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Category: 04-書の森
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1996年12月10日『琉球新報』女流作家の新垣美登子さん死去
沖縄の女流作家、自立する職業女性のさきがけだった新垣美登子(あらかき・みとこ)さんが9日午後4時19分、老衰のため入院先の那覇市首里石嶺のオリブ山病院で死去した。96歳だった。 自宅は那覇市久茂地3ノ2ノ12。告別式は12日午後3時から4時、那覇市楚辺292、那覇バプテスト教会で。喪主は妹の大城藤子(おおしろふじこ)さん。 新垣さんは1901年、那覇市生まれ。県立第一高女卒、日本女子大国文科中退。放浪詩人といわれた池宮城積宝と結婚するが、3カ月で別居。帰郷して県庁に勤める。30年、「うるま美粧院」を開業。35年小説「花園地獄」を琉球新報に連載。 戦後、「みと美粧院」を開業し、54歳で文筆活動を再開するが、66年眼底出血で失明。79年、手術で奇跡の開眼、新聞紙上で話題となった。82年、琉球新報に自伝小説「哀愁の旅」を連載。84年には83歳記念誌「那覇女の軌跡」を刊行した。



1924年12月19日『沖縄タイムス』池宮城美登子「落紅さん」

1924年12月 『沖縄教育』□池宮城美登子「寮舎の秋」


1926年1月 『沖縄教育』□池宮城美登子「新北風吹く頃(A)」


1926年11月 『沖縄教育』□新屋敷康繁「人生詞花集(その1)」 池宮城美登子「母となれば」 國吉眞哲「久米島日記抄」

末吉麦門冬と池宮城積宝
1924年3月21日 『沖縄タイムス』末吉麦門冬「序に代へて」

○私達の要求する所の郷土文学は一体どうあらねばならぬのかと云ふことは、私も考へないではありませんでした。一口に云ふとそれは私達この郷土に生まれたのでなければ感じ得ない、把握し得ない、創造し得ない、表現し得ない内容でなければならぬと思ひます。本當の沖縄と本當の沖縄人が出て来なくてはなりません。(略)鏡に向かって多くの人々は不満を抱きます。憤ほろしくなります。美しいと見惚れることはありません。私達の創造しやうとする郷土文学もこの厭やな思ひのする鏡裏の映像ではありませんか。けれどこの厭であっても、自分達の姿には、私達はどうしても逃げもかくれも出来ぬものがあります。・・・・

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1924年12月17日『沖縄タイムス』寂泡生「末吉安恭君を悼む」

池宮城積宝
1910年3月19日、沖縄県立第一中学校で卒業生送別会が行われ池宮城積宝が送別の詞を読みあげた。主な卒業生は、兼島由明、護得久朝章、柴田米三、山田有功、新嘉喜倫篤であった。5月14日には河東碧梧洞、岡本月村ら大阪、鹿児島の新聞記者団が平壌丸で来沖。

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写真左から二人目の立っているのが山城正忠、その下が上間正雄、4人目の立っているのが末吉麦門冬、その下の真ん中が渡嘉敷唯選。庭で左端に立っているのが池宮城積宝


左から中島イソ子さん、中島アリサさん、久子さん、竹治氏/1982年『青い海7月号』中島イソ子「青い海ギャラリー/自画像のある風景」

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2018年4月14日 那覇市民ギャラリー「中島イソ子展ーふりかえるー」


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1902年1月 丸善株式会社『學燈』「十九世紀に於ける欧米の大著述」
1945年12月 木村毅『甘藷傳來記』開成館

1938年9月 木村毅『小説研究十二講』新潮文庫/1945年12月 木村毅『甘藷傳來記』開成館〇甘藷傳來記・・・ところで種子島は琉球に近い。その頃の琉球は、まだ日本の領土ではなく日清両属と申して、支那を父とし、日本を母とすと云って両方についていた國であります。幕府は鎖国して、外国とは往来せぬ建て前になっていますから、琉球の監理は鹿児島の島津家に任せた。種子島弾正久基は先に申す通り、島津家の家老職をつとめている上に、距離が近いから、琉球とはゆき來がある。その中に、甘藷が大変に結構なものだといふことを聞いて、琉球の王様に願はくばその種子を少々贈って頂きたいと云って無心をしてやりますと、竹籠に入れて贈ってきました。これが元禄11年3月でありました。これを
種子島久基は西村権右衛門といふ者に云ひつけて、植えてみよと命じた。この西村権右衛門は、明治時代の儒者として聞え、又大阪朝日新聞の主筆をしてをられた西村天囚博士の遠い先祖であります。/鎮西八郎為朝ー南海の琉球列島、その中心をなす沖縄!これを思ふて血の湧き立たぬ者が、皇国一億同胞の中に、只の一人でもあるでありましょうか。戦争中沖縄県民の奮戦ぶりを讃えて、先頃徳富蘇峰先生が『さすがに源為朝の子孫だけの事がある。鎮西八郎の血に耻じないものだ』といふ事を書いてをられた。・・・

1948年7月 木村毅『小説の創作と鑑賞』暁書房
1955年3月『明治文化全集 月報№3』日本評論新社 木村毅「未開拓の新聞史源」
1955年3月『明治文化全集 月報№3』日本評論新社 木村毅「未開拓の新聞史源」
○日本の新聞史の材料も、国内にあるかぎりは、小野秀雄氏を主軸として何十年にわたる努力の累積で、九分九厘までほり出されたといってよかろう。オランダ関係の史源は板沢博士によって、かなり明かにされてきている。これに反しアメリカは、英語だから、着手できる人が多いにかかわらず、その史源がほとんど処女地のままで、うっちゃらかしになっているように思う。 
日本の新聞の元祖は、ジョゼフ彦である。彦は自伝があり、さらに故人の石井研堂翁や小野氏によって、まだ生存していたころ、未亡人までたずねて、埋もれた資料が開発せられたので、あそこまで探索されておれば、吾々はその努力と成果に一おう満足せねばならぬ。(略)明治維新や、さらに咸臨丸の太平洋横断よりも、更にさかのぼって、ペリイの黒船来航以前のジョン・万次郎やジョゼフ・彦時代から、新聞記事をあさってくれば、今まで不明だった国史の陰影が多少ともうかび出てくるであろうし、ことに彦は、その後ワシントンにいってからも、社交界の寵児としてひどく新聞でさわがれているのだから、これらの記事だけは、誰かによって、コピイされて、日本におくられることを希望してやまない。
1955年6月『明治文化全集 月報№5』木村毅「櫻洲山人をめぐりて」
○本全集の読者は、だいたいアカデミックな学風を愛する人が多いと思う。そういう人は正史にこだわって、小説や、巷説や、伝聞を無視するうれいがある。しかし、それにも時代の雰囲気としての正しさは含蓄されている筈だから、これを参考にしないでいい理由はない。中井桜洲山人などは、ことに、その方面の材料の多い人物だ。(略)あの頃の風流人のならいで、桜洲の家庭は吾々の模範になるようなものではなかったと思うが、私は、この人の風格は非常にすきで、いつか一度小説にかいてみたいと思って、前に、いろいろ材料をあつめたことがあったが、今は多く散逸してしまった。
1982年6月 木村毅『日米文学交流史の研究』恒文社「第25章 アプトン・シンクレェアの『ジャングル』」

きむらき【木村毅】
1894‐1979(明治27‐昭和54)
大正・昭和期の小説家,評論家。明治文学研究の先駆者。岡山県に生まれる。1917年早稲田大学英文科を卒業し,隆文館,のち春秋社で編集者として活躍するかたわら評論活動をする。23年退社し,近代小説の理論的研究を行う(《小説の創作と鑑賞》1923,《小説研究十六講》1925)。一方,24年には日本フェビアン協会の創設に参加し,日本労農党の出版部長を務める。また明治文化研究会に入り,第3代会長となる(1948)。(→コトバンク)


1969年2月 木村毅『丸善外史』丸善社史編纂委員会 「内田魯庵」

『丸善ライブラリーニュース』

 70年代、大阪で「沖縄関係資料室」を手伝っていたので、何故か手元に『丸善ライブラリーニュース』がある。№100に甲斐清通「ライブラリーニュース思い出の記ー100号を記念して」が掲載□おわりにーライブラリーニュースの生い立ちは、前述のように学校図書館を背景に育ったものであるが、ニュース100号の編年史のうち、日本の図書館や産業界、ビジネスの社会、個人の書斎と毎号趣向を替えて特集を組むうちに、すっかり読者の層も幅が広くなり、特に73号の個人情報整理の特集号あたりから、自他ともに許す「情報誌」に変身し、個人はもとより、ジャーナリズムやマスコミの脚光をあびるまで成長したことである。世はまさに情報化時代、公共、大学、専門、学校、その他、すべての図書館や文化施設がお互いにネットワークを組み、情報や資料の交換をやり、市民にサービスする時代である。

 1958年に創刊した丸善刊行の図書館に関する総合情報誌『丸善ライブラリーニュース』が、1989年の休刊から18年ぶりに、2008年に復刊する。

現在の発行は丸善雄松堂株式会社(まるぜん ゆうしょうどう。英: MARUZEN-YUSHODO Company, Limited)は、日本の大手書店、出版社、専門商社である。文化施設の建築・内装、図書館業務のアウトソーシング等も行い、幅広い業務を手がけている。大日本印刷の子会社である、丸善CHIホールディングスの完全子会社である。(ウィキ)

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2016年8月3日『琉球新報』「あしゃぎ/龍柱は正面向きにー西村貞雄さん」
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新城良一氏の手にしているのは紀田順一郎『日本博覧人物史』(左)に載っている1928年6月再版発行の齋藤秀三郎『齋藤和英大辞典』東勇治
斎藤秀三郎○1880年(14歳) 工部大学校(現在の東京大学工学部)入学。純粋化学、造船を専攻。後に夏目漱石の師となるスコットランド人教師ディクソン (James Main Dixon) に英語を学ぶ。後々までイディオムの研究を続けたのは彼の影響だったと後年述べている。また、図書館の英書は全て読み、大英百科事典は2度読んだ、という逸話が残っている。/1883年(17歳) 工部大学校退学。/1884年(18歳) 『スウヰントン式英語学新式直訳』(十字屋・日進堂)を翻訳出版。その後、仙台に戻り、英語塾を開設(一番弟子は、伝法久太郎である。また、学生の中に土井晩翠がいる)。1885年に来日したアメリカ人宣教師W・E・ホーイの通訳を務める。その後、1887年9月第二高等学校助教授(1888年9月教授)、1889年11月岐阜中学校(この時代、、濃尾地震に遭遇。この体験は、その後、地震嫌いとして斎藤の生活に影響を及ぼすことになる)、1892年4月長崎鎮西学院、9月名古屋第一中学校を経て、1893年7月第一高等学校教授。1888年5月とら子と結婚。/1896年10月神田錦町に正則英語学校(現在の正則学園高等学校)を創立して校長。以後、死亡するまで、(一時期、第一高等学校に出講したが)、ここを本拠として教育・研究に生涯を尽くした。→ウィキ

1916年  石川正通、一中退学、私立麻布中学校へ転校。3月29日、真玉橋朝起、武元朝朗、竹内弘道たちに見送られて沖縄丸で上京、甲板上で明大受験の城間恒昌、杉浦重剛校長の日本中学に転校する我部政達と3人で雑談に耽る。4月3日東京駅に着く。翌日、比屋根安定が大八車で荷物を一緒に運んでくれる。斎藤秀三郎校長の抜擢で正則英語学校講師となる。後に比嘉春潮(荻窪)、島袋盛敏(成城)、比屋根安定(青山学院構内)、仲吉良光(鶴見)、八幡一郎(東中野)、金城朝永(大塚)、石川正通(本郷)の7人で七星会結成する。


1970年3月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書 31』「齋藤秀三郎」


2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

『本の街』1986年~87年の「ケーベル」を改めて見る。泊の島尻政長のケーベル会の「ケーベル会誌」はネットでも紹介されている。

2014年1月21日『琉球新報』ピアニスト長堂奈津子のリサイタル「ピアノ協奏曲とケーベル歌曲の夕べ」が17日、南城市文化センター・シュガーホールであった。明治期、日本のピアノ界に大きな影響を与えたロシア出身の哲学者ラファエル・フォン・ケーベルの歌曲「9つの歌」を沖縄初演したほか、バッハ、シューマンのピアノ協奏曲をカンマーゾリステン21(指揮・庭野隆之、コンサートマスター・屋比久潤子)と共に演奏した。長堂はケーベル研究に没頭し、2011年に他界した父・島尻政長(ケーベル会初代会長)への追悼の思いを、厳かな演奏に重ね描いた。


1923年8月 『思想』「ケーベル先生追悼号」岩波書店

ラファエル・フォン・ケーベル(ドイツ語: Raphael von Koeber, 1848年1月15日 - 1923年6月14日)は、ロシア出身(ドイツ系ロシア人)の哲学者、音楽家。明治政府のお雇い外国人として東京帝国大学で哲学、西洋古典学を講じた。友人のエドゥアルト・フォン・ハルトマンの勧めに従って1893年(明治26年)6月に日本へ渡り、同年から1914年(大正3年)まで21年間東京帝国大学に在職し、イマヌエル・カントなどのドイツ哲学を中心に、哲学史、ギリシア哲学など西洋古典学も教えた。美学・美術史も、ケーベルが初めて講義を行った。学生たちからは「ケーベル先生」と呼ばれ敬愛された。夏目漱石も講義を受けており、後年に随筆『ケーベル先生』を著している。他の教え子には安倍能成、岩波茂雄、阿部次郎、小山鞆絵、九鬼周造、和辻哲郎、 深田康算、大西克礼、波多野精一、田中秀央など多数がいる。和辻の著書に回想記『ケーベル先生』がある。また漱石も寺田寅彦も、ケーベル邸に行くと深田がいたと記されている。→ウィキ

青空文庫ー夏目漱石「ケーベル先生」
 木この葉はの間から高い窓が見えて、その窓の隅すみからケーベル先生の頭が見えた。傍わきから濃い藍色あいいろの煙が立った。先生は煙草たばこを呑のんでいるなと余は安倍あべ君に云った。
 この前ここを通ったのはいつだか忘れてしまったが、今日見るとわずかの間まにもうだいぶ様子が違っている。甲武線の崖上がけうえは角並かどなみ新らしい立派な家に建て易かえられていずれも現代的日本の産み出した富の威力と切り放す事のできない門構もんがまえばかりである。その中に先生の住居すまいだけが過去の記念かたみのごとくたった一軒古ぼけたなりで残っている。先生はこの燻くすぶり返った家の書斎に這入はいったなり滅多めったに外へ出た事がない。その書斎はとりもなおさず先生の頭が見えた木の葉の間の高い所であった。
 余と安倍君とは先生に導びかれて、敷物も何も足に触れない素裸すはだかのままの高い階子段はしごだんを薄暗がりにがたがた云わせながら上のぼって、階上の右手にある書斎に入った。そうして先生の今まで腰をおろして窓から頭だけを出していた一番光に近い椅子に余は坐すわった。そこで外面そとから射さす夕暮に近い明りを受けて始めて先生の顔を熟視した。先生の顔は昔とさまで違っていなかった。先生は自分で六十三だと云われた。余が先生の美学の講義を聴きに出たのは、余が大学院に這入った年で、たしか先生が日本へ来て始めての講義だと思っているが、先生はその時からすでにこう云う顔であった。先生に日本へ来てもう二十年になりますかと聞いたら、そうはならない、たしか十八年目だと答えられた。先生の髪も髯ひげも英語で云うとオーバーンとか形容すべき、ごく薄い麻あさのような色をしている上に、普通の西洋人の通り非常に細くって柔かいから、少しの白髪しらがが生えてもまるで目立たないのだろう。それにしても血色が元の通りである。十八年を日本で住み古した人とは思えない。(以下略)

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原爆の図丸木美術館
〒355-0076 埼玉県東松山市下唐子1401
TEL:0493-22-3266 FAX:0493-24-8371

「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)氏が全国の烽火跡などを訪ねた折に出会った蘇鉄。

長崎県南島原市<原城跡>の蘇鉄
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沖永良部島の世之主の墓、墓の入口と左側に蘇鉄が自生。
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沖永良部 西郷神社

沖永良部島の遠見台・ウブス

沖縄・烽火のネットワーク
 2010年6月、東京の島袋和幸氏が息子さんと西銘生楽の孫娘の幸子さんを同行し来宅された。島袋氏は「沖縄・烽火ネットワーク連絡会」(〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10/携帯090-4920-6952)なるものを立ち上げ烽火をあげている。私も琉球国の守礼門(中山門)の年表を作成中なので、かつて琉球国の通信手段であった烽火なるものに興味を持った。わが粟国島にもかつて番屋原というところに「遠見台」があって遠見番が居たという。

6月9日ー黒島などの烽火跡の調査から帰ってきた島袋和幸氏と烽火ネットワークの烽火をあげるため『琉球新報』『沖縄タイムス』に行った。両社とも仁記者が興味深く対応してくれた。タイムスでは与那嶺功記者にも会った。島袋氏には『烽火手帖』なるものを提案した。東京で島袋氏の刊行物の印刷を引き受けているのは大和印刷(大城盛和代表・〒東京都千代田区岩本町2-5-2電話03-3863-3236)で、大城氏は沖縄では琉球新報の印刷会社に勤めたことがある。

1998年5月に沖縄郵政管理事務所(稲村公望所長,徳之島出身)や「琉球の郵便物語」編集委員会(古倉保昭委員長)の企画でボーダーインクから金城康全『琉球の郵便物語』が発行された。私も微力ながら編集に協力した。本書に「近い離島間ではノロシ火などによる伝達も行われていたようである。太鼓やドラ鐘など打って知らせることは、去る太平洋戦争中にも各集落の要所などにあった古ボンベを見てもわかる通り、昔から同様の手段があったのではと思い出されるのである」と、ノロシにも触れている。

古倉保昭さんは琉球玩具の名人を父に持つ人で沖縄郵政資料センターの所長でもあった。今、同センターはパレットから那覇中央郵便局の2階に移転。モノレール壺川駅から近い場所にある。「島々をむすんだ昔の通信」にノロシが立ち情報が伝わる様子がジオラマになっている。〒900-8799那覇市壺川3-3-8/電話FAX098-854-0255(比嘉芳哲さん)

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2016年7月30日 写真左が新城良一氏、山田勉氏


2016年7月30日 左から玉城よし子さん、呉屋周子さん、新城良一氏、輝広志氏


2016年7月24日 末吉家にて左が末吉安允氏、新城良一氏

2016年9月2日『琉球新報』新城良一「ティータイム/200年前の英語学者」


1915年4月9日『琉球新報』麦門冬「眞栄平房昭ー百年前の語学者」

1924年5月『沖縄教育』末吉麦門冬「百年前の英語通ー眞栄平房昭」

□西暦一千八百十六年、即ち今を去ること百八年前、英國の船長ベーシルホール(言語学者チャンバーレン氏の祖父)が率いる探見隊を乗せた二隻の英鑑が朝鮮から琉球へと回航した。キャンプテン、ベージルホールの塔乗した船はメーフラワー號と云ふのであった。此メ―フラワー號乗組員が探見した朝鮮琉球に関した記録が「朝鮮の西海岸及び大琉球探見記」と云ふ浩澣な本となって、英國で出版された。其の原本は沖縄図書館にも一部蔵されている。その琉球の部分だけは先年伊波月城氏に依って飜訳せられ沖縄毎日新聞に連載されたから、記憶された方もあろうかと思ふ。この本は極めて面白く琉球の風土文物が記述描写せられてあるので、言語学者のチャンバーレン氏も、幼い時から、殊に祖父さんがこしらへた本として飜閲愛翫したそうである。チャンバーレン氏が後年日本に渡り文科大学に教鞭を執るようになり、更にわが琉球に来り、言語風俗を調査し、其の有名な琉球語の文法書等を著すようになったのも、動機を溯ればこの本が与えた刺激からであったといふ。

扨て私が茲に紹介せんとする眞榮平房昭とは何人かと云ふに、ベージルホール、チャンバーレン氏の探見記に活躍している一人物メーデーラーのことである。メーフラワー號の乗組員中にヘンリー、ホップナーと云ふ青年学者がいた。この人が調べた琉球語の研究が探見記の巻末に載っているが、ホップナーはメーデーラー即ち眞榮平房昭の助力によりて、あれだけの語彙を蒐集したのである。其の時メーデーラーも又帳面と矢立とを携えて、頻りにホップナーに就いて英語を教わり、双方交換教授をしたといふことである。(以下略)


 1928年ー市河三喜編輯『岡倉先生記念論文集』に豊田實が「沖縄英学史稿」を寄せている。豊田は沖縄県の依頼で1928年3月22日から28日まで英語講習のため那覇に滞在した。そこで沖縄県立沖縄図書館長の真境名安興などの協力を得て沖縄英学史を調べたのが前出の沖縄英学史稿として結実した。中に末吉麦門冬の「百年前の英語通」も引用し真栄平房昭の家譜を書いている。(2011年11月)


2016年7月24日 屋部家にて右が屋部憲次郎氏(夢華書道・琉訳聖書教室主宰)、新城良一氏

○1996年5月11日 リウボウ「おきなわ聖書展」ミニ講演会/屋部憲次郎
ベッテルハイム「琉訳聖書」と琉球語ー沖縄の伝統文化の一つである組踊の中に、キリスト教あるいは聖書と何らかの意味でひじょうに関係のある作品が一編ありまして、ここでご紹介したいと思います。『大川敵討』(忠孝婦人またはムラバルーとも称する)と題する組踊(戯曲)でありますが、これから興味深い台詞を二つ引用します。まず満納という悪役の台詞「はあ、面付もかはて悪魔やな女、夫喰ゆる悪生切支丹。鬼見ちやる人の此の世界にをゆめ。是ど鬼やゆる。・・・」(読み方「ハー、ツィラツィチンカワティ アクマ ヤナイナグ、ウトゥクヮユル アクショー キリシタ。ウニンーチャルフィトゥヌ クヌシケーニ ウユミ。クリドゥウニヤユル」)でして、キリシタン、悪魔、鬼などの語に注目されます。この組踊は1838年、尚育王冊封の重陽の宴で演じられましたが、当時の異国船がひんぱんに渡来したいわば不安な世相をよく反映しているといえましょう。ベッテルハイムが来沖したのは実にその十年後でした。・・・

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  グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck、あるいはVerbeek、1830年1月23日 - 1898年3月10日)は、オランダ出身で、アメリカ合衆国に移民し、日本に宣教師として派遣され活躍した法学者・神学者、宣教師。→ウィキ
1830年 オランダ生まれ。モラヴィア兄弟団の教会で洗礼を受ける。
1852年 渡米、ニューヨーク移住。コレラに罹ったが命を取りとめ、献身を決意する。
1855年 ニューヨーク州オーバン神学校入学。
1859年 上海からの海路、サミュエル・ブラウンと共に長崎に来日。
1864年 済美館教師。
1866年 村田政矩が尋ねて来て聖書の教えを請う。
1868年 致遠館(佐賀藩が長崎に建てた英学校)で教鞭をとる。
伊藤博文、大久保利通、大隈重信らが集まって英語や西洋の学問を学ぶ。

上京前のフルベッキと致遠館の学生
1869年 上京。大学南校(後年開成学校に改称)教師
フルベッキ、大隈重信に、これからの日本は西洋から学ばなければいけない、そのためには欧米へ使節団を派遣する必要があると説き、具体的な計画書も提出→岩倉使節団
1871年 語学・学術においての功績が喜賞され 明治天皇から勅語を賜る。
1873年 大学南校を辞職、政府左院翻訳顧問となる。
1878年 元老院に在職。旧約聖書翻訳委員。
1886年 明治学院理事。
1887年 明治学院神学部教授。
1898年 赤坂葵町で没。68歳。青山霊園に埋葬された。
高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』新教出版社、1978年

フルベッキ資料(私設 文学資料室所蔵)



右ーヘボン資料
1998年5月 保険医療研究所『いつでも元気』№79「ぶらり探訪 横浜 宣教医ヘボン(上)」
1998年6月 保険医療研究所『いつでも元気』№80「ぶらり探訪 横浜 宣教医ヘボン(中)」
1998年7月 保険医療研究所『いつでも元気』№81「ぶらり探訪 横浜 宣教医ヘボン(下)」

ジェームス・カーティス・ヘボン(英語: James Curtis Hepburn、1815年3月13日 - 1911年9月21日)は、米国長老派教会の医療伝道宣教師であり、医師。聖書の日本語訳にたずさわり、また初の和英辞典である『和英語林集成』を編纂した。 ヘボン式ローマ字は『和英語林集成』中での日本語の表記法が元になっている。ペンシルベニア州ミルトン出身。姓の「ヘボン」は原語の発音を重視した仮名表記で、ヘボン自身もこれを用いたことで一般に定着したものだが、まれに綴りを重視してヘプバーン、ヘップバーンなどの表記が行われることもある。幕末に訪日し、横浜で医療活動を行った。宣教師デュアン・シモンズと共に、横浜の近代医学の基礎を築いたといわれる。その功績を称えて、横浜市立大学医学部にはヘボンの名を冠した講堂「ヘボンホール」がある。また、東京で明治学院(現在の明治学院高等学校・明治学院大学)を創設し、初代総理に就任。日本の教育にも貢献した。→ウィキ

 2016年7月20日昼 おもろまちの「私設 文学資料館」で新城良一さんの話を聞く。県民大会に参加はしたが足が少しフラフラして若い女性看護師から熱中症扱いされて辟易したという。良一さんの数奇極まる来し方は小説より面白い。文学散歩の言葉を定着させた野田宇太郎や夏目漱石の話などなど良一さんと文学談義。

 1938年8月から須藤利一は『沖縄教育』に「ベージル・ホール大琉球航海記」を1939年まで連載。1938年12月には台湾愛書会の『愛書』に須藤利一は「琉球の算法書」を発表。1940年1月、須藤利一は野田書房から『大琉球島探検航海記』を出した。発売所は東京は日本古書通信社代理部、那覇は沖縄書籍となっている。この本は天野文庫と比嘉文庫にあるが口絵に「バジル・ホール肖像」が付いていないが、戦後復刻本には付いている。また川平装幀も微妙に違う。

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最近友人たちが何とかネットワークというて下記のようなメールを送ってくる。紹介する。

 ヘリパッドいらない住民の会と高江現地行動連絡会、基地の県内移設に反対する県民会議は21日午後2時から、沖縄県東村高江の米軍北部訓練場N1地区ゲート前で「オスプレイパッド建設阻止緊急集会」を開く。1000人規模を目指している。 主催3団体の代表あいさつのほか、沖縄県選出国会議員や県議会の会派代表らが登壇予定。沖縄平和運動センターの山城博治議長は「ゲートを開けさせず工事作業を阻止するため、多くの県民に結集してほしい」と参加を呼び掛けている。『沖縄タイムス』


米日は世界へ恥を知れ!!
【東・国頭】東村と国頭村に広がる米軍北部訓練場のヘリパッド建設工事に関し、7月17日午前8時ごろ、N1地区ゲート前で市民らと県警機動隊のもみ合いがあり、女性(58)があおむけに倒れ、頭部と腰を強く打った。女性は救急車で名護市内の病院に運ばれた。今月からのヘリパッド建設を巡る抗議行動で救急車による搬送されるけが人が出たのは初めて。
 同日午前10時半時点で沖縄防衛局が6日連続で行ったメインゲートへの資機材の搬入は確認されていない。新たなヘリパッドが建設されるN1地区に16日夕から沖縄防衛局の職員ら約15人が待機しているため、市民らもN1地区に移っている。沖縄平和運動センターの山城博治議長は「いよいよN1地区での排除が始まった。徹底した非暴力で行動し、作業をさせない。機動隊の暴力も許さない」と力を込めた。【琉球新報電子版】

政府はヘリパッド工事再開に向け16日から、全国各地の機動隊員を県内に派遣。派遣された機動隊員は17日、北部地域に続々と集結している。抗議行動をしている市民らからの目撃情報によると、警視庁、大阪、福岡、千葉、愛知などの各機動隊車両が北部方面に走行していたり、北部地域のホテルの敷地内に駐車していたりするのが確認された。【琉球新報】2016年7月18日


【東・国頭】東村と国頭村に広がる米軍北部訓練場のヘリパッド建設工事に関し、19日午前、警察は米軍北部訓練場の各ゲート前を通る県道70号の東村側の少なくとも2カ所で検問を行った。東村で検問しているのが確認されたのは、高江区内の新川ダム付近と高江区より南側の宮城区で、福岡県警、北海道警、沖縄県警の警察官が担当している様子。米軍北部訓練場のN1地区ゲート前で座り込みを行っている沖縄平和運動センターの山城博治議長と市民らは午前11時すぎ、検問開始の情報を受け、新川ダム付近の検問所に駆け付け、警察官に抗議を始めた。その際、米軍車両は止めずにそのまま通過させようとした。これに反発した市民らが米軍車両の前に座り込んで抗議行動を開始したが、機動隊が排除した。検問で止められたヘリパッド建設に反対する市民は「なぜ、免許証を見せる必要があるのか。抗議をしている人物かどうか判別するために確認をしようとしているのではないか」と憤っていた。【琉球新報電子版】7月19日□米黒人大統領、いや暴言王に臣下の礼をとるアベ政権、このクソ熱い最中の沖縄に警官を奴隷の如く送り込む無神経さ。少しは恥を知れ!
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 選挙が終わってすぐに高江、辺野古の新基地工事を再開しようと企むヤマトのアベ厚顔無恥政権。その手先の警官・海上保安庁員らが地球破壊阻止の市民運動に弾圧を加える。アベ政治が最も潰したい沖縄の地元紙は当然ながらそれを大きく報じる。その最中、琉球新報本社の出版祝賀パーティには『醜い日本人』の著がある大田昌秀さんや、かつてヤマト政治家の狡猾さを見抜き沖縄独立論を展開した新川明氏、川満信一氏や,沖縄タイムスの代表も参加し、さながらにマスコミの「オール沖縄」を想わされる。このアベ政治の沖縄を舐めてかかる事態を招いた「沖縄の弱さ」は「日琉同祖論」を説いた沖縄学の先駆者・伊波普猷にも思想的に大きな責任があるとする伊佐眞一『沖縄と日本の間で』(全3巻)の本である。


琉球新報本社入口
    
会場入口の儀間比呂志作品


益々元気な大田昌秀さん挨拶

左から松島弘明氏、久場政一氏、大濱聡氏、長元朝浩氏


左から大濱聡氏、上里佑子さん、海勢頭豊氏、我部政男氏


嘉数昇明氏、伊佐眞一氏、安仁屋眞昭氏

2016年11月17日 沖縄県立博物館・美術館ー嘉数昇明氏


田場由美雄氏、,松田賀孝氏、伊佐眞一氏


左から仲程昌徳氏、我部政男氏、玉木園子さん


挨拶する主人公


右から我部政明氏、田場由美雄氏、與儀喜邦氏

左から比嘉康文氏、川満信一氏、新城栄徳


左から新城栄徳、比嘉豊光氏、伊佐眞一氏


左から新城栄徳、長元朝浩氏、真喜屋美樹名桜大学准教授(リベラルアーツ機構)、仲程昌徳氏


左から三木健氏、伊佐眞一氏、金城善氏、佐喜真道夫氏、上里佑子さん


写真左から 仲程昌徳氏、伊佐眞一氏 真喜屋美樹名桜大学准教授(リベラルアーツ機構)、上間了氏、三木健氏、我部政男氏、ローゼル川田氏、


チニンウシィさん、波平恒男氏

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与謝蕪村[1716~1783]江戸中期の俳人・画家。摂津の人。本姓は谷口、のち与謝と改める。蕪村は俳号。別号、宰鳥・紫狐庵。画号、四明・長庚・謝寅など。江戸に出て俳人早野巴人(はやのはじん)(夜半亭宋阿)に入門。諸国放浪後、京都に定住、のち夜半亭2世を名のった。浪漫的、絵画的な俳風を示し、「春風馬堤曲」などの新体の詩も創作、中興俳諧の中心的役割を果たした。絵画では、池大雅(いけのたいが)とともに日本南画の大成者とされる。著「新花摘(しんはなつみ)」「夜半楽」「蕪村句集」など。→コトバンク

  1783年(天明三年)12月25日未明、永眠。享年68歳。「しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり」の辞世句を残し、新春の白梅を心に抱きつつ死んでいった。蕪村の墓は、芭蕉庵のある京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)の境内にある。毛馬閘門近くの淀川堤防上に、蕪村の句碑と生誕地の碑がある。句碑には有名な「春風馬堤曲」の中の『春風や 堤長うして 家遠し』の句が、蕪村の自筆を拡大して刻まれている。かつてこの句を刻んだ小さな碑が近くに建てられていたが、淀川改修工事で一時的に取り除かざるを得なくなった。淀川改修百周年記念事業の一つとして、句碑の復活が取り上げられ、地元では有志による蕪村顕彰碑保存会が結成され、建設省(当時)・大阪府・大阪市に働きかけ、この四者の協力により昭和53年2月、現在の堂々とした立派な句碑が建立されたのである。初代の句碑は昭和28年にやはり地元の有志によって設置されていたもので、今は国土交通省毛馬出張所敷地内の桜の木の下にひっそりと置かれている。生誕地の碑は昭和54年3月大阪市が建てている。→都島区

1911(明治44)年1月1日  『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖(1)」
1月1日  『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖(1)」
○古手帖ー冬篭り独り凡に侍つかかつて渋茶に咽を濕し乍暮るる●の早きを惜しみフト垢擦れた古手帖の眼につくままに抽き出して彼処此処拾ひ読みをして見ると僕も随分物数奇であったと見えて能くもこんな色んな物を書き取ったもんだ。此等はいづれ雑書類を繙読してその当時は少なくとも興味を以てしたもんだから今から見ると余りドットしないけれど紙屑買に渡す気でこう原稿紙の四角い物に入れて見ようといふ気になる。右は蜀山人の仮名世説にある大平の逸民の状態はこんなものであった。この超波①は作家として左程●い物ではなかったろうが兎に角、蕪村七部集②にも出ている「五車反古」に載っているのは下の四句だ、早乙女や先づひいやりと庭の先/祇園会や胡瓜花さく所まで/我屋根をはつれてゆかし天川・・・

①清水超波 しみず-ちょうは
1702-1740 江戸時代中期の俳人。
元禄(げんろく)15年生まれ。江戸の人。味噌(みそ)商だったが,家業をきらい,桑岡貞佐(ていさ)の門人となる。のち点者となり,独歩庵超波を名のった。元文5年7月27日死去。39歳。通称は長兵衛。初号は長巴。編著に「紙蚕(かみかいこ)」「落葉合(おちばあわせ)」など。→コトバンク

②蕪村七部集
ぶそんしちぶしゅう

江戸時代後期の俳諧撰集。菊屋太兵衛らの編。文化5 (1808) 年刊。与謝蕪村関係の代表的俳書『其雪影』『明烏』『一夜四歌仙』『花鳥編』『続一夜四歌仙』『桃李 (ももすもも) 』『続明烏』『五車反古』の8部を収めたもの。

1月7日  『沖縄毎日新聞』安元碧海「沖縄の人物地理」 
1月10日 『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖ー緑雨の『おぼへ帳』に・・・」
   






1923年12月  『沖縄教育』末吉麦門冬「俳句ひかへ帳ー言葉の穿鑿」
○俳句に出づる故事、物名、人名や地名には随分読む人を困らすのがある。私もそれに困った一人なので、そういう句に出会す時は、必ず手ひかへに留めて置いた。而して読書の際偶その出所を発見したり、解釈を得たりする時は、又別のひかへ帳に立てて置いた。それが積もって漸く一つの物に纏ったので、我と同じからん人の為めにと本誌に投した次第である。・・・公達に狐化けたり宵の春  蕪村ー狐が化けると云うことは普通に誰も知っていることだが、これも支那から来た話ではなかろうか。西陽雑爼①に「野狐一名は紫夜、尾を撃って火を出す、将に怪を為さんとするや必ず髑髏を戴いて、堕せすんば則ち化して人となる」と。又、五雑爼②に「狐千歳にして始めて天と通ず、魅を為さす。其の人を魅する者は多く人の精気を取りて以て内丹を成せばなり。然らば則ち其の婦人を魅せざるは何ぞや。曰く狐は陰類也、陽を得れば乃ち成る故に牡狐と雖必ず之れを女に托して以て男子を惑はす也。然れども大害を為さす、故に北方の人は之れを習はす」と。

支那では男に化けぬことになっているが日本ではこの句にあるように美男に化けて女を惑はすやうなこともあると信じられているやうだ。蕪村には狐の句が多い。「春の夜や狐の誘ふ上童」「狐火やいづこ河内の麦畑」「狐火や五助畑の麦の雨」「石を打つ狐守る夜のきぬた哉」「小狐の何にむせけん小荻原」「蘭夕、狐のくれし奇楠を烓かむ」等がある。彼が狐に興味をもっていたことが其の句の多いので知られる。此の句は敦盛卿のやうな美しい公達に狐が化けたと云ふので、それがいかにも春の宵のあやしき心持に調和した美をなすのである。かうした美しい怪物のあらはれるのも春の宵でなければならぬやうな気がする。狐忠信の舞台も春であるからこそ榮えるのである。

①名の「酉陽」は、湖南省にある小酉山の麓に、書1,000巻を秘蔵した穴が存在するという伝承に則っている。内容は、神仙や仏菩薩、人鬼より、怪奇な事件や事物、風俗、さらには動植物に及ぶ諸事万般にわたって、異事を記しており、中国の小説あるいは随筆中においてその広範さは一、二を争う。魯迅の愛読書であり、南方熊楠が、プリニウスの『博物誌』と名を比した書としても知られる。→ウィキペディア

②中国,明の随筆。謝肇せい (しゃちょうせい) の著。 16巻。全体を天,地,人,物,事の5部に分け,広く自然現象,社会現象の全般にわたって,その見聞,意見を記したもの。その観点は合理的な傾向をもち,当時の社会の矛盾を鋭く描く部分もあり,貴重な資料となっている。テキストの伝世に関しては、不明な点が多く、後集10巻の中には、明代の遺文を蒐集した部分が少なからず含まれるとされる。→コトバンク

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研究会と交流。
2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

2005年8月 那覇市立壺屋焼物博物館 「日本・琉球の文化資料展ー鎖国から文明開化へー」主催/天久海洋文学散歩会(新城良一)

左が喜納勝代さん




渡口万年筆の渡口彦邦氏と新城良一氏(右) 


2012年5月ミズリー州ブルックフィールド(ローズヒル墓地) ベッテルハイム墓碑で新城良一氏








2012年9月 那覇市ぶんかテンブス館3Fギャラリー「写真資料展・『琉球王国』と『宣教師ベッテルハイム』その時代」主催/新城良一「私設・文学資料館」



2013年9月 バジル・ホール研究会『琉球王国の栄光』第2号□写真/バジルホールとその自筆署名(新城良一所蔵)






通航一覧つうこういちらんー江戸時代の外交関係史料集。本文 350巻,付録 23巻,凡例総目2巻。幕府の命を受けて,大学頭林あきら (復斎) が史料を収集整理して嘉永3 (1850) 年に完成したもの。琉球,朝鮮,中国をはじめ,東南アジア,欧米諸国の国号の起源,統治者の世系,日本との交通などを,いくつかの項目に分けて書いてある。コトバンク


1938年8月から須藤利一は『沖縄教育』に「ベージル・ホール大琉球航海記」を1939年まで連載。(抜き刷りを新城良一氏所蔵)1940年1月、須藤利一は野田書房から『大琉球島探検航海記』を出した。発売所は東京は日本古書通信社代理部、那覇は沖縄書籍となっている。



1969年3月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書1』「B・J・ベッテルハイム」「八田知紀」「中村正直」

昭和女子大学「近代文化研究所」の中心事業であった『近代文学研究叢書』の刊行は、創立者人見円吉の企画・立案によるもので、大学が誇る図書館(近代文庫)の充実した蔵書を生かして調査研究が開始。38巻は「江見水蔭 B・H・チェンバレン 坪内逍遙」である


新城良一氏が手にしているのは神田 精輝 訳『ペルリ提督琉球訪問記 』の初版本


吉井勇の作「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」
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琉球芸能研究家・ジェームズ君(James Rhys Edwards, https://ucla.academia.edu/JamesRhysEdwards)

2016年8月3日『沖縄タイムス』ジェームズ・リース・エドワーズ「外来者の見た琉球芸能ー大新城忠勇伝 上」

宮良瑛子さんと作品「エーゼェント・オレンジ(枯葉剤)」

右ー久場トヨ「平和なれど舞姫」 左が山元文子「みどり色の少女」「ホルン君」


右ー安里盛昭氏 作品「琉球国 粟国島 魂の旧正月」







仲程作品「開けない夜はない(辺野古)」

辺野古新基地NO

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2016年7月9日 那覇市の一角で右が裵昭さん、新城栄徳


2004年11月 梁石日『魂の流れゆく果て』(写真/裵昭)光文社/2005年9月 裵昭『不滅の「役人天国」』光文社
裵昭
1956年福岡県生まれ。フォトジャーナリストとして「朝日新聞」「東京人」「週刊文春」「週刊新潮」などに、日本の国際化をテーマとした作品を発表。『鎖国ニッポンが多民族国家になる日』で第28回平凡社準太陽賞を受賞。『段ボールハウスで見る夢』(中村智志 文)で第20回講談社ノンフィクション賞受賞。著書に『となりの神さま』など。福音館書店「母の友」で、職人と工房のシリーズを掲載。日本生まれ日本育ちの在日コリアン。

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オープニング(琉球舞踊)仲嶺絵里奈・仲嶺麗子(阿波連本流師範)


あいさつ 城間幹子那覇市長 右は解説の山田葉子さん

あいさつ 金城徹市議会議長 中央が司会の鈴木悠学芸員

あいさつ 祝嶺恭子伝来品修理等審議会委員

テープカット

金城美奈子さん仲嶺絵里奈さん

仲嶺麗子さん、祝嶺恭子さん、仲嶺絵里奈さん

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  桜島のいただきから黄金色の硫黄のけむりが、紫ばんだ朝の空をかすめていた。紺碧の海をあやつるかんこ舟、そして長崎の呉服船や煙草船や、諸国の廻船などが波にもまれている間を、白い海鳥が、雪のように光って飛ぶ。
『見えた。』
『ーオオ、琉球船、琉球船。』
海岸の人の群れは、手をかざして言い合った。見ると、成程、はるか桜島の沖あいから一艘の船が帆をあげてはいって来る。海の琉光と陽の光りを吸って、その朱塗の船はまるで珊瑚細工のように眼に映った。
『賀春使の船がみえたぞ。-紫巾夫をのせた琉球船がはいったぞ。』
言い伝える声を聞いて、城下の町人や娘たちは、蟻のように海岸線にならんで、晴着の列を作っていた。だが、朱い船の姿は、そこに待ちあぐねている人々の予期を裏切って、港の岸へつくまえに途中から岬の蔭にかくれてしまった。
『なアんだ、伊敷の浦へついたのか。』
がっかりした町人たちが、それぞれの家へ帰って、春の酒に酔っていたころに、岬へ迎えに行った島津家の警固隊は、貴賓の駕をおごそかに護って、馬蹄先槍の行列を粛々とねりながら、岬街道から青木谷の琉球館へ、賀春使の一行を送りとどけた。
島津侯に拝謁する賀春使の登城は正月の12日と沙汰をされた。それまでは休息というので、那覇主の王族右大府について来た厨房夫や洗濯婦などの下級の琉球人は、ものめづらしそうに、手を組んで、城下を見物してあるいた。
夜になると、青木谷には赤い燈が点く、そして、右大府の旅情をなぐさめるため、泡盛を酌んで歌をうたう酒宴のさまが想像される。宵ごとに、そこから洩れる蛇皮線や木琴の音ーそして嫋々としてあやしげな琉球器楽にあわせる八重山謡のふしも、城下のものは、いつか耳になれて、その好奇心を失っていた。

07/06: 神田精輝

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1924年4月23日~24日『沖縄タイムス』神田精輝「ペルリ提督 琉球訪問記 出版に就いて(上)(下)」
ペルリ提督琉球訪問記 / 神田 精輝 : 北新町(大分県) 神田精輝 大正15(1926) 図44枚
新見吉治・広島高等師範学校教授「序文ー米艦は琉球を根拠地として石炭貯蔵所を設け、日本近海の測量をやって居たのみならず、ぺルリは最初琉球を永久に占領する計画を立てて居たとの事であるが、大統領交送により侵略主義が棄てられたことは、我国のために誠に仕合せであったといわなければならぬ。若し仮に当時の米国が四五十年後の帝国主義旺盛時代の国情であったとしたら、琉球は今どうなって居るだろうなどと考えるとき、誠に膚に粟の生ずるような感を催さずに居られないではないか。(略)彼を知り己を知るの方便として神田君が本書を公刊せられた本旨は、単に郷土史の資料を提供し、開国の歴史の闡明に資したいというばかりでなく、今や国際連盟は成立したけれども、今後如何に太平洋問題が発展し紛糾するか予想のつかぬ折柄(略)史学は音便のせいでもあろうか、死学になり易い傾がある。私は神田君と共に、これを温故知新を眼目とする活きた学問としたいということを切に感ずる者である。」

新見吉治・経歴/東京帝大史料編纂掛編纂委員嘱託を経て、明治36年広島高等師範学校教授となり、41年ドイツに留学、ライプツィヒ大学のランプレヒト教授について日本武家政治史を研究。のち学制改革で昭和4年広島文理科大学教授、13年退官、名誉教授。15年東洋大学文学部教授(〜18年)、大倉精神文化研究所研究員(〜20年 27〜40年)。26年から徳川林政史研究所研究員(〜48年)となり、下級士族の戸籍などを研究。36〜44年愛知工業大学教授兼任。著書に「日本に於ける武家政治の歴史」「下級士族の研究」「壬申戸籍成立に関する研究」「旗本」などがある。コトバンク
伊波普猷「序文」



1934年3月30日ー『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ペルリ艦隊来航記念号」
       沖縄日報主催「ペルリ日本来航80年記念祭」講演/神田精輝・島袋源一郎



1934年12月26日『大阪朝日新聞』

    
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社


 1968年2月 神田精輝『沖縄郷土歴史読本』琉球文教図書
○大浜信泉「序ー筆者は本書の著者と同じ石垣島の出身である上に、沖縄師範学校における同窓でもある。・・・」/喜舎場永珣「序ー神田君も童名のままの赤多那になっていたが師範学校入学を機会に私が「精輝」と名をつけてやったら喜び勇んで(略)広島高等師範では史学と英語を専攻し卒業と同時に母校沖縄師範の教諭という破天荒の椅子を勝ち取ることができた。(略)この珍本こそは、嘉永6年(1853)今から百十五年前に米国の水師提督ぺルリの「琉球訪問記」であった。この本が師範学校の図書室に蔵せられたのは、琉球の碩学伊波普猷氏から時の師範学校長西村光弥氏に嘆願し同校長の辣腕によって師範学校に備えつけられたものであった。神田君は其の本に吸いつくように読みふけって翻訳に筆を染め始めた。(略)君が琉球新報紙上に発表せる昭和7年6月約二百十枚に渉る切抜帖は大東亜戦争の戦火の中肌身離さず所持して歩いた。漸く今回、広田夫婦・古屋夫婦ならびに君の遺児全員の協力で父の形見として原稿に認められた上、斯界の権威者である宮城栄昌博士の御指導により上梓されるはこびとなった。」

1997年7月 神田精輝『ぺルリ提督 琉球訪問記』国書刊行会(1926年の復刻)1853年浦賀に来航したアメリカの東インド艦隊司令長官ペリー提督の「日本遠征記」より、琉球に関する記事、写真、図版を訳出したもの。当時の日米関係史や琉球を知る上で貴重な資料。

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中里介山
小説家。東京羽村生。名は弥之助、号は羽村子。はじめ社会主義に傾倒し、日露戦争下には「平民新聞」に反戦詩を発表する。明治39年都新聞社に入社、『氷の花』『島原城』などの連載小説を手がけ、代表作『大菩薩峠』はのちの大衆文学に大きな影響を与える。のち郷里羽村に西隣塾を開き、文壇から離れて超然とした生活を送った。昭和19年(1944)歿、60才.→コトバンク

『大菩薩峠』(だいぼさつとうげ)は、中里介山作の長編時代小説。1913年~1941年に都新聞・毎日新聞・読売新聞などに連載された41巻にのぼる未完の一大巨編。→ウィキ



矢野橋村
日本画家。愛媛県生。名は一智、別号に知道人。永松春洋に師事する。日本南画院の結成に参加、また福岡青嵐や洋画家斎藤与里らと私立の大阪美術学校を設立。南画界の重鎮として活躍し、また大阪の美術振興に貢献した。日展審査員。芸術院賞受賞。大阪府芸術賞・大阪市民文化賞受賞。日本南画院会長。昭和40年(1965)歿、74才。 →コトバンク



中里介山 大菩薩峠 恐山の巻 - 青空文庫
「オ嬢サン、コレカラ日本ノモノヤルデス、マズ南ノ方カラヤリマショ、八重山ヲヤリマショ」
「八重山って何です」
「八重山ハ薩摩ノ国ノ南ノ方ニアル島デス、ソノ島ノ娘、タイヘン声ヨイデス、世界デモ一番デス」
と、マドロスが風琴を膝へ置いて答えました。
「え?」
と女が少し聞き耳を立て、
「何ですって、世界で一番? 言うことが大きいわ」
「ウソデナイデス、タナベ先生モホメマシタ、八重山ノ唄ト踊リ、素晴ラシイモノデス、ワタシ、日本デハアンナスバラシイモノ聞イタコトナイデス、ソレヲ一ツ、ココデ真似テ見ルデス」
「まあ、ちょっとお待ちなさい、マドロスさんの言うことは大きいからね、日本の国の薩摩の国の中に世界一番なんて、それは掛値があるんでしょうけれど、かりに割引して聞いても、そんなに素晴らしい唄だの踊りだのが、日本の中にあるんですか、そのことをもう少し説明してから、唄って聞かせて頂戴」
「八重山ノ娘サンタチノ声ハ五町モ六町モトオルデス、ソウシテ声ガヨク練レテイルデス、ワタシ聞イタ、世界ニモ珍シイデス、日本ノ国ニアンナトコロハ二ツトナイデス、ワタシ、一生懸命ニ三日習イマシタ、ユンタ、ジラバヲヤッテオ聞カセスルデス」
「では、ともかくやってみて下さいな」
「八重山ノユンタ、ジラバ……」
 そこで、またマドロスが実演にかかりました。
 果して八重山という日本の国の辺鄙へんぴの島の中に、そんな音楽の天国があるものか、マドロスの受売りだけでは信じられないが、女はその予備宣伝に相当引きつけられているらしい。
 そこで声高こわだかにマドロスが手風琴をあやなしながら唄い出したが、歌句は一向何だかわからない。本来、今までのマドロス芸術について、歌詞そのものは一向にわからないで、そのメロデーについて感心して聴いていたのが、これから日本のものを相はじめますということになってみると、その八重山とか、八重山節とかいうものが、歌詞はむろん相当にわかって、一層の興味があるだろうと予想したが、わからない。本来演奏者自身がわかってやっているのではないから、これは詮索せんさくしても駄目――ただ、盛んに唄い出すマドロスの咽喉のどを見て、八重山の女の世界的だという咽喉を想像するよりほかはないのですが、想像してみたところで、以前わからない異国情調を聞かされたほどの感興は、どうしても起らないらしい。
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情報センターでは、沖縄の自然・歴史・美術・文化等に関する情報、および図書資料等をゆっくり閲覧できるスペースとなっています。レファレンスとして、当館のお問い合わせ窓口となっており、展示室での疑問・質問、収蔵品の検索など専門の学芸員に対する質問や団体見学の受け付けをおこなっています。
 また5ヶ国語を備えた、博物館常設展・美術館コレクション展の音声ガイダンスの貸し出しも行っております。

サービスの内容
(1) パソコンおよびAVの利用
  ○博物館・美術館収蔵品データベースを利用した資料検索
(2) ソフトの視聴
  ○博物館・美術館で作製した沖縄の自然・歴史・文化・美術等に関する映像資料
  ○沖縄に関する映像・音声ソフト、その他生涯学習に資する映像・音声ソフト
(3) 関係図書の閲覧
  ○沖縄の自然・歴史・文化に関する図書
  ○博物館・美術館所蔵の専門図書
  ○博物館・美術館刊行の図録
  ○博物館・美術館刊行の研究紀要や報告書等
  ○美術全集、図鑑
2015年10月 沖縄県立博物館・美術館 情報センター





情報センターで学習、ひより


2016年7月 写真左から比嘉恵子さん、仲里渚善さん、島袋百恵さん


2017年1月2日 新城栄徳、島袋百恵さん


2017年3月10日  写真左から比嘉恵子さん、渡部さん、新城栄徳、仲村紗希さん、保久村智恵さん

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1816年 イギリス軍艦アルセスト・ライラ号が琉球を訪れ6週間滞在。後に同艦の乗組員だった退役軍人ハーバード・J・クリフォードが中心となり、琉球海軍伝道会を創設、ベッテルハイムを派遣することになる。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社

1818年1月 バージル・ホール『大琉球 韓国 西海岸航海記』ロンドン(再版2010年 ジェネラルブック テネシー州メンフィス)□スポルディング『日本遠征記』、オズボーン『日本への航海』の中でこの本について述べている。

天保12年(1841年)、14歳だったジョン万次郎は仲間と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着します。万次郎達はそこで過酷な無人島生活をおくりました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号によって助けられます。

1844年4月28日 フランス人ジャン・バチスト・セーシユ提督率いる5隻の東洋艦隊麾下のフォルニェル・デュプラン大佐の軍艦アルクメーヌ号を琉球へ分遣。宣教師テオドール・オーギュスト・フォルカードと清国人伝道師オーギュスタン・高を那覇に残して5月6日に出帆。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社




 『ニューヨーク・タイムズ』は1851年にニューヨーク市で発行していた、ニューヨーク・トリビューン紙に対する高級新聞というスタイルをとり、創刊された。当初は、優れた体裁が人気を集め、順調に発行部数を伸ばしたが、南北戦争後に、南部に対する寛大な論調が反感を呼び、一時低迷した時期もある。その後20世紀に入ると、世界各地に取材網を張り巡らせ、ワシントン・ポストやウォール・ストリート・ジャーナルと並ぶアメリカを代表する高級紙としての地位を確立した


□講談社の『日本写真年表』に「1853年(嘉永6)年、5月アメリカのペリー艦隊の従軍写真師Eブラウン.Jr琉球を撮影する」とあり、また那覇のニライ社から刊行された『青い眼が見た「大琉球」』の中にその撮影状況の石版刷りが掲載されている→□1934年3月30日『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ぺルリ艦隊来航記念号」、沖縄日報主催「ペルリ日本来航八十記念祭」で神田精輝、島袋源一郎が講演。/1934年7月30日、昭和会館で沖縄郷土協会評議員会、郷土博物館の建設と、ペルリ提督上陸記念碑建設のため協議。

1853年6月ーペルリ、首里城訪問□→1926年10月ー神田精輝『ペルリ提督琉球訪問記』/1935年3月ー土屋喬雄『ペルリ提督日本遠征記』弘文荘(沖縄県立図書館所蔵本は国吉真哲寄贈)/1947年2月ー大羽綾子『ペルリ提督遠征記』酣燈社/1962年6月ー外間政章『対訳ペリー提督沖縄訪問記』研究社/1985年10月ー金井圓『ペリー日本遠征日記』雄松堂/1994年4月ー大江志乃夫『ペリー艦隊大航海記』立風書房


安政元年(1854)幕府はアメリカとの間に和親条約を終結し下田と箱館を開港(箱館に於ける小開港)することになった。条約上、箱館の開港は翌年3月であったが、4月15日ペリー艦隊の船3艘が箱館に来航し港内の測量を始めた。更に同月21日には2艘(ポーハタン号、ミシシッピー号)が入港した。ポーハタン号に乗船していたのがペルリ(ペルリとはオランダ発音)こと東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイズ・ペリーである(函館ホテル旅館協同組合)

 1859年、ペンシルベニア州西部で石油が発見され、1849年のカリフォルニアのゴールドラッシュを再現する「オイルラッシュ」が起こり、南北戦争の前夜には有用な資源であることが確認された。原油は有用な燃料油を抽出するための蒸留精製が必要なので、直ぐに石油精製がその地域の主要産業になった。しかし、このペンシルベニアの産油地域は田園と山岳であったので、産地での精製経済性や抽出した油の鉄道による輸送効率が悪かった。1865年からは産油地と鉄道あるいは製油所とを繋ぐパイプラインが建設され、この地形的な障害を緩和したが、数多い樽類製造者や荷車運搬手を失業させた。送油パイプライン網が拡がるに連れて、鉄道や電信系統とも一体化され、生産、計画、値付けなどで大きな連係が図られた。。→(ウィキペディア)

 1862年、ジョージ・オプディクはウッドを下して市長になり、彼はリンカーン支持者に後押しされ州軍よりも合衆国軍への支援をより強めた。また南北戦争によるウォールストリートの経済的混乱を未然に防いだ他、移民を徴兵する制度の見直しも図った。合衆国議会とリンカーン大統領は近く多くの兵士の軍籍期間が満期になることを懸念して徴兵制度の可決に踏み切った。ニューヨークの徴兵日は7月中旬でリンカーンはミリシアと志願兵を市を統制するために送り込んだ(中にはゲティスバーグの戦いを終えて間もない者もいた)。アイルランド人を中心とした暴動が数千人にも及び、他の都市でも小規模の暴動が起きた。ニューヨーク徴兵暴動は共和党とアフリカン・アメリカンにその矛先が向けられた。

 南北戦争後のニューヨーク市はタマニー協会①による汚職で堕落の一途を辿った一方、メトロポリタン美術館(1872年に開館。その後は基金による購入や、さまざまなコレクターからの寄贈によって収蔵品数は激増し、関係者達の努力の結果、現在では絵画・彫刻・写真・工芸品ほか家具・楽器・装飾品など300万点の美術品を所蔵。全館を一日で巡るのは難しいほどの規模を誇る、世界最大級の美術館のひとつとなっている)、メトロポリタン歌劇場、アメリカ自然史博物館(1869年の設立当初はセントラルパーク内のアーセナル・ビルディング (Arsenal building) に置かれていた)。1874年には、マンハッタン・スクエアの大部分を占めている現在の施設が起工された。、ブルックリン美術館(1895年開館。ニューヨークで2番目に大きな美術館で、150万点の作品を所蔵していると言われている。エジプト美術が充実し、アジア・アフリカ・オセアニア美術も常設。また、多数の浮世絵を所蔵していることでも知られている。1997年から2004年にかけてはBrooklyn Museum of Artと称していた)など現在名のある施設も創立された。またジェームズ・ゴードン・ベネット、ジョーゼフ・ピューリツァー、ウィリアム・ランドルフ・ハーストなどを始めとした記者が書く新聞はニューヨークのみならずアメリカ全土で読まれるようになった。

①タマニー・ホールTammany Hall
アメリカ合衆国,ニューヨーク市の民主党執行委員会の俗称。ニューヨーク郡または市の民主党の組織をさすこともある。 1789年に,民主的な主義と行動,土着の精神をもつ国家的団体がアメリカインディアンの名称をとって聖タマニー協会として創設され,その後約 30年間,中産階級を代表して活躍した。 →コトバンク

 1858年7月29日ー日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)調印。日米修好通商条約は徳川幕府が日本政府を代表して調印した条約であり、条約批准書原本には「源家茂」の署名がなされている。幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ。→(ウィキ)

サミュエル・ロビンス・ブラウン、(Samuel Robbins Brown、1810年6月16日-1880年)、1869年に女性宣教師メアリー・キダーを伴って再来日して新潟英学校の教師に就任した。しかし、翌年日本政府から横浜に責任を持つようにとの依頼があり、1869年(明治2年)7月17日に横浜に到着して横浜の修文館の教頭兼英語主任に任命された。1873年1月に高島学校を併合して、横浜市学校藍謝堂と改称した。1873年3月の火災により、野毛山の新校舎に移転して、市中共立修文館と改称した。1876年に3年任期の契約切れでブラウンは修文館を去った。修文館の教え子の元桑名藩藩主松平定敬、養子の松平定教、家臣の駒井重格、元会津藩士井深梶之助らがブラウンの私塾の開設を懇願した。ブラウンは要請に答え、松平親子、駒井、井深らの助けによりブラウン塾を開校した。ブラウン塾は1877年開学の東京一致神学校を経て1887年開学の明治学院に発展した。→(ウィキ)

チャニング・ムーア・ウイリアムズ(Channing Moore Williams、中国語: 維廉、1829年7月18日-1910年12月2日)は、米国聖公会の宣教師。日本聖公会初代主教。サンフランシスコを出港し横浜を経由して上海に到着したウィリアムズは、休む暇もなく中国各地を視察した。そんなとき、日本で大政奉還が行われたことを聞きつけたため、大阪に居を移すことにし、川口居留地に建物を得、英語塾を開いた。呼び寄せた宣教師を迎えるため東京に伝道の拠点を移したウィリアムズは、1874年、築地居留地に立教学校を開く。婦人教育を行うことも必要だと考えたウィリアムズは、1872年に女学校を設立する構想を提示し、1877年にはブランシェーにより湯島に立教女学校が設立される。1882年、立教学校はジェームズ・ガーディナーを校長に迎え、立教大学校と名前を変える。→(ウィキ)

1871年11月12日(陰暦)ー岩倉使節団(津田梅子、山川捨松、永井繁子、吉松亮子、上田悌子・・・・・)は米国太平洋郵船会社(英語版)の蒸気船「アメリカ」号で横浜港を出発し、太平洋を一路カリフォルニア州 サンフランシスコに向った。その後アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。 使節団はキュナード社の蒸気船オリムパス号に乗船して、1872年8月17日にイギリスのリヴァプールに到着した。ロンドンから始まり、ブライトン、ポーツマス海軍基地、マンチェスターを経てスコットランドへ向かう。スコットランドではグラスゴー、エディンバラ、さらにはハイランド地方にまで足を延ばし、続いてイングランドに戻ってニューカッスル、ボルトン・アビー、ソルテア、ハリファクス、シェフィールド、チャッツワース・ハウス、バーミンガム、ウスター、チェスターなどを訪れて、再びロンドンに戻ってくる。1872年12月5日はウィンザー城ではヴィクトリア女王にも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。1873年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加。
 ヨーロッパでの訪問国は、イギリス(4か月)、フランス(2か月)、ベルギー、オランダ、ドイツ(3週間)、ロシア(2週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)、スイスの12か国に上る。帰途は、地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)への訪問も行われたが、これらの滞在はヨーロッパ各国に比べ短いものとなった。 当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に、太平洋郵船の「ゴールデンエイジ」号で横浜港に帰着した。留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われ、使節帰国後に明治六年政変となった。
 元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。一国の政府のトップがこぞって国を離れ長期間外遊するというのは極めて異例なことだったが、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし、当時「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした。 →ウィキ

1874年、新島襄がアメリカでの修行と勉学を終えて帰国。故郷の群馬県安中に一時帰郷した。そこでアメリカ文化やキリスト教の話を若者たちにした。その中に16歳の湯浅半月も居た。1875年11月、新島襄は山本覚馬、J・D・ディヴィスと協力して「同志社英学校を」を設立した。1877年、半月は同志社に入学。1885年に渡米しオハイオ州オペリン大学神学科やエール大学で学んだ。1891年、帰国し直ちに母校同志社の教授。1899年に平安教会の牧師。1901年に新設の京都帝大法学部講師となり大学附属図書館事務にも従事した。


2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会
浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)は再度アメリカに帰った後は、文久2年3月2日(1862年3月31日)にブキャナンの次代の大統領エイブラハム・リンカーンと会見している。同年10月13日(12月4日)に再び日本に赴き、再び領事館通訳に職に就く。文久3年9月30日(1863年11月11日)に領事館通訳の職を再び辞め、外国人居留地で商売を始めた。翌元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。慶応4年8月7日(1868年9月22日)、18年ぶりに帰郷。明治2年(1869年)6月には大阪造幣局の創設に尽力した。その後は大蔵省に務めて国立銀行条例の編纂に関わったり茶の輸出、精米所経営などを行なった。明治30年(1897年)12月12日、心臓病の為東京の自宅にて61歳で死去。日本人に戻る法的根拠が無かったことから死後、外国人として青山の外国人墓地に葬られた。尚、国籍法が制定されたのは明治32年(1899年)のことであった。→(ウィキペディア)

1873年□ 1856年、チェンバレンは母親エライザ・ジェインの死によって母方の祖母とともにヴェルサイユに移住した。それ以前から英語とフランス語の両方で教育を受けていた。またフランスではドイツ語も学んだ。帰国し、オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した。1873年5月29日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌1874年から1882年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。1882年には古事記を完訳している(以下略)。前出の『チェンバレンの交友』には「日本を広く世界に紹介した人というと、ハーンをあげるものが多い。少し前ならシーボルト。ところが西洋ではシーボルトの次はチェンバレンである。」とし、友人としてサトウ公使、アストン、小泉八雲、門弟の和田万吉、岡倉由三郎(註)らとの交友を紹介している。

岡倉由三郎 生年慶応4年2月22日(1868年) 没年昭和11(1936)年10月31日 英語学者。天心の弟
出生地神奈川・横浜 学歴〔年〕東京帝大文科選科
経歴東大選科でチェンバレンに言語学を学ぶ。東京府立一中教諭、七高教授を経て明治29年嘉納治五郎校長の招きで東京高師教授。新村出らと「言語学雑誌」を発刊、35年から独、英に留学。大正15年に東京高師を退官するまで英語科の主任を務めた。その後、立教大学に奉職。開始当時のNHKラジオの英語講座では巧みな話し方で人気を集め、外国語教育、基礎英語の普及に大きな功績を残した。ヘボン式ローマ字の採用を主張したほか、昭和8年出版された「新英和大辞典」は岡倉辞典といわれ、一般に広く用いられた。→コトバンク

岡倉天心の長男の岡倉一雄は朝日新聞記者で、岡倉覚三の伝記をまとめた。孫(一雄の子)の岡倉古志郎は非同盟運動にも関わった国際政治学者、曾孫(古志郎の子)長男の岡倉徹志は中東研究者、玄孫(徹志の子)長男の岡倉禎志は写真家、玄孫(徹志の子)次男の岡倉宏志は人材開発コンサルタント、西洋史学者の岡倉登志は天心の曾孫にあたる。→ウィキペディア/ラングドン・ウォーナー(一八八一〜一九五五)は、ハーバード大学で考古学を専攻。卒業後、五浦で岡倉天心の薫陶を受け日本美術を研究。

武藤山治1885年(明治18)より3年間、和田豊治、桑原虎治とともにアメリカに留学し、帰国後、佐久間から武藤に改姓。アメリカでは葉巻煙草製造工場の見習職工として、皿洗い・庭師・日雇い労働者として働いた。
1887年9月ー武藤山治『米國移住論』丸善商社書店□余我ガ國人ノ北米聯邦ニ移住スルノ利アルヲ信ズル事久シ。

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挨拶する奥田末吉沖縄奄美連合会会長・沖縄名瀬会会長

左から写真家の松村久美さん、仲里氏、栄征三氏(元大栄食堂店主/沖永良部出身)、玉寄氏




奥田会長と窪田めぐみさん(沖永良部出身)


琉球芸能研究家・ジェームス君(James Rhys Edwards, https://ucla.academia.edu/JamesRhysEdwards)、窪田めぐみさん(沖縄県立芸大)


2016年11月10日『沖縄タイムス』「沖縄に生きた証残すー奥田末吉さん(73)」

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1909年5月17日『琉球新報』渡嘉敷生「パレット日記」
○「麦門冬を叩こう?」と切り出すと「そうだ名案だ」と一同ひょろつく足を踏みしめて社壇を下ったが彼是午後の3時ごろ酔眼朦朧の連中は早速 麦門冬の玄関に立った幸?在宅で書斎に導かるる書斎は下宿屋風の室に小説や脚本や雑誌や新聞はては金ぴかの洋本から虫だらけの玉篇らしい本やら何やらを処せきまでしかもいくらか秩序的に飾られて居て壁にはカーライル①の肖像が掲げられて居る・・・

①トーマス・カーライル(Thomas Carlyle, 1795年12月4日 - 1881年2月5日)は、19世紀イギリス(大英帝国)の歴史家・評論家で、スコットランド出身。スコットランドのダンフリーズ・アンド・ガロウェイ(Ecclefechan)出身。大英帝国(ヴィクトリア朝)時代を代表する言論人であった。代表作に、『英雄崇拝論』、『フランス革命史』、『オリバー・クロムウェル』、『衣装哲学』、『過去と現在』などがある。ドイツ文学を研究したことでも著名で、ゲーテとの往復書簡がある。〈全集 The works of Thomas Carlyle〉は30巻に達している。1865年、エディンバラ大学の学長に任命された(1865年-1868年)。『英雄崇拝論』に代表されるように、「世界の歴史は英雄によって作られる」と主張したことで知られるが、彼の言う「英雄」とは歴史に影響を与えた神、預言者、詩人、僧侶、文人、帝王などを指す。
→ウィキペディア

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1920年2月『沖縄毎日新報』発行兼編集人・渡嘉敷唯錦/左から、渡嘉敷唯錦、渡嘉敷唯選、野津唯尹(久保)、その妻たち

新聞記者も勤めていたので文章はのこっている。末吉麦門冬とも親しいので俳句作品もある。1906年11月の『琉球新報』に俳句「酒飲まぬ我も佳き日は小酒盛」「長閑さや旗ひるがえる磯の村」、琉歌もある「長閑なるみ代や波風も立たぬ、誠ゆかる日のうれしさや」。11年8月『沖縄毎日新聞』の展評では上間正雄との論争に応じながら「パレット日記」も書く。13年、玉城小学校で教諭を務めながら、『琉球新報』に「昨年の美術界」を連載、14年は「美術館より」「大正博と本県」を連載した。1921年から亡くなるまで名護の第三高等女学校の美術教師。娘に画家の山元文子がいる
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野津久保の作品(息子に画家の野津唯市がいる)

渡嘉敷唯選の弟に渡嘉敷唯錦が居る。『琉球辻情話』の著者で知られている。その著の口絵写真には「辻原の丘に集う芸妓」の絵葉書が使われている。また沖縄ソバの由来を「福永義一と云う写真師が居たが、この人が何時の間にか支那料理屋を開業して、でっぷり肥った弁髪の支那人を料理人として大阪から呼び寄せ正真正銘の支那そばを食わした」と記している。
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2016年7月2日、平和通りのなるみ堂でマカオの時期不詳の観光絵葉書を貰ってきた。ネット検索して情報を貼りつけてみた。□中華人民共和国マカオ特別行政区、通称マカオは、中華人民共和国の特別行政区の一つ。中国大陸南岸の珠江河口に位置する旧ポルトガル植民地で、現在はカジノや世界遺産を中心とした世界的観光地としても知られる。 ウィキ


聖ポール天主堂跡は、イエスの使徒である聖パウロに捧げられた、マカオにあるポルトガルの17世紀の大聖堂の遺跡であり、マカオの最も有名な歴史的建築物の一つである。大三巴牌坊、または単に大三巴、牌坊として広く知られている。 ウィキ


マカオという名称の由来はマカオ半島にある道教の廟、媽閣廟に由来する説が有名である。ポルトガルの船員がマカオの媽閣の前から上陸するときに地名を聞いたら、廟の名前を聞かれたと思って「媽閣」(広東語:Ma1gok3)と答えたからと伝えられている。媽閣廟は、1448年に媽祖を奉るために建設されたもので、現存し、海運、漁業の神として崇拝されている。


寛音堂ー慈母観音を祀った仏教寺院は13世紀に創設され、現在の建物は1627年まで遡ります。大きな門と屋根に陶製の動物や人の飾りを施した寺院は、マカオの寺院の中で最も壮大かつ豪華な寺院の一つです。小さな三層の中庭によって区分され、ふんだんに装飾された堂は、仏陀と観音に捧げられています。観音は、毎年変えられる絹の刺繍を施した衣服に縁毛の冠を被っており、祭壇の両側に18体の羅漢を従えています。隣接する部屋は霊安室であり、絵画や書など観音を称えた巻物が置かれています。寺院の後ろにはひな段式庭園があります。その中には、1844年6月3日に広東総督耆英とアメリカの公使ケイレブ・クッシングとの間で締結された、初の米清間条約・望廈条約締結の際に使用された石のテーブルが存在します。付近の別棟の中には大理石で造られた僧侶像が立ち、また古くからそびえ立つ四本の菩提樹の絡み合った枝は恋人の木として知られ、結婚の忠誠のシンボルであるとされています。→マカオ観光局



1622年に船乗りの聖母ノートルダム・ド・フランスに捧げられ建立されたペンニャ教会は1935年に現在のゴシック様式で再建されました。シンプルで美しい教会前の広場から階段を下りると、フランス聖地のルルドを模した洞窟とルルドの聖母像があります。→マカオナビ/□ルルド(Lourdes) は、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもと、フランスの南西部のオート=ピレネー県の人口15000人ほどの小さな町。聖母マリアの出現と「ルルドの泉」で知られ、カトリック教会の巡礼地ともなっている。ウィキ


マカオと対岸のタイパ島をつなげるマカオ・タイパ大橋の夜景。タイパ島とコロアネ島は橋ではなく盛り土のコーズウェイとなっているが、マカオとタイパ島は船の往来も考えて、2本ある橋ともに中央部分が高くなっている。


アマラン総督の銅像。殉職の日1849年8月22日□1846年、フェレイラ・アマラル総督が就任すると、駐マカオ清朝税関や官庁を強制閉鎖し、その官吏らを捕縛・追放するなど、マカオ政庁の権益強化を図っていく。さらに、マカオ市街区に馬車が走れる馳道(街道)の整備を進め、度々、清側の珠海地区へ踏み込んでは、前山地区の田畑や墳墓などを破壊して回り、清軍とのいざこざを煽ったという。これに激怒した望厦村(コタイ半島の中心部)出身の農民・沈志亮によって、1849年、アマラル総督が刺殺される。

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 先日、屋嘉比収氏、大峰林一氏(与徳研究家)、ニライ社の西里信人君と画家・宮城与徳の郷里ヤンバル名護を訪ね、親族の比嘉氏の案内で与徳の墓跡、生家跡まどを見た。徳田球一の碑も見た。
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写真左から新城栄徳、大峰林一氏、屋嘉比収氏(西里信人撮影)
平良真六さん
平良真六氏は琉大総合農学科を卒業し、教諭として30年間、安波小中学校、辺土名、那覇商業、名護商業の高校などに務め、教公二法闘争や復帰運動に積極的にかかわった。また中部商業高校勤務のかたわら琉大大学院に通い90年に修了。同窓に屋嘉比収や孫薇さん、豊見山和美さんらが居た。

真六氏は90年に『ふるさとに生きがいを求めて』を出版し、喜如嘉は「ちっぽけな片田舎だが、純真で団結心、共同体の強いところほど時代の変遷にくるくると真っ先に安易に妥協せしめられ、時の政治に振り回された」と記している。夫人・啓子さんは対馬丸遭難の体験記録『海鳴りのレクイエム』で真六氏との歩みにもふれている。

96年に発行された辺土名高校五十周年記念誌『波原』に真六氏は19代PTA会長、事業期成会会長として挨拶を寄せている。2001年、私は友人・島袋和幸の著『沖縄・山原二才達』を真六氏に贈ると礼状に「早速拝読致しました。上里春生について、その人物像を知りたいと思っていましたので喜んで居ります」とある。

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2004年2月16日『沖縄タイムス』「自衛隊のイラク派遣を受け、大宜味村喜如嘉に住む元高校教師の平良真六さん(67)が、自衛隊や日本をテーマにした詞を作った。曲はあえて軍歌調にした」


 大震災後、テレビが「日本はひとつ」の大合唱である。これは「一人は万人のために、万人は一人のために」という社会運動の文句を思い出す。無縁社会から連帯社会への転換期であろうか。改めてその連帯社会運動の先駆者・徳田球一を客観的に見つめ直すことにする。

1905年2月17日ー『琉球新報』死亡広告「父佐平葬式ノ際ハ雨天且遠路ニモー長男 徳田球一 二男 徳田正次 兄 徳田彌太郎 親戚 喜屋武泰蔵

1911年3月8日ー沖縄県立中学校卒業ー徳田球一、新城朝功、池宮城積宝、恩河朝健、許田普正、佐々木微笑、尚琳、仲里朝章、西平賀譲、比嘉良篤ほか

1946年5月5日ー『自由沖縄』□今は時めく共産党書記長、郷土出身唯一の代議士徳田球一氏が昔々『特急』に乗ってソ連に潜入してという話は余りに有名だが、凡そ徳田といえば頭の先から足の先まで闘争心だけだと世人は思い込んでいるが、なかなかどうして氏には絶対に他の追随を許さぬやわらかい領域がある。インターナショナルの大会で逆立ちをして世界代表の度肝を抜いたという芸当はさて置き、徳田氏飲めば必ず歌う十八番がある。ざっと御紹介に及ぶと
                   九年母木の下うて    布織いる女    あきさみよー
                   あんしん美らさがや    九年母木の下ソーイソーイ
                   美らかーぎ下ソーイソーイ
この琉歌は「九年母木節」で、普通には
   九年母木の下をて    香しやん木の下をて  ハーリヨー シホーラーヨー
   おれが下をとて     布巻ちゆる女   ハーリー  アンシン美ラシャルヤー       
            
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左・1955年8月『徳田球一伝ー追悼版ー』理論社/1955年10月『回想の徳田球一』東洋書館
里見哲太郎

1939年9月1日 『大阪球陽新報』里見哲太郎「浮世漫談三則」

1964年12月 里見哲太郎(徳島市南矢三町堂屋敷1-1)『わたしの歩み』

2000年3月 『記念誌・徳田球一』徳田球一顕彰記念事業期成会(東江康治会長)□里見哲太郎「徳田球一氏を偲ぶ」)(『わたしの歩み』転載)

杉森久英
小説家・評論家
明治45年(1912)〜平成9年(1997)
石川県七尾市に生まれ、この地の旧家の出で吏員を勤めて石川県属となった父の転任で金沢市に移り住み、菊川小学校、一中、四高に学び、昭和9年東大国文科を卒業しました。昭和28年発表の短編小説「猿」が芥川賞候補となったことを機に文筆生活に入ります。文芸評論、人物論、書評などにも筆をとるかたわら、諧謔、風刺小説をつぎつぎに発表し、同郷の作家島田清次郎の生涯を書いた「天才と狂人の間」(昭和35〜36年)で直木賞を獲得し文壇の地位を確立します。
□→「百科事典ディマス」(動画・徳田球一/1946)


石川正通□「ふりむん随筆」
徳田球一と神田の下宿で寝ころんで本を読んだのもその頃だ。球一はいつも丸太のように寝そべって坐ることなんかめったになかった。それから田端の或寺に引っ越して行った。当時の徳田球一の事を最も詳しく知っているのは山城正綱画伯と文学薄士石川正通である。その一年前までの球一、つまり七高造士館時代の球一のことは伊禮肇に聞けば一番よくわかる。またその前というと、沖縄一中時代の徳田球一の勉強振りや怠け振りに就いては伊禮亀(肇の当時の名)、比嘉良篤、瀬長良直あたりが生々しく語って呉れるであろう。当時の徳田球一行状記に関しては天才池宮城積宝が生き字引であったが、惜しい人を亡くしたものだ。(略)尼寺の若く美しい尼僧達が球一の天真爛漫な開放主義と男性美に面くらって感じてはならない春を感じてそそくさと列を乱し嬌声をあげて逃げたことも一度や二度ではない。私はもちろん共産党と何ら関係はないが人間としての彼をこよなく愛する。