1916年11月 『沖縄県人事録』「比嘉盛昇」同編纂所(楢原友満)

1912年4月21日『沖縄毎日新聞』「本県辞令ー与勝尋常高等小学校訓導・比嘉盛昇、玉城尋常高等小学校訓導に任じ8級俸給與」

1913年 『沖縄教育』沖の島人(親泊朝擢)「人物月旦ー文部検定に合格せる比嘉盛昇君」
1913年2月 『沖縄毎日新聞』比嘉盛昇「理想的教育者の内容」連載

1913年8月25日『沖縄毎日新聞』比嘉盛昇「意思本位主義の教育説に就いて」

1913年10月 『沖縄教育』弟90号□比嘉盛昇「児童心理研究の必要」(島尻郡教育部会に於ける演説)
1915年7月 『沖縄教育』弟102号□島尻小学校長会に於ける諮問答案ー摩文仁尋常小学校長 比嘉盛昇君「教授の諸原則/心理的、論理的、経済的、徹底的  言語練習が必要=言論の豊富は思想の豊富  進級標準を規定せり」



1921年8月~1925年7月 比嘉盛昇・一級首里市会議員
1921年10月19日 首里市助役に比嘉盛章就任

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1924年12月 『沖縄タイムス』比嘉掬水(盛章)「八橋流琴曲の伝来に就いて(山内盛彬君に寄す)」

1930年   比嘉盛章、『日刊沖縄毎日』創刊し社長

1932年3月  『沖縄朝日新聞』八巻太一「昭和女学校設立に就いて」(連載)

■琉球音楽一夕話を筆写した喜舎場晧史氏の附記
この琉球音楽一夕話なるものは、比嘉盛章(掬水)先生が昭和7年7月1日沖縄日日新聞紙上に寄せられた貴重な論文である。海を越えた遠くの八重山で、父(永珣)が琉球に関する古記録を大切に保持されたものの中から出張中の宮里春行氏の委嘱により、一週間に亘り私が筆写したものである。→ブログ「唄三線練習帳」

1933年2月23日 『琉球新報』比嘉盛昇「古琉球の國都は首里か浦添か? おもろ文献より見たる浦添國都説の史學的價値」(連載)

1935年9月30日  第12代目与那国小学校校長ー 比嘉盛章
1938年12月    『南方土俗』比嘉盛章「琉球の音楽舞踊に就いてー琉球音楽に就いては10年来、安冨祖流金武良仁、石嶺朝功に師事・・・」□比嘉盛章は安冨祖流の道統図に名前を連ねている。


1940年5月19日 『琉球新報』「母カメ御会葬御礼ー男比嘉盛章/男 在東京 比嘉盛芳、男 八重山 比嘉盛球、孫 在熊本 比嘉盛健」
1940年9月、台湾で比嘉盛章を中心に「おもろ研究会」

1943年~1944年  私立沖縄昭和女学校教諭

1947年1月15日 『沖縄新民報』「(略)比嘉盛章氏逝くー遺族は孫 昇さん3歳と節子夫人の二人であり、最近(比嘉盛章)大分県在住沖縄県人会長に就任したばかりであり氏の訃報は県人に惜しまれている。」「祖父比嘉盛章儀去る12月16日急逝致候間生前の御厚誼を拝謝し此段謹告仕候 12月20日 孫 比嘉昇/妻 節子 親戚友人一同 大分県在住沖縄県人会一同」

1955年9月15日『琉球新報』須藤利一「比嘉盛章氏のことども(上)」
1955年9月16日『琉球新報』須藤利一「比嘉盛章氏のことども(下)」

1971年11月 『比嘉春潮全集』③517/④76、117、118、350~352、371
1984年3月 『那覇市史だより』川平朝申「宮里栄輝氏の思い出ー宮里栄輝さんとは、私が台湾で須藤利一教授と南島研究に情熱を燃やしていた頃、比嘉盛章先生に紹介していただいてからのことす。・・・」

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