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Category: 04-書の森
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2015年6月13日~2016年3月13日 沖縄県立博物館・美術館「ニシムイ 太陽のキャンバス」



2015年10月24日 沖縄県立博物館・美術館講座室「ニシムイの画家たち 金城安太郎・具志堅以徳について」

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写真ー金城安太郎氏と石垣さん親子(末吉麦門冬娘)
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右から新城栄徳、金城安太郎氏、ハンナ博士

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1931年7月ー左から許田重友、大嶺政寛、山田有昴、西村菊雄、具志堅以徳、城間、新垣、大城貞盛、大嶺政敏

書斎の具志堅以徳



県立博物館・美術館×県立図書館 コラボ企画「ニシムイ展 太陽のキャンバス」関連展示、『金城安太郎』琉文手帖1号もあった。

2016年2月2日~2月7日 那覇市民ギャラリー「那覇市収蔵品展ーニシムイ関連と那覇市出身作家」

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新城栄徳「莫夢曼荼羅④聖地ニシムイ」








2014年8月9日ニシムイのひより

末吉十字路近くのニシムイ入口、車が多すぎる

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ネットで宇宙と脳細胞は似ているという画像が飛び交っている。インターネットのネットワークも良く似ているという。山田真山の「宇宙すなわち我」の思想を想起する

 2013年暮れ、沖縄県立博物館・美術館指定管理者の「文化の杜共同企業体」から2014年5月に開催される企画展「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した“美”」の図録に末吉麦門冬と鎌倉芳太郎についての原稿依頼があった。奇しくも2014年11月25日は末吉麦門冬の没後90年で、展覧会場の沖縄県立博物館・美術館に隣接する公園北端はかつて末吉家の墓があった場所である。加えて、文化の杜には麦門冬曾孫の萌子さんも居る。私は2007年の沖縄県立美術館開館記念展図録『沖縄文化の軌跡』「麦門冬の果たした役割」の中で「琉球美術史に先鞭をつけたのは麦門冬・末吉安恭で、その手解きを受けた一人が美術史家・比嘉朝健である。安恭は1913年、『沖縄毎日新聞』に朝鮮小説「龍宮の宴」や支那小説「寒徹骨」などを立て続けに連載した。そして15年、『琉球新報』に『吾々の祖先が文字に暗い上に筆不精(略)流石は朝鮮で支那に次ぐ文字の国ではある』と朝鮮の古書『龍飛御天歌』『稗官雑記』などを引用し、『朝鮮史に見えたる古琉球』を連載した。

 安恭の琉球風俗にふれた随筆は1915年の『琉球新報』「薫風を浴びて」が最初であるが、美術評論を試みたのは1912年である。第6回文展に入選した山口瑞雨作「琉球藩王」を見た安恭は『沖縄毎日新聞』で「王の顔に見えた表情は無意味であり無意義である。冠がどうのといっては故実家の後塵を拝するに過ぎない。作者が琉球と目ざす以上はもっと深く強く琉球人の歴史、民情、個性を研究してから筆を執らねばならなかった」と酷評。しかし長嶺華国に対しては「翁の存在は私に希望と自信と栄誉とを載せしむるに充分である」と理屈抜きで讃美している。1983年1月、鎌倉の畢生の著『沖縄文化の遺宝』(岩波書店)が第10回伊波普猷賞を受賞したとき、鎌倉は談話として「沖縄美術や沖縄文化の手解きを私にしてくれた偉大な文化人、末吉安恭氏にふれたい。末吉氏に出会わなかったら、この本は世に出なかったかもしれません」と述べている。

 麦門冬を一言で説明すると、鎌倉芳太郎(人間国宝)が『沖縄文化の遺宝』の中で「末吉は俳諧を能くして麦門冬と号し、学究的ではあったがその資質は芸術家で、特に造形芸術には深い関心を持ち、琉球文化の研究者」であると述べたことに尽きる。鎌倉は続けて麦門冬の分厚い手の感触を懐いながら「この(琉球美術史)研究のための恩人」と強調しているように、鎌倉は『沖縄文化の遺宝』の殷元良のところで鎌倉ノートには記されてないが次のように補足、「末吉は更に加えて、孫億、殷元良の如き画の傾向は、此の時代において、東洋絵画として、南中国閩派琉球絵画の独自の伝統として、大いに尊重すべきであるのに、深元等がこれを軽んじているのは、一つには尊大なる薩摩人の性格からであり、一つには徳川幕府の御用絵師狩野の流派を守る者として、その画風や主義の相違から来ている、例えば雲谷派の簫白が写生派の応挙を評するに似ている、という。末吉も探元の酷評に腹の虫がおさまらなかったようである。」と、麦門冬の芸術家としての側面を表している。

2014年5月20日~6月22日 沖縄県立博物館・美術館 図録『麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した“美”』新城栄徳「画家の名は音楽のように囁くー末吉麦門冬」
1911年7月27日『沖縄毎日新聞』麦門冬「忘られぬ華國會」

 華國翁は本県が琉球王国であった時代に生んだ最後の丹青家の一人である。即ち琉球王国が生んだ画家の一番末の子である、そして日本帝国の一部たる沖縄県が旧琉球から引継に譲り渡された一の誇りたるべき美術家の一人である。これだけでも私は華國會に臨んで私に希望と自信とを感せしむるに充分であるが、その上に私は華國翁と同じ字に生まれ幼年時代から其顔を知っていて華國翁というえらい画家は私の頭に古い印象を留めていると云ふ関係もあるから今度の華國會の席上に於いて私の肩身に猶更に広くならざるを得ない。
 私は南香主筆から今日華國會が若狭町の山城(正忠)医院で開かれるそうだから君行って見ないかと云はれた時にも私は疾うに行くと云ふことを極めてる様な気分で社を出てた。(略)私は小さい時から絵が大好きであった、探幽とか雪舟とか趙子昂とか自了とか云ふ名は私の耳には音楽のような囁きとなりそれからこれ等の名家に対する憧憬の念は私の頭に生長して段々大きく拡がっていって私自身が遂に雪舟になりたい探幽になりたいと云ふような空想をなした時代もあったがそれはすぐに或事情の為に打ち消されてしまったがそれでも猶私にはこれ等の名家の残した作物に対する憧憬崇重の念はやまない。何とかしてこれ等の名画を私の手に入れて、私がそれと日夕親しまれるようになって見たいと思ったこともある。今でもやっぱり思っている。・・・
 麦門冬が、私は華国翁と同じ字というのは首里は儀保村のことである。1960年10月の『琉球新報』に中山朝臣が「麦門冬作の『儀保の大道や今見れば小道、かんし綱引きゃめ儀保の二才達』を紹介。儀保は平地に恵まれ『儀保大道』は首里三平でも自他共に認められた大通りであった。この村の二才達(青年達)は総じて磊落、飲み、食い、歌い、踊り傍若無人の振舞で鳴らしたものである。したがって儀保村の綱引きは道路と二才達の心意気に恵まれて荒っぽい綱として有名だったという」。朝臣は11月にも麦門冬が那覇泉崎で愛妻を失って『無蔵や先立てて一人この五界に、酒と楽しみることの恨めしや』も紹介している。


 盆の挨拶回りで親戚のところから帰ると『日本古書通信』(日本古書通信社 〒101-0052 千代田区神田小川町3-8 駿河台ヤギビル5F ☎03-3292-0508 FAX:03-3292-0285)が来ていた。本日は物外忌((沖縄学の父・伊波普猷の命日)である。『日本古書通信』1045号の「バジル・ホール来琉200周年」には伊波普猷のことも記している。莫夢・末吉安恭については「後に『日本及日本人』誌上で南方熊楠と丁々発止のコラムを書き続けた末吉麦門冬は、1915年4月の『琉球新報』に「眞栄平房昭ー百年前の語学者」を書いた・・・」と記した。(2016年8月13日記)


1958年4月 『稲垣足穂全集 16』ユリイカ



左はタルホからもらったサイン、印/1958年5月 アンドレ・ブルトン/ポール・エリュアール編 江原順 訳『シュルレアリスム辞典』書肆ユリイカ


1970年7月 稲垣足穂 中村宏 著『地を匍う飛行機と飛行する蒸気機關車』松岡正剛「タルホ事典」仮面社/1975年10月 『タルホ事典』潮出版社□元現代思潮社編集の川仁宏は『稲垣足穂大全』編集のときタルホは「すでに発表されたものをどんどん直される。切るし、書き直し、加筆があるし、大幅に改造される」と感想を述べている。私もこれを意識して1984年に文庫サイズ『琉文手帖』で麦門冬を特集したが、その編集以降に、あちこちから新たな麦門冬・末吉安恭資料が出てきた。本という形は絶えず増補改訂版を出さないといけなくなる。「琉文21」も麦門冬を取り囲む「琉球学の先達たち」の情報が増えてきた。麦門冬の本を作りたいという友人たちや、東京の出版社まで出てきた。が、日本(沖縄を含む)の現実はそれどころではない。異民族(今どき古いか)支配・アメリカ基地を100年も居座り続けさすのか、どうかの瀬戸際だ。急がず、粛々と「琉文21」の『莫夢事典』は増補改訂で絶えず進化させたい。





1972年11月『別冊経済評論』「日本のアウトサイダー」
桐生悠々(むのたけじ)/宮武外骨(青地晨)/伊藤晴雨(石子順造)/高橋鐵(竹中労)/沢田例外(森長英三郎)/安田徳太郎(安田一郎)/田中正造(田村紀雄)/菊池貫平(井出孫六)/山口武秀(いいだもも)/北浦千太郎(しまねきよし)/古田大次郎(小松隆二)/平塚らいてぅ(柴田道子)/高群逸枝(河野信子)/長谷川テル(澤地久枝)/宮崎滔天(上村希美雄)/橘撲(髙橋徹)/西田税(松本健一)/謝花昇(大田昌秀)/南方熊楠(飯倉照平)/出口王仁三郎(小沢信男)/山岸巳代蔵(水津彦雄)/尾崎放哉(清水邦夫)/添田唖蝉坊(荒瀬豊)/辻潤(朝比奈誼)/稲垣足穂(折目博子)/天龍(秋山清)/淡谷のり子(加太こうじ)/谷川康太郎(猪野健治)


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宮里千里氏を紹介する瑞慶覧長敏氏/宮里千里氏と対談する高野孟氏

2016年12月26日(月)16時より、ブックカフェ『ゆかるひ』(那覇市久茂地)にて、沖縄民俗祭祀採音者の宮里千里氏を講師にお招きし第24回世界友愛フォーラム定例勉強会「琉球の祭祀音源とアジア周辺の音」(主催:東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター)。


高野孟氏に『琉文手帖』を贈る/1992年1月 高野孟 編『マフィア経済の生態』東洋経済新報社


2014年10月 鳩山友紀夫、高野孟・他『東アジア共同体と沖縄の未来』(友愛ブックレット)

○進藤榮一-共通のリスク/1997年から98年にかけて勃発したアジア通貨危機です。1997年7月2日、ちょうど大英帝国が99年間の植民地統治を終わらせて、香港を中国本土に返還したその日をねらい打ちするかのように、米欧の機関投資家、ヘッジファンドが動き始めます。タイの通貨バーツを大量に買い続けた後で、一気に売り浴びせます。タイガーファンドやソロたちが、バーツの売りと買いを繰り返して、巨額の富を稼ぎ出したのです。(略)IMFは貸し出しに応じますが、条件として貸出国、特に韓国に対して経済構造改革を求めます。そして結果として外国資本、特にアメリカ企業が参入しやすい条件を呑ませたのです。その構造改革が、今日の米韓FТAに繋がって、韓国経済のアメリカ化とでもいうべき悲惨な状況をつくり出しています。いわばアジア通貨危機を契機に、アメリカ流のカジノ資本主義のリスクが、成長するアジア市場をめがけて、襲いかかってきたのです。

○高野孟ーサンフランシスコ平和条約の本質は占領の継続である。(略)天皇は、日本は無防備だから独立後もアメリカに守っていただきたい、そのために沖縄を差し出しますという提案をし、なおかつ、そのことはサンフランシスコ講和条約そのものには書き込まずに、別途の租借条約のようなものを作った方がいいというところまでマッカーサーに提案した。私は昭和天皇っていうのはすごい政治家だと思いますけど、実際その通りになって、サンフランシスコ講和体制の下での日米安保条約とその実体をなす日米行政協定、今日の日米地位協定という戦後日本の骨格が出来上がった。そのまま占領体制をむき出しにして独立を公言する訳にもいかないし、安保条約という包み紙だけではアメリカ一本やりになってしまう。さらに丁寧にサンフランシスコ講和条約という風呂敷で包んで見せたということであって、本質は占領の継続です。

○高野孟ー安倍政権の「新・富国強兵」/安倍首相を突き動かす、おじいさんコンプレックスーその安倍さんを突き動かしているのは、専らおじいさん、岸信介へのコンプレックスだと思います。あの人の口から、お父さん、安倍晋太郎元外相の話は一切出てこない。こんな飛ばし方もひどいんじゃないか、もうちょっとバランスを取ってもいいんじゃないかと思うくらい、ひたすらおじいさんに傾いていく。結局、安倍さんの歴史観・国家観はそこに行き着いていくんじゃないか。満州国を作ったのは岸信介です。あれが中国侵略なんかであったはずはないと、安倍さんは思っているんでしょう。そしておじいさんは、東条内閣の一員として大東亜戦争を戦いました。あれが尊い戦争でない訳がないじゃないかと、安倍さんは思っているのでしょう。そしてまたおじいさんを戦後GNQが極東裁判にかけようとして、3年間巣鴨プリズンに放り込みましたけれども、幸いにCIAとの妥協が成立したのかどうか、裁判にはかけられなかった。しかしおじいさんを危うく戦犯で絞首刑にしようとした極東裁判なんて間違っていると思っているに違いないのです。

◇高野孟1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。94年に故・島桂次=元NHK会長と共に(株)ウェブキャスターを設立、日本初のインターネットによる日英両文のオンライン週刊誌『東京万華鏡』を創刊。2002年に早稲田大学客員教授に就任。05年にインターネットニュースサイト《ざ・こもんず》を開設。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。→「まぐまぐ!」



○孫崎亨ー去年2013年の12月13日に、天皇陛下が80歳の誕生日を迎えられました。そしてそこでお言葉を述べられたわけですけれども、このようにおっしゃっています。「戦後連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本国憲法を作り、様々な改革を行って今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を建て直し、かつ改善して行くために、当時のわが国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。」(略)NНKニュース・NНKのニュース資料では、この「平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本国憲法を作った」というところを省いています。外国の報道機関はここをわざわざ取り上げて、天皇陛下はそう言われたと報道ー。


右が鳩山友紀夫氏、高野孟氏

 2012年5月15日ー地元紙を見ると、NHKもそうだが相変わらず「識者」と称する人物たちに発言させてお茶を濁らしている。記者は自分の問題として識者の見解も参考にして、戦後このかた「基地」問題で揺れ、なお「安保容認」チジを生み出している根幹は何なのかを追及し県民に分かりやすく解説してほしいものだ。前に書いたが「また鳩山元首相が来るのを問題視するマスコミがあるが、そんな枝葉のことよりも消費税の野田首相にこそ問題視してほしいものだ」と強調した。地元紙は相変わらず「カジノ」「消費税」なども通信社記事をせっせとたれ流している。特に「消費税徹底議論せよ」とか「カジノ誘致 全国で過熱」とはエロ雑誌顔負けだ。ま、最近は広告にもエロ的広告が目につくが。密約復帰40年というのに、新聞報道が少しも変わり映えしないから必然的に余生を沖縄で過ごしている(?)岡留氏のブログをつい見てしまう。

岡留氏のブログ□鳩山氏に対する大手メディアの論調はまさに変人扱いだが、少なくとも普天間基地の県外・国外移設を堂々と主張した総理は初めてである。今や、仲井真知事を含めて沖縄県民の8割が県外移設を主張しているが、その先鞭をつけたのは鳩山氏なのだ。鳩山氏はイラン訪問でもバッシングされたが、鳩山氏は民主党外交担当最高顧問という肩書で、米国が敵視するイランとの融和で動いただけのことである。日本はイランとは石油で大きな取引関係があるだけに、米国の道ずれでイランとの関係を断つよりもはるかに国益にかなうのではないのか。米国の意向を汲む政治家、官僚、メディアこそが鳩山叩きの元凶なのだ。

その日の夜は、インターネットTV「ニコニコ生動画」が沖縄にやってきて、ラジオ沖縄のスタジオから全国に放送された。復帰40年で、現地から沖縄問題を語ろうという画期的な試みだ。(略)当日の県と国が開催したコンベンションセンターの式典の模様を批判的に取り上げつつ、基地問題を語る。「ニコ生」にしては硬派すぎたかも知れないが。式典でもっとも印象的だったのは上原康助元衆議院議員が来賓の野田総理やルース駐日大使を名指しで、沖縄の基地の現状を手厳しく訴えたこと。美辞麗句の式典が一挙に暗転したが、メディアの式典報道では上原発言はいずれも取り上げていなかった。

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第6回戦後沖縄研究コロキウム―<沖縄を撮ること・記録することを問う>シリーズ
*企画名:「写真の<ポジション>2―交叉する視角ー」
*期    日:2016年12月25日(日)午後1時から5時30分
*会  場:沖縄県立博物館・美術館1階博物館講座室
*一般参加可・無料
*主催:戦後沖縄研究コロキウム実行委員会 *共催:沖縄文化工芸研究所
*後援:沖縄国際大学南島文化研究所、沖縄タイムス社、一般社団法人フォトネシア沖縄
*問い合わせ:aguni00142@gmail.com

<プログラム>
はじめに 開催趣旨
Ⅰ部:表彰される沖縄―占領期を中心にー
*「実る恋と実らぬ恋トー松竹映画『海流』と「中琉」合作映画を中心に」
     八尾祥平(社会学・移民:華僑華人)
*「ジャーナリスト・森口豁と沖縄」
     大盛伸二(映像・写真)
*「『太陽の鉛筆』から『新編 太陽の鉛筆』へ」
     友寄寛子(写真・芸術批評)
Ⅱ部「<島・シマ>への眼差しー交叉する視角
*「沖縄への<文化認識>と写真―<復帰>前後のトライアングル・コンタクト」
     粟国恭子(文化人類学、近現代文化史)
*「平敷兼七と<島>」
     仲里 効(映像批評・沖縄文化思考)
*「写真家と研究者―戦後沖縄民俗祭祀世界の証人たちと映像」
     伊從 勉(建築史、空間人類学)
Ⅲ部  合同ディスカッション   コーディネーター:須藤義人(映像人類学)


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小冊子『熱風』2016年11月号 第14回 日本人と戦後70年(青木 理)――[ゲスト]津田大介さん
津田「社会が右翼化しているというより、ネットで流通しやすくなった過激な言説にメディアが翻弄されすぎているんです」


小冊子『熱風』2016年12月号 特集「日本のアニメーション製作事情」/第15回 日本人と戦後70年(青木 理) ――[ゲスト]鳩山友紀夫さん

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1982年9月 沖縄の雑誌『青い海』116号 山口栄鉄「海外沖縄便りー幸地東風翁/移民一世の死」

2016年12月16日 バジル・ホール来琉200周年記念碑除幕式が、那覇市の泊緑地で開かれた。関係者が集まって記念碑の建立を祝い、今後も沖縄とイギリスなど、海外との交流が深まることを期待した。

写真左から渡口彦邦氏、宮城宏光氏

写真左から嘉数昇明氏、緒方修氏、山口栄鉄氏、安仁屋眞昭氏








2016年12月30日『琉球新報』 <金口木舌>バジル・ホールの碑の前で
 那覇市の泊外人墓地に「WM HARES」と記された古い墓がある。西洋人として初めてここに葬られた英国人水兵の墓だ。一度改修されたが「1816」の刻銘が建立年だ
▼200年前、琉球を訪れたバジル・ホール英艦隊一行の一員ウィリアム・ヘアーズが21歳で病死した。琉球側は泊の松林に埋葬し、豚をささげ、ウチカビを燃やした。手厚い葬儀に英国側は感銘を受けた
▼ホールは帰国後、約40日間の滞在を「朝鮮・琉球航海記」として出版し、美しい自然や穏やかで礼儀正しい琉球人を称賛した。本国への帰途、ナポレオンと会い「武器のない島がある」と報告し、彼を驚かせたという逸話は有名だ
▼ホールの本を読んで琉球を知ったペリーは37年後、那覇沖に姿を現す。「武器のない島」はその後、日本に組み込まれ、米国との戦場にまでなった。最悪の武器である核や化学兵器も置かれ、ベトナムや湾岸、イラク戦争への出撃基地と化した
▼西洋に初めて琉球を紹介したホールの功績をたたえる記念碑が今月建立された。場所は彼らが上陸した泊の公園だ
▼碑の前に立つ。日米からの外圧が増す中、理不尽な島の現状を考える。200年前、戦とは無縁だった島は、戦争好きな権力者に翻弄(ほんろう)されるようになった。平和外交を求め続けた先人たちの姿を思うと、未来を諦めるなとの声が聞こえる気がした。

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1984年2月 『徳間書店の30年』徳間書店

 大阪での青年会活動で、『TOWN』の岡村昭彦のハワイのウチナーンチュを思い出した。東京晴海の日本離島センターで機関誌『しま』を貰って帰途、国会図書館で『TOWN』1962年2月号を請求したら特殊な雑誌なので許可に2,3日かかるという。大阪から来ているのにムチャを並べる。即止めて発行元の徳間書店を訪ねた。資料室で閲覧していると資料室責任者の川又さんが編集で使った同誌を下さった。話を聞くと同誌は折込で大きいグラビアでヌード写真が掲載されていて国会図書館の良識に触れたようであるが、もう一つが「日本一山口組の政治と犯罪」も問題となったようである。この山口組企画には溝口敦氏も関わっており氏の『山口組ドギュメント・血と抗争』(三一書房1968年)に繋がる。
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梶山季之編集『噂』


徳間康快 とくま-やすよし
1921-2000 昭和後期-平成時代の出版経営者,映画製作者。
大正10年10月25日生まれ。「読売新聞」社会部記者。戦後の読売争議の中心メンバーとなり,昭和21年退社。その後、読売新聞時代の友人・竹井博友が社長をしていたアサヒ芸能新聞の経営を引き受け1954年に徳間書店社長に就任、週刊誌に変更して大きな成功を収めた。東京タイムズ,大映などの社長となり,徳間グループをひきいる。国際合作映画「敦煌(とんこう)」や宮崎駿(はやお)監督のアニメ映画「風の谷のナウシカ」などの製作を手がけた。平成12年9月20日死去。78歳。神奈川県出身。早大卒。→コトバンク

竹井博友 たけい-ひろとも
1920-2003 昭和後期-平成時代の経営者。
大正9年10月9日生まれ。昭和18年読売新聞社会部記者となる。21年退社し,アサヒ芸能出版社などを創立。33年地産社長に就任し,不動産,ホテルなどの地産グループを形成。「読売新聞」の大阪,名古屋進出に際し,大阪本社常務,中部読売新聞社社長をつとめた。平成3年脱税で有罪となる。平成15年7月29日死去。82歳。栃木県出身。明大卒。(コトバンク)


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2016年9月 世良利和『米軍統治時代の沖縄映画史』蜻文庫




2012年10月 世良利和『沖縄映画史の復元ー戦前編ー』

岡山の世良利和氏から『沖縄映画史の復元ー戦前編ー』を恵まれた。明治以降の沖縄の新聞を読み込んで映画史を分析・整理・解題している。とくに岡山孤児院は地元でもあるから詳細に検討している。私の関心する事柄について触れる。
○大島の新聞の父・福永義一
臺灣から来沖した新派の壮士芝居役者で写真師。福永は宮崎県人、1900年に那覇区内でペンキ看板製造や、のぞき眼鏡興行、公正会影劇部と称し幻燈写真興行、同年12月には福永写真部を開業した。さらに福永は1902年4月9日、那覇警察署近くに清国人を大阪から招き「支那そばや」を開業して現在の沖縄そばやの直接のルーツとなった。1903年に催眠術治療「福永救済館」開業。1905年ごろ、奄美大島に移り、名瀬で福永写真館を開業し、醤油製造、養豚をやる傍ら1909年『大島新報』を創刊し大島の新聞の父と言われた。福永は、大島紬の染色原料ティーチ木裁断機の発明で試運転の際、袴が機械のベルトに巻き込まれ死亡した。1926年のことで60余歳であったという。
〇『名瀬市誌下巻』吉山重雄「奄美大島における写真のあゆみ」
福永写真館(福永義一、宮崎県高鍋町出身)ー福永氏は号を陽州と称し、名瀬市入舟町16班川崎タミ商店付近で、明治38年(1905)ごろから昭和4.5年ごろまで営業する。福永氏の弟子に河村武成氏(名瀬市朝戸在住)がいる。福永氏は写真が本業ではあるが、そのかたわら種々の事業を行っている。幻燈写真等もその一つである。大島で初めて幻燈写真を始めたのも福永氏ではないだろうか。氏は明治40年ごろ各地の学校等をまわり、幻燈写真を一般に見せていた。

菊池幽芳ー1913年4月25日~11月22日『大阪毎日新聞』菊池幽芳「百合子」

1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。

本山萬吉ー1939年5月3日(70歳)没 長男・裕児、二男・常男(ブラジル在)、三男・政比古(鹿児島在)






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2016年11月 天荒俳句会合同句集 七集『真実の帆』 代表・野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536 事務局・おおしろ建 〒903-0812 那覇市首里当蔵町2丁目57番地 電話・FAX098-884-0456

野ざらし延男「あとがき」
 (前略)歴史を検証する〇日本は安全保障関連法(戦争法)を成立させ、海外派兵への道を開き、軍国日本へと舵を切った。東日本大震災による東京電力福島第一原発のメルトダウンは安全神話を崩壊させた。崩壊した建屋には高濃度の放射線量のため誰も入れない。原因究明も廃炉の目途もたっていない。放射能汚染水は何度も漏れている。帰還困難地域では除染が進んでいない。核廃棄物の行き場もなく、地下に埋めただけで無化できている訳ではない。地殻変動や地震、火山の噴火などでいつ牙をむくかわからない。ヒバク汚染地域から追い出された人たちは今も古里に帰れない。だが、政府はこの過酷な現状に目をつぶり、原発再稼働へと踏み切った。核拡散阻止条約の未加盟国インドへ原発産業を売りに出した。戦争被爆国日本は世界の核廃絶に大きな声をあげる立場にある。歴史を教訓化できない国に希望の火は灯らない。
 地球誕生から46億年。万物を育ててきた水の星、地球があえいでいる。戦争とテロで戦火が絶えない。難民、感染症、地球温暖化、核、原発など火急の問題に処方箋が出せない。地球滅亡へのカウントダウンが始まっているのではないか。人類に未来はあるのだろうか。
 

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 本日12月8日未明 (アメリカ時間で7日)の1941年に日本海軍が行なったハワイ真珠湾軍港への奇襲攻撃で太平洋戦争が始った日である。

2016年12月 城谷一草「春秋庵雑筆⑭<この世は遊びに来たところ あの世は休みに行くとこ>
 この世は遊びに来たところ あの世は休みに行くところ
これをモットーに生きたので、私にとっては仕事とは遊びでした。嫌なことは一切しない私ですが、戦争のときには、陸軍特別幹部候補生第一期生としての経験もあります。18歳で入隊し、航空兵としての訓練も受けましたが着陸に失敗、大怪我で九死に一生を得ての特攻失格でした。
 敗戦の翌日、広島、長崎の出身者は早々に復員を命じられ8月20日、地獄と化した長崎に帰りました。翌日から知友人を尋ねまわりました。熱いので川に飛び込むと、神経を失ったか大きな魚がドスンドスンとぶつかって来ます。はじめは魚とは知らず驚きました。
 人に「2,3日前までは川に遺体がたくさん浮いていたよ」と教えられました。今は原爆公園になっている刑務所では全員が死亡と聞きましたので、あの平和記念像には強い思いがあります。

2016年12月 城谷一草「春秋庵雑筆⑮<一茶と去来>
知た名の らく書見へて 秋の暮 一茶 文政句帖 文政五年
 文政5年8月29日、60歳の一茶が善光寺を訪れ、ふと本堂の柱を見ると、そこには2日前の日付で長崎の旧友の名前がある。この句を初めて知りました。長崎の旧友とあれば、長崎出身の私が気になるのは当然です。一茶が長崎滞在中に詠んだ句に 君が世や唐人(からびと)も来て冬ごもり(寛政5年)。当時の長崎の俳人といえば去来しか居りません。
 私は2度、善光寺の参詣に行きましたが、このらく書を知らず、柱を探すこともありませんでしたので残念です。でも嵯峨野の可愛い去来の墓標に手を合わせたことがあります。両手で抱けるほどの小さな墓石でした。→落柿舎(京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20)の北側に墓はひっそりと佇む。

2016年12月 城谷一草「春秋庵雑筆⑯<團伊玖磨さんのこと>
 福岡時代、私のギャラリーは西鉄ホテルの近くだったので、團伊玖磨さんが来福時には必ず一度はギャラリーにお見えになった。團さんは代々福岡県の人ですが、当時、團さんは八丈島に住んで居られたので野草について色々と詳しい方でした。(1962年、恩師の山田耕筰さんとともに来島、翌年八丈島の樫立に仕事場を作り、以来そこが團さんの「創造の場」となった/八丈島観光 ポータルサイト)。ある時、色紙をあげようと、色紙に線を沢山引かれました。何と「象さん」の楽譜でした。團さんは、自宅に来る手紙で団宛てでくるものは、封を切らず棄てていたそうです。
 團さんは朝から必ず机上の硯の墨をすっておく習慣があるだけに、今の陶工たちは水滴を作る人が居ないと嘆いておられたので、そこで私の水滴作りが始まったのですが、私の水滴が出来た時、團さんは黄泉に旅立たれました。

2016年12月 城谷一草「春秋庵雑筆⑰<信州巡り>
 飛騨高山は大好きで幾回と出かけました。高速を中津川で降りて高山までの道が春秋を楽しませてくれました。中津川から高山市の中間に熊谷守一美術館⓵があって、そこでの一休みが楽しかったのです。高山市内には、飛騨の匠達が遺したものが沢山ありますし、川沿の朝市には切花には勿体ない花木が並びました。
 朝早く起きると、円空佛63体の千光寺に行けるし、乗鞍の中腹まで車で登れます。私の仕事は有名陶芸家の展示会なので、高山の次は松本市で催しますので、上高地では一泊します。槍ヶ岳のの影を浮かべる大正池、そして河童橋、芥川龍之介の「河童」は愛読書ですので河童橋を渡ると河童の聖地のように思われて、この橋を向こうに渡ったことはありません。信州は蕎麦が美味しいところでした。
①熊谷守一つけち記念館は、岐阜県中津川市付知町にある美術館である。 2015年9月、熊谷守一の生まれ故郷の恵那郡付知村に、熊谷守一作品の収集家である小南佐年が私財を投じて設立した。 →ウィキ

2016年12月 城谷一草「春秋庵雑筆⑱<唐津焼の起源>
 文禄の役は別名「やきもの戦争」と言われますが、それは朝鮮の陶工を沢山連れ帰りました。その陶工たちが唐津焼、萩焼、薩摩焼、そして有田焼を焼き上げて日本の陶芸史上に輝しい頁を開いたのです。日本の陶芸が世界に高く評価されたことについて、彼ら、李朝の陶工に対する感謝を忘れてはならないと思います。
 萩、薩摩の陶工たちは藩に保護されたのですが、鍋島藩の陶工たちは悲惨でした。始め唐津で焼いたのですが、この唐津の土は可塑性が無く、良土を求めて次々と窯を移動しました。その窯跡は延々と有田まで続いたのです。その結果、有田泉山で祖国李朝の白磁に出逢ったのです。
 それまであった陶器は美しい有田焼(白磁)に市場を追われたのです。可塑性の悪い唐津焼が生き残れたのは当時勃興した利休の茶道に必要な茶碗や水指が、この土が適合したことと、唐津の名護屋城にいた古田織部の指導があって、茶陶として一楽、二萩、三唐津と評価されるまでになったのです。


2016年12月7日 折口信夫の歌を短冊に書く城谷翁

2016年12月 城谷一草「春秋庵雑筆⑲<釈超空と沖縄>
 友人の末吉氏が新城氏と共に我が家に遊びに来た。新城氏の手には文庫本の『折口信夫全集・第21巻 作品1短歌』。新城氏は末吉氏に紹介されて半年しかならないが、釈超空のファンだと知り驚いたが嬉しくもあった。そして末吉氏から「これを書いてほしい」と示されたのが釈超空の歌。
   山菅の かれにし後に残る子の ひとり生ひつつ、人を哭かしむ
末吉安恭は、才能と、善良とを持って、不慮の事に逝いた。思へば、この人にあうたこと、前後二度を越えないであらう。その後、十四を経て、其よい印象は、島の誰の上よりも深く残った。那覇退去の日に近く、遺児某女の訪れを受けた。陳べ難い悲しみを感じて作った萬葉の舊調。故人の筆名の麦門冬は即、舊来、山菅だと解せられているものである。(歌集の添書です)
  友人の末吉氏は安恭の甥にあたる人だが、お坊さんがよく似合う人です。

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写真左から仲宗根政善、折口信夫、島袋全幸、藤井春洋、宮城眞治
→2006年10月 白根記念渋谷区郷土博物館・文学館『生誕120年記念 折口信夫の世界ーその文学と学問ー』


宮城眞治資料(新城栄徳所蔵)


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那覇市歴史博物館所蔵の宮城眞治資料
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 私の16歳は、東京・新宿歌舞伎町の大衆割烹・勇駒新館で働いていた。勇駒本店隣に鮒忠①もあった。当時、新宿は副都心と称していた。現在は伏魔殿と謂われた都庁があるので都心であろう。新宿は個人の存在など歯牙にもかけない喧噪で無味乾燥なビルが林立する巨大歓楽街であるが、ときおり朝霧が立ち込めゴミが散乱する早朝の静寂は何とも言えない退廃的な雰囲気であった。職場には学費を稼がなければならない大学生バイト(早稲田が多かった)が5人も居たのでヒマな学生の政治運動やスポーツには興味も関心も無かった。沖縄出身に元出版社に居たという神里氏、いつも朝にヌンチャクの稽古をしていた。王城(喫茶)にも入口に沖縄出身が居て、「困っていることがあれば相談に来い」と言ってくれた。

当時の新宿歌舞伎町(真鍋博1968年12月)

歌舞伎町の大衆割烹・勇駒本店 

1977年8月 桜井華子『東京の味Ⅲ』保育社「いそ料理 勇駒」

①根本忠雄(ねもと ただお、1913年 - 1988年)が1946年9月1日に同年9月1日、浅草千束に川魚料理の店「鮒忠」創業。川魚の捕れない冬場のメニューとして、進駐軍向けの鶏肉(ブロイラー)を串焼きにした「焼き鳥」の販売を開始。焼き鳥を大衆へ大々的に販売することを始めたのは日本初と言われ、「焼き鳥の父」と呼ばれたという。根本忠雄『年商十五億のやきとり商法―鮒忠立志伝』 柴田書店 (1965年)『鮒忠の江戸ッ子商法』 東京経済 (1972年)→Wikipedia。現在、勇駒はネット上出てこないが、鮒忠はもう老舗となって三代目が卸、ケータリング、レストランの3事業をネットも活用し引き継いでいる。

 勇駒新館の支配人は出っぷりとした人で読書人。週に一回は紀伊國屋本店に雑誌や本を買いに行かされた。もちろん私も本屋は大好きだから喜んで行った。紀伊國屋本店には名物社長の田辺茂一がいたが見たことはない。この年は、「夢の島」の蠅騒動、ベ平連、河野一郎・江戸川乱歩・谷崎潤一郎・高見順らの死去、横井英樹襲撃で東京を震撼させた安藤組の安藤昇が映画俳優として登場したのが週刊誌を賑わしていた。店にはヤクザの長老も常連で来る。その一人が「近くで安藤昇のロケがあったのだが奴は小柄だからいかに大きく見せるかで周囲が悩んだ」という。これを聞いて思い出したのが、以前、錦糸町のボウリング場で美川憲一が雑誌の取材でボールを投げるマネをしていた。誌面では見事にストライクとなっている。何事でも演出は必要だと思った。集団就職での上京の目的のひとつに、神田の古書街に通うことがあった。新宿は夜の街で前衛的な文化(サブカルチャー)の街で芸術文学の分野も幻想、終末、刹那・頽廃なものであふれていた。安藤昇のレコード「新宿無情 」[1965]も出ていたが今ではYouTubeで聴くことができる。


右に新宿コマ劇場
新宿コマ劇場とは、東京都新宿区歌舞伎町一丁目にあり、1956年12月28日から2008年12月31日まで株式会社コマ・スタジアムによって運営されていた劇場である。「演歌の殿堂」として広く認知され、数々のミュージカル作品も上演された。コマ劇や新コマとも言う。/1956年(昭和31年)2月にコマ・スタジアムが設立。大阪・梅田にあった梅田コマ・スタジアム(梅田コマ劇場の前身)の姉妹劇場として当劇場が建設され、同年12月28日に開場した。開場当初は「新宿コマ・スタジアム」と呼称していた。阪急・東宝グループの創始者である小林一三が抱いた「新しい国民演劇(新歌舞伎)の殿堂を作る」という理念に基づいて創設し歌舞伎町の地名のもととなった。客席数2,088席は首都圏で最大級であった。→ ウィキ

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新宿・勇駒新館でー左に座っているのが新城栄徳、柴田マネジャー。柴田マネジャーに早稲田の学生がバイトさせてくれという、即採用。/新宿コマ劇場近くには琉球泡盛屋が数軒あった。

 柴田マネジャーは秋田の人、生真面目な人で未熟な人生観の持ち主の私を色々と注意してくれた。自宅にも連れて行かれ、マネジャーの痩躯にくらべふっくらとした色白の奥様の手料理を御馳走になった。寮の相棒に熊本出身の23歳の青年が居た。小柄だが休みの日にはコマ劇場の前などでプレイガールをお茶に誘い旅館に行き、その女性との一夜をこと細かく手帳に記していた。今だったら一流のホストになっていたが、私はそれでよく性病を移されなかったものだと感心した。店には茨城出身の威勢のいい2歳年上の子も居た。彼は駐車中の車を弄り人身事故を起こしその賠償金を払うため働いているという。また別の相棒に長崎出身の同じ年頃の子も居た。彼は年に似合わず、木の根っこを入手、磨きあげオブジェにして楽しむ人物であったが、繊細ゆえ「ゴールデン街」の人となった。後に柴田マネジャーは高円寺で焼鳥屋を開いた。

新宿は夜の街で昼間は時間がある。よく図書館に行った。二十歳前だから国会図書館は入れないので、区立図書館や日比谷図書館を利用した。神保町の古書街、古書会館もよく行った。別に調理士だからというわけではないが神保町の古書店から買った本に李家正文『厠(加波夜)考』がある。中に三田村鳶魚や金城朝永の本からの引用がある。金城の『異態習俗考』にも厠に関する論考がある。『梅毒図譜』というのも買った。私は1964年に錦糸町駅ビルの本屋で、サド裁判の被告で著名な澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』を買った。その本で南方熊楠(末吉麦門冬)、稲垣足穂、日夏耿之介を知る。

 新宿勇駒の仕事は夕方の5時半から深夜の12時までであった。営業終了後、掃除をしあと片づけが終わり、皆で日本酒を飲みながら毛ガニ、フグちり、焼き鳥、生野菜の鍋を食べ終わると2時頃になる。コマ劇場横の銭湯に入り、寮に帰り同僚たちと会話。長引くと寝るとき朝日が差し込んでくる。寮の隣のビルはトルコ風呂のお姉ちゃんたちの寮であったが話をした記憶はない。異性は店から寮に帰る途中に女娼、男娼が立っている。そのとき私は運悪く16歳の夢見る年齢、異性には関心は薄かった。本屋・古本屋に行くのが唯一の趣味であった。高円寺の球陽書房で最初に買ったのが『乱歩随筆』であった。乱歩の小説は好みではないが随筆は好きであった。

 ある日、新橋駅近くの沖縄屋に行く途中で赤尾敏の演説があった。私は前のほうで聞いていた。終わると赤尾が街宣車から降りてきて一人一人にハガキ大の名刺を配り始めた。私も貰った。これが切っ掛けで右翼を調べ始める。もとより協調性が無いので団体活動は好きではない。だから左右の団体とも無縁であった。後に右翼研究卒業の意味で、このとき集めた右翼(児玉誉士夫著作)資料は那覇の前島にあった日思会(金城武夫事務局長)にあげると返礼に金城氏、会員5人が御馳走してくれた。

 先の『乱歩随筆』では岩田準一が出てくる。岩田は乱歩の友人、竹久夢二の弟子、南方熊楠の文通相手である。澁澤のことは2002年に『うるまネシア』4号「琉球学の開拓者・末吉麦門冬」でも触れたが、私は1968年10月9日に鎌倉の澁澤邸を訪ね「発禁本」の話をした。このころから「発禁本」や週刊誌(実話もの)で社会病理を探求。この時の影響で私は「琉文21」でもヤクザに少しだけ触れている。京都に移り国粋派(琉球)となり沖縄青年運動に参加するようになってからは西洋幻想空間の主宰者・澁澤への関心は無くなり以後の著作にも興味は無くなったが、今でも懐かしい気持ちはある。

澁澤龍彦の本


 1965年当時、東京に居るころは全く性風俗雑誌に沖縄関係記事は無いと決めつけていたが、最近ネットで表紙と目次が見られるようになったのでチェックしてみた。『風俗奇譚』である。同誌は1960年1月に文献資料刊行会から創刊された性風俗雑誌。内容はSMを中心に、ゲイ・レズビアン、レザー・ラバー・乗馬・腹切り・女格闘技などの各種フェティシズム、そして女装と、多種多様な性的嗜好を大集合させた感じの「総合変態雑誌」。(→三橋順子)先発の『奇譚クラブ』があった。前記の雑誌には沖縄に関する記事は無かったが、『奇譚クラブ』に、1953年2月ー木之下白蘭「琉球の女達」(白蘭は1936年5月『サンデー毎日』の大衆文芸に「撤兵」が当選)、1972年7月ー道場瑞夫「SM通信 沖縄復帰と沖縄美人」が見える。(2011-10記)

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新城栄徳「台東区浅草1965」
私は東京浅草で中華料理店の出前持ちをしたことがある。店は合羽橋近くにあった。自転車で浅草中走り回った。大半が「バクチ場」で入口まで持って行くと玄関で組員が受け取る。銭湯に入ると全身刺青(伝統芸術)の初老の人が大半であった。浅草から上野は近い。上野公園はもともと寛永寺の境内で1873年に宮内省管理、77年には第一回内国勧業博覧会が開かれ美術館も設けられた。82年に上野動物園、博物館。87年に美術学校・音楽学校などが開設、移築された。1924年、皇太子御成婚記念で東京市に下賜され恩賜公園として一般に開放され科学博物館、美術館などが出来て日本有数の芸術文化の森となった。→合羽橋「かっぱ橋道具街」。大阪には「千日前道具屋筋商店街(せんにちまえどうぐやすじしょうてんがい)がある。ー大阪市中央区難波千日前にあるアーケード商店街。飲食店などで用いる業務用の調理器具や什器を扱う店が密集している。

null当時の合羽橋(暮らしの手帖)

上野駅は北国(雪国)の玄関口で周辺には高村光雲作の西郷隆盛銅像や、朝倉文夫作の「生誕の像」(同じものが那覇市役所広場にある)がある。ところで、金山喜昭『日本の博物館史』を見ると、江戸後期に開かれた同好者たちによる物産会(本草会)はモノを集めて公開する、出品物を記録・刊行していく点で博物館の源流だとしている。官僚主導の日本の近代博物館と違って近江の木内石亭の「奇石会」、大坂の木村 蒹葭堂「貝類・鉱物」を例に物産会は横並びの同好のサークル活動だったとしている。



明治政府は1867年に「神仏分離令」を布告。そのために全国で廃仏毀釈が行われ古文化財の破壊を招いた。71年になって太政官は「古器旧物保存ノ布告」を出す。やがてそれが国粋主義や美術富国論の勃興へとつながる。前出の『日本の博物館史』には鈴木重雄により1924年に設立された「遠野郷土館」を、個人の趣味や愛好的な色彩ではなく、国策に従う郷土教育ではなく「日本歴史のどの頁に吾々の共鳴する点がありますか」とし、「個」の確立を目指した点を特に述べている。

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 1974年8月『山口組時報』「田岡家(本家)令息満氏 華麗なる華燭の典」
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□約700名の来賓、一部を紹介してみたい。政財界ー石井一、中山正暉、五島昇、松村正直、佐々木慎太郎、中井一夫、松尾国三。
会社関係ー岡田茂(東映社長)、川辺正夫(松竹副社長)、徳間康快その他。
作家・タレントー川内康範、飯干晃一、小池一雄、俊藤浩滋(東映プロデューサー)、鶴田浩二、高倉健、勝新太郎、中村玉緒、寺島純子、梅宮辰夫、ビクトリア、待田京介、伴淳三郎、清川虹子、五木ひろし、渚ゆうこ、天中軒雲月、大村崑、西郷輝彦、山口洋子、吉村道明、沢村忠。
なお、元首相岸信介氏他各界知名士多数より祝電があり、司会者より披露されたことを、最後に付記しておきます。(小田秀臣・山口組時報編集責任者・記)

 私の愛蔵本『右翼事典ー民族派の全貌』双葉社から「維新」の付く右翼結社を拾ってみる。1932年11月、元建国会石井常吉が「勤王維新同盟」を結成。34年4月に佐々木武雄の「維新青年隊」、6月に下中弥三郎を囲む「維新懇話会」が結成され、9月には「維新社」となる。同年9月に高幣常市らが「昭和維新促進聯盟」結成。1935年1月は島中雄三らが「維新国策審議会」を創立。1936年2月に影山正治らが「維新寮」設立、37年1月に「純正維新共同青年隊」となる。37年7月に中村武らによる「維新公論社」が設立されている。

戦後の1960年6月、石井一昌護国塾長らが「維新行動隊」、61年7月には西山幸輝らが「昭和維新連盟」を結成した。null
沖縄でも政治結社「大日本維新党」(松田昌雄総裁)がかつて存在し1990年、機関誌『社会時報』「米軍の早期撤退を決議、自衛隊が肩代わり目指すー大日本維新党が関係機関に申し入れ」を出していた。松田総裁は日本民族思想普及会の機関誌『民族』にも「創刊を祝す」を書いていた。
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左上に昭和維新連盟、下に東海維新同盟の団体名がある。


左ー田岡一雄と高倉健①
①高倉 健ー日本の俳優・歌手。本名:小田 剛一。福岡県中間市出身。愛称:健さん。2006年度文化功労者。2013年、文化勲章受章。生年月日: 1931年2月16日 (83歳)

田岡一雄と美空ひばり②
②美空 ひばりー日本の歌手、女優。昭和の歌謡界を代表する歌手・女優の1人。横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業。女性として初の国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝。愛称は御嬢。身長147cm。

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又吉盛清作成

新城栄徳□1988年7月2日から8日まで沖縄県地域史協議会で台湾の沖縄関係史跡や、資料館など調査のための企画があった。総勢19人が2班に分かれ、1班が7日間、2班が4日間の日程であった。私は1班の7日コースに参加させてもらうこととなった。主な調査個所は石門古戦場、高雄市、阿里山、台南市、鹿港市、台中市、そして台北市では台湾大学研究図書館、国立中央研究院、国立中央図書館台湾分館、故宮博物院および同図書館などである。

1988年12月『那覇市史だより』第34号□大城康洋「台湾ー資料調査の旅」


2000年6月 那覇市歴史資料室『あしあと~大城康洋 調査・研究ノート~』


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写真ー後列左から案内者の楊朝偉氏(佳冬農会代表)新城栄徳、漢那敬子さん、田名真之氏、島尻克美氏、、大城康洋氏。中列
左から小渡清孝氏、久部良和子さん。下列左から上江洲安昌氏、真栄里泰山氏、平良勝保氏→阿里山森林鉄道

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