あなたは核兵器を知っているかー1945年7月16日午前5時30分、人類初の原爆、プルトニウム爆弾が実験された実験の暗号名は「トリニティ」(三位一体) アラモゴルドの砂漠の中に記念碑が立っている/米ニューメキシコ州アルバカーキー市に、国立アトミック博物館がある。」

1976年、スティーブ・ウォズニアックがApple Iを製作。これを見たスティーブ・ジョブズは、新しいビジネスになると考え、1977年スティーブ・ウォズニアックと共にApple社(現在の本社所在地ーカリフォルニア州クパチーノ)を設立した。その後発売したApple IIは表計算ソフトVisiCalcと共に大ヒットとなり、これまで一部のマニアのおもちゃでしかなかった「パソコン」が仕事にも使える道具だということが分かり、パソコン市場が出来上がった。→はてなキーワード 📖2012年7月『徹底解析!!アップルvsグーグル』洋泉社

1976年4月17日『週刊ピーナツ』「追跡 巣鴨プリズンからのCIAヒモつき出所全リスト 岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、他」
1976年5月15日、沖縄ハワイ協会(仲村亀助会長)主催「アメリカ建国200年祭」が那覇市内パシフィックホテルで開催、ノールズ在沖米国総領事夫妻、平良那覇市長らが招かれる。与世盛智郎が挨拶。→与世盛智郎『沖縄仏教読本』(久米島本願寺1976年5月)「戦後、沖縄の世替わりに際し、進駐軍が、アメリカ建国の精神にのっとって宗教政策を重視して、沖縄の寺院に活を入れ、その活動に力をかしていたら民主主義も不消化とならず、従来の守礼の邦の美風を堅持し、一部にある反米思想も起きなかったと思われます」。

1976年6月 『三悪政治とCIA』日本共産党中央委員会出版局→三悪政治(戦犯・金権・売国)ー松川事件、下山事件をめぐるCIAへの疑惑といい、自民党をはじめとする反共政党とCIAの関係といい、今後白日のもとにさらさなければならないことが、あまりにもたくさんあります。

安倍晋三、1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、その後イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った。秋に南カリフォルニア大学への入学許可が出され、1978年から1979年まで政治学を学んだ。

横浜・米軍機墜落事故
1977年9月27日午後1時すぎ、厚木基地を飛び立った米軍のファントム偵察機が横浜市緑区(現・青葉区)の住宅地に墜落した。土志田勇さんの娘、和枝さん(当時26)の息子の裕一郎君(3)と康弘君(1)が翌日未明に相次いで死亡。和枝さんも重度のやけどを負い、闘病生活の末、4年4カ月後に亡くなった。勇さんは、和枝さんの遺志を継いで社会福祉法人を設立。「和枝園」と名付けたハーブ園も開くなど「社会への恩返し」を続けている。


1979年1月 ジェームズ・マッキンレー著/和田敏彦・訳『アメリカ暗殺の歴史』集英社
○アメリカにはじめて移民たちが着いたとき、彼らはここに将来を決する二つのものを持ち込んだ。一つは自分たちが祝福された民であるという神がかり的な夢であり、もう一つは銃である。彼らは艱難に耐えていくためにはこの夢が、またこの夢を新世界に押しつけるには銃が必要だと信じていた。彼らは聖者と銃弾、それに狡猾な取引でこの夢を広めていったから、彼らは間違ってはいなかった。そして彼らが正しかったことは、百六十九年後に独立宣言の署名によって証明された。あの日、市民は家に駆け込むなり、銃を取り、まず祝砲で、ついでアメリカ革命でアメリカの夢を永久的に確認した。・・・・・



1979年3月 『沖縄の米軍基地』(表紙写真・国吉和夫)沖縄県渉外部基地渉外課

1979年、祖父新一郎に代わって、孫である現店主天牛高志が、 まだほとんど商店がなかった大阪心斎橋西のアメリカ村に、90坪の天牛書店新店舗を開きました。元々は駐車場であった建物を改装し、むき出しの鉄骨の梁、本棚は赤く塗装し、自動販売機を置いた休憩スペースを設け、古くから敷地にあった稲荷祠はそのまま店内に残すなどといった、従来の古本屋のイメージを一新する店作りに挑戦したアメリカ村店は、新しい感覚が若いお客様にもご好評をいただき連日の盛況となります。 しかし、時代の流れとともにアメリカ村が賑やかなファッションの街へと変貌し、古書を売る

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Posted by: ryubun02
 1940年1月、在米沖縄県人会『琉球』7号□幸地新政「太平洋の危機と在米同胞ー第一次世界大戦の終わりと共に、来るべき世界制覇の舞台は、周知の如く太平洋に移動したのである。(略)若し、日米間に万一のことがあれば、その直接の発火点は疑いもなく蘭印問題であろう。(略)米国政府は1939年7月26日に日本政府に向かって日米通商航海条約の廃止を通告した。これは日支事変に対する米国の日本への抗議の一形態であり、さらに軍需品禁輸断行の事前工作である。米国にも日米開戦論があると同時に又、日米非戦論即ち日米親善論も決して侮るべからざるものを内包している」

アメリカ合衆国ワシントン州のタコマナローズ海峡に架かるつり橋で、1940年11月7日に強風の共振による影響で崩落しました。(いちらん屋)

1941年7月、フランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)行政命令でCOI(情報調整局)設置。ウィリアム・ドノバン(アイルランド系)長官→1942年6月、大統領行政命令でCOIが廃止、OSS(戦略事務局)設置。ウィリアム・ドノバン長官
1941年、第二次大戦勃発と同時に、アメリカ政府によって、日系人11万人余は永年住みなれた家を追い立てられるように着のみ着のまま家族と共に僻地に設けられた10ヶ所の収容所に送られた。(アリゾナ州のボストン収容所とギラ収容所、アーカンサス州のジェローム収容所とロワ収容所、ユタ州のトバズ収容所、コロラド州のグラナダ収容所、ワイオミング州のハートマウンテン収容所、アイダホ州のミネドカ収容所、カリフォルニア州のツールレイク収容所とマンザナー収容所)。この日系人の収容にあたってはドイツのユダヤ人検索同様にIBMの機械が活躍した。

□731部隊 - Wikipediaja
初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。 満州に拠点をおいて、防疫給水米軍 (GHQ)との取引 [編集]終戦時に特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。

原子力ー1942年12月2日、最初の自律核連鎖反応ーこれが原子力の鍵であるーが、イリイノ州シカゴのウラニウム炉の中で発生した。これは、人類の幸福のために発展せしめ得る巨大な力の新しい源であった。第二次世界大戦の終結の時、合衆国は、この原子エネルギーの平和的利用に関する計画を国内及び海外において進展させるための方法を研究し始めた。(以下略)



 沖縄の新聞報道によると、日本に居る米軍幹部に日本政府は「日本を護ってくれて有難う」という意味なのか勲章を贈っているという。かつて日本を空襲で焼き払ったルメーに勲一等旭日大綬章を贈った話はネット上に飛び交っているが今でも勲章を贈っていたことに疑問を持つ。ルメーは1945年に日本占領は「百年間続く」とほざいた。たしかに日本の現実はアメリカの属国と化している。『アメリカの属国で悪いか』という本も出て居直る性質の悪いのも居る。今年は敗戦70年。「敗戦後100年」は無いと思うが、そのアメリカ占領100年を目指そうとしている安倍麻生自公政権は辺野古新基地をつくり、嘗てルメーが言った米軍の日本占領は百年続くことを実現しようと試みる。大多数の日本国民もそれを支持している。(2015-1記)


2001年1月 『マッカーサーの日本占領』世界文化社

アメリカ軍統治下の「オキナワ」1945年
1945年3月26日 アメリカ軍、慶良間諸島に上陸開始(~28)/島民の「集団自決」あいつぐ
1945年4月1日 アメリカ軍、北谷村嘉手納の渡具知浜に上陸
1945年4月2日 読谷村チビチリガマで住民の「集団自決」おこる。村内数ヶ所でもあいつぐ
1945年4月5日 アメリカ海軍、読谷山村比謝に軍政府樹立。布告代号を発令
1945年4月13日 『台湾新報』「敵米の陣営に蠢くB29の元凶カーチス・ルメー」
1945年4月16日 アメリカ軍、伊江島に上陸。ついで本部半島制圧(~18)
1945年4月22日 『週刊朝日』大仏次郎「沖縄決戦を直視して」


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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
 参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店

1945年7月28日9時49分、濃い霧の中をニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍の中型爆撃機 B-25が、エンパイア・ステート・ビルディング(英: the Empire State Building)内79階の北側に衝突して機体が突入するという事故が起こった。79階で火災が発生し、衝突時の衝撃で機体から脱落したエンジンが破壊したエレベーター扉と同シャフトを経て80階へ延焼したが、約40分後に消火された乗員3名を含む死者14名を出したものの、比較的小型の機体であった上に着陸直前で燃料残量が少なかっことから建物自体への損は比較的少なく、事故後2日で営業を再開している。→ウィキペディア


1945年5月7日 石川に城前初等学校開校 

1945年5月20日 『週刊朝日』親泊朝省「敵の恐怖、わが沖縄特攻隊」
1945年5月26日 南風原の野戦病院、真壁村に移動
1945年5月27日 第三十二軍司令部、首里から津嘉山へ、ついで摩文仁に移動(~30)/『週刊朝日』土屋文明「琉球阿嘉島国民学校生徒の勇戦を讃ふ」

1945年6月23日 沖縄戦終結ー戦没者 一般住民9万4000人、日本軍将兵9万4136人、アメリカ軍将兵1万2281人 計20万417人



1945年9月5日『ウルマ新報』(活字)「ミズリー号で歴史的署名式、劇的に終了」「日本に於いては闇取引が盛ん」」「軍政府に於いては本島民待望の通信事務開始」
1945年9月26日『ウルマ新報』「マッカサー元帥の語る日本の現在と将来」「アメリカ国務長官代理アチソン氏『マッカーサーは単なる管理者で政策決定の権限なし』」「各地区市会議員当選者」
1945年11月11日 東京丸ビルの沖縄県事務所で沖縄人連盟発足
1945年11月21日『ウルマ新報』「米英加の三国首脳 原子エネルギー会談」
1945年12月6日 沖縄人連盟機関紙『自由沖縄』創刊(編集発行・比嘉春潮)
1945年12月19日『ウルマ新報』「山下泰文大将 死刑の宣告」「糸満市建設着々」
1945年12月26日『ウルマ新報』アメリカ合衆国マリン軍大佐・軍政府副長シー・アイ・マレー「年末の挨拶」

NHKが、2010年8月6日NHKスペシャル『封印された原爆報告書』にて調査報道した。 その報道の内容は次の通り。字幕:昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。
ナレーター:広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被曝者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。→ウィキ

参考資料ー
1979年2月『戦後沖縄写真記録ーゼロからの時代』那覇出版社/1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社
2012年8月 『オキナワグラフ』「伝単ー翁長良明コレクション(携帯090-3793-8179)」



マッカーサーの日本 1945年8月ー1951年4月
。1945年8月14日、日本は連合国に対し、ポツダム宣言を受諾した。日本を占領する連合国軍の最高司令官にはダグラス=マッカーサー元帥が任命された。占領行政がスムーズにいったのは、一つにその中枢神経が東京の都心に集中していたからである。もし、占領を司るこれらのセクションがはいる建物がなかったら、占領の性格そのものが大きくかわっていたことであろう。もともと米空軍は都心部の爆撃を避けるよう命令されていた。/ワンマン宰相・吉田茂ー反対者を罵倒するその姿は「ワンマン」の名にふさわしい。ただしそれができたのは、マッカーサーの権威を借りたからである。(袖井林二郎)


○現代に至る日米関係はすべてマッカーサーが作り上げたと云って過言ではない。日本は敗戦国のトラウマを未だに引きずっている。

1946年5月15日、『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版が創刊。
 
1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。 同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。

石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。
 
1947年7月に日本社会党の片山哲を首班とする片山内閣が発足したが、片山はクリスチャンであり、マッカーサーはクリスチャン片山の総理大臣就任を喜び「今や東洋の三大強国にキリスト教徒出身の首相、中国の蒋介石、フィリピンのマニュエル・ロハス、日本の片山哲が誕生してことは広く国際的な観点から見ても意義が深い。これは聖なる教えが確実に広まっている証である・・・これは人類の進歩である。」と断言し、片山内閣発足を祝福したが、マッカーサーの期待も空しく、片山内閣はわずか9ヶ月で瓦解した。
 マッカーサーはその権力をキリスト教布教に躊躇なく行使し、当時の日本は外国の民間人の入国を厳しく制限していたが、マッカーサーの命令によりキリスト教の宣教師についてはその制限が免除された。その数は1951年にマッカーサーが更迭されるまでに2,500名にもなり、宣教師らはアメリカ軍の軍用機や軍用列車で移動し、米軍宿舎を拠点に布教活動を行うなど便宜が与えられた。またポケット聖書連盟に要請して、日本語訳の聖書約1,000万冊を日本で無償配布している。→ウイキ

1948年2月 伊波普猷『沖縄歴史物語』「奈翁と英艦長との琉球問答ーセントヘレナに於ける1817年8月13日の昼過ぎー」マカレー東本願寺


1948年夏 比屋根安定(中央)、その左が岩原盛勝

1950年  内間安瑆、イサム・ノグチに禅、茶道に関する書籍の翻訳を頼まれ、以後、生涯にわたり交流する。


昭和25年3月18日から6月12日まで朝日新聞社主催、外務省・通産省・建設省・文部省・国鉄そして西宮市が後援し、連合軍総司令部の全面的協力によって「アメリカ博覧会」が開催されました。戦後における本格博覧会の最初であり、国際性、スケールとも空前の大きさを誇り、大阪市内ではカウボーイの市中行進、東京から西宮までの直通バス「ブロンディ号」が走り、西日本各地からは修学旅行・団体旅行で訪れた。阪急スタジアムとその南側はアメリカ博の第一会場でした。球場正面の“自由の女神”に迎えられ、正門をくぐるとホワイト・ハウスがあり、アメリカの歴史と文明をジオラマ等で紹介します。モデルハウスやシボレー、フォードなどの最新の自動車を展示した自動車館も人気を博しましたが、最も注目を集めたのは「テレヴィジョン館」でした。野外劇場で撮影された映像が館内に流れ、多くの人が足を止めて見入ったようです。3年後の昭和28年、NHKのテレビ試験放映にも繋がったものです。→「歴史と文化財(楽しむ・学ぶ) › 西宮の歴史」

1952年8月6日『アサヒグラフ』「原爆被害」の初公開」

1953年   男性向けの月刊雑誌『PLAYBOY』 ー実業家ヒュー・ヘフナーやエルドン・セラーズ(Eldon Sellers)などが共同でシカゴで創刊。

1954年7月 中野五郎『アメリカの暗黒ー米国を衝動した大事件』角川書店

1954年9月1日 ベッテルハイム百年記念祭実行委員会『伯徳令ーベッテルハイム博士滞琉百年記念誌』印刷/沖縄タイムス社
○写真ー護国寺、ーベッテルハイム博士、琉球訳聖書「ヨハネ伝」部分
川平朝申「ベッテルハイム博士の来琉」/波上の眼鏡ーベッテルハイムのこと」/仲地紀晃「ベッテルハイム博士と医者・松景慎仲地筑登之親雲上紀仁のこと」/金城清松「琉球に於ける牛痘接種法とベッテルハイム博士」/島袋源一郎「ベッテルハイムの碑」/比嘉盛章「伯徳令の伝道は実ったが琉球政庁に刈り取られた」/川平朝申「エピソード一拾遺集 涙もろい伯徳令さん」

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1991年5月 『地理』「特集・アジア系アメリカ人」古今書院


1991年4月 ディビッド・E・カプラン/アレック・デュブロ 松井道男『ヤクザ』第三書館

2006年7月 『ヤクザが消滅しない理由 江戸時代から今日までヤクザビジネスの正体』デイビッド・E.カプラン/著 アレック・デュブロ/著 松井道男/訳 坂井純子/訳
内容説明
米国「ノンフィクション書籍調査報道者&編集者賞」の前作から17年。江戸時代から現代までのヤクザをタテ糸とし、アメリカと日本の政・官・業のヨコ糸が織りなす一大絵巻。
目次
第1部 ヤクザはいつ、なぜ、どのようにして生まれたのか(高貴なるヤクザイメージはどこから来たのか)
第2部 児玉誉士夫が暗躍した時代に何が起こったのか(ヤクザを元気づけたアメリカの占領時代;手を結ぶ右翼とヤクザ ほか)
第3部 ますます複雑化した「犯罪組織」は日本社会とどうからんでいったのか(発展し続ける犯罪組織;日本的構造腐敗の実態を解明する ほか)
第4部 海外で何を起こしてきたのか…そして、いまは(拡大する「性貿易」、「麻薬取引」;世界の古い市場、新しい市場 ほか)
著者紹介
カプラン,デイビッド・E.[カプラン,デイビッドE.][Kaplan,David E.]
アメリカ人ジャーナリスト。アメリカ3大週刊誌の一つ『USニュース&ワールド・レポート』の記者。組織犯罪、テロ問題の第一人者
デュブロ,アレック[デュブロ,アレック][Dubro,Alec]
アメリカ人フリージャーナリスト。元全米作家組合会長。組織犯罪問題の権威者。日米戦後史の米機密文書アナリストとして日本の月刊誌、週刊誌にも日米戦後史の記事を多数寄稿している

松井道男[マツイミチオ]
国際ジャーナリスト、米機密文書アナリストとして月刊誌、週刊誌に国際情報の記事を書いている
坂井純子[サカイスミコ]


1999年1月 『映画秘宝・地獄のアメリカ』洋泉社


2000年2月 『Esquire』

2000年11月7日~19日 那覇市民ギャラリー「帰米二世画家 小橋川秀男ー永久少年の夢と生涯」(沖縄県主催)


2001年3月 琉球大学法文学部『アメリカ統治と戦後沖縄ー異文化の衝撃ー』

2001年9月11日朝(現地時間)、マサチューセッツ州ボストン、バージニア州ダレス(ワシントンD.C.近郊)、ニュージャージー州ニューアークを発った4機の旅客機が、モハメド・アタを中心とするアラブ系グループによってほぼ同時にハイジャックされた。彼らは操縦室に侵入し、パイロットを殺害した後、自ら操縦して、2機(アメリカン航空11便、ユナイテッド航空175便)をニューヨーク・マンハッタンへ、残り2機(アメリカン航空77便、ユナイテッド航空93便)をワシントンD.C.へ向かわせた。航空機が使用された史上最大規模のテロ事件であり、全世界に衝撃を与えた。その後、アメリカ軍は報復としてアフガニスタン紛争、イラク戦争を行った。→ウィキペディア


2002年11月 ブルーガイド海外版出版部『わがまま歩き⑫ニューヨーク』実業之日本社
 
2003年  21世紀沖縄公論刊行室『ペリー琉球6日間の旅物語と150年後の今物語』

2003年、米海軍は米領プエルトリコの本島東側に位置するビエケス島の爆撃演習場を閉鎖。1940年代以降、米国海軍は、爆撃演習場としてビエケス島の4分の3を使用し続けました。これにより、島は不発弾や様々な廃棄物によって高度に汚染されました。10年以上が経った現在でも、爆撃演習による汚染問題は深刻で多数の住民に重金属その他の有害物質の体内蓄積があることや、高い癌発生率が
報告されている。→「ビエケス島の米海軍基地閉鎖から学ぶ~基地返還と汚染除去~」2016年6月3日(金)午後6時半~9時 テンブスホール(那覇市牧志3-2-10)

小泉進次郎、2004年(平成16年)に関東学院大学経済学部を卒業後、アメリカ合衆国のコロンビア大学大学院に留学。コロンビア大ではジェラルド・カーティスに師事して、2006年(平成18年)に政治学の修士号を取得した。その後、アメリカ合衆国の戦略国際問題研究所非常勤研究員を経て2007年(平成19年)に帰国。→ウィキ

2004年2月  ハーバード大学の学生だったMark Zuckerberg(マーク・ザッカーバーグ)が、学生同士のコミュニティとしてFacebook設立。その後、スタンフォード大学、コロンビア大学、エール大学に拡大した。2006年以降に一般にも公開され利用者が拡大した。日本語版は2008年5月に公開されている。
2012年ナスダックに上場。

2004年8月 東京都・北硫黄島に夜間訓練中の米軍偵察機が墜落、乗員4人が死亡/沖縄県の沖縄国際大学構内に米軍ヘリコプターが墜落

2005年1月 神奈川県南東の海上で米軍戦闘攻撃機が空母への着艦訓練中に海中に転落

2005年2月15日   PayPalの従業員であったチャド・ハーリー、スティーブ・チェン、ジョード・カリムらがカリフォルニア州サンマテオでYouTube(ユーチューブ)を設立した。→ウィキペディア

2005年6月加藤・Á・圭子  『ニューヨーク イラスト徹底ガイド』メイツ出版
イラストー「エンパイア・ステート・ビルディング」「自由の女神」「メトロポリタン美術館」「ニューヨーク近代美術館」「アメリカ自然史博物館」「グッゲンハイム美術館」「チャイナタウン」「セントラルパーク」「グランドセントラル駅」

アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー/山岡洋一訳『富の未来』(講談社2006年)に「『グローバル化』ほど、世界中で憎しみと議論の的になる言葉は少ない。そして、これほど偽善的に使われる言葉は少ない。これほど幼稚な使われ方をしている言葉も少ない。反グローバル化の論者の多くにとって、ほんとうの憎しみの対象は、世界全体の自由主義経済の総本山、アメリカである」とする。また、アメリカ元国際開発庁副長官の「悪徳が美徳よりもはるかにグローバル化が進んでいる」の言葉も紹介する。同書はインターネットについて「無害ではあっても、検証されておらず、真実でない知識が大量に蓄積している」とし、「生きている知識と死んだ知識(死知識)をあわせた人類の知識基盤全体のなかで、自然科学と呼ぶ小さな部分ほど、過去数世紀に人類の平均寿命、食物、健康、富の向上に大きく寄与したものはない」と強調。そして、宗教(狂信的環境保護運動)や、ニューエイジ運動などの神秘主義を売り物にする連中、ポストモダン思想を批判する。一方で自己批判は自然科学の核心部分である、とする。本書は末尾をヘレン・ケラー「悲観論者が天体の神秘を解明したことはないし、地図にない土地を発見したことはないし、人間の精神に新しい地平を切り開いたこともない」の言葉でむすんでいる。

2006年1月6日『しんぶん赤旗』横須賀 周辺住民「またか」/米空母キティホーク乗組員による日本人女性殺害事件が起きた現場は、神奈川県横須賀市の京浜急行・横須賀中央駅に近い商店街「米が浜通」の雑居ビルでした。周辺の住民からは「またか」「米兵であっても日本で起こした犯罪なんだから、早く容疑者を日本に渡し、国内法で対処してほしい」という声があがっています。現場は横須賀中央駅から徒歩五分。飲食店などが並ぶ駅前商店街と並行する裏通りに面した雑居ビル入り口の踊り場でした。踊り場は縦横それぞれ二・五メートルにも満たない狭さ。住民によると、被害者の女性は、顔面などをかなり殴られた状態で倒れ、血が流れていました。現場周辺では、数年から十数年前にも男性が米兵に殴られけがを負う暴行事件があったといいます。


2006年11月 朝日新聞社『戦争責任と追悼ー歴史と向き合う1』海外からみる目
○ジョン・ダワー氏に聞くー『戦争』は総括できたのですか「東京裁判が『勝者の裁き』であったのは、事実です。日本もドイツも、空襲で民間人を殺した罪を問われませんでした。それは、連合国側も空襲をしていたからです。また、米国の原爆投下は裁かれませんでした。・・・」「戦争責任は、東京裁判の問題よりも、もっと大きな問題なのです。しかし、東京裁判の問題は、そうした責任をあいまいにしてしまったことです。米国は占領を円滑に進めるために昭和天皇を利用しようとして、追訴しなかった。当時の日本の保守派の間ですら、天皇免責はおかしいとする意見がありました。天皇の名の下に行われた戦争で、天皇が免責されたら、戦争責任をどう考えたらよいのかわからなくなります」

Hulu 設立:2007年3月
Huluは、アメリカカリフォルニア州ロサンゼルスに本拠地を置く動画配信サービス。Huluとは中国語で大事なものを入れる入れ物であるひょうたんを意味する「葫芦」とインタラクティブに記録することを意味する「互录」とにちなむ。Wikipedia

2007年4月16日、米バージニア(Virginia)州ブラックスバーグ(Blacksburg)のバージニア工科大学(Virginia Tech)で、韓国出身の学生(23)が銃を乱射し、32人を殺害。容疑者は自殺。【翻訳編集】 AFPBB News

アメリカ合衆国のミネソタ州セントポールとミネアポリス間のミシシッピ川にかかっていた州間高速道路35W号線のミシシッピ川橋は、 2007年8月1日に崩落し車両60台以上が巻き込まれ、9名が死亡、4名が行方不明、100名以上の負傷者を出しました 。(いちらん屋)

2009年1月 『移動と表現ー変容する身体・言語・文化』沖縄県立博物館・美術館 

有馬哲夫『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』平凡社→アメリカ公文書館から発掘された新資料を交え、昭和史の知らざれる一面に光をあてた」意欲作

2009年10月『エコノミスト』石川幸憲「米国メディア危機ーリストラ、廃刊、破綻 新聞は生き残れるか」/津山恵子「テレビ局の逆襲ー全番組をインターネットで流せ 台風の目となる『HuIu』①(略)これは、テレビというメディアにこだわる時代の終焉を物語っているともいえる。米視聴者はむしろ、HuIuなどインターネットによる配信が、テレビに『革新』をもたらしていると感じている。」

 2009年11月発行の政論雑誌『沖縄世論』(閣文社・那覇市首里末吉町3-72-12電話098-886-0777)に新城栄徳が「沖縄美術運動の黎明ー『大アメリカ展』の実現を」を書いている。曰く「筆者は中学時代、地元紙によって反米(嫌米)意識が植えられた結果、関西に住着くようになった。そしてアメリカに対する知識は英語も含めて無知に等しい。最近はアメリカを知りたいという欲求も芽生えた。1950年西宮市で「アメリカ博覧会」が開かれ、野外パノラマなどが設置され産業や生活が紹介された。千葉のディズニーランドを例に採るまでもなく、基地などを通じてアメリカ消費文明は沖縄・日本文化に染み付いている。沖縄県立博物館・美術館で総合的な『大アメリカ展』の開催を実現してほしい」とする。

2009年11月5日、米テキサス(Texas)州フォートフッド(Fort Hood)の陸軍基地で、軍に所属する精神科医のニダル・マリク・ハサン(Nidal Malik Hasan)死刑囚が銃を乱射。13人が死亡、42人が負傷。同死刑囚は事件後、警察に身柄を拘束された。米国の軍事基地内で発生した同様の事件としては過去最悪となった。【翻訳編集】 AFPBB News

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1983年8月31日ー『琉球新報』新城栄徳「落ち穂『未病を治す』」
東洋医学を実践している病院で、調理師を8年やっていたので『素問』とか『傷寒論』という古典はある程度知っているつもりである。『素問』(もとのものを引き出すという意味)のなかに、黄帝が天師(岐伯)に「今時の人は50歳になると、よぼよぼしてくるのは何故か」と。

これに対し岐伯は「昔の人で道(宇宙自然の法則)を知っている人は、陰陽(自然環境としての変化)によく対応し術数(次々に連なり、おこってくる変化の順序法則)によく調和するように自分の行動を規制している。ところが今時の人は酒はガブガブ飲むし、生活のリズムも失っている。色欲にかられて自制もなく欲望のままに精根を使いはたしている。健康に生きてゆくためには一定の緊張が必要であり、節度が大切であるのに、こうしたことを知らないまま、その時その時の欲望のままに生活しているために、人生の本当の楽しみ、生きてゆく喜びを求めようとしない。これでは50そこそこで衰えるのは当たり前である」と答える。

病院の医師①らが中心となって山紫水明の土地、名張市赤目に「赤目健康学園」を計画したのが1977年であった。しばらくして私も長男・江と「山の家」づくりに参加するようになった。東洋医学のなかに「身土不二」(その人の生活する土地でとれる食物を主に食べる)と、「一物全体」(生物である食物を丸ごと全部、不必要なアクぬき、皮むきをしない)という二つの原則があるが、赤目では農作業を通じて実践している。農業を行うことによって食物についての知識と考えを深めることができる。

増大する一方の医療費の抑制は一部の連中の主張するように自個負担を増やすという安易なケチな方法は考えるべきではない。予防と軽症のうちに生活・習慣を見直して治療するという古くて新しい方法をとるべきだ。しかも根本的にはこれしかない。

①1977年11月16日『朝日新聞』□患者のために『健康学園』/医の原点めざし青年医師ら名張市の山あいに着工ー医療は決してクスリだけですむものではない。医者は治療だけが仕事でなく、患者がより健康に生きていく方法を身につけるために、そばでいっしょに努力することが大切だ。予防をやらなければ。健康によい食物もほしい。回復訓練もかみあわせたい。体力増強の指導も。そして「健康とは何か」を患者といっしょに考える機会も必要。(略)当初から助言を続けてきた元阪大教授、丸山博さんは、計画推進に熱っぽい期待をかけている。

1977年12月ー赤目健康学園建設友の会『真営』№1/1978年6月ー赤目健康学園建設友の会『真営』№4 会長・丸山博 発行責任者・藤岡義孝


□私は『近代社会運動人物大事典』に銘苅正太郎について「1904年に医師免許を得て福島県や山梨県の病院勤務をへて、16年に東京市麻布に耳鼻咽喉科「長生医院」を開業、医院名は親交があった後藤新平が付けた。医院経営が安定すると「ソテツ地獄」で苦しむ故郷伊是名島や沖縄のために援助活動をつづけた。正太郎は「沖縄の貧困は地理的条件に左右されている」といい、長男の進は「社会が変われば沖縄も変わる」といった。進は戦後、全国最初の民主診療所である東京自由病院の初代院長をつとめた」と記した。

□私が勤めていた病院の三谷和合院長は「漢方の正しい健康保険の適用をすすめる準備会」の丸山博会長、相沢秀一副会長らと親しく一緒に運動していた。丸山会長は桜沢如一を師と仰ぎ衛生学を専攻。相沢副会長は京大で河上肇に学んだ最後の学生で、大阪市大、立命館大、大阪経済法科大の教授を歴任。
丸山博年譜(抄)
1956・昭和31    ・「健康相談』(岩波新書)刊
          ・保健婦の養成、教育に従事。保健婦サークル土曜会」発足
          ・日本統計学会 日本人口学会 生物統計学会に研究報告
          「死産統計で当面している問題について」
          「縦書きと横書きの心理的統計的法則性について」など
1958・昭和33    ・大阪大学医学部教授 (衛生学) (大阪に転居)
1960・昭和35    ・「社会医学研究会」発足(第1回研究会創立総会)
1961・昭和36    ・「医学史研究会」発足 (第1回総会)
          ・近、現代の医学、医療、医学教育の歴史的検討の必要性を提示
          ・人口動態研究に過去帖、宗門改め帖を活用し、国民の健康度の測定を事例、
           統計、歴史的に把握することを提示
1962・昭和37     ・講義に森永ヒソミルク事件を取り上げる
1963・昭和38    ・緒方洪庵没百年記念映画「洪庵と1000人の若者たち」作成
          ・第31回日本統計学会総会報告「森林太郎(鴎外)と小島勝治一統計学史上の二人の業績」
1966・昭和41    ・桜沢如一(G・0・)(1893、1966)没
          ・9/7~10/6 日本学術(自然科学)代表団 中華人民共和国訪問
          ・第1回日本民族医学会(大阪)、第1回地方自治研究者集会(大阪)
1967・昭和42    ・「大阪から公害をなくす会」発足
1968・昭和43    ・「搗精の自由を守る会」発足(「有害食品研究会」の前身)
1968・昭和43    ・7/23~8/24 マクロビオティック欧州視察旅行
          ・12/19~1/11 インド伝承医学研究視察団(インド〕
1969・昭和44    ・「アーユルヴェーダ研究会」発足(準備会・ゼミナール始める)
          ・日本の医学医療における東洋医学の復権、民間医療の採用に道を
           拓くため、肉体と精神・心・魂の関連究明のためインド伝承医学研究に着手
          ・「有害食品研究会」発足
          ・第13回経済統計研究会総会、第37回日本統計学会大会を大学紛争のため欠席
          ・第27回日本公衆衛生学会(岡山)にて「14年目の訪問」(森永ミル
           ク中毒事後調査の会)を発表(1955年のミルク中毒の調査、救済、責任問題に道を開いた)
1971・昭和46    ・「日本有機農業研究会」発足(食品添加物・農薬問題に警鐘。
           生産者、消費者とともに食品公害解決に取り組む〕
          ・大地原誠玄完訳『スシュルタ本集』(アーユルヴェーダ研究会刊)
          ・日本翻訳者協会出版文化賞受賞
1973・昭和48    ・大阪大学医学部教授定年退官
          ・退官記念講演/オムニバス衛生学七話

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 梅雨入り2日目、小雨のなか久方ぶりに琉球新報に遊びに行く。新報の隣に現在病院が建っているが、以前はその敷地に琉球東急ホテルがあった。私はそのホテルの中華部に17歳のとき働いていたので懐かしい場所である。帰途、那覇市民ギャラリーで「小谷武彦写真展 PART5」「桑江良健絵画展」「新生美術展」をみる。


小谷武彦氏ー後ろの写真には彫刻家の金城実さんが写っている。


石垣博孝氏 作品「まち」


当山進氏 作品「深緑を抜けて」


谷口正人氏 作品「識名園」

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1957年3月 与那国善三『新沖縄案内』沖縄観光協会/印刷・おきなわ社
○広告「沖縄唯一の百貨店 観光お土産にもっとも喜ばれる品々」「サービスのオアシス 料亭小川荘(小橋川和子)」「沖縄観光協会指定旅館 鶴よし」「ホテル琉球」「沖縄観光協会指定 沖縄ホテル」「コザホテル(国吉鶴子)」「大津旅館(津波幸盛)」「ホテル森乃(名嘉真キヨ)」「沖縄観光協会指定旅館 初音館」「沖縄観光協会指定 観光ホテル厚養館(岸本金光)」「料亭・山手(長峯春良)」「料亭・登美の家(金城利江)」「料亭・新鶴(我那覇文子/佐久本嗣子)」「料亭・那覇/東京支店・琉球亭なは(上江洲文子)」「レストラン松屋(前田義善)」
1960年1月8日『琉球新報』島袋盛敏「仲宗根章山翁の思い出ー首里城懐古」(写真/)仲宗根真吉、摩文仁憲和、新垣良光、島袋盛敏。明治42,3年)
1960年1月10日『琉球新報』「新春インタビュー石野記者/朝倉文夫×浜田庄司」
1960年1月17日『琉球新報』坂口総一郎「順応する生活態度ー40年前クリ舟で体験した人生観」
1960年10月8日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと①島本豊氏(日航沖縄支店長)独自の風土活かせ」
1960年10月9日『琉球新報』「座談会/本土経済人の見た沖縄ー観光地として有望」今里広記/湯浅佑一/五島昇/鹿内信隆
            「観光沖縄にひとこと②松川久仁男氏ー海の特色売り物に
1960年10月10日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと③太田守徳氏(国際中央通りほしい立派な歩道」
1960年10月11日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと④儀間光裕氏ーきたないガーブ川」
1960年10月12日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑤東盛良恒氏ー”南国沖縄„打ち出せ」
1960年10月13日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⓺島袋清氏(ハワイ球陽観光団長)全住民も関心持て」
1960年10月14日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑦宮里辰彦(リウボウ専務)政府、住民も協力を」/糸満盛信「沖縄の古武術」①
1960年10月15日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑧荻堂盛進氏ー島ぐるみで協力を」/「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 千葉県三里塚の沖縄農場」
1960年10月16日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑨宮里定三氏ーホテル施設の充実」→2016年6月ー那覇空港見学者デッキに「沖縄観光の父・宮里定三」(ブロンズ像)設置
1960年10月17日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑩宮城仁四郎氏ー花いっぱい運動を」
1960年10月18日『琉球新報』「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 東京新生会」

1961年5月29日ー第二回粟国郷友会総会(レストランアサヒ)

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1963年
6月6日ー粟国郷友会4代目会長に屋宜宗一
11月ー安里幸一郎、大阪南の割烹関西で調理修行。

1965年

5月 源武雄『琉球歴史夜話』月刊沖縄社/印刷・緑地印刷事業股份有限公司
○廃藩置県直前の辻遊郭/黒糖文化史/イモの文化史/パインの歴史/泡盛と歴史/琉球料理の話/豪華な御冠船行事

5月23日ー粟国郷友会5代目会長に安村善太郎

1966年  田島清鄕『琉球料理』月刊沖縄社

1967年
1月 日本料理研究会『日本料理』19巻新年号□川島四郎①「酒一合と牛乳一合の比較論」/白井喬二②「味の始まり」/加藤藤吉③「江戸から東京へ97大正世相史」清水桂一④「料理品名考(18)清水鮓年表」

①1895-1986 昭和時代の栄養学者。
明治28年2月8日生まれ。陸軍で軍用食糧を研究し,携帯食糧などを考案。桜美林大教授,食糧産業研究所所長などをつとめた。栄養と食物についての執筆や講演で活躍した。昭和61年12月3日死去。91歳。京都出身。東京帝大卒。著作に「まちがい栄養学」など。→コトバンク
②[生]1889.9.1. 横浜 [没]1980.11.9. 茨城,龍ケ崎 小説家。本名,井上義道。 1913年日本大学政経科卒業。『忍術己来也 (じらいや) 』 (1922~23) ,『神変呉越草紙』 (22~24) の2つの長編忍法小説が芥川龍之介,菊池寛らの激賞を受け,『新小説』に執筆の機会を得て作家としての地位を固めた。→コトバンク
③手元に『全国花街連盟名簿』(加藤藤吉編、全国花街連盟発行、昭和31年)と題されたB六判の小冊子がある。そこには、北海道から鹿児島にいたるまで、都市部を中心に600を超す関係団体(料理業組合、芸妓組合、置屋組合など)とその所在地が掲載されている。『日本花街志』の著者紹介によると、加藤は明治27(1894)年に東京に生まれ、浅草の花街に家業の料亭を継ぐ。その後、全国の花街の研究を志し、昭和4(1929)年には『柳橋沿革誌』(柳橋開橋祝賀会事務所)を編集した。→転点notes
④清水 桂一 (1907-1980)

2月 日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人の舌と鼻」/添田知道「調理界の長老 原勇蔵」/加藤藤吉「江戸から東京へ(98)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」/知切光蔵「天狗の系譜」
3月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その1)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(99)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」
4月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その2)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(100)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」/内田春夢「春夢覚え書ー『日本は敗戦国ではないー負けたのではないのである・・・・地球上から人類を抹殺するが如き野蛮極まる戦争を、日本は、全世界の人類の幸福のために、率先、放棄しただけなのである』これは先年逝去された元陸軍大将荒木貞夫氏の”終戦の弁„である・・・」
5月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その3)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(101)大正世相史」/清水桂一「律令時代の鮓」/内田春夢「春夢覚え書きー酒とは愚痴なもの」
6月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「漢方薬と食物」/加藤藤吉「江戸から東京へ(102)大正世相史」/清水桂一「コンフリー料理」/内田春夢「春夢覚え書きー鰻串」
7月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人とチーズ」/清水桂一「明治の料理」
8月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「食塩恐怖症」/加藤藤吉「江戸から東京へ(104)大正世相史」/清水桂一「明治の料理あつめ」/内田春夢「春夢覚え書きーうすれゆく」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(14)」
9月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その1」/加藤藤吉「江戸から東京へ(105)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋」/内田春夢「春夢覚え書きー河岸揚 東京の魚市場は、築地、千住、大森の三か所である。このほかに私営の魚市場も数か所、あることはあるが、それはごく小規模のものである。・・・」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(15)」
10月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その2」/加藤藤吉「江戸から東京へ(106)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋」/内田春夢「春夢覚え書きー立ん坊」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(16)」
11月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その3」/加藤藤吉「江戸から東京へ(107)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋3」/内田春夢「春夢覚え書きーメガネの黒と白」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(17)」
12月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その4」/加藤藤吉「江戸から東京へ(108)大正世相史」/清水桂一「明治の歳末ー明治26年ごろ沖縄那覇の歳暮」/内田春夢「春夢覚え書きー赤い米」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(18)」

1969年
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写真左手前が安里幸一郎氏、左奥のほうが新城三郎で手前一人置いて中村喜代治氏
9月15日ー沖縄調理師協会(福永平四郎会長)30人、敬老の日で那覇市首里の沖縄厚生園(渡名喜聡園長)を訪れ、お年寄り180人に昼食の料理を提供。この時の一日園長は平良那覇市長夫人の信子さん、ウエイトレス姿でかいがいしく配膳に立ちまわった。

11月9日ー安里幸一郎「魚安」経営


1970年
10月ー沖縄調理師協会(四元実会長)『あだん』発刊号

1971年4月 新島正子『琉球料理』新島料理学園

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トゥージ(石の水槽)

沖縄県立博物館・美術館入口のトゥージ(粟国島)
沖縄県立博物館・美術館のトゥージ




粟国のトゥージ

ガジャン
江戸期の俳人で月並み俳諧の本家とも言われた高桑闌更の手紙の中に「琉球は分けてあたたかなる國にして、冬、蚊の聲を聞くといへば」とあるように、沖縄のガジャン(蚊)はヤマトまで鳴り響いていた。古波蔵保好『沖縄物語』に「蚊帳のよさが『うちなあ』では、シアワセな夜をもたらすことになっていた」と記し、続けて「ガジャンは蚊帳で防ぐことができても、蚤には手をやいたのである」とし、そして狂歌「蚤虱殺(くる)ち、がじゃん羽摘(ち)みてぃ、浮世穏(なだ)やしく渡いぶしゃぬ」「がじゃん羽ちみて、蚤の足(ふぃさ)くんち、浮世楽々とぅ暮らしぶしゃぬ」の歌を紹介した。和歌山の作家・神坂次郎は「俺は夏草 麦門冬ー末吉安恭の人生」で後の狂歌を引用している。

私が幼年期を過ごした粟国島では殆どが天水で、水タンクやトゥージ(石の水槽)があってそこにはボウフラがいつも居た。衛生的には問題があるようだが別に気にしたことはない。蚊帳と蚊取り線香はどの家にもあった。戦前、琉球絵師の金城安太郎さんの住んでいたところは蚊阪(ガジャンビラ)という。東恩納寛惇『南島風土記』を見ると、蚊とは関係なさそうである。考えてみれば沖縄はどこでも蚊は多い。

加藤新一『アメリカ移民百年史』にフロリダ開拓余話と題して「蚊群の襲来すさまじく、ひとたびメキシコ湾から西風が吹きはじめると一面もうもうとして天日が曇るほど。牛は大口あけて走り、蚊が口にいっぱい入って窒息するのだという」と記されている。イナガキタルホの一行詩「竹林ー七賢が酒と琴をもって竹林へはいったが、大へんな蚊のためにすぐ追い出されてしまった」。


 人間がいなくなると、その不在によって直接の恩恵を被るものの一つが蚊だ。人間中心の世界観では、人間の血は蚊の生存に不可欠だと考えたくなるが、実際には蚊は融通のきく美食家で、ほとんどの温血の哺乳類、冷血の爬虫類、そして鳥からさえ血が吸える。私たちがいなくなれば、おそらく自然界の野生動物は大挙してその空白を埋めようとし、人間が放置した場所に棲みつくだろう。(略)人間がいなくなれば、以前なら幼虫のうちに死んでいた何十億匹ものうるさい羽虫たちが生き延び、蚊の卵と幼虫を食物連鎖の大きな環とする多くの淡水魚も二次的に恩恵を被る。そのほかに恩恵を受けるには、花だ。血を吸わないとき、蚊は花の蜜を吸う。花蜜はすべての雄の蚊の主食だが、血が大好きな雌の蚊も吸う。そのため、蚊は受粉媒介者となり、私たちのいない世界ではより多くの花が咲き乱れることだろう。→2009年7月 アラン・ワイズマン/鬼澤忍・訳『人類が消えた世界』早川書房

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1975年5月 渡口初美『実用琉球料理』月刊沖縄社
1975年5月 江原恵『まな板文化論ー生活からみた料理』河出書房新社
1976年1月 日本料理研究会『日本料理』通巻39巻1号□川島四郎「外国の旗が樹つお正月料理」/「料理古書の栞・割烹講義録」/日本料理研究会沖縄支部長・徳田池信、支部師範・安里幸一郎

1976年4月ー琉球調理士会『珊瑚』№3
1976年7月ー『天ぷら◎その起源・技術・奥技』(月刊食堂別冊)柴田書店□「大阪千日前・天丼の店ー中西吉太郎」
1977年2月ー松本嘉代子『沖縄の行事料理』月刊沖縄社
1977年2月ー『日本料理●庖丁の世界とその伝承』(月刊専門料理10周年記念別冊)柴田書店
 
1978年
1月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「湖水の魚を主食にしているトルカナ族」
2月ー日本調理師協会(大阪市南区)『協調』「沖縄支部3周年記念」(写真)
4月ー沖縄調理師協会「25周年記念 春の料理大展示会」□宮里定三「近年、沖縄の観光産業は著しい発展を示し、沖縄経済を支える柱として各界の注目をあつめ、今後ますますその発展の可能性を秘めた産業であります。この様な時期に、沖縄調理師会の皆様が、沖縄観光のため縁の下の協力者として、料理の研究に努力されているのは、今後の沖縄観光産業の発展に大きく貢献するものと期待し、又感謝申し上げる次第であります。」/中村喜代治「思い出せば昭和27年の9月に沖美会として初めて調理師会が私達数名の人達が相寄り同時に日本料理研究会琉球支部も共に発足を見る事が出来ました。26年前の事です。後に沖美会が沖縄調理師協会となり研究会の琉球支部が沖縄支部と改名し、今日に至って居ります・・・」
4月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「軍用の乾燥野菜を宇治の製茶のヒントから」/清水桂一「室町時代料理外史ー室町時代の食生活など」/田中喜一「東京名所めぐりー向島編②」
5月ー渡口初美『琉球料理』国際料理学院
5月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「沙漠に生きる(その1)沙漠と砂漠というものー莫という漢字は『無し=なし』という意義で漠の字は『三水ヘン=サンズイヘン』に莫を配して『水の無いこと』を表している・・・」/清水桂一「室町時代料理外史ー室町時代の食生活など」
6月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「動物と植物とが共存共栄する輪廻」/清水桂一「室町時代料理外史ー室町時代の食生活など」
7月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「『航空糧食』の由来」」/清水桂一「室町時代料理外史ー室町時代の食生活など」
8月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「非常災害時の準備食糧ー過般の仙台の地震で、都会での生活の脆さをウンと思い知らされた筈である。水道、ガス、電気、みな一斉に止まってしまう。都会では井戸はみな潰してしまっている。薪や炭を売っている店は一軒もない。・・・」
9月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本に米が余り出した理由ー食べなくなったわけ」/清水桂一「室町時代料理外史ー室町時代の食生活など」
9月ー全琉球調理師協会『さんご』
10月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「飢餓に対する子供と成人の耐度の差」/清水桂一「室町時代料理外史ー室町期のお茶」
11月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「素晴らしい主食・米」/清水桂一「料理品名考(その1)」
12月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「アフリカ原住民生活の知恵」


1979年
1月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「羊水をのむー羊年に因んで」」/清水桂一「料理品名考(その3)」
2月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その1)ー羊年に因んで」/清水桂一「料理品名考(その4)」
3月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その2)ー羊年に因んで」/清水桂一「料理品名考(その5)」
4月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その3)ー羊年に因んで」/清水桂一「料理品名考(その6)」
5月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その4)ー羊年に因んで」/清水桂一「たべもの語源(その7)」/谷村信行「美味求真」
6月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その5)ー羊年に因んで」/三宅孤軒「茶事懐石一と通り(その1)」/清水桂一「たべもの語源(その8)」
7月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その6)ー羊年に因んで」/三宅孤軒「茶事懐石一と通り(その2)」/清水桂一「たべもの語源(その9)」
8月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その7)ー羊年に因んで」
9月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「エデンの楽園の木の実はリンゴではなくイチジクである(その1)」/清水桂一「たべもの語源(その10)」
10月ー沖縄県調理師協会『季刊・沖調』創刊号
10月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「エデンの楽園の木の実はリンゴではなくイチジクである(その2)」/清水桂一「たべもの語源(その11)」/金野新次「公害に強くなろう」
11月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「エデンの楽園の木の実はリンゴではなくイチジクである(その3)」」/三宅孤軒「茶事懐石一と通り(その3)」/清水桂一「たべもの語源(その12)」
12月ー日本調理師協会『協調』「沖縄支部5周年記念・秋の料理大講習会」(写真)
12月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「マダガスカル島縦走記ー日本の食糧危機の対処策を求めて(その1)」」/三宅孤軒「茶事懐石一と通り(その3)」/清水桂一「たべもの語源(その13)」

1967年
1月 日本料理研究会『日本料理』19巻新年号□川島四郎①「酒一合と牛乳一合の比較論」/白井喬二②「味の始まり」/加藤藤吉③「江戸から東京へ97大正世相史」清水桂一④「料理品名考(18)清水鮓年表」

①1895-1986 昭和時代の栄養学者。
明治28年2月8日生まれ。陸軍で軍用食糧を研究し,携帯食糧などを考案。桜美林大教授,食糧産業研究所所長などをつとめた。栄養と食物についての執筆や講演で活躍した。昭和61年12月3日死去。91歳。京都出身。東京帝大卒。著作に「まちがい栄養学」など。→コトバンク
②[生]1889.9.1. 横浜 [没]1980.11.9. 茨城,龍ケ崎 小説家。本名,井上義道。 1913年日本大学政経科卒業。『忍術己来也 (じらいや) 』 (1922~23) ,『神変呉越草紙』 (22~24) の2つの長編忍法小説が芥川龍之介,菊池寛らの激賞を受け,『新小説』に執筆の機会を得て作家としての地位を固めた。→コトバンク
③手元に『全国花街連盟名簿』(加藤藤吉編、全国花街連盟発行、昭和31年)と題されたB六判の小冊子がある。そこには、北海道から鹿児島にいたるまで、都市部を中心に600を超す関係団体(料理業組合、芸妓組合、置屋組合など)とその所在地が掲載されている。『日本花街志』の著者紹介によると、加藤は明治27(1894)年に東京に生まれ、浅草の花街に家業の料亭を継ぐ。その後、全国の花街の研究を志し、昭和4(1929)年には『柳橋沿革誌』(柳橋開橋祝賀会事務所)を編集した。→転点notes
④清水 桂一 (1907-1980)

2月 日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人の舌と鼻」/添田知道「調理界の長老 原勇蔵」/加藤藤吉「江戸から東京へ(98)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」/知切光蔵「天狗の系譜」
3月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その1)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(99)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」
4月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その2)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(100)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」/内田春夢「春夢覚え書ー『日本は敗戦国ではないー負けたのではないのである・・・・地球上から人類を抹殺するが如き野蛮極まる戦争を、日本は、全世界の人類の幸福のために、率先、放棄しただけなのである』これは先年逝去された元陸軍大将荒木貞夫氏の”終戦の弁„である・・・」
5月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その3)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(101)大正世相史」/清水桂一「律令時代の鮓」/内田春夢「春夢覚え書きー酒とは愚痴なもの」
6月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「漢方薬と食物」/加藤藤吉「江戸から東京へ(102)大正世相史」/清水桂一「コンフリー料理」/内田春夢「春夢覚え書きー鰻串」
7月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人とチーズ」/清水桂一「明治の料理」
8月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「食塩恐怖症」/加藤藤吉「江戸から東京へ(104)大正世相史」/清水桂一「明治の料理あつめ」/内田春夢「春夢覚え書きーうすれゆく」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(14)」
9月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その1」/加藤藤吉「江戸から東京へ(105)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋」/内田春夢「春夢覚え書きー河岸揚 東京の魚市場は、築地、千住、大森の三か所である。このほかに私営の魚市場も数か所、あることはあるが、それはごく小規模のものである。・・・」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(15)」
10月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その2」/加藤藤吉「江戸から東京へ(106)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋」/内田春夢「春夢覚え書きー立ん坊」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(16)」
11月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その3」/加藤藤吉「江戸から東京へ(107)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋3」/内田春夢「春夢覚え書きーメガネの黒と白」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(17)」
12月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その4」/加藤藤吉「江戸から東京へ(108)大正世相史」/清水桂一「明治の歳末ー明治26年ごろ沖縄那覇の歳暮」/内田春夢「春夢覚え書きー赤い米」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(18)」

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1980年9月ー藤井つゆ『シマ ヌ ジュウリ』道の島社1981年
1月ー日本調理師協会『協調』「沖縄に招かれて」(写真)
12月ー日本調理師協会『協調』「沖縄県支部第4回・秋の料理大講習会」(写真)
1982年
1月ー日本調理師協会『協調』「沖縄県支部料理講習会」(写真)
2月ー日本調理師協会『協調』「琉球料理献立」(写真)
沖縄県調理師協会(安里幸一郎会長)『沖調会報』創刊号
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1983年9月 『沖縄ハーバービューホテル 10年のあゆみ』琉球総合開発
1983年 日本調理師協会誌『協調』「写真ー沖縄秋の料理大講習会」
1984年

1月ー沖縄の雑誌『青い海』120号<沖縄そばと生活文化史>
9月ー沖縄ハーバービューホテル調理部『沖縄の素材を生かす西洋料理』新星図書出版
1985年
1月ー沖縄調理師協会『沖調会報』第7号□略歴・中村喜代治、玉寄博昭、山川敏光、福永平四郎
1月ー日中調沖縄県支部『交友誌』
4月ー安里幸一郎『沖縄の海産物料理』新星図書出版
6月ー石川調理師会『石調だより』第2号
7月ー『月刊専門料理』<創刊20周年記念号>柴田書店
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昭和60年度「現代の名工・調理師部門」左から村上信夫氏、土井廣次氏、安里幸一郎氏


1986年12月ー新島正子さん、新城三郎に厚生大臣表彰

1987年3月 日本調理師協会誌『協調』「写真ー昭和62年度 沖縄県調理師連合会新年の集い」/辻元亮裕「沖縄調理師会新春総会」
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1988年4月ー柴田書店書籍部『味を奏でる人たち』「安里幸一郎(魚安)ー沖縄から本土へ、そして沖縄へ」
1988年4月 喜屋武マサ『沖縄豆腐料理80選』那覇出版社
1988年4月 『聞き書 沖縄の食事』農文協
1988年9月 『塩浜康盛追想集』(ホテル球陽館館主、沖縄ペルー協会初代会長)
1989年6月27日『琉球新報』「コンベンションセンターで第27回全飲連全国沖縄県大会ー21世紀の食文化は沖縄から」
1990年5月 『東急ホテルの歩み』東急ホテルチェーン

1991年8月ー(社)日本全職業調理士協会『料理四季報』<沖縄特集・沖縄 夏の料理>表紙□安里幸一郎「調理一言ー郷土料理は、『土産土法』という料理の原点である。郷土の素材を開発し、料理人として満足のいく献立を作っていくことが、調理師の使命であろう。さらに召し上がる人のことを念頭におき思いやりという心の薬味を添えたいと思って、常に庖丁を握っている。」
1993年1月ー『FUKUOKA STYE ⅤoⅠ.6』「特集・屋台ー食文化と都市の装置」
1993年11月27日『沖縄タイムス』「土曜グラフィックス こんにちは外国のおコメ」
1994年5月18日『琉球新報』「ビジュアル版 コメ戦争ー崩壊寸前の食管制度」

1997年 『サライ』大8号「中華街ーチャイナタウン三都物語」

2000年11月 リゾート時代の波受け「那覇東急ホテル」閉館

2002年3月3日『沖縄タイムス』新城栄徳 書評/中田謹介『笹森儀助「南島探検」百年後を歩く』編集工房風

沖縄にかかわりのある東京の編集者といえば、岩波書店を辞めて『酒文化研究』を創刊した田村義也氏などが浮かぶが、本書の著者・中田謹介氏も農文協(社団法人農山漁村文化協会)に36年間勤め『日本農書全集』(第34巻は沖縄編)や、『日本の食生活全集』(第48巻は沖縄の食事は沖縄タイムス出版文化賞を受賞)などの企画・編集に携わった。そして沖縄近世文書探索の先に明治の3大探検家の一人といわれた笹森儀助に出会い、その著『南島探検』が描いた沖縄と中田氏が見た沖縄によって本書が生まれた。

本書はまず笹森のいう女の元服「入墨」(針突)にふれ「いま沖縄で入墨をした女性を見るのは困難である」とし、知人たちのそれぞれのおばあさんの思い出を記し、友人を介して手に入墨をした老人ホームのおばあさんに面談する。次に風土病(マラリア)について「八重山の歴史は、マラリアとの闘いの歴史といっても過言ではない」と戦争マラリアにもふれ、昨今の「癒しのシマ」とか言われ観光ボケした”沖縄土人”が忘れがちなことを思い出させる。

「首里城の語る百年」の項では、前出の編集にかかわった尚弘子、新島正子、仲地哲夫の諸氏に首里城復元についての感想を聞いている。そしてドイツ人の著した『大正時代の沖縄』を引用し「たまたま偶然に居合わせた一人の建築家(伊東忠太)の干渉によってー」、首里城はからくも消滅を免れたとある。が、たまたまではなく、鎌倉芳太郎が沖縄からの新聞を見て伊東に首里城正殿の取り壊しを報告。そして伊東が内務省から取り壊し中止の電報を出し、尚侯爵家で神山政良、東恩納寛惇らと協議を成し沖縄調査に赴いたものである。

本書は編集者が、どのように本を作っていたのか、どう沖縄に向かい合っていたのか分かり資料的にも価値がある。終わりに中田氏の川柳「ヘリポート生むは騒音サンゴの死/普天間の移設皇居が最適地」を紹介する。中田氏を、こころ優しき無頼派と見た。

2004年10月19日『琉球新報』「ビジュアル版 キノコの世界」

2008年10月29日『琉球新報』「ビジュアル版 世界の肥満事情」


写真左から新城栄徳、中村佳代さん、安里長清氏(元 料亭左馬料理長)、仲里正雄氏/業務用食材「和楽路屋」前
◎安里長清氏(元 料亭左馬料理長)ー沖縄の高級珍味「豆腐よう」あさと屋本舗ー沖縄県宜野湾市嘉数4-26-6 ☎FAX 098-897-7717


写真左から新城栄徳、翁長良明氏、安里長清氏(元 料亭左馬料理長)、仲里正雄氏




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沖縄島ー沖縄島は、沖縄県を構成する160の島の中で最大の島であり、また東シナ海と太平洋の間に位置する南西諸島においても最大の島である。 ウィキペディア

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与那覇岳ー与那覇岳は、沖縄県国頭郡国頭村字奥間・字比地に位置する山である。 沖縄海岸国定公園内にある沖縄本島最高峰で、標高は503メートル。ただし、その隣の498メートルのピークに三角点があり、こちらを山頂のように見なす向きもある。 ウィキペディア


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知念(ちねん)半島から久高島を望む/久高島展望ーさやか・ひより


久高島ー知念(ちねん)半島の東約5kmに位置し、周囲7.75kmの小さな島です。琉球開びゃくの祖アマミキヨが天から降りて最初につくったとされている島で、五穀発祥の地、神の島と呼ばれています。また、歴代の琉球国王は久高島参詣を欠かすことはありませんでした。久高島には、12年に1度、午年に行なわれる祭事・イザイホーに代表されるように神秘的な祭事がそのまま残っているため、民俗的に貴重な島として注目されています。→ 神の島 久高島 | 南城市公式Webサイト

2011年6月20日ー『沖縄の軌跡』(島袋和幸 〒124-0011 葛飾区四つ木4-18-10 電話:03-3695-9276『沖縄の軌跡』75号目次<神の島・久高島>ティミグスク チマリヤーの唐船模型 唐船・進貢船の鷹の目
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写真「クボウぬウタキ」【今帰仁間切今帰仁村のクボウヌウタキ】この御嶽(ウタキ)は国レベルのウタキと位置づけている。『琉球国由来記』(1713年)では、今帰仁巫(ノロ)の崇所とされる。本来、三十三君の一人今帰仁阿応理屋恵の崇所ではなかったか。『琉球国由来記』が編纂された頃、今帰仁阿応理屋恵は今帰仁監守(今帰仁按司)が首里に引き揚げていた時期、あるいは廃止されていた時期でもあり、今帰仁阿応理屋恵が今帰仁に居住していた時は、今帰仁阿応理屋恵の祭祀場としていたと見られる。勿論、祭祀に今帰仁ノロや村の神人や間切役人や村人たちの参加があったであろう。→今帰仁村歴史文化センター

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アスムイ/辺戸
国頭村辺戸の安須森(アスムイ)
安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。→今帰仁村歴史文化センター


後列左から赤嶺昌樹氏、平良知二氏、屋部憲氏。前左から金城美奈子さん、國吉貴奈さん


後列左から國吉貴奈さん、平良知二氏、屋部憲氏、金城美奈子さん、前が赤嶺昌樹氏


後列左から赤嶺昌樹氏、平良知二氏、屋部憲氏、前左から仲里なぎささん、國吉貴奈さん

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てるや商店は家の近くにある。広いスペースが古本で埋まっている。『サライ』とか雑誌のバックナンバーが豊富である。

右側に沖縄の雑誌『青い海』






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大衆雑誌『芝居と映画』
1949年5月  沖縄劇場協会『芝居と映画』創刊号□編集兼発行人・高良一
山里永吉「雑談」/比嘉正義(松劇団)「劒戟役者放談」/親泊興照、儀保松男「儀保松男追憶談」/平良良勝(沖縄俳優協会長・竹劇団長)「芸道苦心談」/大見謝恒幸(梅劇団)「新俳優研究生時代の思い出」/「映画スター前身調べ 癖しらべ」/仲井眞元楷「演劇漫筆」/編集後記「沖縄で最初の娯楽雑誌としてデヴィウすることになりました。誌名に示すとうり”芝居と映画に関する一切の記 を集録して読者諸賢にまみえるつもりです」

1949年6月  沖縄劇場協会『芝居と映画』6月号□編集兼発行人・志良堂清英
旗岸平「新演劇への第一歩」/伊良波尹吉(梅劇団長)「芸談」/玉城盛義「玉城盛重翁追憶ー叔父を語る」/松村竹三郎「”武士松茂良”余談」/仲今盛良(梅劇団)「芸道苦心談」/山里永吉「雑談(2)」/「演芸ー芝居狂言作者年表(1)」/「演劇映画用語集」
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1950年5月ー『演劇と映画』第2巻第1号□上間朝久「名優の思出ー儀保松男」
1950年8月 『演劇映画』7,8月合併号□演劇映画社ー編集兼発行人・志良堂清英 印刷・沖縄ヘラルド印刷局)
山里永吉「演劇放談」/「王将ー大映作品」/川平朝申「沖縄映画製作への雑感」/沖縄ペンクラブ同人「沖縄文化を語る放談会」/上地一史「沖縄ペンクラブ」/小林寂鳥「なが雨の素描」/具志幸孝「幕波に就いて」/伊集田實「演劇雑感」/本部茂「シナリオ 朝から晩まで(2)」/田幸正英「『袈さの良人』の演出について」/サンゴ・タロウ「詩 啓示」/美田太郎「一流館」/又吉つる子「袈さの良人出演後感」/沖縄の芸能ー折口信夫「同胞沖縄芸能の為に」、比嘉良篤「沖縄芸能の味」、式場隆三郎「琉球文化の愛護のために」、今井欣三郎「邦舞への挑戦」、西崎緑「琉球舞踊一年生」、水田龍雄「遥かなる郷愁」

映画ー1950年代の那覇の映画館・新聞社

劇場
1ー国際劇場、2-中央劇場、3-那覇劇場(芝居)、4-沖縄劇場、5-沖映、6-大宝館、7-大洋劇場、8-珊瑚座、9-オリオン座、10-平和館
新聞社
11-琉球新報社、12-沖縄タイムス社、13-琉球新聞社、14-沖縄朝日新聞社

1950年10月 『演劇映画』10月号□演劇映画社ー編集兼発行人・志良堂清英 印刷・南西印刷所)


1950年10月『うるま新報』「中央劇場ー帰国ダモイ」

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1951年2月 乙姫劇団ハワイ公演




1957年4月8日『琉球新報』川平朝申「M・G・M・ダニエル・マン監督の『八月十五夜の茶屋』を観て」 


1959年12月 「アダムとイヴ」「日本誕生」


1961年1月 那覇のグランドオリオンで「渚にて」上映

1965年5月29日 30日の国映館の東宝まつりに出演の草笛光子、藤本真澄①が日航機で来沖
①藤本真澄 ふじもと-さねずみ
1910-1979 昭和時代の映画プロデューサー。
明治43年7月15日生まれ。昭和12年PCL(現東宝)にはいる。戦後辞職して藤本プロダクションをつくり,「青い山脈」を大ヒットさせ,のち東宝に復帰し取締役,副社長となった。作品はほかに「若大将」シリーズなど。昭和54年5月2日死去。68歳。山口県出身。慶応義塾高等部卒。 →コトバンク

1965年6月6日『琉球新報』「おきなわ出演の千草かほるに聞くーきっかけに困った方言のセリフ」、仲井真元楷「明治 大正 昭和名優伝 嘉手納良芳」 
         沖映本館「伝説史劇・おきなわ」/グランドオリオン「明治大帝御一代記」(嵐寛寿郎)/東宝劇場「赤ひげ」(三船敏郎)
         台湾で琉球芸能紹介、高安六郎一行(フリユンターズ)きょう出発


1966年1月15日 沖映本館で沖縄興行史上最大の豪華一大絵巻!!「龍神の舞い」開幕

1967年12月 沖映本館「愛の雨傘」/桜坂オリオン「007ゴールドフィンガー」(ショーンコネリー)
1974年2月 沖映本館「尚巴志と三山」/東宝劇場「日本沈没」/桜坂オリオン「シシリアンマフィア」/琉映本館「実録安藤組」
1974年10月 沖映本館「仏桑華」
1975年8月 沖映本館「怪談 大島今門小」「喜劇 今帰仁神殿内」/国映館「ゴッドファーザーⅡ」/桜坂オリオン「暗黒街の顔役」
(トニーカーチス)

1975年11月 国映館「大地震」/グランドオリオン「別離」(エリザベステーラー)「ガンモール」(ソフイアローレン)/沖映本館「佐久の坂哀話・涙の子別れ」「三人片端」
1976年5月 沖映本館「女よ強くあれ」「たわむれの恋」
1976年12月 沖映本館「薄情」「浜辺の嘆き」
1977年1月 沖映本館「ガンチョー小」「月城物語」「瀬底情話」/国映館「キングコング」/東宝劇場「犬神家の一族」 
1977年3月 琉映本館「日本の首領」(佐分利信)/沖映本館「夏時雨王女節」「淵」 



1981年4月 「親泊元清芸道45周年記念」

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 2016年5月11日『毎日新聞』ー公表データのうち租税回避地に設立した法人や信託の役員・株主(個人・企業)などの住所地は、中国や香港が突出し、「チャイナマネー」の拡散ぶりが示された形だ。中国は2万8073件で、香港は2万1041件に上る。日本は重複分を含め806件。□今回のパナマ文書ではアメリカ人・企業などの名前が少ない理由は米国人・企業にとってはデラウェア州①で租税回避が間に合うし、利点が多い。・わざわざ国外のタックスヘイブン②を利用する理由がない。・実態が解明されていないだけで、パナマ以上の租税回避が行われている。→歩叶コラム

①デラウェア州は、アメリカ合衆国大西洋岸中部に位置する州の1つである。デルマーバ半島の北東部を占め、南と西はメリーランド州に、北東はニュージャージー州に、北はペンシルベニア州に接している。→Wikipedia
②タックス・ヘイヴン(英語: tax haven)とは、一定の課税が著しく軽減、ないしは完全に免除される国や地域のことである。低課税地域(ていかぜいちいき)、租税回避地(そぜいかいひち)とも呼ばれる→Wikipedia

 2016年4月25日『毎日新聞』ー鈍い日本政府の反応とは対照的に、公益財団法人「政治経済研究所」理事で、タックスヘイブンを使った闇ビジネスに関する著書がある合田寛さんは「日本の国民はもっと怒っていい。今回の騒動は租税回避問題に国民の目を向けさせるチャンスだ」とパナマ文書の公開を積極的に評価する。「一部の富裕層だけが課税を逃れられるというのは、極論すれば民主主義の危機です」 「一番の問題は、タックスヘイブンを利用できるのは手数料などを負担できる富裕層や多国籍企業に限られることです。国際通貨基金(IMF)の調査では、経済協力開発機構(OECD)加盟国だけで、年間50兆円近くもの額を徴税できるのに、その機会が奪われていると言われます。税収不足のツケは結局、国内で納税する国民に回ってきます」 。真面目に税を払っている企業や国民の納税額に直結する問題という見方は中央大学名誉教授(税務会計学)の富岡幸雄さんも同じだ。「そもそも日本の税制は大企業に甘すぎる。私の試算では、大企業優遇の税制を見直せば、法人税率を上げずに年間9兆円の税収を確保できる。消費税も上げる必要はない。国民はもっと怒り、租税回避に詳しい税理士を国税庁の味方につけて摘発に当たるとか、日本政府がやれることはたくさんある」

2016年4月7日ニューズウィーク日本版ーパナマの法律事務所モサック・フォンセカが作成した、膨大な機密文書の暴露、いわゆる「パナマ文書」問題では、アイスランドのグンラウグソン首相の辞任を求める声が高まっています。また、イギリスのキャメロン首相については、亡くなった父親がリストに含まれているという暴露があり、その他にもウクライナのポロシェンコ大統領や、サウジのサルマン国王などの名前も挙がっています。また、中国の習近平主席の親族の名前や、ロシアのプーチン大統領の友人の名前も出ているそうです。
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『日清食品社史』「めんの系譜図」
台湾出身の安藤百福(あんどう・ももふく、1910-2007)は繊維業に携わり大阪へ進出。第二次大戦後の復興にはまず食事が大事と考え、食品加工・製塩などの事業を経て1948年(昭23)加工食品の輸出入・販売業の中交総社を設立。翌年サンシー殖産に改称、1958年(昭33)瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(チキンラーメン)を開発し、「日々清らかに豊かな味をつくる」との願いから日清食品に商号変更する。1971年(昭46)カップめんを発売開始、事業を多角化し海外へも発展する。当該社史は7章の本文と資料からなり、創業前史で安藤の生い立ちと即席めん開発を記述。口絵にめん食の文化史や製品・工場写真を多数掲載。[2008年(平20)持株会社日清食品ホールディングス設立、新たに即席めん事業の日清食品(株)が誕生]

1994年2月22日『琉球新報』「沖縄そば 明治40年ごろ独自の味定着 新城栄徳さん(44)が調査」


沖縄県立博物館・美術館Facebook2013 
明日10月17日は沖縄そばの日!
沖縄そばはいつごろ誕生したのか。この疑問を解明した人物がいる。「琉文21」を主宰する新城栄徳さんである。今から19年前(平成6年)の新聞紙上で沖縄そばのルーツを見事に解き明かしている。新城さんは、明治31年から大正11年までの新聞・雑誌の広告を丹念に調べあげ、明治35年4月9日付けの琉球新報に「支那そばや」の開店広告を発見する。但し、同そば屋は清国より料理人を招いて「支那そば」を売り出しているので、まだ沖縄そばと呼べる代物ではない。
では、支那そばから沖縄そばに進化するのはいつごろか。新城さんは、明治40年に那覇の前之毛で福州の料理人を雇う「観海楼」と地元の「比嘉店」が客の争奪戦をして、比嘉店が勝利をおさめたという記事に着目する。つまり、この頃には沖縄そばとしての味が一般に定着していたのではないかというのである。さらに、「不勉強屋」の広告でも分かるように、和田那覇署長が「琉球そば」と呼ぶように指示。かくて明治末から大正期にかけて、我が愛すべき県民食は誕生したのだ。
同記事は「(沖縄そばの)由緒を正確にする必要がある」という新城さんの言葉で結んでいる。嗚呼、沖縄そばよ! 汝はかくもナゾ多き食い物であったか・・・。まーさいびたん!(M.K:M.K)

5月8日『琉球新報』「戦後50年きょうから明日へ 沖縄そば」


あぐに/沖縄そば
1879年5月4日         『西京新聞』「那覇に料理店、茶店の向は一ヶ所もなし」
1889年              那覇の料理屋ー海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤など。
1890年              料理屋・飲食店ー那覇39軒、首里6軒
1891年              料理屋・飲食店ー那覇63軒、首里9軒、名護2軒、渡久地1軒
1892年              沖縄県の料理屋・飲食店ー開業48軒、廃業15軒
1893年              寺内某が来県、料理屋「東家」の協力をえて琉球芝居の俳優、囃子方らを雇い関西興行をなす。
1894年3月9日         『国民新聞』「沖縄農民は4食にして唐芋と云う甘藷、豆腐、味噌汁および豚肉らはその常食にして魚                     類、米、粟、豚脂に揚げ たる麦粉らこれに次ぐ。そのほか蘇鉄、椰子あり。料理には大概豚脂を用ゆ」
                   料理屋・飲食店ー那覇144軒、首里47軒、宮古10軒、八重山6軒
1895年              料理屋・飲食店ー那覇171軒、首里62軒、宮古14軒、八重山8軒。
1896年              台湾領有で那覇の主な料理屋、台湾に移る(いろは亭、玉川屋などは残る)
1899年              名護に料理屋5軒、仕出屋2軒。那覇南洋堂「食パン」販売。宮里松、大門前通りで蕎麦屋を開業(日本そば)
1900年              那覇「りん寿司」改良すしを始める。楢原鶴吉「東家」を譲り受け、大阪より料理人を雇いいれる。那覇                     「鶴屋」練羊羹・カステラ・メリケン粉販売。
                   那覇「住吉屋」牛すき焼き8銭、鳥すき焼き12銭、すし7銭。那覇「紅屋」茶碗蒸し、すし、かまぼこ、牛肉、鳥肉販売。
1901年12月          高等女学校及師範学校女子講習科が料理科を新設し和洋の料理法を実習、費用は自弁。
1902年4月9日      福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑下りに「支那そばや」開業。 
1915年6月           「不勉強屋」支那そばを琉球そばと表示(和田那覇暑長が指示)

1920年10月16日-新里有一郎「井筒屋」(琉球そば)開業
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1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業

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写真/伊江朝助、伊波普猷、伊波普成、當間重慎、渡久地政瑚、東恩納寛文ら後に沖縄の新聞界で活躍する面々が居並ぶ。この写真は沖縄県立図書館の東恩納洋資料にあるもの。この写真の時代背景は伊波普成が1909年3月19日『沖縄毎日新聞』に書いた入社の辞「誓閑寺時代の回顧」でよく分かる。→「誓閑寺時代の回顧」


『平氏當間家譜 正統』(那覇市歴史博物館所蔵)





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資料・安藤佳翠

1991年4月22日『沖縄タイムス』「那覇市史編集室にあった新聞コピーは、那覇市泊の収集家・新城栄徳さん(42)が以前持ち込んでいた。新城さんによると、2年ほど前に名護市立博物館で戦前の新聞をめくっていて偶然目に・・・」

那覇市歌の制定については、戦禍で資料が失われたため、正確なことはわかっていません。 しかし、戦前の新聞の記録や作詞家の安藤氏の当時の日記などから、制定されたのは、1929年(昭和4年)ころと推定されています。 現在、市歌は、市の様々な式典や行事などで演奏されている外、ラジオの広報番組「那覇市民の時間」 のオープニング、エンディングのテーマ曲としても使われていて、広く市民に親しまれています。

市歌(楽譜)
作詞:安藤佳翠(あんどう かすい) 作曲:宮良長包(みやら ちょうほう)
1. あけぼの清き南(みんなみ)の 港にぎわう百船(ももふね)や まちはいらかの数増して 弥(いや)栄えゆくわが那覇市  
2. みどりも深き奥武山(おうのやま) めぐる入江の水なごみ 清き心に諸人の むつみしたしむわが那覇市  
3. ゆかりも古き波の上 あおぐ誠を捧げもて 理想の自治に進まなん 希望(のぞみ)かがやくわが那覇市

那覇/那覇市制90年
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1921年
3月6日ー『琉球新報』「中城湾ご仮泊に関し警保局長より県へ公電あり御上陸は不明なるも」
3月6日ー東宮(昭和天皇)来沖

3月7日ー『琉球新報』「此れ眞に千載一隅の栄誉!東宮殿下昨日中城湾に御仮泊 御上陸御自ら民情を御視察遊ばさる」

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□『史料編集室紀要』第25号 小野まさ子「新聞資料『那覇首里市制紀念号』について」

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写真左ー左から比嘉晴二郎氏、宮城剛助氏、渡口善明氏(撮影・新城栄徳)、写真右ー宮城聡御夫妻と新城栄徳、比嘉晴二郎氏(撮影・国吉真哲翁)、比嘉晴二郎氏の書斎

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2010年8月29日『沖縄タイムス』「初代沖縄県令の墨蹟/沖縄最古の通貨『中山通宝』琉球史紡ぐ250点ずらりー壺屋焼物博物館・来月5日まで 収集家『お宝』展示」(掲載写真ー琉球処分官・松田道之の直筆書簡を前に、左から真喜志康徳氏、翁長良明氏)


今回の和田正義氏(〒902-0073那覇市字上間344-1-804電話831-6257)出品は松田道之の書状や鍋島直彬の墨蹟。



今回は焼物(シーサー)を出品した照屋重男氏(電話090-1945-3125)


1983年5月に大阪で発見されて以来の2枚目の写真。出品者は仲里康秀氏(〒901-1117南風原町字津嘉山100電話090-3322-9908)

9月5日ー最終日、新川明氏、金城正篤氏が来館し、新川氏は翁長良明氏の古銭コレクションの説明を熱心に聴いていた。近代史研究家の金城氏は松田道之書簡を興味深く観ておられた。



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1985年1月ー安里盛昭『粟国島ーシマンチュとシチビ 神の里』
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安里盛昭氏と大城精徳氏(右)




安里盛昭氏


2013年5月1日 

安里盛昭氏と戸澤裕司氏

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写真ー伊藤勝一経営の「東京書院」(京都市内)/新城栄徳宛の伊藤氏のハガキ
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写真ー1872年維新慶賀使ー前列右から喜屋武朝扶親雲上(讃議官)、伊江王子朝直(正使)、宜野湾親方朝保(副使)、後列右は安田親雲上、外務省通弁の堀江少録
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写真ー左から宜野湾親方朝保、浦添親方朝昭


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写真上・大阪沖縄会館「船越義彰講演会」でー右から2列目が伊藤勝一氏、その後ろ新城栄徳
写真下・左から伊禮吉信氏、伊藤勝一氏、新城栄徳

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写真左から、國吉保武氏、金城功氏、高良倉吉氏、宮城篤正氏、新城栄徳


2010年11月5日「那覇の名橋と知られざる橋」那覇市歴史博物館


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泊港

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2002年5月8日の『沖縄タイムス』「復帰30年 不在の検証⑨」に、私は末尾に次のように書いた。


密約復帰30年の今、問題にしなければならないはずの典型的な沖縄差別の「戦争法案」、マスコミへの「言論統制法」や「医療・郵政の改悪法」に対し、沖縄新聞の全国紙なみの客観報道は見事にヤマト人になりきっている。

これらマスコミの対応がアンポ(カジノ)容認の仲井真知事を再選させた。今回もまた、仲井真知事は●●氏の総決起大会に、那覇市長、自民党の三●じゅん子らと参加し、あわよくば●●氏当選のアカツキは「県民は基地反対の伊波市長を否定した」だから辺野古移設も苦渋の選択と称し、受け入れかねないのはミエミエである。

2012年1月31日『沖縄タイムス』「大弦小弦」に、27日、都内で開かれた沖縄観光関連イベントに仲間由紀恵、国仲涼子、比嘉愛未がかけつけたがもう一人の主役(仲井真知事)の顔がなかった。観光収入は4000億円台を突破し、県経済の大きな柱だ。知事に諫言する県幹部、与党幹部はいなかったのか、そのほうが気にかかる。とし、知事の欠席に苦言を呈している。

知事として見ればそんなことより政府から一括交付金も貰った手前、そのお礼も兼ねて●●氏の総決起大会(カジノ)のほうがより重要と考えているのだろう。喜納民主党代表代行は沖縄タイムスの取材に「民主党本部から●●氏を支援せよと、指示が出ている」と発言している。
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1972年12月 沖縄の雑誌『青い海』1月号 石川文一/柳光観・画「沖縄歴史小説 三山の覇王」

日本画家・柳光観

1953年 左から金城安太郎、山田眞山、柳光観


柳光観/表紙絵 1960年10月『今日の琉球』36号「獅子舞」

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画廊沖縄「柳光観展」、左から佐久田繁氏、金城安太郎画伯、上原誠勇氏、柳光観画伯、大城精徳氏

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柳光観「タウチーオーラセー」


日本画家・鈴木当志子
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 2011年1月ジュンク堂那覇店に行くと大逆事件100年ということで関係書籍が積まれていた。1972年、大阪梅田の古書店で入手したのが『大逆事件アルバムー幸徳秋水とその周辺』であった。幸徳秋水はどういう人物かは知らなかったが写真集といこうことで買った。
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1972年4月ー幸徳秋水全集編集委員会『大逆事件アルバムー幸徳秋水とその周辺』明治文献

1910年6月28日『沖縄毎日新聞』「無政府黨の陰謀」
6月29日『沖縄毎日新聞』「本社発行人(伊舎良平吉)検事の取調べを受ける」

幸徳秋水は麦門冬・末吉安恭がいつも気にしていた人物。1912年『沖縄毎日新聞』元旦号に麦門冬は鑿と題し「浦島太郎が龍宮へ行こうとすると声がするので振り返って『ヤア誰かと思ったら幸徳秋水君か君は又地獄の牢破りをやったな』『急行列車で今着いたばかりさ』『君も浮かばれない亡者だナア』『ナアにこれから沈もうと思っている』」と書く。麦門冬が水死したとき、東恩納寛敷は「波上軒で麦門冬が酔って興に乗じ幸徳秋水の漢詩を戸板一杯に書いた見事な筆蹟であった」と追悼文に書いている。麦門冬から琉球美術史の手ほどきをうけた鎌倉芳太郎は後年「麦門冬の周りには徳田球一ら社会主義者が集まっていた」と証言している。

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写真ー金城安太郎画伯と新城あけみ

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1976年12月 沖縄の雑誌『青い海』59号 宮良瑛子「喜び、悲しみ、怒りを一本のノミに託して」

2016年4月26日~10月16日 沖縄県立博物館・美術館「宮良瑛子展ーいのち」

写真左から豊見山愛、大城さゆり、與那嶺一子、宮良瑛子、山川さやか、の皆さん。(4月26日 美術館副館長室)

2016年4月28日『沖縄タイムス』「魚眼レンズ/『命の大切さ愚直に表現』ー宮良瑛子さん」
2016年5月3日『琉球新報』「あしゃぎ/世の中に何かを残すー宮良瑛子さん」
2016年5月4日『沖縄タイムス』「魚眼レンズ/『沖縄女性の美術』後世にー岡村幸宣さん」 
2016年5月5日『沖縄タイムス』「画家 宮良瑛子展シンポー人間描き 社会見詰める」 
2016年5月5日『琉球新報』「あしゃぎ/『私たちの記憶』にする絵画ー岡村幸宣さん」 


1974年1月 『沖縄思潮』創刊号  島袋光裕「題字」 宮良瑛子「表紙絵」 城間喜宏「目次カット」 安次嶺金正「とびらカット」

1977年4月 沖縄の雑誌『青い海』№62 宮良瑛子「ベトナム紀行 戦火のもとでも芸術活動が」
1977年5月 沖縄の雑誌」『青い海』№63 宮良瑛子「ベトナム紀行 戦火のもとでも芸術活動が(下)」

1984年12月 沖縄の雑誌」『青い海』№128<特集・琉球弧の女からのメッセージ>井伊文子「新春随想・簪によせて」/「新春座談会ー宮良瑛子、岸本マチ子、国吉安子、山川晶子、嶺井恵子、司会・関根愛子」
1985年1月 沖縄の雑誌」『青い海』№129 「新春座談会ー宮良瑛子、岸本マチ子、国吉安子、山川晶子、嶺井恵子、司会・関根愛子」(Ⅱ)

写真左から宮城篤正氏、安里盛昭氏 ○ ○ 山之端一博氏、宮良瑛子さん、前田孝允氏、大城精徳氏

2004年2月 宮良作『沖縄戦の記録ー日本軍と戦争マラリア』(カット・宮良瑛子)新日本出版社
○日本軍が沖縄戦を呼び込むために造った基地を、米軍が国際法規を無視して強化し使い続けています。しかも日本政府は、この基地を国民の血税をふんだんに使って維持、改造し、基地の整理縮小さえアメリカにきちんと要求していません。また沖縄の自衛隊基地は米軍が譲ってくれたという因縁つきのものです。「沖縄からは日本がよく見える」「沖縄の米軍基地は世界を鷹の眼で睨んでいるだけではない、日本国民の主権を抑えているのだ」ということを痛切に感じています。

2013年7月1日『琉球新報』「画家・宮良瑛子氏 丸木美術館で来春個展開催ー女性と命 描き続け 活動の集大成『力出し切る』」


宮良瑛子さん、その作品「祈り」2013年7月2日~7日 那覇市民ギャラリー「第31回 核も基地もない緑の沖縄を! 沖縄平和美術展」



左、喜納勝代さん、宮良瑛子さんと作品「奪われた大地」→2015年7月7日~12日 那覇市民ギャラリー「核も基地もないみどりの沖縄を!沖縄平和美術展」

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写真中央が山田勉氏、後列左から3人目が新城栄徳

○昭和60年4月より、図書館に部課長制が敷かれ、組織の強化とサービス体制の改善・整備が一段と進められた。それと共に業務の省力化、合理化に向けて見直しを図り、今日に至っている。初代事務部長に九大から前田正三氏、整理課長に尾崎一雄氏が阪大から着任、閲覧課長に当館の山田勉氏が昇任し、業務の電算化を推進することになった。又、昭和60年9月に閲覧課に図書館専門員が認められ、医学部分館に配置された。昭和61年1月より東京大学文献情報センター(現学術情報センター)と接続、これまでのカード目録作成に終止符が打たれ、目録業務の省力化が飛躍的に進み、本学図書館の電算化時代の幕開けとなった。→琉球大学附属図書館のあゆみ


1998年12月ー『沖縄県図書館協会誌』新城栄徳「近代沖縄の雑誌ー総目次と解説①」
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 2009年1月26日『朝日新聞』小原篤□「パトリック・マッグーハン①が死んだ!」 16日の朝、新聞を開いて思わず声を上げました。ダレソレ?というのが大方の反応かもしれません。弊紙に短く載った訃報では「刑事コロンボ」の出演・演出歴に触れたのみでしたが、伝説のカルトドラマ「プリズナーNo.6」を作り、主演した人であります。(略) 全体主義対自由の闘い、東西冷戦下の強迫観念の反映、官僚主義や管理社会への批判といった見方をされるようですが、主人公の素性や辞職理由や敵の正体など核心部分を「空白」にした寓話なので、いかようにも解釈が可能で古びることはありません。「村」に満足し「外」に出ようとも思わない呆けた顔の住人に目を転じれば、現代に生きる我々の似姿に思えます。ネットや携帯といった万能感を満たすものに囲まれ、あらゆる欲望に対応して先回りした商品が用意され、自由に振る舞っているようで特定の選択肢に誘導されている、そんな生活は王様のようで実は奴隷なのではないか?個人の手に負えないほど複雑で巨大なシステムの「外」へ出ることは可能なのか?それは果たして「自由」と言えるのか?なあんてことをモヤモヤと考えさせるのですー。(略)

①1928.3.19 - 生まれ: アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ニューヨーク アストリア。2009.1.13, アメリカ合衆国 カリフォルニア州 サンタモニカで死去.両親がアイルランド人で、7歳の時帰国。ライトクリフ大学に学ぶ。アマチュア演劇に興味を持ち、舞台監督としてシェフィールド・レパートリー劇団に参加。その後、俳優に転じ、同劇団に4年在籍。1955年ロンドンのガーリック劇場で注目され、同年「The Vise」でテレビデビュー。「颱風圏」で映画デビューを果たす。’65年からのテレビ・シリーズ「秘密諜報員ジョン・ドレーク」の主役と’67年からの「プリズナー」のNo.6役で知られ、カルト・テレビ的な人気を得ている役者で、演出も務める。その後も悪役が多い。→コトバンク

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名護朝助
慶応義塾入社名簿に/名護朝助 本籍地 沖縄県首里當蔵35 戸主 士族
              明治11年3月生 明治30年5月入社  証人 岸本賀昌
アメリカに渡米、10年余滞在
大正元年10月ー西洋料理「美理軒」(名護朝助経営、コック永田亀寿・元シュワルツ家コック)饒平名病院隣、一味亭跡に開業/11月ー『琉球新報』□食道楽君のピリケンの解釈は違っている。ピリケンとは福の神の意味で寺内総督にピリケンの名を冠したのは惑新聞が七福神の似顔を募った時、総督の三角頭が七福神の一つに及第したことがあるからピリケンのアダ名も蓋し之に出たのであろう。洋食屋の美理軒なるほど語呂はよくないが来る御客様を福の神と見立てたものであるとすれば語呂ぐらいは我慢が出来る。アテ字の美は美味の美、理は料理の理と見れば何れにしても結構じゃないか。

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1918(大正7)年3月の『琉球新報』広告/2006年9月『JTBパプリッシング』表紙

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左ー通天閣のビリケンさん/通天閣の見える右下にビリケンさんが見える

□通天閣の展望台で、真っ先に迎えてくれるのが、幸運の神様「ビリケン像」。
合格祈願・縁結びなどあらゆる願いを聞いてくれる、なんでもござれの福の神なんです。通天閣の「ビリケン」は、5階の展望台の立派な台座にちょこんと座っています。
笑っているのか怒っているのか。不思議な表情と、愛敬あるポーズが人気で、いつもお願いする人が絶えません。

ビリケン(BILLIKEN)は、1908年(明治41年)アメリカの女流美術家 フローレンス・プリッツという女性アーティストが、夢で見たユニークな神様をモデルに制作したものと伝えられています。トンガリ頭につりあがった目という、どこかしらユーモラスな姿は、たちまち「幸福のマスコット」「福の神」としてアメリカを始め世界中に大流行しました。
日本でも花柳界などで縁起物として愛されていました。

世界的な流行を受けて、1912年(明治45年)オープンした「新世界」の遊園地「ルナパーク(月の園)」では、さっそく「ビリケン堂」を造りビリケンを安置。これは大当たりし、新世界名物としてその名をとどろかせ、ビリケン饅頭やビリケン人形などのみやげ物まで作られました。また「福の神・ビリケン」を七福神に加え、「八福神めぐり」なども流行したと伝えられています。しかしビリケンは、ルナパークの閉鎖と共に行方不明になってしまいました。

オイルショックが去り、通天閣の灯が復活して新世界に活気がよみがえった1979年〈昭和54年〉、浪速文化の拠点をめざした「通天閣ふれあい広場(現・3階イベントホル)」ができました。その後、1980年(昭和55年3月30日)に新世界に馴染みの深い「ビリケン」の復活も決まりました。しかし、資料になるべき写真が見つからず。思案にくれている時、田村駒株式会社が版権を持っていることが判明。田村駒さんのご好意で、同社の「ビリケン」をもとに木彫で復元したのです。像の彫刻は伊丹市在住の安藤新平さん。(→通天閣)

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1926年『沖縄朝日新聞』2月10日/2月14日 尾上金城・作 相田杜里夫・画「連続漫画 女は国寶」



1939年6月 那覇の眞楽座で「ポパイの志願兵」

1939年11月 那覇の平和館で「漫画トーキー」(痛快なポパイ/可愛いぺティ)上映

フライシャー・スタジオ(Fleischer Studios, Inc.)は、ニューヨーク州ニューヨーク市ブロードウェイ1600番地で設立されたアニメーション制作会社に端を発するアメリカの企業。1921年にユダヤ系アメリカ人のマックス・フライシャーとデイブ・フライシャーのフライシャー兄弟により設立され、1942年1月にパラマウント映画に買収されるまで同兄弟により経営されていた。フライシャー・スタジオは初期のウォルト・ディズニー・プロダクション(後のウォルト・ディズニー・カンパニー)の最も重要な競争相手であり、『道化師ココ(英語版)』『ベティ・ブープ』『ポパイ』『スーパーマン』などのカートゥーン映画を制作した点で注目に値する.→ウイキペディァ


1956年5月9日『琉球新報』


1957年3月9日『琉球新報』「サザエさん」


1958年12月『琉球新報』
□映画が娯楽の王様だった1950年代。ディズニーに対抗して企画された日本初の本格カラー長篇アニメーション。中国に伝わる民話をもとに、白ヘビの化身である白娘(パイニャン)と恋人・許仙(シュウセン)の美しい愛の物語が紡がれる。声は森繁久彌と宮城まり子が一人十役を担当(!)。実際の俳優の演技を撮影して絵作りの参考にされたので恋人たちの一挙手一投足が実に繊細。動物も愛らしいが、パンダは当時なじみのない動物だったために作画スタッフは苦労したとか。50年の時を経た今見ても、風雅な絵と色合い、ファンタジックな音楽が素晴らしい。

1959年9月『琉球新報』


1960年2月『琉球新報』「少年猿飛佐助」
□「白蛇伝」に続く東映動画スタジオの長編漫画映画。ベニス国際映画祭児童映画部門グランプリ受賞。原作は檀一雄作の同名小説(読売新聞連載)。信濃の国の山里で山の動物たちを友達に佐助少年は、姉おゆうと二人で楽しく暮らしていた。ある日、子鹿のエリが大ワシにさらわれ、沼に投げ込まれてしまう。助けようと沼に飛び込んだ母鹿は、身代わりとして沼に棲む巨大な山椒魚のえじきに…。山椒魚は妖術使い“夜叉姫”の化身だった。佐助は仇討ちを決心し、妖術を打ち破る術を習得するため、戸隠山に住む仙人・戸沢白雲斎に弟子入りする。辛い修行に耐え、佐助は忍術の奥義をきわめる。そして3年ぶりに山を下りた佐助は、折りしも山賊を追う上田城の若殿・真田幸村と出会い、ともに山賊退治に向うことに。しかし、姉のおゆうを人質に取られ、佐助は山賊と手を組んだ夜叉姫に手が出せない。間一髪、幸村によっておゆうは救われ、夜叉姫と佐助は互いの術で対決する。


1964年3月 那覇の琉映本館で「白蛇伝」上映

1965年9月『琉球新報』「ポパイラーメン』
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1953年5月


1954年3月 那覇の大洋劇場で「紳士は金髪がお好き」上映


1954年4月 那覇のオリオン座で「バンビ」上映


1956年5月9日『琉球新報』


1956年12月27日『琉球新報』


1957年1月27日『琉球新報』「禁断の惑星」


1958年8月『琉球新報』


1956年11月7日『琉球新報』


1959年8月『琉球新報』


1961年8月 那覇の桜坂オリオン座で「眠れる森の美女」上映


1961年12月 那覇のグランドオリオンで「ジャングル・キャット」上映


1962年9月 那覇の琉映本館で「アラビアンナイト シンドバッドの冒険」上映


1963年2月 那覇のSオリオンで「シンデレラ姫」上映


1963年7月 那覇の国映館で「101匹わんちゃん大行進」上映


1963年12月 那覇のグランド・オリオン座で「狼王ロボ」上映

1966年8月  那覇の桜坂オリオンで「百獣の王ライオン」「わんわん物語」上映
1967年7月 那覇の桜坂オリオンで「バンビ」上映
1968年7月  那覇の桜坂オリオンで「ダンボ」「クマのプーさん」上映

1968年8月  那覇の国映館で「クーガー荒野に帰る」上映

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1975年7月 那覇の桜坂オリオンで「バンビ」「小びとの森の物語」上映

(翁長良明コレクション)

1976年8月 那覇のグランドオリオンで「大自然の驚異」上映

1974年3月 那覇の桜坂オリオンで「海底2万哩」上映/1975年7月 那覇の国映館で「メリーポピンズ」上映


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1954年7月 中野五郎『アメリカの暗黒ー米国を衝動した大事件ー』角川書店


『シンドバッド七回目の冒険』(1958年、公開当時の題名は「シンバッド7回目の航海」)は、ハリーハウゼン①の初のカラー作品となった。1つ目巨人のサイクロプスや、双頭の巨大鷲のロック鳥、ドラゴンなど様々な怪物が登場する。中でも骸骨戦士との剣戟シーンは有名である。

①レイ・ハリーハウゼンは、アメリカ合衆国の特撮映画の監督・特殊効果スタッフで、ストップモーション・アニメーター。映画史上、20世紀の映画における特撮技術の歴史を作ってきたといわれる人物である。1950年代から1970年代に活躍し、多くの特撮SF・ファンタジー映画を手がけた。 本格的なデビュー作となったのは、『原子怪獣現わる』(1953年)である。SF作家・レイ・ブラッドベリ(ハリーハウゼンとは高校時代からの親友であった)の短編『霧笛』を原作としている。水爆実験でよみがえった怪獣がニューヨークを破壊するというこの作品は、日本の特撮映画『ゴジラ』(1954年)にも大きな影響を与えた。→ウィキペディア

映画ー1960年10月21封切り 那覇若松国映 国映館「タイムマシン」

左ー2002年の映画『タイムマシン』(The Time Machine)は、2002年のアメリカ映画で、SF映画。ワーナー・ブラザーズ製作。H.G.ウェルズの小説『タイム・マシン』を原作とした映画であるが、物語には大幅な脚色がされている。また、本作は1959年にアメリカで製作されたSF映画『タイム・マシン 80万年後の世界へ』のリメイク作品である。(ウィキペディア)