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Category: 04-書の森
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○ホイットマン流のナショナリズムはアメリカ人の常識となり、その後のアメリカ人の自画像の形成に貢献しました。独立後しばしば経験した国内ならびに国際的な試練においても、この自画像が発想の原点であり、国民的行動の支えでした。それは、国際社会におけるアメリカのスタンスを、時には孤立主義に陥らせ、時には逆にパックス・アメリカーナ(アメリカの力によって維持される平和、十九世紀のパックス・ブリタニカの言い換え)の理想を追求する方向へ走らせましたが、波瀾に満ちたアメリカの歴史経験の中で、この原点だけは揺るぎないもののように見えました。しかし、1960年代の公民権運動やベトナム戦争の挫折は、この理想像に深刻な打撃をもたらしました。この危機にみまわれて、二つの基本的かつ伝統的な理想が揺らいだのです。アメリカ人が建国の時から誇りにしてきた平等の社会と自由の国の理想です。

○英国のバジルホール提督が1816年に沖縄を訪れたとき、島民の素朴さと平和愛好の精神にうたれたことを航海記に記しています。バジルホールは、英国への帰途、セント・ヘレナに幽閉中のナポレオンを訪ね、戦争を知らない琉球人のことを報告していますが、ナポレオンはこれを信じなかったそうです。バジルホールが琉球へ渡来したのが、西洋のロマン主義運動の盛んな頃であったことを考え合わせますと、同提督が「高貴なる未開人」の先入観で沖縄島民を見ていたのではないかと疑いたくなります。当時、沖縄人は、バジルホールがいうように確かに武器は身につけていませんでしたが、空拳によって一撃のもとに人を殺す空手をすでに編み出していたのですから、全面的に平和愛好的であったとは言い切れないように思います。 



1998年10月15日 沖縄青年会館「米須興文著『文学作品の誕生』出版祝賀会で、右端が新城栄徳、3人目が米須興文氏


2001年1月20日『沖縄タイムズ』米須興文「南灯指針鏡ー21世紀のメッセージ1」
○・・・科学・技術の進歩は、物質的繁栄をもたらしたが、同時に大量破壊兵器も生み出し、環境破壊につながる産業開発にも力を貸した。一方、精神世界は荒廃の一途をたどり、人びとは心と心の絆を失い、精神的独房の中でIT(情報技術)革命の「二十五時」(ルーマニア作家、C・V・ゲオルギウの小説)の世界を彷徨している。
 楽園に忍び入った蛇は、すでに人間の頭脳に侵入しているのだ。科学・技術の知恵の実と引き換えに楽園を失いつつある人間は、果たして二十一世紀にこの蛇を追放して再び楽園を回復することができるのであろうか。パソコンでこの稿をしたためながら、eメールを利用しながら、こんなことを考えている新ミレニアムである。
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 記録は記憶を甦生する。トマトの成長過程記録写真495枚を見ると、32年前の撮影時の 庭先やトマトや私自身の様子が鮮明に甦る。生命の戴きの時とお返しの時。トマトの一生を 9点に絞り筆で描いた。祈りのテーマでもある定点PRAYERシリーズから「トマト」を発表。


写真左から、玉城徳正氏、久貝清次氏、岸本徹也氏


2015年12月22日 市民ギャラリー「『戦後70年オキナワ』久貝清次展」

久貝清次氏→ここをクリック「久貝清次ウェブ美術館

2015年12月24日『琉球新報』「あしゃぎー記録写真の現場を描くー久貝清次さん  東京の百貨店でデザイナーをしていた1970年~71年、丸坊主から髪もひげも伸ばしっぱなしにして1年間、毎日、同じ構図、服装で写真を撮り続けた。周囲の波紋とともに面白がられ、新聞、週刊誌、テレビで時の人になった。・・・・」


1970年9月23日『朝日新聞』「体験的長髪論」



1971年
10月『アサヒグラフ』/12月『話の特集』



1972年
2月『少年サンデー』/3月『中学三年コース』


1972年7月『アサヒ芸能』「女と仕事に抜群!ヒゲがあなたを行動派にする」/1970年12月『現代』「ヒゲ自慢サラリーマン大集合」

1975年1月23日日『日刊スポーツ』「太平願いまーす」


1975年1月26日NHK

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2016年9月 俳句同人誌『天荒』55号 編集発行人・野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536



◆新しく沖縄担当相に就いた鶴保大臣は「基地と振興策はリンクする」と明言。更に「消化できないものを無理やりお口開けて食べてくださいよでは、全国民の血税で使われているお金の無駄遣い」と」、沖縄憎しの妄言を連発。沖縄は血税も払わず国から食べさせてもらっているとでも思っているのか。消化できない基地を無理やり押しつけているのはいったい誰だ。(武蕉)


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○前回、「高江での住民弾圧はワイドのネタにもならなかった」と書いたが、女性誌が盲点だった。<沖縄”第2の辺野古〟から始まる戦争 高江で何が起きているのか❔>(週刊女性8月16日号)。(略)
初入閣の鶴保庸介沖縄北方相、就任会見では「消化できないものを無理やりお口開けて食べてくださいよでは・・・」と沖縄予算減を示唆していた。鶴保氏はクールジャパン戦略担当大臣も兼ねる。「クール」は「かっこいい」ではなく「冷酷」だったんだね、ひじゅるージャパン!

『沖縄タイムス』2016年10月8日
 鶴保庸介沖縄担当相が2日続けて、選挙と沖縄振興がリンクしていると発言した。身内である自民国会議員のパーティーでの発言に続き、7日は公式の記者会見でも同様の持論を展開。衆院の解散時期が取り沙汰され始めたタイミングで、振興策の進展をちらつかせて投票を呼び掛けるかのような内容だ。翁長雄志知事は、上京中にもかかわらず苦言を呈するコメントを発表。県議会与党は「沖縄振興の私物化だ」と厳しく批判した。政府内では戸惑い・・・

鶴保庸介沖縄北方相の実績は“野田聖子の元夫”だけ
永田町の元祖チャラ男ー これほど、沖縄県民を愚弄した人事もあるまい。沖縄振興政策はまったくのシロウトだ。しかも、7月の参院選で大差で落選した島尻安伊子前沖縄・北方担当相(沖縄選挙区)を補佐官に起用するというからメチャクチャだ。なぜ沖縄県民が「ノー」を突き付けた人物を補佐官に就けるのか。→日刊ゲンダイ 2016年8月16日

「彼女には“自分が子供を産みたい”というのがまず先にあって、“あなたのDNAを残したい”はその後でした。夫婦である以上、“あなたと私の子供をつくりたい”といってほしかった。正直、“おれは子づくりの道具じゃない”といってしまったことさえあります」(鶴保議員)そして、野田議員とともに体外受精に取り組んでいたころを振り返り、「別室へいってアダルトビデオを見て射精。それを試験管に入れて終わり。言葉は悪いですが、不妊治療をしている男性は自分のことを“精子製造機”のように思ってしまう瞬間があると思います」と話した。→女性セブン2010年9月16日号

 29日の視察後、記者団の取材に応じた鶴保庸介沖縄担当相は、2017年度沖縄関係予算の概算要求を減額させる方針に関して「規制緩和や制度改正で前進するものもある。いろいろな政策を聖域なしに考え、組み合わせていくことで振興効果を得ることができる。額にはそれほどこだわらなくても良いのかなと思う」と述べた。→琉球新報 2016年8月30日 

 沖縄振興予算を担当する鶴保大臣だが、養育費を“滞納”する人物に数千億円の予算を任せていいのか。本誌・週刊ポスト前号(8月19日発売号)が報じた、〈鶴保庸介・沖縄・北方担当大臣が捨てた「18歳年下妻」と「2歳の息子」〉というスクープ記事が、官邸を揺るがした。「週刊ポストの発売前に、内閣情報調査室が大慌てで、情報を集めていた。“2か月で離婚? 何のために結婚したのか”“なぜいままで隠していたのか”などと、過去の大臣らが問われた不倫や金銭スキャンダルとは別次元の衝撃と困惑が広まったんです」(官邸筋)“身体検査のプロ”である彼らにとっても、鶴保氏の“結婚観”は理解不能だったようだ。→週刊ポスト2016年9月9日号

 産経新聞2016-9-5○鶴保庸介・沖縄北方担当相(49)が、大臣就任前の今年7月、大阪府内の高速道路で大幅な速度超過をしたとして、道交法違反容疑で大阪府警に摘発されていたことが5日、捜査関係者への取材で分かった。

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新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日 - 1967年(昭和42年)8月17日)は、日本の言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。→ウィキ

1916年9月 伊波普猷『古琉球』糖業研究会出版部
新村出「序文ー南嶋を思ひて(略)琉球語を初めて学問的に研究して世に著わしたバジル・ホール・チャンバレン    Basil Hall Chamberlain氏の祖父に当るCaptain Basil Hallの率いた英吉利船が寄航の途に聖ヘレナ島に立寄って船長の口から流竄中の那翁に沖縄島の話を伝えた事は近事邦人の間にも普く知られるようになったと思うが・・・・・・」

1935年4月『国語と国文学』<チェンバレン氏記念特輯号>
チェンバレン先生の思い出・・・・・・・・・・・・・バチェラー
チェンバレン先生を憶う・・・・・・・・・・・・・・・・岡倉由三郎
王堂先生の南島語研究・・・・・・・・・・・・・・・・新村 出
人としてのチェンバレン先生・・・・・・・・・・・・・佐々木信綱
チェーンバレン先生の手紙・・・・・・・・・・・・・・市河 三喜
チェインバレン先生とアイヌ語学・・・・・・・・・・金田一京助
チェムバレン先生と琉球語・・・・・・・・・・・・・・・伊波 普猷
    (略)
展覧会前記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石田幹之助

事典【じてん】
語義の解説を主とする辞典と異なり,事物の名や用語を発音に従って配列し,その内容を解説した書物。この称呼は,1931年平凡社の《大百科事典》以来一般的になった。→コトバンク

広辞苑ー昭和初期に出版された『辞苑』(じえん)(博文館刊)の改訂作業を引継ぎ、第二次世界大戦後新たに発行元を岩波書店に変え、書名を『広辞苑』と改めて出版された。中型国語辞典としては三省堂の『大辞林』と並ぶ両雄で、携帯機器に電子辞書の形で収録されることも多い。収録語数は、第六版で約24万語。出版以来版を重ね、国内はもとより、海外の社会情勢や約3,000点の図版、地図などを収録し、百科事典も兼ねる働きを持っている。→ウィキペディア

 私の持っている『広辞苑 第四版』(1991年)は大阪難波の古書店で買ったものだが、この古書店は発行されたばかりの辞書でも相当安いことで有名である。本書には伊波普猷、おもろ、沖縄、琉球(沖縄の倍の記述)、那覇、名瀬、チェンバレンなどがある。最近はネットで検索し、場所を取る事典類、『広辞苑』新版などは手元に置かず図書館、那覇市歴史博物館などで確認している。


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1910(明治43)年9月15日、冨山房発行『學生』第一巻第六号 中村清二「琉球とナポレオン」

 伊波普猷の弟・普成は1912年9月の『沖縄毎日新聞』に「ベージル・ホール 琉球探検記」連載、11月には「ビクトリヤの僧正 琉球訪問記」(クリフォードの名が出てくる)、1913年4月は「ぺルリ日記」、8月「チャールズ・ルブンウォース 琉球島」を連載している。



1912年11月8日『沖縄毎日新聞』「ベージル・ホール 琉球探検記」
譯者曰く、ベージル・ホールの他の著述の中に、彼は東洋よりの帰途セント・ヘナに立ち寄って、ナポレオンと会見して談たまたま琉球のことに及んで、琉球にては古来戦争がないといふことを話すと、流石のナポレオンは肩をそびやかして、戦争絶えて無しとか、これ決して能はざる也と叫んだ。といふことが書いてあるとのことである。貨幣もない、刑罰もない、武器もない戦争した経験もなければ、戦争のあったといふ伝説もないと云って、はじめから無抵抗主義を取った。琉球政府の対外政策には感服といふ他評しやうがない。かういふ小さい孤島ではコルチャコブやビスマルクのやうな大政治家でもこの政策を取る外致し方がなかったであらう。

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◎1924年6月23日『沖縄朝日新聞』「歴史に現れた佛國と沖縄の交渉ー今を距る八十年前初めて佛船来たり泰平の夢を破る」
7月5日 佛艦アルゴール那覇港内桟橋に横着

1924年6月29日『沖縄朝日新聞』島袋源一郎「佛國宣教師渡琉史(1)」
1924年7月10日『沖縄朝日新聞』島袋源一郎「佛國宣教師渡琉史(10)」
◎1844年3月11日ー仏船アルクメーヌ号、那覇に寄港し、和親・交易等を要求、3月19日同船宣教師フォルカード①・清国人通事オーギュスタン=コウを残して那覇を離れる。 
 ①フォルカード Forcade, Théodore Augustin 1816-1885 フランスの宣教師。
1816年3月2日生まれ。パリ外国宣教会から派遣されて1844年(尚育王10)琉球の那覇に来航。布教には成功しなかったが,琉球語をまなび,「琉仏辞典」を執筆。日本代牧に任命され長崎にむかったが,鎖国のため上陸できず香港をへて帰国した。1885年9月12日死去。69歳。ベルサイユ出身。→コトバンク













1993年4月 中島昭子・小川小百合 訳『幕末日仏交流記 フォルカード神父の琉球日記』中公文庫

東アジア共同体研究所(East Asian Community Institute )「EACI News Weekly」 第74号(6月10日号)
緒方修(東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター長)「青い眼が見た大琉球 -フォルカード神父の琉球日記-」
フォルカード神父が来琉したのは1844年。アヘン戦争が英国と清朝の間で起きたのが1840年、2年後に清朝が大敗。南京条約で香港の割譲などを認めさせられた。以降、アヘンがさらに中国をむしばんでゆく。(アヘン戦争の5年前、既に患者は200万人に達していた)フランスにとっても通商と信教の自由を認めさせるのに有利な状況が生まれた。火事場泥棒と同じだが、その時代は弱肉強食、弱い国からはむさぼりつくそう、という考えが当たり前。アジアは虎や狼に狙われる子羊のような存在だった。1816年に来琉したバジル・ホールの時代に比べ、28年後の世界は荒々しい資本主義の波がアジア諸国の岸を洗っていた。これに対抗する動きも出てくる。・・・・
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◎1924年6月23日『沖縄朝日新聞』「歴史に現れた佛國と沖縄の交渉ー今を距る八十年前初めて佛船来たり泰平の夢を破る」

7月5日 佛艦アルゴール那覇港内桟橋に横着
1924年7月8日『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅(1)ー佛蘭西と琉球ー唯一の外交史料」

○西暦千八百四十四年四月佛國の軍艦が沖縄に訪問した。其の用向きは我が琉球と通好貿易を求むる為であった。其の当時彼我交換した文書が私の手元にあるので、それを引用して当時の外交関係を窺って見たいのである。この往復文書は双方とも漢文で認められてある。




○老婆の処女を説いて貞操を求むるが如し。非情な子供あつかいである。保護國の何ものたるかを知らない、國際法上の知識がない琉球人でも、これには底怖ろしくなったであろう。あの時、琉球の官民が南洋あたりの佛領殖民地人と同じかったら、早速盲判をついていたかも知れない。その結果東洋の舞台が今日のそれとどう変わったかは想像も出来まい。しかし当時外交舞台に於ける佛の競争者は英であるから両者は相邪魔 佛の意の如く東洋に勢力を張ることも、当時不可能な形勢ではあった。更にそのうち仏蘭西に内乱に次ぐに内乱を以てし独逸と戦っては破れ帝政は覆り共和となり、東洋侵略の野心も一時収縮させられて其間に我日本の勢力は伸びて東洋の覇権をにぎることとなったから幸いであったのだ。


○問ふに落ちず語るに落ちるとはこのことである。当時に於ける英佛の東亜侵略の競争と其の恐ろしい野心の爪牙が歴々としてこの書中にあらはれてゐるではないか。(略)書中にある事実の虚実取まぜた外交辞令であることは勿論である。又この簡単な文章の裏面には薩摩がかくれてゐた。薩摩との関係はオクビにも出さないで中国々と云ってゐる所が面白い。






  1924年7月25日『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅(11)ー佛蘭西と琉球ー唯一の外交史料ー」
○・・人類 もと一組より出て昔 遡れば皆同胞兄弟であるから、四海皆兄弟は人類の理想である。同胞兄弟おのおの父の家から分かれて 相拒み相絶つことを得ない。天下の兄弟も亦た然り 各々其の住むべき土地を分有しても、天下の大道は通行自由でなければならぬ・・・




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2010年4月 山口栄鉄『英人日本学者チェンバレンの研究』沖積舎

Ⅰ チェンバレン日本学の淵源

1 あゝ日本、琉球島よ
2 「欧文日本学」理論の提唱
3 欧米における琉球観の淵源と日本学評価への道程

Ⅱ 英人日本学者誕生

4 「王堂チェンバレン」

Ⅲ 草創期のチェンバレン日本学

5 異国日本へ

Ⅳ 国語学界を揺るがすチェンバレン


6 日本最古の典籍に挑む
7 東京帝大奉職
8 記述文典の編纂  アイヌの世界へ

Ⅴ チェンバレンの日本観

9 『日本事物百科』ー欧人の日本理解へのガイド
10 ラフカディオ・ハーン来日の背景
11 日本観の相克ーチェンバレン  ローウェル ハーン
12 敷島の大和心
13 科学する心・詩の心~芭蕉俳諧論

Ⅵ チェンバレン家  琉球王府  宮の下

14 杉浦  琉球王家  チェンバレン文庫


写真左から尚昌、2人目不詳、チェンバレンの愛弟子の杉浦藤四郎、神山政良

□尚昌参考資料

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 1910(明治43)年9月15日、冨山房発行『學生』第一巻第六号 中村清二「琉球とナポレオン」
中村清二(女優の中村メイコは兄の孫にあたる)「チェンバレン氏は英国の使節を廣東に上陸させて待っている間に朝鮮と琉球を見物し、帰国の途次セントヘレナ島を訪れてナポレオンに会見し琉球の物語をしたとある。」と記している。
□東京大学明治文庫の原本で、1910(明治43)年9月15日、冨山房発行『學生』第一巻第六号:ナポレオン号に「琉球とナポレオン」中村清二(7頁)が掲載されていることが確認出来ました。 その記事の挿絵にはバジル・ホールの著作と同じ挿絵が使用されています。冒頭でバジル・ホール・チェンバレンの祖父としてバジル・ホールが紹介され、はじめの小見出しは「セントヘレナ上陸」。途中の小見出しに「武器なき国」とありました。(7月28日 不二出版 小林淳子)






 西村眞次ー三重県宇治山田市(伊勢市)出身。西村九三・のぶ子の二男。号を酔夢。尋常小学校卒業後、大阪で仕事をしながら中等教育を勉学。 少年・青年雑誌に多くの投稿文が採用され、『少年文集』『中学世界』などに掲載される。上京し、新声社(新潮社の前身)や博文館で編集業務に従事。1903(M36)東京専門学校(早稲田大学)文学部に入学し、坪内逍遙に師事。'05大学卒業し、兵役に就き日露戦争に応召し中国戦線に出征。 除隊後、従軍経験を執筆し『血汗』を発表するなど作家として活動。'07東京朝日新聞社の記者を経て、'09冨山房に入社し、大町桂月の雑誌『学生』の編集者として関係した。'18(T7)母校の早稲田大学文学部講師に招かれ、日本史や人類学を講じ、28(S3)史学科主任教授となり早稲田史学科の基礎をつくった。また、早稲田大学第一高等学院でも日本史の講座を担当。→「歴史が眠る多磨霊園」


1936年8月 『短歌研究』第5巻第8号 西村眞次「啄木君の憶ひ出」

1936年10月 『冨山房五十年』冨山房


冨山房 小野梓が設立した「東洋館書店」の後進。/冨山房社主坂本嘉治馬

 大町桂月


『學生』表紙/市河三喜

  光用穆の早稲田の同級の友人に白石実三(1886-1937)がいる。白石が冨山房の雑誌「学生」の編輯に加わったのは大正2年のことであった。「学生」は中学生を対象にした月刊誌で、大町桂月(1869-1925)主筆、編集人西村眞次(1879-1943)の態勢で明治43年5月から発行されていた。発刊の経緯は、博文館を辞めて浪々の身であった桂月の経済を心配した東京日日新聞社長千頭清臣(チカミキヨオミ、1856-1916)が冨山房社主坂本嘉治馬(1866-1938)に相談して創刊させたというものである。桂月は巻頭言と随筆を毎号欠かさず大正7年5月の休刊まで載せている。編輯の実務は西村が仕切り、毎年9月に増刊号を出すことを売り物にしていた。明治43 年から順に、「ナポレオン号」「世界動物園」(明治44 年は一周年記念号として5月発行)「郷土偉人号」「世界偉人号」「立志号」「名所旧蹟号」「世界不思議号」「世界第一号」の8冊がそれである。第7巻第10号(大正5年9月15日)の「世界不思議号」に「人魚と海坊主と七頭蛇」を載せているのは箕作元八(ミツクリゲンパチ、1862-1919)である。→「東京人形倶楽部あかさたな漫筆」

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「核はこうして貯蔵されている<辺野古の核弾薬庫>」
『週刊ポスト』1973年11月15日号<平野部の”70%„が米軍基地の沖縄>


東京新聞 2016年8月16日【ワシントン=後藤孝好】米紙ワシントン・ポストは十五日、オバマ米大統領が検討している核兵器の先制不使用を巡り、安倍晋三首相がハリス米太平洋軍司令官に「北朝鮮に対する抑止力が弱体化する」として、反対の意向を伝えていたと報じた。同紙によると、首相は最近、ハリス氏に対して、オバマ氏が核兵器の先制不使用を宣言した場合、北朝鮮などの国への抑止力が低下し、地域紛争のリスクが高まるとの懸念を直接、伝達したという。伝えた日時や場所には触れていないが、首相は七月二十六日、来日したハリス氏と首相官邸で会談している。




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2016年8月16日 写真左から東松泰子さん、東松照明像、新城栄徳



1969年8月 東松照明『OKINAWA沖縄OKINAWA』

東松照明の本

 
右が東松照明氏、新城栄徳/左が東松照明氏、新城栄徳

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○任期満了に伴い伊良皆賢哲教育長退任し、新教育長に末吉良治氏(元 琉大付属中学校副校長、与那原中学校長)。


伊良皆賢哲・教育長、右が新城岳祐・吟士正師範(2014年9月28日-JA真和志農協ホール「粟国郷友会/第45回敬老会」)
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ヤマタノオロチ眠るハシカンボクの鍵穴
雄綱雌綱を結ぶ月は飛龍の眼
昇竜の江戸上り洗濯機の渦
どんどん渦巻く昇龍の若太陽

2015年12月 『地球の音符 豊里友行句集』沖縄書房(〒904-2164 沖縄市桃原3-3-12)


2016年6月18日『東京新聞』「沖縄の俳人 基地の島直視 豊里友行『いま怒らなければ いつ怒るのか』」
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福音館 小辞典文庫

福音館書店(ふくいんかんしょてん)本来は金沢市のキリスト教系書店で、カナダのメソジスト教団の宣教師が伝道を目的として設立した(社名にある「福音」はこれに由来する)。その後、第二次世界大戦勃発が避けられない事態となりカナダ宣教師団が全員引き上げることになったため、宣教師団が持っていた財産処分に際して名古屋市の星野書店の北陸担当番頭だった佐藤喜一(賀川豊彦の伝道を手伝っていたクリスチャン)が経営を引き継いだ。1951年3月、佐藤の娘身紀子の恋人だった(のち夫となる)松居直が、佐藤の招きで編集を担当。このとき実験的に作った「福音館小辞典文庫」シリーズが成功を収めたため、翌1952年2月、正式に福音館書店が発足した。1952年8月、会社の本拠地が金沢から東京都千代田区神田三崎町に移転.→ウィキペディア

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1977年9月に刊行開始。創刊時には7点を刊行[1]。2008年4月1日に朝日新聞社出版局が朝日新聞出版に分社化されたことにより版元が変更した。文芸作品のほか、朝日新聞社・朝日新聞出版発行の雑誌に連載されたノンフィクションやエッセイを数多く収める。同出版社のソノラマノベルスと朝日文庫とが、廃業した朝日ソノラマ(2007年吸収合併)のソノラマ文庫から刊行されていた小説の引き継ぎ先となり、ソノラマセレクションとして朝日文庫においては刊行されている。→ウィキペディア

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1978年3月『日本古書通信』584号 木村 毅「明治アメリカ物語」


1979年11月『日本古書通信』427号


1979年11月『日本古書通信』427号 谷沢永一 編「木村 毅著作目録」

木村 毅資料(私設 文学資料館所蔵)

木村 毅(きむら き、1894年2月12日 - 1979年9月18日)は、作家、評論家、明治文化史の研究家。
岡山県勝南郡勝間田村(現勝田郡勝央町)に生まれる。少年時代から文士を志し、『少年世界』『文章世界』に投稿する。1917年に早稲田大学英文科を卒業。隆文館、春秋社の編集者をしながら評論、翻訳をおこなう。また明治文化研究会同人(のち第3代会長)となったほか、円本の企画にも参加した。1928年ヨーロッパへ渡り、デュマの遺跡などを探訪した。小説、実録、評論のほか、明治文化・文学を研究し多数の著作を残す一方、日本フェビアン協会、労農党に参加。社会運動にも挺身した。1978年に菊池寛賞受賞。あまりの著書の多さと雑駁さに、未だ全集等はなく、伝記も書かれていない。著書に『小説研究十六講』など。→ウィキ

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上原博紀氏と作品「沈黙の向こう」「太陽の子」「K氏」


玉那覇英人氏と作品「海と月の橋」「風薫る」

西村貞雄氏作品「祈る人とゴルフをする人」「昇天」「瞑想」


後列左から 玉那覇英人、上原博紀、西村貞雄、友知雪江、上原隆昭
前列左から 津波古稔 富本明雄、上原よし (敬称略)
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田中健夫訳注 『海東諸国紀 朝鮮人の見た中世の日本と琉球』 岩波文庫、1991年
海東諸国紀』(かいとうしょこくき, 朝鮮語: 해동제국기)は、李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(しん しゅくしゅう、シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。 これに1501年(燕山君7年)、琉球語の対訳集である「語音翻訳」が付け加えられ現在の体裁となった。1443年(世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したもので、日本の皇室や国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している。「語音翻訳」は1500年(燕山君6年)に来訪した琉球使節から、宣慰使成希顔が聞き書きし、翌年に兵曹判書李季仝の進言で付け加えられた。→ウィキ


2014年12月9日~韓国・ソウルの国立古宮博物館で「琉球王国の至宝」展

2014年12月9日『沖縄タイムス』琉球王が着用した国宝の「玉冠(たまのおかんむり)」など、琉球国に関する資料約200点を一堂に集めた「琉球王国の至宝」展が9日、韓国・ソウルの国立古宮博物館で開幕する。来年2月8日まで、東アジアの中で独自の歴史と文化を築いた琉球国を、韓国の人々に紹介する。 展示資料は那覇市歴史博物館、県立博物館・美術館、浦添市美術館、美ら島財団(首里城公園)、東京国立博物館などが貸し出している。王族の衣装や当時の風景を描いた絵、高い技術を伝える漆器など第1級の資料が並び、琉球国の文化を伝える。

〇1992年にオープンした国立古宮博物館は、朝鮮時代の宮中で使われていた貴重な物品を文化財として保存、展示しているところです。景福宮、昌徳宮、昌慶宮、宗廟などに分散し埋もれていたこれらの文化財約20,000点あまりを所蔵しています。

1913年5月 『沖縄毎日新聞』襄哉(末吉安恭)譯「朝鮮小説 龍宮の宴」


松都に天磨山と云ふ山がある。高く天に沖りてグッと聳へ立った山の姿が厳かなので天磨山の稱も成程と思はせる。この山の中に一つの池がある。周囲は窄いけれど深さが底の知れぬ池で、恰度瓢箪ののやうな形をしてるので瓢淵と云ふ名が利た。

■「金鰲新話」 朝鮮時代初期に政治家であり文学者であった金時習によって書かれた漢文文語体の朝鮮最初の小説です。《萬福寺樗蒲記》《李生窺牆傳》《醉遊浮碧亭記》《龍宮赴宴録》《南炎浮洲志》の5編で構成されています。後世の研究者に依れば元々はそれ以上に書かれていたと推測されていますが、残された資料が少なく定かではありません。また、この作品がその後に書かれた小説に大きな影響を与えたと言われています。ぜひ皆さんもイージー文庫の連載『金鰲新話(クモシナ)』をお楽しみください
王からの招待
松都(高麗時代の都=開城)には天磨山と呼ばれる山がある。その山の高さが天に届く程で、その険しく秀麗である事からその様な名前が付いた。山の中に大きな滝があったが、滝の名を*朴淵(パギョン)と言った。滝つぼの広さはそれ程広くは無かったが、深さは如何程か分からないほどであり、水が落ちてくる滝の高さはとても高かった。この朴淵瀑布(パギョンポクポ)の景色が非常に美しく、地方から松都に来た人々は必ずこの地を訪れて見物して行くの常だった。また、昔からこの滝つぼには神聖な存在が居るとの言い伝えがあり、朝廷では毎年の名節の折に牛を供えて祭祀を執り行っていた。  *朴淵瀑布:高さ37m、幅1.5mの開城にある滝で、金剛山の九龍瀑布、雪岳山の大勝瀑布 と併せて朝鮮三大名瀑に数えられる。

高麗の時代の話である。韓氏の姓を持つ書生が居たが、若い時から書に優れていることで朝廷にも知られ称賛を受けていた。ある日、韓生(ハンセング)は自分の部屋で一日過ごしていると、官吏の正装をした二人の男が天から降りてきて庭にひざまずいた。「朴淵の神龍さまがお呼びで御座います。」韓生は驚きの余り顔色が変わった。「神と人の間は遮られているのに、如何して行き交う事ができるのですか?まして神龍様の居られる水府は水の奥深くにあり、滝の水が激しく落ちるのに如何して行く事ができましょうか?」二人が言った。「門の外に駿馬を準備致しました。どうか遠慮なさらずにお使い下さい。」二人は身体を曲げつつ韓生の袖を引いて門の外に連れ出した。すると外には馬が一頭用意されていたが、金で出来た鞍と玉と絹で作られた手綱で仕立てられており馬には翼が付いてた。その傍には赤い頭巾で額を隠した絹の服を着た10余名の侍従が立っていた。侍従は韓生が馬にまたがるのを助けると、一隊の前に立って先導し、女官と楽隊が後に続いた。また、先の二人も互いに手を取り合って続いた。馬が空中に舞い上がると、その下に見えるのは立ち込めた煙と雲だけであり、他には何も見る事が出来なかった。やがて韓生は龍宮門に到着した。馬から下りると門番たちが蟹、海老、亀の鎧を着て杖を持って立っていたが、その目がとても大きかった。彼らは韓生を見ると皆こぞって頭を下げてお辞儀し用意された席まで案内して休息を勧めた。予め到着を待っていた様であった。彼を案内して来た二人がいち早く中に入って到着を伝えると、すぐに青い服を着た二人の童子が恭しく出迎えて挨拶すると先導を代わった。韓生は先導に従いゆっくりと歩いて宮殿に向った。韓生が門の中に入ると龍王が*切雲冠をかぶり剣を差したまま、手に竹簡を持って階(きざはし)まで降りて迎えた。龍王は韓生を誘い殿閣に上がると座る様に勧めたが、それは水晶宮の中にある白玉の椅子であった。  *切雲冠:雲を衝くほどに高くそびえ立った冠

末吉麥門冬が最初に朝鮮史にふれたのは1915年6月22日『琉球新報』末吉麦門冬「朝鮮史に見えたる古琉球」(1)からである。
1915年6月22日『琉球新報』末吉麦門冬「朝鮮史に見えたる古琉球」(1)
□松下見林の『異称日本伝』の例に倣った訳でもないが、記者は年来琉球史の記実が詳細を欠き、漠として雲を掴むような観あるを、常に憾みとしていた。其の原因は吾々の祖先が文字に暗い上に、筆不精と来てるので、有る事実も材料も使い得ず、官命を帯びて不性無性、筆を執って偶々物したのが、僅かに球陽、中山世譜位のもので其れも憖じいに廻らぬ筆の陳文漢文だから要を得ぬ所が多いのである。其れは先ず正史の方だが沖縄には元来野乗随筆と云った物が無い。正史の缼を補うような材料が得られない。歴史家困らせである。

目下県の事業として真境名笑古氏が満幅の精神を傾けて、材料蒐集に従事して居らるるが、氏も常に語って委しからず、録して汎ねからぬ史籍に憾みを抱き是ではならぬと本邦の史籍は無論支那朝鮮の史料まで眼を通さねばならぬと云って望洋の歎を発している。幸いに氏が不撓の努力と燃犀の史眼は、沙礫の中から珠玉を拾うような苦心で新材料が一つ一つ机の上に転がって来る。其の愉快は又学者ならでは味わえぬことだろう。此の新材料提供の泉の一つが朝鮮の古書である。流石は朝鮮で支那に次ぐ文字の國ではある。蔚然たる古記録には東洋各國の史料が束になって這いっている。一たび其の堆土の中に熊手を入るれば、敕々雑々として葉山の秋の落葉を掻くが如きものがある。記者も眠気醒ましに熊手代わりの雑筆を揮いて高麗山の落葉を掻いて荒れたる史田の肥料にでもと思い立ちぬ。

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麦門冬が引用した文献資料
○りゅうひぎょてんか【竜飛御天歌】 朝鮮の李朝建国叙事詩。鄭麟趾らの撰。1447年刊,木版本。10巻,125章から成る。初章1聯,終章3聯以外は2聯で,対になったハングル歌,そして漢詩訳が続く。前聯は中国の故事,後聯は朝鮮の事跡で建国の正当性を主張する。世宗(せいそう)前6代祖の事跡を述べるが,太祖(李成桂)に最も詳しい。110章以降は後代の王への訓誡。ハングル(1446年訓民正音として制定)による最初の資料で,注は漢文で書かれて長く,高麗末から李朝初期の中国東北部や日本に関する記事もあり,文学・語学・歴史的にも重要である。
(コトバンク)
○櫟翁稗説・筆苑雑記 李斉賢/徐居正著
高麗・朝鮮王朝の古典の翻訳
韓半島に栄えた高麗・李氏朝鮮の両王朝の2人の高官が書き残したさまざまな人物評や風聞、笑い話、風俗、官僚の姿、制度などの記述に豊富な注と解説を加えた歴史的古典の翻訳。 韓流ブームの中にあって、解説書や入門書の紹介は数多いが、本格的な当時の古文書を翻訳したものは少ないので貴重な書籍である。 とはいえ、全体が短い文でつづられているので、出てくる人物のことやその他の情報を知るにはいささか厳しい。それこそ多数の人物が登場するが、注を読んでもさっぱり分からないことが多い。 しかし、当時の人物が直接書いた感想や評伝なので、歴史的な事実の裏側を知るには貴重な文献とは言えるだろう。 高麗王朝の高官だった李斉賢の「櫟翁稗説」の解説には、当時の高麗王が元の侵略によって、その後の王の名前に「忠」が付いたものが多いことが指摘されている(「忠烈王」「忠宣王」「忠粛王」「忠恵王」など)。
これは解説によれば、「元の圧力によって高麗王は『宗』や『祖』を名乗れなくなったのである」とある。要するに、「『忠』などというのは臣下の徳目であって、王の徳目としてはありえない。最高主権者は『忠』であるべき対象をもたないはずだが、高麗王は元の皇帝に『忠』であることを強制されたのである」。 そのことは世継ぎを「太子」と呼ぶのではなく、「世子」と呼ぶようになったのも元の干渉からきていると訳者は指摘している。 また、李氏朝鮮王朝の高官だった徐居正の「筆苑雑記」では科挙の試験に昔は酒食がふるまわれたことや日本の戦国大名の大内氏の祖先が新羅から来ているのではないかと考察したものや7代王の世祖の時代に「女と見まがう容貌」の男がいて、罪人として法によって処刑することを司法関係の役所では願ったが、王が大目に見て却下したことなど興味深いエピソードが記されている。 (梅山秀幸訳) 中山雅樹


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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 本日はアメリカ軍B29、広島に原子爆弾を投下し無差別大量殺戮した日である。□被爆当時、広島には約35万人の市民や軍人がいたと考えられています。これは、住民、軍関係者、建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々などを合わせた数字です。当時日本の植民地だった朝鮮、台湾や、中国大陸からの人々が含まれ、その中には強制的に徴用された人々もいました。また、少数の、中国や東南アジアからの留学生や、アメリカ軍捕虜などの外国人も、含まれていました。原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています。→広島市

2012年11月11日『琉球新報』「核兵器廃絶『現実は無理』/遊説先の広島で橋下氏ー日本維新の会代表の橋下徹大阪市長は10日、遊説先の広島市で核廃絶について『現実は無理ですよ。今の国際政治で。日本はちょっと平和ボケしている。核廃絶を日本がやると言ったって、誰ができるのか』と述べ、実現は困難との認識を示した。また非核三原則が禁じる核持ち込みについて『アメリカの核に守られている以上、あり得るのではないか。現実にあるのであれば、国民に開示して議論をしなければならない』と述べ、容認する可能性に言及した。

 アベ属国史観を廃し「叛ヤマト史へ」


2016年8月6日 ジュンク堂書店那覇店「『希望の島・沖縄ーアリは象に挑むⅡ』トークセッション」
トーク出演 新崎盛暉さん、真喜志好一さん、浅井真由美さん

真喜志好一さん

浅井真由美さん


写真右から新崎盛暉さん、浅井真由美さん、真喜志好一さん、

アジる金城実さん「慰謝料ではない。賠償金だ!」



会場に隣接して「京都フェア」

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08/04: 車原病

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Posted by: ryubun02
 検索で「自動車症候群、 それは車原病である」とある。私は最近、バイクも弟に譲って出来るだけバス・モノレールを利用するか、歩くようにしている。運転免許証更新連絡書が来た。那覇から豊見城に免許センターが移転と連絡書にはあるが、地図も省略されてわからない。本日バスを当てずっぽうで載り、山川橋で適当に降りた。ウフィ橋を渡ると「宇平橋碑」「軽便鉄道山川駅」があった。方向も分からぬまま歩くと時間が迫ってきた。武富からタクシー、1000円もかかった。手数料3,900円払い講習を受けた。平成23年の交通事故による死亡者は41人、重傷者は671人、今年は死亡者36人、重傷者は622人と講師が説明していたが、人一人の命は地球より重いが死刑制度と相俟って絵空事としか思えない。那覇署巡査部長が酒気帯び運転するご時世か「飲酒運転」の法令についても説明していた。2004年4月『琉球新報』に「飲酒運転・罰金総額 昨年1年間、沖縄県民が支払ったのは16億円」とあった。免許証を受け取ってみると本籍欄が無くなっている。帰りは近くの沖縄アウトレットモール、戸田書店をのぞいた。そこからバスにのりバスセンターまで400円。(2012-12-12記)

2011年11月28日の『琉球新報』に桜井国俊沖大教授が時評2011で「日本社会は、未曽有の原発震災を経験したにもかかわらず、原発なしでは立ち行かないという経済界の化石化した思考によって、政府もマスコミもそして国民も、再度マインドコントロールされつつある。たとえ原発事故がなくとも、数万年単位の管理を必要とする高レベル放射性廃棄物の処分場をどこにも作ることができないままだと未来世代に対する犯罪を、これ以上続けるわけにはいかない。(略)沖縄も、気候変動についてバックキャスティングの発想が求められる。沖縄の温室効果ガス排出源の構成は他県と異なる。主たる排出源は産業部門ではなく、運輸部門、民生業務部門、民生家庭部門である。一言で言えば、超クルマ社会であること、クーラーなどによる電気消費量が大きいことが、沖縄における排出量増加の主たる原因である。(略)脱クルマ社会の実現に向け着実な前進が必要だ」とある。今沖縄も選挙の最中であるが、新聞は県内も自公が優勢と謂う。沖縄もこれで完全に日本国民の一員になったようである。が、これから「辺野古移設」「原発再稼働」「消費税」[オスプレイ]が待っていて弱肉強食の時代が来る。(2012-12-12記)





家の近くの「中之橋」周辺(2016-8-9夕方)車で溢れている


1982年1月 小林直司/渡辺勲蔵『車原病ークルマ社会の健康診断』三一書房

しんぶん赤旗 2016年9月13日
<潮流>1899年9月13日、ニューヨークの街頭で…
 1899年9月13日、ニューヨークの街頭で不動産業者ヘンリー・ヘイル・ブリスにタクシーが衝突。翌日死亡しました。米国初の自動車による死亡事故といわれます
▼「初」を客観的に証明することは困難なので、この場合も「といわれる」としか言えません。ただ、100年後に交通安全を願う追悼の銘板が現場に設置されたと伝わることからすると、歴史的な出来事だったようです
▼全日本交通安全協会によると、交通事故死者数(事故後24時間以内)は昨年4117人。最多だった1970年の1万6765人と比べれば4分の1ですが、人の命は何より重い。突然命を奪われる事故の悲惨さに変わりはありません
▼いま自動車業界は自動運転車の開発を競っています。レーダーやカメラ、GPSを使い、機械が正確、安全に走行させるという技術です。2020年ごろの実用化をめざしています
▼技術の発展は人の生活を変えます。往々にして法や規範はそれに遅れがちです。ブリスの死亡事故を起こした運転手は殺人罪に問われたものの無罪になったとか。車が人を死に至らしめることがあるという前提で法がつくられていなかったためでしょう
▼自動運転は本当に安全なのか。三菱自動車とスズキの燃費不正、フォルクスワーゲンの排ガス不正は、メーカーが無条件に信頼できる存在ではないことを示しました。公道を走るようになったとして事故時の責任はどうなるのか。技術は人を幸せにすべきもの。社会のルールづくりが問われます。

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2018年7月24日ー新城あけみ


2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

中村 正直(なかむら まさなお、1832年6月24日(天保3年5月26日) - 1891年(明治24年)6月7日)は明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。文学博士。英学塾・同人社の創立者で、東京女子師範学校摂理、東京大学文学部教授、女子高等師範学校長を歴任した。通称・敬太郎、敬輔。号は敬宇。江戸で幕府同心の家に生まれる。幼名は訓太郎。昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となる。幕府のイギリス留学生監督として渡英。帰国後は静岡学問所の教授となる。教授時代の1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも彼である。→ウィキ


西国立志編 : 原名自助論』11冊、斯邁爾斯著、木平謙一郎、明治4年9月
サミュエル・スマイルズ 『自助論』 の翻訳。
『改正 西国立志編 : 原名自助論』 斯邁爾斯著、七書屋、1877年2月



『西洋事情』福沢は江戸幕府の命により1860年(万延元年)にアメリカに渡り、1862年(文久2年)にはヨーロッパに渡ったのち、1866年(慶応2年)に初編3冊を刊行した。翌年の1867年(慶応3年)再びアメリカへ渡り、その後1868年(明治元年)に外編3冊を、1870年(明治3年)2編4冊を刊行している。その内容は政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気機関、電信機、ガス燈などに及び、それぞれについて個別に紹介している。例えば政治については政体が君主政、貴族政、共和政の三種類の政体に区別され、イギリスではこれらの政体を組み合わせていると記している。さらに文明国の六つの要訣について列挙しており、それは法の下で自由が保障され、人々の宗教には介入せず、技術文学を振興し、学校で人材を教育し、安定的な政治の下で産業を営み、病院や貧院等によって貧民を救済することであると論じる。また外交についても、通商や婚姻によって君主間の関係を構築し、戦争を防止するために条約を締結し、条約に基づいて大使が相互に派遣されるという外交の制度が紹介される。このように、当時の日本には存在しなかった西洋の近代的な制度や技術を数多く紹介している。→ウィキ

1980年3月 別冊太陽『慶應義塾百人』平凡社

 コルシカ島生まれのナポレオンは、新聞一紙は5千の兵に匹敵するとし新聞統制を計り活用した。駅逓頭・前島密が指導した『郵便報知新聞』が創刊された1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社にかかわる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。

1893年9月15日『琉球新報』創刊 
 琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

 同年9月22日、『大阪朝日新聞』は「琉球新報-廃藩置県の日浅く他県に比して一層の啓発を要するの地宜なる哉此新報の発刊を見るや新報は隔日刊にして初号には琉球年代記を附録せり」。京都『日出新聞』は「琉球新報-混沌たる暗黒の幕を破りて五百余万の王民に対し閃山一道光燈来の光景を与へんと期する琉球新報は本月十五日を以って第一号を発刊せり紙幅体裁固より内地の発達したる諸新聞紙に比すべくもあらざれど邦人をして琉球に於ける政治社会経済上の事実を知らしめ沖縄県民をして旧慣陋習を破り文明の空気に触れしむるの機関として裨益する処少なからざるべし発行所は那覇西村百二十三番地にして隔日刊行する由」と報じた。


1901年(明治34)2月5日『琉球新報』「福澤翁逝去 福澤諭吉昨夜死去、八日午后一時葬儀(二月四日午前十時五十五分東京發)」



1901年(明治34)3月3日『琉球新報』大田朝敷○松田橋での壮士俳優義有団一座の「実録慶應義塾教育勅話書生之亀鑑」の新演劇を観て、3日に亡くなった福沢諭吉について、「慶應義塾らしき所福沢先生の精神が微塵も見へない」(「松田橋の新演劇」)と感想を述べる(伊佐眞一)


福沢諭吉誕生地ー大阪市福島区福島一丁目1 玉江橋北詰すぐ
 天保5年(1834)12月12日、諭吉は当地にあった中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれられ中津へ戻った。中津では儒学を学び、安政元年(1854)長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後に塾頭になっている。→1977年3月『大阪春秋』谷口佳以子「福澤諭吉誕生地と雙松岡跡」



1927年 『エリア随筆集』國民文庫刊行會
エリア随筆 エリアずいひつEssays of Elia, The Last Essays of Elia
イギリスの随筆家 C.ラムの随筆集。第1集 1823年,後集 33年刊。そのほとんどは 20年創刊の『ロンドン・マガジン』に発表されたもので,作者自身の体験を中心に,人事一般についての回想や省察を,絶妙なユーモアにしみじみとしたペーソスを交えながら,独特の文体で綴っており,イギリス随筆文学中の白眉とされる。 →コトバンク


 1963年10月 福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』垂水書房で1964年、読売文学賞受賞。1963年、「英文学を基盤とする随筆一般」の活動に対して日本芸術院賞受賞し、1964年に日本芸術院会員となる。1968年には文化功労者として表彰。1968-69年には『福原麟太郎著作集』(研究社出版)が刊行。


左ーヘイズリット・筆『ラムの肖像』(ウィリアム・ヘイズリット(William Hazlitt、1778年4月10日 - 1830年9月18日)は、イギリスの著作家、批評家、随想作家)/右ー福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』

2016年8月7日 おもろまち


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