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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

宮里千里氏を紹介する瑞慶覧長敏氏/宮里千里氏と対談する高野孟氏

2016年12月26日(月)16時より、ブックカフェ『ゆかるひ』(那覇市久茂地)にて、沖縄民俗祭祀採音者の宮里千里氏を講師にお招きし第24回世界友愛フォーラム定例勉強会「琉球の祭祀音源とアジア周辺の音」(主催:東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター)。


高野孟氏に『琉文手帖』を贈る/1992年1月 高野孟 編『マフィア経済の生態』東洋経済新報社


2014年10月 鳩山友紀夫、高野孟・他『東アジア共同体と沖縄の未来』(友愛ブックレット)

○進藤榮一-共通のリスク/1997年から98年にかけて勃発したアジア通貨危機です。1997年7月2日、ちょうど大英帝国が99年間の植民地統治を終わらせて、香港を中国本土に返還したその日をねらい打ちするかのように、米欧の機関投資家、ヘッジファンドが動き始めます。タイの通貨バーツを大量に買い続けた後で、一気に売り浴びせます。タイガーファンドやソロたちが、バーツの売りと買いを繰り返して、巨額の富を稼ぎ出したのです。(略)IMFは貸し出しに応じますが、条件として貸出国、特に韓国に対して経済構造改革を求めます。そして結果として外国資本、特にアメリカ企業が参入しやすい条件を呑ませたのです。その構造改革が、今日の米韓FТAに繋がって、韓国経済のアメリカ化とでもいうべき悲惨な状況をつくり出しています。いわばアジア通貨危機を契機に、アメリカ流のカジノ資本主義のリスクが、成長するアジア市場をめがけて、襲いかかってきたのです。

○高野孟ーサンフランシスコ平和条約の本質は占領の継続である。(略)天皇は、日本は無防備だから独立後もアメリカに守っていただきたい、そのために沖縄を差し出しますという提案をし、なおかつ、そのことはサンフランシスコ講和条約そのものには書き込まずに、別途の租借条約のようなものを作った方がいいというところまでマッカーサーに提案した。私は昭和天皇っていうのはすごい政治家だと思いますけど、実際その通りになって、サンフランシスコ講和体制の下での日米安保条約とその実体をなす日米行政協定、今日の日米地位協定という戦後日本の骨格が出来上がった。そのまま占領体制をむき出しにして独立を公言する訳にもいかないし、安保条約という包み紙だけではアメリカ一本やりになってしまう。さらに丁寧にサンフランシスコ講和条約という風呂敷で包んで見せたということであって、本質は占領の継続です。

○高野孟ー安倍政権の「新・富国強兵」/安倍首相を突き動かす、おじいさんコンプレックスーその安倍さんを突き動かしているのは、専らおじいさん、岸信介へのコンプレックスだと思います。あの人の口から、お父さん、安倍晋太郎元外相の話は一切出てこない。こんな飛ばし方もひどいんじゃないか、もうちょっとバランスを取ってもいいんじゃないかと思うくらい、ひたすらおじいさんに傾いていく。結局、安倍さんの歴史観・国家観はそこに行き着いていくんじゃないか。満州国を作ったのは岸信介です。あれが中国侵略なんかであったはずはないと、安倍さんは思っているんでしょう。そしておじいさんは、東条内閣の一員として大東亜戦争を戦いました。あれが尊い戦争でない訳がないじゃないかと、安倍さんは思っているのでしょう。そしてまたおじいさんを戦後GNQが極東裁判にかけようとして、3年間巣鴨プリズンに放り込みましたけれども、幸いにCIAとの妥協が成立したのかどうか、裁判にはかけられなかった。しかしおじいさんを危うく戦犯で絞首刑にしようとした極東裁判なんて間違っていると思っているに違いないのです。

◇高野孟1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。94年に故・島桂次=元NHK会長と共に(株)ウェブキャスターを設立、日本初のインターネットによる日英両文のオンライン週刊誌『東京万華鏡』を創刊。2002年に早稲田大学客員教授に就任。05年にインターネットニュースサイト《ざ・こもんず》を開設。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。→「まぐまぐ!」



○孫崎亨ー去年2013年の12月13日に、天皇陛下が80歳の誕生日を迎えられました。そしてそこでお言葉を述べられたわけですけれども、このようにおっしゃっています。「戦後連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本国憲法を作り、様々な改革を行って今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を建て直し、かつ改善して行くために、当時のわが国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。」(略)NНKニュース・NНKのニュース資料では、この「平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本国憲法を作った」というところを省いています。外国の報道機関はここをわざわざ取り上げて、天皇陛下はそう言われたと報道ー。

 2012年5月15日ー地元紙を見ると、NHKもそうだが相変わらず「識者」と称する人物たちに発言させてお茶を濁らしている。記者は自分の問題として識者の見解も参考にして、戦後このかた「基地」問題で揺れ、なお「安保容認」チジを生み出している根幹は何なのかを追及し県民に分かりやすく解説してほしいものだ。前に書いたが「また鳩山元首相が来るのを問題視するマスコミがあるが、そんな枝葉のことよりも消費税の野田首相にこそ問題視してほしいものだ」と強調した。地元紙は相変わらず「カジノ」「消費税」なども通信社記事をせっせとたれ流している。特に「消費税徹底議論せよ」とか「カジノ誘致 全国で過熱」とはエロ雑誌顔負けだ。ま、最近は広告にもエロ的広告が目につくが。密約復帰40年というのに、新聞報道が少しも変わり映えしないから必然的に余生を沖縄で過ごしている(?)岡留氏のブログをつい見てしまう。

岡留氏のブログ□鳩山氏に対する大手メディアの論調はまさに変人扱いだが、少なくとも普天間基地の県外・国外移設を堂々と主張した総理は初めてである。今や、仲井真知事を含めて沖縄県民の8割が県外移設を主張しているが、その先鞭をつけたのは鳩山氏なのだ。鳩山氏はイラン訪問でもバッシングされたが、鳩山氏は民主党外交担当最高顧問という肩書で、米国が敵視するイランとの融和で動いただけのことである。日本はイランとは石油で大きな取引関係があるだけに、米国の道ずれでイランとの関係を断つよりもはるかに国益にかなうのではないのか。米国の意向を汲む政治家、官僚、メディアこそが鳩山叩きの元凶なのだ。

その日の夜は、インターネットTV「ニコニコ生動画」が沖縄にやってきて、ラジオ沖縄のスタジオから全国に放送された。復帰40年で、現地から沖縄問題を語ろうという画期的な試みだ。(略)当日の県と国が開催したコンベンションセンターの式典の模様を批判的に取り上げつつ、基地問題を語る。「ニコ生」にしては硬派すぎたかも知れないが。式典でもっとも印象的だったのは上原康助元衆議院議員が来賓の野田総理やルース駐日大使を名指しで、沖縄の基地の現状を手厳しく訴えたこと。美辞麗句の式典が一挙に暗転したが、メディアの式典報道では上原発言はいずれも取り上げていなかった。

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第7回戦後沖縄研究コロキウムー終戦~<復帰>前後を中心にー 
 *企画:「戦後の沖縄社会と女性への視座―その手から産まれたもの・技術史の課題ー」
 *期日:2017年5月14日(日)午後2時~5時 
 *会場:南風原文化センター(沖縄県南風原町)
 *内容:講師)
   ・「戦後沖縄の技術史の課題―時代の技術ー」粟国恭子(近現代文化史・沖縄県立芸術大学非常勤講師)
・「ミシンと『復興』」謝花直美(沖縄戦後史・沖縄タイムス編集委員)
   ・「戦後南風原のモノづくりと女性」平良次子(学芸:南風原文化センター職員)
   ・コーディネーター:秋山道宏(社会学・沖縄戦後史、沖縄国際大学非常勤講師)


第6回戦後沖縄研究コロキウム―<沖縄を撮ること・記録することを問う>シリーズ
*企画名:「写真の<ポジション>2―交叉する視角ー」
*期    日:2016年12月25日(日)午後1時から5時30分
*会  場:沖縄県立博物館・美術館1階博物館講座室
*一般参加可・無料
*主催:戦後沖縄研究コロキウム実行委員会 *共催:沖縄文化工芸研究所
*後援:沖縄国際大学南島文化研究所、沖縄タイムス社、一般社団法人フォトネシア沖縄
*問い合わせ:aguni00142@gmail.com

<プログラム>
はじめに 開催趣旨
Ⅰ部:表彰される沖縄―占領期を中心にー
*「実る恋と実らぬ恋トー松竹映画『海流』と「中琉」合作映画を中心に」
     八尾祥平(社会学・移民:華僑華人)
*「ジャーナリスト・森口豁と沖縄」
     大盛伸二(映像・写真)
*「『太陽の鉛筆』から『新編 太陽の鉛筆』へ」
     友寄寛子(写真・芸術批評)
Ⅱ部「<島・シマ>への眼差しー交叉する視角
*「沖縄への<文化認識>と写真―<復帰>前後のトライアングル・コンタクト」
     粟国恭子(文化人類学、近現代文化史)
*「平敷兼七と<島>」
     仲里 効(映像批評・沖縄文化思考)
*「写真家と研究者―戦後沖縄民俗祭祀世界の証人たちと映像」
     伊從 勉(建築史、空間人類学)
Ⅲ部  合同ディスカッション   コーディネーター:須藤義人(映像人類学)







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小冊子『熱風』2016年11月号 第14回 日本人と戦後70年(青木 理)――[ゲスト]津田大介さん
津田「社会が右翼化しているというより、ネットで流通しやすくなった過激な言説にメディアが翻弄されすぎているんです」


小冊子『熱風』2016年12月号 特集「日本のアニメーション製作事情」/第15回 日本人と戦後70年(青木 理) ――[ゲスト]鳩山友紀夫さん

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1982年9月 沖縄の雑誌『青い海』116号 山口栄鉄「海外沖縄便りー幸地東風翁/移民一世の死」

2016年12月16日 バジル・ホール来琉200周年記念碑除幕式が、那覇市の泊緑地で開かれた。関係者が集まって記念碑の建立を祝い、今後も沖縄とイギリスなど、海外との交流が深まることを期待した。

写真左から渡口彦邦氏、宮城宏光氏

写真左から嘉数昇明氏、緒方修氏、山口栄鉄氏、安仁屋眞昭氏








2016年12月30日『琉球新報』 <金口木舌>バジル・ホールの碑の前で
 那覇市の泊外人墓地に「WM HARES」と記された古い墓がある。西洋人として初めてここに葬られた英国人水兵の墓だ。一度改修されたが「1816」の刻銘が建立年だ
▼200年前、琉球を訪れたバジル・ホール英艦隊一行の一員ウィリアム・ヘアーズが21歳で病死した。琉球側は泊の松林に埋葬し、豚をささげ、ウチカビを燃やした。手厚い葬儀に英国側は感銘を受けた
▼ホールは帰国後、約40日間の滞在を「朝鮮・琉球航海記」として出版し、美しい自然や穏やかで礼儀正しい琉球人を称賛した。本国への帰途、ナポレオンと会い「武器のない島がある」と報告し、彼を驚かせたという逸話は有名だ
▼ホールの本を読んで琉球を知ったペリーは37年後、那覇沖に姿を現す。「武器のない島」はその後、日本に組み込まれ、米国との戦場にまでなった。最悪の武器である核や化学兵器も置かれ、ベトナムや湾岸、イラク戦争への出撃基地と化した
▼西洋に初めて琉球を紹介したホールの功績をたたえる記念碑が今月建立された。場所は彼らが上陸した泊の公園だ
▼碑の前に立つ。日米からの外圧が増す中、理不尽な島の現状を考える。200年前、戦とは無縁だった島は、戦争好きな権力者に翻弄(ほんろう)されるようになった。平和外交を求め続けた先人たちの姿を思うと、未来を諦めるなとの声が聞こえる気がした。

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2016年9月 世良利和『米軍統治時代の沖縄映画史』蜻文庫




2012年10月 世良利和『沖縄映画史の復元ー戦前編ー』

岡山の世良利和氏から『沖縄映画史の復元ー戦前編ー』を恵まれた。明治以降の沖縄の新聞を読み込んで映画史を分析・整理・解題している。とくに岡山孤児院は地元でもあるから詳細に検討している。私の関心する事柄について触れる。
○大島の新聞の父・福永義一
臺灣から来沖した新派の壮士芝居役者で写真師。福永は宮崎県人、1900年に那覇区内でペンキ看板製造や、のぞき眼鏡興行、公正会影劇部と称し幻燈写真興行、同年12月には福永写真部を開業した。さらに福永は1902年4月9日、那覇警察署近くに清国人を大阪から招き「支那そばや」を開業して現在の沖縄そばやの直接のルーツとなった。1903年に催眠術治療「福永救済館」開業。1905年ごろ、奄美大島に移り、名瀬で福永写真館を開業し、醤油製造、養豚をやる傍ら1909年『大島新報』を創刊し大島の新聞の父と言われた。福永は、大島紬の染色原料ティーチ木裁断機の発明で試運転の際、袴が機械のベルトに巻き込まれ死亡した。1926年のことで60余歳であったという。
〇『名瀬市誌下巻』吉山重雄「奄美大島における写真のあゆみ」
福永写真館(福永義一、宮崎県高鍋町出身)ー福永氏は号を陽州と称し、名瀬市入舟町16班川崎タミ商店付近で、明治38年(1905)ごろから昭和4.5年ごろまで営業する。福永氏の弟子に河村武成氏(名瀬市朝戸在住)がいる。福永氏は写真が本業ではあるが、そのかたわら種々の事業を行っている。幻燈写真等もその一つである。大島で初めて幻燈写真を始めたのも福永氏ではないだろうか。氏は明治40年ごろ各地の学校等をまわり、幻燈写真を一般に見せていた。

菊池幽芳ー1913年4月25日~11月22日『大阪毎日新聞』菊池幽芳「百合子」

1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。

1914年3月

本山萬吉ー1939年5月3日(70歳)没 長男・裕児、二男・常男(ブラジル在)、三男・政比古(鹿児島在)






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2016年11月 天荒俳句会合同句集 七集『真実の帆』 代表・野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536 事務局・おおしろ建 〒903-0812 那覇市首里当蔵町2丁目57番地 電話・FAX098-884-0456

野ざらし延男「あとがき」
 (前略)歴史を検証する〇日本は安全保障関連法(戦争法)を成立させ、海外派兵への道を開き、軍国日本へと舵を切った。東日本大震災による東京電力福島第一原発のメルトダウンは安全神話を崩壊させた。崩壊した建屋には高濃度の放射線量のため誰も入れない。原因究明も廃炉の目途もたっていない。放射能汚染水は何度も漏れている。帰還困難地域では除染が進んでいない。核廃棄物の行き場もなく、地下に埋めただけで無化できている訳ではない。地殻変動や地震、火山の噴火などでいつ牙をむくかわからない。ヒバク汚染地域から追い出された人たちは今も古里に帰れない。だが、政府はこの過酷な現状に目をつぶり、原発再稼働へと踏み切った。核拡散阻止条約の未加盟国インドへ原発産業を売りに出した。戦争被爆国日本は世界の核廃絶に大きな声をあげる立場にある。歴史を教訓化できない国に希望の火は灯らない。
 地球誕生から46億年。万物を育ててきた水の星、地球があえいでいる。戦争とテロで戦火が絶えない。難民、感染症、地球温暖化、核、原発など火急の問題に処方箋が出せない。地球滅亡へのカウントダウンが始まっているのではないか。人類に未来はあるのだろうか。
 

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 本日12月8日未明 (アメリカ時間で7日)の1941年に日本海軍が行なったハワイ真珠湾軍港への奇襲攻撃で太平洋戦争が始った日である。

2016年12月 城谷一草「春秋庵雑筆⑭<この世は遊びに来たところ あの世は休みに行くとこ>
 この世は遊びに来たところ あの世は休みに行くところ
これをモットーに生きたので、私にとっては仕事とは遊びでした。嫌なことは一切しない私ですが、戦争のときには、陸軍特別幹部候補生第一期生としての経験もあります。18歳で入隊し、航空兵としての訓練も受けましたが着陸に失敗、大怪我で九死に一生を得ての特攻失格でした。
 敗戦の翌日、広島、長崎の出身者は早々に復員を命じられ8月20日、地獄と化した長崎に帰りました。翌日から知友人を尋ねまわりました。熱いので川に飛び込むと、神経を失ったか大きな魚がドスンドスンとぶつかって来ます。はじめは魚とは知らず驚きました。
 人に「2,3日前までは川に遺体がたくさん浮いていたよ」と教えられました。今は原爆公園になっている刑務所では全員が死亡と聞きましたので、あの平和記念像には強い思いがあります。

2016年12月 城谷一草「春秋庵雑筆⑮<一茶と去来>
知た名の らく書見へて 秋の暮 一茶 文政句帖 文政五年
 文政5年8月29日、60歳の一茶が善光寺を訪れ、ふと本堂の柱を見ると、そこには2日前の日付で長崎の旧友の名前がある。この句を初めて知りました。長崎の旧友とあれば、長崎出身の私が気になるのは当然です。一茶が長崎滞在中に詠んだ句に 君が世や唐人(からびと)も来て冬ごもり(寛政5年)。当時の長崎の俳人といえば去来しか居りません。
 私は2度、善光寺の参詣に行きましたが、このらく書を知らず、柱を探すこともありませんでしたので残念です。でも嵯峨野の可愛い去来の墓標に手を合わせたことがあります。両手で抱けるほどの小さな墓石でした。→落柿舎(京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20)の北側に墓はひっそりと佇む。

2016年12月 城谷一草「春秋庵雑筆⑯<團伊玖磨さんのこと>
 福岡時代、私のギャラリーは西鉄ホテルの近くだったので、團伊玖磨さんが来福時には必ず一度はギャラリーにお見えになった。團さんは代々福岡県の人ですが、当時、團さんは八丈島に住んで居られたので野草について色々と詳しい方でした。(1962年、恩師の山田耕筰さんとともに来島、翌年八丈島の樫立に仕事場を作り、以来そこが團さんの「創造の場」となった/八丈島観光 ポータルサイト)。ある時、色紙をあげようと、色紙に線を沢山引かれました。何と「象さん」の楽譜でした。團さんは、自宅に来る手紙で団宛てでくるものは、封を切らず棄てていたそうです。
 團さんは朝から必ず机上の硯の墨をすっておく習慣があるだけに、今の陶工たちは水滴を作る人が居ないと嘆いておられたので、そこで私の水滴作りが始まったのですが、私の水滴が出来た時、團さんは黄泉に旅立たれました。

2016年12月 城谷一草「春秋庵雑筆⑰<信州巡り>
 飛騨高山は大好きで幾回と出かけました。高速を中津川で降りて高山までの道が春秋を楽しませてくれました。中津川から高山市の中間に熊谷守一美術館⓵があって、そこでの一休みが楽しかったのです。高山市内には、飛騨の匠達が遺したものが沢山ありますし、川沿の朝市には切花には勿体ない花木が並びました。
 朝早く起きると、円空佛63体の千光寺に行けるし、乗鞍の中腹まで車で登れます。私の仕事は有名陶芸家の展示会なので、高山の次は松本市で催しますので、上高地では一泊します。槍ヶ岳のの影を浮かべる大正池、そして河童橋、芥川龍之介の「河童」は愛読書ですので河童橋を渡ると河童の聖地のように思われて、この橋を向こうに渡ったことはありません。信州は蕎麦が美味しいところでした。
①熊谷守一つけち記念館は、岐阜県中津川市付知町にある美術館である。 2015年9月、熊谷守一の生まれ故郷の恵那郡付知村に、熊谷守一作品の収集家である小南佐年が私財を投じて設立した。 →ウィキ

2016年12月 城谷一草「春秋庵雑筆⑱<唐津焼の起源>
 文禄の役は別名「やきもの戦争」と言われますが、それは朝鮮の陶工を沢山連れ帰りました。その陶工たちが唐津焼、萩焼、薩摩焼、そして有田焼を焼き上げて日本の陶芸史上に輝しい頁を開いたのです。日本の陶芸が世界に高く評価されたことについて、彼ら、李朝の陶工に対する感謝を忘れてはならないと思います。
 萩、薩摩の陶工たちは藩に保護されたのですが、鍋島藩の陶工たちは悲惨でした。始め唐津で焼いたのですが、この唐津の土は可塑性が無く、良土を求めて次々と窯を移動しました。その窯跡は延々と有田まで続いたのです。その結果、有田泉山で祖国李朝の白磁に出逢ったのです。
 それまであった陶器は美しい有田焼(白磁)に市場を追われたのです。可塑性の悪い唐津焼が生き残れたのは当時勃興した利休の茶道に必要な茶碗や水指が、この土が適合したことと、唐津の名護屋城にいた古田織部の指導があって、茶陶として一楽、二萩、三唐津と評価されるまでになったのです。


2016年12月7日 折口信夫の歌を短冊に書く城谷翁

2016年12月 城谷一草「春秋庵雑筆⑲<釈超空と沖縄>
 友人の末吉氏が新城氏と共に我が家に遊びに来た。新城氏の手には文庫本の『折口信夫全集・第21巻 作品1短歌』。新城氏は末吉氏に紹介されて半年しかならないが、釈超空のファンだと知り驚いたが嬉しくもあった。そして末吉氏から「これを書いてほしい」と示されたのが釈超空の歌。
   山菅の かれにし後に残る子の ひとり生ひつつ、人を哭かしむ
末吉安恭は、才能と、善良とを持って、不慮の事に逝いた。思へば、この人にあうたこと、前後二度を越えないであらう。その後、十四を経て、其よい印象は、島の誰の上よりも深く残った。那覇退去の日に近く、遺児某女の訪れを受けた。陳べ難い悲しみを感じて作った萬葉の舊調。故人の筆名の麦門冬は即、舊来、山菅だと解せられているものである。(歌集の添書です)
  友人の末吉氏は安恭の甥にあたる人だが、お坊さんがよく似合う人です。

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写真左から仲宗根政善、折口信夫、島袋全幸、藤井春洋、宮城眞治
→2006年10月 白根記念渋谷区郷土博物館・文学館『生誕120年記念 折口信夫の世界ーその文学と学問ー』


宮城眞治資料(新城栄徳所蔵)


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那覇市歴史博物館所蔵の宮城眞治資料
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 私の愛蔵本『右翼事典ー民族派の全貌』双葉社から「維新」の付く右翼結社を拾ってみる。1932年11月、元建国会石井常吉が「勤王維新同盟」を結成。34年4月に佐々木武雄の「維新青年隊」、6月に下中弥三郎を囲む「維新懇話会」が結成され、9月には「維新社」となる。同年9月に高幣常市らが「昭和維新促進聯盟」結成。1935年1月は島中雄三らが「維新国策審議会」を創立。1936年2月に影山正治らが「維新寮」設立、37年1月に「純正維新共同青年隊」となる。37年7月に中村武らによる「維新公論社」が設立されている。

戦後の1960年6月、石井一昌護国塾長らが「維新行動隊」、61年7月には西山幸輝らが「昭和維新連盟」を結成した。null
沖縄でも政治結社「大日本維新党」(松田昌雄総裁)がかつて存在し1990年、機関誌『社会時報』「米軍の早期撤退を決議、自衛隊が肩代わり目指すー大日本維新党が関係機関に申し入れ」を出していた。松田総裁は日本民族思想普及会の機関誌『民族』にも「創刊を祝す」を書いていた。
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左上に昭和維新連盟、下に東海維新同盟の団体名がある。


左ー田岡一雄と高倉健①
①高倉 健ー日本の俳優・歌手。本名:小田 剛一。福岡県中間市出身。愛称:健さん。2006年度文化功労者。2013年、文化勲章受章。生年月日: 1931年2月16日 (83歳)

田岡一雄と美空ひばり②
②美空 ひばりー日本の歌手、女優。昭和の歌謡界を代表する歌手・女優の1人。横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業。女性として初の国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝。愛称は御嬢。身長147cm。

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又吉盛清作成
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新城栄徳□1988年7月2日から8日まで沖縄県地域史協議会で台湾の沖縄関係史跡や、資料館など調査のための企画があった。総勢19人が2班に分かれ、1班が7日間、2班が4日間の日程であった。私は1班の7日コースに参加させてもらうこととなった。主な調査個所は石門古戦場、高雄市、阿里山、台南市、鹿港市、台中市、そして台北市では台湾大学研究図書館、国立中央研究院、国立中央図書館台湾分館、故宮博物院および同図書館などである。

1988年12月『那覇市史だより』第34号□大城康洋「台湾ー資料調査の旅」


2000年6月 那覇市歴史資料室『あしあと~大城康洋 調査・研究ノート~』








写真ー後列左から案内者の楊朝偉氏(佳冬農会代表)新城栄徳、漢那敬子さん、田名真之氏、島尻克美氏、、大城康洋氏。中列左から小渡清孝氏、久部良和子さん。下列左から上江洲安昌氏、真栄里泰山氏、平良勝保氏→阿里山森林鉄道

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台湾愛書会
昭和8年結成、17年ごろまで活動した台湾の文化団体。書誌学研究と愛書趣味の普及を目的とした。須藤利一は台北図書館の機関誌「愛書」という。






1938年12月 台湾愛書会(①西川満)『愛書』須藤利一「琉球の算法書」
①西川満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 1999年2月24日)は日本の小説家、詩人。長男は経済学者の西川潤。
福島県会津若松市生まれ。父親の仕事の関係で、3歳で台湾に渡る。台北一中を経て、早稲田大学仏文科へ進学、吉江喬松に師事。卒論のテーマはアルチュール・ランボー。1933年に卒業して台湾日日新報に就職。『台湾風土記』(1939年)、『華麗島』(1939年)、『文芸台湾』(1940年)などを創刊。敗戦後の1946年、日本に引き揚げる。台湾の真理大学に蔵書2万冊余りを寄贈した。占星術もやった。→ウィキペディア 

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